無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり雑司ヶ谷&目白台   

日時 2017.4.30(日)
天気 晴れ 


「緑の木陰がいいわ~」とリクエストあり。
のんびり街歩きなら目白あたりかな・・・、
歩いたばかりですが美術館よってないし。

それに鬼子母神もよさそう、都電にも
乗ってみたいし・・・。
ということで連れだって出かけました。


・・・
雑司が谷/豊島区

雑司が谷は北側に東池袋、東側に文京区大塚、南側に高田、文京区目白台、西側に南池袋、目白と接している。雑司ヶ谷霊園とも接するが霊園の住所は豊島区南池袋4丁目であり(南池袋の面積の7割を占める)、都電荒川線の雑司ヶ谷停留場も南池袋にある。駅名の由来にもなっている法明寺も地内にある(地内にあるのは飛地境内で本堂は南池袋になる)
Wikipedia

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緑が多くて安らぐ霊園です、マップがあれば漱石の墓などみたかってのですが・・・/雑司ヶ谷霊園

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雑司が谷霊園
明治5年(1872)神葬墓地として開設され、明治7年に共葬墓地となった都営霊園です。面積約10万㎡の霊園内には緑豊かな樹々や四季折々の草花が咲き、副都心池袋に隣接する区域とは思えないほど静かで落ち着いた佇まいを見せています。また、江戸時代、霊園西側に将軍家の鷹狩り用の鷹を飼育する御鷹部屋があり、今も緑の枝を広げる「御鷹部屋の松」にその名残を見ることができます。墓域内は著名人の墓が数多くあり夏目漱石をはじめ、小泉八雲、泉鏡花、永井荷風、島村抱月等の日本文学史にその名を刻む作家たちや漂流してアメリカに渡ったジョン万次郎、開明派の幕臣小栗上野介忠順、抒情画家竹久夢二、詩人サトウハチロー、自由学園を創設した羽仁もと子・吉一夫妻、言語学者金田一京助等錚々たる面々がこの地に眠っています。また、帝国大学で哲学を教え、漱石にも畏敬されたラファエル・ケーベルの墓は都の文化財に指定されています。(雑司が谷案内マップ)


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旧マッケーレブ邸(雑司が谷旧宣教師館)

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この建物は明治40年(1907)にアメリカ人宣教師J・M・マッケーレブが建てたものです。マッケーレブは昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていました。19世紀末のアメリカ郊外住宅に多く用いられたシングル洋式を基調とし、細部のデザインはカーペンターゴシック洋式を用いています。建物の内部は1階、2階ともに3部屋がT字形に配置され各階3部屋ともに暖炉が組み込まれ、壁の中で煙突につながっています。1階の西北部にポーチ付きの玄関を設け北側に廊下及び主階段、南側にはサンルームとしても使える広縁があり東側には補助階段が付いています。19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を有する質素な外国人住宅であり都内でも数少ない明治期の宣教師館の一つとして貴重です。東京都指定有形文化財(建造物)(東京都教育委員会)

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1F食堂                2F広縁


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清立院山門

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清立院
日蓮宗、御嶽山。約770年前真言宗・清龍寺として創立。後に村を疫病から救った雲水が日蓮聖人像を寺に残したことから日蓮宗・清立院と改められました。門の石段脇に「かさもり薬王菩薩安置 清立院」と刻まれた石碑があり、雨乞いと皮膚病の祈願寺として尊崇されました。木彫毘沙門天像は区の文化財に登録されています。(雑司が谷案内マップ)

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雨乞い松
正嘉年間(1259)雨乞いに霊験ありとして旱魃の年は農民この所に集まりて雨乞いす(案内板)

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寶城寺山門


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寶城寺
創立時期は天正か寛永の頃と考えられる。元禄15年(1702)代官細井九左衛門の諸寺院境内御改により、牛込原町済松寺領より現在地に移転する。昭和に入って火災で本堂悉く焼失。昭和33年再建。(豊島の寺院)

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江戸名所図会 清立院 日進堂 請雨松 宝城寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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大鳥神社鳥居

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大鳥神社
正徳2年(1712)出雲松江藩主松平出羽守の嫡子が疱瘡にかかって高田村下屋敷で療養中、出雲鷺の浦から鷺大明神が飛来して救ったといわれ、以来ここに勧請したのが始まりと伝えられています。初め社は鬼子母神境内にありましたが、明治初年の神仏分離令により、大鳥神社と改称、ケヤキ並木付近に仮遷座し、その後、現在地を鎮座地として定め、日本武命を祭神として祀っています。権現造の社殿は 昭和56年に造営されたもの。 毎年11月の酉の市には、商売繁盛を願う人々で賑わいます。(雑司が谷案内マップ)

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大鳥神社恵比須神
七福神の中でも日本古来の唯一の神様で、伊邪那岐・伊邪那美の御子です。網と釣竿を持った姿は「釣して鯛せず」ということで、暴利を貪らない清い心をしていると言われ商売繁盛の神として愛されています。皆さんもハイ「えびす顔」ですよ(雑司が谷七福神の会)


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いい並木道ですね~・・・、参道は「面影橋」から来る鎌倉街道でしょうか

鬼子母神参道のケヤキ並木
鬼子母神堂は江戸時代から子授け、安産の御利益があるとされ多くの参詣者を集めてきました。江戸後期には将軍の御成りもあったほど大いに繁盛しました。参道には名物の大きなケヤキ並木とたくさんの茶屋、料亭などが並び、参詣客は土産には現在も造られている「すすきみみずく」などが売られていました。かつては大径のケヤキが多く荘厳な風景を醸し出していましたが、現在は徐々に若いケヤキに植え替えられ、巨木は4本のみです。毎年10月に行われるお会式(おえしき)には万灯行列が周辺を練り歩き、往時のにぎわいを伝えています。(東京都教育委員会)

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鬼子母神境内へ

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雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ
イチョウ(銀杏・公孫樹)は一属一種のイチョウ科に属する裸子植物の落葉高木である。耐寒、耐暑性があり社寺の境内樹、公園樹、街路樹などに広く植えられている。中国原産といわれ日本へは遣唐使の帰国によってもたらせられたという説もある。雌雄異株で4月に開花し10月に種子(銀杏)は成熟し黄葉する。樹高30m、幹周8mの雄株で、都内のイチョウでは麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹であり、樹勢は盛んである。応永年間(13941428)に僧日宥が植えたと伝えられている。古来「子授け銀杏」ともいわれ戸張苗竪の「櫨楓」によると婦人がこのイチョウを抱く光景がみられ、注連縄を張るようになったのは文政年間(181829)の頃という。(東京都教育委員会)

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雑司が谷の鬼子母神
雑司が谷の鬼子母神は永禄4年(1561)に清土(せいど・現在の文京区目白台)で掘り出された鬼子母神像を天正6年(1598)に現在の場所に堂を建てて安置したことにはじまる。寛永2年(1625)には社殿の造営が始まり、正保3年(1646)には宮殿が寄進された。江戸時代前期から将軍の御成りがあるなど武家から庶民まで、子育て安産の神として広く信仰され現在でも多くの参詣者が訪れている。

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現在の鬼子母神堂は手前から「拝殿」「相の間」「本殿」の3つの建物から構成される「権現造り」。本殿の開堂供養は寛文6年(1666)に行われたことが記録にあるが、屋根裏の束に書かれた墨書から寛文4年に上棟されたことが判明している。拝殿と相の間は元禄13年(1700)広島藩2代目藩主浅野光晟(みつあきら)の正室・満姫の寄進により建てられ、その建築には広島から呼び寄せた大工が従事している。拝殿は江戸中期の華やかな建物ではあるものの、装飾を簡素に変えるなど幕府による建築制限令への対応を示す事例であり、本殿と拝殿とで異なる特徴を持つ建築物であることから歴史的、意匠的に価値が高いと評価され、平成287月重要文化財に指定された。(豊島区教育委員会)


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鬼子母神とすすきみみずく
鬼子母神は子授け、安産、子育ての神として江戸時代から人々に信仰を集めている。参詣土産の「すすきみみずく」も東京の郷土玩具として古くから親しまれてきた。その純朴な愛らしい姿はこんな伝説が宿っている。むかし鬼子母神の近くに二人暮らしの母娘が住んでいた。ある時母親が病に倒れ、途方にくれた娘は鬼子母神に願をかけた。すると『この辺りは芒が多いところゆえ、これを刈り取りその穂をもって「すすきみみずく」を作り神の庭で売るとよい』という夢枕のお告げがあったという。孝行娘の一念が通じいつしか母親の病は治り、以来娘は蝶々になって鬼子母神に仕えたという。(豊島の民話・「すすきみみずく」より)(文化と歴史の散歩道・雑司が谷街歩き)

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大国堂                上川口屋

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武芳稲荷神社

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武芳稲荷神社
武芳稲荷堂は倉稲魂命(ウケノミタマノミコト)を祀った堂宇です。「日本書記」では「ウケ」は穀物・食物を意味し稲魂命は「穀物に神」といわれています。昔、このあたりで農耕が盛んに行なわれていたことが伺えます。創建の年代は不明ですが、雑司が谷鬼子母神縁起によれば天正6(1578)に「稲荷の森」と呼ばれていた当地に堂宇を建立して鬼子母神像を安置したと記されていますので、武芳稲荷堂はこれよりも以前に建立され、天正6年当時は既にこの地の地主神として多くの人々に知られていました。もとは一坪にも満たない木造の堂宇でしたが昭和42年に現在の堂が建立され、昭和46年には鳥居25基、昭和49年には正面に神狐像2体が奉納されました。武芳稲荷尊天はまた古来より「出世稲荷」とも称され、商売繁盛・開運隆昌とともにその霊験あらたかなることを慕う大勢の信徒に尊崇されています。毎年、節分後の午の日に初午大祭・518日に夏季大祭・918日には秋季大祭がそれぞれ修され皆様の開運出世、除厄得幸の祈願が行われています。(境内石碑)

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江戸名所図会 鬼子母神 法明寺 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

法明寺
日蓮宗、威光山。創建弘仁元年(810)、もとは真言宗のお寺でしたが、正和元年(1312)日蓮聖人の弟子日源上人により改宗、現在の寺号に改められました。江戸時代から桜の名所として知られ『歩蔵国雑司谷八境』のひとつに「威光山( 法明寺) 花」と記されています。参道から山門に続く風情ある桜並木は今も訪れる人の目を楽しませてくれます。境内には曲尺、算盤、天秤など度量衡の珍しい図案が彫られた梵鐘や酒井抱一筆の朝顔が描かれた蕣(あさがお)塚があり、また墓地には楠公息女の墓(姫塚)や豊島氏累代の墓があります。(雑司が谷案内マップ)

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地名の由来
雑司が谷の地名の紀元については①法明寺の雑司料であったため②小日向金剛寺の雑司料であったため③元弘・建武期の朝廷で雑式の職を務めた柳下・長島・戸張氏がこの地に土着し、その子孫も村民として残ったから④郡領等身分の高い人の子息の子を指す曹司などのはじめた土地だから等諸説あり、「雑司ヶ谷」に統一されたのは8代将軍徳川吉宗が放鷹のため立寄った折、「雑司ヶ谷村」と書くべしとしたからと伝えられています。昭和41年の住居表示実施により現在の「雑司が谷」に町名が変更されました。(未来遺産雑司が谷お散歩マップ)

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雑司が谷案内マップ
(緑:鎌倉街道 茶:目白通り・明治通り・不忍通り)

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旧鎌倉街道
鎌倉時代に幕府鎌倉と諸国の国府を結んだ道路網で、有事の際に「いざ鎌倉」と御家人が駆け参じた道として知られています。そのひとつが豊島区内を縦断していたと云われ、おおよそ北区滝野川から明治通り沿いに上池袋に入り、沖仲橋を経て東池袋南池袋と南進し、さらに雑司が谷から目白通りを超えて面影橋へと続く道筋にあたります。特に鬼子母神表参道から下る宿坂あたりはかつての街道の面影が偲ばれます。(未来遺産雑司が谷お散歩マップ)




・・・神田川&目白台

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都電荒川線に乗って早稲田へ

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大隈通り               大隈庭園前にてランチ


・・・永青文庫

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肥後細川庭園を散策して永青文庫へ

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初めて入りましたが見応えのある美術館です/永青文庫

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記念撮影               胸突き坂を芭蕉庵へ

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永青文庫展示物/パンフレット


・・・関口芭蕉庵

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関口芭蕉庵瓢箪池

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関口芭蕉庵/文京区関口
この地は江戸前期の俳人松尾芭蕉が延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川改修工事に参画し「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。享保11年(1726)芭蕉の33回忌に当たり芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。その後、去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。芭蕉は、早稲田田んぼを琵琶湖に見立てその風光を愛したと言われている。そこで、寛延3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が芭蕉の直筆「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓とした。この墓を「さみだれ塚」と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。芭蕉庵の建物は昭和13年(19383月、近火で類焼したが同年8月再建された。しかし、昭和20年(19455月の戦災で再び消失した。敷地内には芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり往時をしのぶことができる。(文京区教育委員会)

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芭蕉翁の句碑 
ふる池や 蛙飛びこむ 水のをと 
芭蕉翁280年祭にこれを建つ 文字は真筆 昭和48年・1973/案内板




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夜寒の碑
二夜鳴く 一夜は寒し きりぎりす
武玉川の撰者四時慮慶紀逸の句碑(宝暦3年・1753)/案内板





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苑石湖の詩碑             伊藤松宇の誌碑

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史跡関口芭蕉庵案内図



・・・椿山荘

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神田川遊歩道から椿山荘の庭園へ寄り道


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白玉稲荷神社
大正13年(1924)に京都下賀茂神社にあった社殿を譲り受けて移築し、翌14年に伏見稲荷大社から白玉稲荷を勧請して椿山荘の守護神としました。平成3年現在地に新社殿を遷座しました。(説明板)


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圓通閣
圓通閣は平安前期に小野篁(たかむら)によって広島県の竹林寺に創建され、平清盛が第1回目の改修を執り行ったとの言い伝えがあります。椿山荘へは1925年(大正14年)山縣有朋公爵から庭園を譲り受けた藤田組2代目当主藤田平太郎男爵によって移築されました。2010年には移築後初めての大規模改修を行い、新たに聖観世音菩薩を奉安。臨済宗相克国派有馬頼底管長睨下による落慶並びに入仏開眼法要を執り行い「圓通閣」と名乗るところとなりました。「圓通」とは 圓通大士、つまり観世音菩薩の異称で、圓通閣は観音堂を意味しています。(説明板)

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般若寺式石灯篭
「般若寺型」石灯篭は江戸時代の茶人・造庭家の間で「名物の石灯篭」と呼ばれ、本来は奈良市の般若寺に存する石灯篭が原型とされました。しかし、椿山荘所在の般若寺式の方が基礎の反花の勾配の美しさ、火袋の彫刻の図様、中台の各狭間内の文様に原格性があり、のびのびとして優れたものであることから椿山荘所有のものが原型で、般若寺のものはその模作であり江戸時代初期作とされています。(石造美術研究家の権威川勝急政太郎博士の調査発表による)/説明板


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丸型大水鉢
この丸型大水鉢は京都府東山区粟田口から蹴上を経て山科に通じる日ノ岡峠にあったもので、木食上人養阿正禅が旅人のために作ったものと伝えられています。この水鉢は牛車の轍が刻まれた敷石とともに保存されていますが、日ノ岡峠を越える人々が水鉢に溢れる清水で肌を冷やし喉を潤おした往時が偲ばれます。(説明板)

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五丈滝
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椿山荘ガーデンマップ


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江戸川橋公園から地下鉄で帰りました


神田川(目白台・関口)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24138613/

by Twalking | 2017-05-05 22:55 | 東京散歩(新規)

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