無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 恩田川(3)成瀬尾根から長津田へ   

日時 2014.7.1(金)
天気 曇り/晴れ梅


雨晴れのようなので出かけました。
合流地までは7km位なので成瀬尾根などを組み込みました。
こどもの国の北側、県境の尾根ですが、ここはいいですね。

それに都橋から長津田の棒路、こちらの方が古道然としていて
成瀬ルートよりも面白いかな~、という感じがします。
前半は木陰が多いので、気持ちよく歩けました。


・・・奈良町(青葉区)

横浜市青葉区
の一地域。町田市および川崎市麻生区岡上に隣接している。現在のすみよし台の一部、緑山、奈良一丁目~五丁目および奈良町はかつての都築郡奈良村である。こどもの国などがあり市内では有数の緑多い地域。シラサギやチョウゲンボウ、野生のホタルも観察できるが、近年では宅地開発が進行している。Wikipedia

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谷戸の風景 玉川学園裏から谷戸へ、学園内が水源のようです/土橋

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「鎌倉古道」の階段を下ります     谷戸の下に降りてきました


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奈良川源流域 まだ小さな流れです/ことり橋

奈良川

横浜市が管理する準用河川。準用河川区間延長は3470m(大田平橋から下流)うち横浜市改修計画区間は1920m(神前橋から下流)、流域面積は6.51km2。玉川学園の敷地内にある奈良池(本山池・奈良町)を源とし、こどもの国駅とこどもの国の間を通り青葉区恩田町の日影橋の下流側で恩田川に合流する。源流域は土橋谷戸と呼ばれる小さな谷を形成している。「こどもの国」内に遊水池がある。Wikipedia)

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こどもの国 まだ子供達が小学生だった頃、よく遊びにいった公園です

こどもの国
横浜市青葉区奈良町(敷地の一部は町田市三輪町)に所在する、社会福祉法人こどもの国協会が運営する総合的な児童厚生施設。戦時中、当地は旧・日本軍最大規模の弾薬組み立て・格納などを目的とした弾薬製造貯蔵施設(東京陸軍兵器補給廠・田奈部隊填薬所)であり、敗戦後は田奈弾薬庫として米軍に接収されていた。後に返還を受けると1959年の当時の皇太子(今上天王)の成婚を記念して、主に国費と雪印乳業など民間からの寄贈により施設跡地を整備し、196555日(こどもの日)に開園した。約100haの広大な敷地に多摩丘陵の自然を生かした施設などがある。 園内の牧場で飼育している乳牛からとった牛乳を使って作ったソフトクリームと特別牛乳「サングリーン」がこどもの国の名物である。Wikipedia

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奈良山公園 憩いの場でしょうか、奥に散策路もあっていい公園です

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こどもの国駐車場からの景観      奈良町の街並 



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玉川学園周辺マップ           こどもの国周辺マップ
(赤:歩行ルート 橙:鎌倉古道 青:奈良川)

鎌倉古道(かしの木山自然緑地)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23214073/



・・・成瀬尾根

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住宅地を抜けると案内板があり、森に入ります

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道はよく整備されています       鉄塔の先に「風の広場」があります

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樹林が切れると畑があり、南に谷戸が広がります


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丘の風景① 北側は町田市、原町田の奥には丹沢が一望できます/展望広場


d0183387_00452831.jpg東雲寺上遺跡
2000年頃から始まった発掘調査で、今から20005000年程遡る縄文後期と弥生時代の住居跡がみつかりました。中でも東日本では珍しい石製矢じり(有孔磨製石鏃)がまとまって出土したことや、壺の内部に付着した鉄剣の一部と考えられる鉄製品が出土したことが特に注目されました。2006年の調査では外堀の一部(環壕の一部?)が見つかっており、環壕集落の可能性も指摘されました。この様な遺跡は道を隔てた横浜市側でも確認されており、この山吹緑地にも眠っていることも十分考えられます。近くの有名な「なすな原遺跡」(長津田東急車庫の一角から縄文・弥生の多数の住居跡や多量の出土品)を考え合わせると、当時かなりの人々がこのあたりで生活していたことが想像できます。発掘現場は北に向って780mです。(説明板)


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左手はあかね台の樹宅地、この先から恩田川低地へ下ります


あかね台

青葉区西部に位置する東急不動産の分譲になる新興住宅街である。町名の由来は、現町域のほぼ半分を占めた字「西ケ谷」に多年生のつる植物アカネが群生しており、その根を健康増進の薬として煎じて飲んでいたことと、字名の「西」とアカネの漢字「茜」が似ていること。地名の新設にあたり地元の要望で「あかね台」と名付けられた。Wikipedia

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成瀬尾根マップ 
左下がこどもの国駅 尾根の上側が青葉区奈良町&あかね台、下側が町田市成瀬になります(黄緑:尾根道 紫:成瀬街道)



d0183387_00552626.png成瀬山吹特別緑地保全地区
名称の「山吹」は、昔からの地名である「山村」と「吹上」の両方の場所にまたがることに由来しています。区域は南北及び東側に伸びており、町田市と横浜市のを縦断する尾根道の南側の最終地点となっています。頂上部から西側に開けた平坦地を望むと町田市の中心市街地を一望することができ、遠くには、丹沢山塊や富士山まで見渡すことができます。また、斜面地にはコナラ、クヌギ、ヤマザクラなどのかつて薪や炭の材料とした二次林といった貴重なみどりが広い面積で残されています。町田市ではこの貴重な自然を将来にわたり保全するため、都市緑地法に基づき特別緑地保全地区として指定いたしました。特別緑地保全地区内については、都市緑地法第14条により工作物の新築、土地の造成等について行為の制限を受けます。指定面積:約4.5ha 所在地:町田市成瀬50002ほか地内 指定日:2013(平成25)118日(町田市公園緑地課)  (黄緑:成瀬尾根 紫:成瀬街道 青:恩田川)

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丘の風景② 北側 眼下の成瀬の街並&恩田川、対岸は成瀬台でしょうか

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丘の風景③ 南側 左は多摩丘陵、右は長津田の丘、この間を恩田川が流れます



・・・南成瀬

町田市の東部に位置する。東には横浜市緑区、南にはつくし野と小川と成瀬が丘がある。西には高ヶ坂、北には成瀬と横浜市青葉区がある。
成瀬との町境のすぐ北を恩田川が流れる。Wikipedia

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恩田川の風景① 桜並木が切れると青葉区ですが、右岸に古道があるのでそちらへ/都橋 


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長津田へ向かう古道 坂下に石仏群、坂上に梅稲荷神社があります/「成瀬クリーンセンター前(右岸)

長津田への旧道

都橋の南側から長津田(横浜市緑区)方向へ伸びる道も鎌倉道の枝道で、中道への連絡道であり初期の上道であったと見られている。畠山重忠が討たれる直前にここを通っている。Wikipedia

鎌倉街道成瀬R(成瀬)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23253995/


d0183387_00201210.jpg地蔵尊の案内/南成瀬8

地蔵菩薩立像 丸彫り一猿 像高1480cm 台座正面中央に一猿台座 右の文字:奉供養 念仏庚申 左の文字:為二世安楽 建立:享保8年(1723)霜月吉日 武蔵多摩郡成瀬村東光寺
江戸時代中期の享保8年に建立された此の地蔵様は右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を携えて蓮華台に立ち、台座正面には庚申(かのえさる)を表す猿が彫られ、二世安楽はこの世での幸せはもとより来世に渡っても安楽に暮らせるように祈っています。また「奉供養 念仏庚申」と彫りこんであるのは庚申講(庚申待ち)の満願を期して地蔵様の建立をしたものと想定されます。庚申講(庚申待ち)の伝承は次のような物語があります。人間の体に宿っている庚申(三尸・さんしの虫)という虫が60日ごとに廻ってくる庚申の日の夜、その人が寝ている間に体から抜け出し天に昇り、その人の命を縮めてしまうのです。そこで庚申の日には大勢の仲間と講を組んで一晩中寝ないで、経文を唱えたり飲食したり雑談しながら不眠の「庚申待ち」を行います。「三尸の虫」は7回「庚申待ち」を行えば死に絶えると言われてますので7回の講を行うのです。この7回の講が無事に終れる満願を期して庚申角塔を奉建したり、この地蔵様のような立像を村の入り口や辻に建立して日常的に参拝する信仰が行われていました。この地蔵様もそれらが類推できます。(案内板)

d0183387_00224057.jpg天狗童子立像

舟形光背H490・W310・L140 建立:武蔵成瀬村東光寺村惣氏子
完全な船形に近い天狗童子立像(鳥天狗)で、全国的にも類例を見ないとされる貴重なものである。しかも成瀬には三体あって(山村・西ノ久保にも現存している)大きさは違うがいずれも舟形の立像である。髪を高く結い、つり上がり気味の両眼を半眼に開いて翼を左右に拡げている。右手に七丈の八つ手を持って胸に当て、左の手には錫杖を握っている道祖神である。昔、中村には三間四方の薬師堂があり、此処を中心として修験者たちが祈祷を業としながら造塔、信仰を広めていったと云われている。村人と修験者との深い関わりの中から生まれた天狗童子の道祖神が村の守り神として建立されたものと推測されている。(伝承文製作・中里猪一)

d0183387_00221253.jpg地神塔
山形角塔 大きさ=H700・W320・L320 建立:武蔵多摩郡成瀬村東光寺 嘉永2年(18492
成瀬村の年表を見ると地神塔が建てられる4年前には大干ばつが起こり、終日「村中で水番を行う」との記録がある。川の水を水田に取り入れるために寝ずの番をして堰や畦道を監視し争いを避け、そして豊作を祈ったのであろう。この場所は柳谷戸を清流とする柳川(小川)が流れ、揚水するための「東光寺堰」の前であった。土地区画整理事業で川を移動させた堰跡付近で、かつては水田用水などの協議や作業の相談が行われた場所である。不作が続き不安な生活が村人の心に「稲作の豊かな稔りを祈る思い」を膨らまさせ、それが地神塔を建てさせたものと見える。(伝承文製作・中里猪一)


d0183387_00254927.jpg梅稲荷神社(正一位稲荷大明神)

「お稲荷さん」で親しまれている稲荷神は稲荷大明神とも呼ばれています。宇迦之魂神(うかのみたま)は別名「御饌津神」(みつけのかみ)と呼ばれています。狐の古い呼び方は「けつ」といい、「御饌津神」を「三狐神」(みつけのかみ)と理解して、狐を稲荷神の使いと信じて、中世の頃から狐に対する民間信仰が始まったとされています。伏見稲荷神社の祭神が降下されたのが和銅4年(7112月の始めの牛の日であったことからと云われています。ここに鎮座する東光寺の梅稲荷神社でも、これらの伝統的な行事を守って発牛祭の前日には宵宮祭が行われています。幟を立て、しめ縄を新しくして神社の埃を掃き掃除し、太鼓を叩き、そばや油揚げ目刺しなどを供え、五穀豊穣、防災開運等を願ってお祈りをします。(説明板)


d0183387_00281257.jpg名主・原嶋源右衛門の死刑執行の場所/南成瀬

享保元年(17161015日、通称「がけ山」と呼ばれるこの場所で村民の必死の嘆願もかなわず名主・原嶋源右衛門は15人ほどの役人の手により打ち首、一家断絶の厳しい処刑が行われた。今から293年前の出来事である。処刑役人たちは居並ぶ村民たちに「かたずけろ」と命令し引き上げたが、総出の村民は寝もららず一家の屍を焼き葬った。村民たちは3日間に渡り火を焚き続け、号泣と埃で顔の表裏も定かでなくなる姿でいつまでも手を合わせ、一身に罪を背負った原嶋源右衛門並びに一家の成仏を祈り念仏を唱え続けたのであった。その跡地にこの供養塔を建立、台座に指名が刻されている。筆は東雲寺住職8世「考山」である。なお、慰霊碑は元原嶋家の屋敷で少し離れた南成瀬8丁目5番地にある。

処刑の原因となった入会地「葦沼」の新田開発
台地の先に葦が群生する入会地があり沼の底から湧水が湧く湿地帯が広がり、それが成瀬村と長津田村にまたがっていた。無価値に等しい土地であったが、成瀬村の名主・原嶋源右衛門努力で暗渠排水などの新しい技術を取り入れた新田開発が成瀬東雲寺部落総員の参加で行われ、立派な水田が出来上がり不毛な地が一躍金を生み出す土地に変身した。そうなると垂涎の的、隣接の長津田村から境界問題が提起されてきた。協議を重ね紛争が解決、定かでなかった境界も合意の上で画定したが、これに奉行所が横やりを入れ「公儀をたぶらかした」として首謀者の名主・原嶋源右衛門を見せしめの罪人に仕立て上げたものである。(中里猪一)


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長津田が見えてきましたが、駅手前を恩田川へ下りました

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恩田川の風景② 合流地まで7kmの表示、左岸は青葉区、右岸は緑区です/柳橋



by Twalking | 2016-07-04 22:56 | リバーサイドウオーク(新規)

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