無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(1)井の頭公園~明大前02-高井戸   

日時 2014.4.4(火)
天気 晴れ


ここは歩いたことはありますが川筋だけ、
井の頭線も駅名は分かりますが降りてはいません。
ひとまず周辺の寺社などを訪ねて見ました。

昔からの鎮守であったり地名の謂れだったりと
やはり古刹が多いですね、それに人見街道や
鎌倉道など古道も交差して興味を惹かれました。
のんびりと散策すにはいいコースだと思います。


・・・久我山(杉並区)


町域内を神田川と玉川上水が流れその両岸にあたる。「くが」とは空閑地陸地のことであり武蔵野の新開地の意と推測される。古くは久ケ山とも。江戸時代から1889年までは江戸幕府領久我山村であった。文化文政時代は64戸、水利は玉川上水、鎮守神は久我山稲荷神社であった
Wikipedia

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神田川の風景① 桜並木が続きます、静かな住宅地です/久我山3

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宮下橋                宮下橋公園


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久我山稲荷神社鳥居

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久我山稲荷神社
この神社は「新編武蔵風土記稿」多摩郡久ヶ山村の条に稲荷社とあって「除地、二段五畝十五歩、堂屋舗にあり、小社にて上屋九尺に二間、拝殿二間に三間、南向、前に鳥居を立つ、石階鳥居の外に三級内に二十数級あり、村内の鎮守、例祭十一月にて日定らず、光明寺の持」と記されているように、創建の由来については詳かでないが、古来からの久我山村の鎮守で祭神は保食命です。明治404月に字北原にあった天祖神社(祭神大日孁貴神)が合祀されました。昭和162月に村社となりました。境内末社に八雲神社・天満天神社があります。

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本社では714日に夏祭りが行われ「湯の花神楽」が奉納されます。その昔この地に疫病が流行した際、村人が神楽を奉納し祈願したところ疫病がやんだという故事によるものです。この湯立ては杉並区では極めて珍らしい行事となっています。境内には明治32年に氏子が奉納した金玉均(朝鮮の李王朝末の政治亡命家)の手跡を刻んだ「人心同」の碑があります。この碑は、久我山村生れで幼くして小笠原にわたり砂糖王と呼ばれた飯田作右衛門が、遠く離れている父に朝夕仕えることもできず心で思うばかりである。せめて父の住むところに自分の不孝をわびる石碑を建ててくれと頼み、その心根に強く打たれた金玉均の手跡です。

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なお、元禄16年(1703)の庚申塔があります。かつて村人がこの庚申様に砧の槌を納めて養蚕の無事を祈願したと言い伝えられています。また、昭和57年に新築された「額堂付神楽殿」には多数の絵馬が保存されています。(杉並区教育委員会)

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街道の風景 人見街道を横断します/久我山橋(久我山駅前)

人見街道
府中市八幡と杉並区大宮の大宮神社を結ぶ古くからの街道である。別名「大宮街道」「下総街道」「府中道」「八幡通り」。「人見街道」の名は江戸以前にあった「人見村」を通って府中へ至る道であった事に由来するもので地名に「小人見」の名称がある。さらに北にある浅間山の別名が人見山である。 浅間山を構成する前山尾根上東端に黒い石碑の「人見四郎の墓跡」があるなど地域の一族「人見氏」にも関係している。Wikipedia

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久我山駅               神田川流域案内板

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神田川親水プロムナード案内板(紫:人見街道・環状8号線)


・・・高井戸


地名の由来については諸説あるがかつて村内の小高い所にあった堂の傍らから水が湧き出ていて高いところから出ていた井戸なので「高井戸」と呼ばれたという説と、地域内の宗源寺にある高井戸不動が江戸時代までは高台に祀られていて「高いお堂の不動様」と呼ばれるようになり「高井堂不動」という名が生まれた。そこから高井戸の名が生まれたという説などがある。実際には、高低や井戸とは無関係でありかつて高井家が代々宮司を務める神宮寺があり、目印となるお堂に「不動様」が祀られていたことから通称「たかいどう」と呼ばれ、周辺を指す地名で使われるうち転じて「たかいど」となる。跡地は団地となっているが高井家15代までの墓が残されている。
Wikipedia

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神田川の風景② 左岸は井の頭線の電車区、右岸は段丘になっています/清水橋

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つきみばし/富士見ヶ丘駅       むつみばし


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吉祥院参道入口/高井戸西

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吉祥院当院は象頭山遍照寺と号する天台宗の寺院で本尊は不動明王坐像です。中興開山は上高井戸村の並木卓善で、明治16年(1883)に開創されました。並木卓善は成田山不動尊を信仰し、明治8年に成田山新省講を結成さらに講中の寺院を創設しようと図りました。しかし、当時は寺院の新設は禁止されていたため谷中(現台東区)の吉祥院(江戸初期に霊岸島に開創されのち谷中に移転、寛政年間に松平定信の崇信を受け大寺席となったと伝えられます)の住職に二世晃恭が就任し、当地に移転するという形で明治16年に開かれたのが当院のはじまりです。

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当院は新省講の祈願寺として信徒の信仰を集めました。大正5年(1916)に刊行された「東京府豊多摩郡誌」ではそうした当院の様子を「毎月廿八日寳客多し、殊に節分会及215日は信徒の詣づるもの頗る多く境内立つ錐の地なし」と伝えており、今日でも東京西北部一帯の人々に広く信仰されています。現在の本堂は文化3年(1806)の建築で開創の年に移築したものです。

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また、境内の諸石像を配置した築山は成田山を模して造られたものといわれています。なお、当院は信徒から寄進された多くの記念石碑のほか、江戸時代につくられた大日如来像、阿弥陀如来像、地蔵菩薩像などの仏像も所蔵しています。(杉並区教育委員会)



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神田川の風景③ 環八を渡ると桜並木が続きます/佃橋

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環八を横断します/高井戸駅       杉並清掃工場/高井戸橋


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神田川と高井戸
神田川は杉並区の南端を流れる川で、その流域では塚山遺跡高井戸東遺跡など旧石器時代(約30000年前)から古墳時代(約1400年前)にかけての遺跡が発見されています。またこの川は天正18年(1590)家康の入府後、神田上水として利用され江戸市民にとっては重要な上水でもありました。高井戸の地名の由来は「掘りかね井戸」がこの地にあったからという説や昔この地域の小高い丘の上に不動堂があったため「高井堂」と呼ばれていた等の諸説があります。(歴史と文化の散歩道 神田川周辺の路散歩)

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神田川の風景④ 桜を見ながらぶらり、気持いいですね/乙女橋

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乙女橋
乙女橋の左側一帯は江戸時代徳川家の御三卿(田安・一橋・清水)の鷹場として、将軍家が定めた場所で「お留め場」といわれていました。「お留め場」はその中で行う農耕・建築など日常の生活に厳しい規制がありました。この橋は自由に通行できない「お留め橋」でしたが慶應3年に鷹狩り制度が廃止された後、「おとめ」の音を当てはめて「乙女橋」と名付けられたそうです。(歴史と文化の散歩道 神田川周辺の路散歩)

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左へ登ると浜田山駅です/堂ノ下橋

浜田山(左岸)

現在町域内にある杉並南郵便局付近一帯は江戸時代まで一帯が江戸内藤新宿(現在の新宿区新宿)の商人浜田屋の所有地で松やクヌギの林(付近では「山」と呼ばれていた)になっていたほか浜田屋の墓があり、彼岸の時は浜田屋の人間が江戸から当地まで墓参りに訪れていた。この浜田屋の山から浜田山の地名が生まれ現在の地名になったと言われている。浜田屋は米問屋であったと言われ、初代は江戸時代の初期頃に伊勢国浜田村(現在の三重県津市)から江戸に出てきて内藤新宿に店を構えて商売に成功し、浜田屋弥兵衛と名乗ったという。その後浜田屋は明治時代に米相場に失敗して没落していき、浜田屋の墓も当地から隣の永福にある理性寺の境内に移されて現在に至っている。(Wikipedia

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大塚山公園/下高井戸

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大塚山遺跡について
大塚山遺跡は縄文時代中期(約35004500年前)の集落跡で、昭和10年に江坂輝彌氏によって紹介されました。その後昭和13年に明治大学の後藤守一氏によって初めて本格的な発掘調査が行われ、4軒の竪穴住居跡が発見されました。昭和4410月に江坂氏の指導のもと区教育委員会によって台地の東側斜面が調査され住居跡1軒が発掘されました。また昭和48年秋には西側斜面が調査され住居跡20軒が発見されました。これらの調査により塚山遺跡が縄文時代中期の環状集落であったことがわかりました。(説明板)

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縄文時代中期の復元住居
この復元堅穴住居は昭和48年に発掘された1号住居跡をモデルに不燃化材で建てたものです。この様式は武蔵野台地におけるこの時期の典型的なもので、住居床上の中央部やや奥に「石囲い」の炉を掘りこみ、住居の隅がやや円いことから「隅丸方形」と呼ばれています。(説明板)
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街道の風景02 鎌倉街道ですね、これも歩いてみたい道です/鎌倉橋

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鎌倉橋
神田川にかかるこの鎌倉橋について『武蔵名勝図会』には「上高井戸のにあり古の鎌倉街道にて…いまは農夫、樵者の往来道となりて 野径の如し」とあります。鎌倉街道は東国御家人と鎌倉を結ぶ道で鎌倉~室町時代に繁栄しましたが、江戸時代以降次第に衰え後半期には前述の「野径の如し」といわれるように一部分を残すだけとなりました。また、この付近には鎌倉時代に陣屋櫓が作られ、後に大田道灌の支配地になってからは家臣某が任に当っていたという伝承が残されています。橋名の由来については同書多摩郡之部高井戸宿の条に「鎌倉街道ゆえ、鎌倉橋という」と記されていることから鎌倉橋と名付けられたという説があり、また一説には長禄元年(1457)大田道灌が江戸城を築く際工事の安全を願い家臣に命じて下高井戸八幡神社を建立させ、武士の信仰の厚い鎌倉八幡宮の神霊を勧請したおりに鎮座地に近いこの橋を鎌倉橋と名付けたと言われています。また、延宝2年(16744月の『武州多摩郡下高井戸村御縄打帳』には「鎌倉橋北側」「鎌倉橋南側」という小字名がみえています。このことからみても江戸時代初期にはすでに「鎌倉橋」という字名がついていたと言えるでしょう。なお、『豊多摩郡誌』は大正初期の鎌倉橋について「木造、延長3間、幅員1」と当時の様子を伝えています。(杉並区教育委員会)


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神田川の風景⑤ この辺り右岸側に旧流路が残ります。お洒落な橋が架かり楽しめます

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梢橋                 藤和橋

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下高井戸八幡神社鳥居


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下高井戸八幡神社/下高井戸
この神社は、旧下高井戸宿鎮守で祭神は応神天皇です。社伝によると長禄元年(1457太田道灌が江戸城を築くとき、工事の安全を願い鎌倉の鶴岡八幡宮の神霊を勧請して創建したものといわれます。本殿は、棟札によると弘化4年(1847)の再建であることがうかがわれ、現在の拝殿・覆殿は昭和34年に落成したものです。

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境内には末社として天祖神社・御嶽神社・稲荷神社のほかに当神社に功労のあった人々を祀る祖霊社があります。神田川沿いの台地や斜面には先土器時代から古墳時代に至る遺跡が各所に発掘されていますが、当社の近くからも集落跡が発見され、石器・土器等の出土もあり古くから人々が住んでいたことがわかります。中世以降、村落の発達とともにこの地に神社が奉斎され村の鎮守として尊崇を厚くしてきました。昭和初期まで当社の宮司であった斎藤守高氏は俗に「面芝居」ともいう神楽の元締で、芸名を「中村縫之助」といい鼓・太鼓・三味線に合わせて踊る芸の師匠でありました。この面芝居は明治末から昭和初期にかけて流行しましたが今は絶え、残された数個の面が往時をしのばせています。(杉並区教育委員会)

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神田川親水プロムナード案内板(緑:鎌倉街道 紫:状8号線)


・・・永福


杉並区の南部に位置する。地内北部は方南通りと接しこれを境に杉並区大宮になる。西部は杉並区浜田山に接し、南西部は杉並区下高井戸に接する。東部は概ね井ノ頭通りに接し杉並区和泉に接する。南部は甲州街道に接しこれを境に世田谷区松原になる。地名は当地内にある永福寺に由来する。
Wikipedia

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神田川の風景⑥ 護岸に桜の影、いい感じです/むつみ橋

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荒玉水道道路/神田橋
神田橋を南北に通る「荒玉水道路」は多摩川の水を北の町村へ送るため砧浄水場から杉並区梅里1丁目までほぼ直線的に建設されていた約9kmの水道専用道路です。(歴史と文化の散歩道 神田川周辺散策路)


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永福通り
北は永福寺を経て永福寺駅、南は甲州街道・下高井戸駅方向になります/永福橋

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永福寺山門

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永福寺
万歳山永福寺は曹洞宗の寺です。本尊は十一面観音像で脇侍の不動・毘沙門両像とともに鎌倉期の仏師快慶の手になるものと伝えられています。寺伝によれば開創は大永2年(1522)で開山は秀天慶実と伝え村名もこの寺名によっています。永福寺の名は永禄2年(1559)に北条氏康が作成した「小田原衆所領役帳」にも見え、開創は寺伝の伝える頃に近いものと思われます。小田原落城後、北条氏の家臣であった安藤兵部丞が当寺の住職をたよってこの地に帰農し、永福寺の檀家となり村の開発につとめたといわれます。中興開基は幕府御馬預役加藤重勝で、下高井戸村に拝領地を持ち当寺を菩提寺としました。
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当寺は文禄2年(1593)・元文3年(1738)・昭和20年と三度災害をうけましたが、天正16年(1588)の「検地書出」をはじめ20数点の文書が無事保存されており永福寺村を知る貴重な資料となっています。なお、この他の文化財も多く境内には「子授け地蔵」の名で村人に信仰された正徳5年(1715)銘の地蔵菩薩石像等があり、また寺の西門脇には正保3年(1646)・天和元年(1681)銘の庚申塔、元禄4年(1691)銘の地蔵石像が安置されています。(杉並区教育委員会)

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正保3年銘五輪庚申塔
この石塔は正保3年(1646)に造立された区内では最古の庚申塔で、江戸時代初期の庚申信仰の普及状況を示す貴重なものです。また五輪塔形式の庚申塔というのも非常に珍しく、中世の名残をみせる「武州多東郡養福寺村」という地方銘を刻んだものとしも数少ないものです。この庚申塔は当初永福1-27にあった修験儀宝院(廃寺)持ち塚(永福3-42)にありましたが、昭和30年頃から現在地に安置されています。(標柱)

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永福稲荷神社鳥居


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永福稲荷神社
当社は「新編武蔵風土記稿」多摩郡永福寺村の条に稲荷社(永福寺境内)とあって「上屋2間に1間半 内に小祠を置 拝殿3間に2間 社前に鳥居を立 村内の鎮守なり」とあるように旧永福寺の鎮守で祭神は宇迦之御魂命です。社伝によれば享禄3年(1530)に永福寺の開山秀天和尚が、永福寺境内の鎮守として伊勢外宮より豊受大神を勧請創建し、寛永16年(1639)の検地の際に永福寺村持ちの鎮守になったといわれます。明治維新後永福寺から分離して一社を成し今日にいたっています。境内末社として天王社・白山神社(以上合殿)白鳥神社(一殿)及び明治4010月に同村字水久保にあった北野神社(祭神・菅原道真公)が合祀されています。境外末社に御嶽神社(永福1-39-17)があります。(杉並区教育委員会)

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神田川の風景⑦ 緩やかなカーづを描いて流れます/永高橋

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永高橋                井の頭線を潜ります

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井の頭通りを右折して明大前駅へ向かいます/しんせんばし

井ノ頭通り

渋谷区宇田川町の渋谷駅前付近と武蔵野市関前にある境浄水場付近を結ぶ道路の通称。大半の区間が直線的な道路である。境浄水場から和田給水所までの間に水道管を敷設するための施設用地を道路に転用したために、以前は水道道路と呼ばれていたが、後に近衛文麿元首相によって井の頭街道と命名され、その後東京都によって井ノ頭通りと改められた。Wikipedia

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神田流域マップ(赤:神田川 緑:善福寺川)


by Twalking | 2017-04-08 09:09 | リバーサイドウオーク(新規)

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