人気ブログランキング | 話題のタグを見る

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①   

日時 2017.6.20(火)
天気 晴れ

ここからは鎌倉の寺社、史跡めぐりです。
海臧寺、東勝寺、寿福寺は定番ですが
それだけではないですね~・・・。

寺社それぞれに由緒や歴史がありまし、
鎌倉、室町の史跡が豊富で面白いです。
整理するは大変ですが、少しづつでしょうか。


・・・扇ヶ谷
(おうぎがやつ)

鎌倉市鎌倉地域にある大字。扇ガ谷はJR横須賀線の鎌倉駅から北鎌倉間の線路沿いの山際一帯の地名である。東を雪ノ下、西を佐助、南を御成町・小町、北を山ノ内と接し、飯盛山、源氏山(初名は武庫山、このほか亀谷山とも呼ぶ)などの丘陵が周辺を囲み、中心部谷戸にある亀ヶ谷坂を経て北鎌倉方面とつながる。地名の由来は鎌倉十井の一つ「扇の井」(現在の扇ガ谷3丁目)に因んだもので、扇ヶ谷は関東管領上杉定正旧邸で、英勝寺の地で亀ヶ谷(かめがやつ)の地内の一地名とある(新編相模国風土記、新編鎌倉志)。もともとこの地は亀谷と呼ばれ鎌倉幕府の記録書である『吾妻鏡』には亀谷(亀ヶ谷)の地名のみ登場し扇ヶ谷は出てこない。亀ヶ谷は鶴ヶ岡に対する対語、もしくは谷戸の中心部にある亀ヶ谷坂(『亀がひっくり返るほど急な坂』の『亀返り坂』の転訛という説)に由来すると云われ、この地は源家父祖伝来の地であった。Wikipedia

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_22035624.jpg
街道の風景① 葛原岡から扇ヶ谷方面の景観です

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_22102163.jpg
海蔵寺山門
/扇ヶ谷


鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_22144939.jpg
扇谷山海蔵寺
海蔵寺は古都鎌倉の扇ヶ谷の北、風光明媚な渓間に佇む臨済宗建長寺派の古刹である。もと真言宗の寺跡であるこの渓に、建長5年(1253)宗尊親王の命によって従五位前能州太守藤原仲能が本願主となり七堂伽藍が再建された。しかし、元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡のおり鳥有に帰した後、応永元年(13944月、鎌倉御所足利氏満の命により上杉氏定が再建したのが海蔵禅寺である。氏定は源翁禅師を(心昭空外)を開山に招いて菩提寺とした。天正5年(1577)建長寺に属して今日に至っている。寛政3年(1791)の境内図によると、主な建物の配置は現在の姿とほとんど変わらず、塔頭7ヶ院と旧跡を図示している。(海蔵寺略縁起)

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_22160135.jpg
本堂(龍護殿)
大正12年(1923)の震災で倒壊した後同14年の再建。内殿欄間の雲龍彫は文化9年(1812)、額は延宝9年(1681)霊芝の筆。間切戸の雲龍・山水の絵は狩野探信の筆なり、正面4枚戸の牡丹唐獅子の絵は藤原義信の筆。(海蔵寺略縁起)


鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_22165574.jpg
仏殿(薬師堂)
安永5年(1776)浄智寺から移築し翌年入仏供養を行った。薬師三尊像(市指定文化財)・十二神将像・伽藍神像などを安置する。(海蔵寺略縁起)

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_22392596.jpg
十六の井
薬師堂裏手の岩窟内にある。岩窟の床面に縦横各4列、計16の丸穴があり水が湧き出している。井戸ではなく納骨穴とも、十六菩薩になぞらえたものとも言うが正確なことは不詳である。岩窟の正面奥壁には観音菩薩像と弘法大師像を祀る。他に嘉元4年(1306年)銘の阿弥陀三尊像板碑が壁面に安置されていたが鎌倉国宝館に寄託されている(Wikipedia

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_22490632.jpg
底脱の井
この井戸は鎌倉十井の一つです。中世の武将の安達泰盛の娘・千代能がここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため「千代能が いただく桶の底脱けて 水たまらねば 月もやどらず」とうたったことからこの名がついたといわれています。井戸の底ではなく、心の底が抜けてわだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です(鎌倉市青年会議所)
鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_22501202.jpg
本堂裏の庭園、非公開ですが見事です

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_23092316.jpg
街道の風景② 街道は直進ですが、ガードの東側に寄り道/扇ヶ谷ガード

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_23140887.jpg
岩船地蔵堂/亀ヶ谷辻
亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝娘大姫を供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。木造地蔵尊の胎内の銘札にも『大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御皇女之守本尊也』 との記述があり、続けて元禄3年に堂を再建しあらたに本像を像立した旨が記されています。「北条九代記」にも許婚との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々がこの谷に野辺送りしたことが記されています。このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に今なおほのかに紅をさす木造地蔵尊を前立像として安置し供養いたしました。心ある方はどうぞご供養の合掌をなさってお通りください。(海蔵寺)

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_23175521.jpg
薬王寺山門/扇ヶ谷


鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_23175906.jpg
薬王寺
もとは真言宗梅領山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。徳川3代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公供養塔や松山城主蒲生忠知公(家康の孫)の正室と息女の墓所があり、徳川、蒲生家と縁が深く寺門に三葉葵が用いられるなど格式の高い寺でした明治初期の廃仏稀釈により荒廃しましたが、後に日振、日照が再興に尽力し現山容を整えました。本堂正面の日蓮座像は第11代将軍家斉の命により幕府が建立、説法形の口を開けた珍しい像です。(鎌倉市)

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_23373708.jpg
駿河大納言忠長公供養塔
駿河大納言忠長公(3代将軍家光公弟)は粗暴な性格を理由に高崎に幽閉されたのち、28歳で自刃せられ所領も没収された。悲嘆やるかたない奥方松孝院殿(織田信長次男信雄の息女)は。時の当山3世恵眼院日垙上人に懇願し、悲惨な最期を遂げた夫君忠長公の供養を法華経により営み、追善供養のため当供養塔を建立した(説明板)

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_23393568.jpg
鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_23393978.jpg
釈迦堂                やぐら群
鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_23550320.jpg
薬王寺の高台から扇ヶ谷&鎌倉市中方向の景観、右手が源氏山になります

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_23495024.jpg
街道の風景③ 鎌倉七口の一つ「亀ヶ谷坂」越えると山ノ内です

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_23502685.jpg
国指定史跡 亀ヶ谷坂
この道は亀ガ谷山ノ内を結ぶ亀ヶ谷坂と呼ばれる切通です。切通しとは山を開いて造られて道のことで、交通を容易にするとともに防御の拠点ともなっていました。亀ヶ谷坂が造られた正確な時期はわかりませんが、13世紀の中頃には整備されていたようです。「吾妻鏡」によれば幕府が鎌倉市内の7箇所の商業区域の一つとして「亀ヶ谷辻」を指定しており、建長寺や円覚寺などの大寺院が建立された山ノ内と鎌倉市中を結ぶ亀ヶ谷坂は経済的にも軍事的にも重要な場所だったことがわかります。江戸時代には「鎌倉七口」の一つに数えられるようになり、現在も生活道路として利用されています。(鎌倉市教育委員会)

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_00295170.jpg
相馬師常墓やぐら/扇ヶ谷

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_00314674.jpg
史跡相馬師常墓やぐら
このやぐらは古くから相馬師常(もろつね)の墓と伝えられ、地元の人々に厚く保護されてきました。玄室(げんしつ)の平面形は矩形で、羨道(せんどう)を有し奥壁の中央部には切石で塞がれた大きな龕(がん・仏像を納めるため岩壁を掘りくぼめた場所)があります。龕の前に宝篋印塔が立ち、奥壁左隅の小龕の中には一石五輪塔が置かれています。相馬師常は鎌倉幕府草創期の有力御家人の千葉常胤(つねたね)の次男で、相馬氏、治承4年(1180)父・常胤とともに源頼朝の挙兵に加わり、文治5年(1189)に欧州征伐に随うなど多くの戦功をあげています。本やぐらは閉塞された大形の龕を持つ特色のある形態であり、保存状態も良好で当初の姿を良く伝えているとともに被葬者が知られることが極めて稀な「やぐら」にあって、有力御家人の墓と伝えられるなど資料的にも価値の高いものです。(鎌倉市教育委員会)

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_00330722.jpg
相馬次郎師常之墓
師常は千葉介常胤の第二子にして相馬氏の跡を継ぎ、巽荒神のあたりに邸宅を構えていたが、元久2年(12051115日に67歳で正座し、合掌して決定往生を遂げ、その結縁を求めて僧俗あらゆる人々が集まったという。岩窟の中の宝篋印塔は師常の墓である(鎌倉町青年団)

相馬師常
(もろつね)
千葉氏の庶流。相馬氏初代当主。千葉常胤の子。伝承によると師常は平将門の子孫である信田師国の養子となりその遺領を相続したと伝わる。父と共に源頼朝挙兵に参加し頼朝の弟・源範頼の軍勢に従って各地を転戦した。文治5年(1189)には奥州合戦に参加しその功により頼朝から「八幡大菩薩」の旗を賜ったという。建仁元年(1201)父・常胤が亡くなったために出家し、家督を嫡男の相馬義胤に譲る。出家後は法然の弟子になったと言われている。元久2年(1205年)鎌倉相馬邸の屋敷で端座し、念仏を唱えながら臨終したという。その信心厚い性格から信望の厚かった師常の最期は鎌倉の民衆たちから見取られたと言われている。1879年師常を祀る「相馬神社」が福島県相馬市に建立されたWikipedia


鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_00355373.jpg
藤谷黄門遺跡 (ふじがやつこうもん)/ 浄光明寺入口
冷泉為相卿は為家の子なり 従二位中納言となる 和歌所の事に由り 兄為氏と争論の末 その母阿仏尼と共に鎌倉に来たり幕府に訴ふ 遂に藤谷に寓し 藤谷殿と称せらる 藤谷百首と呼び世に伝承せらるる和歌は 此地にて詠出せられし者なり 網引地蔵は其の建立に係ると云う 卿の墓は其の山の頂に在り 五輪塔にして 月巌寺殿玄国昌久の八字を刻せんと謂うも 今は漫滅(摩滅)して字体を弁ぜず(鎌倉町青年団)

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_13334581.jpg
浄光明寺山門/扇ヶ谷

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_13340091.jpg
浄光明寺
扇ガ谷にある真言宗泉涌寺派の寺院。山号は泉谷山(せんこくざん)。本尊は阿弥陀如来である。北条氏や足利氏とゆかりの深い寺院で足利尊氏は後醍醐天皇に対し挙兵する直前、当寺に籠っていたと伝える。新四国東国88ヶ所霊場の第82番。鎌倉七口のうちの亀ヶ谷坂(かめがやつさか)と化粧坂(けわいざか)にはさまれた扇ヶ谷の支谷・泉ヶ谷に位置する。山号の泉谷山はこの谷戸の名にちなむ。

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_23000530.jpg
寺伝によれば建長3年(1251年)頃、第5代執権北条時頼、第6代執権北条長時が開基となって創建したもので、開山(初代住持)は真阿(真聖国師)であった。それ以前、源頼朝の命により文覚上人の建てた草庵があったともいうが定かでない。長時は鎌倉幕府6代執権で、文永元年(1264年)36歳で死去し浄光明寺に葬られ以後、この寺は長時に始まる赤橋流北条氏菩提寺と位置づけられた。

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_23004832.png
山門を入ると客殿、庫裏、不動堂などがありその裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫(阿弥陀三尊像等)がある。さらに裏手狭い階段を上った先の山上には岩壁をうがった「やぐら」があり、内部に石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)が安置されている。そこからさらに登ったところには国の史跡に指定されている冷泉為相(れいぜいためすけ、鎌倉時代の歌人)の墓がある。境内は谷戸を雛壇状に造成した中世寺院の景観がよく保存されている。(Wikipedia


鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_13550010.jpg
鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_13550379.jpg
阿弥陀堂               やぐら群

赤橋流北条氏
鎌倉時代の北条氏の一族。赤橋家ともいう。始祖は北条重時(極楽寺流)の次男北条長時。極楽寺流のなかでは嫡流に当たる。長時が第6代執権となったほか、最後の執権(第16代)守時をも出すなど、北条氏の一族では、得宗家に次ぐ高い家格を有しており、得宗家の当主以外では赤橋流北条氏の当主だけが元服時に将軍を烏帽子親としてその一字を与えられる特権を許されていた。屋敷が赤橋(現在の太鼓橋)にあったため「赤橋」を名乗ったと言われている。Wikipedia

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_13575032.jpg
大伴神主家墓所
大伴家は鎌倉時代以来明治維新に至るまで鶴岡八幡宮神主を代々務め、その墓は室町時代の文明年間以降、当寺に営まれるようになりました。墓所は鳥居を浮彫にした江戸時代の(しゃく)型墓碑3基あり、神道特有の墓として貴重です。市史跡(浄光明寺)

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_13590591.jpg
石造地蔵菩薩坐像(網引地蔵)
鎌倉屈指の石仏で、漁師の網に懸かり海から引き上げられたとの伝承から網引地蔵と呼ばれています。背中の銘文に当寺第三世長老性正和尚が正和2年(1313)に供養した事が記され、冷泉為相によって造立されたとも伝えられています。(浄光明寺)

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_14010959.jpg

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_14525297.jpg
国指定冷泉為相墓
冷泉為相(ためすけ)は藤原定家で、は「十六夜日記」の作者阿仏尼である。為相は歌学・連歌の道の造詣が深く、歌風は広く世に知られている。永仁3年(1295)鎌倉に下り、嘉歴3年(1328)この地に没した。この宝篋印塔は相輪が欠けているが、南北朝のころの形式をよく伝えている。なお、玉垣は德川(水戸)光圀が寄進したものである。(文部省・神奈川県教育委員会)
鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_14120153.jpg
冷泉為相墓より泉ヶ谷&鎌倉市中の景観 

鎌倉街道上道(5-2)藤沢~鎌倉02-扇ヶ谷①_d0183387_15452096.png
扇ヶ谷周辺マップ
(赤:鎌倉街道上道 紫:鎌倉街道中路 橙:亀ヶ谷坂 黄:段葛)

by Twalking | 2017-06-25 23:13 | 鎌倉街道(新規)

<< 夕焼け キョウチクトウ >>