無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり新宿~四谷02-四谷   

日時 2017.7.6(木)
天気 晴れ

甲州街道は麴町台地の上を行きますが、
この辺りは両側に谷戸が入り込んだ地形、
坂道が多い所です。

それに外濠の造成で移された寺社が多く
ちょっとした寺町が形成されています。
坂とお寺、散策には面白い所ですね。



・・・四谷

今日四谷地区という明確に線引きされた地区が存在するわけではないが、行政サービスに於いては新宿区四谷特別出張所管区域界、四谷警察署管轄区域を指し、これらはほぼ新宿区発足直前の旧四谷区域に準じている。他にも四谷の総鎮守である須賀神社の氏子区域とする見方もあり、実際にはおよそ旧四谷区域のうち新宿区地区と明治神宮外苑一帯をのぞいた地区(おおむね、靖国通り(北)・JR線(南東)・外苑西通り(西)に囲まれた地区とその周辺)の総称である。(Wikipedia


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街道の風景① 外苑西通りを越えると四谷です/四谷4丁目

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長善寺(笹寺)山門
/四谷


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長善寺(笹寺)
新宿区四谷にある曹洞宗の寺院。甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名・武田信玄の家臣であった高坂昌信が天正3年(1575)に建てたを起源とするが、開山の憐学は寛永9年(1632)に没していることからそれまでには寺院として成立していたものと思われる。同寺は江戸幕府により寛永11年(1634)以降に四谷の地に寺院が多く移る前から、同地に開かれていた寺院ということになる。長善寺は別名笹寺とも呼ばれ、これは二代将軍の德川秀忠ないしは三代将軍徳川家光のどちらかが名づけたとも言われているが確証はない。いずれにしても境内に笹が繁っていたことに由来するという見方が有力である。本尊の釈迦尿来像は元禄年間の作で寺宝となっている。「めのう観音」(新宿区指定文化財)は徳川秀忠の字念仏であったとも伝わる。また、同寺には「四谷勧進角力始祖」と刻まれた大きな石碑がある。これは江戸時代の伝説的な力士・明石志賀之助が寛永元年に境内で6日間の相撲興行をしたのを記念して作られたものである(Wikipedia

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長善寺(笹寺)のめのう観音像
赤めのうで彫られた珍しい観世音菩薩像である。像高4.9cmの小像であるが容貌は豊麗で精密な作品である。黄銅製の光背が付され、宝形造の屋根をもち、正面下に蓮華、左右下部に笹寺に因んだ笹の浮彫りがある台座に安置されている。本像は二代将軍徳川秀忠の念持仏を夫人の祟源院から賜ったものと伝えられている。(新宿区教育委員会)

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江戸名所図会 篠寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


・・・左門町


左門町は江戸時代には鶴屋南北による怪談話『東海道四谷怪談』に登場する「お岩」が居住していた地としても知られている。当地には「お岩」を祀った於岩稲荷が存在するが、史実としてお岩自身は一般的に「四谷怪談」で知られるような恐ろしい女性ではなく、大変仲睦まじい夫婦であり良く働き家庭を支え続けた健気な女性であったといわれている。地名の由来はこの地に江戸幕府の千手組組頭・諏訪左門組屋敷があったことにちなんでいる。(Wikipedia

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四谷於岩稲荷田宮神社鳥居/左門町


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田宮稲荷神社跡(東京都旧跡)
文化文政期に江戸文化は爛熟期に達しいわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北(金井三笑の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文政12年(18291127日歿)も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祀ったお岩稲荷神社旧地である。物語は文政10年(182710月名主茂八郎が町の伝説を集録して町奉行に提出した。「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治5年ごろお岩神社を田宮稲荷改称し、火災で一時移転(中央区新川の四谷於岩稲荷田宮神社)したが、昭和27年再びここに移転したものである。(東京都教育委員会)

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陽運寺山門/左門町


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由来の事
江戸時代、文政87月歌舞伎戯作者四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が世に喧伝され、於岩様庶民の畏敬を受け当山その由縁の所として現在に至ったが、戦災に遇い協議の上本堂を栃木下野から薬師堂を移築再建した。棟札には宝暦7年とある。於岩様の戒名は得證院妙念日正大姉、墓は元鮫ヶ橋にあったが、現在は移転し巣鴨新庚申塚(妙行寺)にある。当堂内には於岩様御尊像奉祀され参拝者祈願の対象となり境内には由縁の井戸、再建記念碑等がある(陽運寺)

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お岩さま縁の井戸           お岩稲荷霊堂再建記念碑

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お岩稲荷
現在、四谷左門町には於岩稲荷田宮神社於岩稲荷陽運寺が道を挟んで両側にある。また、中央区新川にも於岩稲荷田宮神社がある。四谷の於岩稲荷田宮神社(田宮家跡地)は明治12年(1879)の火災によって焼失して中央区新川移った。新川の於岩稲荷田宮神社は戦災で焼失したが戦後再建され、また四谷の旧地にも再興された。また、陽運寺は昭和初期に創建された日蓮宗の寺院であるが、境内に「お岩さま縁の井戸」がある。元々は於岩稲荷田宮神社が中央区新川に移転した際、地元の名物が無くなって困った地元の有志が「四谷お岩稲荷保存会」を立ち上げ、この時本部に祀ったお岩尊という小祠が大きくなったのが陽雲寺の成り立ちである。お岩稲荷が複数もできる要因としては単純に儲かるから。歌舞伎俳優は元より、お岩の浮気に対して見せた怨念から、男の浮気封じに効くとして花柳界からの信仰を集めたため賽銭の他に土産物などで地元経済が潤ったからである。なお、お岩の「お墓」が巣鴨の妙行寺(明治時代に四谷から移転)にある。恐らくは2代目田宮伊右衛門の妻の墓だろうと推測される(Wikipedia


・・・須賀町

最初に須賀町が成立したのは1872年(明治5年)のことであった。その後1878年(明治11年)四谷区が成立して「四谷須賀町」となり、1911(明治44年)には四谷の冠が外されて現在の名称「須賀町」となった。地名は町域内の須賀神社に由来する。(Wikipedia

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本性寺山門/須賀町

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本性寺
日蓮宗。八の日が縁日で戦前までは四谷の毘沙門様として賑わいをみせていました。毘沙門堂の建築年代は言い伝えによると元禄頃とされているが明らかではありません。礼堂と毘沙門堂からなり、礼堂は桁行(間口)二間、梁間(奥行き)三間、屋根は入母屋造りで瓦葺、向拝(入り口のひさし)一間付き。東側に一間通りの下屋をおろしています。毘沙門堂は桁行二間、梁間二間、屋根は切妻造、瓦葺、礼堂に向かって土扉が開かれる。山門は毘沙門堂と同じ頃の建立と伝えられています。形式は薬医門、瓦葺、袖塀潜戸付きです。冠木上に架かる男梁(冠木に直角に交叉する長い梁)や虹梁を二重にした堂々たる山門である。塙保己一の師で国学者の萩原宗固の墓もあります。(新宿区観光振興協会)

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本性院と北向き開運毘沙門天
平等山本性寺の宗旨は日蓮宗。下総國小平宿平賀(千葉県松戸市)本土寺末寺で、設立の縁起は家康の江戸入府に従って来た三河の郷土三田佐兵衛尉守綱(妙傳院殿蓮向日香大居士)が麹町9丁目あたり営んでいた隠居所を寛永18年(1641)観智院日泳上人に譲渡し、三田氏の没後寛文10年(1670)その菩提を弔うため本性院が設立されました。この山門と正面にある毘沙門堂は戦災に焼け残った四谷では数少ない貴重な建築物である。双方とも総ケヤキ、釘を一本も使わない切組造り手斧削りで建造年代は元禄頃とされている。毘沙門堂に安置されている毘沙門天像はもと江戸城本丸にあったもので太田道灌時代から伝わっているとされ、五代将軍綱吉の側室春麗院殿の発願により堂とともに本寺に寄進された。この像は別名 「北向き毘沙門天」といわれ徳川家康が北方の仙台伊達氏が謀反を起こさぬよう北方の守護神・毘沙門天を北向きに安置して祈願したという伝説がある。以来江戸庶民の尊崇を集め、福運財運のご利益が顕著なので開運毘沙門天として一般の篤い帰依と信仰の的となっております。(説明板)

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萩原宗固の墓(新宿区指定文化財)
江戸時代中期の国学者・歌人は萩原宗固(1703-84)の墓地。平成6年に改葬整備され、宗固の養父母の墓石が並べて建てられている。宗固は市ヶ谷本村町の生まれ。享保から天明(1716-1780年代)に国学者・歌人として活躍し、門人として国学者で「群書類従」を編纂した塙保己一や老中として寛政の改革を断行した白河藩主松平定信など著名な人物を養成した。特に塙保己一(1746-1821)は「群書類従」の編纂に宗固の蔵書等を参考にするなど大きな影響を受けたという。宗固は四谷左門町・荒木町に居住するなど新宿とのつながりの深い学者である。(新宿区教育委員会)

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須賀神社参道/須賀町
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須賀神社鳥居

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須賀神社
旧社格は郷社。四谷18ヵ町の総鎮守。神紋は「抱き稲に左三つ巴」。江戸時代には四谷鎮守の天王様として信仰を集めた。主祭神は須佐之男命(須賀大神)、宇迦能御魂命(稲荷大神)。主祭神の左右には五男神(天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、熊野樟日命、活津彦根命)、三女神(多紀理姫命、市杵島姫命、多岐都姫命)が祀られている。須賀神社の始まりは寛永11年(1634)赤坂一ツ木村の清水谷にあった稲荷神社を江戸外堀普請のため四谷に遷座したことであるとされる。寛永14年(1637)日本橋大伝馬町の鎮守として神田明神摂社に祀られていた牛頭天王(須佐之男命と習合)を合祀したことにより江戸時代には「稲荷天王」「四谷牛頭天王社」と称されていたが、明治元年(1868)の神仏分離により社号を改めた。今も授与品の茅の輪守や近隣の地名(天王坂(東福院坂)天王横丁)などから往時の信仰を偲ぶことができる。須賀神社には新宿区指定有形文化財(絵画)に指定されている三十六歌仙絵がある。この絵は天保7年(1836)に大岡雲峰の絵と千種有功の書により製作、奉納された。(Wikipedia

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須賀神社の三十六歌仙絵
三十六歌仙は平安時代中期の公卿藤原公任(966-1041)が、過去および同時代の優れた歌人三十六人を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・小野小町ら33名が選ばれている。須賀神社の三十六歌仙絵は三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55cm、横37cmの絹地に彩色したものを額装の上社殿内に掲げている。当時画家として高名だった四谷大番町(大京町)の旗本大岡雲峰(1764-1848)の絵と和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(1797-1854)の書により、天保7年(1836)に完成・奉納されたものである。四谷の総鎮守として信仰を集めた須賀神社の隆盛を物語る文化財の一つである。(新宿区教育委員会)

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江戸名所図会 四谷牛頭天王社 
(
わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


・・・若葉

町内の谷筋一帯は戦前まで鮫河橋(さめがはし)と呼ばれ、江戸時代初期には火葬場の所在地であった。江戸時代から続く「三大貧民窟」の一つで代々木の非人頭久兵衛の支配下にあった。なお、江戸時代には貧民街、つまりスラムは若葉に存在していないし、代々木の非人久兵衛の支配下は現在の代々木である。(塩見鮮一郎『弾左衛門とその時代』)
「若葉」の地名は、東京都制が施行された1943(昭和18年)それまでの「鮫河橋谷町」や「元鮫河橋南町」などの町名を廃止して新たに制定されたものである。Wikipedia

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坂下                 坂上の東福院

東福院坂 (天王坂)
坂の途中にある阿詳山東福院に因んでこう呼ばれた。別名の天王坂は明治以前の須賀神社が牛頭天王社と称していたため、この辺りが天王横町と呼ばれていたことによる。(新宿区教育委員会)

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愛染院山門/若葉

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愛染院案内
山号:獨鈷山光明寺 本尊:大日如来 宗派:真言宗豊山派 総本山:長谷寺(奈良県桜井市初瀬)宗祖:弘法大師(空海)
文政寺社書上に拠れば「当時開闢之儀は人王52代嵯峨天皇御宇弘仁年中弘法大師関東弘法之為当国に一宇御建立今之麻布善福寺之地也然に当院は右奥之院にて御守本尊五指量愛染尊を安置し大日如来よりは祖相承の獨鈷を納め給故に山号を獨鈷山と申候。愛染尊は秘法にて不能住職之僧も拝其後星霜相移り年月相知れ不申候」と伝えて、その由来することの頗る古きを語て、慶長当時の開山正斎(寛永15125日寂)はその中興と称して居る(昭和9年発行の四谷区史)

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高松喜六の墓
内藤新宿の生みの親高松喜六は、もとは喜兵衛といい浅草の名主であった。喜六は当時甲州街道の最初の宿場が日本橋を出発して四里余り(約16km)の高井戸であり、大変不便であったので元禄10年(1679)同志4人とともに幕府に内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。翌年許可がおり喜六は宿場開設資金5600両を納め問屋・本陣を経営した。正徳3年(17138月に没したが、高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。墓石は高さ80cmで右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常と刻まれている。(新宿区教育委員会)

塙保己一の墓

「群書類従」の編者として名高い江戸時代中期の国学者塙保己一は、延享3年(1746)現在の埼玉県児玉郡保木野村に生まれた。姓は萩野、幼名は辰之助といった。5歳で病にかかり、7歳で失明したが13歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門下となりその本姓塙をもらった。優れた記憶力を認められ学問を許され、国学・漢学・和歌・医学などを学んだ。特に国学では賀茂真淵に学び、造詣を深めた。天明3年(1783)検校となり、水戸藩の「大日本史」の校正なども手がけた。寛政5年(1793)には和学講談所を開設し、幕府の援助も受け書籍の収集と門人の指導にあたった。文政2年(1819)群書類従を完成させ、同4年(1821)には総検校となったが、同年9月「続群書類従」の編纂なかばで没した。享年76歳であった。墓所は最初近くの安楽寺に造られたが明治31年(1898)廃寺となり、愛染院に改葬された。墓石は高さ103cmである。(新宿区教育委員会)


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西念寺山門/若葉

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西念寺
専称山西念寺は1593年(文禄2年)麹町清水谷に、服部半蔵正成により開山されました。服部半蔵は徳川家康の重臣で、槍の名人、忍びの達人として知られております。家康には築山御前との間に武勇に勝れる長子信康がありましたが、それゆえに織田信長の目を引く所となり、信長は愛娘を嫁がせ一族とし二女がありました。しかし、それでも織田家は信康への警戒心を解くことができず、噂にすぎぬ信康の乱心を理由にその義父でありながら信長は、信康の切腹を家康に要求しました(この時21歳)。家康は断腸の思いで天下人信長の非常な命令に従い、最愛の子に切腹を言い渡しました。その介錯を任ぜられたのが服部半蔵でした。が、いかに主君の命とはいえついにその手を下すことができなかった半蔵は、このことから世の無常を感じまた信康の冥福を祈るため仏門に入りました。1590年(天正18年)家康は江戸に入り江戸城を築き、幕府を置くことになりました。半蔵も主君に随伴しましたが、信康の霊を弔うため剃髪し名を西念と号し麹町清水谷に庵居を設け、遠州以来捧持していた信康の遺髪をそこに埋めて専称念仏の日々を送りました。1593年(文禄2年)半蔵は家康より、信康の霊および徳川家忠魂の冥福を祈念するため一宇建立の内命を受け、金500両を賜ったと記録されております。しかし、寺院建立を果たさず文禄41114日、55歳で逝去しました。法名は「専称院殿易安誉西念大禅定門」。その後、同所に一宇の建立がなりましたが、山号と寺号はこの法名からとり「専称山安養院西念寺」となりました。1634年(寛永11年)幕府の政策により、江戸城外堀の新設工事のため全ての寺院の移転が命じられ、現在地に移転しました。1945年戦火で全焼失しましたが、昭和3611月本堂を再建しました。(西念寺縁起)

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服部半蔵の墓
服部半蔵(1542-96)は本名を正成といい徳川家康の三河以来の旧臣で、家康十六将の一人に数えられる武将である。「鬼の半蔵」として知られ元亀3年(1572)三方ヶ原の戦い、天正18年(1590)小田原攻めで功をあげ知行8000石を賜り、同年の家康の入城後は江戸城西門近くに居を構え城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。半蔵は天正7年(1579)家康の長男信康が切腹する介錯役を命じられた。しかしこれを果たせず、晩年、信康の菩提をとむらうため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し仏門に帰依した。文禄2年(1593)には家康から寺院を建立するよう内命を受けたが慶長元年」(159611月、55歳で没した。西念寺は半蔵の没後完成し、寛永11年(1634)江戸城の外堀拡張・新設の際現在地に移転したものである。(新宿区教育委員会)

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岡崎三郎信康供養塔
西念寺を開山した服部半蔵が徳川家康の長男・信康(岡崎三郎信康)の菩提をとむらうため文禄2年(1593)に建立した五輪塔形の供養塔で高さは269cmである。信康は永禄2年(1559)に生まれ、幼少時は今川家の人質として駿府で過ごした。永禄10年(1567)に岡崎に帰り、織田信長の娘をめとり、元亀元年(1570)に岡崎城主となったが、天正7年(1579)に武田勝頼と内通したとの嫌疑により家康から切腹を命じられた。服部半蔵はこの時介錯を果たせず、後に信康の供養のため出家した。なお、西念寺には「岡崎信康廟修補記」が残されており、文化11年(1814)に補修が行われたことがわかる。(新宿区教育委員会)

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街道の風景② 外濠通りを渡ると四谷駅です/四谷1丁目

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街道の風景③ 四谷見附橋を渡り、振り返って見る景色です/四谷駅前

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四谷見附橋
麹町六丁目から新宿区に通じる麹町大通り(新宿通り)にある橋です。大正2年(1913910日に始めて架設した橋で長さ38.6m、幅22mでした。東宮御所(現迎賓館)の近くなので橋の装飾にフランス式手法を採用するなど豪華な橋でした。現在の橋は平成3年(1991)に完成、長さ44.4m、幅40mの鋼橋です。その際JR四ッ谷駅舎が改築され、駅前広場も整備され四ッ谷見附橋一帯は面目を一新しました。(千代田区観光協会)

四谷見附橋遺構(長池公園)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23582343/

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四谷3丁目付近マップ(赤:甲州街道(新宿通り) 橙:歩行ルート)



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資料ファイル

四谷見附

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四ツ谷駅麴町口に残る石垣


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国史跡 
江戸城外堀跡・四谷見附
四谷見附は外麹町口、四谷口門、山手御門などとも呼ばれ、江戸時代には半蔵門を起点とする甲州道中にあり、江戸城の西の玄関口として江戸城防御のための城門でした。寛永13(1636)に長州萩藩主毛利秀就によって城門石垣が作られ、寛永16(1639)が建築されました。その構造は現在の新四谷見附橋に高麗門を置き、右折する位置に渡櫓を配置した枡形門でした。また、明治初期の写真によると高麗門左手の石垣上には稲荷が置かれ樹木が植えられていました。この門は明治5年(1872)に渡櫓が撤廃され、明治32(1899))枡形石垣の多くが撤去され現在は一部しか残っていません。四谷駅麹町口やこの広場の発掘調査によってかっての枡形門の跡をイメージするため黒色タイルの舗装によって範囲を示しました。(千代田区)
写真:四谷門/Wikipedia

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新四谷見附橋
江戸時代、江戸城外郭門の一つ四谷門のあった所です。この橋も寛永年間(16241644)に始めて架けられた橋といわれています。古くは四谷見附門橋といわれていました。JR四ッ谷駅の北側を六番町・麹町六丁目から新宿区に通じる橋です。橋を渡る右手前(千代田区側)には四谷門の枡形の石垣の一部が残されています。現在の橋は大正14年(19251025日に架設、長さ38.9m、幅16.4mの鋼橋です。この橋と市ヶ谷橋との間の市ヶ谷濠は新四ッ谷見附橋寄り約半分が埋め立てられ、外濠総合グラウンドその他になっています。またこの橋の上流も喰違見附跡まで埋め立てられていますから新四谷見附橋や次の四谷見附橋は陸橋になっています。(千代田区観光協会)


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国指定史跡・江戸城外堀跡
江戸城外郭の堀跡である。JR中央線に沿い飯田橋から市ヶ谷・四谷を経て赤坂見附方面に延びており現在、水を湛えているのは飯田橋~市ヶ谷間、市ヶ谷~四谷間の一部と赤坂見附の弁慶堀だけである。3代将軍徳川家光の命により寛永131636)江戸城最後の大修築工事としてこの外堀が造られた。神田川赤坂溜池など自然の水利を活用し神田川~溜池間は新たにが造成された。現在、国指定史跡に指定されているのはその範囲で新宿・千代田・港の3区の境界にあたる地域である。堀普請は奥羽・関東の諸大名が普請を命じられ、主に市ヶ谷長延寺谷などの自然の地形を活用し、掘り取られた土砂は九段・麹町・番町などで土塁を築いたり築地・佃島を造成するため江戸湾埋め立てるのに利用した。また、現在の飯田橋付近に設けられた神楽河岸までは神田川を利用して江戸湾から船が運航できた。外堀には要所に10箇所(城門)が設けられ西国の諸大名が普請を命じられた。このうち史跡内にあるものは牛込見附(飯田橋駅西口)・市ヶ谷見附(市ヶ谷駅前)・四谷見附(四ツ谷駅麹町口)・喰違見附(迎賓館~紀尾井町間)・赤坂見5つである。見附には敵の直進を防ぐため進路を互い違いにした喰い違いや2つの門を組み合わせた枡形が造られ、番所を設けて門番を置いた。明治以後、外堀の一部は甲武鉄道(現在のJR中央線)の敷地となり、第二次大戦後四ツ谷駅周辺は埋め立てられ外濠公園や上智大学のグランドとして使用されている。なお、営団地下鉄丸ノ内線の新宿~池袋間が開通しここ四ツ谷駅が開業したのは昭和343月のことである。

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四谷見附
四谷見附は山口藩主毛利秀就が普請を命じられ寛永16年(1639)完成した。城門は現在のJR四ツ谷駅麹町口付近にあったが、明治5年に撤去され現在は石垣がのこるだけである。当時の四谷見附は、現在の新宿区設四谷小売市場前の橋(当時は土橋)から城門を経て出入りする構造で、現在の四谷見附橋は無かった。従って、新宿方面からの甲州街道は外堀に突き当たり左折し、すぐ右折して土橋を渡って江戸城外郭に入る。明治以後、このような喰い違い構造が交通に障害となったため明治44年四谷見附橋建設が着工され大正2年に完成した(平成3年に架け替え)(丸ノ内線四ツ谷駅案内板)

外濠(四谷~水道橋)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21934262/

外濠(筋違い・赤坂見附)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21880874/

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四谷見附交差点から麴町方向の景観/新宿通り

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四谷(歴史)
江戸時代以前には後の内藤新宿町のあたりまでを含めて潮踏の里(しおふみのさと)、あるいは潮干の里(しおほしのさと)、よつやの原などと呼ばれるすすき原であった。「よつや」という言葉が文献上に初めて登場するのは1590(天正18年)に内藤清成が記述した『天正日記』である。その後徳川家康が甲州街道と青梅街道を設置した際、その途中に設けられたのが四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)でこれが地名としてはじめてつけられた「四谷」である。1634年江戸城西北に外堀を設置することになり、立ち退きを余儀なくされた麹町地区寺社群が四谷地区に移転しはじめた。須賀町・若葉二丁目(かつての寺町・南寺町)一帯に寺院が多く見られるのはこの集団移転によるものである。外堀が完成したのは1636年。堀の岸は石垣で築かれ、併せて見附(警備のための城門)が設けられた。今日JR四ッ谷駅付近に見られる四谷見附跡(千代田区六番町)は当時の名残のひとつである。寺院の周辺には門前町屋が軒を並べ商人職人の活動が栄えた。これに加え1657年の明暦の大火は江戸市街の三分の二を焼失するほどの規模だったため、大火を逃れ四谷地区などの外堀周辺に移り住んだ人も少なくなかったといわれている。四谷地区は徐々に江戸市中に組み込まれ郊外地区から都市部へと変貌していった。1894年甲武鉄道(現在のJR中央線)の市街地延伸(すでに立川-新宿間は開通済み)により四ツ谷駅と信濃町駅が開業。原材料や商品の輸送が容易になり、眞崎鉛筆(三菱鉛筆の前身)や岩井商会・村井商会の煙草など四谷地区の製造業は飛躍的に発展した。(Wikipedia


by Twalking | 2017-07-12 11:51 | 東京散歩(新規)

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