無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(5)末吉~河口02 下末吉   

日時 2016.6.3(金)
天気 晴れ

二つ池から三つ池公園へひと登り、周りは住宅地です。
三つ池公園は豊かな森と大きな池、ここはオアシスですね。
「歴史と緑の散歩道」を下末吉に下りました。

丘の上から鶴見川の流れをみたいと思っていましたが、
住宅がびっしりなので、“感じ”だけ味わいました。
ここから川辺を河口へ向かいます。


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三ツ池公園

神奈川県立三ツ池公園
鶴見区にある総合公園で、名前のとおり園内には3つの池(上の池、中の池、下の池)がある。園内には35品種1000本を超える桜が植えられており「日本さくら名所100選」の一つに選定されている。また神奈川県が選定した「かながわ探鳥地50選」にも選ばれており、林間の小鳥や池の水鳥も多くの種類が見られる。園内には軟式野球場やプール、テニスコートなどが整備されているほかテレビ神奈川の送信塔もある。園内にある3つの池は江戸時代の1787年(天明7年)に農業用水のため池として浚渫・整備された。面積:29.7ヘクタールWikipedia

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中の池
二つの池に挟まれた園内で一番大きな池です。下の池とともに冬には多くの水鳥が北から渡ってきて羽を休めています。


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下の池
園内の北側に位置する池で、「しものいけ」と呼びます。正門から園内に入ると最初に来園者を迎えてくれる池です。この池は、他の二つの池とともに、江戸時代に灌漑用水池として利用されていました。



d0183387_22151092.jpg水辺の散策

三つの池を周遊するコースです。散策路中には里の広場やいこいの広場など、お弁当を広げてゆっくり出来る場所や子ども達が遊べる広場などが点在します。ジョギングにもぴったりなコースです。


d0183387_22165389.jpg森の散策

起伏のある散策コースです。春は若葉や草木の花を楽しみながら、秋は紅や黄色に色づいた森を楽しみながら、ゆっくり歩いてみましょう。(以上「三つ池公園」HP)

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三ッ池公園園内マップ
(緑:尾根・歴史と緑の散歩道 赤丸:西門・中継塔)



・・・歴史と緑の散歩道

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途中道を間違えましたが、ここが起点です/歴史と緑の散歩道入口(上末吉小脇)

鶴見川から尾根道

ここから三ッ池公園の脇を通り獅子ヶ谷市民の森へかけて、丘陵をのぼりおりしながらそのたびに新しい風景をくりひろげてくれる尾根道が続いています。今わたしたちが立っているところは、その一方の入口になります。道標の上のこんもりとした緑の中に、浅間神社と兜塚があります。古墳からは縄文・弥生式土器や、竪穴住居址が発見されています。また、兜塚という名には伝説があります。江戸城を築いた太田道灌は、ある夜、白鷲が彼の兜をさらっていった夢をみたため、その時泊まった加瀬での築城を思いとどまりました。その夢の中で白鷲が兜を落とした場所が兜塚と呼ばれるようになりました。

d0183387_22315918.jpg兜塚にあがると、鶴見・川崎の街並みがひらけてきます。そこには鶴見川がゆるやかに流れています。この川はわたしたちの瀬勝に深いかかわりをもってきました。豊かな水の流れは、昔は両岸にひろがっていた田畑をうるおし、今はわたしたちの心をやわらげてくれます。水面にはねる魚や、空を舞い岸をつたう野鳥が目を楽しませてくれます。兜塚から続く雑木林の下には駒岡八幡神社があり、そこから緑にそって歩くと正行寺があります。(歴史と緑の散歩道案内板)



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五輪供養碑              四辻の地蔵 


五輪供養碑の由来/あそびの森先

仏教で宇宙萬象を生成する地水火風空五種の要素で五大を現した供養碑である。この五輪供養碑は旧上末吉村字梶山の住人山田弥衛門の建立した供養碑で、旧鎌倉街道ぞいに残る数少ない遺跡のひとつで、鶴見区役所の行った歴史と緑の散歩道の整備の一環として鶴見土木事務所の御協力により整備完成したものである。(施主山田樹造)

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丘の風景④ 末吉橋へ下ります、前方は川崎市街でしょうか/梶山橋(環状2号)

環状2号線

横浜市の中心部を取り巻き、市内の高速道路や放射状の幹線道路をつなぐとともに、市の拠点となる地域を連絡する重要な役割を果たす道路である。磯子(森3丁目)から新横浜(鶴見区上末吉5丁目)までの区間では大半が片側3車線となっている上、線形もよく立体交差も至る所にある。Wikipedia


d0183387_23094400.jpg石の仏たち

道のかたわらにひっそりと立つ石の仏たち。見すごしがちな石仏たちもよく見るとさまざまな表情をしています。やさしい顔、おだやかな顔、ほほえんでいる顔、怒った顔。ひとびとはどんな思いをこめてこうした石仏をたてたのでしょうか。今も、ひとびとの思いを石仏たちが静かに語りかけてくるかのようです。わたしたちがよく見かける石仏には地蔵尊、庚申塔、馬頭観音などがあります。地蔵尊は死者を供養するため、また、苦しみから救われることを祈願してたてられたものです。昔は、村のはずれは街道のかたわらに立って村人や旅人を静かに見守っていました。庚申塔は病魔を掃い除くといわれています。本尊は青面金剛といいます。ほとんどは足下に三猿が刻まれています。馬頭観音は頭上に馬の頭をいただいています。馬の保護神として特に農村で信仰されました。散歩道の近くには今もいくつかの石仏たちがたっています。長い年月、風雨にさらされてすりへってしまった地蔵。胸に子供を抱いてしっかりと立っている地蔵。草むらの中で足を組んで静かにすわっている阿弥陀像。石仏たちの前には季節の花が供えられ、心やさしいひとびとの手で今も守りつづけられています。(歴史と緑の散歩道案内板)

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兜塚古墳跡
兜塚は外形が兜の形をした古墳で、高さ5.8m、直径30mあり、副葬品などから古墳時代後期6世紀)頃のものといわれています。昭和6年(1931)頃、長慶天皇(13681383)の陵墓だという説がおこり、県当局よりの指示で石野瑛、山田寅元、池谷健治らが発掘を試みたところ礫床を発見し、瑪瑙の勾玉・水晶の切子玉・青銅渡金の金環など数点が発見されました。その後、昭和26年と40年にも調査をしています。(鶴見区役所)

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兜塚伝説
長禄元年(1457太田道灌が江戸城を築き、江戸を中心とした支城を構築するため各地をみて回った時、加瀬の台(川崎市幸区)にも城を築こうとして一夜を過ごしました。その夜、夢の中でどこからともなく飛んできた鷲が、道灌の兜をさらって飛び去りこの丘の上に落として行きました。道灌はこれを不吉として加瀬の台に城を築くのをあきらめ、後にこの地を夢見ヶ崎と名づけました。鷲が兜を落とした丘に兜を埋めたので、兜塚といわれるようになったと伝えられています。(鶴見区役所)

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駒岡・梶山緑地保全地区について

当地区は下末吉台地に位置する丘陵地で、市街地の中に遺された貴重な緑として平成8年に約2.9haが「緑地保全地区」に指定されました。兜塚古墳など歴史的文化遺産も豊かであり、市ではこの樹林を地域のみなさんのふれあいの場として活用していただくため「ふれあいの樹林」としても指定しました。みんなで美しい樹林に育てていきましょう。(横浜市)

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歴史と緑の散歩道マップ
(緑:尾根 紫:環状2号 青:鶴見川)



・・・上末吉町

鶴見の地形② 鶴見川流域の低地

今から6000年ほど前、台地を除くこの辺り一帯は海におおわれていた(古多摩湾)。そのため海底には砂や泥が堆積し、その後海退によって陸化すると平坦な土地となった。この一帯を多摩川と鶴見川が流れ、川崎市の鹿島田付近より下流に三角州平野をつくった。この低地を南北に鶴見溝ノ口線(県道14号)と呼ばれる広い幹線道路が通っており、道路をはさんで事務所・商店・住宅が立ち並び丘陵地帯とは異なる景観を示している。(鶴見区)


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鶴見川の風景① 下末吉台地を下ってきました。左手は川崎市幸区です/末吉橋

県道14号・鶴見溝ノ口線

横浜市鶴見区と川崎市高津区を結ぶ主要地方道である。起点は鶴見区鶴見中央(鶴見警察署前交差点)、終点は高津区溝口(高津交差点)である。Wikipedia

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d0183387_23442209.jpg末吉神社
/上末吉 
祭神は天照大神、大山祇命、誉田別命、日本武命。当社はもと上末吉、下末吉両村の氏神であったが、現在上末吉町のみの鎮守となり諸施設を完備した。明治612月村社に列格。もと村社三島神社へ昭和324月無格社梶山神社及び八幡神社を合併、社名を末吉神社と改称し、境内地を上末吉町918番地より1109番地に移転した。神社諸施設工作物、各種記録口碑より考慮するも極めて由緒深い神社である。(神奈川県神社誌)

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下末吉台地の風景① まるで「急傾斜地」のようですね、凄い/末吉神社


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真福寺・末吉不動

天台宗、本尊は不動明王。慈覚大師円仁が貞観年中(859864)に開創したといわれています。本堂の背後にある不動塚は慈覚大師による手植えの松の遺跡といわれ、松は天保のころ枯れてしまい、その跡に不動明王降臨霊跡の碑が建てられています。この不動尊の開帳は60年に一度とされています。また、山門を入った左には不動の滝があります。(鶴見みどころ80


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仁王門                不動尊&本堂

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江戸名所図会 末吉不動堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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丘陵下の参道を一段上ると伽藍があって、その奥に三つ池の森、下りは急坂・・・、なんとなく感じが伝わってきますね~。


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下末吉台地の風景② 坂道を上ると川崎市街が一望できます/真福寺上


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下末吉台地の風景③ 台地下のこの通りが鶴見に続いています/真福寺門前


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鶴見川の風景② 国道1号線(通称は第二京浜国道)です/新鶴見橋

d0183387_10105275.jpg国道1号(第二京浜国道)

東京都中央区から大阪府大阪市北区へ至る一般国道である。ルートは旧東海道をほぼ踏襲した現代の東海道となっている。国道1号の起源は東海道の「東京(江戸)-京都」および京街道の「京都-大阪(大坂)」で、現在でもほぼその経路を踏襲している。ただし東京-横浜、静岡県内、京都市内等においてはその当時とは大きく異なっている。Wikipedia


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鶴見川の風景③ 斜張橋ですね、なかなか~/森永橋(市道下末吉第217号線)


d0183387_10231597.jpg森永製菓(株)
鶴見工場
森永製菓の主力工場で、82年前の大正14年(1925)にできました。第一次世界大戦後、お菓子の需要が急速に伸びたことから、既存の2工場では生産が間に合わず、兵庫県塚口と鶴見に新鋭の製菓工場を建設しました。工場完成後、同工場では工場緑化を心がけ、敷地内及び工場周辺に植樹を進めました。月曜・火曜・木曜・金曜日に工場見学ができます。(鶴見みどころ80



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資料ファイル

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下末吉台地 台地上にある三つ池公園の無線塔が見えます/下末吉公園(川岸)


下末吉台地
神奈川県北東部の川崎市高津区、横浜市都筑区・鶴見区・港北区・神奈川区・西区・保土ヶ谷区・中区などに広がる海抜40-60ほどの台地である。鶴見川、帷子川、大岡川などによって開析が進み、多数の台地に分断されている。北側は多摩川沿いの沖積平野に接し、西側は多摩丘陵に連なる。横浜市中心部では海に迫っており、野毛山、山手や本牧など坂や傾斜地の多い地形を作っている。
横浜市鶴見区下末吉に由来するが、元は関東地方の台地形成に関する下末吉面という地質学用語である。これは下末吉を模式地とし、東京の淀橋台や荏原台、高座台地(相模野台地の南西部)なども含み、武蔵野面(武蔵野台地の多くの部分)の上位面に当たる台地面をいう。125千年ほど前の間氷期における海進(下須澄住吉海進)時に形成された海成面と考えられている。これが特定の台地だけを指す名に転用されたのが「下末吉台地」である。Wikipedia


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6000年前の神奈川の大地/「神奈川県立生命の星・地球博物館」

下末吉海進
125000年前の地球の温暖化によって起きた大規模な海進のこと。その規模の大きさから縄文海進が起きた6000年前よりも下末吉海進が起きた時期(下末吉期)は温暖な気候であったとされている。下末吉海進の結果、現在の関東平野の大部分はとなった。その結果、現在の関東平野部分には古東京湾と呼ばれる比較的浅い海が広がった。その海に周辺の関東山地などから流入した土砂が堆積し、また箱根火山などから噴出した火山噴出物も堆積した。間氷期が終了してヴュルム氷期が始まると、下末吉海進で海となった地域は海退によって再び陸となった。その結果、下末吉海進期に現在の関東平野に堆積した堆積物は、比較的平坦な台地状の土地として関東平野に広がることになった。これが下住吉面と呼ばれる台地の成因である。現在、下末吉海進によって形作られた下末吉面は、関東造盆地運動によってその一部が地中に没しているが、現在も多くの部分が台地として残っている。下末吉海進期には関東平野がほぼ水没した状態であり、その後の堆積、そして海退や隆起、沈降といった変動を経て現在の関東平野が形作られていったため、下末吉面は現在の関東平野の原型ということができる。(「神奈川県立生命の星・地球博物館」HPを参照させて頂きました)

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縄文時代前期(6000~5000年頃)の貝塚分布と海岸線(「海老名市・温古館」HPを参照させて頂きました)

海老名市「温故館」の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22881590/



d0183387_12190536.png縄文海進
縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。海面が今より2-3高かったと言われ、縄文時代前期の6,000年前にピークを迎えたとされている。気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1-2℃気温が高かった。最終氷河期の最寒冷期後、約19000年前から始まった海面上昇は沖積層の堆積より速かったので、日本では最終氷期に大河によって海岸から奥深くまで浸食された河谷には海が入り込み、関東平野では古鬼怒湾(鬼怒川)や奥東京湾(利根川、渡良瀬川)を形成した。その後は沖積層の堆積が追いついたので現在の低地平野となった。(「神奈川県立生命の星・地球博物館」HPを参照させて頂きました)


by Twalking | 2016-06-06 15:27 | リバーサイド(新規)

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