無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(2)狛江~田園調布 01-大蔵   

日時 2017.7.29(土)
天気 晴れ


曇りの予報なので出かけました。
品川道を狛江から田園調布あたりまで。
この辺りは登戸道や大山道で尋ねたところです。

でも、道筋が違うのでまた感じが違います。
国分寺崖線の上を行く品川道、ハケ下が筏道ですが、
ハケ上を行ってみました。


・・・東和泉(狛江市)

狛江市の南部に位置し小田急線小田原が通過している。北から時計回りに和泉本町1丁目、岩戸北3丁目・岩戸南1丁目、緒方134丁目、多摩川を挟んで川崎市多摩区登戸、元和泉31丁目と接する。Wikipedia

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街道の風景① 狛江通りの1本西側に旧道が残ります/東和泉

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庚申塔のある二差路を左へ       合流地に「品川道」の標識/狛江三叉路

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街道の風景② この植え込みは六郷用水の名残のようです/一の橋(世田谷通り)

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一の橋へ/狛江三叉路         二の橋を右へ/世田谷通り

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慶岸寺山門/
岩戸北


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慶岸寺
除地、境内共三段、中央より三町を隔てて北の方にあり、榮氷山道安院と號す、浄土宗、郡内喜多見村慶元寺の末、開山然度正保二年四月十五日遷化、開基は村民河合氏とのみ傳へり、客殿東向、七間に五間半 本尊弥陀木の坐像一尺五寸を安せり。地蔵堂。客殿の東にあり、二間に一尺西向き本尊地蔵は木の坐像一尺八寸、厨子入にて彩色を施せり』(新編武蔵風土記稿)


・・・喜多見(世田谷区)

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街道の風景③ 二差路に念仏車と庚申塔の祠、品川道は直進です

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念仏車/喜多見
旧岩戸村(現東京都狛江市岩戸)とのに近い「いかだ通」と「中通」の交差した地点にある。念仏車とは念仏を唱えながら廻すものであり、一回廻す毎にお経を一巻読んだと同じ功徳があるとされ、念仏の功徳をより効率良く広めるものとして造立されたと考えられる。当地の念仏車には石造四角柱の上部に六角形の車輪が取り付けられており、各面に六字名号の各字が刻まれている。銘文によるとこの念仏車は文政4年(182111月喜多見郷の「女念仏講中」によって建てられた。

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念仏講は女性のみによって構成される場合がままあり、このような念仏講による地蔵等の造立例が区内でも幾つか認められる。しかし区内で近世以前に造立された念仏車の遺例は他に見られないのでこの念仏車は近世世田谷の女性による信仰の遺跡としてはかなり貴重な例といえる。またこの念仏車の傍らの小祠には元禄5年(1692)の庚申塔、並びに享保4年(1719)の地蔵が安置されており、近世の喜多見村における民間信仰の面影を今に留めている。(世田谷区教育委員会)

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知行院山門/喜多見

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龍寳山常楽寺知行院
本尊は薬師如来で延暦寺の末寺、文明頃(146987)の草創で天正16年(1588)頼存法印が中興開山といわれる。喜多見若狭守勝忠が館の鬼門除けの祈願所として不動明王、閻魔大王をもあわせ祀り、除地若干を寄進した。また
須賀神社別当寺でもあった。慶安2年(1649)江戸幕府より寺領八石二斗余の朱印状を受け幕末におよんだ。明治6年本堂を喜多見小学校(現在の砧小学校)の仮校舎として使用した。(世田谷区教育委員会)

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街道の風景④ 知行院門前で登戸道と交差します/喜多見


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二差路を直進             多摩堤通りを右折し新井橋へ

登戸道(喜多見)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23022006/


・・・大蔵


『江戸名所図会』は延暦期に武蔵国守兼大蔵卿石川豊人が居住していたことを由来とする。1240年(仁治元年)安達景盛次男兼周石井郷を拝領して石井氏を名乗り、現在に至るまで旧家として残る。永享の乱で鎌倉を逃げ延びた二階堂盛秀の子秀高(清仙上人)が1490年(延徳2年)鎌倉大蔵ヶ谷にあった永安寺を同じ地名のここ大蔵再建した。16世紀には吉良頼康の所領で1557年(弘治3年)大平氏に給付された。1633年(寛永10年)彦根藩領となる。江戸時代後期には国学者石井至毅を輩出した。1889年(明治22年)砧村の大字となる。1936年(昭和11年)に世田谷区が成立した際、大蔵町となる。
Wikipedia

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川の風景① 野川を渡ります、上流側の風景です/荒井橋(多摩堤通り)

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東名を潜ります            先を左折して永安寺へ


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永安寺山門/
大蔵


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永安寺
当寺院は、元々当地に建立されたものではなく室町時代に鎌倉公方となった足利氏満 (足利基氏の子)が没したのち、その菩提寺として足利氏満法号から「永安寺」と称した寺院を、応永5(1398)鎌倉の二階堂大蔵谷の地に建立したものが起源になっている。開創当初は天台宗ではなく臨済宗で読みも「ようあんじ」であった。その後鎌倉公方4代目であった足利持氏が永享の乱で敗れ永享11(1439)にこの永安寺において多くの家臣とともに自害した。その後この永安寺も廃れたが、持氏の遺命で家臣であった二階堂信濃守の子で清仙上人が延徳2(1490)に鎌倉の大蔵谷に似た地名であった武蔵国中丸郷大蔵村(現在の世田谷区大蔵)の地に寺院を再建し、名前も同じ「永安寺」とした。これが当寺院の直接的な起源である。その後、天正年間に良深大和尚によって臨済宗から天台宗に改められた。また、明暦年間に法印乗海大和尚によって本堂などが整えられて中興され、現在の永安寺の基礎と言えるものが出来た。現在の本堂は昭和に入ってからで1960年のもの。本堂左手の墓地には江戸幕府書物奉行石井至毅一家累代の墓がある。Wikipedia

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本堂の特色
天台宗本堂堂としての特長が内陣の来迎柱や内陣と外陣の大虹梁(だいこうりょう)によく表れています。平面形式の大きな特色は柱と柱の間を一間六尺(約1.82m)ではなく、二間十五尺(約4.55m)の半分7.5尺を採用しているためとても伸びやかで明るい空間になっています。(説明板)

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不動堂(旧薬師堂)          開山堂長春殿

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せたがや百景-
大蔵の永安寺

山門を入ると樹齢数百年といわれる大イチョウがある。永安寺は室町時代鎌倉の大蔵谷に建てられたものが、地形も地名も似たここに再建されたと伝えられている。本堂右側には江戸幕府のころ書物奉行を務めていた石井一族の墓がある。6代目兼重(かねしげ)は世田谷地域での図書館の始まりとなった「玉川文庫」を創ったので知られている。(せたがや百景)


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大蔵氷川神社鳥居/大蔵

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大蔵氷川神社
祭神:素盞嗚尊 例祭:102
暦仁元年(1238)に江戸氏が埼玉県大宮市の氷川神社を勧請したものと伝えられる。もと大蔵町の永安寺別当であった。永禄8年(1565)の棟札には「武蔵国荏原郡石井土郷大蔵村氷川大明神第四ノ宮」と記されていた。明暦2年(1656)に再建され文政(1818-30)の初めにも本殿および拝殿が再建された。(世田谷区教育委員会)

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大蔵氷川神社本殿並びに棟札
現存する最も古い年記のある棟札は何の目的で奉納されたのかは不明であるが、明暦2年(1656)のもので、これを含めて11枚の棟札がありうち社殿造営に関するもの4枚、鳥居に関するもの4枚、その他奉納金や上棟祭などに関するものが3枚となっている。社殿造営に関しては延宝3年(1675)、元禄6年(1693)にそれぞれ「氷川大明神社頭一宇」と記された棟札が一枚ずつあり、その後文政3年(1820)の幣殿建立と同7年(1824)の本殿再建の棟札がある。幣殿は現存していないが現在の本殿はこの文政七年再建のもので昭和63年に再建された社殿の中に納められている。社殿の造営関係の棟札の他に鳥居の造立やその他の奉納に関する奉納札がある。うち2枚は木製の鳥居の造営と修復について、他2枚は寛政7年(1795)の石華表(石鳥居)と石灯籠、湯立釜の奉納札、文化8年(1811)の石華表とその額、石灯籠の奉納札である。その他にも文化8年(1811)には奉納金として三両三分が納められその金子を元に土地を買い求めていることが記された奉納札などが残されており、これらの一連の棟札は社殿の造営のみならず村社としての氷川神社の変遷や当時の庶民の信仰を知ることができる貴重な史料である。本殿は一間社殿造の様式を持ち屋根は柿葺、総欅造りである。正面に向拝が配されその下には木階五級が付けられる。木階下には浜縁が三面に廻り身舎の四周には幅2尺の大床が付く。装飾は白木造りで、龍の丸彫をはじめ鮎や賢人の浮彫、籠彫が施されており社殿に華美な彫刻を施すという時代的特徴を良くあらわした建物である。棟札により建築年代のほか上平間村(現川崎市)の大工渡辺喜右衛門源棟暁が造営にあたり彫刻は渡辺徳次郎源棟績により行われたことが判る。このように本殿は江戸時代後期の時代的特徴をあらわし、一連の棟札は社殿の造営や神社の変遷を知るうえで貴重である。(世田谷区教育委員会)

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板絵着色大蔵氷川神社奉納絵図
奉納絵図は画面の下方を六郷用水(次大夫堀)が流れ、中央やや右よりに氷川神社社殿その前面に幟と二基の鳥居、画面左横には永安寺本堂や庫裏、観音堂の姿が描かれている。さらに鳥居に向かって右横に堀で囲まれた草葺の農家と土蔵が描かれているが、これが大蔵村名主を勤めた安藤家の屋敷である。六郷用水流域には川で洗い物をする婦人の姿や、子供をつれた村人らが描かれのどかな田園風景が描写されている。絵図背面の木地には寄進社29人の名と明治7113日の年紀が墨書され幕末から明治時代初年頃の情景を描いたものと推定できる。長期間社殿に懸けられていたため彩色の剥落が甚だしいが、墨線は良く残りまた胡粉・群青・緑青・茶などの顔料が幾分認められ当初はかなり鮮やかであったことが窺える。絵図の作者はわからないが描写は専門の絵師の筆とは見えない。いわゆる民画風の素朴な筆法で描かれ、たくましい墨線が随所に残る明治時代初期の民間風俗画の典型を示す。大蔵村民が寄進したためもあって画題に豊かな現実感があり、昔日の大蔵本村一帯の地勢を窺わしめるものとしてもまた貴重な資料である。(世田谷区教育委員会)

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街道の風景⑤ 品川道は永安寺裏の新坂を登ります、筏道はハケ下を直進します



・・・岡本

地名の岡本は長円寺の山号の岡本山(こうほんざん)からとって「おかもと」にしたとする説、鎌倉時代の武将木曽義仲に属していた岡本次郎成勝の出身地であることから付けられたとする説、丘陵起伏の多い地であることから岡本とつけられたとする説などがあります。(世田谷区)


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川の風景② 下ると仙川、ハケ下を流れます/清水橋

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仙川の清水橋を渡ります        庚申塔の祠を右折

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街道の風景⑥ なかなかいい道です。この先は東名沿いに岡本へ向かいます/大蔵運動公園下

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東名を渡り左折            下ると谷戸川の一の橋

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袂に庚申社が祀られています。
石碑に「当社の縁起は定かならざれども、新編武蔵風土記稿に庚申坂の名を記し、石像風化の状などより推して近郷屈指の古祠たる疑いなし」「祠前の道は耕地整理施行前には、東に庚申坂を登れば大山街道に通じ、西に庚申橋を渡れば府中方面に至って往来繁く、堂宇自ら道標として諸人頗る重宝せりと伝う」と記されています。

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川の風景③ 谷戸を流れる谷戸川、岡本は坂の多い街、面白そうです/四の橋

谷戸川

世田谷区を流れる河川。祖師大蔵駅周辺から南流し、砧公園を貫流、世田谷区岡本で丸子川に合流する。コンクリート護岸で整備されている。Wikipedia)

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長円寺境内/
岡本

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長円寺
岡本山安養院長円寺、新義真言宗智山派満願寺末、本尊は大日如来、木彫坐像。開山・開基は寺伝が失われてわからないが中興開基快誉は元文3(1738)1117日に寂している。現在の堂宇は昭和415月の建築になる。境内に門人らが建てた榎本金六の墓がある。金六は筑後(福岡県〉久留米藩の関流六伝藤田閑海の門人で和算の塾を聞き多くの門人を指導した。彼に学んだものはかなり広範囲で,横根村瀬田村用賀村喜多見村大蔵村経堂村奥沢村等々力村鎌田村等世田谷南西部9ケ村に及んでいる。法名春峰道悦信士弘化2(1845) 18日に没している。堂宇内に岡本村信者の寄附した元禄4629日銘の小梵鐘がある。高さ54cm直経34cm(せたがや社寺と史跡)



・・・瀬田

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街道の風景⑦ 大きな木とお地蔵さん、旧道の感じは残ります/瀬田 

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お地蔵さんの祠            環八を右折

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街道の風景⑧ 瀬田陸橋から西を望みます。右手が義眼寺経由、左手は行善寺経由の大山道です

大山街道善行寺坂Rの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22650910/

大山街道慈眼寺坂Rの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22627917/



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資料ファイル

六郷用水
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永安寺へ向かう品川道に次大夫堀跡が残ります/大蔵


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次大夫堀(六郷用水)の由来
慶長2年(1597)から15年もの歳月をかけて慶長16年(1611)に完成した次大夫堀は、多摩川の水を和泉村(現狛江市)で取り、野川・仙川などの河川と合流し多摩川沿いの武蔵国荏原郡世田谷領14ヶ村(和泉・猪方・岩戸・喜多見・大蔵・鎌田・岡本・瀬田・上野毛・下野毛・等々力・小山・上沼部・下沼部)を通り、下流の六郷領(現大田区)に注いでいました。次大夫堀は江戸の初め江戸近郊の開発を進めた徳川家康の命により、幕府の用水奉行小泉次大夫吉次の指揮・監督によって開削され、世田谷地方における最初の農業用灌漑用水路です。主に六郷領35ヶ村の水田開発を目的とした水利事業「六郷用水」と命名されましたが、婦女子の労働力に頼ったといわれる工事のため俗名「女堀」とも呼ばれていました。一方で世田谷地方の人々は小泉次大夫の功績を称えて六郷用水とは呼ばずに独自に「次大夫堀」と呼んでいました。

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全長23km、川崎側の煮二ヶ領用水との同時平行工事のため長期にわたる難工事となり、沿岸の農民の扶役も相当過重だったようです。しかし世田谷領、六郷領併せて49ヶ村は新田の造成等により大幅に村高が増加し大きな恩恵を受けました。このような由緒ある歴史を持ち玉川八景などにも謳われた美しい環境に流れていた次大夫堀も、戦後の急激な都市化によってその役割を終え、一部が「丸子川」と改称されて僅かに往時の面影を残すのみです。(世田谷区教育委員会)

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かつての六郷用水路(紫:六郷用水 青:多摩川)

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世田谷近辺の流路図
(紺:六郷用水 青:野川 赤:品川道・筏道 黄:登戸道 緑:大山道 橙:甲州街道・中原街道)

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次大夫堀流路図/説明板
(青:次大夫堀・野川・仙川・谷戸川 赤:品川道 橙・筏道 紫:登戸道 緑:大山道)

by Twalking | 2017-08-06 12:14 | 東京散歩(新規)

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