無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(4)江戸川橋~御茶ノ水02-水道橋   

日時 2017.5.11(木)
天気 晴れ

飯田橋から水道橋、お茶の水坂を登り駿河台へ。
家康入府以前は平川が流れていた湿地帯でしたが、
ここに濠を掘って外濠とし、現在の神田川とした所です。

その後、秀忠の時代には神田山を掘割り流路を隅田川へ変え、
また神田上水はこの壕を懸樋で渡して市中へ給水しました。
江戸の街づくりの上で重要なポイントとなる事業です。
面影は少ないですが、それでも興味深い場所です。



・・・飯田橋

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神田川の風景① 右手は讃岐高松藩の上屋敷、旧平川が日比谷入りに流れていました。大事なポイントのようですね/飯田橋

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飯田町遺跡周辺の歴史
江戸時代以降、この地域には日本橋川や神田川という河川があり、近くには水道橋の由来となった神田上水が流れていました。もともとこの一帯は神田川下流の平川小石川合流する地点で、駿河台と麹町台地に挟まれた低地にあたり、絶えず水害の危険にさらされていた場所でした。元和6年(1620)幕府は江戸中心部を洪水から守るために、神田川の流路を船河原橋あたりで東に曲げて駿河台を掘りぬく現在の運河神田川」を切り開きました。この工事によってそれまで日比谷入江に注いでいた平川堀留(現在の堀留橋)で神田川から切り離し、江戸城外堀としました。「正保年中江戸絵図」には堀留の北側にも堀が延びており工事後しばらくはこの付近まで平川の流路が残っていたことを示しています。平成12年に行われた飯田町遺跡の発掘調査では讃岐高松藩上屋敷とともに、江戸時代初期の盛土や石垣、板の土留めの護岸をもつ幅10mの堀が発見されました。この堀は先の「正保年中江戸絵図」に見える平川の流路の名残と考えられ、明暦31657)の大火直後に埋め立てられたことがわかりました。その後、神田川や外堀には水運に利用された多くの河岸が設けられました。明治維新後、この地は神田川の対岸を含めて陸軍用地となり、明治28年(1895)には甲武鉄道飯田町駅が開業、明治36年には日本橋川再度開削して神田川に接続させ、陸軍用地を中心に水運と鉄道をつなぐ貨物のターミナルになりました。このようにこの一帯は古くから河川とともに歩んできた地域でした。飯田町遺跡の発掘によって江戸時代初期の堀跡や大規模な盛土による造成工事の様子が明らかになりました。そこには当時の人々の水害を防ぐ努力を見ることができます。(千代田区教育委員会)

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街道の風景① 外濠通りの歩道にモニュメントが造られてます/外濠通り

都道405号外濠環状線
港区新橋1丁目を起点、同新橋2丁目を終点とする皇居(旧江戸城)外濠に沿った環状の特例都道である。本線の通称は「外堀通り」(Wikipedia

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旧町名案内-市兵衛河岸 
小石川橋北側の神田川(外堀)の河岸一帯で水道橋から船河原橋までの河岸地である。『江戸砂子』(享保17年・1732)に『牛込御門の外なり。岩瀬市兵衛の屋敷あるゆえにいう』とある。この市兵衛から町名をとった。昭和15年の改正で市兵衛河岸を分けて一部は小石川町1丁目に、一部は春日町1丁目に編入されて残地がわずかに残った。神田川の昌平橋との間を往復する客船の船着場であった。また荷物を岸に揚げる物揚場があった。東京砲兵工廠のあったころは工廠用の貨物が揚げ下ろしされた。(文京区)

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首都高点検用の船が係留してます    小石川橋です


・・・後楽/文京区

文京区南部に位置する。中央部に小石川後楽園、東部に東京ドームシティが所在する。西と南の境界を神田川が流れ、神田川に沿って南北に目白通りと首都高5号池袋線、東西に外堀通りが、東の境界を白山通りが走っている。地名は水戸徳川家の庭園小石川後楽園に由来する。(Wikipedia

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神田川の風景② 飯田橋方面の景観です/小石川橋

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小石川橋(小石川見附)
この橋を小石川橋といいます。寛永13年(1626)に江戸城外郭門が設けられた際、備前岡山藩池田光政によってここに見附が構築されました。曲輪内から小石川方面への出入口であるところから「小石川口」と呼ばれ小石川見附と名付けられました。橋は見附の構築に合わせて木橋が設けられています。見附の渡櫓は寛政4年(1792)に焼失しその後、再建されないまま明治維新を迎え、名残りの桝形石垣も明治6に他の外郭門取り壊されました。一方、橋はいくたびか架け替えられましたが、後楽園一帯が造兵工廠であった頃はそこに勤める人達で朝夕は賑わいを見せていました。現在の小石川橋は昭和212月に架橋されました。長さ19.7m、幅13.03mです。(千代田区教育委員会)
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神田川の風景③ 左先が後楽橋、右手が三崎橋、現在の日本橋川の起点です/小石川橋

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三崎橋
神田川と日本橋川の分流点にあって日本橋川に架かる橋です。新三崎橋と同様に飯田橋3丁目と三崎町3丁目の間を結んでいます。明治の日本橋川再掘削にともない架橋されましたが、現在の橋は昭和29年(195433日に改架されました。長さ27m、幅7.6mの鋼橋です。分流点の神田川には小石川橋が架かっています(千代田区観光協会)

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神田川の風景④ 左岸が文京区(後楽)、左岸が千代田区(三崎町)になります。/後楽橋

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後楽橋
千代田区と文京区の間を流れる神田川に架かる橋である。関東大震災の復興橋の一つとして1927年(昭和2年)に架設された。緑色に塗装された鋼製のアーチ橋で石造りの親柱を持つ(橋長21.0m、幅員22.56m)橋の名称は北側にある小石川後楽園から採られている。1964年には東隣に歩行者専用の後楽園ブリッジが架けられた。上流側の小石川橋との間で日本橋川が分岐する。この分流点と後楽橋の間には千代田清掃事務所三崎町中継所があり、千代田区と文京区で出される不燃ごみが船に積み込まれて神田川を通って臨海部の処理センターまで水上輸送される(Wikipedia

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市兵衛河岸 
河岸とは物資輸送のために水ぎわに作られた物揚場などの施設のことである。この河岸の名は江戸時代の中頃まで現在の後楽2-1-18あたりに岩瀬市兵衛の屋敷があったことによる。市兵衛河岸は飯田橋駅近くの船河原橋から水道橋までの神田川沿いの一帯で、江戸外切絵図にもこの名が見える。この河岸は明治8年から昭和8年まで現在の後楽園遊園地一帯にあった砲兵工廠荷揚場としてにぎわった。明治時代、この河岸から早船といわれた客船が神田昌平橋まで往復していたこともあった。町名としての市兵衛河岸は昭和39年の住居表示の施行により後楽1丁目となりこの名は消滅した(文京区教育委員会)

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延宝年中之形(1673~1681)/案内板
(青:神田川・江戸川 紺:神田上水 赤角:岩瀬市兵衛の屋敷)


・・・三崎町(千代田区)

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街道の風景② JRのガードを潜ると三崎町、学生さんが多いですね/水道橋駅

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三崎町1丁目
三崎町という町名が誕生したのは明治5年(1872)のことです。江戸に幕府が開かれる以前、この地にあった「三崎村」が町名の由来といわれています。江戸が開発されるまで、現在の大手町から日比谷や新橋周辺には日比谷入江と呼ばれる遠浅の海が広がっていました。三崎村は日比谷入江に突き出した「ミサキ(岬)」だったためこの名が付いたと伝わっています。JR水道橋駅のすぐ南側には三崎稲荷神社が鎮座しています。創建は詳らかではありませんが、鎌倉時代初期の建久年間(1190年~1199年)よりも前とも伝わっておりとても歴史ある神社です。江戸時代には3代将軍家光が自ら三崎稲荷を崇敬するばかりでなく、参勤交代の大名たちにも信仰させたことから参勤登城する大名は必ずまず三崎稲荷に参拝し心身を清めたそうです。ここから三崎稲荷は「清めの稲荷」とも称されています。閑静な武家地であった三崎町は明治も中ごろを過ぎると劇場や飲食店が増え、賑やかな歓楽街へと生まれ変わります。隣町の三崎町2丁目には三崎三座と呼ばれる三つの劇場ができるなど周辺も活気にあふれる街でした。関東大震災後の区画整理で三崎町1丁目は昭和9年(1934)に三崎町2丁目と統合されますが町名は三崎町1丁目のままでした。昭和22年(1947)神田区と麹町区が合併して千代田区になると、頭に神田を付けて神田三崎町1丁目に変わります。そして昭和42年(1967)の住居表示の実施にともない、神田三崎町1丁目は分割され旧三崎町1丁目だった区域がふたたび三崎町1丁目と定められ現在に至っています。(千代田区HP)

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三崎稲荷神社鳥居/三崎町

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三崎稲荷神社
創建は建久(12世紀末)以前とされています。氏神社の社号は三崎稲荷神社ですが、金刀比羅神社を合祀しているため三崎神社と通称されています。創建当初は和田倉付近にありその後三崎村に移転、万延元年(1860)講武所の設置に伴って水道橋に移転し、甲武鉄道(現JR中央線)が万世橋まで延長されたのに伴い明治38年(1905現在の地に移りました。(千代田区観光協会)

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百度石
古来より度重ねて祈る事により願い事の成就を祈るという信仰がある。「百度石」は俗に「お百度を踏む」即ち百回の参詣の往復の起点として参道の入り口に立てられてものです。本来は百日間に渡り参詣するのので百日参りと言われてましたが、今日では一日で百度参詣される者もあるようです。お百度を踏むときには回数を間違えないように、予めこより等を百用意して祈願する度に置いていくのが一般的な参詣の方法です。(案内板)

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江戸名所図会 三崎稲荷社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景③ すり鉢の底ですが広いですね、神田川上水が合わせてきます/水道橋交差点(白山通り)

白山通り

都道301号白山祝田田町線の千代田区の平川門交差点から文京区の千石駅前交差点までと、国道17号の千石駅前交差点から豊島区の西巣鴨交差点までの東京都の公式愛称である(Wikipedia

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水道橋
千代田区と文京区の間を流れる神田川に架かる橋である。右岸(南側)が千代田区三崎町12丁目、左岸は上流側が文京区後楽1丁目、下流側が同本郷1丁目となる。文京区には水道という町名があるが本橋より神田川沿いに2kmほど上流に離れている。江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まりで当初は現在よりやや下流に位置していた。付近にあった吉祥寺から「吉祥寺橋」とも呼ばれた時期もあるが、この寺院は1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失し本駒込に移転している。1670年(寛文12年)の地図では「水道橋」と表記されており、この橋名は本橋の下流に神田上水懸樋があったことに由来する。1928年(昭和3年)に長さ17.8m、幅30.7mの鋼橋が架けられた。現在の橋は1988年(昭和63年)3月に架け替えられたものであり先代よりやや大ぶりの橋である。(Wikipedia

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神田川の風景⑤ 江戸初期に神田山を開削したんですね、凄い工事です/仙台壕

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神田上水
神田上水は井の頭池の湧水を水源とする江戸時代初期につくられた日本最古の都市水道です。文京区関口に堰を設けて上水を取り入れ、小日向台下の裾をとおり小石川後楽園をぬけ、水道橋の東側で神田川を掛樋で渡し、神田・日本橋方面に給水されていました。文京区本郷2丁目7番にある本郷給水所公苑内に神田上水石垣樋が移設保存されています。(文京区土木部公園緑地課)

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神田川分水路事業
「お茶の水分水路」碑

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神田川分水路案内図
(赤:神田川分水路 青:神田川・隅田川 紺:神田上水 緑:中山道・日光街道)

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神田川の風景⑥ 神田川上水を掛樋で渡したのはこの付近でしょうか


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神田上水懸樋(掛樋)跡
江戸時代、神田川に木製の碑を架け神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。明治34年(1901)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。この樋は懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。(文京区)

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神田上水御茶水
『万治の比 仙臺侯欽命を請け 御茶能水(おちゃのみず)を切王(わ)り、小石川より浅草川(隅田川)へ船路の自由を奈須(なす) 神田川是なり 岸奈免(なめ)らか尓(に)して巌のことく 蛾眉山の月影川水(かすい)に流れて風景絶勝なり 川上に橋あり 水道ばしといふ いの頭上水の樋をかけて流すゆへ この橋の名に呼ふ』

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江戸名所図会 御茶の水 水道橋 神田上水懸樋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景④ 駿河台へ上るお茶の水坂です/外濠通り

お茶の水坂
この神田川の外堀工事は元和年間(1615-1626)に行われた。それ以前にここにあった高林寺(現向丘2丁目)の境内に湧き水があり『お茶の水』として将軍に献上したことから「お茶の水」の地名がおこった。『御府内備考』によれば「御茶ノ水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶ノ水に召し上げられしと・・・」とある。この坂は神田川(仙台堀)に沿ってお茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34(1901)取りはずされた。『お茶の水橋 低きに見ゆる水のいろ 寒む夜はふけてわれは行くなり』島木赤彦(1876-1926)(文京区教育委員会)


・・・駿河台

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千代田区の台地。秋葉原の南西、千代田区神田駿河台1丁目と2丁目に位置する。元は北の本郷台地南端に当たる部分だが、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達正宗1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)を開削したことにより湯島台と駿河台とに分離され、孤立した高台となった。神田川を挟んで北側に位置する湯島台とは聖橋お茶の水橋により台地上端の標高で結ばれている。削って下町を埋めたために今は台地ではないところもある。地名は江戸時代初期に、駿府(駿河府中、現・静岡市葵区付近)から江戸(東京都区部)に移住した徳川家康家臣居を構えたことに由来する。(Wikipedia)

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神田川の風景⑦ 駿河台から振り返る仙台壕の景観です/お茶の水橋

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お茶の水橋              聖橋方向の景観

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お茶の水橋
神田川に架かり、聖橋の上流約200mの所にあります。神田駿河台2丁目と文京区湯島1丁目を結んでいます。橋下は都心では珍しい渓谷の面影を残しています。お茶の水の地名は江戸時代に将軍家の茶の湯に用いる清水がこの渓谷近くから湧き出ていたことによります。橋の名もその地名にちなんでつけられました。明治24年(1891)に初の日本人設計の鉄橋として完成しました。明治34年(1901)に修復しましたが関東大震災で損害を受けました。現在の橋は昭和6年(1931)に架けられました。長さ80.0m、幅23.8mの鋼橋です。(千代田区観光協会)

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お茶の水碑/お茶の水橋南詰
聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり。神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る。享保14年江戸川拡張の後川幅を広げられし時 川の中になりて今その形もなし (「再校江戸砂子」より)慶長の昔この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった ある時 寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところ お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた それから毎日この水を差し上げる様になりこの寺をお茶の水高林寺と呼ばれ この辺りをお茶の水と云うようになった 其の後 茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地であった 時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた(お茶の水保勝会 坂内熊治 高林寺 田中良彰 昭和3299日)

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水道橋周辺マップ
(青:神田川・日本橋川 茶:外堀通り・靖国通り・目白通り・白山通り)


by Twalking | 2017-05-17 10:16 | リバーサイドウオーク(新規)

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