無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 妙正寺川02-新井薬師   

日時 2017.5.3(水)
天気 晴れ


後半は新井薬師周辺、江古田古戦場、哲学堂、
中井に入ると上高田の寺町と見所一杯、
道を探しながらでしたので時間がかかりました。

初めての場所なのできるだけ寄り道しましたが
新井薬師と哲学堂はじっくり見るのがお勧めです。
川筋は蛇行してるのでうまく組み合わせるといいですね。


・・・新井(中野区)


中野区の北部寄りに位置する。東部は上高田に、南部は早稲田通りを境に中野と接する。北部は妙正寺川を境に沼袋と西部は野方に接している。早稲田通り沿いは中野駅から徒歩10分程度で利用可能。北西部には平和の森公園(旧中野刑務所)が設置されている。地名は新井薬師(梅照院)を由来とする。この寺院が名称の由来となった西武新宿線の新井薬師前駅は駅前の通り一つ隔てて隣の上高田にあり町域外である。(Wikipedia

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妙正寺川の風景① 今度は右岸の平和公園から新井薬師へ向かいます/新道橋

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ここは中野刑務所の跡地、まだ未完成でのようですがいい森です/平和の森公園

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平和の森公園と弥生時代の遺跡
明治43年(1910)に市ヶ谷から移転して以来、中野刑務所は70年余年間この地にありましたが、昭和58年(1983)廃庁となりました。平和の森公園はこの中野刑務所跡地に造られ、昭和60年(1985)に開園したみどりの防災公園です。園内には先土器時代(約13000年前)から江戸時代末期までの複合遺跡である平和の森公園北遺跡が発見されています。特に弥生時代後期(約1800年前)の竪穴式住居や土器が多く、隣接する新井3丁目遺跡を含めて約260軒もの住居を持つ集落が発掘されました。当時の村の有力者の墓と見られる方形周溝墓が区内では初めて発掘されました。(歴史と文化の散歩道・薬師平和の森散歩)

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豊多摩刑務所
大正・昭和を通じて東京府豊多摩郡野方村(中野区新井3丁目)に存在した刑務所。豊多摩監獄や中野刑務所と呼ばれた時代もある。特に1925年(大正14年)の治安維持法制定以後は思想犯が多数収監された。四万坪に及ぶ跡地は現在、平和の森公園および法務省矯正研修所東京支所となっている。研修所敷地内に監獄の表門が保存されている。(Wikipedia)写真は矯正研修所内に残る旧正門です)


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新井天神北野神社鳥居/新井

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新井天神北野神社
御祭神:菅原道真公(天神様)
残存する梅照院縁起に「開基の行春より数代後の住持玄鏡が、天和年間に手植の梅一株を北野天満宮に献じた」とあります。当社は天満宮として天正・天和(16世紀)の頃には新井の里の鎮守であったと思われます。豊かな水に恵まれた新井の村は妙正寺川の水害からの守護を天神様に祈り、すべての食物の御親である保食神に豊作を祈願しました。天神様として祀られた菅原道真公は世に優れた学者であり右大臣にまで出世されたことから、後には学問の神として尊崇を集め学業成就・子の成育・家内安全・家門隆盛・事業繁栄・工事安全・交通安全・厄除など祈願する人が多くなりました。(新井天神北野神社HP)

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合祀社宝樹稲荷社由来
江戸時代後期の文化14年(1817)に板倉勝政氏により市ヶ谷の邸内に守護神として鎮守されてたのが始まりである。平成2710月矯正研修所施設移転に伴い北野神社境内社稲荷神社に合祀され現在に至る。尚、本殿横の宝樹稲荷社社号碑(背面由来書あり)は前鎮守地境内にあったものを当地に移設したものである。(説明板)

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天神信仰と撫牛
牛は菅原道真公の「おつかい」と考えられています。菅原道真公を祭神とする神社では牛が聖獣とされ、境内に臥(ふ)した牛の像が安置されていることが多いです。また撫で牛には農耕神や雷神として祀られてきた天神が道真の御霊と結びつき、その一方で農耕のなかで大切にされ天の祟りを祓う獣でもあった牛と天神信仰とが結びついたことにより、牛が天神の使いと考えられるようになったものと考えられます。(新井天神北野神社HP)

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力石
この石碑の周囲にめぐらされている13個の大きな石は「力石」といって昔、若者たちが力くらべに使ったものです。今日とは違い娯楽の少なかった時代には神社の祭礼は人々の最大の楽しみでした。祭りの日、若者たちは大きな石を頭上に高くかかげてその力を競い合い、持ち上げた石に重量や姓名を刻んで奉納したものです。刻まれている銘文からは新井村や上高田村から集まった若者たちが、38貫目余(約143.5kg)~70貫(262.5kg)までの石を持ち上げ奉納したことがわかります。力石の行事は娯楽の面だけではなく、その多くが神社の境内にあることからも本来は神事儀礼であり、また重い石を持ち上げることにより一人前として社会に認められた当時の通過儀礼のひとつでもありました。(中野区教育委員会)

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梅照院山門/新井

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梅照院
東京都中野区にある真言宗豊山派の寺院。新井山梅照院薬王寺と号する。中野区最大の寺院であり西武新宿線の駅名にもなるなど都内でも有数の著名寺院である。駅前から山門にかけては商店街の続く門前町となり地域住民からも新井薬師として古来親しまれている。なお、新井の名は当地で新たに井戸を掘ったことに由来するもので、足立区にある西新井大師と同じ真言宗豊山派の寺院。高尾山薬王院、日向薬師、峰の薬師ともに武相四大薬師に数えられる。

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また当寺の井戸水(白龍権現水)は一般に開放されており飲用水として多くの人がここの水を汲みに来る。天正4年(1586)僧・行春により創建された。本尊は空海作の伝承を有する薬師如来と如意輪観音像である。本尊は表を薬師如来、裏を如意輪観音とする二仏一体の像であるとされ、秘仏であるが12年に一度、寅年のみに開帳される。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の五女で後水尾天皇中宮の和子(東福門院)が当寺の薬師如来に眼病平癒を祈願したところたちまち回復したとされることから、特に眼病治癒の利益に関して有名になった。その他子育てなどにも利益があるとされている。

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現在も広大な境内に本堂、不動堂があるほか境内の一部が公園になっている。また、南北朝時代にこの地域に本拠地を構え、南朝方(新田義貞)についた窪寺氏の葬地にもなっている。
Wikipedia



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本堂再建供養塔
この塔は梅照院(新井薬師)の再建に尽した住職運樹の業績と信徒の信仰心にこたえるため、安永8年(1779)後継者の英俊が高野山延命院の引導地蔵尊を模して建立したものです。碑文によれば「梅照院は天正14年(1586)行春が建てたことに始まる。本尊の薬師仏は弘法大師の手刻といわれている。住職が薬師仏のお告げでつくった小児の妙薬(夢想丸)はどんな難病にも効能があった。延享元年(1744)運樹が住職に迎えられると御利益が広まりいっそう寺運が盛んとなった。明和元年(1764)寺院が焼失した。老僧運樹は直ちに仮仏殿を造りさらに本堂再建の大願をたて趣意書を示して広く喜捨を募った。しかし明和4年(1767)本堂の建立をまたず75歳で没した。あとを継いだ英俊は10年以上も苦労の末、安永8年(1779)の春ついに本堂の落成に至った」ことが記されています。(中野区教育委員会)

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梅照院境内

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山門                  地蔵堂

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境内地にある新井薬師公園、ここは憩えますね


・・・松が丘


中野区の北東部に位置する。東部は上高田・新宿区西落合に、北部は新青梅街道を境に江古田、西部は妙正寺川を境に沼袋に、南部は新井に接する。町域内を中野通りが縦貫し、地域内で妙正寺川と江古田川とが合流している。丘の名の通り哲学堂通りから中野通りへと高低差が激しい。明治初期まで片山村と呼ばれていたところで、住居表示の施行によって新町名を制定する際、哲学堂公園周辺の台地がかつて松林で有名であったことにちなみ、最終的に「松が丘」が採用された。(Wikipedia


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妙正寺川の風景② 西武線を越えて江古田橋を頂点にU字形に大きく蛇行して流れます/松が丘

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江古田橋               大きくカーブします

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江古田川が左岸から合流します/江古田公園

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江古田川
練馬区豊玉地域から中野区江古田地域にかけて流れる一級河川。練馬区ではかつて中新井村を流れていたことから中新井川とも呼ばれる。開渠区間2 km弱。水源は学田公園の溜池で付近の湧水を合わせて南に流れる。江古田の森公園北辺から中野区内部に入り江古田地域を流れた後、松が丘の江古田公園にて妙正寺川に合流する。(Wikipedia

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江古田古戦場跡/江古田公園(松が丘)
このあたり哲学堂公園から野方6丁目にいたる新青梅街道沿いの一帯は、文明9年(1477太田道灌豊島泰経らが激戦をしたところです。ここでの合戦は享徳の乱1454-1482)という長期にわたる内乱の中での戦でした。享徳の乱は古くからの豪族に支持された関東公方足利成氏と太田氏が仕える関東管領上杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により管領上杉憲忠が殺害されたことがもとで起きました。この乱により関東は二分され、幕府などの支援をうけた上杉方は武蔵・相模・西上野をおさえましたが、そのとき江戸城を根拠地とした道灌は武蔵国の領主たちを支配下にまとめ戦を有利にすすめるために重要な役割をはたしました。ここでの合戦は武蔵野の開発を行って来た豊島氏にかわって、太田氏武蔵野支配確立するうえで大きな意味をもっていました。(中野区教育委員会)

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碑文
文明9年(1477413日上杉定正の臣江戸城主太田道濯は関東管領上杉顕定及び定正を襲うて敗走せしめた。長尾景春の党豊島泰明を平塚城に攻めて帰ったが、泰明の兄豊島泰経等石神井練馬両城より泰明救援のため馳せ来るを迎えて、江古田原沼袋の地に激戦し泰経は翌14日敗死し、後遂に石神井等を陥れた。この事は史籍に明徴有り、道灌の偉業の一つに数うべきであらう。道灌江戸築城以来ここに五百年わが区は道灌戦蹟の地に因み碑を建てて永くその事績を伝えんとするものである。(昭和31101日東京都中野区)

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片山北野神社鳥居/松が丘


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片山北野神社
当社は往昔天神社と称し古来北野神社の鎮守社であった。文明9年(1477)太田道灌が石神井、練馬両城攻略のさいこの社に詣で戦勝を祈願したとも伝えられる。社の付近に葛ケ谷古戦場も存している。明治五年北野神社と改称した。また口碑によれば慶長12年(1607)京都北野神社造営のさい、里人菅公を崇拝のあまりここに奉祀したともいう。明治17年一時江古田村に合し、江古田村の一衆落になり江古田氷川神社に所属したが、昭和89月社殿改築とともに片山村の氏神とし神苑も整備した。(東京都神社名鑑)

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北野神社のおびしゃ
この神社は長い間天満宮ともよばれ新編武蔵風土記稿にもみえています。この神社では昔から「おびしゃ」(御歩射・備射)の神事が行われてきましたが、いまではそれも行われなくなって伝統を語る古老も少なくなってしまいました。「おびしゃ」の神事は関東地方東部で行われる春の農村行事で、弓で的を射てその年の農作物の豊凶を占うものですが、いつ頃からか神と人の直会(なおらい)の宴のような色合いが濃くなり大正頃には、光の強飯式(ごうはんしき)に似た行事に変ってしまったそうです。この神事は2月の初午の日と秋の例祭の2回行われ、当初は当番と両隣りの家が本膳を用意し、おとなたちは祝いのうたを歌いこどもたちは豊年祈願の文章を読むのが恒例になっていました。(中野区教育委員会

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妙正寺川の風景③ 中野通りを渡った左岸の丘一帯が哲学堂公園になります


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哲学堂公園


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中野区立哲学堂公園(東京都指定名勝)
哲学堂公園は哲学館大学(現東洋大学)創始者である井上円了氏が、文部省より大学公称の許可を得たのを記念し一堂(四聖堂)を建立(明治37年(1904))したのに始まります。その後、自らの退隠所及一般人に対する精神教育、社会教育の場としての「精神修養的公園」とするために私費を持って創設した公園です。井上氏の死後は財団による管理を経て昭和19年(1944)に東京都へ寄付されました。昭和21年に東京都により「哲学堂公園」として開園し、その後中野区へ移管され現在の「中野区立哲学堂公園」となりました。台地部分の広い範囲を「時空岡」と称する中心広場とし、四聖堂などの主要施設を設けています。南側低地部に「唯物園」と「唯心庭」と称する哲学空間を配し、道筋には「経験坂」や「二元(にげん)衛(く)」などの哲学的思考状況を示す場所を設定しています。舌状台地先端の立地と崖、川や泉の自然地形を利用し、哲学的空間・概念を巧に配した特異な公園です。四聖堂や六賢台、宇宙館などの建物は、井上氏の哲学的思想と奇抜な意匠により哲学堂公園の代表的な建造物となっています。(東京都教育委員会)

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哲理門
哲学堂の本堂である「四聖堂」の正面にあたる門で「妖怪門」とも呼ばれている。門の両側には仁王尊の代わりに左右それぞれ「幽霊」と「天狗」の木彫りを納めている。(案内板)

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六賢臺(ろっけんだい)
ここに東洋的六賢人として日本の聖徳太子・菅原道真、中国の荘子・朱子、印度の龍樹・迦毘羅を祀っている(案内板)


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四聖堂
本堂に東洋哲学の孔子と釈迦、西洋哲学のソクラテスとカントの「四聖」を世界的四哲人として祀るために建立されました。



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絶對城(図書館)
万巻の書物を読みつくすことは絶対の妙境に到達する道程であって、哲学界の万象はこの読書堂にありとしてこの名がある。(案内板)



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宇宙館
哲学とは宇宙の真理を研究する学問であってその講和または講習を開かんがために設けられた講義室である。

皇國殿
本館(宇宙館)内部に横斜して位置する特殊構造の一室であり国家社会の原理を講究する哲学堂として本殿が設けられたものである。(案内板)
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心字池
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哲学堂公園案内図

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新井周辺マップ
(青:妙正寺川 茶:新青梅街道・早稲田通り・中野通り)


・・・上高田

中野区の東部に位置する。地域の東部は妙正寺川を境に新宿区中井・中落合に接し、南東部は新宿区上落合とも接する。北部も概ね妙正寺川を境として新宿区西落合に、南部は早稲田通りを境に中野区東中野・中野に、西部は中野区松が丘・新井に接している。南部の早稲田通り沿いは寺院が多く寺町となっている。「上高田」の地名は江戸初期に成立した多摩郡上高田村に由来するものであるが、現在「上高田」と呼ばれる町域は1960年から1967年にかけて整備された町割による。(Wikipedia
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妙正寺川の風景④ この先川を境にして左岸は中井、右岸は上高田になります。

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萬昌院功運寺山門/上高田


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萬昌院功運寺
中野区上高田にある曹洞宗の寺院。山号は龍寶山(りゅうほうざん)。赤穂事件(忠臣蔵)で知られる吉良義央の墓がある。元々は萬昌院という寺と功運寺という別々の寺であったが1948に合併してできた寺である。

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萬昌院
萬昌院は山号を久寶山(くほうざん)といい天正2年(1574)の創建と伝えられる。開基は今川長得、開山は仏照円鑑禅師(喚英長応)長得は戦国大名今川義元三男であり長得の兄今川氏真もはじめは萬昌院に葬られた。また、今川家と先祖を同じくする一族であり、江戸時代初期には極めて近い姻戚関係にあった吉良家菩提寺にもなっている。もともとは江戸城半蔵門近くにあったがその後市谷田町、筑土八幡町(いずれも現在の新宿区)と幾度かの移転を繰り返した。1914年に現在地に移転してきたが、1917年に火災により本堂・書院などが焼失してしまった。(写真:今川家歴代の墓)

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功運寺
功運寺は山号・竜谷山といい慶長3年(1598)の創建である。開基は永井尚政、開山は黙室芳闇禅師。永井尚政は将軍徳川秀忠のもとで老中を務めた人物で功運寺は永井家菩提寺となっている。創建当初は江戸城桜田門外にあったが三田(芝三田功運町)に移り1922年に当地に移転してきた。その後、戦後の1948年に萬昌院と功運寺が合併し現在に至っている。本尊は釈迦如来坐像。(Wikipedia 写真:永井家の墓

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吉良家の墓
この万昌院はもと千代田区永田町にありましたが、のち新宿区の市谷・筑土八幡をへて大正2年現在地に移ってきました。幕府高家の吉良家はこの寺を菩提寺としていました。義定・義弥・義冬・義央の4代にわたってその墓石・供養塔が建てられています。高さの違いはありますがいずれも宝篋印塔です。相輪部の彫りが深く、特に請花や笠部の墨飾突起はどれも外方に向って突出するなど江戸時代の作風を示しています。義央の石碑面に「元禄15壬午1215日」と刻まれているのは、赤穂浪士の討ち入りの際に死去した史実を裏付ける金石文として興味深いものです。なお、昭和55年義央の墓前には「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられました。(中野区教育委員会)

今川氏累代墓(観泉寺)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24083934/

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宝泉寺仁王門/上高田
すぐ隣は
宝泉寺、曹洞宗のお寺です。板倉内膳正重昌の墓所があります。


・・・中井/新宿区

新宿区北西部に位置する。町域北東端で新目白通りと山手通りが交差している。町域の北は新宿区中落合4丁目に接している。東は山手通りを境に新宿区中落合1丁目に接する。町域西部から南部にかけては妙正寺川が町界となり西から南西は中野区上高田、南部は新宿区上落合に接する
Wikipedia
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妙正寺川の風景⑤ この辺りはちょっとした渓谷、西武線を潜ります

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中井御霊社鳥居/中井


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中井御霊社
中井御霊神社は創建が不明であるものの、古くから落合村中井の鎮守でした。この神社には「備射祭」(新宿区指定文化財)に使われる的を描く際に、「コンパス」として用いる『分木』(新宿区指定文化財)が保存されています。2本の『分木』の存在によって江戸時代以前にすでに「備射祭」が行われていたことがわかります。

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また『雨乞のむしろ旗』(新宿区指定文化財)も保存されています。これは江戸時代に農民が雨乞いの行事で用いたものです。「竜王神」と墨書され干害に備えて竜神に降雨を願いました。現在のむしろ旗は幕末頃のものと推定されます。素朴な農民の信仰がうかがえる貴重な民俗資料です。(新宿観光振興協会)




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林芙美子記念館/中井通り        中井駅前

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妙正寺川の風景⑥ 山手通り中井富士見橋を潜ります/中井駅前


・・・落合(町)


東京府豊多摩郡
にかつて存在した町の一つである。ほとんどが武蔵野台地を構成する豊島台上にあるが、妙正寺川・神田川の周辺には谷底平野が形成されている。この2つの川は当地で合流しており地名の「落合」の由来にもなっている。(Wikipedia

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妙正寺川の風景⑦ かつてはこの先で神田川と合流していました/下落合駅入口

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現在は高田馬場分水路に流入      神田川を高田馬場駅へ


神田川(下落合)の関連記事こちらへ(http://teione.exblog.jp/24113633/

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落合周辺マップ
(青:妙正寺川・神田川 茶:哲学堂通り・山手通り・目白通り・新目白通り)

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妙正寺川流域マップ
(橙:妙正寺川 緑:善福寺川 赤:神田川)

by Twalking | 2017-05-08 16:28 | リバーサイドウオーク(新規)

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