無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 善福寺川02-荻窪   

日時 2017.4.10(火)
天気 晴れ


荻窪、阿佐ヶ谷、中野・・・、この中央線沿線は
名前だけは知っていましたが縁がなかったですね。
早くから開けた住宅街ですので興味を持ってました。

台地の低地部を善福寺川が蛇行して流れ、川沿いに
ズーッと緑地が続いて歩くのには最高です。
それに古刹の多いこと、やはり鎌倉道なんでしょうか。

ここは見所に事欠きません、面白い川筋だと思います。
神田川の合流点までは行きつきませんでしたが、
目的を変えてまたいつか訪ねてみたいと思います。



・・・荻窪


広義には荻窪駅周辺および歴史的に南荻窪・上萩・西萩北・西萩南が範囲に含まれる。荻窪という地名の由来はこの地を訪れた旅人が辺に自生していた萩を刈り取って草堂を造り、観音像を安置し荻堂(おぎどう)と名付けたことと、周辺の地形が窪地であったことによると伝えられる。荻堂のあった場所は現在では慈雲山荻寺光明院という寺になっている。関東ローム層
が地表を覆い水利がきわめて悪い周辺地域の中で、善福寺川流域は水利が良く古くから水田が開かれていた。寛平年間(889-897荻窪八幡神社が創建される。荻窪八幡には1052源頼義が前九年の役の戦勝祈願をしたと伝えられている。また、1477年には太田道灌が頼義の故事にならい石神井城主豊島泰今経を攻める時に戦勝祈願をしている。1590年荻窪村が西側の上荻窪村と東側の下荻窪村に分割される。江戸時代初期には下荻窪村は服部半蔵の上荻窪村はその配下の知行地であったがその後どちらも天領となった。1606年、青梅成木村に産する石灰の運搬路として青梅街道が開かれる。Wikipedia)

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善福寺川の風景① 環七の喧騒をよそになかなかいい感じの川辺です/忍川橋

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中道寺山門/荻窪
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中道寺

当寺は大光山千葉院と號し日蓮宗の寺院としては区内でも古い寺院の一つです。本尊は「願性の祖師」と呼ばれる黒目の日蓮上人像でその名のごとく玉眼作りの目が特徴的です。また、伝教大姉の作と伝える鬼子母神像も祀られています。当寺所蔵の3世日治が記した「中道寺由来記」によれば、天正10年(1582)大光院日道がこの地に草庵を建てたのが開創で、弟子日法が元和2年(1616)に大光山中道寺を称したといわれています。そして、寛永13年(1636)下総(千葉県)の豪族千葉氏の家臣でこの地に土着した宇田川氏が旧主の菩提のために土地を寄進しそれによって堂舎を整えたと伝えられています。安房誕生寺の末寺となったのもこの頃と考えられています。境内の鐘楼と山門を兼ねた鐘楼門は安永2年(1773)に建てられたもので区内では珍しい建物です。境内北側に祀られている宝暦6年(1756)の銘のある不動尊石碑は当時流行した熱病を鎮めるために造られたといわれ、現在も地元の人々の厚い信仰を集めています。なお、境内の鎮守(妙王)稲荷はかつて関東管領上杉顕定の家臣中田加賀守の守護神であったといわれ、大正時代当寺に奉安されたものです。(杉並区教育委員会)

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鎮守(妙王)稲荷              地蔵尊


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中道寺鐘楼門
この鐘楼門は天明元年(1781)に竣工した表門と鐘楼を兼ねたもので建築当初の姿をよく留めています。11尺の楼門形式の四脚門ですが、上層は鐘楼で桁行3間・梁間2間、下層は桁行1間・梁間2間とし、上層に腰組付の縁を廻していますが高欄はありません。建築様式は基本的には禅宗様で、肘付は和様とし下層の頭貫上に蟇股を入れ江戸期の折衷様の特徴を示しています。本鐘楼門は都内においては珍しい建築構造であり建築史上からも大変貴重なものです。(杉並区教育委員会)

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境外仏堂不動堂について
この不動堂の中には宝暦6年(1756)に造立された「南無妙法蓮華経不動明王 上荻久保村別当仲道寺」と刻まれた高さ6尺(1.8m)の石碑が納められています。不動堂が現在地に移されたのは大正末年の区画整理の時でかつては荻窪高校付近にあったといわれます。「新編武蔵風土記稿」にある「除地百六十八坪村ノ東北ノ方ニアリ不動ト云文字ヲ梵字モテエリシ石標アリ今ハ堂ヲ廃セリ」という不動堂が現在のものとの考えもありますが詳かではありません。不動明王は法華経の守護神として信仰され現世利益信仰を代表する明王で、人々は治病や安産・災害の除去、財福を得る、死の苦しみをのぞく等種々の願事に応じる仏として修験者や祈祷師を通じ広く信仰しました。この不動明王も下荻窪村に熱病が流行して多くの村人が亡くなった時、村人達が浄財を出しあって石碑を造りお祈りしたところ熱病の流行がピタリと止んだという話が今も残っており、別名を「護施不動明王」と名づけられています。それ以後、下荻窪村はもちろん近在の村でも熱病がはやるとこのお不動様へ願をかけてお祈りしたそうです。なお、境内にある記念碑は昭和53年に不動堂の再建を記念して建立されました。(杉並区教育委員会)


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三年坂/中道寺裏
この右手の坂道は「三年坂」と言われていますが名称の由来ははっきりしていません。三年坂と呼ばれる坂は、京都や熊本地方などにも数多くあり坂名の由来については様々に言われているようです。東京では、江戸時代より三年坂と呼ばれていた坂は旧東京市内に6か所ほどあるようです。いずれも地域の境界にあり、昔は急坂で寺院や墓地がそばにあったり、または寺院から見えるところにある坂ばかりです。この坂で転んだものは3年きり生きられないとか、3年たつと死ぬとか言われた伝承がありました。当地のこの坂もほぼ同様のいい伝えが残されており、かつては尾崎橋から宝昌寺北へ一直線に上がる坂で成宗村村境に位置していたと思われます。明治時代のころの地図でみますと崖端を直線で登る車馬の通行困難な急坂で、宝昌寺のうっそうとした森と杉二小の崖に挟まれた昼でも暗い気味の悪い物騒な感じのする所だったようです。そこで人々は坂の行き来に用心が必要だということから三年坂の名をつけたのではないでしょうか。通称地名には昔の杉並をしのばせるものがたくさんあります。この坂の地名も大切に伝えてゆきたいものです。(杉並区教育委員会)


・・・成田


東京都杉並区の汎称地名である。旧町名の「成宗」「田端」から各1字ずつ取った合成地名である。大まかにいえば五日市街道を中心に北端は青梅街道、南端は大宮八幡宮から五日市街道柳窪交差点に向かう細い道である。杉並の地名は成宗村の北境にあたる青梅街道に植えられた杉並木に由来している。旧田端村は旧成宗村を挟む形で東西に分かれていた。田端村と成宗村は1889年の町村制施行時に杉並村大字田畑・成宗となる。1932年の杉並区成立時東西に分かれていた大字田端の東側が「東田町」、西側が「西田町」となった。
Wikipedia

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善福寺川の風景② 神通橋から善福寺川緑地へ入ります/神通橋


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善福寺川緑地
善福寺川に沿う形で広がっている。成田一帯は古くから水はけが悪く蛇行しながら流れる善福寺川周辺には自然溜池ができるなど水害多い地域である。戦後は宅地化が進み、河川を改修し周囲は都立公園として整備された。下流に隣接する和田堀公園は溜池を中心として造成されたのに対し、善福寺川緑地は植物を中心に造成された公園である。荻窪一丁目の神通橋から五日市街道の尾崎橋までの約1.5kmの間に約400本の桜並木が続き、都内有数の花見の名所として知られ、近隣住民の憩いの場として、また遠方から植物や野鳥を観測する来訪者も多い。Wikipedia

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都立善福寺川緑地(善福寺川緑地・和田掘公園)マップ
(青:善福寺川 紫:五日市街道・人見街道 緑:鎌倉街道)

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成宗城址(なりむね)と伝えられますが遺構などはありません/共立女子大研修センター

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成宗城址/成田西(左岸)
鎌倉時代の砦跡。現在の共立女子大学研修センター杉並寮の敷地内にある。この地には鎌倉時代の御家人・中野左衛門尉成宗が鎌倉街道監視のためにを築いたといわれている。成宗村の名は室町時代後期の記録に既に残されている。小田原衆所領役帳における江戸衆の島津孫四郎の所領として「廿一貫文永福寺」とあり、その追記に「沼袋ニモ有之、成宗ニモ有之、目黒内ニモ有之」という記述が見られる。太田道灌は家臣を遣わして字矢倉の砦・柵を守らせたと伝えられており、また鎌倉街道がこの地を通っていたという伝承も残されておりこの地が地形上・軍事上からも武蔵野の拠点のひとつであったことが考えられる。Wikipedia抜粋・写真は矢倉橋)


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尾崎熊野神社鳥居/成田西・右岸

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尾崎熊野神社/成田西(右岸)
この神社は五十猛命・大屋津比咩・抓津比咩命の三柱を祭神とし旧成宗村の鎮守でした。当社の創建年代は詳らかでありませんが大宮八幡宮・同村白山神社とほぼ同年代の創建と言われ、安藤本家文書、宝昌寺境内出土の板碑によると、鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が代々崇敬する紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基くと伝えられています。「新編武蔵風土記稿」の成宗村熊野社の条には「除地、五畝、小名尾崎にあり、社は二間に二間半、神軀白幣・・・村内じ寳昌寺の持なり」とあり、江戸時代には宝昌寺が別当を務めていました。明治維新後、大宮八幡宮の神職が兼務するところとなり明治41年付近に散在していた稲荷社・猿田彦社・御嶽社を境内に合祀し現在は境内末社として祀っています。地名の「尾崎」は尾崎=小さな崎の意で、崎とは舌状にのびた台地突端部をあらわしこのあたりの地形に由来したものと考えられています。昭和43年秋、境内から縄文時代早期(井草式)の土器片、縄文時代前期(諸磯式)・土師器時代(鬼高式)の住居址が発掘され、古くからこの地には人間が住んでいたことがうかがわれます。なお、境内にそびえるクロマツの大木は当社の御神木で、樹齢約400年と言われ区内でも有数の樹木の一つです。(杉並区教育委員会)街道の風景 

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浜田山から続く鎌倉道のようです/鎌倉街道バス停(宝昌寺裏)


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宝昌寺/成田西(右岸)

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宝昌寺
白龍山宝昌寺は曹洞宗の寺で本尊は釈迦牟尼如来坐像です。当寺は文禄3年(1594)頃中野成願寺5世葉山宗朔によって開創されました。曹洞宗となるまえは真言宗の寺であったと思われ、室町期作の旧本尊大日如来像が現存しています。江戸時代の宝昌寺は、成宗村檀那寺として村民の信仰の拠りどころであり、また村内の熊野神社須賀神社白山神社の管理をする別当寺でもありました。安政3年(1856)火災のため本堂を焼失、現在の本堂は大正10年に建立したものです。この火災により伝来の古記録類はほとんど失われましたが、寺内にはなお多数の板碑のほか区内でも最古といわれる舟型地蔵尊や庚申塔などの文化財が所蔵されています。

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境内に奉安する豊川稲荷社は、明治末年付近一帯が飢饉に襲われた時、人々の災難消除と五穀豊穣を祈願して愛知県豊川閣から移し祀ったもので、その利益はいちぢるしく大正時代から近在諸村に豊川稲荷信仰がひろまったといわれます。(杉並区教育委員会)


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山門                 石仏


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成宗
須賀神社鳥居/成田東(左岸)成宗須賀神社/成田東(左岸)

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成宗須賀神社
この神社は旧成宗村本村の鎮守で祭神は素盞嗚尊です。社名は祭神が同じ素盞嗚尊である出雲の須賀社にちなんだものです。当社の由緒については近世初期に社殿を造営したともあるいは天慶4年(941)に創建され、慶長4年(1599)に再建されたとも伝えられていますが、安政年間に記録を焼失したため詳かでありません。しかし、いずれにしても近世初期にはすでに建立されていたものと思われます。江戸時代の当社は牛頭天王社と呼ばれていました。これは素盞嗚尊は牛頭天王の垂跡という神仏混淆の考えによるものです。

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「新編武蔵風土記稿」は江戸時代の当社について「字本村に鎮座し、社は二間半に二間・・・社から二〇間ばかり離れて鳥居を立つ、例祭は不定、農間に神酒を供す」と記しています。明治維新後、当社は成宗村の村社として人々の信仰を集め昭和33年には社殿を新築、同時に旧拝殿を神楽殿に改築するなど現在の景観を整えました。また境内末社としては御嶽神社と稲荷神社があります。(杉並区教育委員会)
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成宗弁財天/成田東(左岸)

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成宗弁財天
当社は成宗村がつくられたのと同じ頃、水神様のご加護を祈って遊水池(弁天池・現在神社裏の住友銀行社宅内)のほとりに建立されたのが始まりと伝えられていますが詳細は不明です。ご神体は鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったという伝説のある素焼きの曼荼羅像です。近世の当社は弁天社にお詣りし弁天池の水を持ち帰る習慣であったといわれています。近代になっても大正初期頃までは富士山・榛名詣り・大山詣り等の際には弁天池で水垢離をして道中の安全を願ったということです。この弁天池は天保11年(1840)馬橋村等が開削した新堀用の中継池として利用されましたが、その際池を掘り上げた土で富士講のための築山を作りました。成宗富士と呼ばれた富士塚がそれです。

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この富士塚は大正7年頃に取り壊されましたが、境内の大日如来像、惣同行の碑、浅間神社、手水鉢などはかつての成宗富士の面影を伝えています。また、鳥居前に残る石橋、水路跡は天保用水の名残で板型の用水路記念碑と共に貴重な文化遺産です。当社は弁天講の人々により厚く守られて来ましたが、現在は隣接する須賀神社の役員により引き継がれ維持管理されています。(杉並区教育委員会)

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善福寺川の風景③ まだまだ川辺の道は和田堀公園へ続きます/尾崎橋

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尾崎橋/五日市街道
上流に向って左側台地尾崎と呼ばれています。「おさき」とは突き出した台地の先端(小崎)を指す古い地名で、発掘された石器や土器また住居址からみてこの台地には約8,000年前から人が住んでいたことが知られます。またこの地名に付会して「源頼義 が奥州征伐のため当地を通過した際、源氏の白幡のような瑞雲があらわれ、これが因縁で大宮八幡宮を勧請することになったが、その白幡の見えたあたりを白幡(この付近)、尾のあたりを尾崎と名付けた」(大宮八幡宮縁起)との伝説があります。このあたりの風景は、五日市街道を通って小金井の桜見物に出かけた江戸の文人たちの随筆にも書かれており、辻知篤の享和3年(1803)の文には次の様に記されています。「馬橋村のなかばより左におれて、山畑のかたへのほそき道をゆく」「つづらおりめいたる坂をくだりて田面の畦をゆく。田の中に小河ありて橋をわたる。これを尾崎橋という」(杉並区教育委員会)

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成宗白山神社/成田東(左岸)

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成宗白山神社
当社は旧成宗村字白幡の鎮守で祭神は伊弉册命です。『新編武蔵風土記稿』によれば地名の「白幡」について「往古人王70代後冷泉院(在位10451068)の御字、奥州の夷賊蜂起しければ……」とあり、源頼義が奥州征伐のみちすがら、空に白幡がなびくような雲をみて、勝利の現われだと1社を勧請しその時からこの地を白旗(白幡)と呼んだと伝えています。また、成宗村については永禄2年(1559)の『小田原衆所領役帳』に「永福、沼袋、成宗3ヶ村、弐拾壱貫文、島津孫四郎」とあるので古村であることがわかります。この成宗村は江戸時代に天領(幕府直轄の領地)になるまでは旗本・岡部氏の知行地になっていました。なお「白幡」はかつて一時期ではあるが和田村に属していたと思われます。当社は『新編武蔵風土記稿』多摩郡成宗村の条に白山社とあって「除地六畝、東南の方小名白幡にあり、社は二間半に二間南向、社より十二間ほど隔てて鳥居をたてり」と記されており、江戸時代には村内の宝昌寺が別当職を務めたといわれています。創建については記録もなく詳かではありませんが、古墳時代の土器等が発見されていることから大宮八幡宮と同じ頃だと考えられます。現在の当社は境内末社に御嶽神社・稲荷神社・金刀平神社・第六天神社の4社を合殿し社殿(昭和47年新築)社務所(昭和55年新築)神輿庫などの景観を整えています。(杉並区教育委員会)


・・・
大宮

杉並区のほぼ中央に位置する。町域東部は堀ノ内、北部は松ノ木に、北西部は成田東と成田西に、西部は浜田山に、南部は方南通りを境に永福・和泉に接している。北辺を沿うように善福寺川が流れている。町域北部の善福寺川沿い一帯には都立和田堀公園が広がる。川沿いに広場や、樹木も多く、区内でも緑が多く残されている。当地域には地名の由来にもなっている大宮八幡宮がある。大宮八幡宮は子育て・安産の神様としても知られ遠方からの参拝者も多い。
Wikipedia

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善福寺川の風景④ 左が和田堀公園、右が大宮八幡宮になります/大成橋

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大宮遺跡(右岸)

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大宮遺跡(東京都指定遺跡)
善福寺川南崖上に位置するこの地は大宮遺跡の発掘地です。大宮遺跡は都内で初の方形周溝墓(しゅうこうぼ)が発掘されたことで有名です。方形周溝墓は「方形の四方を溝で囲んだ土器時代の古代人の墓」で、弥生時代末期のものとされています。昭和44年の発掘調査では3基の周溝墓が発見され、そこから土器や勾玉、ガラス玉等が見つかりました。特に壺形土器の配列やそこに穴をあけた形状(穿孔土器)から、この遺跡が住居跡ではなく尊貴な者(族長=祖神)の墓域祭祀遺跡であることが判明しました。当時善福寺川沿いの低地では水田耕作が行われていた模様です。そして対岸松ノ木遺跡には多くの竪穴式居住跡が発見されています。つまり川や田んぼを挟んで住居と祭りの場所を厳密に区分するという観念が当時から存在していたことを示します。この遺跡は大宮八幡宮の旧社殿地ともほとんど重なり、この一帯が聖域とされていた古代からの信仰がのち大宮八幡宮の創建につながったものと思われます。大宮遺跡は発掘後埋め戻されましたが、出土品の一部は当宮清涼殿に展示してあります。(大宮八幡宮)

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大宮八幡宮一の鳥居

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参道・二の鳥居

大宮八幡宮社叢(
東京都指定天然記念物)
「大宮」という地名は神域が広大であったことに由来する。現在の境内は14000坪。樹齢を重ねた大樹が点在し、周囲も緑が多く今も武蔵野の面影を残している。ことに社叢につつじが多いのは徳川3代将軍家光の発願により1000本の山つつじが植えられたからである。満開時の華やかさからいつしか「山照らしつつじ」と称されるようになったと伝えられている。現在も境内には166000本のつつじが植えられている。
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数々の老木の中でも御社殿左側にある菩提樹は、結城秀康(徳川家康の次男・越前松平家)の側室で当社を篤く崇敬した清涼院のお手植えと伝えられ樹齢は350年以上である。6月は黄金色の清楚な花をつけ夏には青々とした葉で日かげをつくり秋には種を落とす。また神門の両袖には梢高く茂り合う御神木の夫婦銀杏があり、特に右の「男銀杏」は杉並区内で一番の巨木である。「女銀杏」は秋には実をつけ色づいた葉は秋空の境内に彩をそえている。(東京都教育委員会)

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神門

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大宮八幡宮
当宮は古く江戸8箇所八幡のうちに数えられた大社です。大宮とよばれるのは往古から広大な境内をもつ社であったことから社名とも、また鎮座地の地名にもなったといわれています。祭神は応神天皇(誉田別尊)仲哀天皇(帯仲彦尊)神功皇后(息長足比売尊)の3神で、創立については当宮の縁起(天正19年奥付)に「平安時代末、源頼義が奥州へ出陣の際、当地で白雲が八つ幡のようにたなびく瑞祥をみて、八幡大神の霊威を感じ勝利を得ることができた。この報賽のため康平6年(1063)この地に源氏の氏神である八幡神を祀ったのが当宮の起源である」と記されています。南北朝時代の貞治元年(136212月大宮の社僧が紀伊国(和歌山県)熊野那智大社に納めた願文の写し(米良文書)があり、これによるとその頃から当宮に奉仕する社僧のいたことがわかります。
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徳川時代には代々朱印地30石を与えられて大名や武士たちからも武勇の神として崇敬されてきました。昭和44年には善福寺川に面する旧境内地から首長の墓とみられる方形周溝墓3基が発掘されました。また対岸の松ノ木台地からも竪穴住居あと群や、縄文・弥生・古墳時代の各期にわたる遺物が数多く出土しているので、当宮の周辺は古くから集落がいとなまれその中心地として重要な地域であったことがうかがわれます。社宝には豊臣秀吉の制札・由比正雪の絵額・山岡鉄舟筆の幟・武術練達祈願の額などがあります。(杉並区教育委員会)
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江戸名所図会 大宮八幡宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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大宮八幡宮境内マップ

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和田堀公園
杉並区に所在する都立公園である。善福寺川に沿う形で広がっており、東京23区内では数少ない閑静かつ広大な緑地帯により形成された公園である。12の橋がまたがる川伝いの公園。当地は地盤が低く住宅地の低層を蛇行する善福寺川は氾濫を繰り返す歴史がある。氾濫により自然に溜池が作られ古くから水はけの悪い土地である。戦後の宅地化が進む中、河川を改修して周囲に池を作り遊具や広場を整備し公園として開園した。Wikipedia


・・・堀ノ内


1451年(宝徳3年)の下知状に「堀之内」として初出する。もとは和田村の一部だったといわれ、江戸時代には多摩郡堀之内村。江戸で妙法寺の参詣が人気を博し堀ノ内詣と謂った。1889年(明治22年)和田堀之内村の大字となる。1932年(昭和7年)より杉並区堀ノ内。和田義盛の居館があったと伝えられる。Wikipedia

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善福寺川の風景⑤ 和田掘公園に続き右岸に斉美(せいび)公園があります/武蔵野橋

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斉美橋/荒玉水道道路          武蔵野橋

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堀ノ内熊野神社鳥居/堀之内(左岸)


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堀ノ内熊野神社
当社は旧堀之内村の鎮守で大屋津姫命、五十猛神、抓津姫命の三柱が祀られています。社伝によれば当社は文永4年(1267)に紀州(現和歌山県)の熊野三山を勧請したのにはじまり、室町時代に北条氏綱が上杉朝興を破り江戸を攻略した際社殿を修築し祝祭を行い、江戸時代の寛永11年(1634)にさらに修繕を加えたと伝えられています。別当は村内の妙法寺が明治維新までつとめていました。江戸時代の当社の用数を「新編武蔵風土記稿」は「除地、四百五十坪、外に鎮守免一町九段、小名本村にあり、社は四尺に三尺南向、拝殿二間に三間、・・・前に石の鳥居を立」つと記しています。総欅造りの社殿は「安政4年(18572月吉日氏子当村住人井上龍三」と銘が刻まれ、その精巧かつ豪華なことは区内随一の評があります。

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また、桧造りの幣殿は大正12年の造営でこの時旧幣殿を現在の神楽殿に改修しました。昭和29年稲荷社・第六天王社の合殿社を改新築、同35年社務所の新築、社殿の整備を行い、同46年奥殿土台石の修復、神楽庫の新築等今日の景観を整えました。当社は文化財にも恵まれまた大正1291日の関東大震災の当日、浅草で買い求め猛火の中を無事帰着して納められた「火伏の神輿」が祭礼の際には町内を渡御します。なお、当社には古くから奉納された絵馬・額等も多く所蔵されています。(杉並区教育委員会)
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善福寺川の風景⑥ 綺麗な夕焼けに出合いました。環七和田堀橋から方南町駅へ向かいます/堀之内橋

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神田川・善福寺川流域マップ
(緑:善福寺川 赤:神田川 緑丸:善福寺池 赤丸:井の頭池・合流点)

by Twalking | 2017-04-15 18:28 | リバーサイドウオーク(新規)

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