無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大栗川(2) 東中野   

日時 2016.8.26(金)
天気 晴れ


東中野、右岸が井戸の上地区、左岸の谷戸が天野地区、
そして中大への谷戸が谷津入地区になるそうです。
区画整理はされてますが、いい里山の風景が残ります。

由木東小辺り歩いてはいますが、旧流路があるとは・・・、
距離は短いですが、いい道がついてます。
「小字」を追うと面白いですね~、ありがとうございました。


・・・
東中野

多摩ニュータウン
建設に伴う開発が行われた南部はすでに市街地化している一方、建設区域から外れた北部は開発が進まず、山林が多く残されているほか、畑作や稲作も盛んであり、今でも昔ながらの多摩の農村の景観が残されている。東中野では、江戸時代の「小名」と呼ばれる地域集団の単位をそのまま引き継いでいる。現在の町内会の地区の単位も小字ごとの3地区に区分されている。天野(北東部、天野谷戸ともいわれる谷あいにある)谷津入(北西部、谷間にあり、8か所の谷戸があったため「八ツ入り」と呼ばれていたのが変化したという)井戸ノ上(南部、まいまいず井戸があったことから)Wikipedia

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大栗川の風景① 上流側右岸(左)が
井戸ノ上、左岸(右)が天野&谷津入になります/常盤橋

(歴史)
中世以前、
多摩丘陵周辺は水が豊かであったこともあり人の定住も早く、東中野からも縄文時代早期のものをはじめ、多くの遺跡が発掘されている。平安時代は舟木田荘に属していたといわれ、室町時代になると大石氏の支配下に入る。大石氏の没落後は後北条氏の支配下に組み込まれた。江戸時代以前は中野村と称していたが、多摩郡小宮領にも同名の中野村(現・八王子市中野町、中野山王、中野本町、暁町)があり、1882(明治15年)小宮領の中野村が西中野村としたのに対して、東中野村と改称した。(小宮領の中野村から見て東に位置している。)Wikipedia


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大栗川の風景② 下流新道橋方向、帝京大学を望みます/下の橋


・・・旧流路(左岸)

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新道橋から下の川橋間に旧流路が残り、谷津入川が合流します/新道橋

小字-下田(しもだ)
東中野の小字。このあたりには大栗川の旧流路がはっきり残っている。本村の下にあたる場所の田だろう。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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合流地                 右岸にいい道がついてます

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ここで〆切られてます         下の川橋

小字-下ノ川(しものかわ)
東中野の小字。谷津入川が大栗川に落ちるあたり。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


・・・大栗川右岸(井戸ノ上)
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丘の風景① 中央大学(右)から堀之内寺沢方面の景観です/井戸ノ上・坂上


小字-井戸ノ上(いどのうえ)
東中野の旧小名、小字。東中野は大きく谷津入地区、天野地区、井戸ノ上地区に分かれており、その中にさらに地域の小字にあたるような地名があった。現在の松が谷の西部の多くはこの井戸ノ上地区にあたる。狭義にはこのあたりの集落部とその南の谷戸を含めた地域。水利が悪く低い土地に井戸を掘り、上のものは下に水を汲みに来なくてはならないことからこのような名前がついたという。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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善徳寺                神明神社
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大栗川の風景③ 東中野橋を渡り左岸の天野、谷津入地区へ向かいます

松が谷・井戸ノ上の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23433643/)



・・・大栗川左岸(天野)

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丘の風景②モノレールが通る天野谷戸、左手は八幡山、右手は向山です/中央大学

天野谷戸(あまのやと)

東中野の字名。現在多摩都市モノレールが抜ける谷できわめて大きな谷戸であった。周囲は開発され面影を失い続けている。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


d0183387_23260150.jpg天野谷戸公園

向山(むかいやま)
東中野の山名。天野谷戸の西の尾根で現在も一部が残され向山緑地となっている。(「谷戸めぐり」さんの解説より)




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坂下にある公園には竣工記念碑が建っています/天野公園

竣工記念
当地区は旧由木村の東部にあたり、蛇行する大栗川の段丘に民家の点在する自然豊かな農村であった。地区の中心には大栗川最大の用水堰があり、これが堰場の地名に由来する。昭和39年の八王子合併以後、40年代の多摩ニュータウン建設にはじまる開発の波に襲われ、周辺丘陵の都市化が進行した。60年代に野猿街道の拡幅とモノレール道路の新設が当地区に及びこれを契機に住民による区画整理事業への気運が高まって準備会を発足させ、平成元年6月に東京都知事の認可を受けて天の地区区画整理組合を設立し事業に着手した。以後9年の歳月と40億円の工費を投じ、組合員のと智を集め心血を注いで竣工に至った。21世紀へ託すこの新しい街が人々の安住の地となり永く繁栄することを念願してここに記念碑を建立する。平成103月(天野土地区画整理組合)


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丘の風景③ 愛宕&松が谷の丘方面の景観です/薬師堂下

小字-天野(あまの)
東中野の旧小名、小字。天野谷戸の下流部西側の山裾の集落部。バス停天野がある。(「谷戸めぐり」さんの解説より)  

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標識に誘われて上りました       天野薬師堂

「西のつつじが丘お休み処」
岩下家所有の里山ですが、地域の皆様に開放しています。ご使用に当たっては草木類の採取禁止、ゴミ等のお持ち帰りにご協力お願いします。「西のつつじが丘お休み処」:やまつつじ、おおむらつつじ、さつきつつじ、桜を観賞するための個人で造成した庭です。西とは岩下家の屋号です。(掲示板)

私有地なんですね~、四阿もあって素晴らしい景観、楽しませて頂きました、ありがとうございました。


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熊野神社鳥居

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熊野神社
社殿の造営は1607年(慶長11年)。神木のイチョウは高さ15m、幹回り455cmの巨樹。1861年(文久元年)12月に植栽された。中野村住民富沢市兵衛が子に恵まれず、思案のはてに熊野本宮大権現(熊野神社)に祈願したところ、まもなく子供をもうけたため、祈願成就と子供の無事成育を願い植栽されたと伝えられている。かつては他に秋葉神社、稲荷神社、第六天神社、住吉神社、山の神神社があったとされるが、明治期に熊野神社に合祀されたといわれている。Wikipedia

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境内社                   神木のイチョウ



・・・大栗川左岸(谷津入)

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里山の風景① 前方に松が丘(松が丘高校)&府中CCを望みます/谷津入付近


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上りは中央大学&多摩動物公園へ    下りは野猿街道にぶつかります


小字-谷津入(やついり)

東中野の小字。谷津の入り口の意味だが、この地について書かれた地蔵の由緒書きによると「八つの谷戸の入り口」の意味があるらしい。小さな一つの村のように機能していたようで、小字の中にさらに細かく地名が有り、皇国地誌にはそれらの一部も小字として登場している。八津入、八ッ入、谷ッ入、谷津入谷戸などとも。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


・・・谷津入川(大谷戸)

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里山の風景② 奥は中大のグランド、八幡山に向かって流れます/大谷戸

小字-大谷戸(おおやと)
東中野字谷津入の地名。旧小字、通称地名扱い。バス停谷津入りから西に入る大きな谷戸で現在も下流部が残り懐かしい光景を残している。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


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この奥が水源のひとつでしょうか    通りを越えて集落を流れます


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東の山裾を野猿街道へ        柚木東小前を通り旧流路に注ぎます


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丘の風景④ 西側からみる大谷戸&中央大学の景観です/堀之内沖谷戸公園見晴らし台



・・・西側の旧道

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里の風景③ いい道ですね~、野猿街道へ続きます


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途中に地蔵尊と神社の祠が建っています


d0183387_01003156.jpg賽の神の由来
古来、
賽の神は道祖神ともいわれ平安の昔から左義長とも一体化となり天地陰陽和合して男女産みの神、農耕の神として、また汚れを除き悪疫払いの象徴ともなるとともに勉学の徹の面からも地域住民の深く信仰せしものなり。この地においては凡300有余年前に祭りしものの如し。爾来祭の行事も幾変遷ののちに行われたるが、古老の伝承によれば凡そ100余年前、当八つ合の賽の神は故あって午戸の上に移り祭れしものの如し。この度当地の懇望と井戸の上の配慮により昭和51315日再建し祭しものなり。どんどん焼きはその行事のひとつで幼童、若い衆の正月の楽しい遊びとして行われ、114日もしくは15日に〆飾り、札書、初団子を焼き火祭として健康、安全を祈願し祝うものなり。八つ入氏子中(碑文・読みづらかったので不正確です)



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大栗川の風景④上流堰場橋方向の景観です/洗馬橋

小字-洗馬川(せばがわ)
東中野の小字。大栗川のこのあたりを特にこのように呼んだ。字からすると馬を洗うということで、農耕用の馬を手入れするために使った場所だったのだろうか。瀬場川とも。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


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多摩市ジオラマ(昭和37年頃)/パルテノン多摩歴史ミュージアム
(橙:野猿街道 青:大栗川・乞田川 黄丸:東中野・大塚を着色しました) 




by Twalking | 2016-09-01 22:44 | リバーサイドウオーク(新規)

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