無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 柴又界隈-『TOKYOウオーク2017』   

日時 2017.7.8(土)
天気 晴れ

TOKYOウオーク-柴又の手伝いに行ってきました。
ここはなんといっても帝釈天と寅さんですね。
調べたら旧佐倉街道も通っていました。

早く出て下見を兼ねて主要な所を歩いてみましたが
歴史のある街、下町風情があって面白いですね。
渡しに乗って対岸も良さそうです。

真夏日のウオーク、江戸川土手は仕方ありませんが
木陰に入るとホット一息です。無理しないように
様子を見ながら歩きましたが、無事終わってよかったです。


・・・柴又/葛飾区


古くから題経寺柴又帝釈天)の門前町として知られていたが、映画『男はつらいよ』の舞台となったことでさらに広く認知されるようになった。江戸川の西岸に位置し、対岸の松戸市・矢切地区とを結ぶ渡し船「矢切の渡し」の渡し場がある。概ね住宅地からなり、北には金町が隣接し北東に金町浄水場が立地する。東は江戸川の対岸に千葉県の下矢切、南に鎌倉、西に高砂と新宿がある。帝釈天界隈は環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。
Wikipedia

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「寅さん」像と「見送るさくら」像が迎えてくれます/柴又駅前

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柴又帝釈天参道
柴又という地名は極めて古い。奈良の正倉院文書「養老5年(721下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」の中に嶋俣(しままた)とあり、42戸の家と370人の住民がいたことが既に記されている。現在の柴又という文字が文献にあらわれるのは江戸時代の正保元年(1644)「正保改定国図」が初めてである。(案内板)


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人車鉄道
明治32年(1899)葛飾に人車鉄道という珍しい交通機関が誕生した。常磐線金町駅前から柴又・帝釈天までの約1.4kmをハッピ姿の押夫が、定員6名の人車を汗をふきふき押すというのんびりした乗り物であった。(案内板)

下総国葛飾郡大嶋郷戸籍
721
年(養老5年)に作成された「正倉院古文書正集第21巻」に収録されたもので、奈良・東大寺の正倉院に残存する古代の戸籍のひとつ。資料によれば大嶋郷は甲和里、仲村里、嶋俣里からなる郷となっている。律令国家では690年(持統天皇4年)の庚寅年籍(こういんのねんじゃく)の後、50戸を単位として里別に戸籍を作成してきたが、715年(霊亀元年)に郷里制を施行してそれまでの里を郷と称して、郷を約3つの里に区分した。そして従来の里長(郷長)に加えて里正を置いて行政の末端を強化し班田収受や課役徴収を効率的に行える体制を整えた。この戸籍中に姓は「孔王部(あなほべ)」名は「刀良(とら)」という33歳の男性と、別の世帯に同姓の「佐久良賣(さくらめ)」という34歳の女性の名がある。これらが映画「男はつらいよ」の主人公とその妹と同じ名ということで話題になった。
比定地としては、江戸川区小岩、葛飾区水元小合町、同区柴又のいずれも太日川(江戸川)の自然堤防上。埼玉県幸手市(旧・上高野村)の甲和里、杉戸町(旧・下高野村及び大島村)の仲村里、久喜市(旧・鷲宮村)字穴辺の嶋俣里の地域などの説がある。Wikipedia

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柴又八幡神社/柴又

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柴又八幡神社
「新編武蔵風土記稿」柴又村の条に「八幡社 村ノ鎮守ナリ 真勝院持」、「東京府志料」柴又村の条には「柴又八幡神社 村ノ鎮守ナリ。末社四宇アリ。社地九十坪」とある。柴又は「正倉院文書」の「養老5年(721下総国葛飾郡大島郷戸籍」に見える<島俣里>に比定される古地名であり、当社の本殿古墳の上に建てられている。社殿は寛永10年(1633)・宝暦3年(1753)・天明7年(1787)・寛政11年(1856)・大正15年・昭和2年・同7年の再建または修築を経て、昭和435月現在の社殿が造営された。(葛飾区教育委員会)
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鳥俣塚

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柴又八幡神社の古文石室
柴又八幡神社の社殿裏手に古墳の石組らしきものが露呈していたことから、いつのころか古墳ではないかといわれてきました。昭和40年(1965)から何度も調査を行った結果、今の社殿を中心として直径20mから30mの規模を存する円墳であることがわかり、社殿裏手の石組は遺体を安置する石室であるこことが判明しました。古墳の周りには溝が掘られ、円筒埴輪や人物や馬などの形象埴輪がめぐらされていたこともわかりました。出土した遺物は埴輪のほか直刀・馬具・鉄鏃・須恵器などがあり、出土遺物から古墳時代後期(6世紀後半)に構築されたものと考えられます。平成14年この古墳周りにはりめぐらされた溝から「寅さん埴輪」が出土しました。東京低地では石室を伴う古墳は本例のみで、この地域の古墳文化を研究するうえで貴重な考古学資料です。(葛飾区教育委員会)

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柴又帝釈天参道

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柴又帝釈天参道
京成電鉄柴又駅前から参道が伸びている。参道の両側には名物の草だんごや塩せんべいを売る店、老舗の川魚料理店などが軒を連ねている。参道の突き当たりに二天門が建ち、正面に帝釈堂、右に祖師堂(旧本堂)その右手前に釈迦堂(開山堂)本堂裏手に大客殿などが建つ。境内はさほど広くなく建物は大部分が明治以降の建築である。
Wikipedia

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柴又帝釈天二天門
二天門
明治29年(1896)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである。Wikipedia

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帝釈堂

二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915)、拝殿はッ昭和4年(1929)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されているWikipedia

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柴又帝釈天
正式名称は経栄山題経寺(だいきょうじ)である。旧本山は大本山中山法華経寺。親師法縁。なお「帝釈天」とは本来の意味では仏教の守護神である天部の一つを指すが、地元では題経寺の略称として用られることも多い。江戸時代初期の寛永6年(1629)に禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』を始め多くの文芸作品に登場し東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として扱われた。

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20世紀後半以降は人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるが、当寺の日蓮宗寺院としての本尊は帝釈天ではなく、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。(Wikipedia

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祖師堂(本堂)
帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。


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釈迦堂(開山堂)
江戸時代末期に建立された寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と開山日栄・中興の祖日敬の木像を安置する。Wikipedia



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邃渓園(すいけいえん)
大客殿前に広がる池泉式庭園で、昭和40年(1965)向島の庭師永井楽山の設計による。庭園への立ち入りは禁止されているが、周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができるWikipedia



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東京都選定歴史的建造物
設計者:大工棟梁 鈴木源治郎 建築年:昭和4年(1929帝釈天題経寺は寛永年間に創建された日蓮宗の寺院で、境内には文化・文政の頃の釈迦堂をはじめ明治以降に建てられた諸堂が多く現存する。北側の和風庭園(邃渓園・すいけいえん)に面した大客殿は、信徒の接待所として設計された建物で昭和4(1929)に完成した。この年には釈迦堂拝殿の造営も行われている。建物は木造、平屋建、総檜造りで屋根は入母屋、桟瓦葦き。ガラス障子の広縁を巡らし、縁の正面中央に張り出し部分を設けているところが外観上の特徴である。建物内部は四部屋からなる書院造りで、一番奥の頂経の間が上段の間である。天井には杉の一枚板を鏡板に用い、折上げ部分に漆を塗っている。また、床の間には近江の伊吹山山麓にあった「日本一」と言われる大南天の床柱がある。(東京都生活文化局)

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帝釈天出現由来碑
この碑は安永8年(1779)題経寺本堂改修の時発見した日蓮上人自刻の帝釈天板本尊を後世に伝えるため、弘化2年(1845)俳人・鈴木松什および壇徒・石渡忠右衛門等などが協力しその由来を記し併せて帝釈天の功徳を述べている。碑の総高は1.48m、撰文は宮沢雉神遊、書は荻原翬、刻者は窪世昌である。題経寺縁起の整ったものは明治29年(1896)に作成されたが本碑はそれ以前における由緒資料として貴重である。(葛飾区立教育委員会)

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山本亭
建築された年は不明であるが、大正末期から昭和初期に作られたとされている。浅草でカメラの部品を製造していた合資会社山本工場が関東大震災で被害を受けたため、柴又に移転した際に瓦業者の屋敷の跡となっていたものを取得し、改修したものである。山本家が4代に渡って住んでいたが、1988年に葛飾区の所有となり1991年から一般公開された。Wikipedia

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江戸川の風景① いい流れですね~、すぐ上流に「矢切の渡し」場があります/柴又公園

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柴又公園
柴又公園は日本庭園のある山本亭や寅さん記念館を含み、葛飾区の観光名所の一つになっています。また、江戸川河川敷の広場はレクリエーション・スポーツの場として利用されています。(葛飾区)


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矢切の渡し
矢切の地名は江戸川の渡し舟として有名な矢切の渡しの由来でもある。江戸川をはさむ矢切と葛飾区柴又を結んでおり、現在も渡し舟が運行されている。「房総の魅力500選」に選定されているほか柴又帝釈天界隈とともに環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。この渡しは江戸時代初期に江戸幕府が地元民のために設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちのひとつであり、観光用途に設けられたものではない。かつては官営だったがその後民営となり、代々個人により運営されている。この渡しが日本全国に有名になったのは、明治時代の伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906年)によるところが大きい。また、矢切の対岸柴又を舞台とする映画「男はつらいよ」シリーズの作中にもしばしば登場する。Wikipedia)

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柴又観光マップ


・・・北小岩/
江戸川区


江戸川区北東部に位置し同区の最北端にあたる。周辺の西小岩、東小岩、南小岩との総称で「小岩」と呼称することもある。町域の大半に住宅市街地が広がり、町域を南北に分断する形で京成電鉄の線路が東西に走る。江戸川河川敷には小岩緑地があるが鉄道橋を除いて対岸の千葉県と連絡する橋は北小岩が接する江戸川沿い約2km
で国道14号の市川橋のみである。(Wikipedia

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江戸川の風景② この少し下流から江戸川区、対岸は松戸市になります/北総線江戸川橋梁

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北総線
葛飾区の京成高砂駅と千葉県印西市の印旛日本医大駅を結ぶ北総鉄道が運営する鉄道路線である。京成高砂駅を出ると高架橋へと上がり、大きく左へカーブして高架のシェルターを抜けると新柴又駅へと到着する。住宅地を抜けると江戸川橋梁を渡り松戸市へと入るが田園風景が広がる。線路はすぐに下総台地の下に掘られた栗山トンネルへ進入し矢切駅へと至る。この先北国分駅-松飛台駅間は地形上、台地と低地が入り組む谷津田(丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形)が多いためトンネルと高架が連続する高低差の大きい線形となる。(Wikipedia

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八幡神社鳥居/北小岩

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八幡神社
祭神は誉田別尊、相殿に倉稲魂尊をまつっています。創建は不詳ですが、元禄8年(1695)の記録には神社の名がみられます。



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地蔵菩薩像庚申塔(戸川区登録有形民俗文化財)
この地蔵は、詩人として知られる北原白秋縁の三谷の地にあって三谷地蔵として親しまれ、現在は境内右奥にある社務所の中に安置されています。銘文から万治元年(1658)庚申供養のために造立したことが知られます。庚申塔は、60日に1度めぐってくる庚申の日の夜に、眠っている人の体内から三尸という虫が天帝に罪過を告げ命を縮めるという中国の道教の教えに由来する庚申信仰の信者によって建てられました。

北原白秋の歌碑
いつしかに 夏のあわれと なりにけり 乾草小屋の 桃色の月
明治から昭和にかけて高雅な詩や歌で有名な北原白秋(18851942)は、大正5年(191632歳の時)7月から約1年間、妻章子とともにこの小岩村字三谷の乾草商富田家の離れに居を構えました。ここを「紫烟草舎」(現在、市川市里見公園内に復元建設)と名付け、葛飾の風土や刃傷に見守られながら、短歌雑誌「煙草の花」を創刊したり数多い短歌や詩、小品集などの素材を得ました。昭和36年(1961)地元小岩町(現在の北小岩)の人びとは、白秋がこの江戸川べりの農村に住み、風物を愛したことをしのび八幡神社の境内に彼の歌碑を建てました。(江戸川区教育委員会)


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小岩3中から小岩公園を経て旧佐倉街道へ向かいます

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上小岩井親水緑道
北小岩地域を中央に流れていた北小岩川は明治11年に農業用水路として開削されたのち、市街化が進む中で、家庭からの排水が流れ込む排水路となりましたが、蓋をかけて歩行者用通路として地域の方々に利用されてきました。その後、下水道整備により、その役割は終えましたが、その跡地を利用して、四季を感じさせる樹木を植え、小川のせせらぎを演出した上小岩親水緑道を整備しました。また、このあたりは、弥生時代後期から古墳時代にかけての史跡(上小岩遺跡群)が見つかっており、上小岩遺跡のモニュメントや土器が描かれたマンホールを設置しています。(江戸川区)

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旧佐倉街道を新柴又駅方向へ向かいます/北小岩

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親水さくら街道
この道は江戸時代「佐倉街道」と呼ばれ、千住より小岩を経て千葉、佐倉に至る参勤交代の道筋として、江戸末期には成田詣りの道として利用されてきました。また、明治時代になると長年水不足に苦しんでいた農民のため、石井善兵衛氏が中心となり江戸川の水を取り入れ灌漑用水路を完成させました。その後、農業用水路から排水路となり下水道整備によって役目を終えたため、このような歴史的由緒ある水路を活かしつつ桜並木の美しい散策路として親水さくらかいどうを整備しました。(江戸川区)

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佐倉街道
江戸時代の脇往還の一つで佐倉城を終点とするもの。江戸時代史ではその2つの佐倉街道を区別するために便宜上、水戸街道新宿の追分~佐倉を結ぶ佐倉街道を「水戸佐倉道」、寒川湊(現在の千葉港)と佐倉を結ぶ佐倉街道を「千葉佐倉道」と呼び分ける場合がある。江戸幕府が公式に「佐倉道」「佐倉街道」と命名したのは水戸街道新宿から佐倉城までの街道。しかしこの街道を経由して成田山新勝寺へ向かう成田参詣が隆盛するに従い文化年間頃より「成田道」「成田街道」という愛称で呼ばれるようになった。現在千葉道路愛称名により「成田街道」と呼ばれているのはこの江戸幕府公式の佐倉街道のことである。東京都内については水戸街道の新宿追分より南方に分岐して新金線・京成金町線・北総鉄道・柴又街道と順次交差しリフレ京成新柴又店北側道路を経て江戸川土手に至る。千葉県に渡ったのちは市川宿船橋宿大和田宿(八千代市)・臼井宿(佐倉市)を経て目的地の佐倉に至る。その延長線上に芝山を経て九十九里浜あるいは多古を経て佐原に至る多古街道があり、酒々井で左折すると酒々井宿(佐々井町)を経て成田に至る成田道が続いていた。(Wikipedia


・・・鎌倉
/葛飾区

もと鎌倉新田といい正保改定図に初見される。1499年(明応8年)の板曼荼羅が発掘され曼荼羅村とも呼ばれた。1889年(明治22年)南葛飾郡奥戸村の所属となり奥戸村大字鎌倉となる。1930年(昭和5年)には奥戸村が町制施行し奥戸町へ移行、1932年(昭和7年)奥戸町が東京市に編入され大字鎌倉は葛飾区鎌倉町となり昭和41年の住居表示で現在に至る。地名は
いくつかの言い伝えがあり、相模国鎌倉郡にある鎌倉八幡宮から勧請して八幡宮をこの地に置いたのでついた説、相模国鎌倉郡から来た源右衛門がこの地を開発したことからついた説などがある。Wikipedia

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東稲荷神社鳥居/鎌倉

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東稲荷神社
祭神は倉稲魂命。「新編武蔵風土記稿」鎌倉新田の条に、稲荷社ニ宇、同新田浄光院の持とするうちの一社で、鎌倉三丁目の「赤稲荷神社」に対して、「東の稲荷」と呼ばれている。(葛飾区)



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鎌倉公園
鎌倉公園にはプール、遊具、野草園があり、子どもから大人まで楽しめます。鎌倉公園に隣接する北総線高架下の鎌倉児童遊園は遊具コーナーとなっています。(葛飾区)

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柴又街道を帝釈天参道へと向かいます/新柴又駅先


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新柴又駅               帝釈天参道信号


都道307号王子金町江戸川線

北区王子駅前から江戸川区南篠崎町2丁目に至る主要地方道である。柴又街道は金町三丁目交差点-終点までの愛称。Wikipedia

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TOKYOウオーク・子供ウオークコースマップ(5km)

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TOKYOウオーク・スターティング風景/柴又公園 

『TOKYOウオーク2017』の概要・日程等はこちらへ(http://www.tokyo-walk.jp/

by Twalking | 2017-07-14 19:34 | 東京散歩(新規)

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