多摩の寺社巡り(1)落合周辺
天気 曇り
街道歩きでは寺社は道筋のひとつの目安となりますし、
その地域の文化や歴史を表しているのでよく訪ねます。
ところが地元はというと、実は余り知りません。
市内には鎌倉街道上道、裏路などが通っているのに、です。
以前頂いた多摩市内寺院ガイドを見てみると、
「多摩十三仏霊場」というのが紹介されていました。
これを基にして散歩の時などに訪ねてみようと思います。
手始めに地元の落合周辺から歩いてみました。
・・・落合
多摩市西部に位置する。行政施設の多くが置かれ関戸と並ぶ多摩市の中心で多摩ニュータウンの中心地区となっている。かつて南多摩郡多摩村の純農村、大字落合の谷戸部にあった、小字青木葉集落の両翼に位置していた広大な丘陵地の雑木林が、多摩ニュータウンの第9・10住区として造成、開発され新生落合が誕生した。旧青木葉集落のあった谷戸筋には新道「青木葉通り」が通され、その周辺および同様に開発後、東側の谷戸筋に造られた幹線道路「上之根大通り」の北寄り区域から「多摩ニュータウン通り」に至る沿道周辺は土地区画整理事業区域(区画整理区域)となり、新住宅市街地開発事業区域(新住区)からは外されている。(Wikipedia)
白山神社/落合字青木葉
祭神:祭神:伊弉諾命、伊弉冉命を祀り、騎乗の神像を神体とする。旧社格は村社。創祀の時期は不明であるが境内出土の神像から平安・鎌倉時代にまで遡るものと考えられ、また社域背後に不動瀧が控え、口碑によれば鎮座地である青木葉は相模国小山田から武蔵国の国府に通じる街道が通っていたというので、そうした条件から古来霊地とされた地であったと思われる。
文化文政期(19世紀前葉)の『新編武蔵風土記稿』によると慶長年間(16・7世紀の交)以前には蓮善坊という山伏が社司として仕えていたといい、宝暦13年(1763)時の記録と考えられる『落合村旧記』や、元和4年(1618)銘の棟札から、元和4年11月に八王子代官・小宮山助為の計らいで加賀国の白山大権現の分霊を勧請して再興され、同時に上落合村堀合堰にあった東福寺の僧円能房を社守に任じるとともに同寺を神社の西に移して別当寺と定めたといい、以来上之根、青木葉、山王下、中組、唐木田地域の氏神として崇敬された。なお、再興時に落合村内から社領10石の朱印地が認められたと伝えるが、その朱印地は東福寺領であった。明治の神仏分離令によって東福寺と分離し、昭和11年に村社に列した。なお、明治8年(1875)に境内から平安時代から鎌倉時代にかけてのものと推定される神像7体が出土し、中1体は頭頂に突起を有する点から十一面観音像であると見られるが、神仏習合時代の白山権現の本字仏が十一面観音とされていた。(Wikipedia)
東福寺(真言宗智山派)
落合村青木葉にあり、山号は青木山、また落合山とも称した。本尊は不動明王。朱印地10石は境内の鎮守白山社に充てられたもので、東福寺はその別当を務めていた。慶長の頃、掘合堰にあった修験蓮乗坊がこの地に移り、元和年中、円能によって草創されたと伝えられる。明治13年の「寺禄明細帳」に檀家戸数26戸。(多摩市史)
水子子育地蔵尊 境内の石仏
多摩十三仏霊場4番-普賢菩薩
普賢菩薩(ふげんぼさつ)
文殊菩薩とともに大乗仏教の経典において重要な位置を占める菩薩。『華厳経』によれば、(1)諸仏に敬礼し、(2)諸仏を称讃し、(3)諸仏を供養し、(4)自ら過去の罪を懺悔し、(5)諸仏の功徳に心から感謝し、(6)諸仏に説法を請願し、(7)仏が世に永らえることを請願し、(8)つねに仏に従って学び行動し、(9)つねに衆生の救済を実現するように願い、(10)自らの功徳をすべて悟りに振り向ける(回向する)という十願をたて、これを完全に実行、実現した。この十願は「普賢行願」ともよばれ、自らの悟りと衆生の救済を求める菩薩の理想を示すものとされ、諸経典では、一般の人々もそれを追求するよう勧め、また普賢菩薩の実現した功徳にあずかれると説いている。文殊菩薩が悟りの知性的側面を象徴しているのに対し、普賢菩薩はその実践的側面(普賢行)を象徴し、釈迦仏の右脇侍(わきじ)として六牙(が)の白象に乗った姿で表現される。(コトバンク)
・・・豊ヶ丘
旧南多摩郡多摩村大字落合の純農村、小字豊ヶ岡(今とおかの文字が異なる)付近にあった南北に延びる二つの谷戸筋に囲まれた丘陵地の山林が、多摩ニュータウンの第8住区として旧住都公団が開発主体となり造成された。旧谷戸筋は幹線道路の配道筋として利用され、これら道路に囲まれた区域が新生豊ヶ丘になっている。(Wikipedia)
乞田八幡社/豊ヶ岡1丁目
祭神:応神天皇
乞田村字宮田にある乞田・貝取2村の鎮守。祭礼は例年9月15日。除地が2400坪あり、同村吉祥院持ちであった。天和2年(1682)再建の棟札控には、上乞田・下乞田・貝取・宇竜(瓜生)の4か村とあり、それぞれ村民の名が記載され、遷宮の導師吉祥院や大工の名も見える。享保11年(1726)神祇道宗家の吉田家から正一位の神階を授けられている。(多摩市史)
乞田八幡神社由緒
当社の御祭神は応神天応をお祀り申し上げている。又当社の創建は延徳2年9月(1490)室町幕府後期、550年前であると古より申し伝えられている。明治6年12月村社に列せられる旨、時の所轄庁の神奈川県より通達があり昭和29年4月宗教法人として登記完了。永きにわたり国家の安泰と五穀豊穣を祈願し、現在は平和国家、家内安全、縁結びの神として信仰を集め親しまれている。昭和45年より実施された多摩ニュータウン開発に伴う土地区画整理事業に依り交換地、町名変更等が行われ、昭和49年9月に当地に移転し遷宮され現在に至っている。(八幡神社宮司 黒木章)
吉祥院(真言宗智山派)/豊ヶ岡1丁目
吉祥院山号は唐沢山、寺号は明王寺。乞田村字窪谷戸にあり、朱印地10石。開山は尊慶と伝え、本尊は不動明王、境内に観音堂(馬頭観音菩薩)がある。乞田・貝取両村の鎮守八幡宮は当寺持ちで、天和2年(1682)・享保9年(1724)の建立や修復の遷宮の際には導師を務めたり、本地仏の勧化金を取りまとめたりしている。(多摩市史)
多摩十三霊場11番-阿癇如来
阿閦如来(あしゅくにょらい)
大乗仏教の仏。東の浄土で怒りをたつことで悟りをえた仏。密教では左手で袈裟(けさ)の端をもち、右手の先を地にふれた座像としてあらわされる。8世紀ごろ日本につたわり、代表的な像に京都安祥寺の木像がある。(コトバンク)
大福寺(曹洞宗)/多摩市貝取1丁目
貝取にあるため山号も貝取山といい、本堂よりも古い地蔵堂には等身大の地蔵菩薩がまつられている。境内全体の雰囲気がここちよい。御本尊は華厳釈迦牟尼物。(多摩仏教会)
多摩十三仏霊場6番-弥勒菩薩
弥勒菩薩
とおい未来、慈しみにより生あるものすべてをすくうという菩薩。釈迦入滅後56億7000万年ののち、兜率天(とそつてん)から地上にくだり釈迦にかわって衆生を救済する。天での修行中を弥勒菩薩、未来仏としては弥勒如来(弥勒仏)と称する。日本には飛鳥時代に伝来、平安時代には弥勒浄土信仰がさかんとなり修験道にもとりいれられた。京都広隆寺の半跏(はんか)思惟像が有名。(コトバンク)
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資料ファイル
多摩十三仏霊場
多摩十三仏霊場は多摩丘陵のほぼ中央に位置し、西方に遠く富士の霊峰を望み、北には多摩川の清流が悠然と流、鎌倉・河崎・野猿街道の主要道を有し昭和39年頃から多摩ニュータウン開発により発展してきた多摩市内に点在する霊場です。今日の日本の平和のかげには、先の大戦において多くの犠牲者がおり、多摩市内においても282名(多摩市戦没者資料による)の戦没者がおります。多摩仏教会では、先の大戦50回忌に正当する平成6年8月に、戦災難殃死者群霊50回忌の追福供養と世界平和を祈念し1ヶ寺1尊(仏)請来し末永く伝えるものといたしました。
1番 不動明王 観蔵寺 2番釈迦如来 延命寺 3番文殊菩薩 宝泉寺
4番 普賢菩薩 東福寺 5番地蔵菩薩 観音寺 6番弥勒場札 大福寺
7番 薬師如来 高蔵院 8番観音菩薩 高西寺 9番勢至場札 永山阿弥陀堂
10番 阿弥陀如来 真明寺 11番阿閦如来 吉祥院 12番 大日如来 喜徳寺
13番 虚空蔵菩薩 妙櫻寺
阿弥陀寺 成満寺 大乗寺(多摩仏教会・多摩市内寺院ガイド)
by Twalking | 2016-07-23 13:14 | たまのさんぽ道(新規)