神田川(3)高田馬場~江戸川橋01-高田
日時 2017.4.25(火)
天気 晴れ
高田馬場一帯はじっくりと歩いてみたい所です。
左岸は目白、右岸は早稲田、見所が一杯あります。
川辺も桜並木の遊歩道がついていて憩えます。
ひとまず面影橋から左岸の高田を散策。
ここは鎌倉道が通り江戸名所図会にも描かれた旧地、
閑静な住宅地ですが昔の面影が残っていい雰囲気でした。
・・・高田馬場/新宿区
高田馬場1丁目から4丁目までがある。ただし、本来の高田馬場とは西早稲田3丁目にあった馬場の名で、江戸時代に「高田馬場の決闘」が戦われたのもその地である。地名としては付近一帯(北の豊島区高田や西の中野区上高田に至る)を「高田」と呼んだ。通称「馬場(ばば)」(Wikipedia)
街道の風景① ガード下に「鉄腕アトム」の大きな壁画、夢があって楽しいですね/早稲田通り
高田馬場再開発記念碑
/高田馬場駅
高田馬場とは寛永
13年(
1636)この東方約
1km
戸塚町の中央に設けられた江戸時代旗本たちの馬術練習や流鏑馬などを行う馬場から起った名称である。歴史に残る忠臣蔵の堀部安兵衛の助太刀の馬場としても著名である。明治15年(1882)早稲田大学の前身東京専門学校が早稲田の森に建設され、明治35年(1902)早稲田大学と改称、学生の往来ようやく繁くなり高田馬場駅が開設されたのは明治43年(1910)9月で、駅前が発展してきたのは大正初期で、名実共に早稲田大学の玄関口となり学生の町となって賑わいをみせたのは昭和になってからである。
昭和2年(1927)西武鉄道の開通後駅前周辺は急速に繁華街として発展し、第2次世界大戦後、昭和24年(1949)都電が早稲田終点より駅前まで延長、昭和27年(1952)には西武線の新宿まで延長、地下鉄東西線は昭和39年(1964)に開通し、一方戦災を受けた駅前を近代的な都市に再開発するため昭和23年(1948)3月東京都から戦災復興事業として区画整理の指定を受け、改めて昭和37年(1962)3月高田馬場防災建築街区造成組合が設立され家屋の移転、取毀、整理を開始やがて駅前周辺に高層近代ビルが次々と建設されるに至って有志相謀り據出して駅前広場に噴水、花壇を建設、池の中央に東京芸術大学名誉教授山本豊市先生の特志の寄進による平和の女神像を安置して道行く人々に悲話と緑の憩いの場を与え往時と全く面目を一新された。ここに高田馬場沿革史上特記すべき都市再開発並びに広場修景の完成を祝して永く後世に伝えるためこの記念碑を建立するものである。(元早稲田大学総長 大浜信泉撰)
田川の風景① 西が牛込台、東が関口台、神田川は下町低地を蛇行して流れます/神高橋
戸田平橋
豊島区高田3丁目にある神田川に架かる橋。1999年に作られたがこれは護岸工事の際に再建されたもので、元の戸田平橋は1919年に作られた。名前の由来は新宿区の戸塚と豊島区の高田(現在はこの橋は全部豊島区に入っている)に、この橋の建設に関係した淀橋区議会議員平野与三吉から。この橋の新宿区方面のたもとに戸塚新道と戸田平橋完成の記念碑がある。この記念碑の書の書き手は北条時敬(教育者・数学者・第12代学習院院長)(Wikipedia)
記念碑
/戸田平橋(右岸)
大正8年12月竣工
戸田平橋 戸塚新道 記念碑
従三位 北條時敬書
源水橋
豊島区高田3丁目の神田川に架かるである。1993年に造られたがこの橋は神田川の護岸工事等の際に作り替えられたので元の橋とは違う。元の橋はいつできたか不明。
名前の由来はかつてこの橋の付近にあった源兵衛村と水車のはじめの源と水を取ったという説もある。この橋の欄干には水車の絵が描かれており明治時代にこの水車はこの付近に存在していた。昔、このあたりの神田川は現在より南側に流れており、現在の神高橋付近から用水路が神田川と平行して流れ、その用水路が神田川へ合流していたのがこの源水橋付近でありそこに水車がありそれを動力源にしていた工場が存在していた。(Wikipedia)
・・・高戸橋交差点
神田川の風景② ここで神田川(左)に妙正寺川(高田馬場分水路)が合流します/高田橋
街道の風景② 左右が新目白通り、前後が明治通り、その右手が都電荒川線です/高戸橋交差点
高田橋/新目白通り
下流側にある高戸橋の間に妙正寺川と合流している(正式には下落合)。名前の由来は下流側の高戸橋は豊島区高田と新宿区戸塚を合わせて高戸橋だが、それなら高戸橋とほぼ同じ場所にある高田橋も高田から戸塚に架かっているから高戸橋と記名できるのではと考える人がいると思うが、このあたりは豊島区と新宿区との区界がとても複雑になっており、高田橋は所在地としては橋全体が豊島区高田3丁目に位置するので高田橋となった。(Wikipedia)
高戸橋/明治通り
名前の由来は旧町名の豊島区「高田」と新宿区「戸塚」の両町名を合成したものと考えられている。場所は新宿区と豊島区の境にあり新目白通りと明治通り(環状5号)との交差点(高戸橋交差点)の北側である。高戸橋交差点の西側、新目白通りの谷原方面に高田橋がある。(Wikipedia)
明治通りと平行して都電荒川線が通ります/神田川橋梁
・・・面影橋
面影橋停留場そばにある単純なコンクリート橋だが、太田道灌の逸話にある山吹の里の地とされ江戸時代・明治時代には名所のひとつであった。関連する名称に「姿見の橋」の名があるがこれは面影橋の別名であるとも、神田川よりやや北の小川に架かっていた橋の名であるとも言う。そのほか歌川広重の『高田姿見のはし俤の橋砂利場』(名所江戸は百景)では逆に手前の神田川をまたぐ橋が「姿見の橋」、奥の小川に架かる橋が「俤(おもかげ)の橋」と呼ばれるなどやや混乱を来している。(Wikipedia)神田川の風景③ 桜並木の葉陰を川面に映して美しい景観です/面影橋
江戸名所図会 姿見橋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
面影橋の由来
目白台から続く鎌倉街道沿いにあり姿見橋ともいわれていました。橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩りの鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靭負(ゆきえ)の娘であった於戸姫が数々の起こった悲劇を嘆き水面に身を投げた時に歌った和歌から名付けたという説などが知られています。なお、姿見の橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので別の橋だという説もあります。(説明板)
「山吹の里」の碑(左岸)
新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋一帯は通称「山吹の里」といわれています。これは大田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日「七重八重花は咲けども 山吹の みのひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられ道灌が無学を恥じそれ以来和歌の勉強に励んだという伝承で『和漢三才図会』(聖徳2年、1712年)などの文献から江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。「山吹の里」の場所についてはこの地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は昭和63年(1988)の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や鎌倉街道の伝承地などが集中しており中世の交通の要衝地であったことは注目されます。この碑は神田川の改修工事が行われる以前は面影橋のたもとにありましたが、碑面をよく見ると「山吹之里」の文字周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3年(1686)に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。(豊島区教育委員会)
・・・高田/豊島区(左岸)
高田馬場の北東側にあたる。北側に学習院大学(豊島区目白)と雑司が谷ある。東側に新宿区早稲田に文京区目白台、南側に新宿区高田馬場、西側に新宿区下落合と接しており豊島区の境界にあたる(境界は神田川)。都電荒川線が通っている。神田川沿いの低地と関口台地(目白台地とも)の境目となるため坂が多く、中でものぞき坂は都内でも有数の急坂として知られる。(Wikipedia)
高田氷川神社/高田
氷川神社の創建は武蔵国一の宮氷川神社を当地に分霊したことに始まるといわれる。祭神は素盞嗚命・奇稲田姫命・大巳貴命(大国主命)の三柱で平安時代の歌人・在原業平(六歌仙の一人)も参拝したと伝えられる。「江戸名所図会」(天保5・1834年刊)などの地誌によれば、当神社は江戸時代には氷川大明神と呼ばれ下高田村(豊島区高田・雑司ヶ谷・目白・文京区目白台)の総鎮守として信仰を集めていた。また、当神社の主神が素盞嗚命であることから俗に「男体の宮」といわれ、奇稲田姫命を主神とする落合村(新宿区下落合)の下落合氷川神社の「女体の宮」と合わせて「夫婦の宮」と呼ばれていたという。明治時代には氷川神社と改称し第2次世界大戦中には昭和20年4月13日の空襲により境内の建物と宝物の大半が焼失した。現在の社殿は昭和29年に再建されたもので境内には神明神社・高田姫稲荷神社・道祖神社も祀られている。毎年正月には弓矢で的を射って災難除けを祈願する「御奉射祭(おびしゃさい)」が江戸時代より行われ、現在は成人の日に執行している。なお寛政2年(1790)に鳥羽藩主稲垣対馬守が寄進した鳥居・狛犬(文化4・1807年奉納)石燈籠(明治11・1878年奉納)玉垣が平成3年(1991)に豊島区登録文化財となった。(豊島区教育委員会)
南蔵院山門/高田
南蔵院
真言宗豊山派に属し大鏡山薬師寺南蔵院という。寺伝では開山は室町時代の円成比丘(永和
2年
1376年寂)とされる。本尊の薬師如来は木造の立像で、奥州藤原氏の持仏といわれ円成比丘が諸国遊化のとき彼の地の農家で入手し、奉持して当地に草庵を建て安置したのが開創であると伝えられる。正徳
6年(
1716)の「高田村絵図」(東京都公文書館蔵)には境内部分に「薬師堂」・「南蔵院」の文字の他山門、薬師堂と思われる建物および樹木
3本が描かれている。
また、江戸時代の地誌にも紹介されており「江戸名所図会」や「新編武蔵風土記稿」では徳川
3代将軍家光がしばしば訪れたと記している。現在の境内には元禄
9年(
1696)に神保長賢により寄進された山吹の里弁財天の石碑と手水鉢や庚申塔、六地蔵、彰義隊九士の首塚などの石造物があるほか、墓地内には相撲年寄である片男波、粂川、雷、音羽山、二子山、花籠などの墓がある。また三遊亭円朝作の「怪談乳房榎」にゆかりの寺でもある。(豊島区教育委員会)
江戸名所図会 南蔵院・鶯宿梅 氷川社
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
江戸時代の高田村
天保
5年(
1834)に刊行された「江戸名所図会」では、高田村付近の様子が長谷川雪旦による
3枚の挿絵付きで紹介されている。「高田」と題された挿絵の中央に
南蔵院が配され境内に薬師堂と
鶯宿梅(おうしゅくばい)が描かれている。鶯宿梅は江戸幕府
3代将軍徳川家光が自ら植えたといわれ、このときすでに枯れていたとされるが「新編武蔵風土記稿」では鶯宿梅の実から育った木が院内にあると記している。南蔵院の前には
右橋、付近には高札場や茶店、道には籠・馬などが描かれている。道を隔てたところには
高田氷川神社がある。これらの位置関係や道の曲がり方などは、現在もほとんど変わっておらず江戸時代の名残りをとどめている。(豊島区教育委員会)
金乗院山門 山門の左手に「長谷寺」の石塔が立ちます/高田
金乗院
/高田金乗院
金乗院は真言宗豊山派の寺院で、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが草創とされています。永順の没年は文禄
3年(
1594)
6月であることからそれより以前天正年間(
1573-92)の創建と考えられます。当所は蓮花山金乗院と称し中野宝仙寺の末寺でしたが,のちに神霊山金乗院慈眼寺と改め
護国寺の末寺となりました。江戸時代には近辺の此花咲耶姫社などの別当でしたが、昭和
20年
4月の戦災で本堂等の建物や水戸光圀の手になるという此花咲耶姫の額などの宝物は焼失しました。現在の本堂は昭和
46年に再建され平成
15年に全面改修されました。
目白不動堂(東豊山浄滝院新長谷寺)は元和4年(1618)大和長谷寺代世小池坊秀算が中興し関口駒井町(文京区)にありましたが昭和20年5月の戦災により焼失したため、金乗院に合併し本尊の目白不動明王像を移しました。目白不動明王は江戸守護の江戸五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高く目白の号は寛永年間(1624-44)に3代将軍徳川家光の命によるといわれています。
墓地には槍術の達人
丸橋忠弥、青柳文庫を創設した
青柳文蔵などの墓があり、境内には寛文
6年(
1666)造立の
倶利伽羅不動庚申塔をはじめ寛政
12年(
1800)造立の鍔塚など多くの石造物があります。(豊島区教育委員会掲示)
街道の風景③ 坂下から鬼子母神へ続く鎌倉街道、いい坂です
/金乗院前
宿坂道
中世の頃「
宿坂の関」と呼ばれるところがこのあたりにあった。この坂の名が宿坂道と残っているのはおそらくそれにちなむものと思われる。「
宿坂の関」は
鎌倉街道の道筋にあったものといわれ、したがってここ宿坂はその街道上の地名と考えられる。古地図によると鎌倉街道は現在のこの道よりやや東寄りに位置していたが一応ここも鎌倉街道の名残といえよう。今から
300年ほど前このあたりには樹木が生い茂り昼なお暗く
くらやみの坂道として狐狸の類がとびはねて通行人を化かしたなどという話もいまに伝わっている。(豊島区教育委員会)
江戸名所図会 宿坂の関旧跡 金乗院 観音堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
根生院山門/高田
金剛寶山 延壽寺 根生院/高田
本尊は薬師瑠璃光如来(秘仏)。創建は寛永13年(1636)3代将軍徳川家光公がその乳母・春日局の発願により大和の国(奈良県)小池坊(長谷寺)より栄誉を招き開山とし、神田白壁町に堂宇を建立し薬師瑠璃光如来像を本尊とし号を「金剛寶山延壽寺根生院」と称したのがその歴史の始まりである。正保2年(1645)第2世栄専の時、下谷二長町に移り江戸城西の丸祈願所として寺領250石を賜った。貞享4年7月(1687)新義真言宗江戸四ヶ寺の一ヶ寺となった。同年8月仁和寺御堂光明院の院室を兼務して院家となり歴代の住職は幕府の命によって選ばれる寺となった。
この地はもと尾張候の下屋敷であったものを田安家に譲り渡され、文政のころは一つ橋屋敷となったと伝えられている。下屋敷跡であり池あり丘あり樹木ありまた清泉涌き出た幽境の地であり、宿坂より山門までの参道は欅の並木があり山門の奥には満々たる水を湛えた池があり四季折々を楽しませた。昭和20年付近一帯の戦火の犠牲となり山門を除いて焼失した。戦後、都市化が進み本堂跡は住宅地となり昭和28年境内地の一部に再建され平成14年現在の堂宇に改築された。
by Twalking
| 2017-04-28 08:36
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