妙正寺川02-新井薬師
天気 晴れ
後半は新井薬師周辺、江古田古戦場、哲学堂、
中井に入ると上高田の寺町と見所一杯、
道を探しながらでしたので時間がかかりました。
初めての場所なのできるだけ寄り道しましたが
新井薬師と哲学堂はじっくり見るのがお勧めです。
川筋は蛇行してるのでうまく組み合わせるといいですね。
・・・新井(中野区)
中野区の北部寄りに位置する。東部は上高田に、南部は早稲田通りを境に中野と接する。北部は妙正寺川を境に沼袋と西部は野方に接している。早稲田通り沿いは中野駅から徒歩10分程度で利用可能。北西部には平和の森公園(旧中野刑務所)が設置されている。地名は新井薬師(梅照院)を由来とする。この寺院が名称の由来となった西武新宿線の新井薬師前駅は駅前の通り一つ隔てて隣の上高田にあり町域外である。(Wikipedia)
御祭神:菅原道真公(天神様)
残存する梅照院縁起に「開基の行春より数代後の住持玄鏡が、天和年間に手植の梅一株を北野天満宮に献じた」とあります。当社は天満宮として天正・天和(16世紀)の頃には新井の里の鎮守であったと思われます。豊かな水に恵まれた新井の村は妙正寺川の水害からの守護を天神様に祈り、すべての食物の御親である保食神に豊作を祈願しました。天神様として祀られた菅原道真公は世に優れた学者であり右大臣にまで出世されたことから、後には学問の神として尊崇を集め学業成就・子の成育・家内安全・家門隆盛・事業繁栄・工事安全・交通安全・厄除など祈願する人が多くなりました。(新井天神北野神社HP)
牛は菅原道真公の「おつかい」と考えられています。菅原道真公を祭神とする神社では牛が聖獣とされ、境内に臥(ふ)した牛の像が安置されていることが多いです。また撫で牛には農耕神や雷神として祀られてきた天神が道真の御霊と結びつき、その一方で農耕のなかで大切にされ天の祟りを祓う獣でもあった牛と天神信仰とが結びついたことにより、牛が天神の使いと考えられるようになったものと考えられます。(新井天神北野神社HP)
この石碑の周囲にめぐらされている13個の大きな石は「力石」といって昔、若者たちが力くらべに使ったものです。今日とは違い娯楽の少なかった時代には神社の祭礼は人々の最大の楽しみでした。祭りの日、若者たちは大きな石を頭上に高くかかげてその力を競い合い、持ち上げた石に重量や姓名を刻んで奉納したものです。刻まれている銘文からは新井村や上高田村から集まった若者たちが、38貫目余(約143.5kg)~70貫(262.5kg)までの石を持ち上げ奉納したことがわかります。力石の行事は娯楽の面だけではなく、その多くが神社の境内にあることからも本来は神事儀礼であり、また重い石を持ち上げることにより一人前として社会に認められた当時の通過儀礼のひとつでもありました。(中野区教育委員会)
この塔は梅照院(新井薬師)の再建に尽した住職運樹の業績と信徒の信仰心にこたえるため、安永8年(1779)後継者の英俊が高野山延命院の引導地蔵尊を模して建立したものです。碑文によれば「梅照院は天正14年(1586)行春が建てたことに始まる。本尊の薬師仏は弘法大師の手刻といわれている。住職が薬師仏のお告げでつくった小児の妙薬(夢想丸)はどんな難病にも効能があった。延享元年(1744)運樹が住職に迎えられると御利益が広まりいっそう寺運が盛んとなった。明和元年(1764)寺院が焼失した。老僧運樹は直ちに仮仏殿を造りさらに本堂再建の大願をたて趣意書を示して広く喜捨を募った。しかし明和4年(1767)本堂の建立をまたず75歳で没した。あとを継いだ英俊は10年以上も苦労の末、安永8年(1779)の春ついに本堂の落成に至った」ことが記されています。(中野区教育委員会)
・・・松が丘
中野区の北東部に位置する。東部は上高田・新宿区西落合に、北部は新青梅街道を境に江古田、西部は妙正寺川を境に沼袋に、南部は新井に接する。町域内を中野通りが縦貫し、地域内で妙正寺川と江古田川とが合流している。丘の名の通り哲学堂通りから中野通りへと高低差が激しい。明治初期まで片山村と呼ばれていたところで、住居表示の施行によって新町名を制定する際、哲学堂公園周辺の台地がかつて松林で有名であったことにちなみ、最終的に「松が丘」が採用された。(Wikipedia)
江古田橋 大きくカーブします
江古田古戦場跡/江古田公園(松が丘)
このあたり哲学堂公園から野方6丁目にいたる新青梅街道沿いの一帯は、文明9年(1477)太田道灌と豊島泰経らが激戦をしたところです。ここでの合戦は享徳の乱(1454-1482)という長期にわたる内乱の中での戦でした。享徳の乱は古くからの豪族に支持された関東公方足利成氏と太田氏が仕える関東管領上杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起きました。この乱により関東は二分され、幕府などの支援をうけた上杉方は武蔵・相模・西上野をおさえましたが、そのとき江戸城を根拠地とした道灌は武蔵国の領主たちを支配下にまとめ戦を有利にすすめるために重要な役割をはたしました。ここでの合戦は武蔵野の開発を行って来た豊島氏にかわって、太田氏が武蔵野支配を確立するうえで大きな意味をもっていました。(中野区教育委員会)
文明9年(1477)4月13日上杉定正の臣江戸城主太田道濯は関東管領上杉顕定及び定正を襲うて敗走せしめた。長尾景春の党豊島泰明を平塚城に攻めて帰ったが、泰明の兄豊島泰経等石神井練馬両城より泰明救援のため馳せ来るを迎えて、江古田原沼袋の地に激戦し泰経は翌14日敗死し、後遂に石神井等を陥れた。この事は史籍に明徴有り、道灌の偉業の一つに数うべきであらう。道灌江戸築城以来ここに五百年わが区は道灌戦蹟の地に因み碑を建てて永くその事績を伝えんとするものである。(昭和31年10月1日東京都中野区)
この神社は長い間天満宮ともよばれ新編武蔵風土記稿にもみえています。この神社では昔から「おびしゃ」(御歩射・備射)の神事が行われてきましたが、いまではそれも行われなくなって伝統を語る古老も少なくなってしまいました。「おびしゃ」の神事は関東地方東部で行われる春の農村行事で、弓で的を射てその年の農作物の豊凶を占うものですが、いつ頃からか神と人の直会(なおらい)の宴のような色合いが濃くなり大正頃には、光の強飯式(ごうはんしき)に似た行事に変ってしまったそうです。この神事は2月の初午の日と秋の例祭の2回行われ、当初は当番と両隣りの家が本膳を用意し、おとなたちは祝いのうたを歌いこどもたちは豊年祈願の文章を読むのが恒例になっていました。(中野区教育委員会)
万巻の書物を読みつくすことは絶対の妙境に到達する道程であって、哲学界の万象はこの読書堂にありとしてこの名がある。(案内板)
哲学とは宇宙の真理を研究する学問であってその講和または講習を開かんがために設けられた講義室である。
皇國殿
本館(宇宙館)内部に横斜して位置する特殊構造の一室であり国家社会の原理を講究する哲学堂として本殿が設けられたものである。(案内板)
(青:妙正寺川 茶:新青梅街道・早稲田通り・中野通り)
・・・上高田
中野区の東部に位置する。地域の東部は妙正寺川を境に新宿区中井・中落合に接し、南東部は新宿区上落合とも接する。北部も概ね妙正寺川を境として新宿区西落合に、南部は早稲田通りを境に中野区東中野・中野に、西部は中野区松が丘・新井に接している。南部の早稲田通り沿いは寺院が多く寺町となっている。「上高田」の地名は江戸初期に成立した多摩郡上高田村に由来するものであるが、現在「上高田」と呼ばれる町域は1960年から1967年にかけて整備された町割による。(Wikipedia)
中野区上高田にある曹洞宗の寺院。山号は龍寶山(りゅうほうざん)。赤穂事件(忠臣蔵)で知られる吉良義央の墓がある。元々は萬昌院という寺と功運寺という別々の寺であったが1948に合併してできた寺である。
今川氏累代墓(観泉寺)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24083934/)
すぐ隣は宝泉寺、曹洞宗のお寺です。板倉内膳正重昌の墓所があります。
・・・中井/新宿区
新宿区北西部に位置する。町域北東端で新目白通りと山手通りが交差している。町域の北は新宿区中落合4丁目に接している。東は山手通りを境に新宿区中落合1丁目に接する。町域西部から南部にかけては妙正寺川が町界となり西から南西は中野区上高田、南部は新宿区上落合に接する(Wikipedia)
林芙美子記念館/中井通り 中井駅前
・・・落合(町)
東京府豊多摩郡にかつて存在した町の一つである。ほとんどが武蔵野台地を構成する豊島台上にあるが、妙正寺川・神田川の周辺には谷底平野が形成されている。この2つの川は当地で合流しており地名の「落合」の由来にもなっている。(Wikipedia)
現在は高田馬場分水路に流入 神田川を高田馬場駅へ
神田川(下落合)の関連記事こちらへ(http://teione.exblog.jp/24113633/)
(青:妙正寺川・神田川 茶:哲学堂通り・山手通り・目白通り・新目白通り)
(橙:妙正寺川 緑:善福寺川 赤:神田川)
妙正寺川01-妙正寺池の関連記事はこちらへ(https://teione.exblog.jp/24154118/)
by Twalking | 2017-05-08 16:28 | リバーサイドウオーク(新規)