無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(4)小机~末吉02 大倉山   

日時 2016.5.28(土)
天気 曇り


「大倉山」は名前だけは東急の駅と聞いていましたが、
低地に突き出した地形や記念館や熊野神社などに引かれて
足を延ばして散策してみました。

商店街に「新幹線が通る街」なんですね、ちょっとビックリ。
それでも明るくてとてもお洒落な街、いいですね~!
大倉記念館と梅林の“さんぽみち”これも面白いですよ。

大曲した鶴見川の左右岸の街も魅力があります。
新羽や綱島の丘も行きたかったんですが別の機会に。
夕陽の鶴見川に見送られて帰途に着きました。



・・・師岡町(もろおかちょう・港北区)


町名は旧村名を採った。『倭名類聚鈔』の武藏国久良岐郡(くらきぐん)師岡郷はこの地と考えられている。嘉吉元年(1441)の「鶴岡八幡宮文書」に「武藏國師岡保(もろおかほ)」の記録がある。地名研究で「モロ」は「丘の並んだ様を形容したもの」と推測されている。(港北区)

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いの池

d0183387_22114401.jpgいの池(い・の・ちの池の一つ)
池の中央に水神社がまつられており例年8月水神祭が行われている。また、毎年正月に苗代田の祭である水口祭が行われるなど「いの池」と熊野神社には農耕にちなんだ儀礼がいくつか伝えられている。この池は古くから利用されてきた灌漑用の溜池であったと思われる。熊野神社のある丘陵の南側には、沖積低地が広がりこの池の周辺には早くから水田が開けていた。「市の坪」などの地名は条里制の存在を示すものである。また「いの池」には片目の鯉の伝説も伝えられている。熊野神社社殿の裏に「のの池」があり、神社の神事の際にその水が使用される。さらに「いの池」の西方約500mところに「ちの池」と呼ばれる溜池があった。今は埋め立てられて大曽根第三公園となっている。この三つを「いのちの池」と呼んでいるのは、かつての時代の人々の水に対するかかわりの深さをよくあらわしている。(横浜市教育委員会)


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師岡熊野神社参道

d0183387_22155295.jpg師岡熊野神社/師岡町
当神社に伝わる熊野山略縁起によると、この神社は第45代聖武天皇の神亀元甲子年(西暦724)に全寿仙人によって創建され和歌山県熊野三社の御祭神と一体である。全寿はこの地に不思議な霊威を感じ御神木欅の大木のうろに住み日夜祈り続けた。ある暁、夢枕に熊野大神が立たれ、お告げに従って大和国春日明神に参籠、神霊を感得してこの地に帰り、熊野大神を祀ったのである。仁和元年7月には光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向され「関東随一大霊験所熊野宮」の勅額を賜りそれ以来宇多、醍醐、朱雀、村上天皇の勅願所として社僧17坊が附せられた。数多くの古神事の中に現在続行されて居る筒粥神事は天暦3年より一千数十回にもなる。観応2617日雷火のため社殿は焼失したが神体、社宝は無事であり特に貞治3年記の熊野山縁起は現存して神社の故事を伝えて居る。例えば勅使着用の大口袴は大口の地名に残り、供奉者の足を洗った子安足洗川、顔を清めた西寺尾字面滝、馬の鐙を納めた鐙宮(阿府神社)参向儀式の行われた式坂、更にいの池、のの池、ちの池の伝説等枚挙にいとまがない。室町期に北条早雲公、慶長4年徳川家康公、寛永19年家光公、寛文5年家綱公より御朱印地を戴いたのを始め代々の将軍家の崇敬極めて篤く、神社への御朱印は幕末まで続けられた。明治元年神仏分離の際、熊野神社と法華寺とに分割され、明治3年縣社に列格したが氏子の陳情する所あって、明治633ヶ村の郷社に列した。当社は、関東地方における熊野信仰の根拠地として又、横浜北部の総鎮守の宮として古代より現代に至るまで広く篤い崇敬を受けている。(掲示板)


d0183387_22214449.jpg師岡熊野神社の筒粥(つつがゆ)

筒粥とは稲作民族の間で行われる粥占(かゆうら)・粥だめしの一種で、竹筒や芦の筒を入れて粥を煮、筒の中に入った米粒の數で作柄・豊凶や天候を占う年占です。師岡熊野神社では毎年114日に行い、粥粒の量により農作物の作柄などをそれぞれ五種に分け占札に記入し、氏子区域に配布します。農家ではこれを参考にして種蒔きをしました。また、粥は参詣者に供せられこれを頂くと風邪をひかぬといわれています。社伝によれば、この行事は村上天皇の天暦3年(949)以来一千余年継続しているとされ、由緒も古く、農作にまつわる重要な民俗行事です。(横浜市教育委員会)


d0183387_22153870.jpg稲荷社

祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。神社の石段の右側に鎮座している表谷戸上講中の稲荷社。この稲荷社は大変古く「江戸名所図会」や「新編武蔵風土記稿」にもこの位置に出ているので少なくとも江戸中期には存在していた社である。京都伏見に鎮座する伏見稲荷大社を本社と仰ぎ五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く信仰されている(案内板)


d0183387_22244911.jpg「の」の池

当神社の草創の地である。この池の水は禅定水と呼ばれ、どんな干天でも涸れることもなく大雨でも水が溢れることもないといわれています。南北朝期の落雷による災害で社殿も焼失した時、神宝、神体等この池に投げ入れ焼失を免れたと伝わっています。(案内板)


d0183387_22273218.jpg師岡貝塚
横浜市指定史跡)/権現山
師岡貝塚(別称 師岡熊野神社山内或は権現山貝塚)は鶴見川中流の右岸丘陵上にあり、北西へ張出す半島状台地の基部から北東に分岐した舌状台地南半部に所在し、標高は約43mです。貝塚の規模は東西約20m、南北約15m以上と推測され、ハイガイは主体を占め、他にハマグリ・アサリ・シオフキ・オキシジミ・アカニシなどからなる海水性のものから構成されています。本貝塚は縄文海進によって形成された古鶴見湾岸に分布する縄文時代前期貝塚群のうちで保存状態が良好な貝塚として、さらに市域での類例の少ない中期前半の貝塚として貴重です。(横浜市教育委員会)

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江戸名所図会 師岡熊野権現社(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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法華寺山門

d0183387_22355674.jpg法華寺/師岡町
当山は熊野山全寿院法華寺と号す。伝承として記せし貞治3年の縁起によれば、神亀元年、全寿と云う僧何処より来たりて当山に居住し、専ら法華経を読誦、年かさね、ある晩、夢の中に熊野証誠権現の告をうけ阿弥陀の像を大和春日明神より負い、当所に小祠を造り安置したこの尊像が当山のご本尊なり。その後仁和元年、光孝天皇の御后妃御願成就に依って創草せらると云われる。歴史的には熊野詣に顕われた阿弥陀信仰が熊野修験者により勧請されたものと思われる。江戸期末までは熊野権現・法華寺が一体の信仰でありしが、明治の廃仏毀釈により熊野権現の名称が熊野神社に、中身の信仰も新しいものとなりました。そのとき法華寺は廃寺同然になりましたが、その後多くの檀信徒の力により復興されました。とにもかくにも開山より、法華の梵音と弥陀の称名は絶え間なく響き渡っています。(掲示板)

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熊野神社市民の森
住宅地に囲まれた森は2つの地区に分かれており、異なる雰囲気を感じることができます。天神山と呼ばれる台地にある天神広場では春になるとソメイヨシノが美しく咲き誇ります。師岡熊野神社の上にある権現山広場では静閑な雰囲気を感じることができます。(横浜市)



・・・大倉山(港北区)

駅から北西側に登る大倉山公園にはプレヘレニック(前ギリシャ)様式として設計された大倉山記念館が建ち、この地域のシンボルとなっている。地名は実業家であり、東洋大学学長も務めた大倉邦彦1932年、現在の大倉山公園に創設した大倉精神文化研究所(その後建物を横浜市に移管し大倉山記念館として運営)に由来する。研究所創設以前、この地の丘は観音山と呼ばれていたが、研究所創設に伴って通称大倉山と呼ばれるようになった。
Wikipedia


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明るくてお洒落な商店街、いい感じですね/大倉山駅前エルム通

d0183387_22562973.jpg新幹線も通りる街ですよ~!

大倉山商店街

大倉山駅前の商店街通りは東の綱島街道に向けて「レモンロード」西の新羽方面に向け「エルム通」「オリーブ通」「つつみ通」と続く。「エルム通」は1988年に港北区役所の移転を機に整備され、大倉山記念館のギリシャ建築のイメージをコンセプトに白い壁と装飾柱のデザインで商店の建物が統一されている。電柱、電線が地中化された歩道には花のプラントが置かれ、白い外壁に街路樹の緑が映える、明るい街並みを見せている。美容室が多いことでも知られており駅徒歩圏に20軒以上が店を構えている。Wikipedia


d0183387_23001098.jpg当時は『ふとお』と呼び名され、古くは宇佐市国橘樹郡太尾村上太尾・中太尾・下太尾と称した。明治22年市町村制によって大綱村字太尾となり、昭和2年横浜市に編入に際し太尾町とされてきました。大正15年東急線は太尾駅として開通、昭和7年大倉精神文化研究所(通称大倉図書館・現在の記念館)の創立を契機に大倉山と改訂され、戦後の都市開発、人口の流入増加に伴い広く周辺地域は駅名のままに『大倉山』との呼称が定着するに至りました。右は県下初の商店街近代化事業での街並み一新、当地への総合庁舎移設、壁面線後退での歩道・駐輪場の新設、無電線化、ギリシャアテネ市との姉妹都市提携、梅林の整備、すず風舗装等に大倉山は明るく潚酒(しょうしゃ)な街との評価が地域への好感、愛着、誇りともなった証左であります。

d0183387_01352882.jpgその節から商店街は大倉山への改称を提唱して来たことであり、住居表示の施行に伴って連合町会もこれを協議、住民の総意を図って小学校、公園、神社等々に『太尾』の名残を留め『大倉山』と決定、1丁目から順次に3年の歳月を要して町名変更のすべてが果たされました。折しも横浜開港150周年、港北区政70周年、右地名呼称の変遷を誌して時勢の推移、往古の懐古のよすがに供します。(太尾地区連合会・大倉山商店街振興組合)



・・・大倉山記念館

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横浜市大倉山記念館

大倉山記念館は洋紙業界で活躍した実業家・大倉邦彦が大倉精神文化研究所の本館として昭和7年に建築したので、その容姿はギリシャの神殿を彷彿させ、ひときわ異彩を放つ様式意匠は迫力に満ちています。設計は建築家・長井宇平治で、日本の古典主義建築の設計者として全国的に銀行建築を手がけ、格調の高い様式建築の設計を行いました。建物は鉄筋コンクリート造、2階建で地階と二層の塔屋をもち、中央部に吹ぬけのある大階段と殿堂があり、両翼部に各室を配し背面には中庭を囲んで回廊が廻る複雑な空間から成り立っています。意匠も西洋建築の源流であるギリシャ建築創生期のクレータ文明に由来するプレ・ヘレニズムの様式を取り入れ、頭部が太く下部が細くなる独特な形の門注を用いています。内部の殿堂はこの建物の中心的役割を持つ講堂で、その意匠はクノックス宮殿の様式を使いながら、柱の上部に日本建築の斗根を思わせる組み物を用いた和様折衷ともいえる独特な空間を示しています。以上のように2つの建物は、それまでの正統的な古典建築様式を越えた独特な雰囲気を持つ建築物として、その近代対照近代建築史上に占める地位は注目すべきものがあります。(横浜市教育委員会)

大倉邦彦(
18821971
大正-昭和時代の実業家、社会思想家。明治1549日生まれ。大倉文二の養子となり大正9年大倉洋紙店社長。昭和7年大倉精神文化研究所を設立。東洋大学長もつとめた。昭和46725日死去。89歳。佐賀県出身。東亜同文書院卒。旧姓は江原。著作に「日本産業道」「日本文化講義」など。(コトバンク)


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丘の風景① 南側、鶴見方向でしょうか、丘が続きます/記念館付近  


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丘の風景② 大倉山(観音山)が半島のように東に突き出すしてます/散策路


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花木園                梅林



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大倉山公園
港北区にある都市公園 (地区公園)。敷地6.9万平方メートル。うち1.1万平方メートルの梅林には約20150本の梅が植えられ、観梅の時期には多くの人出がある。


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龍松院
曹洞宗
寺院虎石山と号します。小机城主・笠原能登守(法名・休徹金罷居士)が開基となり、永禄3年(1560)に文殊堂と称して創建、万治4年(1661)頃に寺となり、慶安元年(1648)には寺領9石余の朱印状(所領安堵の公文書)を拝領しています。


旧町名(太尾町)

太尾の地名は1352年の「鶴岡脇堂供僧次第」に見ることができる。その後、橘樹郡太尾村となり村内を三分して東から上太尾(現在の駅前付近)、中太尾、下太尾(鶴見川沿い)と呼ばれた。1889年の市町村制施行により大綱村太尾、1927年には横浜市に編入され神奈川区太尾町となり、1939年に港北区太尾町となった。縄文時代の頃には海岸線がこの辺りまで来ており、大倉山が岬のように海へ突き出していた。その形が動物の太い尾のように見えたことから太尾と名付けられたといわれているWikipedia


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太尾神社

大倉山町総鎮守八幡神社は明治612月村社に列格、同所無格社神明社、同杉山神社、同阿府神社を合併し、昭和10822日社名を太尾神社と改称、その後氏字区域の発展に伴ない、社殿を修築、社務所、神楽殿その他の施設を完備した。(神奈川県神社誌)


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歓成院
高野山真言宗のお寺です


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丘の風景③ 先端なんので展望を期待してましたがこんな感じ/太尾見晴の丘公園

太尾見晴らしの丘公園

太尾見晴らしの丘公園は案内板の前方にある丘の上にあります。公園内には鶴見川を見下ろしながら日吉方向を眺められる場所や健康増進を目的とした器具類を設置した広場があり、快適な散歩ができます。大倉山さんぽみちのルートにもなっています。(バクの案内板)


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大倉山さんぽみち
(赤:歩行ルート 青:鶴見川 緑:太尾堤緑道 紫:綱島街道)


・・・綱島(港北区)


「ツナシマ」とは州の中の島、中州、湿地に浮かぶ島、津の島という意味であると言われる。これは地区が南側の鶴見川、東側の早渕川に挟まれている地域であること、あるいはかつて鶴見川または早渕川にあったある中州がツナシマと呼ばれていて、それが自然にその周辺地域をさす言葉になったことによるものとされる。また「ツナシマ」とは連なり島(つらなりしま)の意であり、かつて鶴見川が東京湾の奥深い入江となっていた時代に、現在の綱島公園、綱島神明社、綱島諏訪神社となっている高台が、複数の島となっていた様子から名付けられたとも言われている。神明社と諏訪神社の高台は綱島街道の開発によって分断されているが、かつては地続きで一つの丘陵となっていた。
Wikipedia

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鶴見川の風景⑤ 左手から早淵川が合流し、ゆったりと流れます/綱島橋手前

早渕川

横浜市青葉区美しが丘西に源を発し南東に流れる。横浜市都筑区、港北区を流れて横浜市港北区綱島西付近で鶴見川に合流するする。都筑区内では港北ニュータウンとして宅地化された丘陵地の間を抜けるが、一部では田畑が残っており農業も営まれている。約30万年前、多摩丘陵の成立とともに雨の浸食と湧水によってできたと考えられている。蛇行が比較的あるために早瀬や渕があり、そこから「はやぶちがわ」という名前が付けられたと推測されているが、確かな資料に名前の由来は記されていない。Wikipedia


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東急が渡ります            すぐに綱島街道・綱島大橋です

綱島街道(
東京都道・神奈川県道2号東京丸子横浜線)
起点:品川区西五反田(中原口交差点)終点:横浜市神奈川区浦島丘(浦島丘交差点)丸子橋交差点を境にして、五反田方面を中原街道、綱島方面を綱島街道と通称される。現在の洗足付近から丸子橋付近までと綱島付近から港北区篠原付近までは鎌倉時代に造られた鎌倉街道下の道の一部を原形としている。室町時代から江戸時代初期、後北条氏の本城である小田原城と支城である江戸城とを結ぶ中原街道が造られ、その後徳川家康により整備された。Wikipedia

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d0183387_16474011.png鶴見川流域はバクの形です
鶴見川の源流は東京都町田市上小山田のまだ豊かな自然が残る地に、日量1300tの湧水(源流の泉広場)があり、やがて多くの水を集め川となり多摩丘陵を下って東京湾に注ぐ、河口まで全長42.5kmになります。バクの形をしたエリアの広がりは235km2。鶴見川はすでに流域全体の約85%が市街化、人口は約184万人という典型的な都市河川です。流域とは降った雨が鶴見川に流れ込む地域のことで、分水嶺によって区切られています。日本の国土は必ずどこかの川の流域に属しており、それほど川と私たちの生活は切り離せないものだと言えます。ここはバクのお尻のあたりです。この看板の正面ではバリケン島(本来は南米のジャングルに住んでいる大型のカモ類で、ユーモラスな姿で人気があります)と呼ばれる自然のビオトープがあり、市民団体が生き物の調査、クリーンアップ、植生の管理等の活動をしています。(バクの案内板)

「源流の泉」の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20626978/


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東海道新幹線             樽綱橋



・・・鶴見区/幸区

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鶴見川の風景⑥ 矢神川を合わせます。前方は川崎市街でしょうか/高野橋人道橋

d0183387_17304890.jpg矢上川

川崎市宮前区水沢(多摩丘陵)に源を発し南東に流れ、東名高速道路付近から下住吉台地を開削してほぼ東南東に流下、高津区野川付近で有馬川を合わせ子母口で多摩川低地に入り、以後下末吉台地北縁を南東に流れ、幸区矢上で慶應義塾大学理工学部の載る矢上台の縁を回り込むように90度近く向きを南に変え、矢上台加瀬山の間を抜けて、鷹野大橋で鶴見川に合流する。加瀬山より南の幸区南加瀬付近から鷹野大橋までは、矢上川の全行程中最も屈曲が激しかったことが明治時代や大正時代の地形図で明らかであり、三日月湖の存在も見て取れる。最終氷期最寒冷期に河川は深く下刻したが、このときの矢上川(古矢上川)は、ボーリング地質調査などから子母口で古多摩川と合流していたと推定される。従って、現在のように矢上で多摩川低地を離れ鶴見川支流となったのは、地質年代では比較的最近の縄文海進が海退に入り陸化した縄文時代後期以降のことと思われる。Wikipedia)

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鶴見川流域図/バクの案内板

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鶴見川の風景⑦ この先から左折して尻手駅に向かいます/末吉橋(幸区)



by Twalking | 2016-06-01 08:53 | リバーサイドウオーク(新規)

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