無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 八王子通り大山道(2)橋本~田名 01下九沢   

日時 2016.11.18(金)
天気 晴れ


天気に誘われて大山街道を歩いてきました。
一帯は住宅地と工業団地になっていますので、
興味としては相模原台地と水郷田名でしょうか。

橋本台から新道坂を下ると田名原面の下九沢、
街道からちょっと入ると上段の河岸段丘が見渡せます。
街道の面白味はありませんが、坂道や鳩川、水道道と
段々と街並や風景が変わってよくなってくる感じです。


・・・塚場

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坂の風景① 橋本台(相模原面)から下九沢(田名原面)に下ります/新道坂

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中ノ原信号(坂上)          塚場バス停(坂下)


d0183387_22111243.jpg新道坂標柱/坂途中

改修された新しい坂を「新道坂」、東に向かう坂を「神明坂」といいます。このわきには神明様がまつられています。(標柱・写真:神明坂)




d0183387_22172500.jpg子育て地蔵(塚場の疱瘡神)/新道坂
地元ではこの石仏を子育て地蔵とか疱瘡神とよんでいます。台座がもう一つあるので以前は三体あったと思われます。この建立の年代は風化のために年号不詳。その昔、疱瘡(天然痘)を防ぐため種痘が良くつくようにお地蔵さまにお願いしました。また、風邪の流行の季節ともなると願を掛ける親たちでにぎわったそうです。全快すると供物として、さん俵(俵の頭の押え)に半紙に赤飯を載せ真中に赤白の弊束をたてて、四隅に紐をつるし真中で縛ります。その他に子どもの好きな飴玉やだんご、果物を奉納しました。はしかや風邪の季節にもなると、たくさんの供物でその様は川に浮かんだ帆かけ船の様であったといいます。いつの間にか子育て地蔵との名がついたということです。(大沢史蹟めぐり/大沢公民館)

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峠の風景 神名坂から相州大山を望む



・・・下九沢

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下九沢御嶽神社鳥居


d0183387_22331304.jpg下九沢御嶽神社/下九沢 
祭神:
日本武尊御嶽神社は下九沢塚場地区にある旧下九沢村の鎮守です。この神社は明治2年に「御嶽神社」と改称されましたがそれ以前は「蔵王大権現」と呼ばれていました。また、創建は定かではありませんが応永年間(13941428)に久沢山金泉寺を開いた源秀によって勧請されたと伝えられています。『風土記稿』を見ると「杉一株神木なり」という記録があります。これは近年まで境内にそびえていた大杉のことで、その樹高は40mを越え、根回りは5.7mにもおよんでいました。そのため昭和33年には市の天然記念物にも指定されましたが、あまりの老木のためついに枯朽し、現在では社殿の裏手にその切り株だけが残されています。

d0183387_22371765.jpgまた境内には皇大神社・天満宮・日枝神社などが合祀されています。この日枝神社は塚場地区の氏神として明治41年までは現在の塚場自治会館のところにあったものです。なお、例大祭の日には境内で「下九沢の獅子舞」が奉納されますが、これは剣獅子・玉獅子・巻獅子、そしてバンバ画が勇壮な舞いを見せるもので、県指定の文化財となっています。そのため昭和41年には「獅子舞の碑」も建てられています。広い境内は木々に囲まれ、静かな風情を残しています。(さがみはら風土記稿)

d0183387_22364909.jpg拝殿前の大燈籠

高さ3m。胴部分真中に御神塔。右横に寛政10戊午歳。左横に7月吉日。下台座に若者講中。横に内出三組とあります。本体傘部分がかなり傷んでいますが、安政の大地震か関東大震災でたおれたのではないかと推測されます。この燈籠は、御嶽神社のシンボル的なもので下九沢村氏子の象徴的のものでした。(大沢史蹟めぐり/大沢公民館)

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金泉寺山門/下九沢


d0183387_22420222.jpg金泉寺
金泉寺はバス停「下九沢」より東へ300mにある真言宗智山派の寺院です。『風土記稿』によると、薬王院(八王子市高尾)の末寺で、山号を九澤山といい薬師如来を本尊としています。また、開山を源秀〔応永9年(1402)没〕としています。この創建について寺伝では、弘仁3年(812)に多奈久坐和という武士が田名の葛輪に「」という-庵を結び、その三女の湖年姫が仏門に入って庵主となったと伝えています。その後、荒廃していたものを応永9年(1402)に源秀が現在地に再建し、薬師如来を安置して医王山薬師院金泉寺と改称して中興したとしています。

d0183387_22494046.jpgまた、源秀は同時に蔵王権現を勧請していますが、これは現在の御岳神社のことで金泉寺が別当でした。ちなみに慶安2年(1649)には61斗余の朱印地が与えられています。なお、当時は境内に七観音を祀る観音堂があり、ほかにも日宮・山王社・稲荷社などを持っていたことがわかります。また、寺小屋も開かれ、地域の教育の場として親しまれていました。境内には市内で最も大きな寛保3年(1743)造立の宝篋印塔や、明治時代に活躍した下九沢出身の政治家・山本作左衛門の記念碑もあります。(平成さがみはら風土記稿)

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坂の風景② 緩やかな坂を下ると左手にわずかに旧道が残ります/久沢橋

d0183387_00485090.jpg夜泣き地蔵/ 久沢橋手前
塚場自治会館を下り左側のあたり古川さん宅地内に石仏が3体並んでいます。最近新しい祠が建てられました。石仏の年代は風化されてしまい不明です。いずれにしても江戸時代中期の頃と推定されます。昔は夜泣きする子が多く、家人が困りお地蔵さまに夜泣きが治りますように願を掛け日参すると、ご利益があり自然に治ったそうです。お礼として子どもが好む色ものの前垂れを奉納しました。夜泣き地蔵とは子どもの成長と幸せを祈った子育て地蔵のひとつで、村人たちの信仰が厚かったそうです。(大沢史蹟めぐり/大沢公民館)

d0183387_00490386.jpg大山道道標/久沢橋
大山参りの人々がよく利用した道だったのでこの名があります。また「八王子道」とも呼ばれ塚場は小さな宿場となっていました。(標柱)




d0183387_00554618.jpg塚場の庚申塔
/久沢橋
塚場のシンボルは大きな石塔の庚申塔です。県道小野相模原線並びに上溝城山線改修 拡幅工事のために現在地に移されました。元の場所は八木屋商店前にあり、その昔武州(東京都)大山街道と甲州(山梨県)久保沢街道の交差地点にありました。昭和5年ころ県道拡幅工事のため北側に移された際に、古刀を発掘したという実話があります。永禄12年北条勢と武田勢が戦った三増峠の古戦場がありますが、その時この付近でも小さな合戦があり、討ち死にした侍を村人が葬った塚との伝説もあります。庚申塔の建立は安永49月(1775)のことですが、塚はそれ以前からありました。祭神は庚申で60年に一回廻ってくるかのえ申のことをいいます。両脇に2体の石仏が ありますが1体は出羽三山供養塔です。寛政7年に下九沢村と田名村葛輪の 講中が建てたもので、あとの1体は風化して分かりません。昭和5年の移転の際に御神楽を奉納し、昭和46126日の移転の時も自治会では地鎮祭を行い御神楽を奉納しました。(大沢史蹟めぐり/大沢公民館)

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街道の風景① 段丘の下には鳩川が流ています/久沢橋

鳩川

相模原市の大島団地付近に源を発し南東に流れる。JR相模線と平行し海老名市河原口付近で相模川に合流する。江戸時代は旗川と呼ばれこれが転じて鳩川と呼ばれるようになったと推測される。大島団地付近には源である事を示す石碑が設置されている。Wikipedia

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南橋本駅周辺マップ
(赤:大山道 紫:16号・129号 黄角:南橋本駅 黄丸:橋本五差路)



・・・田名(たな)

相模原市中央区の西部に位置し一部は緑区に属する。近世以降は相模国高座郡田名村と呼ばれ、1889年(明治22年)の町村制施行にともなう明治の大合併の際にも単独で神奈川県高座郡田名村となった。相模川沿いの段丘崖上には早くから集落の形成が見られたと考えられており塩田(田名塩田三丁目)には後期旧石器時代末の遺跡とされる田名向原遺跡がある。古代以降は相模国高座(たかくら)郡に属した。江戸時代には高座郡田名村とされ、後期には隣接する大島村とともに全域が篠の烏山藩の飛び地領となった。(Wikipedia


葛輪

田名の北のはし、鳩川の淵に広がる集落で対岸(東)は下九沢地区です。「くざわ」の地名は鳩川を挟んだ一帯のもので、以前は「田名分九沢(たなぶんくざわ)」と呼ばれていました。(田名の史跡めぐり)

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葛輪の二差路を右折          その先を右折すると金刀比羅神社があります


金刀比羅神社/葛輪
元は一族の守り神として祭られていたともいわれていますが、今は葛輪集落全休が祭っています。鳥居の先の左右には1811(文化8)年に奉納された御神燈が建っています。(田名の史跡めぐり)

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街道の風景② 工場地帯(右キャタピラー、左三菱重工)を進みます/北門入口


・・・四ッ谷


今は金融機関
やスーパーマヶットで賑わっう町並みとなっていますが、以前は農家が大山街道や久保沢(当麻)街道に沿って並ぶ集落でした(田名の史跡めぐり)

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坂の風景③ あか坂を下ります/上四ッ谷

あか坂の石柱
赤土のさかだったのでこの名があります(標柱)

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坂上にあか坂の標柱          上四ッ谷バス停先を左折して寄り道

四ツ谷
四ツ谷交差点を清水方面に向かい県道大磯線の交差点に四軒の家(原、小野、木下、篠崎)がありそこから始まったと言われ、四ツ家が同音の四ッ谷になったと。四ツ谷の北方に三谷(三家)という集落があったが人々は清水に移住している。(「田名の地名」さんより)

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街道の風景③ 標柱があったので「久保沢道」と分かりました/四ツ谷自治会館前

d0183387_01553661.jpg久保沢道
おもに久保沢に向かう人々が行き来した道なのでこの名があります。また当麻山無量寺へお参りに行く人々も通ったので「当麻街道」とも呼ばれています。(標柱)


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石神社/田奈四ッ谷

d0183387_02040611.jpg石神社
四ツ谷集落の南東のはしに位置する石神社は集落の守り神として信仰されています。境内には集落内の石造物が集められており地神塔、庚申塔、秋葉塔、六地蔵、二十三夜塔さらには大山道の道標や1805(文化2)年の三ケ所橋供養塔等がここに保存されています。

d0183387_02043879.jpg川がない集落なのに橋供養というのも不思議と思うかもしれませんが、四ツ谷付近は梅雨時などには野水(のみず)という湧き水が溢れることがよく起こったので、それを防ぐ水路が何本か造られていました。今でも児童館の周辺などにその堀のなごりを見ることができます。この水路にかけられた橋の供養碑がこの橋供養塔です。橋供養塔には父をたずねて旅をした母娘の伝説も地元に残されています。また、今は久保沢(当麻に沿って家並みは続いていますが、以前は児童館のあたりで家は途切れ、北の大山街道沿いの集落を四ツ谷と呼び、南の今は商店が多くなった方を下四ツ谷と呼んでいました。(田名の史跡めぐり)


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街道の風景④ 54号相模原愛川線、正面に大山を望みます/石神社前(田奈四ッ谷)

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街道の風景⑤ 旧道に戻って西へ/上四ツ谷バス停

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「横浜水道道」を横断します/田名北小      この先で54号と合流します

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街道の風景⑥ 合流地にお地蔵さん、右折して水郷田名(陽原面)へ下ります


・・・・・・・・・
資料ファイル

相模原台地
私たちが住む相模原台地は北から南へゆるやかに傾斜していますが、これは相模川が山間部から平野部に流れ出たところにつくられたかつての扇状地であるためで、市域はさらに相模川に沿った3つの河岸段丘(階段状の地形)から構成されています。河岸段丘は相模川が台地を削り、侵食と堆積、地盤の隆起などを繰り返してできました。段丘は高い方から上段『相模原段丘』中段『田名原段丘』下段『陽原段丘』と呼ばれ、木々の茂る1040mの急斜面(段丘崖)によってその境ができています。また、階段状に相模川に下ってみると、段丘崖付近では小河川が浅い谷を刻んで流下し相模川に注いでいます。河岸段丘のさらに下の段には相模川が運んできた砂や粘土が堆積してできたわずかばかりの沖積低地が広がっています。(相模原市立環境情報センターHP)

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相模原台地の地形断面位置図/相模原市立環境情報センターHP
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相模原台地の地形断面模式図/相模原市立環境情報センターHP


相模原台地の地層
台地の表面は数万年前に及ぶ富士・箱根などの火山活動によって赤茶色の厚い火山灰層(関東ローム層)に覆われ、台地上段では厚さ2030mに及びます。その下にある砂や小石がつまっている層は昔の相模川川底や河原の跡です。さらにその下にはかつて海の底であった中津層や小仏層と呼ばれる古い岩盤の層があります。これらの層をつくっている砂や泥は粒が細かいため、水を透しにくくなっています。(相模原市立環境情報センター)

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相模原台地の地層/相模原市立環境情報センターHP


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相模原台地① 下九沢御嶽神社付近からみる相模原面の段丘崖です 

相模原面群

相模原市では上段とも呼ばれる。相模野台地の中では最も広い面積を占め、詳細には5の堆積面に分けられる。相模原市緑区(旧城山町)の川尻八幡宮付近(標高約170m)を最高点に北半部の相模原市内では南東方向に、大和市以南では南方向に徐々に高度を下げ、南西端の寒川町で相模川沿いの沖積面(相模川低地)の下に埋没する。一方、南東側の藤沢市白旗付近では標高約50mで台地末端となり比高40m程で境川沿いの低地に接する。多摩丘陵の谷戸を水源とする境川を除いて、北半部には台地を開析する河川がほとんどなく平坦地が非常に広く分布する。Wikipedia

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相模原台地② 田名原面を流れる鳩川/久沢橋

田名原面群
田名原の名はこの段丘面の多くを占める相模原市中央区田名に由来する。相模原市では中段とも呼ばれ、詳細には4段の堆積面に分けられる。同市中央区田名のほかに緑区大島、中央区上溝、南区当麻(たいま)および下溝の北部にかけて広がりを持つが、下溝南部以南にはほとんど分布しない。相模原面群(上段)との間の段丘崖は「横山」(または相模横山)と呼ばれ、崖下の湧水を水源に鳩川、姥川、道保が並行して南流する。(Wikipedia


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相模原台地③ 相模川河岸からみる陽原面の段丘涯と望地水田です

陽原面群(みなばら)
陽原面の名は相模原市中央区田名の小字名である「陽原」に由来する。相模原市では下段とも呼ばれ、詳細には5段の堆積面に分けられる。同市緑区大島から中央区田名にかけておよび南区下溝南部の台地西端に分布し、相模原面群(上段)、田名原面群(中段)に比べるとその面積は小さい。上流側の大島では相模川沿いの沖積面との間に40m程の比高があるが下流側へ向けて急速に高度を下げ、同市南区磯部付近で沖積面の下に埋没する。(Wikipedia


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相模原台地④ 対岸の中津台地の景観です

中津原面
中津原の名は相模川右岸の愛川町中津に由来する。右岸では愛川町南東部から厚木市北部にまたがって相模川と中津川の間に広く分布するが(中津台地、中津原台地)、左岸の相模野台地では相模原市南区磯部から新戸(しんど)にかけて座間丘陵の西に接した幅のごく狭い平坦面が分布するのみである。(Wikipedia


by Twalking | 2016-11-21 10:25 | 大山街道(新規)

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