無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(3)市ヶ尾~小机01 川和   

日時 2016.5.19(木)
天気 晴れ


中原街道、大山開度と多摩丘陵を横断しましたが、
丘陵から伸びる舌状の尾根が幾重にもあって
いまいち地形的なものがピーンときませんでした。

そこで、谷を分かつ川から見てみることにしました。
鶴見川、前回で津久井道と大山街道に出合いましたが、
今回は中原街道、ここで恩田川を合わせます。

丘の上から眺めると蛇行しているのが分かります。
まだ上流域でしょうが、低地部は幅が広いですね。
夏日でしたが、いい風が吹いていたので助かりました。


・・・市ヶ尾(青葉区) 

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鶴見川の風景① 上流には田園都市線が鶴見川を渡ります/谷本橋


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朝光寺山門

d0183387_14281734.jpg朝光寺/市ヶ尾町
この寺は今より約450年前、相模国遠藤村宝泉寺の末寺として白王山土峰院と号し、多摩丘陵に連なる武蔵国市ヶ尾村の現在地に建立された。御本尊は薬師璃光如来で、後奈良天皇時代に御開山である。琴東全大和尚(天文61117日入滅)によって建立され、上原賀解由左エ門朝光公が開基された。上原公は天文1711月に逝去し、法名を朝光寺殿法山道念大居士と諡号されたので、この法名に因んで朝光寺と改められた。墓碑は当時の五輪の塔として墓地の一角に安置されている。慶安28月(徳川家光時代)に寺領65斗の御朱印を賜った。当時は西向きの由緒ある七堂伽藍であったが、明治32年不慮の火災によって悉く鳥有に帰し、その後は仮本堂として維持されてきたが昭和415月南向きに本堂を再建し現在に至る(曹洞宗白王山朝光寺の由緒碑文)


・・・北八朔町(緑区)

昭和14年の横浜市編入の際都筑郡中里村大字北八朔から新設した町。(古くは都筑郡北八朔村)新編武蔵風土記稿』の「北八朔村」に「八朔は仮借の字にて『倭名類聚鈔』の郷名にのせたる針折の地なるべきことは、既に郡の惣説の下に辨せし如くなり」とあり、「都筑郡総説」に「針折(罰佐久)此郷名も正しきことを傳へず、按するに今の八朔村もしくは遺名なるべし、八朔は郡の中央にあり、かの村の條にも出せし如く、後にいつの頃にや八朔と書き改めしならん、元亀永禄の頃も今の文字に書来たれば、古きことなるべし」の記録がある。東側を鶴見川が流れ、北西側を東名高速道路が通る。(緑区町名由来抜粋)

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鶴見川の風景② この辺りは伸びやかですね~/天神橋

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「河口から23km」の石柱       都筑区との境になります/天神橋


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鶴見川の風景③ 左岸の丘です、低地の幅は1.5km位、広いですね~/天神橋付近



・・・川和町


かつての都築郡川和町の中心地で郡役所と町役場が置かれていた。鶴見川の本流、谷本川が曲がったことから川和となったといわれている。集落は川の自然堤防にあった。かつては「河輪」「川輪」「川勾」とも書いた。古くは鎌倉街道中ノ道が通っており交通の要所だった。Wikipedia

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旧道入口の向かいに建つ瑞雲寺の山門

d0183387_15183202.jpg瑞雲寺

簡素で落ち着いた禅寺で「鷹薬師如来」と「筆塚」が知られている。徳川家康が鷹狩の時、寵愛していた鷹が戻らないので、この薬師如来に祈願したところ、たちまち手元に戻った霊感に帰依して鷹薬師如来を祀る。(都筑区水と緑の散策マップ)


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街道風景① かつての川和宿の旧道になります

川和宿

谷本川(鶴見川)沿い川和宿が営まれていた。現在も「わたや」「かじや」「こうや」「なべや」「さかなや」等の屋号で呼ばれている家がある。(都筑区水と緑の散策マップ)

d0183387_15024975.jpg宿の入口に建つ
双体立像の道祖神(寛政元年・1789


d0183387_15170677.jpg城所家(きどころけ)
川和宿の中央付近の東側に赤い屋根瓦をのせた大きな旧家が残っている。母屋は明治18年から4年の歳月をかけて建てられた。書院と正玄関がある格式のある造りになっている。(非公開・都筑区水と緑の散策マップ)


d0183387_15244500.jpg八坂神社天王様

川和宿の通りの中央に鎮守である天王さまがある。幕末の時代、官軍の江戸攻めによる戦乱から難を逃れるため、知人を通して大神輿を引き取り、御神体として祀っている。境内には二十三夜塔と力比べをした「天王様の石」といわれる24貫の力石がある。(都筑区水と緑の散策マップ)


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街道風景② 横浜と柿生を結ぶ「日野往還」(横浜上麻生線)を横断します/川和小

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お地蔵さん           道祖神(安政5年・1858)と庚申塔/宿上の入口


d0183387_15580333.jpg天宗寺

天文9年(1540)村民・岩澤伊左衛門の開山といわれている。観音菩薩は広島県尾道村法輪寺の本尊であったが、信者安丸が背負って勧請のため諸国を巡っている時、賊に襲われ菩薩に助けられた。身代わり観音として親しまれている。(都筑区水と緑の散策マップ)


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川和八幡神社拝殿

川和八幡神社

貞観17年(875)武蔵国河輪神社は従五位を授けられたといわれている。現在は川和八幡神社となり川和町の氏神として祀られている。長い参道や境内の桜は見事。昭和37年に枯れて切り倒されるまで関東一といわれた杉があった。(都筑区水と緑の散策マップ)

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参道入口               朱色の鳥居


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ゆうばえのみち/かりん公園先

ゆうばえのみち
鴨池公園、川和富士公園、月出松公園をむすぶ緑道がゆうばえのみちです。四季の変化を表す木立が続き、川和富士の夕映えが美しいみちです(案内板)

d0183387_17250743.jpg花見山遺跡
都筑区川和町近辺にあった約12000年前(縄文時代草創期)の遺跡である。鶴見川の中流北岸の標高53mの低台地上に位置(県立川和高校の東側の台地)する。発掘調査の結果、約1300片の土器、200の石器、堅穴住居の跡と推測される掘り込みが発見された。現在、遺跡は住宅街となっている。なお、遺跡名は「花見山」だが、地名は「見華山(みはなやま)」であり、注意が必要である。Wikipedia 写真:川和高校


d0183387_17341901.jpg川和富士/川和富士公園
江戸時代の末期に築かれた。元々は現在地より川和高校寄りの地点(現在の富士見が丘1714)にあったが、港北ニュータウン建設のため現在の場所に移転・再現された。標高は74m。都筑区にはいくつかの富士塚があるが、川和富士は最も規模が大きく本格的である。頂上は遠望が利き富士山をはじめ、みなとみらい21や新宿副都心の高層ビル群を見ることができる。Wikipedia

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丘の風景① 丹沢山塊&中央に富士が見えます(西方向)/川和富士公園 

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丘の風景②多摩丘陵を縫って鶴見川が流れます(西北方向)/川和富士公園 

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丘の風景③ 多摩丘陵は続きます(南方向)/川和富士公園


d0183387_17465138.jpg月出松公園
縄文中期の竪穴式住居や土器が発掘された加賀原遺跡の上に整備された公園で、緑陰が多い。川和富士公園、都田公園とはゆうばえのみちで続いている。昔「みかづき松」と呼ばれる松があったといわれ、四神のレリーフがある。(都筑区水と緑の散策マップ)


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加賀原遺跡
月出松公園とその一体の台地上は加賀原遺跡とよばれ、昭和45年の呼び調査を経て、昭和524月~8月に港北ニュータウン発掘調査団によって南端部(約16002)を対象として発掘調査が行われました。発掘調査によって、縄文時代早期の落とし穴7基、中期の竪穴住居跡17軒・土壙(貯蔵穴)9基・焼土跡1基・柱穴群1ヶ所などの遺構のほかに多量の縄文土器や石斧・石鏃などの石器が発見され、縄文時代中期(約4500年前)の集落跡を中心とした遺跡であることが明らかとなりました。特に、遺跡中央から予備調査で発見された小貝層を伴う平面が小判型をした長径10.5m・短径5.3mの大形の住居跡は類例が少なく、特異な住居として注目を集めました。遺跡の広さは約210002と推測されていますが、公園用地となっている範囲は、発掘されずに現況で保存されています。(横浜市教育委員会)


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ゆうばえのみちマップ(赤:歩行ルート 橙:鴨池公園へのルート)


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妙蓮寺山門

d0183387_17504797.jpg妙蓮寺
区内唯一の日蓮宗の寺院。本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏(くおんじつじょうしゃかむにぶつ)。開創は康永3年(1344)、元文年間(17361741)にすべて焼失したが、本堂は寛政5年(1793)に再建された。境内に古木が多く春の桜、秋の銀杏の黄葉は見事。(都筑区水と緑の散策マップ)


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川和宿の昔を偲び今を歩くコース(都筑区)
赤:歩行ルート 青:鶴見川 橙:日野往還(横浜上麻生線)


・・・・・・
資料ファイル

川和の歴史
・1977年川和高校の東側で花見山遺跡が発見され1300点もの遺物が見つかった。これにより1万年以上前から人々が生活していたことが判明した。
・中世は武蔵国都築郡の川和郷であった。戦国期にこの地を所領したのは北条綱成であるとされる。後北条氏はこの地に勢力を伸ばすと、小田原城を守り関東進出の拠点とするため、廃城と化していた小机城(今の港北区小机町)を修復。この城の支城として鶴見川沿いに川和城が整備された。川の合流する川和は交通において重要な地であった。
・江戸時代になると都築郡の川和村(川輪村)となった。土地は増上寺領。家数は133軒という記録がある。後期には神奈川宿の助郷村(人馬を提供する助郷を負担する村)となる。
Wikipedia抜粋)

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港北ニュータウン案内図/横浜市HP
(紫:246号・中原街道・横浜上麻生線 茶:東名・第三京浜)

港北ニュータウン
横浜市都筑区茅ヶ崎を中心とするニュータウンである。「港北」と名付けられ、かつては港北区・緑区に属していたが、行政区再編により現在は都筑区が中心となっている。横浜市都心部から北北西へ約12km、東京都心部から南西へ約25kmの地点に位置している。港北ニュータウンは計画推進の状況に応じて4つの地区設定がなされている。港北ニュータウンのメインとなる「公団施行地区」、地元の農家が農業を引き続き営むための「農業専用地区」、民間ディベロッパーが1965年以前に既に開発計画を持っていた「既開発地区」、横浜市が主体となって開発を実施する「中央地区」である。「公団施行地区」のみを指して「港北ニュータウン」という名称が使われているが、実際にはその他3地区を含めた形での計画設定がなされているため、すべてを含めて「港北ニュータウン」と呼ばれることが多い。特徴としては車歩分離の徹底であるといえる。都市計画道路中山北山田線と佐江戸北山田線が南北の軸を成しており、住宅地と車道は分離され、ペデストリアンデッキにより歩道の連続立体化が完成している。ライフラインは地下埋設になっているため、電線の有無が港北ニュータウンの範囲、境界を知る目安となる。保存緑地や緑道も多く残され、住環境に配慮がなされている。Wikipedia


by Twalking | 2016-05-20 21:43 | リバーサイドウオーク(新規)

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