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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道山之道 元八王子01-廿里町   

日時 2017.2.25(土)
天気 晴れ


町田街道につづき秋川街道を北へ向かいます。
道筋は町田街道~秋川街道で良さそうですが
もう少し山側を通っていたかも知れません。

「いざ、鎌倉」ではありませんが、時代がくだって
滝山城、八王子城は八王子の歴史を物語る要地、
先に進む前にじっくりと散策してみました。



・・・廿里町
(とどりまち)

八王子市の西南部に位置する。森林総合研究所多摩森林学園や武蔵陵墓地の一部が大部分を占めている。町制施行前は下長房村、施行後は横山村に属していた
Wikipedia

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街道の風景① 懐かしいですね~甲州街道、ここからスタートします/高尾駅前

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高尾街道を北へ向かいます       南浅川を渡ると廿里町/敷島橋

都道
46号八王子あきる野線

八王子市から同市楢原町を経由してあきる野市に至る都道(主要地方道)である。この道路の東京都通称道路名は主として高尾街道で、国道411号との重複区間は滝山街道を通称としている。距離9.435km。Wikipedia

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南浅川の風景① 廿里砦のあったとされる白山神社にむかいます/敷島橋

南浅川
八王子市
裏高尾町から元本郷町を流れる多摩川水系の一級河川。浅川(北浅川)支流である。八王子市の西部に位置する小仏峠付近に源を発し東に流れ、八王子市元本郷町付近で浅川(北浅川)に合流する。
Wikipedia

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南浅川の風景② 左岸は高尾山口への「多摩御陵・銀杏並木散歩」道、歩いてみたいですね


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白山神社鳥居

鎌倉街道山之道 元八王子01-廿里町_d0183387_15122058.jpg白山神社高尾駅北口からほどない廿里の山の斜面には、地元では「白山様」と呼び親しまれて神社があります。およそ700年前の鎌倉時代の創立と考えられているようです。白山神社はちょうど桜の実験林で有名な多摩林業科学園の裏にあり、数年前に実験林が拡張された際に麓の白山橋のそばに社殿を移築したようです。それまではこの山の長い階段を登っていかなければならず信者の方には相当の負担だったようですがこれでお参りも楽になったとか。江戸時代、時の幕府から14石の御朱印を賜ったといいますが、高尾のような地方の神社ではかなり高額であり格式が髙かったことを物語っている。(高尾通信)

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山道を登ります            奥社です

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奥社の上は平場、ここが廿里砦だったんでしょうか

十十里防塁跡

廿里町にある戦国期の砦跡。1569年(永禄12)北条氏照が武田氏の攻撃に備えて築いた防塁の跡で八王子城防衛の前線にあたる(Web八王子辞典

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南側                 北側


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街道の風景② この一帯が廿里古戦場だったようです。向は初沢城になります/高尾街道

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里古戦場
永禄12年(1569)、武田信玄は小田原の北条氏康を責めるために甲州を出発し、碓井峠を越えて北関東の北条氏の諸城を次々に攻撃し、滝山城攻撃のために拝島に陣した、一方、信玄の武将甲州岩殿城主・小山田信繁は甲州から小仏峠を越えて攻め込んだ。滝山城主北条氏照の家臣横地監物・中山勘解由・布施出羽守らは10月1日にこの付近で迎え撃ったが一戦にしてろもくも敗れ去った。この戦いの後、滝山城は三の丸まで攻め込まれ落城の危機に瀕したが、信玄は途中で小田原に向かい落城はまぬがれた。この戦いで氏照は滝山城の弱点と甲州口の重要性を感じ小仏峠に近い八王子城の築城を計画したといわれている。(八王子市教育委員会



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左は森林科学園、いい森です      高尾街道と別れ左折します/城山大橋(秋川街道)

国指定史跡・滝山城址の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23871197/



・・・元八王子町

八王子市西部に位置する。西部には八王子城がある。城下町が移るまでの八王子の中心であった。地名は華厳菩薩妙行が916年(延喜16年)深沢山(八王子城付近)に八王子権現を祀り、北条氏照が1587年(天正15年)八王子城を築城したことが由来。1590(天正18年)八王子合戦によって八王子城が落城、廃城となる。1593年(文禄2年)城下町が現在の八王子中心部に移る。Wikipedia

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妙観寺山門

鎌倉街道山之道 元八王子01-廿里町_d0183387_22484300.jpg妙観寺

1468年(応仁2)といい古くは明観寺とも称せられていた.その後、天文年間(153255)に多聞坊により中興された。1941年(昭和16災により焼失、その年の12月に再建された。旧本尊は大横町極楽寺本尊の歯吹如来といわれている。(Web八王子辞典)

鎌倉街道山之道 元八王子01-廿里町_d0183387_22484856.jpg笠地蔵と五重石塔

この阿弥陀・釈迦・地蔵の三体の石仏は俗に「笠地蔵」と呼ばれ、当寺先住法養房実円法印が十万有縁の記者を募り弘化2年(1845)から同5年(1848)にかけて造立し、五重石塔も同じく嘉永5年(185211月に造立したものである。実円法印は武州多磨郡二分方村柳沢の人で、天保14年(184310月には師岡忠助美実作の梵鐘を鋳造し当寺の興隆にはって功があった有徳の住僧である。安政2年(1855910日当寺で没したが、五重石塔の下に入寂していると伝えられている。これらの石造物は大正129月の震災により倒壊破損したのをこの度実円和上116回の忌辰に当り、先徳追善の為修補して旧状に復したものである。(説明板)


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街道の風景③ 中央道の先を左折すると八王子城址になります/城址入口



・・・
八王子城址散策後元八王子から長房周辺を歩いてみました

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八幡神社の赤鳥居

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境内

鎌倉街道山之道 元八王子01-廿里町_d0183387_23272269.jpg梶原八幡神社
御祭神:應神天皇 比売命 御神体:甲冑馬上の木像
当社は康平68月(1063)源頼義朝臣、鎌倉由比郷に石清水八幡宮の神を奉祀するに始まる。後治承410月(1180)源頼朝公、大庭景義に命じてこれを小林郷松ヶ岡に遷す。(今此処を鶴ヶ丘八幡宮と称す)。建久24月(1191)宮殿の造営全く竣へ、正遷座の際、古神体を頼朝公家臣・梶原平三景時に賜ふ。此の地は八王子発祥の地、の所領ゆえ同年6月此処に奉祀す。降って寛正・文明の頃傷んだ社殿の造営修復す。元亀3年(1572)北條氏照公、当地に八王子城(日本百名城選)を築き、居住する間社領若干を賜る。越えて天正1911月(1591)将軍徳川家康公より社領10石(朱印)を賜り、後明治6年(1873)郷社に列せられる。尚、景時勧請時の棟札ありしも戦災の折残念ながら焼失す。

鎌倉街道山之道 元八王子01-廿里町_d0183387_23550437.jpg梶原杉の由来

当社参道には梶原杉の大樹有あり、景時が八幡宮を勧請した時植えたとされ、樹齢約800年、高さ30m余り、目通り幹周囲が12mあり昭和3年都の天然記念物に指定され、都内随一の大杉といわれた。当社御神木として尊崇保存されてきたが樹盛急に衰え昭和474月愛惜の中伐採された。現在切株があり往時が偲ばれる。(由緒書)


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「市指定史跡 武蔵太郎安國鍛刀之地」の碑がありました/鍛冶屋敷バス停付近

武州下原刀鍛冶
(シタハラトウ)
戦国期永正年間(150421)ころから明治初期にわたり山本但馬周重を祖とする刀工群で、八王子市下恩方町下原横川町下原元八王子町鍛冶屋敷を拠点に活躍した山本姓一族を中心とした総称。その発祥地が下原であるところから下原刀の名称がつけられた。詳細は明らかではないが永正年間、大石氏の招へいにより刀鍛冶山本但馬周重が恩方辺名に住み、鍛冶を始めたとされておりその後2代周重が下原に移り、その分家として横川下原元八王子鍛冶屋敷等に分散し活躍した。2代周重は北条氏康より康の字をつけることを許されて康重と改名その後、康重の弟長門周重が北条氏照から照を許可され照重と称したという。下原鍛冶は康重・照重・廣重と名のる例が複数出て活躍しているが、廣重の系統では江戸期初・中期に武蔵太郎安国、また直系ではないが武蔵太郎安貞がでて下原新刀の隆盛期をつくった。1786年(天明6)奉行所に提出された御用鍛冶職の覚には優秀鍛冶として下原鍛冶14名が記載されている。下原刀の最大の特徴は刀の中央部に下原肌といわれる渦巻状の文様線がでていることで、古刀期にその形状が強く認められたが安国以降の新刀期には小さくなっている。現在89振の刀、脇指、短刀、槍の下原作品が市文化財に指定されている。(Web八王子辞典)


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城山川の風景 橋に「出羽山城(砦)」の名を留めます/出羽山橋

城山川

元八王子町3丁目西端の山間から流れ出し、東北流して横川町北部で北浅川に注ぐ川。(流長7.7km)風土記稿には山城川とも出る。源流部は御殿谷川とも呼び、元八王子町3丁目の宮の前で御霊谷川を合わせてから城山川となり同町2丁目・1丁目をへて横川町で大沢川を合わせる。川ぞいに中央自動車道が走り、南北にJR高尾駅から四ツ谷方面への高尾街道がのびる。源流部左岸に八王子城山が高まる。流域の開発が進み多くの霊園・住宅団地ができた。(Web八王子辞典)


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出羽山から八王子城を望む/出羽山公園(城山手)

鎌倉街道山之道 元八王子01-廿里町_d0183387_14361228.jpg出羽山公園
城山手にある出羽山公園は、この地が出羽山と呼ばれていたことからこの名がつきました。出羽山には戦国時代の武将、北条氏照の家臣近藤出羽守屋敷があったといわれています。近藤出羽守は天正18年豊臣秀吉の軍勢が八王子城を攻めた際、八王子城で討死した人物の一人です。(はちバス沿線の見所)


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安下道から登る尾根道、旧道の感じがします/共立女子大裏

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共立女子大周辺            中央道月夜峰第2橋

月夜峰

元八王子町2丁目の東端、長房町と横川町の境の辺の丘をいう。別称:月宵峰,月見岡,月見ケ丘。蔵図会に「北条氏照居城の砌、この地にて月を賞せしより」名づけるという。いま共立女子大学が建つ。(Web八王子辞典)

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八王子城址方向の景観、「月夜峰」の名は中央道のOVに残ります/月夜峰第2橋

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左手が八王子城、奥が犬目、右が月夜峰になります/ジオラマ

豊臣軍の八王子城攻めについて「桑都日記」は次のように伝えています。八王子城を攻めようとする前田・上杉などの大軍は平の渡しで多摩川を越えます。元横山から横川村に出て、前田軍月夜峰に陣を張り大手に向かったのです。一方、上杉軍犬目原に陣を張り、川口村に火を放ち、調原(ととのいはら)から滝ノ沢に至り搦め手から攻めこんだのです。(八王子城址ガイダンス施設・展示スペース)


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北側の加住丘陵の景観です/「月夜峰」


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南浅川の風景③ 中央が高尾、右手が八王子城址方向になります/横山橋(長房町)

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八王子城址周辺マップ
(赤:歩行ルート 橙:鎌倉道 紫:旧甲州街道 茶:高尾街道 青:南浅川・城山川)



by Twalking | 2017-02-27 19:58 | 鎌倉街道(新規)

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