無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(3)町田~瀬谷02 鶴間&深見城址   

日時 2016.7.12(火)
天気 曇り


鶴間周辺は大山街道や鎌倉道成瀬Rで歩いています。
五貫目辺りで大山街道と交差し鶴瀬橋を渡ると下鶴間宿、
鎌倉道は目黒交差点先を南へ向かいます。

東名の右手、境川右岸の台地が一体が深見城址になりますが、
鬱蒼とした樹林に空堀や郭跡らしきものが残ります。
豊かな森に囲まれた畑と里山風景は情緒たっぷり、
すばらしいですよ~、右岸も立ち寄って正解でした。



・・・境川右岸(相模原市南区)

上鶴間本町

元の大字上鶴間の一部であり平成16年の住居表示実施によって成立した。これにより現在「大字上鶴間」を称するのは在日米軍相模原住宅地の区域のみとなっている。相模原市の東南端に位置し境川と国道16号に挟まれた区域を占める。境川に沿って延びる段丘崖を挟み南側は相模原台地上の平坦面が広がっている。古くからの集落は段丘崖の周辺に分布しいくつかの集落に分かれている。境川沿いの低地は水田として利用されてきたが、かつて境川は激しく蛇行しており周辺は洪水に悩まされてきた。1970年代以降これに対する河川改修が行われ流路の直線化と拡幅がなされたが、蛇行した旧流路に基づく都県境はそのまま残され、対岸の町田市との間に相互に川向うの飛び地を持つこととなった。両市の間で境界を現流路に合わせて飛び地を解消するための協議が進められているが、20103月末現在でも部分的な実現にとどまる。Wikipedia

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境川の風景① 境川の旧流路、右が町田市、左が相模原市です/旧鶴金橋(市境)

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旧鶴金橋(町田側)          上鶴間一番地の碑(昭和48年/相模原市)

上鶴間/相模原市南区
鶴間は元来、現在の相模原市南区東部および大和市北部、さらに町田市南部にまたがってひろがる地名である。相模国高座郡に属するが、近世初期に境川(高座川)が武蔵国との境界とされたため左岸(東岸)の区域が武蔵国多摩郡鶴間村となった。これが現在の町田市鶴間となる。右岸(西岸)では南北に二分割され、北半が相模国高座郡上鶴間村、南半が同郡下鶴間村となった。南半大和下鶴間などとなる。北半は明治初期まで相模国高座郡上鶴間村。高座郡大野村(1889年)、同郡相模原町(1941年)を経て、1954年以降は相模原市、2010年からは同市南区に所属する。Wikipedia

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境川の風景②現在の流路、この先から右岸は大和市になります/鶴金橋(相模原市)


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泉龍寺仁王門


d0183387_21351948.jpg泉龍寺(せんりゅうじ)/上鶴間本町
中和田泉龍寺の開創は遠く400有余年前、享禄年間、創立開山雪天透瑞大和尚の当地に錫し、当時浄土宗西光寺住職、日洲能大和尚はその徳風に帰依し改宗して開基となり、雪天透瑞大和尚を開山として泉龍寺と称することとなり、曹洞宗總持寺孫末として今日に至る。永禄3庚申年1023日、開基日洲能大和尚示寂、天正14年丙戌拈正月21日、開山雪天透瑞大和尚円寂後、5世石岑(せきしん)全牛和尚のとき、大岡吉重郎を開基として寛政年中一寺を建立、無量山西光寺を開き、6世朝山策暾和尚は今の谷口に延名山常念寺、瑠璃山東光寺を開き、続いて8世梅岩樹寒和尚の代に、今の町田市鶴間に常楽寺を創立、並びに横浜市上川井に南鶏山円法寺を開き、末寺5ヶ寺を以って教化益々栄え、隆盛を極めた。現在は末寺5ヶ寺中、常楽寺以外は廃寺となっている。(相模原仏教会)

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三重の塔
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観音堂                太子堂 

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鐘楼                    延命地蔵願王尊
 



・・・鶴間(
町田市)

律令時代には古代東海道が町内北部・町谷に通っていて店屋駅(まちやのうまや)があったともいわれる。鎌倉時代には鎌倉街道上道、江戸時代には大山道や浜街道も通っていた。元は武蔵国多摩郡鶴間村。当村をはじめとする境川(高座川)左岸(東岸)の各村(現町田市西南部:旧堺村・忠生村南部・南村)の一部は近世初期まで右岸(西岸)と同じ相模国高座郡に属していた。「鶴間」は現在の相模原市南区(上鶴間)および大和市(下鶴間)にまたがって広がる地名である。名前の由来は昔、鶴が飛来したという「鶴舞の里」から。下鶴間村(現在の大和市下鶴間付近)は大山道の宿場町として、鶴間村(現在の町田市鶴間)は鎌倉街道絹の道の宿場町として賑わったとされる。鶴間は元々、現在の大和市・相模原市・町田市にまたがる広域地名となっていた。現在でも各地域の名称として使われている。
Wikipedia

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街道風景① 町屋から南町田へ向かいます/鶴間


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八坂神社(鶴間)拝殿          境内の道祖神
 


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鶴間熊野神社/鶴間
創設の年代はつまびらかではない。享保11年(17264月に本殿を建立したことが本殿の左右の扉に墨がきで記してある。延享3年(17463月の「村差出帳」に除地免として畑一町五反とあり、また明治3年(187011月には熊野権現除地の畑3町歩ほどとあったが、第二次大戦後の農地解放により現在はない。内宮の中に木彫で座像のご神像を安置している。安永6年(17778月と安政5年(18581121日、昭和11年(19361119日と再建しており、現在の社殿は昭和4643日権現造りの鉄筋コンクリートである。祭神は伊弉諾命(伊邪那岐命)、伊弉冊命二柱を奉斎している。境外末社は町谷に鎮座の八坂神社がある。悪病除の神と崇めている。祭礼は714日である。大ヶ谷に鎮座の日枝神社、第六天社も同じ境外末社であり420日が祭礼日である。本社の例祭日は毎年919日である。境内坪数957坪。町田市鶴間580番地に鎮座している。(町田市史)


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境川の風景③ 右岸に下鶴間城山、その右手はつきみ野になります/16号境川高架橋

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16号を横断/南町田北           田園都市線を潜ります


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木陰で一休み、地下を横浜水道が通ります/鶴間公園 


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街道風景② 246号を右折、目黒交差点へ/東京女学館大前

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突き当りを右折、246号へ        246号横断歩道渡り右折

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町田市鶴間周辺マップ
(赤:鎌倉道 緑:成瀬R 橙:大山道 青:境川 紫:246号・16号・町田街道 赤丸:目黒交差点 緑丸:大ヶ谷戸)

大山街道(鶴間・下鶴間宿)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22870200/



・・・瀬谷区(横浜市)

神奈川県のほぼ中央部、横浜市の西端に位置し、区域は大和市との境界である境川に沿って南北に細長く5つの川が流れている。北部は町田市、緑区、南部は泉区、東部は旭区に接している。東京都心から約40km、横浜市中心部から20km程。相模野台地・相模平野に位置し、相鉄線を挟んで北部は平地が広がり、南部は川沿いに段丘状になっている。「せや」の地名は、一説に狭谷(せや)で「い川瀬の小がある土地」に由来すると言われている。
Wikipedia

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境川の風景④ 左手が246号、上流側が大山道になります/鶴間橋(目黒町田線)

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目黒交差点を横断           その先を左手に上ります

目黒町
瀬谷区の北部にある地名、横浜市の最西端にあり大和橋を境に大和市と接している。国道246号の中でも有名な渋滞スポットである「目黒交差点」も当地区にある。近隣に国道246号や国道16号、東名横浜町田IC、保土ヶ谷BP上川ICがあり、工場や運輸施設が点在している。Wikipedia

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街道風景③ 「馬場屋敷」バス停に名前が残ります/瀬谷柏尾線

県道401号瀬谷柏尾線

横浜市瀬谷区と同市戸塚区を結ぶ一般県道(横浜市管理道)。起点は瀬谷区目黒町(246)終点は戸塚区柏尾町不動坂交差点(国道1号)である。江戸時代以前より存在している道路で、沿道には江戸時代の領主の本拠地が点在している(岡津、新橋、二ツ橋、上瀬谷等)。また当時は東海道、中原街道、八王子街道を結ぶ道としても機能していた。Wikipedia


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d0183387_01062641.jpg八幡社
/上瀬谷町 
当郷の旧家岩崎氏の祖・岩崎丹後守が永禄年間(155869)に勧請した。東名高速道路建設に際し、現在地に社殿を移し昭和434月遷座した。




d0183387_01324306.jpg記念碑

当八幡宮は瀬谷町、五貫目、上瀬谷、竹村、中屋敷各町の鎮守として、古来瀬谷町8363番地に奉斎されていたものであるが、偶々東名高速道路の建設計画が実施のため当宮し移転の止むなきに至り、氏子相寄り種々協議の上当地に同面積の敷地を確保し、昭和423月起工、境内を整備社殿並びに諸施設を移築改装し昭和433月竣工し、同年414日遷宮を執行した。周囲67mに及ぶ松杉繁茂し、鬱蒼たる境内であったが、今や東名道路の完成に依って日本の動脈を望み、首都入口に位置を占めた当宮に氏子、崇拝者のみならず日本の表通りを行き交う全てのものの上に大いなる御神徳を願いつつこの記念碑を建設するものである。(碑文)

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丘の風景① 中屋敷方面の景観、低地を境川が流れます/上瀬谷公園



・・・境川右岸(大和市深見)

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境川の風景⑤ 上流左が深見城址、右前方は目黒方面です/上瀬谷橋

d0183387_22415889.jpg上瀬谷橋&東名高速
境川に架かる上瀬谷橋は、架け替えられる前は山田橋という名前であった。牢場坂では牢屋が置かれた場所とも馬事訓練がおこなわれていたともいわれている。Wikipedia-瀬谷抜粋)


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空堀の跡でしょうか、鬱蒼とした森に郭・堀跡らしきものが残ります


d0183387_02160453.jpg深見歴史の森/下鶴間字乙
深見歴史の森は、大和市の東の端・国道246号線南の境川沿いに位置しています。中心部の畑を取り巻くようにクヌギ、コナラ等の落葉樹林やサワラを中心とした針葉樹林があり、その中にシラカシ、シロダモ、ヒサカキ等の常緑樹が混生している自然度豊かな森です。この地区は、戦国時代の古い城跡があることから「城山」と呼ばれています。深見城と呼ばれるこの城址は5次に渡る発掘調査の結果、主郭は土塁に囲まれさらに内掘と外堀によって二重に守られていることが分かりました。さらに主郭への出入り口にあたる虎口の両側には横矢と呼ばれる敵の側面に矢を射かけるための構造を設けるなど、攻め手が一気に侵入しないように造られていることが判明しました。こうしたことから、この城は戦の際の陣城であったものと推定されます。現在は木々に覆われ、土塁や堀の跡だけが昔の面影を今に伝えています。(大和市)

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空堀の跡が残ります/天竺坂

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天竺坂                交差する鎌倉古道

天竺坂

てんじくざか。深見城築城の際につくられた空堀にあたる。この坂と交差する南北方向の道は鎌倉古道と呼ばれ、市域では公所(くぞ)から境川右岸を川沿いに南下して、藤沢宿(藤沢市)に至り東海道に合流していた古道です。(標柱)


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深見城跡遺構想定図          航空写真/つる舞の里歴史資料館(橙:鎌倉道 緑:246号)

深見城址
深見城址は境川に面した台地上に築かれています。北側から東側は切り立った急崖となっており、境川との比高差は15m位あり、天然の要害となっています。西側は平坦地形を加工して曲折を他用した二重の堀と土塁構造が密接に連携した東西2つの虎口(門・出入り口)などを構築し、要害地形を形成しています。この縄張り構造は歴史遺構上高い価値をもつものです。発掘調査の成果からこの城の利用は、14世紀末頃から16世紀末頃までの年代幅の中にあることが分かりました。一方、現在の城跡の構造をみると軍学による城制に整合することから16世紀戦国時代と思われます。(大和市教育委員会)

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深見城ジオラマ/つる舞の里歴史資料館
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丘の風景② 台地の上には畑が広がります/深見歴史の森

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郷の風景 情緒たっぷりのいい道ですね~/深見の郷

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八雲神社/深見地区
八雲神社は京都祇園を基とする厄除開運の神様で、素戔鳴尊(すさのおのみこと)を祭ることが一般的ですが、変化もあります。残念ながら、ここの神社の由緒は分かっていません。(大和市観光協会)

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・・・竹村町(瀬谷区)


瀬谷町の一部から新設した町。町名は明治初期に字名「中村」「下村」「竹之内」の三つを合わせて「竹村」という通称が定着していたので地元の要望により「竹村」と名付けた。西側を境川が流れ、中央を瀬谷柏尾道路が通る。(瀬谷区)

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本堂                 開基堂と鐘楼

妙光寺/
上瀬谷町
この寺は縁起によると、はじめ孝徳天皇の白雉3年(652)に明光比丘尼が建てた庵で、明光が亡くなりその後、大同年間(806810)に辨通が天台宗福昌山明光寺と称して寺にしたといわれています。弘安5年(1282917日に日蓮上人がここに一泊し、その寺の住職・文教は教化をうけて改宗し、寺名も蓮昌山妙光寺と改め、日蓮上人を開山とし自らは二世となりました。宝徳4年(1452)相州瀬谷郷に住んでいた山田伊賀入道経光が大檀那となって、正中2年(1325)鋳造された武州恩田(緑区恩田町)の萬年寺の梵鐘を寄進しました。この梵鐘は中世の関東地方で活躍した鋳物師の物部氏の一人守光の作で、神奈川県の重要文化財に指定されています。境内には明光比丘尼の開基堂、江戸時代瀬谷村に采地を賜った鷹匠・長田白政の墓碑があります。(横浜市教育委員会文化財課)

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街道風景④ 緩やかな上り道、右手に道祖神が建ってます/竹村町


・・・中屋敷(瀬谷区)


町名は通称として定着していた字名を地元の要望により採った。1丁目に瀬谷銀行跡がある。1丁目と2丁目の境を瀬谷柏尾道路が通り2丁目と3丁目の境を海軍道路が通る。(瀬谷区)

d0183387_17103984.jpg中屋敷バス停
宝徳の頃(1450年頃)上杉定正の家臣・山田経光(? – 文明2年・1470))が瀬谷・大和を治めていた(『新編相模国風土記稿』巻之64)。居住は瀬谷の中屋敷で大和の深見城を本拠にしていた。現在でも区内に中屋敷、馬場屋敷、牢場坂等の居館址に由来する地名が残されている。Wikipedia-瀬谷抜粋)

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街道風景⑤ 緩やかな起伏が続きます/中屋敷

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大ヶ谷戸からの道が合流        この二差路を右折します/本郷原

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街道風景⑦ 住宅地の中を南へ向かいます、この先を右折で神明社です/本郷


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瀬谷神明社/本郷 

d0183387_17221547.jpg天照大神
国分寺礎石と忠魂碑
奈良時代の天平13年(741)相模の国府が海老名にでき、国分寺が建立されその七堂伽藍の偉容が伝えられています。その堂塔の内の講堂礎石を村有志が、忠魂碑の台石にと望んで大正5年(1916年)運賃諸費合わせ20円でゆずり受けました。忠魂碑には明治10年(1877)の西南の役から太平洋戦争までの戦死した兵241柱が刻まれています。昭和25年(1950年)まで瀬谷小学校横に建てられていましたが、その後、事情により徳善寺に移り、さらに平成9年(19974月にこの地に移されました。(瀬谷区役所)


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航空写真(平成19年頃/つる舞の里歴史資料館
(赤:鎌倉道 橙:大山道 黄緑:中原街道 緑:246号 紫:東名 青:境川をおおよそで入れてみました)



by Twalking | 2016-07-15 23:01 | 鎌倉街道(新規)

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