無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(2)明大前~高田馬場01-中野本町   

日時 2017.4.19(水)
天気 晴れ

春なのに夏日の予報、木陰もあろうかと出かけました。
明大前から先、目白までは初めて歩きますが、
中野界隈、下落合は一度訪ねて見たかった街です。

神田川の両岸のスポットを見て廻りましたが、
見所が一杯ありますね~、川辺は遊歩道になっていて
葉桜の下を気持ちよく歩けました。


・・・和泉(杉並区)


区南部に位置し東で環七通りを境として方南、南で甲州街道を境として世田谷区松原・大原、西で井の頭通りを境として永福、北で方南通りを境として大宮・堀ノ内と隣接する。甲州街道が通過し神田川が流れる。和泉の名の由来は「どんな日照りでも枯れることがなかった」といわれた泉に由来する(現在は枯れている)。(Wikipedia

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街道の風景① ここからスタート、改修中なので先から河岸へ/神泉橋(井の頭通り)

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井ノ頭通り
渋谷区宇田川町の渋谷駅前付近と武蔵野市関前にある境浄水場付近を結ぶ道路の通称。大半の区間が直線的な道路である。境浄水場から和田堀給水場までの間に水道管を敷設するための施設用地を道路に転用したために以前は水道道路と呼ばれていたが、後に近衛文麿元首相によって井の頭街道と命名されその後東京都によって井ノ頭通りと改められた。(Wikipedia

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龍光寺山門/和泉(左岸)

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龍光寺/和泉
当寺は泉涌山医王院と号する真言宗室生寺派の寺院です。本尊は薬師如来立像で、杉並区内では珍しい平安時代末期12世紀前半)に造立されたものです。開創は明治10年の書上げによると承安2年(1172)とされ、開山は寺伝によれば龍観和尚(明応21493年寂)と伝えられています。山号の泉涌は和泉の地名の由来ともなった貴船神社(和泉3-22)の泉に、院号の医王は本尊の薬師如来に因むものといわれています。また寺号の龍光は当時のすぐ下を流れる神田川の源、井之頭池にすんでいた巨大な竜が川を下ってきて、この付近で雷鳴をとどろかせ光を放って昇天したことに由来すると伝えられています。江戸時代、当寺の本尊は難病にご利益のある薬師如来として信仰あるく護摩の煙が絶えなかったといわれています。

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戦時中の供出で今はなくなってしまった寛保2年(1742)銘の梵鐘にも「医王之宝殿」「衆病悉除抜苦」と記されていました。なお現在の梵鐘は昭和29年に造られたもので区内では最も大きいものです。当寺に伝わる文化財としては室町期に作られたといわれる興教大師像、文明2年(1470)銘・明応5年(1496)銘の板碑のほか、江戸時代の庚申塔・供養塔など多数が所蔵されています。また、当寺は明治初年に廃寺となった宝仙寺末の慈冠山日照寺(杉並区永福1-34)を合併しています。(杉並区教育委員会)

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山門                 新四国八十八ヶ所和泉霊場

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和泉熊野神社鳥居/和泉(左岸)


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和泉熊野神社
当社は旧和泉村鎮守で現在も「和泉の鎮守さま」として人々に親しまれています。祭神は天御中主命・伊弉諾命・伊弉冉命で明治7年には村社となっています。社伝によれば文永4年(1267)に紀州の熊野神社の分霊を祀ったのが当社の創建で、弘安7年(1284)に社殿を修造し、その後北条氏綱が上杉朝興と戦い江戸城を攻略した際にも大いに社殿を修めたと伝えられています。江戸時代には寛永16年(1639)と元禄9年(1696)の両度にわたって社殿の改修をおこなったことが棟札によってわかります。現在の社殿は文久3年(1863)の造営で明治4年に修覆したものです。

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「新編武蔵風土記稿」は江戸時代の当社について「除地300坪、村の北の方にあり、屋2間四方、本社5尺四方、拝殿2間半に2間、社前に木の鳥居を立」と述べています。当社の境内からはかって縄文時代の土器・石斧・石棒、古墳時代の土師式土器なども出土しており、古い時代から人々がこの地で生活していたことがわかります。また境内には徳川家光が鷹狩りの途中に休息しその時に手植えしたと伝えられる松の大木もそびえています。例祭日は9月第2日曜日です。(杉並区教育委員会)

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神田川の風景①静かな住宅街ですが、街に潤があっていいですね/中井橋


・・・方南

杉並区南東部に位置する。町域北部は善福寺川を境に杉並区和田に接する。西部は環七通りを境に杉並区堀ノ内と和泉に接する。方南を含むこの一帯は和田村といい字として方南、向方南などが江戸期より見られた。地名はかつて和田村(または杉並村)から南に向かった方という説や、かつての江戸幕府の鷹場を持つ野方領の南端という説などが見られるが詳細は不明。杉並区発足時には字方南と周辺の字を併せて方南町となった。(Wikipedia


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神田川の風景② 大きく蛇行しながら環状7号線を横断します/方南橋(環7)

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神田川環状7号線地下調整池
環状7号線の道路下(40)に延長4.5km、内径12.5mのトンネルを設置し、水害が頻発している神田川流域の洪水を貯留するものです(東京都第3建設事務所)


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東運寺山門/方南(左岸)

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東運寺
釜寺」の通称で親しまれている念仏山東運寺は阿弥陀如来像を本尊とする浄土宗の寺で、「釜寺」という通称の由来となった「身代わり地蔵尊」も安置されています。戦国のころ天正元年(1573)備前の僧一安上人が、安寿と厨子王の守り本尊「身代わり地蔵尊」を奉じてこの地に来ました。これに帰依した方南の大地主鈴木伊兵衛が屋敷を寄進して念仏堂としたのが、当寺の開創と元禄14年(1701)もと住職であった祐梵上人筆の由緒書は伝えています。この「身代わり地蔵尊」は山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王をお坊さんの姿になって助けたという言い伝えがあり、それにちなんで当寺本堂の屋根に釜を置いたといわれます。

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現在の大釜は昭和20年の戦災で本堂焼失後、当地の信者が寄進したもので米一俵を炊くことができるといいます。文化財としては元禄2年(1689)の刻銘のある半鐘や江戸初・中期の庚申塔・石仏などが保存されています。また、山門はもと田村右京太夫江戸屋敷の脇門(浅野内匠頭が通ったと伝えられる)であったのが、そのゆかりの人々の冥福を祈って寄進保存されたものです。そのほか中国山東省の孔子家より頂いた銘木「楷樹」が数株植えてあるのも珍しいです。なお、大正11年、下谷入谷町にあった東運寺(慶安41651年茂山上人開山)と合併し改めて念仏山東運寺となりました。(杉並区教育委員会)

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山門
この山門は元禄の頃、芝田村屋敷の脇門にして浅野内匠頭是を通ると伝う。明治末葉、三井総本家これを今井町に移し、元織田有楽斎如庵の茶室(国宝)の表門となせるも、用うること稀なりしが為め「開けずの門」と称すと。戦中解体保管しあるを適々昭和28年同家御当主元男爵三井高公(襲名八郎右衛門)殿より当山中興精誉桂巌上人に寄進せらる。因に当山門は屋根瓦は当初田村公の時、明治末三井家の時、当山に再建の時の三種あり、釘は全く用いず組合せ式、門自体約五分内側へ傾けてある由、門扉開閉確実の為めとは古昔の工匠修錬実績の智慧に無限の敬意を表せんものを。茲に昭和3077日落慶法会を修す。住職勧誉興道代(説明板)


・・・南台(中野区)

中野区の最南部に位置する。地域の東部は渋谷区本町に、南部は渋谷区笹塚と幡ヶ谷に接する。北部は方南通りに接し中野区弥生町との境に、西部は杉並区方南に接している。(Wikipedia

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神田川の風景③ 環7を越えると中野区、右岸が小高い/丘になっています/角田橋

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多田神社鳥居/南台(右岸)

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多田神社の由緒
多田満仲公は第56代清和天皇の御曾孫多田源氏の祖神である。幼少より文武両道に秀で国家に貢献されたる偉勲功績は、わが国史に燦然として輝き武門の棟梁たる勅諚を賜わり国家鎮護の大任を果たされたるのみならず、或は沼地を開拓して広大なる田畑を造成し或は河川を改修して農村の拡大に寄与し、併せて源家興隆に確固たる基盤を築かれた。またその成功は関東に及び特に雑色村の文化向上に尽された事蹟は(甚少)少ではない。仍って時の里人の敬慕浅からぬものがあった。その第2子は歴史上著名な頼光公であり第4頼信公は平忠常を討ち関東を平定、続いて頼義・義家の父子二公は前九年・後三年の両役に大軍を率いて奥羽の地に赴きその凱旋の帰途、寛治6年(1092)祈願達成の報賽として大宮八幡宮に神鏡を献じ別当宝仙寺を建立すると共に、大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地である当地に日頃淑敬する満仲公を建てたところ、雑色村の鎮守社として住民に崇敬されて来たということが「武蔵名勝図会」に記されている。新編武蔵風土記稿には「多田権現稲荷合社」と記されている。慶長2年社殿を再建、更に江戸後期の文政年間修復を加えた。明治14年改築しまた明治44年にも改築したと社史に記してあるが、太平洋戦争後、氏子の急増により昭和35年社殿を改築したのが現在の社である。(境内石碑)

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雑色村と多田神社
現在の南台の地域は古くから雑色(又は雑色村)とよばれていました。そしてこの多田神社を雑色の鎮守としてあがめ現在にいたっています。当社は約900年前、寛治6年(1092源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮2丁目)に参詣のおり、先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられています。したがって当社の創建の時からすでに雑色の地は大宮八幡宮とのつながりがとりわけ深く、天正19年(1591)の検地帳にも「多東郡大宮之内雑色村」と記され大宮領に含まれていたことがわかります。また、鎌倉街道と伝えられる古道が両神社〜雑色地域の間に通じていたともいわれています。「雑色」とは皇室の文書や道具類を納める倉を管理したり、皇室行事の実施を担当する役所で働いていた人々のことで、その所有地であったことに由来する地名とする説と、大宮八幡宮の造営に働いた人びとの所有地であったことが地名の起りであるとする説があります。(中野区教育委員会)

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すぐ隣は宝福寺、真言宗豊山派のお寺です/南台(右岸)

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本堂
                      筆塚碑

筆塚碑

この「筆」の字は戸村直衛という人が書いたもので明治の初めに建てられたと考えられています。戸村氏は明治3年雑色村に「戸村塾」を開いた人で、中野区最初の公立校「桃園小学校」の教師も勤めました。身分・経歴は明らかではありませんが、家塾開業願や小学校設立伺書などによれば若いころに幕府の関係者から数学・書道・洋学を学んだ知識人であったことがうかがえます。明治5年に学制が発布されるまで庶民教育は江戸時代から民間の塾や寺子屋で行われていました。明治初め中野にも戸村塾など数カ所の私塾があったといいます。明治4年当時、戸村塾の生徒は25名で教場は宝福寺や村内の民家をあて学制発布後も存続し私立戸村小学校から桃園小学校雑色分校へと引き継がれました。この筆塚は師弟の使用した毛筆を納めて供養し学業上達を願ったものと考えられます。これは中野の初等教育を物語るゆかしい記念碑です。(中野区教育委員会)


・・・弥生町


中野区の南部に位置する。町域東部は渋谷区本町と新宿区西新宿に接する。南部は概ね方南通接し渋谷区本町と中野区南台と接する。北部は神田川と善福寺川に接し中野区本町と杉並区和田に接している。なお善福寺川は町域内で神田川と合流している。西部は杉並区方南に接している。(Wikipedia)

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神田川の風景④ 左岸が小高い丘、右岸に丸の内線の車輛基地があります/栄橋(方南通り)

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方南通り
新宿区西新宿から渋谷区、中野区を経由して杉並区永福に至る都道である。都道14号新宿国立線に属する。当初は栄町通りと呼ばれていた。(Wikipedia


中野車両基地
中野区弥生町5丁目にある東京地下鉄の車両基地および車両工場の総称である。車両基地の中野検車区と車両基地の中野検車区で構成され丸ノ内線の車両が所属している。(Wikipedia

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神田川の風景⑤ 左手から善福寺川が合流します。左岸は杉並区になります/和田廣橋(善福寺川)

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神田川合流地
善福寺川は善福寺池を水源とした荒川水系における神田川水系に属し、区内の中央部を蛇行しながら東へ流れ、中野区との区界付近で神田川と合流します。この先台東区柳橋付近で隅田川に合流しやがて東京湾に注がれます。この神田川水系は都内の中小河川の中でも最大規模の流域を持つ都市河川です。(善福寺川流域案内板/杉並区)

善福寺川01(善福寺池)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24083934/
善福寺川02(荻窪)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24090782/


・・・和田/杉並区

杉並区の東部に位置する。北部は青梅街道に接しこれを境に高円寺南になる。西部は環七に接しこれを境に梅里と堀之内になる。南部は善福寺川に接しこれを境に方南になる。東側は中野区との区界となり東部は中野区本町に南東部は弥生町に接する。(Wikipedia

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立法寺鳳凰門/和田(左岸)

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立法寺
当寺は長廣山立法寺と号する日蓮宗の寺院で本尊は一塔両尊四士です。寺伝によると永正3年(1506)長廣院日立上人を開山、秋里氏を開基とし赤坂(現港区)に開創され、その後、青山権田原(現港区元赤坂)に移転したと伝わります。ただし「文政寺社書上」には寛永8年(1631)立法院日了上人により青山権田原甲賀町(現港区元赤坂)に開創されたと記されています。元文2年(1732)千駄ヶ谷村名主太十郎の先祖弥次右衛門より土地を寄進され、当寺7世境妙院日性上人の代に千駄ヶ谷村(現国立競技場内)へ移転しました。安政2年(1855)の火災により堂宇を焼失しましたが、明治初年に再建されました。大正8年(1919)に明治神宮外苑造営のため現在地に移転しました。

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その後、昭和56六年(1981)宗祖七百遠忌の際、本堂、客殿、庫裏を新築、平成15年(2002)立教開宗750年・開創500年の記念事業として鳳凰門(仁王門)と宝塔を建立しました。当寺に安置されている日蓮上人像は文永11年(1274)日蓮上人が佐渡流刑を赦され島から離れる際、佐渡の信者のために自作した木坐像で「感応の高祖日蓮大菩薩」と呼ばれたと木坐像の「略縁起」(明和317664月)に記されています。境内には葛飾北斎の門人であった浮世絵師・魚屋北渓(嘉永31850没)の墓があります。(杉並区教育委員会)


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東円寺山門/和田(左岸)

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東円寺
医王山悉地院東円寺は真言宗豊山派の寺で薬師如来像を本尊とし、江戸期に造られた聖観音像も安置されています。開創は天正元年(1573)で備後国の僧祐海(一説には秀海)が開山したと伝えられています。本堂は徳川家康が入府した頃に九州から出府した三谷氏の発願により改築したと伝え、さらに昭和7年に再改修したものです。境内にある観音堂は江戸33観音霊場の第19番札所であり、また六地蔵石像は寛政8年(1796)に造られたものでしたが破損がはなはだしく近年新たに造立したものです。墓地入口にはかつての妙法寺道の北側にあった「十三塚の碑」が移されています。このほか文化財としては康永3年(1344)・至徳3年(1386)銘の板碑が保存されています。

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なお、当寺の飛境内(和田1丁目13番)には御不動様が祀られています。この御不動様は大山不動尊の道しるべであったと伝えられるもので今も人々の信仰を集めています。(杉並区教育委員会)




・・・本町
(ほんちょう)/中野区

中野区のほぼ中央部に位置する。町域の東部と南部は神田川に接しており、東部は川を境に新宿区西新宿に、南部は中野区弥生町に接する。北部は青梅街道を境に中野区中央に、西部は杉並区和田にそれぞれ接している。町域内を中野通りと山手通りが縦貫している。中野区のほぼ中央部に位置するため、本町とされる。(Wikipedia

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街道の風景② 中野通りを横断します、新中野・中野駅へ通じています/寿橋

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東京都道420号鮫洲大山線
品川区八潮橋交差点と板橋区仲宿交差点を結ぶ特例都道である。狭隘区間が多く残るがおおむね山手通りと環七通りの中間を通りそれらを補完する役割を担っている。南長崎6丁目交差点- 笹塚交差点間の通称は中野通り。(Wikipedia

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新宿副都心が見えてきました      中野新橋 

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本郷氷川神社鳥居/本町(左岸)

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本郷氷川神社
文明元年(1496太田道灌が江戸城を工築するにあたり鎮護のため武州大宮氷川神社より勧請し奉斎せられた。太田家の崇敬篤く例大祭には幣帛の寄進があった。文明9年(1477)道灌が石神井・練馬の両城を攻略するにあたり戦勝を祈願し社頭に杉一株を献植したが惜しくも後年落雷のため枯亡してしまった。道灌の凱陣後、戦勝を祝ぎて社殿を修復した。以来、当本郷村の鎮守社として氏子の崇敬篤く奉られている。(東京都神社名鑑)

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福寿院山門/本町(左岸)

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福寿院真言宗豊山派
当院は元応元年に智真上人の開基と伝えられている。本尊の薬師如来像は弘法大師の作と伝えられていて、一体を当院に安置し、他の体は新井薬師の本尊としたという。なお、この本尊は霊仏であり今日でも秘仏となっている。

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また当院の境内にある弁財天は井之頭の弁財天の娘であるとの言い伝えもある。文化財として文和3(1354)、貞治4年などの銘のある板碑(鎌倉時代に流行した卒塔婆の一種で石で作られている)が保存されている。(中野区寺院案内)


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宝生東郷の宮由緒
主祭神:天乃御中主之命 国常立之命
東郷の名称はこのあたりの旧町名「東郷町」からきております。宝生(ほうせい)の名称は右の建物の中に鎮座の八津御嶽神社、文治元年1185年後鳥羽天皇の御代、鎌倉時代の守護地頭職が現在の山梨県巨摩郡南部町の地になだらかな宝生山のふもと、時の地頭職八津多多聞左エ門藤原如流師の「生きている事が宝」と全国各地に神徳の教導をして以来、平成24730100周年記念として神田川遊歩道沿いの東郷町に鎮座されました。人びとの健康を守り、自家成立繁栄、子育ての力、智恵の力をいただくやすらぎのお宮です。(宝生山八津御嶽神社敬神会)

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神田川の風景⑥ 山手通り長者橋を横断しますがちょっと寄り道/長者橋(山手通り)

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成願寺山門/本町(左岸)


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成願寺(じょうがんじ)/本町
中野区本町2丁目にある曹洞宗の寺院。山号は多宝山(たほうざん)。中野長者と呼ばれた鈴木九郎の寺として知られる。開基である鈴木九郎は紀州出身で室町時代に当地にやってきた商人であった。商売が成功し財を成し「中野長者」と呼ばれ、成願寺付近に邸宅を構えていた。鈴木九郎には小笹という一人娘がいたが18歳で病死し九郎に深い悲しみを与えた。これを機に残りの人生を仏門に生きる決意をし、小田原の大雄山最乗寺の春屋宗能の教えを受け名を正蓮に改め僧侶となり邸宅を寺院にしたのが当寺院の始まりである。1438年のことであった。名は娘の戒名から当初は正観寺となっていたが、江戸時代に成願寺と改められる。幕末には一時、新撰組の近藤勇とその家族が当寺院に身を寄せていた。明治時代に神仏分離令により十二社(現:新宿区西新宿)の熊野神社分離され現在に至っている。Wikipedia

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龍鳳閣 (開山堂)           圓通閣(百観音堂)


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鍋島家墓所
この成願寺には蓮池鍋島家の墓所があります。中野在来の寺院で大名家の墓所があるのはここだけです。蓮池(佐賀市東部)の鍋島家は、直澄が寛永16年(163952600石を与えられ分家したのに始まります。墓域に入ると10基の墓石が立ち並んでいます。手前の自然石が4代藩主・直恒の供養碑、3番目の四角いのが墓石です。銘文によれば、直恒は寛延2年(1749)に麻布龍土町の藩邸で病死し、衾村(目黒区)に葬られましたがのちその墓は成願寺に移されました。他の8基の墓は2代直之・8代直与・9代直紀の子供達のものです。また墓地の右手の奥に鍋島地蔵と呼ばれる地蔵姿の墓碑があり「真如院殿一幻妙覚童女之霊」の法名が刻まれています。(中野区教育委員会 写真は鍋島地蔵)

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開基中野長者鈴木九郎墓地 

鈴木九郎 
建徳
2年(1371)頃-永享12年(1440))は室町時代の商人・僧侶。紀伊国の生まれ。現在の中野区から新宿区西部(中野坂上から西新宿付近)の開拓や商売で成功し、中野長者(なかのちょうじゃ)と呼ばれた人物として知られる。代々紀州で熊野神社の祭祀を務めた鈴木氏の末裔で、応永年間に武蔵国多摩郡中野邑(現在の中野区)に来たとされている。武士の出自であるが武士として生計を立てることはできず、馬の売買や当時荒地だった中野付近の開拓で生計を立てようとした。商売は成功し財を築き上げて近郷の誰よりも財を成し人々から中野長者と呼ばれるようになった。Wikipedia

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江戸名所図会 成願寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・中央/中野区


中野区のほぼ中央部に位置する。東部は神田川を境に新宿区北新宿に南部は青梅街道を境に中野区本町に接する。北部は大久保通りを境に中野区東中野・中野に西部は杉並区高円寺南に接している。地域内を中野通りと山手通りが縦貫している。(Wikipedia


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街道の風景③ 青梅街道と山手通りが交差する中野坂上、左に行けば宝仙寺です/中野坂上

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宝仙寺山門/中央(左岸)

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宝仙寺
(ほうせんじ)中野区中央2丁目にある真言宗豊山派の寺院。中野区でも屈指の広大な寺院で千年近くの歴史を誇る古刹である。山号は明王山。戦前は当時の中野町役場も置かれていた。また著名人の葬儀・告別式も多く執り行われることでも有名な寺院である。節分の僧兵行列も趣き深い。寛治年間、源義家によって現在の杉並区・阿佐ヶ谷にて開かれた。本尊は義家が後三年の役の際に護持していた不動明王像で良弁作と伝えられる。また宝仙寺は同じ杉並区の大宮八幡宮の別当寺となった。本尊は鎌倉時代には秘仏になった。室町時代になり現在の位置に移転した(1429年)。

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江戸時代には優れた僧を出し歴代の将軍から厚い保護を受け発展した。当寺院の僧侶が将軍の御前論議に参加することもあった。また将軍家が鷹狩りに出た際の休憩所としても利用された。明治期以降、境内には中野町(現在の中野区)の役場が置かれていた。戦災を被ったものの戦後再建され三重塔や本堂を見ることができる。(Wikipedia


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御影堂
御影堂とは弘法大師の御影すなわちお姿を安置してあるお堂のことです。このお堂は三間四方の純木造建築です。このお堂に安置してある日輪弘法大師像は脱活乾漆という漆と麻布で作られており、この技法でこのような大きな仏像は壹千年以上も絶えて作られておりませんでした。この弘法大師像は座像で高さは後背まで入れて約3mです。(説明板)

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三重塔
当寺の三重塔は宝永13年に建立された塔が飛地境内の塔ノ山公園(現在の中野区立第10中学校)にありましたが、昭和20年の戦災で焼失致しました。平成20年の興教大師850年御遠忌記念として再建されました。この塔は焼失した塔とほぼ同じ高さの約20mで、奈良法起寺に範をとり飛鳥様式の純木造建築で心柱は基壇まで貫通しております。境内には大日如来を中心とした胎蔵五仏が安置されております。(説明板)



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宝仙寺の石臼塚
中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになった。その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。それを見て当山、宝仙寺第50世住職富田敦純大僧正(宝仙学園創立者)が人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして境内に「石臼塚」を立て供養した。(中野区商店街連合会・中野法人会)

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堀江家墓所
堀江家の起りは明らかではありませんが12代重賢(しげかた)の徳川幕府への届出書によれば、越前(福井県)から同家の先祖・兵部という人が農民10数人とともにこの地に来て、弘治元年(1555)中野の開発に着手したとされています。当時、関東を支配していた小田原北条氏から小代官に任ぜられ、歴代の当主は中野村の名主として中野とその近郷の有力な指導者となりました。堀江家がはたした業績によって中野村はしだいに発展していきました。その間の村政及び幕府との関係文書は現在「堀江家文書」として東京都立大学に保管され研究に供されています。堀江家は将軍鷹場の村むらへの御用触次、青梅街道中野宿の問屋場役人、組合村寄場役人のほか江戸城内への種物・なす苗の上納など各方面に事跡を残しましたが、明治以降も中野の町村政のためにはたした業績はまことに大きく現在の中野区の発展の礎となっています。(中野区教育委員会・明王山宝仙寺)

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江戸名所図会 中野宝仙寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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神田川流域マップ(中野区)
(赤:歩行ルート 青:神田川・善福寺川 紫:青梅街道 茶:方南通り・中野通り・山手通り)



by Twalking | 2017-04-22 09:14 | リバーサイドウオーク(新規)

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