無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 大栗川(5)下柚木&中山   

日時 2016.9.2(金)
天気 晴れ


江戸時代のは由木村は大栗川の両岸に広がる広い範囲でした。
鎌倉時代は由木氏(横山党あるいは西党)、和田合戦の後は長井氏、
戦国時代は大石氏、そして後北条氏へと領主が変わりました。

それだけに歴史的にも文化的にも見応えのある地域です。
なかでも永林寺は素晴らしい古刹ですし、白山神社は
「船木田荘」に関わる貴重な史跡がでたところ、いいですね~。

ネットなどを見ますと諸説があって、こんがらがってしますが、
それでも由緒ある歴史の一端に触れることができ、よかったです。
また、じっくりと訪れてみたいと思います。



・・・下柚木

八王子市の東南部に位置し多摩ニュータウンの第20住区を構成する。南大沢駅が設置され開発されるまでは村役場や由木中学校があるなど由木村や由木地区の中心で、八王子市に合併されるまでは由木村大字下柚木であった。地名は江戸初期に由木村が分割されてできた上柚木村・下柚木村から。なお、由木・柚木の地名は横山党の一族由木氏に由来する。
Wikipedia

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大栗川の風景① 由木緑道の起・終点になります/大片瀬歩道橋

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大片瀬公園(右岸)          由木緑道起・終点(右岸)

小字-大片瀬(おおかたせ)

上柚木の旧小名で大栗川南岸。下柚木との区界が入り組んでいる。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


・・・左岸・旧道

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旧道の風景① 野猿峠に向かう旧道、「殿ヶ谷戸」で新道に合流します/永林寺入口


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永林寺赤門

総門
天文15年(1546)建立。文禄4年に野火により焼失、宝暦元年(1758)に再建される。一間薬医門 切妻造り銅板葺き 公卿格式10万石を徳川家康公より与えられた永林寺は朱塗り門と壁の五条線が許され、これにより由木の赤門と呼ばれている。御仏の 深き恵みの法(のり)の道 金峰(こがねすみ)に響く 鐘の音 この門より内は仏様、ご先祖様方の住まわれる世界(ばしょ)であります。清浄な身と心で参拝しましょう。(説明板)

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山門と十六羅漢像

金峰山永林寺
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下柚木 
曹洞宗 永林寺は、大石源左衛門尉定久公の居館(由木城)であったものを、定久公が滝山城主として滝山城へ移るに至り、叔父である一種長純大和尚に譲り天文元年(15323永麟寺として創建された。その後八王子城主北条氏照公の助成を受けて天文15年七堂伽藍の完備された大寺院が完成された。天正15年後陽成天皇より勅願寺の綸旨を受け護国殿の勅願を受ける。天正199月徳川家康公が当寺に巡拝された折り、朱印十石、公卿格式拾万石を授けられ赤門の建立が許可された。又、永麟寺の麟の文字を林に変え、現在の永林寺の寺名となり今日に至っている。又、当地域に十ヵ寺の末寺を有する格地本寺寺院である。永林寺には、大石家丸に三つ星、北条家三つ鱗、天皇家菊、五三の桐、徳川家三つ葵等五つ紋を有しており、往事を偲ぶことが出来る。(説明板)

d0183387_12402373.jpg三門
天文15年(1546)建立。文禄4年に野火により焼失、寛文9年(1669)相州藤原呈貞通棟梁により再建。三間一戸総円柱二階二重門 入母屋造り銅板葺き 安永4年(177512月解体大改修され、その後昭和40年に大改修され現在に至る。三門上には十六羅漢木造を安置し、正面両側に仁王像を安置する。三門とは空門(一切を空と観ずる)、無相門(迷いの煩悩を離れ悟りを得る)、無願門(真実を悟り願求するところがない)三解脱門のことである。この三解脱を得て本堂に向う大切な門である。仁王像(佛法、伽藍守護の金剛神 阿吽像)(説明板)

d0183387_12422289.jpg本堂

天文15年(1546)建立。文禄4年に野火により焼失、寛文9年(16693月相州藤原三郎道典棟梁により建立。間口11間 奥行10間半 木造入母屋造り銅板葺き 永林寺の中心となる建物で法堂ともいう。釈迦牟尼佛様をご本尊にお祀りし、普賢菩薩様、文殊菩薩様をお祀りする。現本堂は延享2年(17454月に大改修されたもので、向拝(安政4年・1857 小谷田忠五郎棟梁により再建)は本堂中央より左寄りに建築された。この地方禅宗の特色の作りで、軒は唐破風付きで上に千鳥破風を架している。本堂内には正面に勅額護国寺を掲げ、32枚の杉戸の襖には狩野派相沢五流による荘厳な大画が描かれており、天井画には210枚の花鳥画が地元画科橋本豊治氏により描かれている。(説明板)

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中雀門                豊川殿

d0183387_14043146.jpg三重塔

昭和55年(1980)世田谷安田昭二棟梁により造立。禅宗様式三層総木造り銅板葺き 日本唯一の鎌倉時代の禅臭様式の国宝三重塔である広島県生口島瀬戸田の向上寺の塔を模して建立された。塔の高さは20m、塔内には聖観音菩薩文政6年(1823)造佛をご本尊様としてお祀りし、脇佛様として172体の小観世音菩薩様を主お祀りしている。武相観音41番札所、京王観音25番札所として信仰されている。ご本尊様聖観世音菩薩は印歳観音(うとしかんおん)として12年に一度卯歳(41日より30日迄)にご開帳される。(説明板)


d0183387_14061128.jpg岩舟地蔵

享保4年(1719)建立。この世の岩船さんとして人びとを正しき道へと導き、此岸(この世)より彼岸(悟りの世界)へと至らしめるためすべての人々に救いの手を差し伸べるお地蔵様である。子育て、水子の供養のお地蔵様として信仰されている。

d0183387_14071548.jpg六地蔵
六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)に現れ人々に救いの手を差し伸べるお地蔵様である。(説明板)




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大石玄源左衛門尉定久公の墓所

武相10郡の太守滝山城主・大石定久公の公憤である。大石定久公在城中に此の地に居館があった。大石定久公は高月城主・大石定重の子として延徳3323日お生まれになり、幼名を丑丸と用された。長じて由木浄福寺に城を持ち、更に大永62月父定重お共に滝山城に城を築き、大永7年家督を継いで滝山城主なられた。没後、猿丸峠の頂上に埋葬され(当時永林寺の境内地は平山街道より猿丸峠まで)、文化8年(1811)永林寺25世住職によって此の地に改葬された。定久公の墓石の両側には家臣(後に北条家の家臣)の墓が連なっている。天文1827日没 行年58歳 戒名 当寺開基 久彰院殿英巖道野後大居士(説明板)


・・・野猿峠へ

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旧道から「殿ヶ谷」を右折して峠へ/野猿街道・南陽台入口先

野猿街道
かつては「小野路道」「由木街道」と呼ばれ、現在のルートとは異なり八王子から由木村を経て小野路村方面へと続いていた。昭和初期に大規模な新道敷設工事が行われ現在のルートとなる。野猿街道の名前は、同街道上にある八王子市の野猿峠(標高160m)に由来する。野猿峠は古くは猿丸峠猿山通りと言い、旧由木村と八王子の中心部を結ぶ峠である。峠で休憩するために馬や牛に水を飲ませる水飲み場があった。 由木地区から八王子中心部までの野猿街道は、江戸時代の小野路道(甲州街道八王子宿 - 小野路(町田市〕)に沿っている。Wikipedia

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殿ヶ谷戸&野猿街道に沿って支流が流れています

小字-殿ヶ谷戸(とのがやと)

下柚木の旧小名、小字。バス停「殿ヶ谷戸」がある。字名での表記は「殿ヶ谷」である。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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「曹洞宗金峰山永林寺薬師堂」の石碑が立つお堂?


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御嶽神社鳥居

d0183387_15014768.jpg御嶽神社

祭神:日本武尊、中筒男命 合祀祭神:住吉神社
当社は瀧山城武相十郡領主・大石遠江守が瀧山城鎮守(又は一説に瀧山城下の部落鍛治谷戸にある御嶽神社)の一体をここに崇祀せるものにして、棟礼に天文232日とありこれ創立の棟礼なるべし(現在の神殿445年経過せし元和元年3月再建の棟礼あり、この外再建の棟礼4枚あるも年代不明・当時の社殿は享保2年の造営なりと相伝う(拝殿は大正13年に改築)当社の別当は光明院にして古来上柚木下柚木両村の鎮守なるも、爾来下柚木の鎮守となす。28段の石段あり、鳥居は2基ありたるも鳥居橋たもとの鳥居は廃棄せり。(境内由緒沿革)

d0183387_15064938.jpg御嶽神社のシイの木(スダジイ)
このシイの木は樹齢およそ400年、根本から2幹に分かれそれぞれ目通り3m余、樹高20m余の大木である。この地方では高尾山中および宇津貫町にシイを見ることができるが、その他ではきわめてまれである。なお、御嶽社は新編武蔵風土記稿によれば、天文2年(1533)大石遠江守が建立し、滝山城の鎮守(丹木町御嶽神社)38体のうち一体をまつったものといわれ、このシイの木もその頃からあったものであろうか。(八王子市教育委員会)(古木は枯れてしまったようです

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丘の風景① 殿ヶ谷戸でしょうか、南大沢方面の景観です/南陽台


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由木めぐみ野 せせらぎ

由木めぐみ野の地形は西から東に向かってゆるやかに下がります。傾斜を利用して西端からビオトープ池に向う約660mの遊歩道があります。遊歩道の途中からは山に降った雨水が湧き水となり、せせらぎとして遊歩道脇を流れます。せせらぎの流れる遊歩道は気軽に水とふれあえ、いろいろな生き物がみられるかもしれない里山の小道です。(案内板)

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由木めぐみ野・せせらぎマップ

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野猿峠

絹ケ丘3丁目と下柚木との境にある峠、高さ160m・別称・猿丸峠。八王子の中心部と由木地区とを結ぶ野猿街道が越えている。江戸期には八王子から打越をへてこの峠を越え、小野路から神奈川方面へと向かった往還で(武蔵図会)、山上すべて松樹たてり(風土記稿)という景観で、峠の最高地点には手の平松と呼ぶ大樹があり眺望の勝地(歴史地理)だった。最近まで東京近郊の代表的なハイキングコースとして知られていたが、周辺の宅地開発や野猿街道の拡幅工事の完成などで環境は激変した.(Web八王子辞典)


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野猿峠バス停                野猿峠の水飲み場

野猿峠の水飲み場

昭和の初め、由木と八王子の町中とを結ぶ唯一の道であったこの野猿峠は、一息で峠越えとはいかず人も馬も途中で休息をとらねばならなかったようです。つまりこの井戸のようなものは馬や牛の「水飲み場」であったのです。昭和30年代に入って自動車が一般に普及するまで、ここで水を飲み馬や牛といっしょに休み一息いれる人の姿もみられたといいます。今、当時その光景を一つの時代の証として、長く保存したいものです。そのためにはこの「水飲み場」がゴミ捨て場になってはいけないのです。みなさんのご協力をお願いします。(八王子市)

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丘の風景② 下れば北野、八王子市街が一望できます/光照寺入口

猿丸山(さるまるやま)
下柚木の山の名。光照寺のある山ではないかという。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


・・・中山

八王子市の南部に位置する地域。昔ながらの多摩丘陵の風景を残している。北部には鎮守である白山神社がある。中山中学校付近の谷から湧出して大栗川に注ぐ岩入川(中山川)が流れる。小字として、山際、谷戸、小池、宮ノ前がある。
Wikipedia

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旧道風景② 西側の谷・中山へくだります。右手は白山神社の森/大学セミナーハウス先


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中山白山神社

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中山白山神社/中山

祭神:伊弉諾尊 摂社:熊野神社、日枝神社、愛宕神社、
稲荷神社
創立年代は明らかでないが平安時代に比叡山、西搭の僧、武蔵坊弁慶の血縁であった弁智が法華経を奉納した関東七社の一社であると伝えられていた。天正18年(15906月、豊臣、北條の戦にあい焼失したが、慶長18年(1613)願主、木曽村(現町田市)覚円坊の僧頼長権大僧都と大旦那伊藤九郎左衛門により再建され、以来明治維新まで中山村の常玉院が別当となった。江戸時代の白山神社は中山村の鎮守社として、社地一町歩を保有し亦、領主勝田家は敬神の念厚く元文3年(1738)正月神鏡を奉納し、更に11代将軍家斉の狩に際して豊猟を祈願し和歌一首を詠進している。文政9年(1826)春、社殿裏の塚より法華経10が発見され、その経巻の奥書に大歳甲戌、仁平4年(11549月時許於 武蔵国西郡船木田御庄内長隆寺 西谷書字了勧進僧弁智血縁者僧忠尊とあり、村人の伝承が裏付けられたばかりでなく考古学資料として評価されている。

d0183387_17585517.jpg明治初年神仏分離令により常宝院から離れ、同612月由木村々社となり、同42年、覆殿、幣殿を新築、昭和3年拝殿を改築し面目を一新した。昭和2012月国家神道の廃止により、宗教法人として発足し昭和50年今上陛下即位50周年にあたり、社殿並びに参道・鳥居を含む大改修を行い現在に至っている。尚、前期経巻の他、明治・大正・昭和の3代に亘り出土した経筒・鏡・甕は東京都文化財重宝(考古学資料)として、八王子市資料館及び国立博物館に保管されている。(説明板)

d0183387_18004252.jpg長隆寺の礎石

この礎石が何時の頃から白山神社境内に置かれていたのかあきらかではありません。伝えによると平安時代、中山村に當券された長隆寺のもので、鳥居の近く字「堂山」にあったものです。長隆寺は当地最古のお寺でそれが存在していたことを実証するもので、この神社の境内から出た経塚出土の経巻と併せて、重要な文化財と考えられます。石の大きさは、長軸110cm、短軸80cm、厚さ35cmで、平らな表面を浅い溝で丸く刻み柱座とした素朴なものです。東大寺・国分寺や奈良時代に建立された寺院の礎石は一般に大きいのですが、平安時代以降のものは小型化しています。このような点を比較していくことによって、長隆寺の草創年代を解明する手掛りとなるものです。(境内掲示)

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丘の風景③南大沢方向の景観です、谷の様子がよく分かります/参道脇谷間を


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谷間の旧道に沿って岩入川が蛇行して流れます



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永昌院/中山 
曹洞宗。飯成山と号し、本尊釈迦如来、開山本寺三世岳応、開基は葛沢豊前守である。元来文安4年(1447)禀安起立の境内観音堂の別当寺である。(八王子市史)

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本堂                 観音堂


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大栗川の風景② この辺りは蛇行して流れていたようです/大田平橋

小字-大田平(だいたびら)

下柚木、上柚木の旧小名、小字。それぞれの地が入り組む場所でデェダラボッチ伝説が伝わる。おそらくデェダラボッチは大きな蹈鞴(たたら 大形ふいご)の符号であり、古代の産鉄に絡む地名の名残であろう。(「谷戸めぐり」さんの解説より)

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由木緑道散策コース
(橙:野猿街道 紫:柚木街道 青:大栗川・大田川)


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資料ファイル

由木城址

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金峰山でしょうか、永楽寺の墓地の奥に「由木城址」があります

金峰山(きんぷさん)
下柚木の山の名。永林寺の北の山で山号を由来とする。(「谷戸めぐり」さんの解説より)


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階段を上った平場に「史跡 由木城址」の碑と大石定久公の銅像が建っています

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「史跡 由木城址」          大石定久公の銅像


d0183387_16530416.jpg大石 定久
(おおいし さだひさ)
戦国時代
の武蔵国の武将。山内上杉氏、のち後北条氏の家臣。滝山城城主、武蔵国守護代。通称、源左衛門尉。別名、大石綱周(つなちか)。大石定重の子。弟に憲重、定基、信吉、照仲、定顕、子に大石定仲、養子に北条氏照・大石定勝がいる。大石氏は代々関東管領上杉氏重臣として武蔵守護代を任されていた。定久も父の後を継いでいたが、天文15年(1546)に上杉氏が北条氏康に川越夜戦で大敗し没落すると、主君の上杉憲政を見限って後北条氏に臣従する。その後、氏康の三男・氏照を娘・比佐の婿養子として迎え入れて滝山城と武蔵守護代の座を譲り、入道して心月斎道俊と号し多摩郡五日市の戸倉城に隠居した。隠居後も快く従属したわけではなく、上杉謙信や隣接する青梅の勝沼城一帯を領する三田綱秀らと誼を通じていたという。謙信との軍事と外交は養子の氏照が重要な働きをする。程なく、三田領は氏照によって併呑されることになる。(Wikipedia

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西側下に池があります、空堀跡に見えちゃうんですが・・・、どうなんでしょう?

「大石宗虎屋敷」(松木)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23472917/


船木田荘
平安末期から戦国期にかけて八王子市域内にあった荘園の名。由木地区中山の白山神社の社地から出土した経巻に「仁平4年(1154)9
月20日武蔵国西郡船木田御庄内」の奥書があり、九条家文書の1180年(治承4)に「むさしふなきた本、新」の名が見え、さらに1250年(建長2)に「船木田新庄」「船木田本庄」、1309年(延慶2)にも「船木田庄」の名が見える。その後南北朝期に東福寺に寄進された。東福寺文書として残る文和年間(135256)と貞治年間(136268)の年貢算用状に豊田村、梅坪村、南河口郷、北河口郷、長房郷、由比野村、谷慈郷、平山郷、中野郷、大谷村、横河郷、大塚郷、由比郷、由木郷などの名が見え、同荘のおよその荘域が推定できる(Web八王子辞典)


船木田荘等(八王子市郷土資料館)の関連記事のはこちらへ(http://teione.exblog.jp/22970417/


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位置図
(橙:野猿街道 紫:多摩ニュータウン通り 緑:16号 青:大栗川 黄角:町 赤丸:駅)

由木村
東京都の南多摩郡に属していた村。現在の八王子市鑓水・中山・上柚木・下柚木・越野・堀之内・南陽台13丁目・南大沢・別所・松木・松が谷・鹿島・東中野・大塚の全域と絹ヶ丘3丁目の一部。由木は古い文献では柚木あるいは由儀とも書かれておりその語源にはいろいろな説がある。たとえば紙の原料として知られる楮(コウゾ)の中で、神に供えた優等な布を「ユフ」といったといい、楮は自由に採取できるほど山野に自生してなかったので生産地は保護されていたという話からユフの産地を意味する由ノ木と呼ばれ、それが転じて「由木」になったという説や、柚子のことをユーまたはユヒというので柚子が多かったことが由来になったという説もある。江戸時代初期の村名でもあり、のち上・下の2村にわかれこれが上柚木・下柚木の由来になる。平安末~鎌倉初期には横山党の一族由木氏が住んだといい、南北朝期には多摩郡船木田荘のうち由木郷の名も見える。Wikipedia

横山党(横山荘)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22965590/



by Twalking | 2016-09-09 22:06 | リバーサイドウオーク(新規)

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