無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(4)江戸川橋~御茶ノ水03-巻石通り   

日時 2017.5.11(木)
天気 晴れ


神田川と神田上水、ちょっとごちゃごゃしていました。
神田上水は大洗堰で取水し水戸屋敷から外濠を懸樋で越え、
江戸市中に給水していた江戸最古の上水道でした。

その流路は現在の「巻石通り」にあたります。
ここは初めて歩く道でしたが、寺社や旧跡も多くて面白いです。
都水道博物館にも寄り江戸上水の歴史など興味深く拝見しました。
少し整理が進みました、ありがとうございます。


・・小日向/文京区

小日向台
という台地があり坂が多い。坂には「切支丹坂」「薬罐(やかん)坂」など江戸期からの名称がついている。閑静な住宅街。石川啄木・安倍公房・横溝正史などの旧居があった。旧・茗荷谷町付近はその地形の美しさから「茗渓」(めいけい)という美称でも呼ばれていた。『江戸砂子』によれば、当地は鶴高日向守善仁寺の所領で家が絶えたあと「古日向」といっていたのがいつしかこの名になったという。鶴高日向は名主飯塚三四郎家の遠祖といい、小日向水道端鶴高山善仁寺の開基とされる。また、『十方庵遊歴雑記』は大塚大慈寺(現在廃寺)が昔日向国にあり徳川家康に従い当地に移転し、火災後大塚に移転したと伝わることからこの意味の「古日向」の可能性もあるとする。(Wikipedia

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巻石通りの風景① 神田上水は現在の巻石通りを水戸屋敷へ流れていました/江戸川橋

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旧町名案内-小日向水道町
古くは小日向村の内でほとんどが畑であった。明暦2年(1656)町屋となった。正徳3年町方支配となった。承応年間(165255)から町は神田上水定浚(じょうざらえ)を命じられたので水道町と名づけられた。明治2年知願寺、清光院、龍興寺の門前を併せ同5年久世邸及び武家地、寺地を併せた。大日坂から西、音羽通りの崖上一帯は下総関宿の藩主久世大和守(老中職の家柄)の下屋敷であった。明治維新後長く草原となり、今も「久世山」と呼ばれている。いつか星夜となりて 久世山の 木々にまつわる 霧消えにけり/金子薫園(文京区)
(旧町名案内地図に紺:神田上水(巻石通り)青:神田川 緑:坂等を色付けしました。以下同様です)

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妙足院/小日向

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覺王山長善寺妙足院
東叡山護國院末で本尊は大日如来、寛文年中の創立、浩善法尼の開基に係り、初めは草庵であつたが2世玄順の時護國院末となり山寺號を定めた。文政時代の寺地は御年貢地140坪と借地140坪とで、その大日堂は大日坂名稱の由来をなし、小日向の一名所として縁起が『江戸名所圖会』『新編江戸志』其他に記されている。(小石川区史)


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大日坂/小日向
……坂のなかばに大日の堂あればかくよべり。」(改撰江戸志)この「大日堂とは寛文年中(166173)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。この一円は寺町の感のする所である。『この町に遊びくらして三年居き 寺の墓やぶ深くなりたり』折口信夫(筆名・釈超空1887-1953)文京区教育委員会)

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江戸名所図会 大日坂大日堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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巻石通りの風景② 左手が旧黒田小の跡地、白堀跡の説明板があります/総合福祉センター

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神田上水白堀跡
文京区小日向12丁目南遺跡神田上水旧白堀跡
文京総合福祉センター建設工事に伴い平成23年から24年にかけて実施された文京区小日向12丁目南遺跡の発掘調査で神田上水関連遺構が検出されました。この地は旧黒田小学校(後の区立第五中学校)の跡地にあたります。神田上水は、神田川(旧平川)を水源として江戸市中のおよそ23割の範囲に飲料水をまかなった江戸を代表する上水道として知られています。神田上水が市中に入るこのあたりの白堀開渠の堀)は、神田川の北岸小日向台地の南側縁辺部を沿うように流れていました。

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本調査で初めて発見された新旧2筋の堀跡は間知石の石積み護岸で、長さは60m以上確認されその一部を現地で展示しています。展示範囲は旧白堀の石積み護岸(15b号遺構)をそのまま利用した新白堀の護岸(15a号遺構)が後に石蓋(万年巻石蓋)で覆われて渠化された所です。発掘調査時には石蓋は取り除かれ石積みも一部破却された状況でしたが、見つかった状態のまま復原し展示しています。東京砲兵工廠(小石川後楽園)では、東京市内への上水の供給が終了した明治341901)年以降も神田上水を工業用水や園内の大泉水の水源として使用していました。大正初期、石蓋で覆われた水路は鉄管の水路へ置換し姿を消します。関口大洗堰の取壊しや庭園用の深井戸設置に伴い昭和81019331935)年頃神田上水の役割は終焉を迎えます。神田上水関連遺構は都市化の進む江戸・東京で飲料水をどう確保してきたのかを考える上で貴重な情報を提供しているといえます。(文京区教育委員会)

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小日向神社鳥居/小日向


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祭神 誉田別皇命、建速須佐之男命。
当神社は氷川神社八幡神社を合祀して明治25月に小日向神社と改称された。天慶3年(940)の春、当時の常陸国の長官平貞盛がこの地方を平定して、その奉賛として現在の文京区水道橋2丁目日輪寺の上の蓮華山に建立したものである。また、八幡神社は昔の名を「田中八幡」といい現在の文京区音羽1丁目に鎮座していた。創立は貞観3年(860)の春の事と記述されている。古くからこの地域の氏神さまとして里人に親しまれていた。なお当神社には有栖川宮・小松宮の掛軸や額等があったが、去る昭和20525日の戦災によりすべてのものを焼失した。現在、残っているものは短刀二振だけである。なお、当神社の氏子区域は文京区水道1丁目・2丁目、小日向1丁目・2丁目・3丁目・4丁目、関口1丁目である。(文京区神社誌)

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服部坂/小日向(坂下)
坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷がありそれで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋敷跡には明治2(1869)小日向神社が移された。永井荷風は眺望のよいことろとして『日和下駄』に「金剛寺坂荒木坂 服部坂 大日坂等はみな斉しく 小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい」と書いている。坂下にある文京区立第5中学校はもと黒田小学校といい永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。(文京区教育委員会)


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新渡戸稲造旧居跡/服部坂(坂上)
新渡戸稲造
文久2年(1862)〜昭和8年(1933)教育家・農学博士・法学博士南部藩士の子として盛岡で生まれ、明治4年(1871)上京した。明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。同校卒業後、東京帝国大学専科に学びさらにアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。明治24年メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国、札幌農学校で教えた。

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明治36年京都帝国大学教授、同39年第一高等学校長を経て東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長などを歴任した。また、拓殖大学の学監(学長)も務めた。その人格主義教育は学生たちに深い影響を与えた。日本と外国をつなぐ「太平洋の橋」になりたいと若い時から考え、わが国の思想や文化を西洋に西洋のそれをわが国に紹介することに努めた。国際的にも広く活躍し大正9年(1920)に国際連盟事務次長となり「連盟の良心」といわれた。昭和2年(1927)帰帰国の後、太平洋問題調査会理事長となりきびしい国際情勢のもと平和を求めて各地の国際会議に出席するなか昭和8年にカナダで亡くなった。当地は明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎えニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。(文京区)


・・・水道
/文京区

文京区西部に位置し東西に細長い町域を持つ。巻石通りから神田川に向かって若干傾斜する地勢的特徴を持ち全域とも概ね標高10m以下である。南は神田川、目白通り並びに高架の首都高5号池袋線を介して新宿区と関口、北は巻石通りを介して春日2丁目、小日向1一丁目・2丁目、西は音羽通りと江戸川橋駅を介して音羽、関口、東は神田川が大きく向きを変えるあたり(大曲交差点付近)で後楽2丁目に接する。(Wikipedia

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巻石通りの風景③ 左手に寺社が並び寺町になっています/水道図書館前

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旧町名案内-水道端12丁目
もと神田川上水堀南北に沿った町で、町名は水道端と名づけられた。明治5年上水堀の南側の持筒組(戦時に先鋒となる)屋敷および武家地を併せて水道端1丁目とした。明治5年上水堀の北側の荒木坂服部坂の間の武家地や寺地を併せて2丁目とした。ここは寺通りで称明寺、本法寺、日輪寺、善仁寺など片側に軒並み寺院が続いている。神田上水は最古の上水道で、徳川家康の命で大久保主水が造った。井の頭池を水源とし、小日向台地下を素掘りで通した。明治11年頃石で巻いて暗渠にした。それで巻石通りまたは水道通りと呼んでいる。(文京区)

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本法寺山門/小日向

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本法寺
高源山随自院本法寺は東本願寺の末寺で真宗大谷派に属し、夏目漱石(金之助)の菩提寺である。夏目家は代々江戸の名主をつとめた。明治141月に母、203月に長兄、6月に次兄が本法寺に葬られた。それ以来漱石はしばしば小日向を訪れた。亡き母を詠んだ句もある。兄の死を悼んだ英文のスピーチを旧制一高で弁じたこともある。蓮如の「御ふみ」の言葉を友人子規に書き送りもした。作家となってからは「坊っちゃん」の清の墓をここに設けるなど漱石の心の中に本法寺の幻はゆらめきつづけた。境内には早稲田大学第14代総長奥島孝康が揮毫した漱石の句碑がある。(早稲田大学創立125周年記念)

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巻石通りの風景④ この辺りの土手に第六天が祭られていたようです。現在は北野神社境内に合祀されてます/小日向交差点

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旧町案内-旧第六天町
もと小日向村に属し正保3年(1713)町方支配となった。神田上水堀の土手の上に第六天社が祭られていた。その北側の前の町ということで第六天前町と称した。明治2年称名寺門前を併せ、同5年には旧久世長門守下屋敷、寺地、千手組屋敷などを合併した。町名は第六天前町の前を省いて第六天町と変更した。今井坂を上ったところ、もと大久保長門守の屋敷跡に明治34年最後の将軍慶喜(よしのぶ)が移ってきた。そして大正2年ここで波乱の一生を終わらせた。(文京区)
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江戸名所図会 小日向水道端道祖神 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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荒木坂と巻石通り/小日向交差点 
称名寺の東横を小日向台地に上がる坂である。『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡五丈程(15)、巾貳間貳尺程(4)、(御府内備考)と記されている。この坂下の小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は上水に沿った通りを「水道通り」とか「巻石通り」と呼んでいる。神田上水は井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。明治11年頃水質を保つため開渠に石蓋をかけた。その石蓋を「巻石蓋」と呼んだ。その後、神田上水は鉄管に変わり飲料水としての使用は明治34(1901)までで、以後は水戸屋敷跡地に設けられた兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。(文京区教育委員会)

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今井坂(新坂)/文京区春日(金富小)
『改撰江戸志』には「新坂は金剛寺坂の西なり、案に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(171116)開けしと」とある。新坂の名のおこりである。今井坂のおこりは『続江戸砂子』に「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった」とある。この坂の上西側一帯は現在財務省の宿舎になっている。ここは徳川最後の将軍・慶喜が明治34(1901)以後住んだところである。慶喜は自分が生れた小石川水戸屋敷に近いこの地を愛した。慶喜はここで専ら趣味の生活を送り大正2(1913)に没した。現在、その面影を残すものは入口に繁る大公孫樹のみである。この町に遊びくらして3年居き寺の墓やぶ深くなりたり(釈 超空)(この町とは旧金富町をさす)(文京区教育委員会)

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徳川慶喜公屋敷跡/今井坂(坂上)
徳川幕府最後の将軍徳川慶喜18371913)は水戸徳川藩主斉昭(なりあき)の7男として、小石川上屋敷(現在の小石川後楽園一帯)で生まれた。一橋家の家督を継ぎ、慶応2年(1866)第15代将軍に就任。翌年、大政を奉還したが鳥羽伏見の戦とそれに続く江戸城開城の後、恭順の意を表し水戸にて謹慎の後、駿府に隠棲した。明治30年(1897)東京に戻り、同34年(1901この地に移り住んだ。慶喜はのちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ大正2年(19131122日、急性肺炎のためこの地で没した。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。(文京区)

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旧町名案内-旧金富町
明治2年小石川金杉水道町の一部、小石川富坂新町、小日向金剛寺門前町、多福院門前町の4町を合併した。町名は金剛寺の金と富坂新町の富の頭文字をとって金富町とした。金剛寺坂上に俗に鶯谷というところがあった。ここに江戸時代狂歌で有名な大田蜀山人(南畝)が住んでいた。また、小説家永井荷風は明治12年金富町45番地に生まれ、少年時代を過ごしこのあたりから伝通院周辺は荷風の心のふるさとであった。小学校は黒田小学校を卒業した。(文京区)
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神田上水路/金富小付近
日本最初の上水といわれる「神田上水」は、江戸時代初期徳川家康の命を受けて大久保藤五郎忠行が開いた。井の頭池、善福寺池、妙正寺池の流水を落合で合わせ、目白台下の現在の大滝橋辺りにを設けて川の水位を上げて上水とし、余った水は神田川に(江戸川)に流した。上水は水戸屋敷(現在の小石川後楽園)を通し現在の水道橋東側で神田川にを架けて渡し神田・日本橋方面に給水した。この上水は江戸時代から長い間江戸・東京市民の生命の糧として大きな役割を果たした。明治3419016月飲用水としての給水を停止しその使命を終えた。この前の道路は神田上水の流路で、開渠であったものを明治の初めに暗渠として道路としたものである。通称「水道通り」といい旧町名に水道町、水道端の名を残している。(文京区教育委員会)

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江戸名所図会 金剛寺 氷川神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

神田上水左岸の丘は寺地です。現在、本法寺同じ位置にありますが、金剛寺は中野区へ移転、氷川神社は小日向神社に名を変えています。


金剛寺坂/春日
江戸時代この坂の西側・金富小学校寄りに金剛寺という禅寺があった。この寺のわきにある坂道なのでこの名がついた。小石川台地から神田上水が流れていた水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。この坂の東寄り(現・春日2-20-25あたり)で明治12年に生まれ少年時代をすごした永井荷風は、当時の「黒田小学校」(現在の旧第五中学校のある所、昭和20年廃校)にこの坂を通ってかよっていた。荷風は昭和16年ひさしぶりにこの坂を訪ずれむかしを懐しんでいる様子を日記に記している。(文京区教育委員会)


・・・春日

文京区南部に位置する。北で小石川、東で本郷、南で後楽、南西で水道、西で小日向と接する。春日通り(国道254号)に沿って北西から南東に延びる細長い町域を持つ。1630年(寛永7年)に徳川家光の乳母春日局が拝領、町屋にした。2丁目には三井家の邸宅が存在する。(Wikipedia

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巻石通りの風景⑤ 坂を登ると伝通院になります/安藤坂

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安藤坂
この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが1909(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで戦前は「安藤殿坂」戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。(文京区教育委員会)

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牛坂/春日
北野神社(牛天神)北側の坂で古くは潮見坂・蛎殻坂・鮫干坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。牛坂とは牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石がありそれが坂名の由来となったといわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)「江戸志」に『源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ老松につないでなぎを待つ。その間、夢に菅中(菅原道真)が牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石がこれでとある」と記されている。(文京区教育委員会)

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牛天神北野神社参道/春日 

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牛天神北野神社
祭神:菅原道真公。当社は寿永3年の昔、右大将・源頼朝御東国追討の時、此処の入江の松に船を繋ぎ和波を待つ。その間夢に菅神牛に乗りて現はれ、頼朝卿に二つの幸のあらんことを告げ、武運満足の後は、必らずや社を営み報ゆべしと託し給ふ。頼朝卿夢覚めて傍を見れば、一つの岩石ありて夢の中に菅神の乗り給ひし牛に似たり。依りて是を奇異とせしが、果して同年の秋頼家卿誕生あり。更に翌年には動かずして、平家を悉く退け国を鎮定せり。その報寶として此処に、御神を勧請ありて御神領等を寄進す。因て御創立はこの年元暦元年なりと云ふ。(境内由緒)

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北野神社・中島歌子歌碑
北野神社は江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれた。御祭神は菅原道真公である。縁起によると、寿永元年(1182源頼朝が東国経営のとき台地下の老松に舟をつなぎ、風波のしずまるのを待った。夢中に菅神(道真公)が現れて、二つの吉事があると伝えた。お告げの通り男子(頼家)が生まれ、平家を西海に追うことができた。頼朝は大いに喜び元暦元年(1184)ここに社殿を造営したという。また、夢さめて菅神の立っていた跡に牛の形をした石(牛石という)があった。(現在は社殿の前にある)境内の南側に中島歌子(1844-1903)の歌碑がある。歌子はすぐ近くの安藤坂の歌塾「萩の舎」の塾主である。門下には梨本宮妃、鍋島侯夫人や前田侯夫人など上流中流層の婦人1000余人がいた。樋口一葉、三宅花圃らはその門弟である。歌碑は歌子の死後、明治42年(1909)門下生によって建てられた。(文京区教育委員会 写真:牛石)

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大田神社
芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と道の神・猿田彦命を祀る。人々の信仰厚く関東大震災のころまでは、祭の日ともなると未明から深夜まで参拝の人出賑わったという。芸能の神とした歌舞伎、新劇人など芸能人の信者を集め名のある役者が度々参拝に訪れた。この神社はもともとは貧乏神ともいわれた黒闇天女(弁財天の姉)を祀っていたが、江戸の頃この近くに住む貧乏旗本の窮状を救ってからは、福の神として庶民の信仰を集めるようになったという伝説が残っている。また、合祀の高木神社は旧第六天町(現小日向1丁目)にあった五穀豊穣の神である第六天社を道路拡張に伴いここに移したものである。(文京区教育委員会)

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巻石通りの風景⑥ 牛坂下の神田上水を渡ると諏訪神社、その先は外濠になります/諏訪神社前

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旧町名案内-旧諏訪町
元禄9年(1696)、御本丸小間遣10人が町屋敷を拝領しその後変遷があった。町内に諏訪明神があったので古くから諏訪町と呼ばれた。(御府内備考より)明治5年(1872)隣地の牛天神下広小路、袋町新道と呼ばれていた武家地を合併した。(東京府志科より)(文京区)

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小石川諏訪神社鳥居/後楽

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小石川諏訪神社
御祭神:健御名方命、八坂刀売命
由緒
室町時代1390年(明徳元年)7月に牛天神別当『龍門寺』の住職であった乗観法印が信州諏訪大社より勧請、創建したと伝う。由緒によるとある夜諏訪明神が霊夢に現れ「汝の在国に清浄の地ありや」法印曰く「寺の西南に当たりて杉松のうっそうとした浄地あり」と、明神曰く「我其の地の森に移りて氏を守り、汝が思ひを満足せん」と言ひで光焉として飛び去り給う。(思い満足せる森とて今に思ひの森と言い伝え(り)その日比の地は大風が吹き荒れ雷鳴がとどろきわたった。風が収まりし後に一本の大木に白幣がたなびいていたという。信州より帰った乗観が信託の趣を衆に語り不思議な符号を認め此の地に民と力を合わせ官居を建てた。この信託により当社を思いの森と言ひ伝う。」(境内由緒書)

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江戸名所図会 牛天神 諏訪神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

神田上水が麓を流れます。牛神社の正面の参道は現在はありません、左手の裏門が参道になっています。牛坂を下り諏訪神社への道は面影が残ります。


・・・後楽

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巻石通りの風景⑦ 神田上水は水戸屋敷から外濠を懸樋で越え市中に給水されていました/牛天神下

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旧町名案内-旧小石川町
京都聖護院門跡道興准后が「廻国雑記」(文明181486)に次のことを書いている。『ここ(上野忍岡)を過ぎて小石川と言へる所にまかりて、我方を思ひ深めて小石河いつをせにとかこひ渡るらん』、また「江戸砂子」(享保171732)に『小石多き小川が幾筋もある故なり わけて伝通院の後の流 ねこたま橋の川筋 小石川の濫觴(らんしょう)なり』とある。むかし千川(小石川)江戸川(神田川)や周囲の高台から流れに細流が現在の後楽園一帯で合流していた。こられの川は砂や小石が多かったのでこの辺を小石川村と呼んでいた。明治5年小石川町とした。(文京区)

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小石川後楽園

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小石川後楽園/後楽
文京区後楽1丁目にある都立公園。江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)であり、国の特別史跡及び特別名勝に指定されている。1629年(寛永6年)水戸徳川家水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、明の遺臣朱舜水(しゅしゅんすい)の選名によって「後楽園」と命名して完成させた。出典は『岳陽楼記』の「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」によっており、岡山市にある後楽園と全く同じである。1869年(明治2年)版籍奉還により藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、そののち東京砲兵工廠(しょう)の敷地の一部として陸軍省の所管となった。(Wikipedia

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砲兵工廠付近地図(明治17年実測)/小石川後楽園
(青:神田川 紺:神田上水 赤枠:かつての屋敷地 緑枠:現在の小石川後楽園)

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神田川流域マップ(江戸川橋~お茶の水)
(赤:神田川 紺破線:神田川上水 紫:日本橋川)


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資料ファイル

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本郷給水所公苑/本郷

本郷給水所の上部に構築されている。東京市水道局1892年(明治25年)に給水場を建設、1898年(明治31年)に配水池が作られ1974年(昭和49年)に配水池の拡張工事が完了。その後配水池の上に文京区が公苑を建設する使用許可を取得し1976年(昭和51年)開園した。日本庭園(和風庭園)とフランス式(洋風庭園)を採用している。(Wikipedia

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東京都水道歴史館
文京区本郷にある東京都水道局が運営するPR施設である。1995年(平成7年)開館。従来、西新宿にあった東京都水道記念館を閉館して本郷給水所に隣接する東京都水道局本郷庁舎2号館に新設された。東京水道400年の歴史を江戸時代と明治時代以降に分けて実物大模型や歴史資料、映像を用いて紹介している。玉川上水に関する歴史資料が非常に充実しており、閲覧室では都立中央図書館でも所蔵されていない貴重な一次資料や二次資料が閲覧できるようになっている。博物館の裏手には、京都水道局が管理する本郷給水公苑があり神田上水の石桶が保存されている。
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展示風景
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江戸上水の歴史

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神田上水
天正18年(1590)徳川家康の江戸入府に先立ち城下に飲料水を供給するため、家臣の大久保藤五郎に上水開設を命じた。藤五郎は小石川に水源を求め、目白台下の流れを利用し神田方面へ通水させたと伝えられる。これが小石川上水の誕生である。その後随時拡張され神田上水となった。井の頭池や善福寺池を水源とした。

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玉川上水
家光が3代将軍になると「参勤交代の制度」「大名正妻嫡子の江戸在府の制度」により、諸国の武家が江戸に集まってくるとともにその生活を支える町人が増え、江戸の人口は増加し水需要が増大した。この江戸の都市化に対し神田上水に加え新たな上水の開設が必要になった。江戸町人・庄右衛門、清右衛門兄弟により、多摩川を水源に承知3年(1654)玉川上水が開設された。

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青山上水
万治3年(1660)に木瓜屋庄兵衛によって開設された。四谷大木戸で玉川上水の余水をに水口を付け給水し、主に青山・赤坂・麻布・芝方面に供給された。享保7年(1722)に廃止されたが明治15年(1882)から麻生水道として近代水道が敷設されるまでの一時期に利用された。

三田上水

三田上水は玉川上水を下北沢で分水し、渋谷川の谷と目黒川の谷の間の狭い台地を通している。寛文4年(1664)に中村八郎右衛門、磯野助六により開設され、三田・芝・金杉方面へ供給された。享保7年(1722)に廃止された。

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千川上水
元禄9年(1696)小石川白山御殿、本郷湯島、聖堂、上野東叡山寛永寺、浅草浅草寺など将軍御成りのところへ上水を引用するため、玉川上水を谷保村で分水し開設された。享保7年(1722)に廃止されたが、沿線への村々には灌漑用水として利用された。また明治13年(1880)岩崎弥太郎により千川水道株式会社として復活した。

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亀有上水
明暦の大火後、江戸の復興に伴って本所深川の町づくりが万治2年(1659)以降に行われており、この頃開設されたと思われる。隅田川西側には神田・玉川上水より給水されていたが、東側には給水することが出来ず、このため元荒川に堰を作って溜井とし、埼玉県北足立郡を経て亀有に入り南下して本所方面に給水された。後に本所上水と呼ばれるようになった。享保7年(1722)に廃止。(展示パネルより)

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神田川に懸けられた懸樋の模型(1/50

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発掘された江戸上水「東京都千代田区丸の内3丁目遺跡」(旧都庁・阿波徳島藩上屋敷跡)

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馬水槽                消火栓

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神田上水石樋(復元)

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神田上水石樋の由来
神田上水は天正18年すなわち西暦1590年、徳川家康が関東入国に際し良質な飲料水を得るため、家臣大久保藤五郎忠行に命じて開削させたのが始まりと伝えられています。この上水は井の頭池を水源とする神田川の流れを、現在の文京区目白台下に堰を設けて取水し、後楽園のあたりからは地下の石樋によって導き、途中掛樋で神田川を渡して神田・日本橋方面へ給水していました。日本における最初の上水道といわれ、その後明治34年近代水道が整備されるのにともない廃止されるまで、ながく江戸・東京の人々の暮らしに大きな役割を果たしてきたのです。ここに見られる石樋は昭和62年文京区本郷1丁目先の外堀通りで、神田川分水路の工事中発掘された神田上水遺跡の一部です。四百年近く土中に埋もれていたにもかかわらず原型を損なわず、往時の技術の優秀さ水準の高さを示しており、東京の水道発祥の記念として永く後世に伝えるため移設復原されたものであります。平成210月 杉本苑子誌(碑文)

by Twalking | 2017-05-20 19:41 | リバーサイドウオーク(新規)

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