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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺   

日時 2017.1.28(土)
天気 晴れ 


鎌倉街道を府中から北上してみました。
ここは「東山道武蔵路」と「武蔵国分寺」は外せません。
「歴史と文化の散歩道」もあるので適度にルートをアレンジ。

『連絡路』と『武蔵路』を意識しながら国分寺史跡へ、
展示資料館を見学して伝鎌倉道から武蔵路の遺跡を廻り
恋ヶ窪から鎌倉街道を北に向かって歩きました。



・・・馬場大門(府中市)


馬場大門はけやき並木通り(国分寺街道)のけやき並木北交点(都立農業高校前)から大国魂神社前交点の間全長約600mの古称である。本道の「馬場中道(大門)」と側道の「東馬場」「西馬場」から構成され、本道の馬場中道両側には並木が存在する。馬場の名前が示すとおり安政年間ごろまで東馬場、西馬場で馬市が立っていた。馬場大門の北端には六所宮の一の鳥居が、南端には二の鳥居(現代の大鳥居)が存在し「馬場中道」は六所宮の参道として機能した
。(Wikipedia

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街道の風景① 起点は大国魂神社の一の鳥居になります/ケヤキ通り



歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_12104194.jpg『国府・国分寺散歩』
国府・国分寺散歩は府中駅から国分寺駅までの6.1kmの道のりです。東国の要衝であり武蔵国の国府があった府中から広大な寺域とともに諸国有数の威容を誇った武蔵国分寺跡をめぐる散歩道です。

歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_12261888.jpg武蔵の国府

府中の名のおこりは遠く大化の改新(645)に武蔵国の国府が置かれた事に由来し、古代・中世・近世を通じて政治・経済・文化の中心地として栄えたところである。武蔵国は現在の東京都と埼玉県のほぼ全域、神奈川県の一部を行政範囲とする大国であった。東国の要衝として最上位に位置付けられ、歴代の国司には藤原雄田磨呂、平賀義信、足利尊氏などが任命された。国府庁舎の位置ははっきりしないが、大國魂神社の付近に置かれていたようである。この大國魂神社は武蔵国府の斎場となり武士や庶民の信仰を集めた。また「馬場大門」(ケヤキ並木)は源頼義・義家親子が奉植した。その後徳川家康が馬場を献納しケヤキ並木を補植したものといわれる。(説明板)


歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_12591368.jpg万葉歌碑
「歌碑に寄せて」
この歌は万葉集巻14東歌の武蔵国の一首です。武蔵の国は東京、埼玉、 神奈川にわたる大国でありその国府が府中にありました。訓読では次のようになります。『武蔵野の 草は諸向き かもかくも 君がまにまに 吾は寄りにしを』(草が風に靡くよう私は貴方にひたすら心を寄せたのに)とい意味の歌で自然と共に生きた女心を歌った ものです。碑文は万葉集古写本中、全巻を完備している西本願寺に拠りました。(府中市)


歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_13004846.jpgケヤキ並木馬場寄進の碑

馬場大門のケヤキ並木両側の歩道部はかつて馬場であり「馬場大門」の名称はこれに由来します。馬場は慶長年間(15961615)に徳川家康が六所宮(大國魂神社)に寄進したものと伝えられます。この碑は由緒ある馬場を長く後世に伝えるために建てられたもので、花崗岩の石に「従是一之鳥居迄五町余 左右慶長年中御寄附之馬場」と刻まれています。石碑がいつ誰の手によって建てられてかは不明ですが、江戸時代の地誌「武蔵名勝図会」に図入りで紹介されており、その頃には有名であったことが知られている。(府中市教育委員会)

歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_13022774.jpg馬場大門欅並木と八幡太郎義家銅像

馬場大門ケヤキ並木は大国魂神社の参道であり、江戸時代には並木北端(都立農業高校付近、ケヤキ並木南端から550m余北)に大国魂神社の木製の一之鳥居が建立されていました。現在では昭和26年に寄進された大鳥居(二之鳥居)が境内に建立されています。ケヤキ並木の起源は源頼義・義家父子が奥州・安倍氏反乱(「前九年の役」と呼ばれ、永承6[1051]から康平5[1062]までの乱)の平定の途中、大国魂神社に戦勝を祈願し、平定後も参拝してケヤキの苗千本を奉植したのが始まりと伝えられています。現在のケヤキ並木は天正18(1590)に徳川家康が江戸に入り、慶長年中(1596年~1615)に二筋の馬場を寄進し、両側に土手を築いてその上にケヤキの苗を植えたのが始まりです。その後、寛文7(1667)に老中久世大和守が府中宿の大火(正保3[1646])で消失した六所宮(大国魂神社)の再興とともにケヤキ並木の補植を行っています。なお、徳川家康によるケヤキ並木馬場の寄進は府中で伝統ある馬市が開かれていたことにもよります。とくに、府中の馬市は戦国時代から江戸時代初期にかけて、関東でも有数の軍馬の供給地であり、馬市は53日の「駒くらべ」の日から始まり、9月晦日まで5ヶ月にわたって開催されました。ケヤキ並木は大正13年、国の2番目の天然記念物に地域指定されています。毎年5月の例大祭(くらやみ祭)では、3日にケヤキ並木で夕方からの囃子の競演、競馬式(駒くらべ)が執り行われています。

歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_12585066.jpg天然記念物馬場大門ケヤキ並木石垣完成記念
馬場大門けやき並木は940有余年前、源頼義公・義家公父子が奥州平定の「前九年の役」の途次、大國魂神社に戦勝を祈願し、同役平定後の康平5年(1062)勝利の報賽として神社にけやきの苗木千本を寄進したことにはじまる。その後、徳川家康公により補植されて現在の姿になったが、この場所にあった周囲9mに及んだ大けやきは頼義公・義家公父子が奉植されたものと伝えられ、ご神木として氏子から敬愛されていた大けやきであった。その大けやきも度々の暴風雨と近くは昭和24年のキティ台風によって幹や大枝が折れ、その後残った幹の空洞内の出火で枯死してしまった。義家公は清和源氏に発する河内源氏の嫡流として7歳の時、岩清水八幡宮で元服よって八幡太郎と号したが、前九年の役・後三年の役で卓抜した武勇をあらわした公の代に源氏の武威の最盛期を迎えた。このような大国、武蔵の国の国府であった府中、大國魂神社、けやき並木と源義家公の史実を後世に伝えるため当時の若さあふれる公の像をこの地に建立するものである。(説明板)

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江戸名所図会 府中 六所宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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街道の風景② 連絡路はこの先農工大辺りから北西へ向っていたようです/国分寺街道

歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_13550192.jpg欅並木

東京農工大学農学部正門からの欅並木と時計台は府中30景に選ばれています。この欅並木は昭和11年(1936)に樹高45mのものが植栽されました。左右一対になっており、国分寺街道西側の本部地区まで続いていますが、1ヶ所だけ切られております。本学の徽章(きしょう)は欅の葉に大学の文字を配しており、欅は「涼しい木陰を吹き抜ける風に乗って大空に羽ばたくような自由をイメージさせ、大空に力強く伸び輝ける未来を示唆している」「防風役目をして世の中の役に立つ」などの意味があると言われております。また欅は府中市の木にも選定されています。(説明板)

歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_13550600.jpg農学部本館

農学部本館は東京大学総長を務めた安田講堂などの建築で知られる内田祥三氏が手がけました。駒場にあった東京帝国大学農学部実科が独立し、東京高等農林学校となって此の地に移転してきた昭和9年(1934)に竣工しました。平成2年に国登録有形文化財に登録されました。総面積は28962であり、背後に講堂等の施設を張り出させたE字型の左右対称となっています。時計台は4面に設けられ、どこからでも時間を確認できます。また扉上部のファンライトにはアールデコ風の金属の装飾が取り付けられ、装飾のアクセントになっています。(説明板)



・・・武蔵国分寺参道口跡(国分寺市)

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ここが参道口跡、僧寺(右)と尼寺(左)への分岐です/万作の木公園(西元町)

歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_14122876.pngこの場所では都営住宅の建替え工事に伴い「武蔵国分寺史跡関連遺跡」の調査が行われました。調査面積は28782で、平成112月~6月まで発掘調査が行われました。見つかった遺構は縄文時代草創期(約12000年前)の竪穴建物1棟、縄文時代中期(約5000年前)の集石土坑(石焼き調理の跡)6基、奈良・平安(約1300800年前)のY字状に分岐した道路跡及び門柱状遺構3基土坑12基でした。なかでも道路遺構と門柱遺構は武蔵国分寺の参道口を示す発見となりました。


歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_14095373.png参道口とは
参道口跡とは二方向に分岐した道路跡とその分岐に建てられた門柱状遺構(道路の両側に対峙して建てられた2本一組の柱跡)で構成されます。この二方向道路のうち北へ向かう道路(A)は現在地より約500m北側に存在した武蔵国分僧寺の中門に向って真つ直ぐに延びていることから、武蔵国分僧寺お参道として使われていといえます。もう一方の北西え延びる道路跡は古代官道である東山道武蔵路か国分尼寺へ向ってると考えられます。この分岐点に建てられた門柱状遺構は道路A(参道)側に造られているため武蔵国分僧寺の入口を示す標識の役割を果たしていたといえます。

歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_14304160.png国府と国分寺の連絡路

武蔵国の国府は武蔵国分寺から南へ約2km離れた台地上を中心に広がっていました。官道(今の国道)であった東山道武蔵路は国府の西側を南北方向に通り、武蔵国分僧寺と国分尼寺の間を抜けて国府と国分寺間をつなぐ道路としても使われていたと想定されます。その後の発掘調査で、当地で発見された斜行状道路遺構は東山道武蔵路、国分尼寺から北方に延びる南北道路跡と現在の東京農工大敷地内で合流する可能性が高まってきました。国府と国分寺を直接むすぶ道筋の存在は全国的にも例がなく、大変貴重な発見といえます。(説明板)



・・・武蔵国分寺跡

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僧寺伽藍中枢部

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歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_21045032.jpg武蔵国分寺跡(僧寺伽藍中枢部)
奈良時代の中頃の天平13年(741)聖武天皇は仏教の力で国を安定させるため諸国に国分寺の建立を命じました。武蔵国では湧水が豊富な国分寺崖線を背にして、都と国府を結ぶ駅路(東山道武蔵路)の東側に僧寺、西側に尼寺を配しました。武蔵国は多摩郡をはじめ21郡からなり国分寺造営にあたって武蔵国の人々の力を結集されましたが、完成した年代は土器や瓦、漆紙文書等の出土資料から天平年間(75765)頃と考えられます。僧寺は中枢部、伽藍地、寺院地の三重に区画される構造で、現在中枢部に位置します。中枢部には北から順に経典などを講読する講堂、本尊を安置していた金堂、入口にあたる中門が主軸を揃えて一直線に並び、その両側には梵鐘を吊った鐘楼と経典を収蔵した経蔵、僧侶が起居する東僧坊、西僧坊などがありました。これらの建物は塀と溝によって囲まれ、その規模は東西で約156m、南北では約132mを測ります。また塀の構造は堀立柱塀から築地塀へ変わったことも明らかになっています。中枢部の外側には中門から南へ約60m離れて南門、東へ約200mの地点に七重塔がそびえ、これらの堂塔は溝によって周囲とは堅穴住居や堀立建物がり寺院を支えていた集落は広域に及んでいたことがわかっています。(国分寺市教育委員会)

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歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_00113951.jpg七重塔跡

「国分寺造営」の詔「造塔の寺は国の華たり」と象徴的に記されている塔は「金字金光明最勝王経」を安置する国分寺の重要な施設でした。この塔は「続日本後記」によって承知2年(835)に雷火で焼失し、10年後に男衾郡(おぶすま・埼玉県比企郡)の前大領(さきのだいりょう・郡の長官)の壬生吉志福正(みぶのきしふくしょう)がその再建を願い出たことが知られています。昭和39年の発掘調査の結果、塔基壇も修復されていることや礎石の下に瓦片を大量に詰め込んでいることなどが明らかになり、このことが証明されました。塔の再建にあたって北方建物の新築、講堂の増築、寺内附属諸院の整備なども併せて行ってようで、創設以来の本格的な造営事業に発展したと推察されます。(国分寺市教育委員会)


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国分尼寺跡/市立歴史公園


歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_22071964.png国分尼寺跡
西元町四丁目のJR武蔵野線西側に武蔵国分尼寺跡が広がっており、国指定史跡武蔵国分寺跡に一括して指定されています。史跡指定地は公有地化と整備事業を終え、国分寺市最初の市立歴史公園として平成154月に開園しました。確認調査の成果に基づき尼寺伽藍の中枢部を構成する中門・金堂・尼坊など主要建物や区画施設である掘立柱塀を、埋没保存されているその位置で建物平面などを復元的に表示しています。

歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_22142711.png尼坊は柱位置が判明しましたので新たに石を配置してあります。このほか、中門と金堂の間で発見された幢竿遺構(儀式などの際、周囲を荘厳するための旗などを掲げる柱跡)を表示しています。また、金堂では版築という大陸伝来の工法で、周囲より一段と高く築かれた基壇の土層断面標本を観察できる施設があります。尼坊の北側一帯の平坦部には尼寺関連の遺構群が埋没していると考えられますが、保存したまま広場としてご利用いただいています。さらに北側の崖線には伝鎌倉街道の切通しが貫通しその西側に中世の伝祥応寺跡、東側に塚跡があります。(国分寺市)



・・・武蔵国分寺


史跡指定地内には鎌倉時代末期の分倍河原の合戦の兵火で旧武蔵国分寺が焼失した後に、新田義貞の寄進によって再建された武蔵国分寺(真言宗豊山派)も所在している。

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国分寺

歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_22404930.jpg国分寺楼門

建物は間口3間(約6.2m)奥行2間(約3.7m)の楼門造り、板金葺で江戸時代の建築様式をよく留めています。この門は米津出羽守田盛(通称内蔵助)の元菩提寺として建立された米津寺(東久留米市)の楼門を明治48年に移築したのです。国分寺境内の諸建物とともに国分寺の変遷を知る上で重要な建物です。
粟津出羽守:出身地は三河国碧海郡米津村で出羽守田盛の時に久留米村前沢を知行地とする。石高は15000石、大阪定番を勤める。(国分寺市教育委員会)


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国分寺仁王門

この門は宝暦年間(175163)に建立された入母屋造の八脚門で、間口が9m、奥行が3.6mあります。使用されている建築材は『新編武蔵風土記稿』の仁王門の条に「此の門近世までの薬師堂なりしを再興の時きりちぢめて仁王門になせり」とあるように、建武2年(1335)に建立された旧薬師堂(江戸時代初め頃の「国分寺村古絵図」によると僧寺の金堂跡付近にあった)に使用されていたものを再利用したと伝えられていますが、杉材の柱などに残る組立て用の穴の彫り方からこのことがうかがえます。この門の左右には阿(口を開いている)・吽(口を閉じている)二体の仁王像(高さ2.5m)が安置されていますが、享保3年(1718)に造立されたもので作者は不明です。(国分寺市教育委員会)

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国分寺薬師堂

木造薬師如来坐像及び国分寺薬師堂
薬師堂に安置されている木造薬師如来坐像は平安時代末期あるいは鎌倉時代初期の制作と考えられ、作者は不明です。寄木造りの漆箔仕上げで像高は約191.5cmあります。蓮華座に坐し印相は右手が施無畏印、左手に薬壺(やつこ)を持っています。薬師如来は日光、月光の両菩薩を脇侍(わきじ)とし、眷族として12神将を従えていますが、当国分寺の12神将は頭の墨書から元禄2年(1689)の作であることもわかっています。薬師堂は建武2年(1335)に新田義貞の寄進により国分僧寺の金堂跡付近に建立されたと伝えられているもので、その後享保元年(1716)に修復されましたが宝暦年間(175163)に現在地で再建されたものです。堂内正面の長押(なげし)には明和元年(1764)奉献された深見玄岱(げんたい)の筆になる「金光明四天王護国元寺」の寺額が掲げられていますが、この寺額は東大寺西大門の勅額を模したものです。(国分寺市教育委員会)

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江戸名所図会 国分寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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武蔵国分寺史跡全体図
(黄:東山道武蔵路 緑:伝鎌倉街道 茶:府中街道・国分寺街道)


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本村八幡神社

歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_23443810.jpg土師堅穴住居跡

昭和31年日本考古学協会仏教遺跡調査特別委員会によって初めて武蔵国分寺跡の本格的調査が行われました。この時僧寺の金堂、講堂跡とともに薬師堂の西側でも調査が行われ僧寺の寺域を境とする北辺、西辺の両遺跡と寺域の内外に同時代に堅穴住居跡が4棟発見されました。この中で寺域内より発見された2号堅穴住居跡を史蹟指定したものです。子の住居跡は規模が4m×4.2mのほぼ方形をしており、煮炊きを行った竈が北壁に2ヶ所、東壁に1ヶ所設けられていました。住居内部から完形の土器8点、完形の搏(せん)1点など多数の造物が出土しています。名称の「土師」は当時一般的に使用されていた土器の「土師器を使用していた時代という意味です。(国分寺市教育委員会)

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歴史と文化の散歩道は「お鷹の道」を国分寺駅へ向かいます/史跡の駅おたカフェ

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お鷹の道案内図(赤:歩行ルート 橙:お鷹の道) 

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歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』案内図
(赤:歩行ルート 橙:国府・国分寺散歩道 黄:東山道武蔵路 緑:伝鎌倉街道 茶:府中街道・国分寺街道・小金井街道 青:野川)

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西国分寺辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)(紫:鎌倉道 黄:府中街道 青:野川)




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資料ファイル

国分寺市文化財資料展示室

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展示風景


歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_13360750.png市立四中校地内発見遺構全体図

市立四中校地は僧尼両寺の中間地にあって、昭和4852年までの4次にわたる発掘調査の結果、平安時代中頃~終末にかけての掘立柱建物跡40棟、堅穴住居跡89(鍛冶工房3軒を含む)、井戸跡など多数の遺構が発見されました。これらは道路上遺構によって区画された中に整然と配置され、その中に鍛冶工房を含むことから修理院(寺の営繕関係の施設)に想定する意見もあります。主な出土品としては緑彩花文皿、「寺」と朱印された瓦などがあります。(解説文)


歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_13425570.png国分寺瓦を焼いた窯跡

武蔵国分寺で使用された瓦は創建期及び塔再建用、さらに修理用を含めると100万枚ほどの膨大な量であったことが推測されます。これらの瓦を焼いた窯跡は丘陵の斜面にトンネルを掘って築かれる「地下式登窯」と呼ばれています。武蔵国分寺の瓦は武蔵国の4ヶ所で焼かれ、北から埼玉県の末野窯跡群、南比企窯跡群、東金子窯跡群、東京都の南多摩窯跡群として知られています。(解説文)









歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_13452827.png文字瓦のいろいろ武蔵国分寺跡からさまざまな文字入りの瓦が大量に出土しています。その内容は武蔵国の行政単位を表す「郡名瓦・郷名瓦」人名を記した「人名瓦」朱書きで「寺」と記して国分寺の瓦を示す瓦、瓦を焼いた工人たちの手によるものでしょうか馬や花を描いた「蔵画瓦」などがあります。特に「郡名瓦・郷名瓦」は文字瓦の中で最も多く出土しており、郡名瓦は武蔵21郡の中で天平宝字2年に設置された新羅郡を除く20郡が出土しています。郷名瓦は120郷中33郷が確認されています。(解説文)


歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_13572260.png伝祥応寺跡

本遺跡は尼寺伽藍の一部とする説もありましたが、近年の調査によって鎌倉時代末頃に建てられた寺跡と判明し、本多4丁目の祥応寺の前身にあたると考えられています。旧鎌倉街道と言われる切通しに東面して土塁(基底部幅3m、高さ1.2m以上)と溝とで東西30m、南北45mの長方形の区画が形づくられています。現存する大小15個の礎石の分布などから東西9m南北18m程の規模の堂がその中央にあり、瓦を用いない建物だったと推定されています。出土品としては鉄製風鐸、板碑、銭貨などがあります。(解説文)

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住田正一古瓦コレクション



歴史と文化の散歩道22『国府・国分寺散歩』 国分寺_d0183387_13321623.jpg文化財資料展示室

鍛冶工房跡が見つかった市立第四中学校内から出土した瓦、土師器、須恵器、灰釉陶器等の土器、鉄製品などを展示しています。そのほか、国分尼寺跡の整備事業の紹介や住田正一古瓦コレクションの一部、中世の板碑も展示しています。(国分寺市)


武蔵国分寺資料館&東山道武蔵路遺構の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21908236/


by Twalking | 2017-02-01 09:51 | たまのさんぽ道(新規)

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