無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 芝公園界隈02-芝大門   

日時 2017.6.10(土)
天気 晴


芝公園をぐるりっと一周すると約4kmですが、
距離では測れない歴史が詰まっています。
東海道や中原街道など絡めても面白いですね。

緑も豊かですし、寺社や史蹟も一杯
のんびりと散策するにはいいコースです。
久し振りの芝公園、お子さん達と楽しく歩きました。
どうもありがとうございました。


・・・芝大門

港区の北東に位置し北は新橋に、東は第1京浜(国道15号)を挟んで浜松町、南は古川(渋谷川)をはさんで芝に、西は日比谷通りを挟んで芝公園に接する。町域の東端に都営地下鉄の大門駅があり、西端には増上寺の大門がある。当地域は増上寺門前町として発展した場所であり、多くの狭小な町が混在しており中心となる大きな町が存在しなかった。そのため当地域の俗称である大門(増上寺の大門に由来)を新町名に採用することになった。
Wikipedia

d0183387_11403172.jpg
大門
増上寺の朱く塗られている総門は俗に大門(だいもん)と呼ばれている。江戸時代には門の手前に橋が架かり下馬札が立っていた。

d0183387_11444091.png

芝神明は平安時代に造られたという江戸有数の古社で、芝居のめ組のけんかなどでも有名である。これは江戸時代のしょうが市の光景で、今日でも911日から21日まで長く続くためだらだら祭りの名がある。背景は2代広重、人物は3代豊國の筆、元治元年(1864)江戸自慢36興の一枚(案内板)

d0183387_11533588.png
芝神明(しばしんめい)
俗に芝神明と称された現在の芝大神宮は江戸の有数の神社のひとつである。往年の参詣の人々や商人たちの生き生きとした姿が描かれている。新板浮世絵 芝神明之図/歌川国丸(案内板)



d0183387_11574359.png
めぐ組のけんか
文化2年(18052月(一説)芝神明の境内で勧進相撲を興行していた力士と町火消め組との間でかんがが起きた。これが後に江戸っ子気質の典型として評判になりました。芝居「神明恵和合取組」(かみのめぐみわごうのとりくみ)のモデルとなった(案内板)

d0183387_12505855.jpg
芝大神宮鳥居/
芝大門


d0183387_12512255.jpg
芝大神宮
もともとは単に「神明」あるいは「神明宮」と称していたが、武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから「日比谷神明(日比谷神明宮)」と、また飯倉御厨(後の武蔵国飯倉庄)に鎮座していたことから「飯倉神明(飯倉神明宮)」と、さらに芝の地に住民が居留して町の様相を呈するに及び「芝神明(芝神明宮)」とも称されるに至った。伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い「関東のお伊勢様」とも尊称された。

d0183387_12555552.jpg
市井においては東海道沿線で江戸市中と市外の
境界線上(近くに金杉橋あり)に鎮座し、増上寺も隣接することから江戸時代に入って参詣者が増え江戸から出府する旅人にとっては道中無事を、入府する旅人にとっては道中無事の報賽をといった祈願が行われた。さらに江戸時代にはお蔭参りといわれる伊勢神宮への参拝が数多く見受けられるが、高額な旅費と長期間の旅程を要し、容易に行うことは難しかったため代わりに伊勢神宮の祭神を祀り江戸市中に鎮座する当神社への参詣者が増えていったと考えられる。

d0183387_12570496.jpg
参詣者が増えればそれを当て込んで参道に数々の出店が見られるようになり茶屋、揚弓場、吹き矢、花の露屋(化粧品)、角力、手妻(手品)、軽業、剣術、富籤興行、岡場所(非公認の私娼屋が集まった遊郭)・陰間(かげま・男娼)などの風俗店や、芝居などの見世物小屋で賑わい、特に芝神明の太々餅は土産物として評判を呼び名物となった。更に、江戸で出版された娯楽絵本の版元で、地本問屋として名を馳せた和泉屋が天明頃(
1781-89年)には当神社近隣に店を構えていたといわれ、この界隈はマスコミの拠点にもなっていた。(Wikipedia
d0183387_15362894.jpg
大門から三門への参道も雰囲気がありますね/大門通り

d0183387_13292518.jpg
港区区役所の前に続く松原も憩えます/6号地

d0183387_13343931.jpg
松原の復元
芝公園のうち増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原と呼ばれています。それは寛永17(1640)増上寺20世大僧正南誉上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百本松原と称したことによるとも伝えられています。松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変わりました。ここは江戸時代の番所跡と伝えられ、土塁にはさまれた通路がカギ形をしています。都は園地改修にあたり原形を残すとともに往年の松原を偲ぶものとして黒松を植え、月見をイメージしたモニュメントを設置しました。(東京都)写真:平和の女神像/区役所正面

d0183387_13361396.jpg
浅岡飯たきの井の由来
江戸時代ここに良源院(増上寺の子院)があり、仙台伊達家の仕度所として藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。万治3年(1660年)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したと伝えられる。昭和62年(1987)新庁舎開庁にあたり旧庁舎中庭にあったものをここに移設して保存した。(案内板)

d0183387_13461229.jpg
参道を越えるとペリーの碑があります、日比谷通りの向かい側は東照宮/10号地

d0183387_13480923.jpg
ペルリ提督の像
昭和28720日の日本開国百年記念祭挙行のとき、東京都民からニューポート市に石灯籠1基を贈りました。その答礼として贈られたのがこの像です。(東京都公園協会)


d0183387_13481543.jpg
万延元年遣米使節記念碑
西暦186029日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。副使村垣淡路守範正の詠にいう『竹芝の 浦波遠く こぎ出でて 世に珍しき 舟出なりけり』 遣米使節渡航より百周年にあたり日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。19606月日米修好通商百年記念行事運営会(案内板)


・・・芝公園

d0183387_14501915.png
慶長3年(1598)徳川家康によって現在の場所に移された三縁山増上寺の境内で、上野の寛永寺と並び称される江戸名所の一つでした。一時三縁山の名をとって三縁町と称されましたが明治6年(1873)宮内省の管轄地となって公園に編入され、芝公園と定められました。有史以前より人が住む土地であったと考えられ、貝塚や古墳等が残っています。(大正10年(1921)地図/港区旧町名案内板)
d0183387_13531414.jpg
芝東照宮鳥居

d0183387_13585327.jpg
芝東照宮
港区にある東照宮。祭神は徳川家康。神体は徳川家康寿像。旧社格は郷社。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つとされる。芝公園の一角にあり元来は増上寺内社殿であった。徳川家康が慶長6年(1601年)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を自身が駿府城に於いて祭祀していた。元和2年(1616年)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言した。同年10月に着工し翌元和3年(1617年)2月に竣工した。

d0183387_14063943.jpg
この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」より「安国殿」と呼ばれた。これが芝東照宮の起源である。明治初期に神仏分離令により増上寺から切り離されて芝東照宮となった。本殿は大正4年(1915年)旧国宝に指定された。しかし、昭和20年(1945年)525日の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残しあとは全て焼失した。昭和44年(1969年)現在の社殿が再建された。(Wikipedia

d0183387_14090688.jpg
東照宮のイチョウ
芝東照宮は、以前は増上寺安国殿と呼ばれ『江戸名所図会』にもその姿が見られる。明治の神仏分離によって増上寺から切り離され東照宮となった。このイチョウは寛永18年(1641)安国殿の再建に際し3代将軍徳川家光が植えたものと伝えられている。昭和5年(1930)に史蹟名勝天然記念物保存法に基づいて国の天然記念物第2類(地方的なもの)として指定されたが、昭和27年に文化財保護法が改正された一時国指定は一旦解除され、その後昭和31年に東京都の文化財保護条例に基づき指定し直され現在に至っている。平成5年(1993)の調査では高さ約21.5m、目通り幹囲約6.5m、根元の周囲が約8.3mある。(東京都教育委員会)

d0183387_14103218.jpg
銀世界の梅
この梅林は今の新宿区西新宿3丁目の東京ガス敷地にあったもので、江戸時代は「梅屋敷銀世界」と言われていたものを明治4142年ごろ16号地グランドの西側に移植されたが、道路拡張にともない昭和41年にこの1号地に移されました。この石碑は琉球の棟応昌の筆によるもので、梅屋敷内にあったものです。(説明板)

d0183387_16101733.jpg
大イチョウと東京タワー/芝東照宮

d0183387_14225655.jpg
東照宮の奥一帯は丸山と呼ばれたところ、ちょっとした幽谷になっています

d0183387_14273001.jpg東京都指定史跡芝丸山古墳
全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40mくびれ部幅約22mほどの都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約16mの台地端に位置し前方部を南南西に向けている。江戸時代以降原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治31年に日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪を伴うことは知られている。前方部が狭く低い形態や占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ付近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた南武蔵の族長の墓だったと考えられる。(東京都教育委員会

d0183387_14331947.jpg

d0183387_14343131.jpg
円山随身稲荷大明神/芝丸山古墳
円山稲荷は増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。随身稲荷の由来は増上寺がこの地に移建当時、桑名よりお迎えした御本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神であります。(大本山増上寺

d0183387_14370945.jpg
丸山の頂上に伊能忠敬の顕彰碑が建っています。

d0183387_14380045.jpg
伊能忠敬測量地遺構標表 
伊能忠敬先生は1745年(延享2年)上総國に生れて下総國佐原伊能家を嗣ぎ、村を治めて後50歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして、全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって続けられ、わが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。その偉業は引きつがれて1821年、大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられ、その精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり、参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである。東京地学協會はその航跡を顕彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが、不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。扔つて今回各方面の協賛を得この碑を再建した次第である。19655月社団法人東京地学協會 會長細川護立(碑文)

d0183387_15113905.jpg
東側に下るとパークタワーの庭園に出られますが、日比谷通りに戻ります

d0183387_15182769.jpg
芝公園の西端には古川が流れています/芝園橋(日比谷通り)

d0183387_15204709.jpg
古川
天現寺橋下の笄川(こうがいがわ)合流点から浜崎橋先の河口までの4.4kmの二級河川。古川は江戸時代から昭和初期頃までは新堀川、金杉川とも言われていたが現在は使われていない。天現寺橋から下流の古川では古い石積護岸が今も残る。赤羽橋から河口までは昭和30年代から防潮堤が整備されているWikipedia

d0183387_15241585.png
港区旧町名案内
新堀河岸
古川南岸赤羽橋から将監橋の間にあたる河岸地で、江戸時代はとくに名はなく荷上げ場などに使われていました。薩摩鹿児島藩の荷揚げ場があったことから俗に薩摩河岸とも呼ばれていました。新堀河岸といつごろから呼ばれていたかは不明ですがおそらく明治時代になってからの里俗と思われます。船運の便があるため木材、石材、竹材、米塩、薪炭などの商店が多くあったようです。

栄町
正徳3年(1713)に幕府が御霊御掃除(おたまおそうじにん)に与えた土地で芝御霊屋敷掃除屋敷と呼ばれていました。明治2年(1869)芝御霊屋敷掃除屋敷と金地院拝領屋敷を合併して芝栄町となりました。明治5年さらに近傍の旧鯖江藩邸、武家地、寺社地を合併しました。栄町とした理由は不明ですが町の繁栄を願ってつけたのではないかと考えられます。

d0183387_15294101.png
芝地区ちぃまっぷ
(赤:旧東海道・中原街道 橙:日比谷通り・大門通り 青:古川)

by Twalking | 2017-06-14 20:18 | 東京散歩(新規)

<< 湘南モノレール ホタルブクロ >>