無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(4)江戸川橋~御茶ノ水01-飯田橋   

日時 2017.5.11(金)
天気 晴れ


夏日になりそうですが、出かけてきました。
飯田橋で降りましたので牛込城址のことを知り、
牛込台地を散策しながら江戸川橋へ向かいました。

江戸川橋から神田川は外濠へ、神田上水は水戸屋敷へ
と分流しますので、行ったり来たりしながの道中です。
整理の都合上、それぞれ別々のまとめとしました。


・・・牛込(新宿区)


新宿区
の地域名の一つで旧東京市牛込区の範囲を指す。主な地名としては神楽坂市谷および早稲田が牛込地域に該当する。江戸時代は大名や旗本の住む武家屋敷が集中した地域で伝統ある山の手の住宅街である。一方で町屋も少なからず形成され、古くからこの地に住む住民が多くコミュニティ活動が活発なことも当地の特色である。地名のとおり牛込の歴史は少なからずに縁がある。701年(大宝元年)大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧(ぎゅうまき)」という牧場が設けられ「乳牛院」という飼育舎がこの地に建てられたという。古代の馬牧が今日東京都内に「駒込」「馬込」の地名で残されているところから「牛込」がこの牛牧に比定された。Wikipedia

d0183387_16144230.jpg
街道の風景① 牛込見附から早稲田通りを江戸川橋へ向かいます/飯田橋駅

牛込見附

飯田橋駅西口から左へ進み跨線橋(牛込橋)を渡りきったあたり、日本基督教団富士見町教会前の交差点近辺に江戸城牛込門の枡形があった。道を挟んで向かい合っていた2基の見附櫓の基部が残っている。名称は(城内から)牛込方面へぬける門の意。門から北西へ延びる道がいわゆる神楽坂である。Wikipedia

d0183387_16241214.jpg
街道の風景② やはりここは裏路地が風情があって面白いですね/神楽坂

d0183387_16281979.png
神楽坂
神楽坂の由来については「坂の途中にあった穴八幡の御旅所で神楽を奏したから」「津久戸明神が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから」「若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから」「この坂に赤城明神の神楽堂があったから」などの説があります(案内板)

d0183387_16403422.jpg

善国寺
(ぜんこくじ)
新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺院である。旧本山は大本山池上本門寺で鎮護山善国寺という。開基は徳川家康、開山は日惺上人と伝わる。安土桃山時代の文禄4年(1595)池上本門寺第12代貫主である日惺上人により馬喰町に創建される。たびたび火災に見舞われ麹町を経て寛政5年(1793)には現在地へ移転した。本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め芝正伝寺・浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれた。現在は新宿山ノ手七福神の一つに数えられている。(Wikipedia

d0183387_22543572.jpg
善國寺の毘沙門天像
神楽坂の毘沙門天さまとして江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。木彫で像高30cm、右手に鉾、左手に宝塔を持ち磐座に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃を推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の守本尊だったとも土中より出現したともいわれる。善國寺は、文禄4年(1595)德川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。毘沙門天は別名を多聞天と称し持国寺・増長天・広目天と共に四天王の一つである。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい北方の守護神とされる。善國寺の毘沙門天は江戸の三毘沙門と呼ばれ多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・5月・9月の初寅の日に毘沙門を開帳し、賑わいを見せている。(新宿区教育委員会)

d0183387_22544148.jpg
善國寺の石虎
安山岩製の虎の石像で像高は阿形(右)が82cm、吽形(左)は85cmで、台石・基礎部も含めた総高は両像ともに2mをこえる。台石正面には浮彫があり虎の姿を動的に表現している。嘉永元年(1848)に奉納されたもので、阿形の台石右面には「岩戸町1丁目」「藁店」「神楽坂」「肴町」などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者が善國寺周辺の住民であったことがわかる。石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳沼長右衛門である。善國寺は毘沙門天信仰から「虎」を重視し、石虎の造立も寄進者らの毘沙門天信仰によると考えられる。また、台石に残された寄進者名や地名は江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。石虎は都内でも珍しく区内では唯一の作例である。戦災による傷みが見られるが希少な石像であるとともに地域にとっても貴重な文化財である。なお、阿形の台石正面にある「不」に似た刻印は明治初年のイギリス式測量の几号水準点で残存している数は全国的にも少ない。新宿区指定民俗文化財(新宿区教育委員会)

d0183387_22583426.jpg
江戸名所図会 牛込神楽坂 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・袋町


d0183387_16442315.jpg
牛込台地上にあり見晴らしがよかったことから戦国時代には牛込氏がこの地一帯に牛込城を構えたが、後北条氏滅亡後廃城となった。江戸時代には地蔵坂に牛込肴町に属する町屋があり、藁を売る店が多かったことから「藁店」(わらだな)と呼ばれた。また坂上は牛込北御徒町(現・北町)に入るところで御徒組の門に突き当たり袋小路となっていたため袋町と呼ばれた。1645年(正保2年)当地に光照寺が移転し門前町が形成された。Wikipedia

d0183387_16492977.jpg
光照寺山門/袋町


d0183387_16495675.jpg
光照寺
浄土宗、増上寺の末寺である。この地は室町初期に上野国(群馬県)大胡から移って来た大胡(のち牛込)氏の築いた牛込城の跡といわれ、光照寺は正保2年(1645)に神田から移転した。この付近は見晴しの良い高台で昔は江戸湾に出入りする船が望見できたと伝えられている。光照寺は出羽(山形県)松山藩主酒井家の江戸における菩提寺であったため、初代忠恒をはじめ歴代藩主一族の墓が並んでおり大名家の威勢をしのばせてくれる。

d0183387_17010466.jpg
境内には東京のほうずき業者が昭和16年に建てた珍しい「海ほうづき供養塔」をはじめ、金石学研究家奥田抱生の墓、徳川家の奥右筆だった大久保北隠の石庭風の墓、狂歌師便々館湖鯉鮒(文政元年45日没、法号は便了院殿松誉夕山居士)の墓(区登録史跡)などがある。また「諸国旅人供養碑」(区登録文化財)は神田松永町の旅籠屋紀伊国屋の店主利八が文政8年(1825)に旅行先で死亡した人々の菩提をとむらうためにたてたもので、信濃(長野県)、奥州(福島・宮城県など)、越後(新潟県)など関東、中部、東北の諸国からの旅人の名が記されている。(新宿区の文化財)

d0183387_17030880.jpg
出羽国松山藩主酒井家墓地
この墓域は出羽国松山(松嶺)藩主酒井家一族の墓所である。松山藩は徳川の譜代大名であり、庄内藩初代藩主酒井忠勝の3男忠恒が分家して、正保4年(16472万石で創設された。明治の廃藩置県に至るまで8代を数える。このうち3代藩主忠休が寛延2年(1749)より26年間幕府の若年寄りの要職を務めた功により、安永8年(1779)上野国に5千石が加増され築城も許された。光照寺には初代忠恒以下代々の藩主及び妻子の墓があるが、一族のうち江戸で死去したものは光照寺に、国元で死去したものは酒田市初山心光寺に葬られた。現在同寺には国元の有志により3代の廟所が設けられている。8代以降数代はカトリックに改宗したため墓所は台東区谷中に移された。江戸期における大名墓は一般に国元ではよく保存されているが、府内のものは次々に消失している。新宿区内では当寺のものを含む数カ所のみである。(説明板)

d0183387_17045980.jpg
牛込城跡
光照寺一帯は戦国時代この地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。牛込氏は赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文年間(153255年)に当主大胡重行が南関東に移り北条氏の家臣となった。天文24(1555)重行の子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂、桜田、日比谷付近も含めて領有したが、天正18年(1590年)北条氏滅亡後は徳川家康に従い牛込城は取り壊される。現在の光照寺は正保2(1645)に神田から移転してきたものである。なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」「便々館湖鯉鮒の墓」などがある。(東京都新宿区教育委員会)

牛込氏(墓所・宗参寺)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24131657/


・・・筑土八幡町


町域南端部を大久保通りが通っている。地名の由来となっている筑土八幡神社があり筑土八幡町の中心的な存在となっている。(Wikipedia

d0183387_17360965.jpg
筑土八幡神社参道/筑土八幡町

d0183387_17364511.jpg
筑土八幡神社
昔、嵯峨天皇の御代(今から約1200年前)に武蔵国豊島郡牛込の里に大変熱心に八幡神社を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現われて「われ、汝が信心に感じ跡をたれん」と言われたので、翁は不思議に思って目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連縄をゆいまわしてその松を祀った。

d0183387_17381631.jpg
その後、伝教大師がこの地を訪れた時この由を聞いて神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので筑土八幡神社と名づけた。さらにその後、文明年間(今から約500年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾してこの地の産土神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。現在、境内地は約22002あり昭和20年の戦災で焼失した社殿も、昭和38年氏子の人々が浄財を集めて熊谷組によって再建され、筑土八幡町、津久戸町、東五軒町、新小川町、下宮比町、揚場町、神楽河岸、神楽坂4丁目、神楽坂5丁目、白銀町、袋町、岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。(説明板)

d0183387_17410141.jpg
石造鳥居
石造の明神型鳥居で享保11(1726)に建立された区内で現在最古の鳥居である。高さ375cm、幅470cm、柱35cm。柱に奉納者名と奉納年が刻まれておりそれにより常陸下館藩主黒田豊前守直邦により奉納されたことがわかる。(新宿区教育委員会)

d0183387_17411312.jpg
庚申塔
寛文4(1664)に奉納された舟型(光背型)の庚申塔である。高さ186cm。最上部に日月、中央部には一対の雌雄の猿と桃の木を配する。右側の牡猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側の雌猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく大変貴重である。(新宿区教育委員会)

d0183387_18091050.jpg
江戸名所図会 筑土八幡宮・同明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)



・・・赤城元町
(あかぎもとまち)

町域の中央付近に地名の由来にもなっている赤城神社があり、町域の中心的な存在となっている。(Wikipedia

d0183387_18033316.jpg
赤城神社鳥居/赤城元町


d0183387_18034279.jpg
赤城神社
明治維新までは赤城大明神や赤城明神社と呼ばれた。岩筒雄命(いわつつおのみこと)と相殿として赤城姫命(あかぎひめのみこと)を祀る。岩筒雄命は火の神である迦具土神(かぐつち)より生まれ経津主神(ふつぬしのかみ)の親神にあたるという。赤城姫命は一説によると神社を創建した大胡氏の息女と伝わり別当寺である東覚寺の本地仏であった。鎌倉時代の正安2年(1300)上野国赤城山の麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治により、牛込早稲田の田島村に創建されたと伝わる。文安元年(1444)には大般若経が奉納された。

d0183387_18052055.jpg
寛正元年(1460)江戸城を築城した太田道灌により牛込台に移された。その後、弘治元年(1555大胡宮内少輔により現在地に移される。江戸時代には徳川幕府によって江戸大社の一つとされ牛込の鎮守として信仰を集めた。『江戸名所図会』では「赤城明神社」として紹介され大胡重泰(おおごしげやす)により創建されたこと、牛込の鎮守であり別当寺は東覚寺(天台宗)であることなどが記されている。
Wikipedia
d0183387_18130055.jpg
江戸名所図会 赤城明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

d0183387_18265545.jpg
街道の風景③ 牛込台地を江戸川橋へ下ります/東西線神楽坂駅付近

d0183387_18270154.jpg
渡邊坂/江戸川橋通り
江戸時代坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は500石取りの御書院番で寛文7年(1667)に市谷鷹匠町の屋敷と引替えにこの屋敷を拝領し、渡邊家は幕末までこの地にあった。(標柱)


d0183387_18270711.jpg
子育て地蔵尊/地蔵通り商店街(文京区関口)
三方を台地に囲まれたこの地が一面の田畑であったころ、近くの江戸川(現在の神田川)がしばしば氾濫した。この地蔵尊は明治の初めにいずこからか流れてきてここに留まったものと言い伝えられている。やさしいお顔の尊像に接した里人がこの地におまつりして以来、子育て・商売繁盛、またこの地域が戦災のほか大火に見舞われないことから「火伏せ地蔵」として敬われている。地元では「延命講」をつくり地蔵尊をお守している。(文京区教育委員会)


・・・関口(文京区)

西古川町、東古川町、小日向町、松ヶ枝町、関口町、関口水道町、関口駒井町、関口台町などが合併されて誕生。正保年間(16441648)には関口村と称していた。地名の由来は奥州街道の関所、神田上水を神田川に分流するための堰があったからなど諸説あり。(Wikipedia

d0183387_23390247.jpg
神田川の風景① 下ってきた右岸の牛込台地と左岸の小日向台地の間を南へ流れます/江戸川橋

d0183387_23110321.jpg
d0183387_23110743.jpg
江戸川橋               江戸川橋公園/目白通り

d0183387_00264823.jpg
石切橋の由来
この橋は江戸時代の初期・寛文年間(166173年)に架けられたといわれ、かつてこの橋の周辺に石工が住んでいたことからその名がついたともいわれますが定かではありません。明治時代中頃の記録によれば、この橋は長さ8間半3(およそ長さ15m・幅5m強)の木橋で、当時この付近では最も幅が広く大きい橋でした。中流域にあたるこの付近では昭和40年位まで神田川を江戸川という名で呼んでおりこの橋も元は江戸川大橋と呼ばれていたそうです。(案内板)

d0183387_01414644.jpg
西江戸川橋
この橋は明治後期の資料によると西江戸川町(現在の文京区水道2丁目)牛込五軒町(現在の新宿区西五軒町)との間に架けられた木橋であったそうです。橋が架けられた時期などは定かではありませんが、橋の名はこうした地名に因んで付けられたものと推察されます。また、明治初期の資料にはこの橋の記載はありませんが明治20(1887)頃の地図ではこの橋と見られる橋が現在よりやや上流に記されています(案内板)

d0183387_01254599.jpg
d0183387_12065339.png
中之橋の由来
この橋が架けられた時期は明確ではありませんが、江戸時代初期に(1670年頃)刊行された「寛文江戸図」の中には無名ながらこの橋を見つけることができます。当時はまだ現在のようにたくさんの橋がなかったので、この橋の下流側の隆慶橋と上流側の石切橋の間にあることになり「中之橋」と名付けられてといいます。明治時代中頃、この橋を挟む両岸一帯に桜が植えられ明治末頃まで東京市内屈指の桜の名所として知られていました。(「東京江戸川の桜」/案内板)
d0183387_01303404.jpg
神田川の風景② 白鳥橋から大きく右にカーブしていきます/大曲交差点(目白通り)
d0183387_01435150.png
明治20年頃の西江戸川橋付近(東京実測図/案内板)
(青:神田川 紺:神田上水)


・・・飯田橋

d0183387_13224958.png
江戸時代、千代田区側外堀の城壁である土居にかこまれてこの目白通りも飯田橋もありませんでした。明治初年(1868)に簡単な木橋がかけられましたが、明治14年(1881)に土居が掘切られて車の通行ができるになりました。明治23年(1890)には鉄製の橋にかわり、昭和4年(1929)に現在の橋がかかりました。飯田橋と言っても町の名前ではありません。JR飯田橋駅の新宿側の橋の名前です。その向こう側に船河原橋があります。こちらの橋の方が飯田橋より古いのかもしれません。現在の飯田橋という町は、以前は飯田町と言われていました。戦後の町名変更で飯田橋となって飯田町という町名は残っていません。(飯田橋散歩路)
(「飯田橋界隈」安政3年・1856/案内板 青:神田川 緑:外濠 赤丸:牛込御門・小石川御門)

d0183387_13363659.jpg
街道の風景④ 外濠の内側はオフィス街、記念碑が並びます/東西線飯田橋駅前

飯田橋サンポーロ
昔々、縄文時代の頃このあたりは波の打ち寄せる入江でした。その後、海は後退して葦の生い茂る広い湿地となりました。徳川家康が江戸に来て大規模な築の城工事が行われこのあたりは湿地から旗本屋敷にかわりました。九段坂、中坂を中心とした元飯田町は町人の町として賑わいましたが、明治になって旗本屋敷の後は住む人もなくなり、一時は大変さびれました。しかし、次第に賑わいを取り戻し現在のようなビル街に変わりました。この飯田橋散歩路に標柱を建てこの町の移りかわりを示します。(飯田橋散歩路)


d0183387_13414328.jpg
日本大学開校の地
明治22年(1889)ここ皇典講究所内に維新の志士・吉田松陰門下、時の司法大臣である山田顕義により日本法律学校が創立されました。これは日本大学の前身にあたります。明治28年(1895)に三崎町に移りました。(飯田橋散歩路)

d0183387_13433750.jpg
國學院大學開校の地
明治15年(1882)この地旧飯田町5丁目に国学を研究する皇典講究所が設けられました。明治23年(1890)、皇典講究所を母体として所長山田顕義によって國學院が開校しました。現在の國學院大學です。大正12年(1923)、渋谷に移りました。(飯田橋散歩路)

d0183387_13434624.jpg
甲武鉄道飯田町駅明治22年(1889)新宿-八王子間に甲武鉄道が開業し、同28年(1895)には市街線として延長され飯田町駅が開業し現在の中央線の始発駅となりました。同37年(1904)我が国で初めて飯田町-中野間で電車が運転され、円板型自動信号機が設置されました。その後甲武鉄道は御茶ノ水方面に延長されました。同39年(1906)甲武鉄道は国有化され昭和8年(1933)に飯田町駅は貨物専用駅となりました。この奥のホテルエドモントが旧駅構内で改札口は小石川側にありました。(飯田橋散歩路)

d0183387_13484441.jpg
神田川の風景③ 歩道橋から江戸川橋方面の景観です。外濠に合流し東へ流れます/飯田橋交差点

d0183387_13524763.jpg
街道の風景⑤ 右が飯田橋、左の船河原橋から外濠の流路となります/飯田橋交差点

d0183387_14051316.jpg
d0183387_14051848.jpg
飯田橋親柱              橋下は外濠からの流れです

飯田橋

神田川に架かり小石川橋の上流約550mの所にあります。飯田橋34丁目の間と新宿区下宮比町を結ぶ目白通りの橋です。明治初年に橋が架けられ近くに飯田町があることから飯田橋と名付けられました。明治23年(189011月に修築、同41年(19081023日に鉄橋に改架して渡り初めを行いました。現在の橋は昭和4年(1929410日に架設、長さ18m、幅27.2mのコンクリ-ト橋です(千代田区観光協会)

d0183387_14120776.jpg
船河原橋
飯田橋の直ぐ東側に船河原橋がV字状にあります。外堀通りの内回り左折車の一方通行路として交通渋滞の緩和に役立っています。もともとの船河原橋は飯田橋と「カギ形」に新宿区と文京区を結ぶ外堀通りの橋です。この橋は江戸図にも出てくる古くからある橋です。現在の橋は昭和45年(1970)に架けられたコンクリ-ト橋です。この橋から枝分かれした形で飯田橋とV字形に並んでいますので飯田橋の一部と見られがちです。なお、飯田橋西側の外濠埋立て地にあるセントラルプラザの庭園に流れるせせらぎに可愛い橋があります。「ひいらぎ橋」といい、昭和59年(19843月のセントラルプラザの完成と同時にオ-プンし人々の憩いの場に花をそえています。この庭園にはこのほかに「かえで橋」「けやき橋」「さくら橋」がありますがこれらの橋は新宿区に入ります。(千代田区観光協会)

d0183387_15042247.jpg
セントラルプラザ前の親水公園/飯田橋駅

d0183387_15053314.jpg

牛込揚場跡碑/親水公園
江戸時代には海からここまで船が上ってきた。全国各地から運ばれてきた米、味噌、醤油、酒、材木などがこの岸で荷揚げされたのでこの辺は揚場と呼ばれた。昭和47年(1972)に都の市街地再開発事業としてビル建設が決定され飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存してほしいという都民の強い要望からビルの西側に飯田壕の一部を復元すると共に以前水面があったことにちなんで約230mのせせらぎを造った。小濠の水はこのせせらぎの地下水路を通って昔のとおり神田川に注いでいる。(東京都)

d0183387_15394651.png
安藤広重 絵本江戸土産「牛込揚場」
『牛込御門外北の方 船河原橋より南の方 町武の第宅軒を並べ 東南のかたより御堀にて材木および米味噌はさら也 酒醤油始め諸色を載せてここに集へる 船丘をなせり故に揚場の名は負けらく これより四谷赤坂辺まで運送す因ってこの所の繁華山ノ手第一とせり』
d0183387_23024905.png
飯田橋周辺マップ
(青:神田川 紺:神田上水 緑:外濠 茶:目白通り・早稲田通り・大久保通り・外濠通り)


外濠(市ヶ谷・飯田橋)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23284543/

by Twalking | 2017-05-14 23:50 | リバーサイドウオーク(新規)

<< ○写真上達への道 ○写真上達への道 >>