無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道・上道(6)西国分寺~東村山02 東村山   

日時 2017・1.28(土)
天気 晴れ

小平や東村山は車で通る程度でよく知りません。
地図をみながら歩いていると玉川上水や野火止め用水、
多摩湖自転車道など歩いた記憶がよみがえります。

東村山は史跡や古刹など見所がたくさんあります。
ひとまず八国山の南麓一帯を散策してみましたが、
廻り切れないほど、次回に残りを見てみたいと思います。


・・・小平


武蔵野の西側に位置する。市域は底辺の長い台形の形をしており「小平」という地名のとおり起伏はあまりない。
律令制下では武蔵国多摩郡に属し、官道である東山道武蔵路が中世には鎌倉街道上道の道筋が南北に通過しているが、近世まで安定的定住は困難であったと考えられている。江戸時代には青梅街道が整備され小川宿が設置され、承応3年(1654)に開削された玉川上水から分水された用水路の整備を受けて新田開発が行われ諸村が形成され、一部は武蔵野新田に属する。また、延宝6年(1678年)には尾張徳川家鷹場が設置された。たかの街道やたかの台の地名はこれに由来する。Wikipedia

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街道の風景① 住宅地ですが北へ一直線の道「鎌倉街道」の標識が建ちます/小川東町(青梅街道)



d0183387_17152115.jpg鎌倉街道(小平市小川東町~津田町)

小川村が開発される前の小平はススキの生い茂る広漠たる原野でした。この原に天平の昔(730年頃)から府中の武蔵国府と前橋の上野国府を結ぶ1本の官道(東山道武蔵路)が通っていました。その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くとこの道は鎌倉街道と呼ばれるようになりました。小平市域での道程はわずか2kmに過ぎませんが、千数百年の歴史を有するこの道筋には「二つ塚」「石塔が窪」」「九道の辻」などの地名や史跡が残り、また場所は明らかではありませんが2ヶ所の「まいまいず井戸」があったと伝えられています。(小平市教育委員会)

d0183387_17551481.pngまいまいず井戸
かつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種である。地表面をすり鉢状に掘り下げてあり、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構造である。「まいまい」はカタツムリの事であり井戸の形がその殻に似ている事からそう呼ばれる。Wikipedia


d0183387_17394853.jpg青梅街道

1603(慶長8年)江戸城築城のために、青梅の成木村で採れる石灰を運搬する道路として、大久保長安の指揮の下に整備された。当時の名称は成木街道であった。しかし、江戸時代中頃には絵図や紀行文などに「青梅街道」の記述が見られる。内藤新宿で甲州街道から分かれ、青梅、大菩薩峠を経由し、甲府の東にある酒折村(現:甲府市酒折)で甲州街道と再び合流する。このため、「甲州裏街道」とも呼ばれていた。Wikipedia

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街道の風景② 府中街道にでて西武拝島線を潜ります/ブリジストン正門先(小川東町)

小川町

小川町の地名は江戸時代に小川一帯の開拓者の名に由来する。また、市の名称にもなった小平の由来ともなったとされている。小川(小)の開拓した平坦なの小と平らでこの地の特徴である平坦な地形(平)をあわせて小平とされた。Wikipedia

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街道の風景③ 昔の面影はありませんが道路が交錯する信号です/八坂交差点


d0183387_17542615.png九道の辻
ここ九道の辻は旧鎌倉街道のほぼ中間で鎌倉へ18里(72km)前橋へ18里(72km)の地点にあった。江戸道・引股道・宮寺道・秩父道・御窪道・清戸道・奥州街道・大山街道・鎌倉街道の本の道が、この地に分岐していたことから九道の辻という名がついたもので、この辻の付近は野火止用水が開通されるまで広漠たる原野の中にあったといわれる。明治以降の交通機関の発達にともなう道路の改変はこの辻にも例外なく、往時の九道の辻の姿は今は全く消え失せてしまった。(標柱)


d0183387_17514793.jpg迷いの桜(小平市小川東町2丁目)
昔、九道の辻の鎌倉街道の南角に季節には見事な花をつけ、往来の人の目を楽しませてくれつ1本の桜の木がありました。人々は「迷いの桜」また「九道の桜」の呼び名で親しまれていました。伝えられるところによると。元弘3年(13335新田義貞が鎌倉攻めの際にこの「九道の辻」にさしかかり、どれが鎌倉への道であるのか迷ったので1本を植えさせて道しるべとしたものとされています。桜はその後いくどか植え替えられてきましたが、昭和55年、後の世に「迷いの桜」んお名を伝えようと新たに苗木が植えられました。(小平市教育委員会)

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野火止め用水も交差しています/天王橋


d0183387_17553152.png野火止用水(小平市中島町~新座市野火止)

承応4年(1655)老中松平伊豆守信綱が玉川上水開削の功績により、玉川上水の水を自己の領地内に引く許可を得て開いたもので「伊豆殿堀」供いいます。市内中島町西端の取入れ口から水は九道の辻を通って野火止に至り、大和田、志木地方の稲田を潤し新河岸川の樋(いろは樋)を渡って宗岡村(現志木市)に達していました。この用水沿いには50数戸の農民が居住しているに過ぎませんでしたが、その後移り住むものが増加し明治初期には1500戸がこの用水を飲料水にしていたといわれます。(小平市教育委員会)



・・・東村山

市域は象の頭部を正面から見たような形をしている。武蔵野台地のほぼ中央、狭山丘陵の東縁に位置する。律令制下では武蔵国多摩郡に属し、奈良・平安時代の遺跡では完形の瓦塔(東京国立博物館所蔵)が出土した東村山市No.2遺跡のほか、平安時代の池状遺構も見られる。古代には官道である東山道武蔵路の道筋が南北に比定されている。平安後期には狭山丘陵に武蔵七党の村山党が進出し、一族は鎌倉幕府の御家人となった。鎌倉時代には鎌倉街道の上道が通り久米川宿を中心とする宿場として栄え、日蓮は佐渡島に流刑される際に当宿に宿泊している。鎌倉末期には武蔵野台地を舞台に新田義貞率いる倒幕軍と幕軍の間で一連の合戦が起こり、市域では久米川の戦いが起きている。また、幕府滅亡後に成立した建武の新政に対して北条残党が蜂起した中先代の乱における合戦も起こっている。戦国期には相模国の戦国大名である後北条氏の領国に含まれ、後北条領国では川越街道が整備されたため、相対的に鎌倉街道の重要性は薄れる。江戸時代は幕府直轄領となり武蔵野台地の開拓が進む。また、尾張徳川家の設置した鷹場にも含まれる。1889の町村制施行の際に北多摩郡野口村・廻田村・大岱村・久米川村・南秋津村が合併して東村山村となった。村名はこの一帯を村山郷といい、村域がその東部にあったことによるものである。Wikipedia

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街道の風景④ すぐ先が西武多摩湖線の八坂駅、「多摩湖自転車道」も通ります/八坂駅

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野口八坂神社鳥居

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野口八坂神社

祭神は素盞嗚命(牛頭天王)である。創立は別当正福寺の火災で記録が焼失し詳らかでないが正福寺の建立された弘安元年(1278)から間もないころか、または国宝正福寺千体地蔵堂の創建された応永14年(1407)の頃と考えられる。宝暦411月の野口村柄様子銘細書上帳に「村内鎮守牛頭天王 別当正福寺 五反七畝弐十弐歩御除地」とあり、また明治311月の神社書上帳には「社号 往古より天王宮と唱え来候処 明治2年奉願上八坂大神と改替仕候」とあって、同年八坂神社と改め村社に列せられる。武蔵名勝図絵多摩郡之部巻二武蔵野新田山口領村山郷には「天王神社山口領野口村 往古より奥州街道の辺りに鎮座 勧請の年月不知 社地松樹翁鬱生茂す 村内正福寺持なり。祭神素盞嗚命尊 之の神像なり神体手に斧を提持し立給銅像 是巨旦が賊を討滅し給う威霊の像なり。長7寸許 此れ霊像にて見る事を許さず 村内の鎮守なり。社地風5町歩 祭礼615日」とある。社殿は残っている棟札から天保3壬辰年に拝殿が改築され屋根は茅葺であった。明治42年屋根は亜鉛鉄板葺に替えられている。この頃の例大祭は715日で前日から神輿 大太鼓 屋台囃子等賑わいは遠く近郷の人々も詣で大きな楽しみとなっていた。昭和39年に拝殿幣殿とも改築されたが、平成元年(1989)現社殿が新築落成した。(石碑)

d0183387_23014387.jpg八坂神社(天王さま)の大獅子頭
この一対の大獅子頭は文久3年(1863)に櫻井富右エ門、鈴木勘左エ門、松田定右エ門、五十嵐喜兵衛によって奉納されました。八坂神社の祭神牛頭天王(通称「天王さま」素盞嗚命と同体とされる)は疫病除けの神として信仰されていますが、以前は疫病が流行るとこの大獅子頭をかぶって村内を巡ったそうです。祭礼の際などに魔除け厄除けを目的として大獅子頭を練り歩く風習は他の地域でも知られています。八坂神社では今では大獅子頭を練り歩くこともなく7月の祭礼の時だけ、本殿の回廊に奉安されることとなっています。(東村山市教育委員会)

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空堀川の野口橋を渡ります/府中街道

d0183387_23250408.jpg空堀川
荒川水系の柳瀬川支流、総延長は約15km。武蔵村山市本町の都立野山北公園域内の丘陵に源を発する。概ね東へ流れ東大和市高木で奈良橋川が合流する。そして清瀬市中里の小金井街道清瀬橋付近で柳瀬川に合流する。かつては渇水期に水がなくなる(そのことから空堀と呼ばれる)一方で大雨が降ると洪水が起きる「荒れ川」であった。Wikipedia

d0183387_23284074.jpg境塚/平和塔公園

武蔵の狭山丘陵の村々は近世中頃にかけて広い(まぐさ・馬のエサ)であったが、幕府は武蔵野原の新田開発をすすめた。延宝・元禄年間に入会地の開墾をめぐって幕藩領主と自立農民との対立も起こり、その後村々には「境界絵図」が築かれ、そのひとつといわれる。もと「大塚」「小塚(今はなし)」と呼ばれた頂上にはご覧のように平和の女神が建立(昭和36年)ている。

浅間塚
あちら側にある円墳状の塚で、頂上にはかつて浅間神社の石祠が祀ってあって、富士信仰による浅間塚と呼ばれている。西宿(現諏訪町12丁目)の講中の方々の信仰のものであったこの祠は、いま諏訪神社(諏訪町)境内に遷されている。(東村山市教育委員会)

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街道の風景⑤ 街道歩きはここ迄にして周辺を散策してみました/東村山駅入口

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東村山駅周辺マップ
(赤:散策コース 緑:鎌倉街道 茶:府中街道 青:北川・前川 黄:東村山・西武園駅)



・・・東村山散策

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街道の風景⑥ 旧道かなと思ったら「東山道武蔵路」の遺構、びっくりです/本町

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道祖神                東山道武蔵路遺構

東山道武蔵路跡

奈良時代の律令体制は全国を畿内と七道の行政区域に分け統治していました。東村山市がある地域は武蔵国と呼ばれ、東山道に属していました。また奈良の都から東山道の各国の国府に向う道も東山道と呼ばれていました。武蔵国府へ向かう道は現在の群馬県太田市付近で東山道本道から分岐し、これを本道の東山道と区別して「東山道武蔵路」と呼んでいます。東村山市内で平成12年の発掘調査により3ヶ所見つかりました。ここはそのうちの1ヶ所で、側溝を含む幅12mの道跡が発見されています。(東村山市)

・・・

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前川に架かる弁財橋          弁天池公園

野口町の由来

7世紀半ばから8世紀に府中に国府がおかれていました。上野国と国府を結ぶ官道が通じて人の往来も頻繁になったと思われます。上野国から国府をめざして狭山丘陵を越えると最初に広がる平野がこの地域でした。野原の入口ということでだれというなく「野の口」とくちずさんだのでしょう、その名称は野口町として受け継がれています。町の北西部にある北山公園は時期になると菖蒲の花が美しく咲ききそいます。北山公園の一角には「八国山たいけんの里」があり、狭山丘陵の自然と人との関係をテーマに八国山緑地周辺の動植物、環境、暮らし、下宅部遺跡などを題材とした展示や体験事業を行っています。正福寺には北条時宗が建立したと伝えられる千体地蔵堂があります。簡素で枯淡な印象の禅宗様建築で、その名の由来ともなった千体の小地蔵が安置されています。東京都内唯一の国宝木造建造物に指定されています。(東村山市)


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大善院境内

d0183387_00154073.jpg恵日山大善院(通称:東村山野口不動尊)
大善院は以前八王子市(元かすみ村)本寺恵日山圓通寺の塔頭で、縁起によると天正元年に旧修験を廃し正寺格に改め正徳2年海要権大僧都により再建し法印を以って中興の開基とす。後の明治8年暴風に遭い破倒し再建の資金無く空隙の寺院として歳月を送る事9年、本寺34世亮宥私財を投じて仮本堂を建て寺務法要一切は本寺にて施行していた。

d0183387_00155350.jpg当時在家出身でたいへん信仰心が深い者がおり出家得度をし、修行を重ね天台宗大善院の住職の拝命を受け、出身地である東村山にこの寺を移したいという願いで多難な手続きを行い明治32年には、東村山に同院の名称を移して現在の本堂を建立し初代に慈善和尚を迎えて当所に於ける開山とする。


d0183387_00154780.jpg後の明治39年に不動明王を安置しさらに境内に高さ7mの山を築き唐金製不動明王36童子を安置し、当時毎月の不動尊縁日には門前市をなし参拝者は終日あとを絶ず、現世利益の代表仏である不動明王の名は四隣に知れわたりました。さらに境内には七福神や水子地蔵菩薩がまつられており恵まれない水子たちの拠り所ともなり水子地蔵尊としても知られている。(天台宗東京教区)


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d0183387_00390619.jpg正福寺山門

金剛山小福寺は臨済宗の寺院で鎌倉の建長寺の末寺です。その仏殿である地蔵堂は応永14年(1407)建立の典型的な禅宗様式建築であり、東京都唯一の国宝建築物です。(昭和3年指定)鎌倉幕府執権であった北条時宗か、またはその父である時頼によって開基され、勧請開山は中国南宋の石渓心月仏海であると言い伝えられていますが確たる史料は現存していません。正福寺山門は昭和48年に行われた解体修理の際発見された親柱木内(ほぞ)の墨書銘「元禄14辛已無神月吉日祥日建□(者)也此時住寺號月山(以下略)」から元禄14年(1701)月山の代の建立であることが判明しました。山門の建築様式は四脚門で切妻、昭和48年修理の際に茅葺から茅葺銅板葺に改修されました。建築様式は禅寺様式でその規模は桁行10尺(3.03m)梁行10尺、高さも柱底部から桁下端まで10尺となっています。屋根はかつては化粧裏板の上に登り梁を架けて茅葺としていたものと考えられます。また彩色は柱、桁、冠木、束等に朱の痕跡が見られもともとは全体に朱で塗装されていたものとみられます、江戸時代の伽藍遺構を示す貴重な禅寺様建築物です(東村山市教育委員会)

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正福寺地蔵堂(国宝)

d0183387_01022140.jpg正福寺千体小地蔵尊像

正福寺地蔵堂は千体地蔵尊堂と呼ばれるとおり堂内には多くの小地蔵尊が奉納されています。一体造り丸彫り立像で高さが1530cm位のものです。祈願する人はこの像を1体借り、願いが成就すればもう1体添えて奉納したといわれます。指定されている小地蔵尊は約900体です。背面に墨書のあるものは約270体で年号の分かるものは24体です。正徳4年(1714)~享保14年(1729)にかけて奉納されたものが多く、奉納者は現在の東村山・所沢・国分寺・東大和・武蔵村山・立川・清瀬・国立・小金井の各市に及んでいます。なお、地蔵堂内には1970年代に奉納された未指定の小地蔵尊約500体も安置されています。(東村山市教育委員会)

正福寺千体地蔵堂本尊

地蔵堂の本尊は木造の地蔵菩薩立像で、堂内内陣の須弥檀に安置されています。右手に錫杖、左手に宝珠をもつ延命地蔵菩薩で、像のたかさ127cm、台座部分の高さ88cm、光背の高さ175cm、錫杖の長さ137cm。寺に伝わる縁起には古代のものと伝えられ、また一説には中世のものとも伝えられていますが、昭和48年の修理の際に発見された墨書銘によって文化8年(1811)に江戸神田須田町万屋市兵衛の弟子善兵衛の作であることがわかりました。(東村山市教育委員会)

d0183387_00585565.jpg貞和板碑

この板碑は都内最大の板碑といわれ、高さ285cm(地上分247cm)幅は中央部で55cmあります。碑面は釈迦種子に月輪、蓮座を配し光明真言を刻し銘は「貞和5年卯月8日帰源逆修」とあり西暦1349年のものです。この板碑はかつて前川の橋として使われ、経文橋または念仏橋と呼ばれていました。江戸時代からこの橋を動かすと疫病が起きると伝えられ、昭和25月に改修のため板碑を撤去したところ付近に赤痢が発生したので、これを板碑のたたりとし同年8月に橋畔で法要を営み、板碑をここ正福寺境内に移築したものです。(東村山市教育委員会)

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正福寺本堂

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正福寺八坂神社

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北山公園

北山公園は、狭山丘陵を背景にした自然公園で新東京百景に選ばれています。豊かな水と緑に囲まれ初夏には300種類8千株10万本の花菖蒲が咲き乱れます。また、園内には多くの野草が自生しており、池やその周辺には多くの野鳥が集まり羽を休める姿などを見ることもできます。(東村山市)


・・・八国山

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丘の風景① 樹林越しですが南側の東村山中心部が望めます/八国山


東京都立八国山緑地

東村山市にある緑地であり都立公園となっている。狭山丘陵東端に位置し、北側を所沢市に接する東西に細長い緑地。東西約1.5km、南北約300mほどにわたって広がる。南側には西武・西武園線が通っている。園内には標高89.4m八国山がある(頂上地点というものは存在しない)。この八国山は、かつて上野・下野・常陸・安房・相模・駿河・信濃・甲斐の8つの国を望むことができたことに由来する(現在は樹林に囲まれて展望はない)。八国山は新田義貞が「久米川の戦い」の際に陣を張ったとされる場所であり、これに因んで尾根の東部にある塚には「将軍塚」と書かれた石碑が建てられているが、元となった塚は富士塚、あるいは古代の古墳といわれている。かつて付近は、律令時代の官道である東山道武蔵路が通っていたとされ、将軍塚の付近の谷戸地形から溝または切通し跡と考えられる遺構と8世紀頃のものと思われる須恵器なども発見されている。アニメ映画「となりのトトロ」に登場する七国山の舞台である。また、主人公のサツキとメイの母が入院している「七国山病院」のモデルとなった新山手病院は敷地内に位置する。Wikipedia

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なだらかな尾根道が続きます/将軍塚手前

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d0183387_01572278.jpg将軍塚
狭山丘陵の東端に位置するこの山はかつて駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八か国の山々が望めたことから八国山と呼び伝えられ、鎌倉時代にはこの付近を鎌倉街道上道が南北に通っていた。元弘3(1333)、鎌倉幕府を倒そうと上州で挙兵した新田義貞は同道を南下し、小手指ヶ原で幕府と対戦したが苦戦を強いられ分倍河原(現東京都府中市)の合戦でようやく勝利するが、このとき義貞がこの地に一時逗留し、塚に旗を立てたことから将軍塚と呼ばれるようになったと伝えられる。江戸時代に編纂された『新編武蔵国風土記稿』には「此ニ一ツノ塚アリ。是ヲ将軍塚ト呼ブ」とある。同書にはこの塚は富士塚とも呼び、あるいは古代の塚ではないかとも記されている。(現地説明文)

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丘の風景②北 側の所沢方向の景観です/八国山



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d0183387_02055683.jpg久米川古戦場

北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた。文永8(1271)日蓮の書状に「武蔵国久目河に付き……」とあって、上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路であった鎌倉街道上の道の主要な宿駅であった。『太平記』によれば、元弘3(1333)58日群馬県新田町の生品神社(新田義貞挙兵伝説地)から鎌倉幕府倒幕のため挙兵した新田義貞の軍勢は、11日初戦の小手指河原合戦(所沢市)で鎌倉軍を破り、翌12日に南下した新田義貞と鎌倉幕府軍との2が行われたのがこの周辺一帯であるといわれている。『江戸名所図会巻四』によると久米川合戦に勝った新田義貞が塚を築き、旗をたてたといわれる将軍塚(所沢市)が八国山にある。標高約190mの八国山は駿河(富士)、伊豆(天城山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国の山が眺められるのでこの名がついたといわれている。久米川宿を中心とする久米川一帯は、その後も建武2(1335)中先代の乱や応永23(1416)と同24(1417)上杉禅秀の乱などたびたび合戦の戦場となったが、近年は宅地化が進み当時の景観は偲ぶべきもない。国の重要文化財『元弘の板碑』は八国山山麓にあったものを文化年間(180418)に臨済宗福寿山徳蔵寺(東村山市諏訪町126)に移したものである。(東京都教育委員会)

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街道の風景⑦ この道は徳鞍寺先で鎌倉街道に合流します/将陣場橋(北川)

北川

東京都の主に東村山市を流れる一級河川。荒川水系柳瀬川の支流である。東大和市の多摩湖に源を発し、都立狭山自然公園内から東方向へ流れ、北山公園の南側を沿ながら所沢市との境の二瀬橋付近で柳瀬川に合流する。Wikipedia

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江戸名所図会 将軍塚 徳蔵寺(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

・・・

諏訪町の由来
久米川宿西側にあった村で久しく「西宿」といわれていました。その氏神が諏訪神社で住民からは「おすわ様」と呼ばれて親しまれていました。そうしたことから「諏訪」が そのまま町名となっています。町の北部に広がる八国山緑地には自然散歩道があり森林浴を楽しむことができます。自然散歩道をぬけた麓には新田義貞率いる新田軍が北条軍を打破した久米川古戦場があります。また、徳蔵寺には新田氏が戦死した 斉藤氏を供養するために建てた国の重要文化財「元弘の碑」が 保存されています。(東村山市)

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徳蔵寺山門

d0183387_02351833.jpg徳蔵寺
臨済宗大徳寺派に属し福寿山徳蔵寺と称す。創立は永禄3年(1560)、開山年は元和年中(16151623)と伝えられている。徳蔵寺は当時赤坂種徳寺末であったが、徳蔵寺に住した全叟由禅師は寺の復興に尽力し、璧英禅師を奉請し中興開山となって頂き、全叟由禅師「自ら」は徳蔵寺中興2代(世)となった。寛永12年(1635)璧英禅師は招請され徳蔵寺の中興開山となったがその年の秋に遷化された。江戸時代中期、永春庵は八国山から徳蔵寺境内に移されその後「元弘の碑」も移された。現在、国の重要文化財に指定されている。昭和43年に徳蔵寺板碑保存館が建設され、本堂・客殿・庫裏・永春庵は昭和57年に改築落慶し、平成22年にはこれまで無かった山門も新築した。(徳蔵寺HP)

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諏訪神社鳥居


d0183387_11520420.png諏訪神社本殿

社屋の奥に納められている本殿は間口が106cm(3.5尺)棟田253cm(8.35尺)で、小さな規模の社に用いられる見世棚造です。屋根は板葺で厚板を2枚重ねに葺いた錣葺(しころぶき)という古風な葺き方で、多摩地方では珍しいものです。記録等は発見されていませんが、様式から江戸時代初期(17世紀後半)の建築と推定されます。また本殿正面虹梁(こうりょう)上部の蟇股に鎌を交差させた絵様が彫られ、豊作を祈願する村民の思いが込められたユニークな意匠です。(東村山市教育委員会)

d0183387_02352876.jpg諏訪神社

野口実来(つぶれや)に、前川の洪水の時流れ着いた御神体を、大紋廻(おおせど)と字名で呼ばれる桜井利兵衛(現桜井長寿氏方の先祖)がお祀りして、古くは諏訪明神と言われて来た。貞享2年に6反歩の境内地と共に西宿部落(現諏訪町)の鎮守様として寄贈したと代々桜井家に言い伝えられて来た。寄贈の年月日は詳でないが利兵衛氏より徳蔵寺に当てた諏訪明神関係の古文書に、貞享2年丑ノ411日と銘記しておりこの日付に近い時期だと推定される。(右は桜井裕久氏の文献及び口述に依る)明治の世代になり神仏判然令が施行されるまで永く徳蔵寺の管理下にあり、昔は素晴らしい杉林であって現在の徳蔵寺本堂は諏訪神社の杉材にて建立されたと伝えられて居る。例祭に立てる大幟は、徳蔵寺17世住職朝木蒨渓師が文久元年に書いたもので、幟の建石は文久元年7月願主清水市良衛門、清水岩次郎、清水助右衛門が納め、2基の石燈籠は明治215月桜井家の子孫宇重郎氏が奉献したものである。その後台石等破損したので昭和4212月宇重郎氏の孫裕久氏に改修して頂いてある。拝殿に向って左側に小祠がある。浅間神社で側面に天保133月西宿中と刻んである。市の指定文化財に指定されて居る境塚(浅間塚とも言う)の頂上に祀られて在ったものを昭和の初め合祀したのである。明治7年学制施行後、化成小学校建設に当り境内の大部分を敷地に提供して、現在の処に移したのである。明治年代から大正14年迄、毎年99日・10日が例祭日であったが、季節が220日で毎年のように降雨に見舞われるので、926日・27日に変更、2年間続いたがその頃晩秋蚕飼育が盛んになり、丁度上蔟期になるので再び826日・27日に更えて今日に至る。古老の言い伝えによると、明治の中頃は例祭日にはよしづを張り廻らせた水茶屋等も掛り、非常な賑わいを呈したと聞くが、明治末期から大正・昭和と大きな舞台を掛け、野火止・竹間澤・中福等の神代神楽師を招き、祭ばやしと共にお神楽を奉納したのである。昭和22年平和音頭の踊りが流行して氏子の婦人達が奉納したのが始まりで、現在も奉納の踊りに祭りばやしを織り込んで奉納している。(説明板)

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東村山駅西口わくわくマップ(赤:散策ルート 緑:鎌倉街道)



by Twalking | 2017-02-04 19:25 | 鎌倉街道(新規)

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