無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(3)高田馬場~江戸川橋02-早稲田   

日時 2017.4.25(火)
天気 晴れ


神田川の右岸早稲田界隈を歩いてみました。
ほんとに久し振りに訪ねた早稲田キャンパス、
全く時代が違いますがやはり学生街ですね。

やはり古い街、名所図会に描かれたスポットや
夏目漱石のゆかりの地などを見て廻りました。
ここは「裏路地」が面白いんでしょうね、きっと。
また、機会を作って散策してみたいと思います。


・・・早稲田


新宿区
の広域地名。早稲田の地域は古くは牛込村に属しており江戸牛込村字早稲田であったが、江戸時代初期には別村になり「早稲田村」と呼ばれるようになった。古くは水田が大部分を占める農村地帯であったが東京専門学校(後の早稲田大学)の開学に伴い学生街、文教地区へと発展していった。学生向けの下宿、飲食店、不動産屋、書店も多く店舗を構え早稲田通り沿いを中心とする古書街は都内有数の規模を持つ。(Wikipedia

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亮朝院山門/西早稲田

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亮朝院
日蓮宗・日暉上人は身延山の奥の院にあたる七面山で荒行を修めた後、現在の戸山付近に七面尊像をまつり明暦元年(1655)には将軍家祈祷所とされました。寛文11(1671)境内が尾張家の下屋敷となったため現在地に堂塔を移し、江戸時代後期には「江戸名所図会」に描かれているような大規模な寺となりました。正面の七面堂は当時のもので「高田の七面堂」や門の色から「赤門さん」とも呼ばれました。七面堂を護るようにして立つ『金剛力士像』一対(区指定文化財)は宝暦2(1752)作の珍しい石造りの仁王で大変迫力のある作品です。亮朝院の北の神田川にかかる面影橋のあたりは太田道灌の「山吹の里」の伝説が残されています。(新宿観光振興協会)

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亮朝院七面堂
亮朝院の七面堂は木造・正面5間・側面5間・入母屋造り・銅板葺きの建築で、天保5年(1834)に建築された。当初拝殿・幣殿・本殿の3棟からなる権現造りであったが、幕末頃に現在の形になったと推定される。縁側や屋根などに後代の改修や改変が多く見られるものの概ね当初の状態がよく維持されている。平成68年にかけて耐震補強などを目的とした改修が行われた。区内では希少な江戸時代寺院建築で、江戸後期に発行された「江戸名所図会」の挿絵にも描かれており、当時の亮朝院の院境内の様子を知ることができる建築物として貴重である。(新宿区教育委員会)

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亮朝院の金剛力士石造
宝永2年(1705329日に奉納された石造の金剛力士像で境内の七面堂前に阿吽一対で安置されている。総高234cm、像の背面には奉納年月日と造立施主として「尾州住大工加右衛門日匡代(にっきょうだい)」の名が刻まれている。尾張の大工・加右衛門は嘉右衛門とも書き、亮朝院の堂塔についても寄進したとする記録がある。日匡は亮朝院の第5代住職である。金剛力士像は一般に「仁王」と呼ばれ、仏を守護するものとして寺院の山門などに阿形と吽形の一対で安置される。大半が木彫りでありこのようなのものは珍しく、区内では唯一のものである。(新宿区教育委員会)

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梵鐘

江戸鋳物師の鋳造技術が極めて高かった元禄15年(1702)に造られた銅造の梵鐘。総高141.5cm。銘文により、浅草権兵衛が発起人となり市谷田町講・関口講などの講中のほか506名の武士や庶民が鋳造に寄与していることがわかる。(新宿区教育委員会)

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亮朝院本堂
亮朝院の本堂は木造・正面5間・側面5間・寄棟造り・本瓦葺きの建物で、嘉永3年(1850)に建築された。屋根などを中心に後代の改修や改変が見られるものの、全体として当初の状態がよく維持されている。内部は建具を入れれば細かく仕切ることができ修行道場としての本堂という性格を持っている。平成68年にかけて耐震補強などを目的とした改修が行われた。区内では希少な江戸時代寺院建築で、江戸後期に発行された「江戸名所図会」の挿絵にも描かれており、当時の院境内の様子を知ることができる建築物として貴重である。(新宿区教育委員会)

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江戸名所図会 高田 七面堂 朝日桜 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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甘泉公園/西早稲田

甘泉公園(かんせん)という名は園内に湧き水があり清冽で常時枯れずまた茶に適したところから起こったものであり、その由来を書き記した石碑が園の南東に当る水稲荷神社社務所脇に存在している。この地は江戸中期の安永3年(1774)徳川御三卿の一つ清水下屋敷がおかれたところである。明治30年頃相馬家の所有にとなったが、昭和13早稲田大学に移譲された。戦後都がこの地を買収し改修の手を加えて昭和44年区へ移管した。神田川右岸を東西に走る台地の北面の傾斜とその低地にあって、段丘の高低差を利用し泉の水を引いた池を回遊する林泉になっている。池傍より見上げる雄大な常緑樹に囲まれ春のツツジ、秋の紅葉が水面に写り美事な景観を創り出している。「日本の歴史公園100選」にも選定された(東京都)


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水稲荷神社参道/西早稲田

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水稲荷神社(みずいなりじんじゃ)
旧称「冨塚稲荷」と命名されたが元禄15年(1702)に霊水が湧き出し現社名の「水稲荷神社」と改名された。眼病のほか水商売および消防の神様として有名である。また甘泉園公園に隣接しており、境内にある「高田富士」(戸塚富士あるいは富塚富士とも)は早稲田大学拡張工事の際に同大学の構内にあった江戸中最古の富士塚移築したものである。普段は登拝できないが7月の海の日とその前日に催される「高田富士まつり」の際に一般の登拝が可能となっている。Wikipedia

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堀部武庸加功遺跡之碑
この記念碑は「忠臣蔵」における代表的な論話であり、地域の伝承として知られる「高田馬場の決闘」(元禄7)における赤穂浪士・堀部安兵衛の事績を顕彰する記念碑である。江戸時代に高田馬場の管理を委託されていた甲州屋の子孫・行田久蔵が明治43年(1910)に建立した。篆額は西園寺公望、撰文は信夫恕軒、書は日下部東昨、鐫(せん)は堀部忠蔵の手になる。また賛助者は頭山満、犬養毅、大隈重信、三田村鳶魚(えんぎょ)など当時の名士が名をつらねている。当初は茶屋通りにある九蔵の植木園に建てられたが、昭和46年に現在地へ移された。総高は350cmである。この記念碑が建てられて当時は日露戦争の国家主義の高揚を背景とし「忠臣蔵」の再評価が高まった時代であった。また、明治から大正にかけて全国的に建碑ブームが巻き起こり歴史上の事象や人物に関する顕彰運動が盛んな時代でもあった。(新宿区教育委員会)

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江戸名所図会 高田稲荷 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

高田稲荷『江戸名所図会』

水稲荷神社は『江戸名所図会』に描かれた当時「高田稲荷」とよばれていました。中央付近の小高い丘の上にあるのが水稲荷神社(高田稲荷)で、ここは現在の早稲田大学9号館裏のあたりです。右上の山は高田富士で、水稲荷神社(高田稲荷)とともに昭和38(1963)に西早稲田3丁目の現在地に移転しました。(早稲田水稲荷神社HP)


・・・高田馬場跡

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街道の風景① 向かいの角から奥が「馬場」だったようです/西早稲田交差点(早稲田通り)

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高田馬場跡
西早稲田3丁目121214番を含む長方形の土地が江戸時代の高田馬場跡である。馬場は寛永13年(1636)に造られたもので旗本たちの馬術の練習場であった。また、穴八幡神社に奉納するため催された流鏑馬などが行われ将軍の供覧に入れたところでもある。享保年間(17161753)には馬場の北側に松並木がつくられ8軒の茶屋があったとされている。土地の農民が人出の多いところを見て茶屋を開いたものと思われる。また、馬場の一角、茶屋町通面したところは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社の境内には「堀部武庸加功遺跡の碑」が建っている。(東京都新宿区教育委員会)

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江戸名所図会 高田馬場 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・馬場下町

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街道の風景② 穴八幡宮の入り口、左へ行くと放生寺です/馬場下町(早稲田通り)

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穴八幡宮鳥居/西早稲田

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穴八幡宮
康平5年(1062)奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の折り、日本武尊命の先蹤にならってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧進し永く東北鎮護の社として祀られました。寛永18年(1641)宮守の庵を造るために南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、この時期から穴八幡宮と唱えられるようになりました。同年この地に居住していた幕府の祐筆大橋龍慶が方百間の地を献じ社殿を壮大に造営しました。この頃神木の松から瑞光を放ち色々奇瑞のあったことが3家光将軍の上聞に達し、当社を江戸城北総鎮護として総営繕を命ぜられました。慶安元年(1648)社殿再興の折りに幕府から氏子として牛込郷36ヶ町が定められ、翌年の慶安2年(1649)社殿を始め数々の殿舎が竣工し、8800余坪の境内地に壮麗な建物が櫛比して将軍家祈願所としての規模も整い以後江戸屈指の大社として重んぜられました。

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その後も幕府により数次にわたって造営・営繕が行われましたが、特に元禄16年(1703)の造営は江戸権現造り社殿として壮麗を極めました。安政元年(1854)青山火事のために類焼し、幕府より造営料などが奉納されましたが幕末の多事と物価高騰のため仮社殿のまま明治維新を迎えました。

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その後、昭和初年に旧事の盛観に復しましたが今次大戦により社殿はことごとく罹災しました。しかし戦後はいち早く仮社殿により再興し、その後崇敬者の御芳志等により平成元年から慶安・元禄の江戸権現造りの当社設計絵図を基に御本殿御社殿の造営をはじめ、平成10年の随神門竣工をもちまして往時を偲ぶ姿に復し、引き続きその他の再建また境内地の整備に着手し今日に至っています。(境内由緒書)

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高田馬場の流鏑馬
享保13年(1728)德川将軍吉宗が世継の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡神社へ奉納した流鏑馬を起源とし、以来将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場で流鏑馬が奉納された。明治維新以降中断し、昭和9年に皇太子(現天皇)誕生祝いのため再興され、数回行われたが戦争のため中断された。昭和39年流鏑馬の古式を保存するため水稲荷神社境内で復活し、昭和54年からは都立戸山公園内に会場を移し毎年1010日高田馬場流鏑馬保存会により公開されている。古式豊かで勇壮な高田馬場の流鏑馬は小笠原流によって現在に伝えられており貴重な伝統行事である。(宿区教育委員会)

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放生寺
(ほうじょうじ)山門/西早稲田

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放生寺
新宿区西早稲田2丁目にある高野山真言宗準別格本山の寺院である。山号は光松山(こうしょうざん)。本尊は聖観音菩薩で「江戸33ヶ所」の第15番「御府内88ヶ所」の第30番である。1641年(寛永18年)に穴八幡宮(高田八幡)の別当寺として同神社の隣に創建された。寺号が示す通り「放生会」(ほうじょうえ)で知られ虫封じの利益もあるとされる。創建当時は穴八幡の境内に放生池があったが明治期の神仏分離により池は放生寺の管轄となり、その後1920年代に埋め立てられてしまった。現在は本堂脇の池が放生会に使われる。穴八幡宮とは元々不可分であったため神仏習合の江戸時代に始まった「一陽来復」の札の授与は穴八幡と放生寺の双方で行われている。ただし放生寺の札は「一陽来」と1文字異なるが観音経偈文の「聚海無量(ふくじゅかいむりょう)」に因んでいる。(Wikipedia

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放生会
(ほうじょうえ)捕獲した魚や鳥獣を野に放し殺生を戒める宗教儀式である。仏教の戒律である「殺生戒」を元とし日本では神仏習合によって神道にも取り入れられた。収穫祭・感謝祭の意味も含めて春または秋に全国の寺院や宇佐神宮(大分県宇佐市)を初めとする全国の八幡宮で催される。

東京早稲田にある放生寺は寺号に「放生」の名を持つ。この寺号は開創当時より徳川将軍家より厚い崇信を受け、慶安2年(1649)徳川3代目将軍家光より「威盛院光松山放生会寺」という寺号を受けたものである(寺紋に葵の御紋を使用することも許されている)。放生会法要はその開創当時から行われていたと伝えられ、現在は毎年体育の日に日々食事で魚介、鳥、動物などの命をいただくことに感謝をする「放生供養法要」を厳修し境内の放生池に魚を放流する。(Wikipedia


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江戸名所図会 高田八幡宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


・・・夏目通り/馬場下町

低地に位置する北の早稲田通りと高台に位置する南の大久保通りや抜弁天通りを結び、東側は住宅街が広がる原町が西側は寺院や墓地が広がる喜久井町がある。坂の中腹には平坦な道が続きこの付近では明治年間創業の看板を掲げる料亭も多い。Wikipedia

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街道の風景③ 漱石のゆかりの地と知りましたので寄り道してみました/夏目坂


夏目坂

夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正4年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった。(標柱)

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夏目漱石誕生の地/喜久井町(坂下) 
文豪夏目漱石(18671916)は夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末子としてこの地に生れた。夏目家は牛込馬場下横町周辺の11ヶ町をまとめる名主でその勢力は大きく、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、また夏目坂は直克が命名したものだという。漱石は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたがすぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子となり、22歳のときに夏目家に復籍している。なお、この地での幼少時代のことは大正4年に書かれた随筆「硝子戸の中」に詳述されている。またこの記念碑は昭和41年に漱石生誕百年を記念して建立されたもので、文字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。(新宿区教育委員会)

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来迎寺山門/喜久井町

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来迎寺
浄土宗。寺の入り口から境内に入ってすぐ左手に、立派な板碑型の『庚申塔』が残されています。これは、区指定文化財とされています。延宝4(1676)に建てられたもので、区内でも比較的古いものです。塔の端には「武州湯原郡牛込馬場下町」としるされています。「湯原郡」とは「荏原郡」のことだろうとされており、隣の誓閑寺の『梵鐘』はこの『庚申塔』から6年後につくられたことが確認でき、これにも「荏原郡」と記されており、すでに豊島郡になっていたこの地もまた旧郡名の「荏原郡」とよばれていたことがわかります。『庚申塔』特有の青面金剛神の姿は表現されていませんが、日月・三猿・二鶏が刻まれています。(新宿観光振興協会)

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来迎寺の庚申塔
延宝4年(1676)に造立された板碑型の庚申塔である。石質は極めて固い玄武岩で高さは120cm、上部左右に日月を配し、中央岩座に三猿、下部に対面した雌雄の鶏が浮彫され、江戸時代前半の庚申塔の特色を示している。また向って右側に「武州湯原郡牛込馬場下町」の陰刻があり、江戸時代になっても中世当時の古地名を記した史料として極めて価値が高い。(新宿区教育委員会)



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漱石公園(漱石終焉の地)
漱石が晩年の9年間を暮した「漱石山房」があった敷地の一部は新宿区立漱石公園として整備されています。園内には富永直樹製作の漱石胸像や「猫塚」があります。また「道草庵」では漱石や漱石山房に関する資料を展示しています。新宿区立漱石山房記念館の建設に伴い平成2936日から923日(予定)まで全面休園します。(新宿区)

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宗参寺山門
/弁天町

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宗参寺
新宿区弁天町にある曹洞宗の寺院。同寺は天文12年(1543)に没した牛込重行(法号:宗参)の墓所を息子の牛込勝行が造ったことに始まる。牛込は、元は上野国(現在の群馬県)の領主で室町時代に後北条氏の家臣となって現在の牛込地域を領した。その後、徳川家康に仕えて幕末まで旗本として続いたという。宗参寺は江戸時代には朱印地として寺領10石を拝領した。同寺内には牛込氏累代の墓があり東京都史跡に指定されている(1924年指定)また、江戸時代の兵学者・儒学者の山鹿素行の墓もありこちらは国の史跡になっている(1943年指定)Wikipedia

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山鹿素行の墓(国指定史跡)
山鹿素行は江戸時代前期の儒学者・兵学者で、素行は号である。元和8年(1622)に会津 に生まれ、江戸へ出て9歳で林羅山に儒学、15歳で小幡景憲・北条氏長に兵学を学んだ。承応元年(165231歳のとき赤穂藩主浅野長直に仕えて家禄千石を賜わった。その間、当時の官学であった朱子学の抽象性を批判し、古代の聖賢の教えにかえることを主張し、また古学を唱えて家塾をおこし多くの門弟をそだてた。明暦2年(1656)に「武教要録」などの3部作を著わし実学を重視する考えを主張した。寛文5年(1665)にはかれの語録「山鹿語類」が集大成された。また「聖教要録」で朱子学を批判したため翌年、赤穂藩へ流された。晩年には許されて江戸に帰り、積徳望を開き儒学や兵学を教えたが貞享11年(168564歳で没した。著書が多く「山鹿素行全集」にまとめられている。(新宿区の文化財)

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牛込氏墓(東京都史跡)
曹洞宗・宗参寺は天文12年(1543)に没した牛込垂行(法号、宗参)の廟所としてその子勝行が創建した寺である。牛込氏はもと大胡姓を名のり上野国赤城山南麓(現在の群馬県勢多郡大胡町)の領主であった。武蔵国守護の上杉氏の家臣であったが、大永4年(1524)に北条氏綱が江戸城を攻略させたときから、小田原北条氏の家臣となって牛込地域の領主になった。牛込城(袋町・光照寺付近)にいて北条氏の江戸衆の主要メンバーであった。領地は牛込郷ほか4ヵ村で177貫余であった。重行-勝行-勝重と北条氏に仕え天正18年(1590)の北条氏の滅亡により江戸に入城した徳川家康にしたがい、のち旗本となって幕末に至った。宗参寺の牛込氏墓地には寛文4年(1664)に、勝正が先祖である重行と勝行とを供養して建てた供養塔を中心に歴代の墓がある。(新宿区の文化財)

牛込氏
武蔵に移った牛込氏(大胡重行の子孫)は後北条氏の配下となった。牛込氏は故郷にあった赤城神社を勧請し牛込の地に赤城神社を創建している。勝行の子・勝重の代に小田原征伐に遭いのち徳川氏に仕えて旗本となった。牛込俊重は徳川忠長に配されその処罰後一時的に他家預かりの身になっている。赦免後、俊重は500石の旗本となったが、次の勝正のとき無嗣断絶で改易された。勝正の弟・重恭は分家し300俵のち500石を知行、その子・重義のとき1100石となりこの系統が幕末まで続いた。牛込氏は大胡成家からの系譜を『寛政譜』などで伝えているが、鎌倉時代など中世にみえる大胡一族の名とは全く異なるため『大胡町誌』では、牛込氏の伝えていた先祖を尊碑分脈の系譜(大胡重俊-成家まで)に繋げただけではないかとしている。Wikipedia


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宝泉寺山門/西早稲田


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宝泉寺
新宿区西早稲田にある天台宗の寺院。山号は禅英山。院号は了心院。本尊は薬師如来。西暦810年草創。かつて早稲田大学の敷地の大部分が寺領であった。「早稲田てらこや」と銘打って地域の住民や早稲田大学の学生と様々な企画や行事、清掃活動などを通して憩いの場や学びの場を作り上げている。Wikipedia

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宝泉寺梵鐘
宝泉寺第6世玄海の発願で正徳元年(17117月に江戸鋳物師西嶋伊賀守藤原正重により鋳造された銅造の梵鐘。総高136cm、口径79cm。龍頭は両頭式、乳(突起)は108個を配し撞座は二か所設けられている。江戸鋳物師の技術が頂点に達した正徳年間に鋳造されたもので仏像が表現されるなど入念かつ斬新な仕上がりとなっている。銘文からは宝泉寺の歴史や梵鐘鋳造の経緯がわかり史料的価値が高い。それによると宝泉寺は承平年中(931-38)平将門の乱を平定した藤原秀郷が草創。南北朝の動乱で荒廃したものを文亀元年(1501扇谷上杉朝良が復興するが再度戦国の動乱で荒廃、天文19年(1550牛込氏が再興したが梵鐘は鋳造されなかった。そのため玄海は住職就任当初から梵鐘再興に努めたがなかなか実現せず、住職を辞した宝永7年(1710)私財を投じて梵鐘を鋳造させたという。江戸時代の梵鐘は太平洋戦争中の供出により現存数が少なく、技術的にも史料的にも価値の高い梵鐘として貴重である。(新宿区教育委員会)


・・・戸塚

この地区の町名はもともと新宿区戸塚町(まち)1丁目~4丁目のみであったが住居表示実施により現在は戸塚町1丁目のみが残る。早大南門通りの東沿いに位置し概ね早大通りを境に南北に分断されている。北側町域は大部分が大隈庭園とリーガロイヤルホテル東京により占められ、南側町域は早稲田キャンパスと早稲田中高の間の住宅街である。Wikipedia

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キャンパス風景 時代が違いますが、久し振りに訪ねてみました/早稲田大学

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大隈重信銅像
早稲田大学の前身東京専門学校の創立者で早稲田大学の初代総長をつとめた大隈重信(18381922)の銅像である。早稲田大学創立50周年を記念して昭和7年(193210月に完成したもので鋳造・彫塑は朝倉文夫(18831964)の作、桜花崗岩製の台石は桐山均一の手になるものである。像高は2.89m・台石の高さは2.12mで角帽にガウンを着た早稲田大学総長の姿をした、晩年の大隈重信を見事に表現している。なお、朝倉は都合3回(芝公園・大正5年・1916、国会議事堂内中央広場・昭和13年・1938)大隈重信像を製作しており、この早稲田大学の像は2回目にあたるものである。(新宿区教育委員会)

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早稲田大学大隈記念講堂
早稲田大学大隈記念講堂は創立者である大隈重信に対する記念事業として計画され、同大建築学科の佐藤功一教授と佐藤武夫助教授が設計し、同教授の内藤多仲が構造を担当し、昭和21015日に竣工した。大隈記念講堂は早稲田のシンボル的存在であり、ロマネスク様式を基調としてゴシック様式を加味した我が国近代の折衷主義建築の優品として高い価値がある。また早稲田大学建築学科で永く教鞭をとり、多くの建築家を育てた佐藤功一の代表作としても重要である。(国指定等文化財データベース)

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大隈庭園

この庭園一帯は井伊掃部頭・松平差讃岐守の下屋敷にあった和様四条家風の名園を、本学創設者の大隈重信が文人風に改造したものです。没後邸宅とともに大学に寄贈されました。昭和205月の空襲で庭園は廃墟となりましたが、多くの人々の努力によりほぼ昔の景観どおり復元され今日に至っております。(早稲田大学)

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街道の風景④ 右手が大隈庭園になります、神田川右岸の関口へ向かいます/新目白通り・都電早稲田駅 

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早稲田周辺マップ
(赤:歩行ルート 青:神田川 茶:新目白通り・早稲田通り)


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資料ファイル
『漱石の散歩道』

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漱石の散歩道
明治の文豪夏目漱石は現在の喜久井町で生まれ、早稲田南町で亡くなりました。漱石の作品には早稲田・神楽坂界隈が数多く登場します。漱石はときには一人で、ときには弟子たちとこの周辺を散策し、買い物や食事を楽しみました。漱石を身近に感じながら歩いてみてはいかがですか?(新宿区)

by Twalking | 2017-04-30 08:51 | リバーサイドウオーク(新規)

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