無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 歴史と文化の散歩道22『旧鎌倉街道散歩道』-02 府中   

日時 2017.1.21(土)
天気 晴れ

街道歩きのツアーやウオーキング大会で訪れる府中ですが、
時間的な制約やコース管理等それぞれ目的が違います。
今回は距離が短いので周辺の寺社もじっくり見て廻りました。

やはり国府の在った街ですね、古代・中世・江戸と時代の
重みが違うな~と、改めて感じます。
「いざ、鎌倉へ」の原点なので歩いてよかったと思います。



・・・分倍河原駅

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街道の風景① 分梅から府中本町へ向かうこの道も旧道、左折します/税務署角

高倉橋

ここに市川(府中用水)に架かる高倉橋がありました。橋の名は小字の「高倉」に由来します。分梅1丁目には帆立貝形の塚として知られる市内で最大規模の高倉塚があります。(標柱)

d0183387_23000695.jpg鎌倉街道
鎌倉街道の名はこの道が鎌倉へ通じることに由来します。この道は武蔵国府と相模国府を結ぶ官道だったともいわれています。光明寺坂から南へ道は大正末期に開通した新道です。(標柱・三小前)



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新田義貞公像/分倍河原駅        旧甲州街道を右折します


・・・府中宿

府中宿 
甲州街道の約7里半に位置する宿場町であり、国府や総社(大國魂神社)が存在する武蔵国の中心部であった。鎌倉街道と甲州街道(現在の旧甲州街道)が交わる交通の要所には高札場があり、非常に栄えた宿場であった。これら街道は豊臣秀吉が川越から、徳川家康は平塚から府中へ鷹狩に訪れる街道であり、後には東西の甲州街道が幹線となったため、特に甲州街道に沿って六所明神を中心に発展した宿場である。この宿場は府中三町「番場・本町・新宿(しんしゅく)」によって構成され、信州屋・近江屋・万屋・田中屋・鳶屋・松本屋・中屋・柏屋、六所宮・京所などが存在していた。1843年(天保14年)において、宿高は約3000石、人口は約3000人、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠29軒、銃帯人馬は2525頭であった。(Wikipedia

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府中宿ジオラマ(右手:高安寺)/府中市郷土の森博物館

d0183387_01051525.jpg番場宿
番場宿は現在の宮西2・45丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった宿場です。この宿場はもとの名を茂右衛門宿といいます。これはこの土地が名主・茂右衛門によって開発されたことによります。番場宿と称するようになったのは寛永13年(1636)のことといわれています。幕末の地誌・新編武蔵風土記稿には『家数103軒(甲州)街道の左右に篖を連ね』とあります。もともと番場宿はハケ沿いの甲州古街道筋にありましたが、新街道の設置(慶安年間=164852)に伴って移転したものです。地名の起こりは不明ですが、馬場の転訛とか番所があったからとの説があります。この地域には高安寺長福寺などの古刹があります。(石碑)


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高安寺

d0183387_12491187.jpg当山略縁起
当山は古、田原藤太秀郷公の館跡と云われ、その後市川山見性寺(宗派不明)が建立されたと伝えられる。しかし、後に足利尊氏公将軍となるや、この寺を改めて安国利生の祈願所として龍門山高安寺護国禅寺を再建した。これは尊氏公が全国(662島)に建立した安国寺の一つで、武蔵国のそれが当山である。当時は鎌倉建長寺末の臨済宗で、開山は大徹心悟禅師であった。時に暦応年間と伝えられる。その昔は大伽藍で塔頭10院、末寺も75院あり寺領も広く東は代田村、西は貝坂、南は向山、北は山口に及んだという。その後兵乱の間しばしば将軍家の陣所となり、小田原北条氏の庇護も受けたが暦年の兵乱を経て衰えて大刹の姿も失っていった。時に慶長年間、青梅の海祥寺第7世関州徳光禅師が当山を再興し、済派も改めて曹洞宗となり今日に至る。開基足利尊氏公の発願である安国利生の祈願所として毎朝朝課前に大般若経転読の祈祷を行っている。 本尊:釈迦牟尼如来(文殊。普賢の三尊仏)

d0183387_12541389.jpg弁慶硯の井
見性寺と呼ばれていた頃、義経は兄頼朝の怒りにふれ腰越まで来たが鎌倉入りは許されなかった。やむなく京都へ帰る途中、暫く見性寺に足どめし弁慶等と赦免祈願のため大般若経を写したという。その時裏山から清水を汲み取ったので弁慶硯の井の遺跡がある。


d0183387_12541781.jpg秀郷稲荷
田原藤太秀郷公を当山の鎮守としてう裏山に祀る(龍門山高安寺)


安国寺と利生塔

南北朝時代に足利尊氏・芳直兄弟が北海道・沖縄を除く日本各地に設けた寺院と仏塔。臨済宗の夢窓疎石の勧めにより後醍醐天皇以下の戦没者の菩提を弔うため、聖武天皇が国ごとに国分寺を建立したように国ごとに11塔を建てる計画を立てた。1345(興国6年・貞和元年)に北朝光厳院の院旨を得て寺を安国、塔の名を利生と称した。1338年(延元3年・暦応元年)に和泉・久米田寺を始めとし以後、南北朝時代中期にはほとんど完成した。安国寺と利生塔は新しく造営されたものもあるが、既存の寺院を修理してこれにあてた国もある。安国寺による禅宗(特に臨済宗)の地方への波及、また利生塔による禅宗以外の宗派の統制など文化的、政治的意義が大きかった。しかし室町幕府の没落と共に安国寺と利生塔も衰退した。Wikipedia

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山門
本堂の東方に位置する規模の大きい二重門である。木造(柱・梁等の構造材はすべて欅)二階建てで屋根は入母屋造銅板葺、柱はすべて円柱である。初層の左右からも出入りできる点に特徴がある。

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高安寺観音堂

高安寺の観音堂はもとは寺の西、観音橋付近にありましたが江戸時代初期の大水に流され、享保年間(171636)に現在地に再建されたと伝えられます。この観音堂は桁行3間、梁間3間の入母屋造りで、多摩地区においては数少ない江戸中期の三間堂です。また垂木や組物そして格天井の彩色絵様など建築史的にみても18世紀前半の特色を伝える貴重な堂宇です。(府中市教育委員会)


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長福寺山門

d0183387_13112351.jpg時宗古木山諏訪院長福寺沿革

当山は花光坊長辡の案杪によれば、後堀河天皇の寛喜2年(1230)天台宗として創建され、初めは勝福寺(勝宝寺)と称し鎌倉街道に接し東向きであり、当時は東西150間、南北100余間総域実に15000坪もあり、山号の通り老欅、老杉等が鬱蒼として生い茂っていたものと思われる。現存する寺蔵の最古の過去帳によれば、正応年間(128892)に遊行二祖真教上人留錫に縁由して時宗遊行派に改列、国府道場と明記されている。鎌倉時代の嘉元2年(1304)以降室町時代に至る。中世の乱世に建立された多数の板碑が現存し、今日尚寺域より発掘されている事を考えると中世には念仏道場としてかなり隆盛であったと偲ばれる。現本堂は昭和40年に完成したものである。(府中市観光協会)


d0183387_13165298.jpg神戸(ごうど)
神戸は現在の宮西町2丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった宿場の一部です。この集落は番場宿に属しており、幕末の地誌・新編武蔵風土記稿には『番場宿』の小名としてその名がみえます。神戸はもともと一つの区域でしたが、甲州街道の創設(慶安の頃=164852)によって南北に分かれたといわれています。神戸は郡家の意味で「ゴウト」と転訛して「ゴウド」となり神戸の字があてられたようです。もともと神戸はカンベあるいはコウベと読み、神社に属して租税を納入した民家のことです。ここには甲州街道に沿って老舗が多くあります。(石碑)


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称名寺山門

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時宗称名寺/宮西町
無住起立天慶三年。有信起立寛元三年。開山道阿上人一光大和尚は都三井寺の法師にして法然上人の法門に入り、後関東に下り寛元三年此道場に留り昼夜出難の大道を勧め又此道場を改め諸法山相羡院称名寺と号す。寛元四年八月鎌倉より恵信僧都の御作三尊の阿弥陀如来を安置して祀る。伝うるところによれば当山は六孫王経基が武蔵介であったときの館跡という。現在の本堂は中興五十七世深蓮社入誉上人其阿信老和尚が自ら蚕を飼い基金を作り明治初年に建立された向拝は昭和三十八年新築。境内の地蔵堂は日限子地蔵尊をまつり、近隣の信仰が非常に厚い当山五十世廓蓮社忍誉上人他阿万的大和尚が念持仏として木造の地蔵尊二体をつくりそれを石地蔵の台座の中にお納めしてある。昭和四十年五月八日現在のコンクリートづくりの御堂に改築した。(府中市観光協会)

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江戸名所図会 府中 称名寺・弥勒寺・善明寺・高安寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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街道の風景② 旧甲州開度の街並、この先で府中街道と交差します/市役所前(札の辻)

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御旅所・高札場跡           中久本店


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ゴールの大国魂神社/大国魂神社前

大國魂神社
社殿によれば、景行天皇4155日、武蔵国の護り神として大國魂神を祀ったのが始まりとされています。大化の改新以後、この地に武蔵国の「国府」が置かれて以来「国司」が祭祀を執り行っていましたが、平安時代に各護神を合祀する「総社」と呼ばれるものが置かれ、武蔵国では大國魂神社がその
総社となり、さらに平安末期には著名な六か所の神社を合祀して「武蔵六所宮」と呼ばれるようになりました。明治4年に武蔵総社大國魂神社と改称し現在に至っています。毎年5月の例大祭・くらやみ祭では70万人の観光客で賑わいます。(ウオーキングコース見どころ)

d0183387_14305570.jpgくらやみ祭
毎年55日を中心に行われる大國魂神社の例大祭は別名「くらやみ祭」と呼ばれ、その起源は古代の国府祭までさかのぼるといわれる。府中は武蔵国の国府が置かれた場所で、当時国府では年に一度国中の主な神社の神職が集まり、国土の安音穏と五穀豊穣を祈る祭礼が行われていた。この国府祭に時代と共に様々な要素が加わりまた削られ、江戸時代にはほぼ現在の姿になったものと思われる。江戸時代の記録に依れば、祭の夜当時この近在で最も賑やかであった「府中宿」の火灯をすべて消し、その闇の中を8基の神輿が静かに進んだという。これに対し翌朝太鼓を合図にすげての提灯や灯ろうに火がともると、勇ましく「エイサエイサ」とかけ声を響かせながら神社へと戻ったそうである。おそらくこの明暗の鮮やかなコンストラクトが人々の脳裏に「くらやみ」の印象を強く焼き付けいつのまにか「くらやみ祭」の名が生じたものと思われる。社会の変化と共に「くらやみ祭」での神輿渡御は昭和34年で中止となり、昼間の祭りへと移行したが勇壮で熱気に満ちたこの祭りはなお人々の心を引きつけてやまない。(大國魂神社参道入口案内板)

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江戸名所図会 六所宮祭礼之図 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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国史跡武蔵国府跡
大化の改新によって武蔵国(現在の埼玉県、東京都・神奈川県の一部)が置かれ、その政治の中心地「国府」は現在の府中市に置かれました。30年余りに及ぶ発掘調査の結果、国府の政務機関『国衙』の跡が
大國魂神社の境内およびその東側一帯に存在していたことが確実となり、さらにその中枢施設『国庁』とみられる大型建物跡が発見されました。この建物跡は最重要施設として史跡に指定されています。(ウオーキングコース見どころ)

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展示資料

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d0183387_15205996.jpg京所(きょうづ)
京所は現在の宮町二丁目の一部・三丁目(京所道沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は六所宮(大国魂神社)の社領八幡宿に属しており、『新編武蔵風土記稿』(幕末の地誌)には「六所社領」の小名としてその名が見えます。地名の起こりは経所(きょうじょ)が転訛したものといわれており、ここに国府の写経所のような施設があった名残だと伝えられています。延宝6年(1678)の六所明神領の地検帳には「きょう女」の字があてられています。京所のように「京」のつく地名は、国府の所在地には多くあります。この地域からは数多くの掘立柱建物跡が検出されており武蔵国の国府(国衙)跡として有力なところです。(案内板)


d0183387_15211694.jpg細馬(ほそば)
細馬の名はこの道が朝廷への貢進する良馬(細馬)
試走させた馬場だったことに由来します。「延喜式」によれば武蔵国は50の馬を貢進することが定められていたようです。(標柱)



d0183387_15210506.jpg京所道(きょうづみち)
京所道の名はこの道が京所の中心を通ることに由来します。その道は甲州街道が開設(慶安頃・164852)されるまで
初期の甲州への道として重要な役割を果たした道です。(標柱)


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武蔵国府のマチ復元模型/府中市郷土の森博物館

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府中広域マップ
(赤:歴史と文化の散歩道 緑:旧鎌倉街道 紫:旧甲州街道 茶:府中街道 赤丸:高安寺・大国魂神社・国衙跡等)



・・・資料ファイル


d0183387_15540851.jpg本町

本町(本町)の集落は現在の本町12丁目の一部(府中街道、鎌倉街道沿い)と西宮町2丁目の一部(府中街道沿い)に中心があった宿場です。この宿場は府中宿の一番古い宿です。国府が栄えていた頃より府中はこの地域を中心に発展しています。江戸時代には府中宿の本陣もここに置かれています。幕府の地誌には「甲州街道より南にをれり 横道なり 民家東西に並居れり 或いは南分陪に散在するもあり 凡183軒」(新編武蔵風土記稿)とあります。地名の起こりは古くこの地に六と九の六斎市がたち、交易が盛んに行われるなどこの地域の中心としてまちが形成されたことによるようです。この地は妙光寺称名寺善明寺などの古刹があります。(石碑)

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街道の風景③府中崖線を下る御殿坂/安養寺前(府中街道)

御殿坂

この坂は府中街道の一部を成しています。坂の名は徳川将軍家の「府中御殿」に由来します。府中御殿は徳川家康が天正18年(159081日に江戸入城ののち、鷹狩や鮎漁などで府中へ来た時に宿泊する所として現在の本町1丁目14番地に建てられたものです。この府中御殿は正保3年(1646)の府中大火で焼失しています。その後再建されることはありませんでしたが、地名「御殿下」や坂名として残っています。(府中市)

d0183387_16154267.jpg府中御殿/府中本町駅前
武蔵国甲州街道府中宿に所在、1590年建、1646年焼失。府中市本町にある「御殿山」と呼ばれる富士山が見える景勝地の御殿で、発掘されたのは1646年に焼失したもの。徳川家康・経秀忠・家光が鷹狩・鮎漁をした際に休憩や宿泊をしたという御殿跡を発掘し、御殿跡は国の史跡に追加指定した。茶屋としても使用されたもので水を汲む御殿坂を通り多摩川へ至る道は現在でも「御茶屋街道」と呼ばれている。
Wikipedia

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善明寺山門/本町


d0183387_16203915.jpg善明寺

天台宗。正しくは、悲願山善明寺。建長5(1253)国分寺黒鉄谷戸の刀鍛冶、藤原助近作の「大鉄仏阿弥陀如来坐像」及びその胎内仏とされる「小鉄仏阿弥陀如来立像」が寺宝として安置されています。共に国指定の重要文化財です。墓地には依田伊織や勤王の志士西園寺実満が眠っています。(府中市観光協会)


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妙光院山門/本町
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仁王門

d0183387_17020484.jpg妙光院
当山は本覚山眞如寺妙光院と号し、本尊は延命地蔵菩薩を安置する、創設は今より1100年前定観年で、開山は第51代平城天皇の第3皇子眞如法親王と伝えられる。総本山長谷寺の直末で、嘗ては御朱印15石が給せられ末寺28ヶ寺を有していた。眞如法親王の弟子慈済僧正が第二始祖である。その後兵火を被り寺塔は一時荒廃したが、永享11年宥源上人が出てこれを復興し中興の祖となった、八王子城主北条氏照や徳川家康などの帰依も厚かったという。明治15年火災のため仁王門を除くすべてが烏有(うゆう・灰塵)に帰し、同年位牌堂、庫裡は再建したが本堂は昭和422月ようやく完成を見るに至った。度々の兵火のため寺宝はみるべきものも少なく、南北朝時代の金銅蓮華形磐と八王子城主北条氏照の書簡2通を残すのみである。(府中市観光協会)


d0183387_17102940.jpg地獄坂

この坂の由来は明らかではありませんが、昔この坂道を繁茂した竹や草木がおおいかぶさり、また周囲の木立などが鬱蒼として薄暗く、それはあたかも通行する人の心に地獄への道のようなイメージを与えていたのかも知れません。別名を「暗闇坂」ともいいますが、この名前は坂道の薄暗い状態から由来していると思われます。坂の西側に叢林(そうりん)は55日の暗闇祭で有名な武蔵総社大國魂神社の杜です。(府中市)

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金比羅堂


d0183387_17131823.jpg金比羅坂

この坂の名称は妙光寺の境外仏堂である金比羅堂に由来するといわれます。坂は明治末期ごろにハケ下から往来のためにつくられてものだといわれています。坂名になっている金比羅堂は妙光寺の鎮守堂です。仏堂は古くからまつられていますが、今のお堂は文化3年(1816)に改築されたものといわれます。妙光寺は真言宗の名刹で、戦国時代に八王子城主の北条氏照も帰依しており、徳川家康から寺領15石を寄進されています。(府中市)


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安養寺山門/本町

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境内


d0183387_17592203.jpg叡光山佛乗院安養寺
当山は貞観元年(859)慈覚大師により開山されました。その後、中興開祖尊海僧正が勅命により永仁4(1296)に再興し、明治維新前は武蔵総社大國魂神社の別当寺(神社の事務一切を司るところ)14ヶ寺の末寺がありました。寺格は徳川家康公より15石の朱印境内除地(免税)を賜り、徳川幕府代々当山住職が江戸城賀正登城の折りには色衣を着用し、また乗輿独礼をもって例としました。明治16年には世良田長楽寺の末寺を離れ延暦寺の直轄寺となり中興より今日に至るまで38世と続いております。平成10年に改修工事成りました本堂は幣串の記載から寛政元年(1789)に再建されたものであることがわかります。明治初年頃まで寺子屋としても使用され、また明治86月には当寺を仮校舎として府中学校が成立、庶民への教育普及の役割も担っておりました。本堂中央には本尊秘仏弥陀三尊、御前立の阿弥陀如来等が安置されております。左脇間には元三慈恵大師御影並びに不動明王等を、右脇間には昆沙門天・吉祥天・善膩師童子をお祀りしております。

d0183387_18004074.jpg観音堂は当山第33世修多羅亮延大僧正の代に副住職(34)関口簡永和尚との協力で明治44年に建立されました。中央には浅草寺御分体の聖観世音菩薩、左右に不動明王・荼枳尼天を安置いたしております。多摩川33観音の第5番札所にもなっております。

d0183387_17591547.jpg山門は高麗門様式で棟札から天保4(1833)に再建されたことがわかり平成元年の解体復元工事により現在の姿になりました。また、当山には狸にまつわる伝説があり府中市教育委員会より『たぬきのお坊さん』という絵本が出版されております。(天台宗東京教区)






by Twalking | 2017-01-27 08:47 | たまのさんぽ道(新規)

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