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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり日野(4) 日野宿   

日時 2017.2.7(火)
天気 晴れ

日野台地を下り日野宿を散策しました。
時々は通りますが、宿として歩くのは久し振り。
五街道の最初でしたので振り返ると懐かしいですね。

町並みもさることながら、ここはやはり本陣、
都内では唯一現存する貴重な文化遺産です。
ガイドもして頂けるのでみる価値は大いにありますよ~!



・・・日野宿(日野本町)

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街道の風景① 「下宿」東の地蔵の鈎の手が宿の入口です/新奥多摩街道入口

宿場の町並みは街道両側に沿った東西9町(約1km)余、東から「下宿」「中宿」「上宿」に分かれていたようです。


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街道の風景② 「中宿」宿の中心部、左が本陣、右に問屋場跡です/本陣前

「中宿」には下佐藤家の脇本陣と上佐藤家の本陣が軒を並べ、向には問屋場(間口3間半・6.3m)高札場等がありました



ぶらり日野(4) 日野宿_d0183387_18272935.jpg日野宿

甲州街道の5番目の宿場町であり日野市の前身である。宿場町として整備されたのは1605年(慶長10年)のことで、八王子宿を整備した大久保長安の手によって開かれている。甲州街道は幾度か経路の変遷があるが、1685以降日野橋の開通までは日野の渡しで多摩川を越え、都道149号立川日野線を南下し新奥多摩街道入口信号で右折して東京都道256号八王子国立線を西進、日野駅前東交差点北側の日野不動産裏を左折して日野自動車手前で現甲州街道に合流する道筋だった。

ぶらり日野(4) 日野宿_d0183387_19025348.jpg本陣跡
には本陣としては東京都内で唯一遺された当時の建物(日野市日野本町)が建っている。その前の現在駐車場になっている辺りにあった長屋門を改装して佐藤彦五郎が天然理心流の道場を開いた。この道場で剣術を教えていたのがのちの新選組局長近藤勇である。近藤と土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助ら新選組主要メンバーはここで出会った。この向かいに問屋場高札場があったが現在は石碑が建つのみである。
Wikipedia


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ぶらり日野(4) 日野宿_d0183387_19002556.jpg日野宿脇本陣

日野宿は甲州道中45宿のうち江戸から数えて10番目の宿場です。宿場には日野本郷の名主と日野宿問屋役人を兼帯して世襲する2軒の佐藤家の屋敷がありました。正徳6年(1716)以降、西側の佐藤隼人家(通称「上佐藤」)は本陣を、西側の佐藤彦右衛門家(通称「下佐藤」)は脇本陣を務めました。本陣は公家・大名・旗本や幕府役人専用の宿所であり、脇本陣は本陣の補助的な役割をもっていました。なお、この脇本陣は19世紀初頭以降本陣と同様の機能を担っています。本陣建坪117坪、脇本陣建坪112坪であったといい、甲州道中で本陣・脇本陣とも100坪を超える例は犬目宿(山梨県 本陣2軒です)と日野宿だけであったとされます。嘉永2年(1849)の大火により本陣・脇本陣等は焼失し、現在の脇本陣の建物は元治元年1846)に完成しました。北面中央に式台玄関を備え屋根は瓦葺であり、一般的な名主屋敷と異なり脇本陣としての格式を備えた建物です。また、本屋敷は新撰組とも深いかかわりがあり、幕末の歴史の舞台ともなりました。東京都内には江戸時代に五街道を中心に10余りの宿場が現存していましたが、敷地と屋敷が現存しているのはこの脇本陣のみです。(東京都教育委員会)


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街道の風景③ 「上宿」この辺りがそうでしょうか、現在も駅に近く賑わっています/八坂神社前


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日野八坂神社鳥居

ぶらり日野(4) 日野宿_d0183387_19073568.jpg日野八坂神社
創祀年代不詳。社伝によれば応永5年(1398普門寺が旧本宿辺に開創されたとき、その鎮守として牛頭天王社が祀られ以来同寺は永くその別当をつとめた。その後、永享年間(14291441)権少僧都智伝が社殿を造営中興し、元亀元年(1570)普門寺の移転に際し、当社も現在地に遷座されたといわれる。降って慶安元年(1648717日徳川三代将軍家光が、天下安穏・国土泰平の祈願として社領免除の旨を下し朱印地14石を寄進した。以来徳川累代将軍寄進の朱印状写がある。なお享保17年(1732)別当普門寺住職長快が牛頭天王像荘厳を本願し、佐藤八兵衛忠勝・土方甚八郎等講中の合力を得て江戸の仏師に依頼し、翌年618日に完成、元文元年(1736612日本殿に安置した。その後社殿朽損の為、権大僧都法印尊盛が再興を計画、寛政12年(1800)同盛信の時完成した。これが現在の社殿と思われる。現存する神輿は佐藤俊宣の発起により明治13年(18809月完成した。御仮屋その他の付属品とも当時一千余円を費やしたといわれる。(日野市史)

ぶらり日野(4) 日野宿_d0183387_19092856.png天然理心流奉納額

安政5年天然理心流近藤周介の門人であり佐藤道場で稽古に励んでいた25名によって八坂神社(当時は牛頭天王社)に奉納。槁板に大小2本の木刀が架けられている。最後に嶋崎勇とあるが、後の近藤勇のことである。最後から2番目に名がある沖田惣次郎は後に惣司と改めている。正式入門が安政6年の土方歳三の名前はない。八王子千人同心井上松五郎と弟の井上源三郎の子孫は今でも近藤勇の子孫と共に「天然理心流・勇武館」を継承している。(説明板)



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大昌寺山門

ぶらり日野(4) 日野宿_d0183387_19265076.jpg大昌寺

三鷟山鶴樹院と号し浄土宗知恩院末。本尊は阿弥陀如来。この地にはもと金峰山と称する天台宗の寺院があった。この旧跡に大善寺(八王子市)の讃誉上人が隠退後、住民に懇請され堂宇を創建して大昌寺と号するに至った。慶長7年(1603)のことである。第15世湛誉林道大和尚の代に再建された堂宇は大正12年(1923)の関東大震災に被災、昭和4年に修復した。修復前は寄棟造萱葺きであった。本堂はこのとき入母屋破風造亜鉛板葺きに改めた。本堂内は内陣とこれをとり巻く五部屋の外陣、廊下(一間半)とから成る。本堂須弥壇に本尊阿弥陀如来坐像・脇侍観世音・勢至両菩薩像が、位牌堂には法然・善導両大師像、開山讃誉、中興湛誉両上人像・地蔵菩薩立像(木彫金泥高さ13寸)が安置される。山門は建築の年代を伝えないが、造りは重厚で上部の彫刻は巧緻である。

ぶらり日野(4) 日野宿_d0183387_19265544.jpg鐘楼は明治36年(1903)に改築。梵鐘は享保2年(1717)の鋳造で、鋳匠は多川民部見蔵であった、第二次大戦中供出された。鍾銘も不明となるところであったが、郷土史家山上茂樹の拓本によってその法韻(仏法の音)を伝えることを得た。内陣にあった青銅製の大灯龍も前記多川民部の作であったがこれも供出された。当寺の寺宝で東京都重宝(典籍)となっている『説法色菓集』十巻は、天正13年(1585)開山讃誉上人の筆になる。讃誉上人の墓は高さ3尺余りの自然石で市史跡に指定されている。また幕末の新選組や農兵隊等の育ての親であり、明治11年初代の南多摩郡長となった佐藤俊正(彦五郎)や幕末に江戸の狂歌師絵馬屋三世をついだ玉川居祐翁の墓(市史跡)等がある。(日野市史)

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街道の風景④ ひとつ露地を挟むと日野用水が流れています/
大昌寺


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宝泉寺山門


ぶらり日野(4) 日野宿_d0183387_19444623.jpg宝泉寺

如意山と号し臨済宗建長寺派の禅剃、本尊は釈迦牟尼仏である。当寺は元徳年間(13291332)の開創といわれ開山は建長寺59世曇芳周応である。はじめ字姥久保の地にあったが天正(15731592)末、火災にかかり伽藍古記等ことごとく灰燼に帰した。その後間もなく現在地に移転再建したと伝える。開山以来21世代を経て当代に及ぶがその間小田原北条氏から寺領を請け、徳川氏からは高8石と寺中山林竹木諸役免除の朱印状を授けられた。本堂には本尊釈迦如来、脇侍文殊・普賢両菩薩の三尊が安置される。

ぶらり日野(4) 日野宿_d0183387_19511075.jpg境内は1208坪。旧伽藍は本堂間口9間・奥行7間、向きは東北、宝暦4年(1754)に修繕の記録があるが、建立年月は不明。昭和5年内外に大改修が施された。同48年に客殿・庫裡等の新改築が実施された。このとき旧来の庫裡をとり壊し、跡地に客殿をその北側に庫裡をそれぞれ新築し、併せて本堂屋根の葺き替えと東・北・西の濡れ縁の取り外しを行った。この諸普請は51年竣工した。

ぶらり日野(4) 日野宿_d0183387_19425059.jpg観音堂は3間四方、西北向ぎ、塗りごめ格天井・丸柄・丸柱、文政年間(18181830)の建立。本尊は馬頭観世音石像、高さ12寸、俗に「持ち上げ観音」の名で知られており、現在は本堂と客殿との間に安置してある。堂の須弥壇には代わりの石像と十王像とが安置されている。十王像は下河原にあった西明寺の持ち物であったが、同寺が廃寺となったのち明治10年(18778月この堂に移し安置された。山門は六脚総欅造、間口1間半、嘉永6年(1853)の再建。彫師は八王子八幡宿小川屋巳之助、石工は相州厚木の秋本忠次郎、瓦師は万願寺の金子元次郎、棟梁は日野宿天野巳之蔵・奥住直次郎・八王子八木宿守屋勘吉等である。客殿の南側には古くから裏山を借景にした庭園がある。築山池泉のほとりに、古木や佳岩を配して静寂の趣を伝えている。鐘楼は9尺四万で、延享2年(1745)梵鐘新鋳の際建立した。梵鐘の総高は4尺、外直213分、鋳工は江戸神田住西村和泉守であった。この梵鐘は第二次大戦中供出したが梵鐘銘は拓本として遺されている。現在の梵鐘は昭和4011月落慶したものである。(日野市史)


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井上源三郎の顕彰碑          井上源三郎の墓 


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街道の風景⑤ 坂下地蔵が宿の西側口、JRが通りますので迂回して大坂へ向かいます

ぶらり日野(4) 日野宿_d0183387_20153352.jpg飯綱権現社

坂下地蔵堂の隣一段高くなった所に飯綱権現社が祀られています。明治21年甲武鉄道が建設されるまでは日野駅から見える丘の上、百数十段の階段を上がった場所に鎮座していました。さぞかし展望が良かったに違いありません。伝説や棟札からも高尾山と関係が深いと言われており、地元では「いずなさま」と呼ばれています。現在の場所に遷座された際、基礎部分に日野のレンガが使用されました。今もレンガではありますが、関東大震災の被害を受け改修されその定かは確かではありません。(日野市観光協会)

ぶらり日野(4) 日野宿_d0183387_20153762.jpg坂下地蔵

正徳3年(1713)に江戸小舟町の井田八左衛門が釈宗威信士菩提のため造ったものである。日野をはじめ八王子・青梅・立川・大神・福生・由木にわたり、232人の合力を得て奉造したと蓮座に彫りつけてある。作者は大昌寺の釣鐘・灯籠、谷戸の念仏鉦等を鋳造した江戸神田鍛治町の田川民部藤原見歳である。永く甲州道中日野宿西の出入り口に鎮座して、ここを通行する旅人を見守り彼らからは坂下地蔵サマと親しみ敬われた。近来は地元自治会の婦人達によって仏縁の日、念仏供養が行われる。(日野市教育委員会)

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日野観光案内図(紫:旧甲州街道 黄:日野駅・甲州街道駅)

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日野宿・分間延べ絵図/案内板

ぶらり日野(5)平山城址の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/23858930/


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資料ファイル

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緑が初期(万願寺の渡し)、赤が移設された道筋(日野の渡し)です


ぶらり日野(4) 日野宿_d0183387_22463683.png日野宿と甲州街道

慶長8年(1603)に江戸幕府が開幕されると代官頭・大久保長安によって甲州街道の整備が進められましたが、慶長10年(1605)日野は甲州街道の継場(宿場)に指定されました。当初は府中宿を立つと青柳村(現国立市)から万願寺の渡を通り万願寺一里塚を経て日野宿に至る道筋でしたが、貞享元年(1684)甲州街道は多摩川の流路の移動や洪水を避けるため府中から柴崎村(現在の立川市)を通る段丘上に移設され、それに伴って渡船場の位置が万願寺から上流の日野の渡しに移動し、以来渡船場経営は日野宿となりました。それから250年の時を経た大正158月日野橋が開通し、この「日野の渡し」もその歴史に幕を閉じました。なお、渡船場入口角にあった高木家(屋号「角屋」)の塀に使われていた煉瓦は明治20年代初頭、土淵英、高木吉蔵、河野清助らによって設立された日野煉瓦場製の煉瓦といわれています。その煉瓦の工場は現高木歯科医院隣の福地蔵(通称東の地蔵)近くにあった西明寺付近にありました。(案内板 写真は大正末期の日野渡船場)



日野本陣の建物

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①主屋広間(18畳)ここが仕事場だったそうです 奥に玄関の間・控えの間が続きます

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玄関の間(10畳)から土間方向     広間北縁(街道側)

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玄関の式台

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左に覗き穴があります           節隠しに瓢箪の細工が施されてます

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控の間(6畳2間)市村鉄之助を匿っていました 「すなわち武すなわち文」

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南奥に下の間・奥の間(12.5畳)・南縁があります。その隣に納戸(4.5畳)・仏間と茶の間(6畳)の生活スペースがあります。

現在の建物の間取りはここまでです。創建当初にはこの南側奥に「上段の間」(12.5畳)と「御前の間」(10畳)等があったそうです。この2間は明治26年の大火で焼失した佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先・有山家に曳家されています。(非公開) 


by Twalking | 2017-02-11 10:11 | たまのさんぽ道(新規)

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