無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 妙正寺川01-妙正寺池   

日時 2017.5.3(水)
天気 晴れ


神田上水は大洗堰で神田川から取水し、
神田や日本橋に水を供給していましたが、
妙正寺池はその水源のひとつになります。

ここも訪ねてみたいと思っていましので、
大洗堰に辿り着いた機会に歩いてみました。
この辺りは初めてなので楽しみです。



・・・清水/杉並区


杉並区の中北部に位置する。町域の北部は早稲田通りを境に同区下井草に、西部は環八通りを境に同区今川・桃井に、南部は天沼本通りを境に同区天沼に、東部は本天沼にそれぞれ接する。妙正寺が置かれこれに隣接して妙正寺公園がある。同公園内にある妙正寺池を水源に妙正寺川が流れている。江戸時代には下井草村の一部であった。1932年(昭和7年)に東京市杉並区に編入された際「清水町」の地名が生まれた。この地の旧家にあるから清水が湧き出ていたことから江戸時代には「清水」が字の名として使われるようになった。
Wikipedia

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池の風景① 住宅地の小さな公園ですが、ここが妙正寺川の水源です/妙正寺公園

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妙正寺公園/清水
妙正寺川の水源にもなっている妙正寺池を中心に遊具や広場が整えられており、周辺住民の憩いの場として知られる。園内で妙正寺川に支流の井草川(現在は暗渠)が合流している。妙正寺池は古来より武蔵野台地の湧水池のひとつとしてあり、1352年に池のほとりに日蓮宗の寺院である妙正寺が建てられた。池の名前はそれに因んでいる。妙正寺は現在でも池の南側に在り杉並区でも有数の由緒ある寺として知られている。妙正寺の弁財天はかつて妙正寺池のほとりにあったものである。付近の宅地化とあわせて公園として整備され、公園としては1963年に開園した。現在では湧水量が減り池の水は人工的に揚水しているものである。Wikipedia

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妙正寺山門/清水

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妙正寺
法光山妙正寺は日蓮宗の寺で十界諸尊を本尊とし、ほかに大黒天・鬼子母神・三十番神・弁財天などの諸像が祀られています。約600年前の文和元年(1352)中山法華経寺(千葉県)の第3世日祐上人が妙正寺のほとりに堂を建て、法華経守護の天照大神・八幡大神・春日大神など三十番神を勧請したのが草創であり、正保3年(1646)中興開山日明が社殿再建してから広く信仰されるようになったといいます。慶安2年(16493代将軍徳川家光が鷹狩りの折、神前に武運長久を祈願し葵の紋幕と朱印地五石を寄進してからは「御朱印寺」として一層有名になりました。

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現在でも毎年1025日に三十番神堂に葵の紋幕を掲げて一般に公開する法会が行われています。天保元年(1830)に本堂は古文書類と共に焼失しましたが天保3年には再建され、昭和6年に改築して今日に至っています。また、三十番神堂及び鐘楼は安政3年(1856)の大暴風で倒壊し安政6年に再建されました。

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現在の鐘楼は昭和38年に新しく建て替えられました。当寺に伝わる鎌倉期から室町期の板碑8基は妙正寺池周辺の古い村落のことがうかがえる貴重な文化財です。鬼子母神像は「生毛鬼子母神」と称され、安産に霊験ありとして江戸城大奥にありましたが天保改革(1841)の大奥粛清の時この寺に移されたもので、それ以来この地域の人々に「安産の神」として親しまれてきたといわれます。なお弁財天像はもと妙正寺池の弁天島に祀られていたものです。(杉並区教育委員会)

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中瀬天祖神社/清水

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中瀬天祖神社当社は「新編武蔵風土記稿」多摩郡下井草村の条に「十羅刹堂」とあり「妙正寺ヨリ三町程北ノ方小名神戸ニアリ。妙正寺御朱印地ノ内ナリ 即此ノ寺ノ持」と記されています。十羅刹とはもと人を食う悪魔でしたが、後に法華経を守る守護神となった10人の羅刹女といわれています。このことから日蓮宗の妙正寺がここに十羅刹を祀ったものと思われます。明治以前は従羅刹様、神明様などと称していましたが、維新後の神仏分離令(明治元年)によって天祖神社と改称されました。祭神は大日孁貴神(天照大神の別の尊称)・市杵嶋姫命(天照大神の姫神)・保食神(穀物や食物の神)の三神です。

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また、このほかに市杵嶋神社・稲荷神社合殿の境内社が一社あります。「神社明細帳」の由緒には「当社は井草八幡宮の境外神社」で井草川の西岸神戸坂の上に在り、極めて古き社にして、神体は一大石剣なり」とあります。この神体を霊石とする伝説があり、昭和20年頃までは例祭日には社前で餅をつき「下ベロ餅」という丸餅を参拝者に配りました。この餅を食べると子宝が授かるといわれ延宝からも多数の参拝者があり「神戸の鎮守様」として昔から親しまれてきました。天祖・稲荷それぞれに講中があり、100余名の氏子が熱心に維持管理に当たっています。例祭日は10月15日です。(杉並区教育委員会)


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妙正寺川の風景① GWですね、鯉のぼりが泳いでます/落合橋

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橋落合橋               両岸に遊歩道がついています

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妙正寺川
妙正寺川は妙正寺池を水源とし区内北部をほぼ東へ流れる延長約9km(区内部分約1.2km)の川で、中野区・新宿区を経て神田川に合流し最後は隅田川にそそぎ込みます。武蔵野台地上にある杉並区では地下67mに武蔵野砂礫層が堆積しており、その中を流れる地下水が標高約50m付近にある窪地から地表に湧き出て飲料水などとして利用されてきました。この湧水も現在ではほとんど見ることができませんが妙正寺池もその一つです。

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本川の流域には小規模な縄文・古墳時代の遺跡が点在しており、古代から人々の生活に適した環境をつくり出していたものと思われますが、水量はそう多くはなかったので江戸時代になって千川用水より引水し、神田川上水の助水として利用されてきました。しかし梅雨の頃になると水量が増えるので、人々が集まり竹竿の先につけたジョレンなどを使い、川をさらったり長く伸びた川藻を刈取ったりしました。又昔は神奈川県の大山阿夫利神社を信仰する人が多く、その講中の人々は代参人を大山に送る時、下流の寺前橋付近にあった「清めの不動様」を祀る大水門で水垢離をとったといわれ、日照りが続くと阿夫利神社からの神水と妙正寺から借りた太鼓を先頭に大水門から村中を練り歩き、最後にその神水を川に流し雨の降ることを祈ったといわれています。(杉並区HP)

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妙正寺川の風景② 左岸の遊歩道です、のんびり歩けますよ~/宮前橋付近

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永久橋/早稲田通り           松下橋/旧早稲田通り

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銀杏稲荷神社/下井草
当社は旧下井草村の鎮守で社名は神社の裏山にあった銀杏の大木に由来しています。創建は棟札に「抑当社勧請者元和21616)歳比、先祖外記造営(下略)」とあり、井口家の先祖である井口外記といわれています。井口家は相州(現神奈川県)の三浦氏の末裔といわれ天正年間(1573-1592)に当地に移り住んだもので、その一族の多くは名主・年寄役などを勤めました。井草の地名のおこりも井口姓を名乗った長佐衛門なるものが「草分け長佐衛門」と呼ばれたことからおこったという説もあります。村の鎮守として祀られた当社は、かつては境内も200坪ほどあり、江戸時代には下井草村の妙正寺が別当として管理していましたが、現在は井口家を中心とする30数軒の講中の稲荷として地元の人々に信仰されています。現在も残されている文政12年(18292月に下井草村氏子中が奉納した「正一位銀杏稲荷大明神」の大幟は当時からも稲荷信仰が盛んだったことをうかがわせる貴重な資料です。毎年2月初午には世話役の頭を中心にして、この大幟と各講中持ち回りの幟を立て、井草八幡宮より御幣を戴き御神酒及び種々の御供物をして、赤飯を子供達に与、五穀豊穣・講中安全・子孫繁栄を祈願しています。祭礼は2月初午です。(杉並区教育委員会)

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妙正寺池公園周辺マップ
(青:妙正寺川 茶:環状8号・旧早稲田通り・早稲田通り・新青梅街道)


・・・鷺宮/中野区

中野区の北西部に位置する。町域の東部は中野区野方・丸山に、北部は練馬区中村南・中野区上鷺宮に、南部は中野区若宮・白鷺に、西部は杉並区井草に接する。地名は1064源頼義がこの地に八幡神を祀った社殿を建立した(現在の鷺宮八幡神社)。その神社(宮)の境内にが多く棲んでいたことから里人に「鷺宮大明神」と呼ばれるようになりこれがこの地名の起因といわれる。江戸時代は多摩郡上鷺宮村・下鷺宮村の一部。上鷺宮村は今川直房の所領、下鷺宮村は幕府直轄領となる(Wikipedia


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妙正寺川の風景③ 中野区に入り、駅前を右折して八幡神社へ/八幡橋(西武新宿線鷺宮駅)

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交通危除地蔵尊(福蔵寺)           妙正寺川改修記念碑/白鷺

白鷺

白鷺は1965年の住居表示施行により成立した町名である。住居表示前の旧町名・鷺宮から鷺か宮のどちらか1文字を残したいという住民の要望が、町域内にある福蔵院という寺院の山号「白鷺」と一致しこれをそのまま採り入れたものである。(Wikipedia

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鷺ノ宮八幡神社鳥居/白鷺


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鷺ノ宮八幡神社
当社の創建は康平7年(1064)陸奥守源頼義勅を奉じ東国平定後、鎌倉街道に面した当地に社殿を建て八幡神の御神霊を奉祀し戦勝感謝国家安泰、源氏の隆昌を祈願したのが始めであると伝えられる。往昔境内に老樹、林立し鷺が多く棲んでいたので里人は鷺宮大明神と称しこれが地名の起因になった。正保2年(1645今川直房所領の折、八幡神社と改称した。慶安2年(1648)以降江戸幕府より御朱印7石余を寄進せられ、中野区内に於て御朱印を付与された唯一の神社で崇敬厚き古社である。

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戦後宗教法人法により発足し昭和25年国有境内地346221049坪)の譲与を受け、同35年本殿、幣殿・拝殿50坪天地改築、及手水舎改築、明治100年記念事業として同40年御嶽神社、同42年稲荷神社を堂舎境内に合併改築、同年神楽殿改築、参集殿新築、石塀設置、同50年天皇陛下御在位50年記念、狛犬設置、同56年本殿・幣殿屋根葺替え改修、同63年天皇陛下御在位60年記念事業として社殿改修、常夜燈設置等神社の面目一新し今日に至っている。(境内掲示板)

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福蔵院山門/白鷺

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福蔵院
福蔵院は真言宗豊山派の寺院で僧頼珍が大永元年(1521)に創建したとされています。江戸時代には隣接する鷺宮八幡神社別当寺を務めていました。御府内88ヶ所霊場の14番札所です。山門をくぐった右側には不動明王(初七日)、釈迦如来(二七日)、文珠菩薩(三七日)、普賢菩薩(四七日)など石造の十三仏があります。この十三仏は死後の忌日をつかさどるもので、冥界で生前の審判を受ける死者の救済を願って江戸初期のころ奉られたものです。(まるっと中野HP)

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福蔵院の13
ここにならぶ仏菩薩が13仏です。右から不動明王(初7日)釈迦如来(27日)文殊菩薩(37日)、普賢菩薩(47日)地蔵菩薩(57日)弥勒菩薩(67日)薬師如来(77日)観世音菩薩(百か日)勢至菩薩(一周忌)阿弥陀如来(3回忌)阿閤如来(7回忌)大日如来(13回忌)虚空像菩薩(33回忌)です。この13仏の仏菩薩は死後の忌日をつかさどるもので、冥界で生前の審判を受ける死者の救済を願ってまつられたものです。このように自他の供養がまとめて修められることから室町時代以降、民間で広く信仰されました。銘によれば8体は寛文6年(1666)の大日如来像を最古として、貞享2年(1685)の普賢菩薩像に至る19年間に造立され、あとの5体は破損したものとみえ、現存のものは100余年後の寛政8年(1796)に真言講中の27人によって再建されたものです。このように石像で13体そろったものは都内でもめずらしく他の石仏と同様、江戸時代後期の日常生活に深く根づいていた庶民信仰の現われといえましょう。(中野区教育委員会)
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境内の紅葉が青々として素晴らしいですね

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鷺宮駅周辺マップ(青:妙正寺川 茶:中杉通り)



・・・大和町
(やまとちょう)

中野区の北西部に位置する。東部は環七通りが通りこれを境に中野区野方12丁目に接する。北部は妙正寺川を境に中野区野方五丁目・若宮に、西部は中野区白鷺と杉並区阿佐ヶ谷北に接している。南部は早稲田通りを境に杉並区高円寺北に接している(Wikipedia

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妙正寺川の風景④ 鷺宮付近から大きく湾曲し蛇行しながら流れます/鷺盛橋付近

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下鷺橋                川北橋

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大和八幡神社鳥居/大和町


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大和八幡神社
永承年間(104652)奥羽地方征討の途中の源義家が高台のこの地で京都石清水八幡宮を遥拝祭儀を行なった。義家を慕い同八幡宮を信仰した村人たちが天喜4年(1056)ここに同八幡宮の御神霊を勧請して八幡神社を造営したと伝えられ、以後地域の鎮守として崇敬されてきた。社殿は昭和3年の改築と新しいが貞享2年(1685)の地蔵尊像、宝暦11年(1762)の手洗盤、文政13年(1830)の狛犬一対、文久3年(1863)の石燈籠等古いものが残る。(説明板)

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神社参道付近に育英(こそだて)地蔵堂と厄除不動堂が並んで建ってます

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環状7号線を横断します。前方が西武新宿線の野方駅です

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この先は行き止まり、新昭栄橋を左に迂回して遊歩道に戻ります/新昭栄橋


・・・沼袋


中野区の北部に位置する。東部と南部は妙正寺川を境に東部は中野区松が谷と、南部は中新井に接する。西部は中野区野方に接する。北部は新青梅街道を境に中野区江古田に接する。『鎌倉大草紙』には1478年(文明8年)に太田道灌、上杉朝昌、千葉自胤以下が江古田原沼袋に馳せ向かったと記録されている(江古田・沼袋原の戦い)。江戸期には上沼袋村と下沼袋村に分村されていた。(Wikipedia

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妙正寺川の風景⑤この辺りから見所が多くなります、先ず左岸へ/沼袋駅付近

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沼袋氷川神社鳥居/沼袋


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沼袋氷川神社
当社は正平年間(134670)に武蔵国一の宮である大宮鎮座の氷川神社より御分霊をいただいて当地に奉祀したのにはじまると伝えられる。文明9年(1477太田道灌が豊島一族と江古田原・沼袋の地で合戦したさい戦勝を祈願して社頭に杉一本を献植、後年道灌杉と呼ばれていたが昭和19年枯損した。正保年間(164448)代官野村彦太夫が社殿を修築し文久4年(1864)石鳥居が建てられ、明治13年(氏子数70軒余)社殿を改築、大正11年幣殿を増築、大正15年社務所を新築する。昭和15年皇紀2600百年記念として表参道に石大鳥居を建立、記念植樹がなされた。(境内説明板)

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道灌杉
当神社には太田道灌が植えたといわれる道灌杉がありました。惜しくも昭和19年頃(1944)枯れてしまいましたが、当時の写真からは高さが30mに達し樹齢数百年にもなると思われるご神木の姿がしのばれます。文明9年(14774月対立関係にあった関東管領方の武将太田道灌と関東公方方の豊嶋泰経(やすつね)は江古田と沼袋の地で戦闘を交えました。(江古田・沼袋合戦)その際、道灌によって戦勝を祈願して植えられたのがこの道灌杉であると伝えられています。道灌はこの合戦に勝利し、豊嶋氏にかわって武蔵野台地を支配しました。(中野区教育員会)

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三本願い松
古来より「悪しきことはスギ去れ、願い叶うをマツ」と杉の木に願いを掛けて不運・災難から逃れ、松の木に幸福を願うと必ず叶うと信じられてきました。豊かな森がいつでも身近にあった我々日本人には自然の恩恵や営み、特に木に宿る魂に対する謙虚な姿勢がありました。「三本願い松」に思いを託し大神さまのお蔭を頂き健康で豊かな日々をお過ごしくださいますよう祈念申し上げます(案内板)


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禅定院山門/沼袋 

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禅定院
禅定院瑠璃光山薬王寺。真言宗豊山派。禅定院は南北朝時代の中期、貞治元年(1362)の開創と伝えられる寺院です。開創の地は後世の新橋村(多摩郡野方領下沼袋村から枝分かれした村)でありましたが、後に現在の寺地に移りました。草創期のご本尊は薬師瑠璃光如来であり山号と寺号はこのことに由来しています。

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現在のご本尊は鎌倉時代後期の作とされる不動明王立像です。旧上沼袋村の伊藤家とその一族の菩提寺としての特色を持っていたことから伊藤寺とも呼ばれていました。明治16年霊場巡拝の信仰の一つ「御府内八十八カ所」の第48番霊場(林松院)の弘法大師像が奉安されたことから第48番霊場となりました。また、檀信徒や地域の方々の要望により幼児期の教育の場として昭和29年に沼袋幼稚園を設立し現在に至っております。(禅定院HP)

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沼袋駅周辺マップ
(青:妙正寺川 茶:環7・中野通り・新青梅街道・早稲田通り)



by Twalking | 2017-05-07 11:16 | リバーサイドウオーク(新規)

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