無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 芝公園界隈01-『TOKYOウオーク2017』   

日時 2017.6.10(土)
天気 晴れ 


『TOKYOウオーク2017』の手伝いで
久振りに芝公園に行ってきました。
朝方コースをひと廻り、緑が多くていいですね。

南を旧東海道、北が中原街道が通り
増上寺を囲むように25区画の公園になっています。
それぞれに寺社や旧蹟などがあって楽しめます。


・・・芝公園/港区

d0183387_11584376.png
芝公園地図(橙:日比谷通り・中原街道(桜田通り)・参道 青:古川・首都高)

d0183387_12003111.png
芝公園
公園がまだなかった江戸時代、江戸は庭園都市と呼ばれるほどで多くの庭園がありました。しかしこれらは大名や旗本などの屋敷がほとんどで、江戸庶民にとって身近に楽しむことができた緑に触れ合えるリクリエーション等の場としては、寺社境内や徳川吉宗が設けた数少ない花見の名所等でした。明治に時代が移り新政府が打ち出した日本初の公園制度、明治61873)の太政官布達第16により公園が誕生しました。その後、明治20年(1873)めでに江戸時代からの花見の名所や社寺境内など全国81ヶ所の公園が指定されました。上野の寛永寺と共に江戸の花見の名所だった増上寺を中心とした芝公園は上野、浅草、深川、飛鳥山と共に明治6年東京で最初の公園に指定されました。徳川将軍家の菩提寺増上寺の境内を取り込んだ形で公園化を図り、広大な敷地は125号地に区画されました。現在も公園では号地のままで親しまれています。当初は増上寺の境内を含む広い公園でしたが、戦後に新憲法が施行され政教分離によって増上寺の境内部分が除かれ現在の公園となりました。(芝公園設計図明治43年(1910)長岡安平と推定される/案内板)


・・・御成門

d0183387_16311297.jpg
左手4号地がメイン会場、反時計回りで一周します/図書館入口(日比谷通り)

日比谷通り

国道1号・国道20号・都道403大手町湯島線・都道409号日比谷芝浦線の各路線の一部を南北に継ぐ東京都通称道路名設定公告で告示された道路の通称である。神田橋交差点-日比谷交差点-芝五丁目交差点。Wikipedia

d0183387_23311157.jpg
御成門
増上寺(徳川家の菩提寺)の裏門としてつくられたが、もっぱら将軍が参詣するさいに用いられたので、『御成門』と呼ばれるようになった。初め『御成門』は、現在の御成門交差点にあったが明治二十五年の東京市区改正計画で内幸町から増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際にこの位置に移築された。その後、増上寺三門や旧庫裡門・徳川家墓地の惣門・二天門とともに関東大震災や太平洋戦争の戦火から難をのがれて今日に及んでいる。(東京都港区教育委員会)

d0183387_16430321.jpg
東京慈恵医大
1881年(明治14年)に創立された成医会講習所が起源。1891年(明治24年)昭憲皇太后の意向を受け東京慈恵医院医学校と改称された。その後、1903年(明治36年)専門学校令を受けて日本初の私立医学専門学校として東京慈恵医院医学専門学校となる。さらに1921年(大正10年)に大学に昇格し東京慈恵会医科大学となった。これは大学令に基づく日本の私立の旧制大学の中で最も古い単科の医科大学である。Wikipedia

d0183387_17164339.jpg
愛宕隧道(全長76.6m 昭和5年完成 一方通行)を抜けて桜田通りを右折します。左手に上りのエレベターも付いてます

d0183387_17220794.jpg
愛宕山
港区愛宕にある丘陵である。一帯の愛宕神社境内には三等三角点があり25.7mの標高が記録されている。天然の山としては東京23区内最高峰。人造の山の最高峰は新宿区の箱根山・45m江戸時代から愛宕山は信仰と山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさで有名な場所であった。山上にある愛宕神社はもとは1603年にこれから建設される江戸の防火のために徳川家康の命で祀られた神社であったが、「天下取りの神」「勝利の神」としても知られ、各藩の者たちは地元へ祭神の分霊を持ち帰り各地で愛宕神社を祀った。Wikipedia


・・・神谷町

d0183387_17330080.jpg
中原街道です、神谷町交差点を左折します/桜田通り

桜田通り

国道1号の桜田門交差点から西五反田1丁目交差点までの区間の通称。中世以前から存在する古道であり、徳川家康によって江戸時代の東海道が整備されるまでは江戸から西への街道(小田原街道・中原街道)であった(Wikipedia)

d0183387_17495388.jpg
光明寺本堂/虎ノ門


d0183387_17524928.jpg
光明寺
浄土真宗本願寺派天正19年(1591)徳川家康と親交のあった光明寺第17世住職証高が、境内の紅梅に和歌を添えて献上し家康をたいそう喜ばせた。そのことを縁として毎年正月の幕府への寺社献上の第一番として光明寺の梅が献上された。正保2年(1645)三代将軍徳川家光が光明寺に立ち寄った際、家康が光明寺の梅を喜んだ故事を聞き山号を梅上山と改めるよう命ぜられた。これにより以後、梅上山光明寺と称するようになった。(光明寺縁起)

d0183387_17534442.jpg
明和の大火死者供養墓(港区指定文化財)
明和9年(1772229日の午後、目黒行人坂の第円寺より出火した火事は強い西南の風に勢いを増し、麻布・虎ノ門から江戸城郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草などに延焼、千住まで達して翌晦日の午後にようやく鎮火しました。いわゆる「目黒行人坂火事」で、明暦3年(1657118日の「振袖火事」以来の江戸の大火であったといわれています。この火事で類焼した大名屋敷は169、町数は934、橋は170、寺は382にのぼったと記録にあります。死者は14700人ほかに行方不明者も4000人を超えています。光明寺の過去帳によれば、境内の山の上に避難した男女90人が焼死し寺の本堂・勝手・諸堂も残らず焼失したとあります。この供養墓はこの惨事に心を痛めた当時の住職が焼死者の供養のために建立したものです。のちに墓は山の上から現在地に移されましたが、火災による惨事を現在まで記憶にとどめるものとして貴重です。(港区教育委員会)

d0183387_18015885.png
港区立御成門小学校
所在地は芝公園に隣接しており東京でも最も長い歴史を持つ公立小学校のひとつである。東京府が1870年(明治3年)に初めて設置した仮小学第6校のうちの一番校「東京府小学第一校」に遡る。現在の御成門小学校はこれまで多くの学校が統合された結果として存在しており、源流となっている小学校は6校に及び近年の統廃合によってさらに2校が御成門小学校に合流している。Wikipedia


d0183387_18365756.jpg
d0183387_18370132.jpg
御成門小右折/愛宕2(愛宕下通り)    東京プリンス右折/芝公園3

東京都道301
号白山祝田田町線

文京区と港区を結ぶ主要地方道(起点:千石前交差点 終点:札の辻交差点9.3km)である。都心中枢部の区域をほぼ南北に通る。通称は白山通り・内堀通り・愛宕下通り・桜田通り。Wikipedia)中原街道(桜田通り)

愛宕山・飯倉の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22208592/


・・・東京タワー

d0183387_19094143.jpg
いい森ですね、休憩地になります/芝公園23号地

d0183387_19094730.jpg
d0183387_19095141.jpg
歩道から園路に            芝公園10体地蔵尊/23号地

d0183387_23281122.jpg
『こともウオーク』コースはのっぽん君とご対面


d0183387_19235465.jpg
東京タワー/20号地
総合電波塔の愛称である。正式名称は日本電波塔1958(昭和33)竣工。東京のシンボル・観光名所として知られる。高さは333mと広報されており、塔脚の間隔は88.0m。総工費約30億円、1年半と延べ219,335人の人員を要して完成した。地上125m(海抜約150m)と223.55m(海抜約250m)に展望台を有したトラス構造の電波塔である。Wikipedia

d0183387_19411171.jpg
d0183387_19413204.jpg
左が19号地のもみじ谷です       右が18号地「うかい鳥山」があります

d0183387_20220715.jpg
もみじ谷、ここは紅葉が美しい森です/19号地

d0183387_22000721.jpg
信号横断すると弁天池、この先のスロープからパークタワーへ/1号地

d0183387_22060003.jpg
宝珠院本堂

d0183387_22061775.jpg
宝珠院弁財天の縁起
開運出世辨才天三井寺の開山智証大師が858年竹生島で奇縁に依り彫られ、その後源家に伝わり再興に当り頼朝公深く信仰し天下を平定される。又徳川家康公も厚く信仰され、天下の平和を築かれ除波辨才天を改め開運、出世辨才天と改称されました。古来より一心に崇敬拝する者に開運出世、巳成金福寿、円満厄難消滅、縁結びの利益を授けられ、現在港区七福神の一つに制定されている。(境内掲示)


・・・パークタワー

d0183387_22090296.jpg
パークタワー&芝生の庭園、広々としてくつろげます/1号地

ザ・プリンス パークタワー東京
2005年に徳川家霊廟跡に存在した「芝ゴルフ場」跡地に「東京プリンスホテルパークタワー」として開業Wikipedia

d0183387_22184280.jpg
d0183387_22494063.jpg
バラ園の園路             浜松町方面のビル群

d0183387_22271580.jpg
d0183387_22540163.jpg
勅額門跡               惣門への下り階段             

d0183387_22450139.jpg
水路跡
ここに並べられて石垣石は増上寺山内松山に造営された台徳院(2代将軍徳川秀忠公)霊廟の惣門前に構築された水路に用いられていたものです。台徳院霊廟は寛永9年(1633)台徳院の死後まもなく造営が始められ、およそ1年後に竣工したことが記録にあります。

d0183387_22463664.png
水路は砂地の上に組み上げられた石垣を壁としており、これらの石垣石は壁としておりその建材の一部です。平成14年(2002)に行われて発掘調査によって、この石列の真下地下およそ8mの位置で発見されました。石垣は最も良好な箇所で4段検出されました。石材として相模から伊豆にかけての地域で切り出された安山岩が用いられていますが、形や大きさがまちまちです。最下段の石垣には宝永の火山灰の付着が確認され、刻印や墨書を認めるものもあります。かつての旧御成道(現在の日比谷通り)から御霊屋への通路には、惣門手前までこの水路を渡りました。往時、水路には清らかな水が流れ、発掘調査では惣門手前に架けられていた橋台の一部も検出されました。(説明板)

d0183387_22575808.jpg
台徳院霊廟惣門(正面)

江戸幕府2代将軍徳川秀忠の霊廟建築で増上寺に造営された。台徳院霊廟は増上寺本堂南側の南御霊屋に東を正面として営まれた。所在地は現在の港区芝公園、ザ・プリンスパークタワー東京の敷地にあたる。霊廟の北には隣接して宗源院(秀忠夫人)霊牌所があった。勅額門、丁字門、御成門の3棟は埼玉県所沢市に移築されたWikipedia

d0183387_23032521.jpg
港区指定有形文化財(彫刻)木造仁王像・二躯
重要文化財『旧台徳院霊廟惣門』の左右に安置している寄木造り、砥粉地(とのこじ)彩色の仁王像で、方形の台座に乗った岩坐(いわくら)の上に立っています。平成16年から17年に行われた修理の際に体内から修理銘札が発見され、元は埼玉県北足立郡戸塚村(現在の川口市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもので、寛政元年(1789)、弘化3年(1847)の2度にわたり修理が行われていることがわかりました。さらに安政2年(1855)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、昭和23年(1948)同寺三重塔の修理と同時期に3度目の修理が行われた後で、東京浅草寺に移されたことも記載されています。その後の経緯は詳らかではありませんが、昭和33年ごろまでにはこの惣門に安置されたと考えられます。本像は18世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示す貴重な作品です。像高:阿形243.5cm 吽形247.0cm(港区教育委員会)


・・・増上寺

d0183387_00051529.jpg
増上寺境内

d0183387_00232900.png
増上寺
浄土宗の大本山の一つ。三縁山広度院増上寺が正式の呼称です。開山は明徳4年(1393)、浄土宗第八祖・酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。江戸時代初期、増上寺法主12世源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康公から深く帰依を受け手厚い保護を受けました。慶長3年(1598)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺としてまた関東十八檀林の筆頭として興隆し浄土宗の統制機関となりました。その規模は寺領1万石余、20数万坪の境内地、山内寺院48宇、学寮百数十軒、常時3千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行なわれ建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵しています。(説明板)

d0183387_00280271.jpg
三解脱門
慶長16年(1611)に徳川家康公の助成により江戸幕府大工頭中井大和守正清によって建立され、元和8年(1622)に再建されました。この門は増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。三解脱門は別名「三門」とも呼ばれ、三つの煩悩「貪欲(とんよく・むさぼり)・瞋恚(しんに・いかり)・愚痴(ぐち・おろかさ)」の三悪を解脱する悟りの境地を表しています。建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に和様の勾欄などが加味され見事な美しさを見せています。その大きさは間口十間余(約19m)奥行五間(約9m)高さ七丈(約21m)の二重建て構造。さらに左右には三間(約5.4m)の山廓を有しています。上層部(楼上)内部には中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像が安置されています。(説明板)

d0183387_01061873.jpg
水盤舎
元は清楊院(3代将軍徳川家光の3男・6代将軍徳川家宣の父、甲府宰相綱重)の御霊屋にあった建物です。綱重は延宝6年(1678)に逝去し、初め小石川伝通院に埋葬され、家宣の代に増上寺に改葬されました。御霊屋は増上寺裏手に営まれていましたが、昭和20年(1945)の東京大空襲により他の御霊屋の建物とともにほとんどが焼失しました。(港区の文化財)

d0183387_01022886.jpg
鐘楼堂
寛永10年(1633)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大梵鐘は、延宝元年(1673)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。徳川4代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され7回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ東日本では最大級として知られています。その大きさ高さ1丈(約3m)重さ4000貫(約15t)の大鐘です。その鐘の音は時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し人々の心を深い安らぎへと誘います。江戸時代の川柳には「今鳴る鐘は芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ江戸庶民に親しまれてきました。(説明板)

d0183387_01325176.jpg
有章院霊廟二天門
江戸幕府7代将軍徳川家継の霊廟建築。芝増上寺に造営された。現在の東京プリンスホテル敷地には戦前6代将軍家宣の文照院霊廟と並んで、7代将軍家継の有章院霊廟がありました。プリンスホテル正面の二天門は有章院霊廟の総門です。霊廟は8代将軍吉宗が享保元年(1716)に建立しました。Wikipedia
現在シートで覆われています(写真は過去に撮影したものです)

d0183387_10103497.jpg
江戸名所図会 増上寺山内芙蓉洲弁天社(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


d0183387_09444631.jpg
日比谷通りをゴールの4号地へ向かいます(増上寺前)

d0183387_09465894.png
『TOKYOウオーク2017-こどもウオーク』コース地図
(緑:コース 赤丸:4号地 橙:日比谷通り・桜田通り)


・・・・・
資料ファイル

徳川家霊廟

江戸幕府の将軍職を務めた徳川将軍家歴代の墓所のことで江戸(現・東京)の寛永寺と増上寺及び栃木県には日光の輪王寺にある。江戸時代の華麗な建築技術・意匠の粋を集めた建築群として日光東照宮と並び称されるが、このうち寛永寺と増上寺の霊廟は大部分の建物が1945年(昭和20年)の戦災で焼失した。

(現存する霊廟建築)

d0183387_16403706.jpg
久能山東照宮
初代家康を祀る社殿(本殿・石の間・拝殿)と家康が埋葬されている神廟(廟所)がある。家康の一周忌を前に(16173月〜4月)日光へ分祀された。分祀後の161712月に社殿が完成し東照宮の原型となる。社殿は国宝、神廟他は重要文化財に指定されている。
久能山東照宮の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20531443/


d0183387_16493703.jpg
d0183387_16494184.jpg
日光
日光東照宮- 初代家康を祀る。輪王寺大猷院霊廟- 3代家光を祀る。以上の建築群は国宝および重要文化財に指定され世界遺産にも登録されている。

日光東照宮の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17778572/
大猷院の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17642344/


d0183387_16534450.jpg
寛永寺
厳有院(4代家綱)と常憲院(5代綱吉)の霊廟があったが1945年(昭和20年)大部分が空襲で焼失。焼け残った以下の建築が重要文化財に指定されている。厳有院霊廟(勅額門・水盤舎・奥院唐門・奥院宝塔)常憲院霊廟(勅額門・水盤舎・奥院唐門・奥院宝塔)8代吉宗、13代家定の宝塔は常憲院霊廟、10代家冶、11代家斉の宝塔は厳有院の霊廟の敷地内に建っている。寛永寺の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/16564921/


高野山
高野山塔頭・蓮花院は松平家時代より徳川家の菩提所・宿坊であった。文禄3年(1594)の家康参詣を機に大徳院と改称。3代家光により初代家康と2代秀忠の霊廟は大徳院にも建築された(徳川家霊台、南院の裏手にあるが現在は金剛峰寺の所有)。国の重要文化財および世界遺産に指定されている。安国院殿霊廟(家康)台徳院殿霊廟(秀忠)。明治期に大徳院は他の塔頭寺院と合併して金剛峯寺門前に移り旧名の蓮花院に復したが、現在も徳川家歴代や大奥関係の位牌が祀られている。ちなみに奥の院には松平秀康および同母の霊屋(蓮花院の所有)がありそちらも国の重要文化財および世界遺産に指定されている。(Wikipedia

・・・
d0183387_17142039.png
戦災以前の増上寺御霊屋図

d0183387_16564343.jpg
増上寺
台徳院(2代秀忠)、崇源院(秀忠夫人)、文昭院(6代家宣)、有章院(7代家継)の霊廟と9代家重、12代家慶、14代家茂の宝塔があったが1945年(昭和20年)大部分が空襲で焼失。焼け残った以下の建築が重要文化財に指定されている。台徳院霊廟惣門(芝公園・ザ・プリンスパークタワー東京内)台徳院霊廟勅額門、丁字門、御成門(以上3棟は埼玉県所沢市に移築)有章院霊廟二天門(芝公園・東京プリンスホテル内)これらの霊廟に祀られていた遺体は1958年(昭和33年)に改葬され、墓所は増上寺本堂裏に移転している。現在の増上寺徳川家墓所の入口の門はもと文昭院霊廟の奥院の門だったもの。秀忠夫人崇源院霊廟の一部は鎌倉建長寺に移築された。霊廟跡地は東京プリンスホテル(文昭院、有章院等)、ザ・プリンスパークタワー東京(台徳院、崇源院等)となっている。(Wikipedia

d0183387_17044443.jpg
徳川将軍家墓所
戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいました。墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟はいずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。その後昭和20年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し残った建物もその指定を解除されました。正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家六代将軍家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築しました。左右の扉は共に青銅製で5個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれその荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。

d0183387_17013228.png
墓所には2代秀忠公・6代家宣公・7代家継公・9代家重公・12代家慶公・14家茂公の6人の将軍のほか、崇源院2代秀忠公正室、家光公の実母、お江)、静寛院宮(14家茂公正室和宮)ら5人の正室、桂昌院(3代家光公側室、5代綱吉公実母)はじめ5人の側室、及び3代家光公第3子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。(説明板)



by Twalking | 2017-06-13 22:41 | 東京散歩(新規)

<< ホタルブクロ 「平和の女神」像-港区役所 >>