無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(3)高田馬場~江戸川橋03-目白台   

日時 2017.4.25(火)
天気 晴れ

早稲田から対岸の目白台へ向かいます。
ここは歩いたことがありますが緑が多く
史蹟もありますので楽しめます。

河辺も味わいがありますし、坂も魅力的。
永青文庫や芭蕉庵は是非訪ねてみたい所です。
名所図会にある清水坂もよかったですよ。
神田川でこの界隈が人気があるのがわかりますね。


・・・目白台(文京区)

山手線内とは思えないほど公園や緑が多い地域である。高台の閑静な文教地区であり、また古くは大名屋敷であった。現在の東大病院分院跡地は松平出羽守の下屋敷、日本女子付属豊明小学校は大岡主膳正の下屋敷、日本女子大付属豊明幼稚園は鳥羽藩の下屋敷、肥後細川庭園(旧新江戸川公園)は細川家の下屋敷だったところである。この地に目白不動とよばれた新長谷寺(本尊は現在は金乗院に移される)という寺があった。地名は目白台という台地に由来。(Wikipedia

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神田川の風景① 神田川の豊橋から目白台地の縁を江戸川橋へ向かいます/豊橋

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坂の風景① 豊川稲荷社から目白通りへ登る坂です/豊坂
 
豊坂/目白台
坂の名は坂下に豊川稲荷社があることから名付けられた。江戸期この一帯は大岡主膳正の下屋敷で明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。目白台に住んだ大町桂月は『東京遊行記』に明治末期のこのあたりの路上風景を次のように述べている。「目白台に上れば女子大学校程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を合わせて流量を増し、区の南辺を経て隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素堀で通し江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。(文京区教育委員会)

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旧高田豊川町(昭和41年までの町名)
もと、小石川村の内である。延享年間(174448)以前に町屋を開き小石川四ッ家町(伝通院領)といった。明治2年町内の豊川稲荷神社の豊川と付近一帯を下高田と呼んでいたので町名を高田豊川町とした。同5年旧大岡主膳正、稲垣摂津守、小笠原信濃守などの大名屋敷及び武家地を併せた。同34年元小石川村飛地字豊川、高田村字明神下を合わせた。明治34日本女子大学校(日本女子大学)が目白台2丁目に成瀬仁蔵によって創立された。成瀬記念講堂はコンドルの孫弟子田辺淳吉の設計により建てられた。(文京区)

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豊川稲荷神社/目白台(坂下)

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肥後細川庭園大池

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肥後細川庭園/目白台
細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした池泉回遊式庭園です。目白台台地が神田川に落ち込む斜面地の起伏を活かし、変化に富んだ景観をつくり出しています。湧水を利用した流れは「鑓り水(やりみず)」の手法をとりいれて、岩場から芝生への細い流れとなり、その周辺に野草をあしらっています。池はこの庭園の中心に位置し、広がりのある景観をつくりだし池をはさんで背後の台地を山に見立てています。

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その斜面地は深い木立となっていて、池に覆いかぶさるようにヤマモミジやハゼノキの一群が秋には真っ赤に紅葉した姿を水面に映し出します。山に続く園路は深山の中の自然の尾根道のようです。所々に開けた空き地がありベンチが置かれています。もともとそこからは木々の梢の間から池や低地の町並みを見渡せるようになっていましたが、木の生長とともに森の中にいるような雰囲気となりました。(文京区HP)

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松聲閣(松声閣、しょうせいかく)
明治時代に細川家下屋敷跡に学問所として建設され、大正時代に改修された木造2階建(延べ床面積約5002)の建物。1959年に公園となって集会施設として活用されていたが老朽化が進んだため文京区が修復と耐震補強工事を行い20161月に完了した。Wikipedia

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永青文庫(えいせいぶんこ)
文京区目白台にある日本・東洋の古美術を中心とした美術館である。旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料や、16代当主細川護立の蒐集品などを収蔵し展示・研究を行っている。文庫の所在地は細川家の屋敷跡であり、建物は昭和時代初期に細川家の事務所として建てられたものである。文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である永源庵(建仁寺塔頭、現在は正伝永源院)の「永」と細川藤孝の居城・青龍寺城の「青」から採られているWikipedia
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熊本藩最後の御用絵師「杉谷雪樵」が描いた松聲閣の庭園


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細川家と目白台
細川家は室町幕府の三管領の一つとして武門の誉高い家柄で、現在の細川家は藤孝(幽斎)を初代として戦国時代に始まりました。代々も文武両道にすぐれた細川家は3代当主・細川忠利のとき肥後熊本54万石を与えられ、強力な外様大名として幕末に至りました。現在の永青文庫と肥後細川庭園、そして隣接する和敬塾の敷地は幕末から戦後まで広大な細川家の屋敷でした。細川邸の前にはかつて鶴・亀と呼ばれた松があり、このあたりお旧町名・高田老松町の由来ともなりました。江戸時代の切絵図には2本の松の絵が描かれています。(目白台・関口の歴史案内板)


・・・関口(文京区)


フォーシーズンズホテル椿山荘、東京カテドラル聖マリア大聖堂などが所在。2丁目と3丁目は目白台から続く高台の文教地区で獨協中学校・高等学校や東京音楽大学付属高等学校などがある。西古川町、東古川町、小日向町、松ヶ枝町、関口町、関口水道町、関口駒井町、関口台町などが合併されて誕生。正保年間(1644-1648)には関口村と称していた。地名は奥州街道の関所、神田上水を神田川に分流するための堰があったからなど諸説あり。Wikipedia


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神田川の風景②左が水神社、右が関口芭蕉庵、正面が胸突坂になります/駒塚橋

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水神社鳥居
/目白台


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水神社
祭神は速秋津彦命(はやあきつひこのみこと)、速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)、応神天皇。創建の年代は明らかでない。『江戸砂子』には「上水開けてより関口水門守護神なり」とある。わが国最古の神田上水は、徳川家康の命により大久保主水(もんと)が開いた。井頭池からの流れを目白台下の現大滝橋のあたりに堰(大洗堰)を築き、水位を上げて上水神田日本橋方面に通じた。伝えによれば水神が八幡宮社司の夢枕に立ち「我水伯(すいはく、水神)なり。我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸町のことごこく安泰なり」と告げたのでここに水神を祭ったという。上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりは田園地帯で清らかなかんだ上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり後ろには目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて江戸時代は行楽の地であった。(文京区教育委員会)

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坂の風景② 急坂ですが趣きのある坂です。坂上に永春文庫等があります/坂下


胸突坂(むなつきざか)
目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。坂がけわしく自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。(文京区教育委員会)

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旧関口町(昭和41年までの町名)
正保(164448)のころまで関口村といっていた。土地の人の伝えに、むかしこの辺りに奥州街道の関所があったので村名としたという。また、神田上水を江戸川に分水するため堰(大洗堰)を設けたので関口の名が起こったという。神田上水は天正18年(1590)ころの開設と伝えられるのでそれ以後に関口村の名称が起ったのではないかといわれる。天和(1681~84)以後、町家が開かれ享保5年(1720)ころには町並地となり武家屋敷もおかれた。明治5年目白台の旧武家屋敷地付近の寺地を合併して関口町となった。町が開かれるにつれて飛地ができ数ヶ町に分かれた。(文京区)

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ここが入口ですが休館日でした、またの機会に/関口芭蕉庵


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関口芭蕉庵/関口
この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉が延宝5年(1677)から8年(1680)まで神田川改修工事に参画し「龍隠庵」(りゅうげあん)と呼ばれた庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。芭蕉は早稲田田んぼを琵琶湖に見立て、その風光を愛したともいわれている。そこで寛延3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が芭蕉の直筆「五月雨にかくれめのや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓にした。この墓を「さみだれ塚」と称した。(文京区教育委員会)旧町名案内 旧関口町 (昭和41年までの町名)

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椿山荘庭園/関口

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椿山荘
武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し神田川に面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれていた。明治の元勲である山縣有朋1878年(明治11年)に購入、自分の屋敷として「椿山荘」と命名した。

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1918年(大正7年)には大阪を本拠とする藤田財閥2代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受け東京での別邸とした。戦災で一部が焼失したが、1948年(昭和23年)に藤田興業の所有地となり、その後1万余の樹木が移植され1952年(昭和27年)より結婚式場として営業を開始した。1955年(昭和30年)に藤田興業の観光部門が独立して藤田観光が設立されると、椿山荘の経営は藤田観光に移管された。そして1992年(平成4年)に敷地内にフォーシーズンズホテル椿山荘東京が開業した。2006年(平成18年)5月には藤田観光の本社が敷地内に移転している。(Wikipedia

鬼子母神&<関口芭蕉庵の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24149684/


・・・大洗堰跡

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神田川の風景② 遊歩道の桜並木から江戸川公園に入ります/大滝橋

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江戸川の桜/大滝橋
江戸川公園周辺の神田川は江戸時代には御留川(おとめがわ)と呼ばれ、その後昭和40年(1965年)までは江戸川と呼ばれていました。江戸川と呼ばれていた明治17年(1884年)頃、旧西江戸川町の大海原氏が自宅前の土手に桜の木を植えました。それがもとで石切橋から大曲まで約500mの両岸にソメイヨシノなどの桜が多いときで241本あり、桜の名所となり新小金井といわれ夜桜見物の船も出て賑わっていました。

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その後神田川の洪水が続き、護岸工事に伴って多くの桜は切られました。江戸川公園から上流の神田川沿いには、神田川河川改修に伴い昭和58年(1983年)に新たに桜の木が植えられ、現在では開花の時期になると多くの花見客で賑わっています。(文京区HP 写真:江戸川の夜桜「新撰東京名所図会」/案内板)


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神田上水取水口大洗堰跡
徳川家康の江戸入り(天正18年・1590)の直後、井の頭池から発する流れに善福寺池、妙正寺池の流れを落合であわせ関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。大洗堰で水は二分されて分水は江戸川に落とし、他は上水として水戸殿に給水し、神田橋門外付近で二筋に分かれた。一つは内堀内の大名屋敷に給水し、他の一つは本町方面、日本橋で北の町屋に給水した。大正末年には水質、水量とも悪くなり昭和8年に取水口はふさがれた。上水道として最も古い神田上水の取水口である大洗堰の跡は永く歴史に残したいものである。(文京区教育委員会)
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神田上水取水口の石柱/江戸川公園
ここにある石柱は当時のもので、昭和8年大洗堰の廃止により撤去されたものを移した。なお、上水に取り入れられた余水お茶の水の堀から隅田川へ流された。上水道として最も古い神田上水の取水口である大洗堰の跡は永く歴史に残したいものである。(文京区)

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「大洗堰由来碑」について
かつてこの地には神田上水の堰があり古来より風光明媚な江戸名所として知られていました。上水の工事には俳人松尾芭蕉も関与しその旧居(芭蕉庵)は400m程上流に復元されています。大正8年東京市はこの地を江戸川公園として整備し、史跡(大洗堰)の保存に努めましたが昭和12年になり江戸川(神田川)の改修により失われたので翌年、堰の部材を再利用して由来碑を建てました。左の碑文はその文面です。由来碑はすでに失われましたが近年、この碑文のみが見つかりましたのでここに設置しました。(文京区)

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大井玄洞翁の胸像
生誕 安政元年(1855)加賀藩金沢に生まれる 明治33年(1900)より小石川区(現文京区)在住 逝去 昭和5年(1930815日 伊豆にて没す(享年75才) 
江戸川(現神田川)の治水事業は沿岸の人々にとって永年の願いであった。明治43年(1910)の大洪水の後、玄洞翁は人々の願いの実現に努力し大正2年(1913)護岸改修に着工させ大正8年(1919)に完成させた。人々は大きなの功績をたたえ永くその徳を伝えるために昭和3年(1928)江戸川公園内の当所に胸像を建てた。(文京区役所)
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江戸名所図会 目白下大洗堰 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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神田川の風景③ 公園の出入り口が江戸川橋になります/江戸川橋公園

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旧関口水道町(昭和41年までの町名)
むかし関口村の内であった。鷹匠細田加右衛門他2名の知行所であったが、延宝年間(167381)以前から村方町屋となった。貞享2年(1685)町屋が許され町奉行・代官両支配となった。そして武蔵国豊島郡関口水道町となる。明治5年、造平司(江戸末からの大砲製造所明治2年政府の東京関口製造所と改称、同3年竹橋内吹上に移転、砲兵工廠の前進)で武家屋敷地その他を併せた。江戸時代に水番所があり大洗堰の神田上水の水門の差蓋揚卸の役を勤めていた。上水の管理運営にあたる人が住んでいたので水道町の町名ができたといわれる。(文京区)



・・・目白坂

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坂の風景③ 折角なので目白坂を上り目白へ向かいました/坂下

目白坂
西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通りこのあたりから音羽谷の低地へ急傾斜で下るようになる。この坂の南面に元和4(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。そもそも三代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の時の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し不動尊は豊島区金乗院にまつられている。目白台の空を真北に渡る雁 稀に見る雁の四・五十羽かも 窪田空穂(1877-1967)(文京区教育委員会)

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旧関口駒井町
古くは関口村の畑池であった。宝永元年(1704年)町家を設け元文2年(1737)ころ町奉行支配となった。町名の由来は明らかではないが「若葉梢」に次の記事がある。駒止橋(現・駒塚橋)の項目に、丸太橋であったころこの上四ツ谷の南土手に馬多く宿して駒込の馬市に出していた。目白不動門前駒井町にも駒店(馬を売る)があった。駒店があり駒がいるから駒居ー駒井の町名が生まれたのであろう。明治4年、新長谷寺門前、大泉寺門前および武家地を合併した。目白坂上に新長谷寺があった。「時の鐘」として有名であったが戦災にあい廃寺となった。(文京区)

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江戸名所図会 目白不動堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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正八幡神社
/関口


正八幡神社
祭神は猿田彦命、稲荷大神。古来関口台の鎮守として祀られ、江戸時代別当は龍泉山洞雲寺であった。古く水神社に並び鎮座していた椿山八幡宮を下の宮と呼ぶのに対し、上の宮ともまた関口八幡宮とも称せられた。現在の社殿並に石玉垣は昭和125月に新築したものである。(文京区神社誌)

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江戸名所図会 目白坂関口八幡宮 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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幸(こう)神社
/関口


幸神社

祭神は猿田彦命・稲荷大神である。道山幸神社または駒塚神社とも称した。創建年代は不詳。江戸時代、当社の祭神の猿田彦命の神像はその昔当地の崖下が入江であった頃、海中より出現した神像で神体全体に蠣殻が付着していたと伝わる。かつては神木の榎が植えられた庚申供養塚がありそこに猿田彦命を安置したという。幸神社が面する道路はかつて「清土道」とよばれ、江戸・東京から練馬などの西北近郊の村々とを結ぶ主要道の一つであった。道の神である猿田彦命を祀った当社は清土道における江戸・東京の出入り口に位置し、道行く人びとの安全を祈った祠であった。(文京区教育委員会)

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江戸名所図会 道山幸神社 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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旧関口台町(昭和41年までの町名)
もと、関口村の内で畑地であった。天和2(1682)町屋を開き、享保5(1720)から町奉行支配となった。町名は関口村の高台(目白台地)にあったので関口台町と称えたといわれる。関口の名称はむかしこの辺りに奥州街道の関所があったからともまた神田上水の分水のための大洗堰があったからともいわれている。明治5年旧細川越中守、黒田豊前守(現・椿山荘)、柳生播磨守ほかの武家屋敷地および寺地を併せた。目白台下に松尾芭蕉ゆかりの芭蕉庵がある。西隣の胸突坂下には神田上水の守護神であった水神社がある。芭蕉庵や水神社の一帯を椿山といった。鎌倉合戦のころこの辺りに伏兵を入れたとありそのころから椿が多かった。(文京区)

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街道の風景④ この先で目白通りに合流します、台地の上も魅力的です/幸神社前

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清戸道(きよとみち)
主に江戸時代に江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道である。神田川に架かる江戸川橋(現東京都文京区関口付近)を江戸側の点とし、そこから北西へ約56里(約2024km)の武蔵国多摩郡清戸(上清戸村・中清戸村・下清戸村・清戸下宿。(現東京都清瀬市上清戸・中清戸・下清戸・下宿付近)との間を結んでいたとされる。成立の経緯は明らかではない。江戸時代に尾張藩の鷹場が清戸にありそこへ鷹狩に向かう尾張藩主が通ったといわれているが、それよりも農村であった清戸から市場である江戸への農産物の輸送路としての役割が大きかった。56里という距離は当時徒歩で1日で往復できる範囲であり、清戸の農民は早暁、野菜等の農産物を背にかついだり荷車に積んだりして出発。江戸に着いたらそれらを市場や町家で売りさばき、また野菜栽培に欠かせない下肥を町家で汲み取り、それらを持って夕方には村へ帰ってこれたものと推測される。「清戸道」の名称は江戸時代以前の文献には確認できないが『新編武蔵風土記稿』では「下高田村」(現:東京都豊島区)の「村の北寄に目白より練馬辺への往還掛れり」「長崎村」(同)の「雑司ヶ谷より練馬村境界に通ずる往来あり、幅五間」といった形で清戸道に相当する道の記述が見られる。(Wikipedia

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目白台・関口周辺マップ
(赤:歩行ルート 青:神田川 茶:新目白通り 目白通り)

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神田川流域マップ(赤:神田川 緑:善福寺川 橙:妙正寺川)



by Twalking | 2017-05-02 08:45 | リバーサイドウオーク(新規)

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