無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鶴見川(5)末吉~河口03 鶴見   

日時 2016.6.3(金)
天気 晴れ

東海道を歩いている時「台地」をみたいな~と思いました。
また、中原街道、大山街道でもこの丘を横断しましたが、
「ここのことかな?」と、いまひとつ曖昧でした。

そんなこともあり、今回周辺の丘陵もプランに入れて
鶴見川を源流から河口へと歩いみました。
かなり入り組んだ地形なんですね、少し進んだかな・・・。

川と丘、緑も豊かで歴史・文化もあり、面白い旅でした。


・・・鶴見

鶴見町
神奈川県橘樹郡中部の町、現在の横浜市鶴見区の南部にあたる。明治~大正の頃は生見尾村と称した。(うみおむら・旧生麦村の「生」、旧鶴見村の「見」、旧東寺尾村の「尾」を合わせた名称)
鶴見川を境に東側(左岸)は旧潮田町の区域であり、西側(右岸)が当初の生見尾村の区域であった。東海道が通過し、文久2年(1862)の生麦事件の現場としても知られる生麦は著名な漁村であった。明治5年に官設鉄道(現東海道本線)が開業し鶴見駅が設置されると鶴見が中心集落として成長、明治44年に曹洞宗大本山の総持寺が下末吉台地末端の高台に移転してくると鶴見は門前町の性格も持つようになった。大正14年に潮田町を編入、昭和2年に横浜市に編入され鶴見区の一部となった。Wikipedia

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鶴見川の風景④ 懐かしいですね~、旧東海道です/鶴見川橋


d0183387_13502859.jpg江戸を出て最初に渡った名勝鶴見橋
鶴見橋(現鶴見川橋)は家康が東海道を整備した慶長年間に架けられた橋である。六郷川の橋は元禄年間の洪水で流失し明治初年まで渡し船になっていたため、鶴見橋は江戸を出て京都へ向かう旅人が最初に渡る大きな橋だった。鶴見橋界わいは葦の原にツルやミズドリが生息し、河口付近には帆かけ舟が浮かび、富士山も眺めることのできる景勝の地であった。初代広重の絵をはじめ多くの文人墨客がその美しさを旅日記や歌に残している。(鶴見区)


d0183387_13345262.jpg鶴見橋
初代の鶴見橋は
徳川家康が東海道を整備した慶長6年(1601)ごろ架けられたといわれている。(長さ25間・45.5m、幅は3間・5.5m)。昭和28年に鉄橋(112m×8m)、平成8年に現在の橋(119.6m×12m)に架け替えられた。


d0183387_13581763.jpg鶴見橋関門旧跡

鶴見橋の名称は第一京浜国道に架けられたコンクリート橋の方に取られ、今は鶴見川橋と変わりました。安政6年の横浜開港以来、外国人に対する殺傷事件が度々発生したため、不審な浪士や旅人を取り締まるため、鶴見橋の袂に関門が設けられました。その跡地に「鶴見橋関門旧蹟」の碑が明治15年に建てられました。市の登録文化財になっています。(鶴見みどころ80

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江戸名所図会 鶴見橋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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すぐ上流側には東海道本線       下流側は京浜急行が走ります


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第一京浜を渡ります/鶴見橋

d0183387_14533782.jpg国道15
東京都中央区の日本橋から横浜市神奈川区の青木通交差点へ至る一般国道である。京浜地区においては「第一京浜」あるいは「一国(いちこく)」などと呼ばれる。五街道の一つである東海道の日本橋-神奈川間とほぼ同じ位置にある国道であり、明治1號國道の日本橋-神奈川間にも相当する。Wikipedia

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鶴見川の風景⑤ 大きく右にカーブして流れます/鶴見橋



・・・潮田町(左岸)

神奈川県橘樹郡中部の町、現在の鶴見区の東部にあたる(鶴見川以東)。元は鶴見川と多摩川の沖積低地上に広がる農村であったが、大正期に臨海部の埋め立てが着手され、1920年代以降京浜工業地帯の中核として工業の集積が進んだ。これに合わせて南部臨海部の潮田地区を中心に急速な工業都市化が進む中、大正14年に鶴見川対岸の鶴見町に編入され、さらに昭和2年には鶴見町が横浜市に編入された。
Wikipedia

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鶴見川の風景⑥ 芦穂橋

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潮鶴橋                潮見の渡し&潮見橋



d0183387_16352592.jpg鶴見線
鶴見から横浜・川崎市内の京浜工業地帯へ向かう短い路線である。鶴見駅から川崎区の扇町駅までの本線、浅野駅から分岐して海芝浦駅までの支線、武蔵白石駅から分岐して大川駅までの支線の3線で構成。鶴見臨港鉄道の開業当時、この路線は埋立地上にあり沿線には地名が存在しなかった。このため鶴見線の駅の多くに実業家や土地所有者から取られた名前が付けられている。鶴見小野は地元大地主の小野信行、浅野は浅野財閥創設者で鶴見臨港鉄道の設立者でもある浅野総一郎、安善は安田財閥の安田善次郎、武蔵白石は日本鋼管の白石元治郎、大川は製紙王の大川平三郎から取ったものである。扇町も浅野家の家紋が扇であったことに由来する等。Wikipedia


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鶴見川起点
(富士の眺望)
河川の起点(0.0km)に当たる鶴見川河口干潟対岸のこの地点は、川沿いから富士山と河口を眺望できるスポットです。階段護岸や水辺の散策路も整備され、釣り船等が行き交い釣り人や水鳥も見られ、多くの人々が河口の風景を楽しむことができるようになりました。平成17年には「関東の富士見百景」の「鶴見川からの富士」の一つに選定されました。(鶴見みどころ80


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鶴見川の風景⑦ 鶴見大橋

産業道路
都道・県道6号東京大師横浜線大田区と鶴見区を結ぶ主要地方道。通称で「産業道路」と呼ばれるようにトラックの往来が多い。神奈川県内では首都高速1号横羽線が平行している。起点は大田区大森東二丁目(大森警察署前交差点)、終点は鶴見区生麦(大黒町入口交差点)。Wikipedia

d0183387_16530657.jpg京浜工業地帯

東京都大田区、神奈川県川崎市、横浜市を中心に、東京都、神奈川県、埼玉県に広がる工業地帯である。四大工業地帯(中京工業地帯・阪神工業地帯・北九州工業地帯)のひとつで太平洋ベルトの中核であり、日本有数の工業地帯である。横浜・川崎の埋め立ては明治期、横浜の鶴見区に京浜工業地帯の生みの親と言われる浅野総一郎らが「鶴見埋立組合」(後の東亜建設工業)を設立し事業を開始した。大正から昭和初期にかけて今の神奈川区千若町・新浦島町・守屋町、鶴見区生麦・末広町・安善町、川崎市川崎区白石町・浅野町など横浜・川崎地区に人工島が造成され、同時に運河が掘られた。(現在は陸続き)その後も土地の不足により神奈川区出田町・恵比須町・宝町、鶴見区大黒町・末広町が埋め立てられる。Wikipedia

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・・・生麦

古来は武蔵国橘樹郡貴志(岸)村と称した。江戸時代に生麦村に改称。「御菜八ヶ浦」の一つとされ漁業が盛んであった。地名は江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の行列がこの地を通る際、道に水が溜まって通行ができなかった。そこで、村の人たちが街道の脇の生麦を刈り取り道に敷き、その上を行列に通らせた。秀忠は感謝としてこの一帯に生麦という地名を与え、村人に漁業を営むに関して特別な権利を与えた。文久2821日(18629.14)に起こった生麦事件が有名で、生麦駅近くに事件の石碑が残っている。
Wikipedia

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生麦魚通り/旧東海道

生麦魚河岸通り

生麦魚介商組合加盟の専門鮮魚店が旧東海道沿いに建ち並ぶ。一般消費者も気軽に利用できる「朝市」の街として有名だが、本来は小口卸売を専業としている店が多いため、正午以降は殆ど営業していない。Wikipedia


d0183387_17043802.jpg御菜浦(おさいうら)
領主のための御菜(おかず)の原材料となる海産物を献上していた漁村のこと。特に著名なのは、徳川将軍家のために江戸城に海産物を献上していた芝金杉浦(現在の芝)・本芝浦(現在の芝浦)・品川浦(現在の品川)・大井御林浦(現在の大井・東大井)・羽田浦(現在の羽田)・生麦浦(現在の生麦)・子安新宿浦(現在の子安)・神奈川浦(現在の神奈川)の8つの御菜浦で、いずれも現在の東京湾に存在して御菜八ケ浦と称された。これらの漁村は幕府に海産物を献上する代わりに東京湾における漁業における特権を有していた。Wikipedia

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国道駅/生麦5丁目

京浜第一国道と交差させて昭和5年(1930)に開設した駅、駅名「国道」の由来です。駅舎はアールヌーボー風の建物です。開設当時はホーム下に「臨港デパート」があり、食品、雑貨、医薬品が販売されていました。旧東海道生麦魚河岸、花月園利用のお客や、駅周辺には映画館もあり賑やかな盛り場でした。現在は「魚河岸通り」が当時の名残りをとどめています。(鶴見みどころ80)

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・・・總持寺


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總持寺/鶴見

鶴見区鶴見二丁目にある曹洞宗大本山の寺院、山号は諸嶽山(しょがくさん)。本尊は薬師如来。能登国櫛比庄(現在の石川県輪島市)の真言律宗の教院「諸嶽観音堂」が「總持寺」の前身である。元亨元年(1321)曹洞宗4世の瑩山紹瑾(けいざん じょうきん)は「諸嶽観音堂」への入院を住職の定賢から請われる。また同年に定賢より「諸嶽観音堂」を寄進され寺号を「總持寺」、山号は「諸嶽観音堂」にちなみ「諸嶽山」と改名し禅院とする。元亨2年(1322)後醍醐天皇より「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けて官寺、大本山となり曹洞宗を公称する。元和元年(1615)徳川幕府より法度が出され、永平寺と並んで大本山となる。明治31年(1898)火災で焼失、明治44年(1911現在地に移転。現在、旧地に總持寺祖院(輪島市門前町)がある。永平寺派の「有道会」と並ぶ「總和会」(總持寺派)の中心寺。

伽藍
境内には仏殿、太祖堂をはじめ多くの堂宇があり、鶴見大学などの学校施設もある。本尊釈迦如来像を安置する仏殿よりも、道元、瑩山紹瑾など歴代の祖師を祀る大祖堂の方が規模が大きいのが特色である。總持寺は明治44年に石川県から神奈川県に移転してきた寺院であるため、堂宇の大部分は近代の建立であるが、他所から總持寺へ移築された建物のうちには近世末期のものも若干ある。Wikipedia


d0183387_17300360.jpg三松関

總持寺の総門。扁額には「三樹松関(さんじゅしょうかん)」と書かれている。總持寺中興の祖とされる石川素童禅師が揮毫した。建築様式は高麗門で禅院の総門としては特異である。



d0183387_17313440.jpg三門

昭和44年落成で、鉄筋コンクリート造りでは日本一の大きさを誇る。三門の左右には金剛力士(仁王)像が置かれ、元横綱・北の海の15歳の姿をモデルにしたと伝えられる。


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仏殿
大正
4年に竣工。本尊釈迦如来像を安置する。
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大祖堂
昭和40年竣工。仏殿の向かって右に位置する。高さ36m、内部は千畳敷きの大建築。本山開祖・太祖瑩山禅師と高祖道元禅師、二祖・峨山禅師(かさん)をはじめとして歴代の諸禅師の頂相を安置し、あわせて諸尊牌をも奉祀する霊場。


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成願寺の歴史・由来

成願寺は天正3 (1575)聲庵守聞大和尚の開創にして、寺尾に一字を建立し本尊釈迦牟尼佛を安置したことから始まります。その後、元和(16151623)の頃薬師堂の別当として鶴見の二見台に堂宇を移設しました。また、江戸時代初期の当時、寺領拾石の朱印状を付與されていたことが古記録により明らになっております。後に、第20世加藤海応和尚の明治39 2 月、境内地を大本山總持寺移転再建地に献納し、大正元年に再度鶴見豊岡に移転しました。旧本堂は二見台より移建当時の建物が老朽化したため、昭和12 年再建して現在に至ります。

d0183387_17484210.jpg旧成願寺

大本山總持寺が明治31 4 13 日の火災全焼を機に、当地へ移転を企画し、明治40 年に実現されました。その際、成願寺が境内及び所有地の大半を寄附してその達成となり、比地は旧成願寺の中央となっております。また、この度、御本山のご厚意により、旧跡地碑の建設をいただきました(成願寺)


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江戸名所図会 成願寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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資料ファイル

横浜の地形

横浜市域の地形は丘陵地、台地・段丘、低地、埋立地に分けられる。
(1)丘陵地
市域中央部よりやや西よりに分布し市域を南北に縦断する。この丘陵地は保土ヶ谷区・旭区などを流れる帷子川付近を境に北側と南側で性質を異にする。北側の丘陵地は多摩丘陵の南端に位置し標高は60mから100mで北に向かって高くなっている。南側の丘陵地は三浦半島に続く三浦丘陵の北端部を占め標高は80mから160mで南に向かって高くなっている。南側の丘陵地の方が起伏も激しく、標高も高い。鎌倉市に山頂部を置く大平山をはじめとする通称「鎌倉アルプス」に続く峠部分が市内最高点(栄区上郷町、標高159.4m)であり、市内最高峰の大丸山(金沢区釜利谷町、標高156.8m)や円海山(磯子区峰町、標高153.3m)もこの南側の丘陵地に位置する。

1-1.多摩丘陵

西は高尾山東麓から、南は円海山緑地、東は多摩川、北は浅川付近までにかけて広がる丘陵。多摩丘陵は旧武蔵国にあるが、南側の旧相模国の三浦半島に位置する三浦丘陵と地形的につながっているため武相丘陵と呼ぶ人もいる。この丘陵は地質学的には砂層、泥岩層、砂礫層などからなる上総層群あるいは三浦層群と呼ばれる新生代第三紀末から第四洪積世に形成された地層からなる。また北部は古相模川により堆積した御殿峠礫層に覆われている。東は多摩川低地を挟んで武蔵野台地に、西は境川付近で相模原台地に、北西は南高尾山稜・草戸山付近を挟んで関東山地に、北側は浅川を挟んで日野台地に接する。南側は東京湾に接している。最も高い場所は標高220m程度(八王子市南部)である。

1-2.三浦丘陵
三浦半島を南北に連なる丘陵である。北側で多摩丘陵と地形的につながっている。最高標高は241m(大楠山)


(2)台地・段丘
丘陵地の東西にある。東側の台地は鶴見区の地名を取って下末吉台地と呼ばれ標高は40mから60mで鶴見川付近まで続く。瀬谷区、泉区、戸塚区など西側の台地は相模野台地の東にあたり標高は30mから70mで南に向かって低くなっている。本牧付近で台地が海に突き出し、その南側は根岸湾と呼ばれる。横浜駅周辺も幕末まで袖ヶ浦と呼ばれる入り江だった。

2-1.下末吉台地
神奈川県北東部の川崎市高津区、横浜市都筑区・鶴見区・港北区・神奈川区・西区・保土ヶ谷区・中区などに広がる海抜40-60mほどの台地である。鶴見川、帷子川、大岡川などによって開析が進み、多数の台地に分断されている。北側は多摩川沿いの沖積平野に接し、西側は多摩丘陵に連なる。横浜市中心部では海に迫っており、野毛山、山手や本牧など坂や傾斜地の多い地形を作っている。

2-2.
相模野台地
多摩丘陵と相模川に挟まれた地域に広がる台地である。相模川中下流部の左岸に位置し、主に相模川の堆積作用によって形成された扇状地に由来する河岸段丘である。大きく分けて35段、詳細には十数段の段丘面に区分される。


(3)低地
低地には丘陵地や台地を刻む河川の谷底低地と沿岸部の海岸低地とがある。谷底低地は鶴見川に沿って広がり、平坦な三角州性低地を形成する。また、海岸部には埋立地が造成され海岸線はほとんどが人工化されている。金沢区の小さな入り江平潟湾は鎌倉幕府が江戸湾側の海の玄関口とした天然の良港であった。島としては金沢区の野島(扇島・八景島は人工島)があり、野島海岸が横浜で唯一の自然海浜となった。
Wikipedia

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横浜市の地形区分(青:鶴見川 赤丸:源流方向・河口を着色)
(よこはま里山研究所NORAさんの「横浜型エコシティ研究報告所2002」を参照させて頂きました)


鶴見川の地形

鶴見川流域の地形は流域の約7割が丘陵・台地地域となっており、残り約3割が沖積低地である。さらに丘陵・台地地域の過半数は波状に大きく起伏する標高60m以上の多摩丘陵と標高4060mの下末吉台地で構成される。河床勾配は源流から恩田川合流点付近までの上流区間は約1/250であり、沖積低地の中・下流区間では約1/1000の緩勾配となる。(東京都建設局)


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鶴見川流域図/バクの案内板(青:鶴見川 黄:源流・河口)


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鶴見川ルート図(青:鶴見川 赤&紫:周辺丘陵・台地)


by Twalking | 2016-06-08 13:56 | リバーサイド(新規)

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