北野街道(館町~片倉)山田町
天気 晴れ
町田街道に出ましたので、北野街道沿いを歩いてみました。
目指すは古刹の山田の広園寺さん、訪ねてみかったお寺さんです。
丘の上と下の街道を交互に混ぜてながら見て回りました。
道を一本外すとのどかな田園風景が残ります。
牧場でお土産を買い道を訪ねると「湯殿川が近道」と伺い、
川辺を片倉へ、高尾東稜に沈む夕景が綺麗でした。
・・・椚田町(くぬぎだまち)
江戸時代まで現狭間町とともに下椚田村の一部であった。下椚田村に加え現高尾町、初沢町、東浅川町辺を上椚田村といった。横山党の横山権守時重の四男、大郎重兼がこの椚田の地に居を構えたとされ、その子次郎広重より代々椚田氏を名乗ってこの地に住んだので、このあたりを横山庄椚田郷と呼ぶようになったとされる。この椚田氏が初沢城(椚田城)の初代城主ではないかという説がある。(新編武蔵国風土記稿)(Wikipedia)
宝泉寺
宗派:臨済宗南禅寺派
享禄元年(1528)遠叟祖順禅師によって建立。本尊は薬師瑠璃光如来で、守護神である十二神将は江戸中期のもので、付近住民による素人一刀彫であると伝えられている。明治25年改修され後昭和50年改築。現在は斎場、霊園や納骨堂等を備えている。(八王子仏教会)
東京都道173号上館日野線
八王子市館町上館の都道47号八王子町田線交点から、日野市高幡の都道41号稲城日野線交点に至る一般道である。北野街道ともいう。路線延長:11.853km(Wikipedia)
椚田(大牧)御岳神社/椚田町
祭神:日本武尊、素戔嗚尊慶長元年(1596)のころ武州御嶽社から勧請したと伝える。明治31年改築。大正5年9月に再建。(東京都神社名鑑)
椚田遺跡
東京都をほぼ西から東へ貫流する多摩川の右岸には、関東山地から派生した多摩丘陵が約40kmに亘って海岸部にまでのびているが、北部の山地よりには広い平面を呈す丘陵が幾つか発達している。八王子盆地の南を囲む比企丘陵もその一つで、本遺跡はその支脈上に存在する。昭和50年発掘調査が実施され、遺跡の全面に3枚の生活面が確認された。最上位面は古墳時代の集落であり、中位面は縄文時代中期末葉、最下位面は縄文時代中期中葉に属する集落である。
古墳時代の遺構は堅穴住居跡の数や遺物の発見量も少なく小規模なものと考えられるが、縄文時代中期の集落跡は本遺跡の中心的な内容をもつ重要なものとして注目される。発掘調査範囲は遺跡の約6分の1に相当するが、縄文時代中期中葉の竪穴住居跡45が発見されており、全体ででは270以上の存在が予想されるところである。それらの住居跡は径約150mの環状に展開する典型的な集落形態を示すものであり、環状の内側には多数の土壙群が構築されている。この様に内側に土壙群をもつ集落跡は極めて例が少なく、内側が空地の広場をなす一般の集落跡に対して、より広範な地域圏内における中心的な性格を帯びた集落とも考えられ、当時の集落相互の関係ひいては縄文時代の社会を解明する上で重要である。
なお、中期末葉の柄鏡形敷石住居跡3及び配石遺構、埋甕などが集落の下限を示し、中期中葉以来長期に亘って集落が営まれたものであることがわかる。さらに、この間に製作使用された土器・石器類は種類も多く膨大な量に上っており、学術的価値の高いものである。(文化財データベース)
館町&浄泉寺城の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23769184/)
・・・山田町
八王子市南部の地名である。八王子市の南部の横山丘陵上に位置し、北部を山田川が流れ、京王高尾線が南北に分断している。元々は農村地であったが、1967年の京王高尾線開業以降、急速な住宅地化が進んでいる中、北部には東京都指定史跡の広園寺を始めとする寺院が建つ。(Wikipedia)
雲龍寺
雲龍寺は曹洞宗(禅宗)に属し、大本山は福井県永平寺町の永平寺と横浜市鶴見区の総持寺と二つあり、このお寺は正親町天皇より紫衣と勅賜禅師号を賜った勅賜佛國普照禅師が開山(天正8年、1580年5月15日)しました。本郷村の投込み寺といって無縁貧困者の無付届寺として建立。明治に至って廃寺同然のところを「36世足利正山」が再興し、昭和20年第二次世界大戦の空襲で全焼。37世足利正明が戦役から帰郷しただちに再建しました。災孤児らを寺でお世話をしながら福祉事業に貢献し後に社会福祉法人多摩養育園を設立。現在16施設を運営しています。昭和38年東京オリンピックに際し区画整理により八木町から現在の山田町へ移転しました。そして現在のような堂々たる伽藍を揃えた寺に発展しました。今後、旧建物の建て替えにより更に地域に貢献できる斎場を備えた多目的ホール等の建設を予定しています。雲龍寺の功績を残した「37世足利正明」は平成19年3月に92歳にてに遷化しました。 そして今の住職「38世足利正哲」が引き継ぎ現在に至ります。(雲龍寺HP)
安寧坂車地蔵尊
今から700年の昔、鎌倉時代に本郷村の村長(むらおさ)である寺があった。門前の坂道は秩父への鎌倉街道である。この坂は急坂で、転んで怪我をする人も少なからず地蔵尊がまつられてあった。ここでころんでも3年たてば全くなおるのでこの坂を村人は三年坂と云った。この地蔵尊に安産、子育てを祈り京の清水(きよみず)にならいこの坂を産寧坂と名付けられた。車地蔵尊は箱根宮下と現体とは兄弟と伝えられ、延享3年古い石像が朽ちたので村の有志たちが再建した。関東大震災で台座が折償し日米戦争で車だけ焼けた。車はもとの如く再建された。寺が昭和38年旧地よりここ山田町に移り地蔵尊もこの丘上に移った。 旧地八王子市八木町三年坂は甲州街道バイパスとなりこの地蔵尊の分身がまつられている。また、市の北郊多摩老人ホーム内にも分身がまつられており分身2体の新建願主は當寺37世正明戒珠和尚である。交通安全、安産、子育ての地蔵尊、願う者に功徳を与える慈悲力のある佛である。(案内板)
山田川
山田川は浅川の右支川で流路延長4.80km、流域面積5.0km2 の河川である。八王子市山田町付近に源を発し、JR 八王子駅南側市街地を貫流して同市北野町地先で浅川に合流する。以前は流域の大半が雑木林と農耕地であったが、全域が市街化区域であったため急速に宅地開発が行われ市街化が進んだ。上流部は自然河川のまま蛇行を繰り返しているが、中下流部では典型的な都市河川の様相を見せながら市街地を一気に流下する。(東京都)
広園寺は康応2年(1390)大江備中守師親が峻翁令山和尚を請じて開創したと伝えられますが、火災等により文献が焼失しているため明らかでありません。幾度かの火災や復興を経ましたが天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに際し兵火にかかり諸堂が焼失しました。江戸時代初期には幕府の庇護のもと、京都南禅寺派の禅宗寺院として発展し七堂伽藍が整備されます。今日多くの塔頭寺院等は失われているものの広園寺の伽藍配置は踏襲されています。元禄10年(1687)及び寛政4年(1792)の火災で荒廃しましたが、文化から天保年間にかけて現在の堂宇のほとんどが再建されました。丘陵を背にし、南面し総門・山門・仏殿が南北の一直線上にあり、中間東方に鐘楼があります。背後には石垣をもって一段高く本堂・庫裏・開山堂が東西に接続しています。江戸時代後期の建築物(総門・山門・仏殿・鐘楼が都有形文化財)を含む禅宗寺院様式の伽藍配置が良く残っています。(東京都教育委員会)
天保元年(1830)再建、桁行一間・梁間一間、一重で切妻造
三間一戸、二重門、入母屋造で室町時代から伝わる寺額を掛けている
文化8年(1811)再建、桁行三間・梁間三間、一重、寄棟造
広園寺
広園寺建造物群として総門・山門・仏殿・鐘楼(附銅鐘)の4棟が文化財に指定されています。総門は禅宗寺院では表門のことでその構造は四脚門、切妻造、桧皮葺型銅板葺。両袖塀各一間がついています。文政13年(1830)の再建で、細部の技法から江戸時代後期の特徴をよく現しています。山門の構造は三間二重門。入母屋造、上層桧皮葺型銅板葺、下層板葺型銅板葺で、細部の技法が仏殿と類似するので両者は同時代の再建と考えられます。仏殿は桁行三間、梁間三間、単層、寄棟造で、文化8年(1811)の再建、平成15年に全ての屋根を葺き替えています。鐘楼は桁行一間、梁間一間で、屋根一重、宝形造、桧皮葺型銅板葺で天保13年(1842)の再建です。附の銅鐘には応永4年(1397)及び応仁2(1468)の旧銘及び慶安2年(1649)の改鋳銘があり、鐘銘の末尾に「武州滝原住加藤甚右金吾吉重」とあります。現在に残る建造物群は寛政4年(1792)の放火による焼失後のものですべて江戸時代後期の再建です。(東京都教育委員会)
兜卒山同証院(どうしょういん)
応永8年(1401)9月の草創、本尊正観音を奉安し、開山南禅寺2世大源(正長元年・14281年0月16日示寂)で、当寺は広園寺の塔頭である。(八王子市史)
兜率山慶泉院
広園寺の塔頭の一つ。正長元年(1428)3月の創立、開基慶泉院殿賀翁大禅定門(永享2年・1431年8月8日卒)、開山は雲渓玄岫(永享9年・1437年8月18日示寂)である。本尊阿弥陀弥勒の両尊を奉安してある。(八王子市史)
永明院(ようめいいん)
山号金峰山、明応元年(1492)4月の創建、開山は不明であるがもと当寺は真言宗に属し、新横山村にあったのを後このところに移して広園寺塔頭とし、京都南禅寺から貴雙玄栄を請じて中興開山としたのである。玄栄は相州小田原の産で川和氏、元亀元年(1570)6月の示寂、開基は小田原の家人田中和泉守で今なおその子孫が由木村大沢に在住している。なお、当寺宝物として大鷹を画いた掛物一軸があり大久保長安の奉納と伝えられていたが現在は不明である。(八王子市史)
・・・小比企町(こびきまち)
八王子市の地名である。八王子市の南部の小比企丘陵上に位置し、南北を湯殿川とそれに平行する北野街道が分断し、北端を京王高尾線が通る。(Wikipedia)
大林寺(だいりんじ)/小比企町
曹洞宗。明応4年、小坂大林居士によって創建。慶安2年(1649)月州尊海禅師(後の永平寺31世)により禅宗寺院としての様式を整える。(八王子仏教会)
子安丘陵
南浅川と湯殿川の間に子安丘陵が舌出し、湯殿川以南の小比企丘陵の南部は多摩丘陵へと連なる。(Web八王子辞典
小比企稲荷神社
祭神:宇迦御魂命稲荷神社は建久元年(1190)に当地に鎮座されたと伝えられ、古文書によれば承応2年(1652)本殿再建、貞享3年(1686)に拝殿再建とある。寛政8年(1796)には神祇伯京都吉田家に願い出、神名帳に記載し神祇道管領式位社の称号を賜る。其の記念碑が今も鳥居の右側に残っている。今日見る社殿や彫刻は文政11年(1828)頃より計画され、弘化4年(1847)に完成したとある。此の間天保の大飢饉があり一時中止のやむなきに到り名主、村民、棟梁の苦痛ははかり知れぬものがあったと記してある。此の宮の建築に当たった棟梁は飛騨内匠と称し、其の後日光東照宮の工事に当たったと伝えられる。其して今残る古文書の中に神社完成祝に行った御神楽、余興として行った相撲大会の記録がある、其して延々明治初期までしばしば相撲大会が行われ、神楽殿の西側の広場は相撲場と云う名が今も残っている。時は流れて現在では万物生産、商売繁盛の神として庶民の間に崇拝されている。(境内稲荷神社略史)
小比企丘陵
七国峠から北方へ派出し東北にのびて片倉城跡まで達する丘陵。多摩丘陵の一支脈で湯殿川と兵衛川の分水稜をなす。稜線上を古道が通じ鎌倉街道の脇道という。現在八王子南部開発が進められている。(Web八王子辞典)
(赤:歩行ルート 茶:北野街道 橙:町田街道 紫:旧甲州街道 緑:浜街道・八王子通り大山道)
片倉&片倉城址の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23541239/)
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資料ファイル
歴史と文化の散歩道
「歴史と文化の散歩道」は都内に残されている歴史的・文化的資源を系統的に結ぶ散歩道です。都民の身近なレクリエーションの場や散策することを通じて東京の再発見とふるさと意識の高揚を図る目的で、昭和58年から平成7年にかけて整備された全23コース(計240.5km)があります。(東京都)
(赤:ルート 紫:旧甲州街道 橙:北野街道 青:山田川)
歴史と文化の散歩道-関東武士ゆかりの地散歩
関東武士ゆかりの地散歩は、真覚寺から片倉駅まで約6.1kmの道のりです。武蔵七党の活躍する中世から八王子城が落城する戦国時代末期まで、八王子は関東武士が割拠してしのぎを削った舞台でした。そのゆかりの地を巡ります。(案内板)
中世八王子の城跡と名刹平安後期、武蔵国を中心に鎌倉時代の向け社会をつくる原動力となった「武蔵七党」と呼ばれる武士団が起こった。八王子ではその中の最大規模を誇った横山党が活躍し、戦国時代には大石氏さらに北条氏照らの本拠地となった。山田川沿いの入り組んだ地形の中に臨済禅宗の古刹・広園寺、蛙合戦で有名な真覚寺が点在している。また片倉城址、八王子城址、滝山城址など地形を利用した中世城郭のあとに往時の武将・豪族たちの築いた城の姿をしのぶことができる。(案内板)
by Twalking | 2017-01-19 17:32 | 鎌倉街道(新規)