無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(2)狛江~田園調布 02-等々力   

日時 2017.7.29(土)
天気 曇り


瀬田から先は環八沿いの住宅地ですから、
街道歩きの妙味はあまりありませんが、
満願寺、九品仏などの古刹は外せない所です。

それに等々力渓谷ですね~、ここは素晴らしいです。
気分を変えるのにハケ下の筏道に寄りましたが
ここも面白いところだと思います。


・・・上野毛

世田谷区南西部に位置し玉川地域に属する。北で瀬田、東で中町、南で野毛、南西で多摩川を跨いで川崎市高津区北見方・諏訪、西で玉川と隣接する。駅周辺と環八通り沿いに商店街があり、南の多摩堤通り沿いが河川敷となっている他は主に住宅地として利用される。古く「ノゲ・ニゲ・ヌゲ・ナゲ」は「」を意味する言葉。当地が国分寺崖線にあり、その崖の上に当たる地域である事から「上野毛」とされた。
Wikipedia

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街道の風景① 環八の多摩美先を左折し旧道に入ります/上野毛

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上野毛通りと交差します。この道は二子からハケを上り目黒・渋谷に向かう鎌倉街道中道になります/上野毛交番裏

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川の風景① 上野毛から緩やかに下ると矢沢川と交差、この先が等々力渓谷です/等々力通り

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矢沢川                この先を右折し等々力駅先へ


・・・等々力


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等々力は江戸期以前は荏原郡等々力村であった。のち周辺の7ヶ村(用賀、瀬田、上野毛、下野毛、野良田、奥沢、尾山)と合併し玉川村(現在の世田谷区玉川地域)の一部となる。1923年(昭和7年)東京市域拡張時に世田ヶ谷町、駒沢町、松沢村と合併し「東京市世田谷区」となった。等々力村・玉川村時代、村役場は一貫して等々力にあった。世田谷区成立後は支所となり現在は玉川総合支所が置かれる。等々力の名は等々力渓谷に流れ落ちる「不動の滝」の轟く音に由来するという説が有名だが、ほかにも渓谷の崩落する音から来たという説、兎々呂城(「とどろじょう」のよみが「とどろき」と変化/現在の園芸高校の地)を由来とする説等がありいずれが正しいのかは詳らかではない。Wikipedia

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満願寺山門/等々力


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満願寺
本尊は大日如来(12寸の木像〉で真言宗智山派、京都智積院の末寺である。開山は文明2(1470)定栄和尚、開基は吉良氏で、深沢兎々巴城内にあったが天文18(1549)2世栄心和尚の代、現在地に移した。等々力の地名はこの兎々目域から出たという伝えがある。江戸時代でも御朱印寺領13石を与えられていた。第9世実祐和尚は柳沢出羽守に召され易経の講義をしている。本堂は宝暦13(1763)に再建したが昭和43年耐火建築に改築しつつある。本掌の額は細井広沢のむすこ九皐の筆である。寺内には細井広沢はじめ一族の墓があり、寺宝には広沢の書や版木等がある。

細井広沢
万治元年(1658)108日掛川に生れ寛文8(1668)11才で父に従って江戸に来、経史を林信篤に、和歌を清水谷実業に、兵学を木工源右衛門に、剣を堀内源太衛門、柔術を渋川伴五郎、槍術を南部宝蔵院、射法を石螢林斉に、騎術を大坪道雲に、天文測量を金子立運に学んだ。元禄6(1693)柳沢吉保に200石で用いられ、 15年辞職し深川八幡前で子弟の教授にあたった。広況は書家として時代を代表する有名人であった。大石良雄は主君の復讐の計画を広沢に告げ、打入の時に彼が用いた「君仇不倶戴宍」のことばはその助言によった。堀部安兵衛とは剣の同門で討入前夜には詩を贈って激励した。広沢は晩年多摩川を愛し、蕉林庵玉川の号を用いた。享保20(1735年〉江戸青山で逝去した。しきたりとして亡父の碑文を世つぎの人が作ることになっている。広沢の命日1223日には最近まで土地の青年会で試胆会を行なっていた。末寺には等々力不動堂、善養寺、金剛寺、覚願寺、真福寺がある。(せたがや社寺と史跡)


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満願寺薬師如来堂              満願寺沿いの庚申塔

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世田谷百景-等々力の満願寺

吉良氏によって創建された寺で等々力不動はこの寺の別院である。境内の建物は新しいが、整った荘厳さを持っており身がひきしまる。柳沢吉保に仕えた学者細井広沢の墓があり国の史跡に指定されている。(せたがや百景)


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江戸名所図会 満願寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


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玉川神社鳥居/等々力 

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玉川神社 
祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解命である。文亀年間に世田谷城主吉良頼康が勧請したものと伝え、明治41熊野神社の社号をいまの玉川神社に改め、字上原にあった伊勢宮(天祖神社)諏訪神社、字小山根にあった御嶽社を合祀した。なお、本社には天照大神・日本武尊、少彦名命、建御名方命が合祀されている。玉川神社の総本社である熊野新宮はもともと熊野に移住した出雲族が、郷里の氏神であったところの島根県八束郡八雲村字熊野にある熊野神社を分祀したもので、微々たる存在だったが平安中期に起った熊野信仰の隆盛と共に、朝廷以下一般の民衆の支持により全国的に信仰せられ、鎌倉時代には山伏や先達により全国に熊野神社が勧請され、特に武士に厚く信仰されるようになり、代々社寺を尊崇した吉良頼康も当村の流行でこの熊野神社を創立したものと思われる。

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境内にある「豊田正冶翁頌徳碑」の石碑は昭和29年に玉川全円耕地整理組合によって建てられたものである。豊田翁はこの地累代の名家に生まれ、学を杉浦重剛先生に受けその思想を実践した人で、玉川村村長として将来の郷土開発事業として玉川村全域の耕地整理、道路整備(宅地造成)に時価にして数十億の巨費と32年の歳月をかけいろいろな妨害や障害をのりこえて昭和32年に完成させた。現在、玉川村の人々が郊外住宅地として恩恵を受けているのは翁のおかげである。なお、その石碑と並んでいるのは、この耕地整理の技師、高屋直弘氏の留魂碑である。玉川神社の真南、等々力1-25にあった八幡社は玉川神社の管理であったが昭和39年玉川神社に合祀された。(せたがや社寺と史跡)


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川の風景② 清流と緑のオアシス、生き返ります/矢沢川

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等々力渓谷
等々力には23区内唯一の渓谷である等々力渓谷がある。等々力駅から等々力渓谷までゴルフ橋を通って徒歩2分ほどの場所にある。西側を矢沢川が流れこの川が渓谷を形成している。目黒通りが傍を通り、環八通りが渓谷の上に蓋をするように通っている。渓谷地内には古墳時代後期から奈良時代(7世紀後半-8世紀)のものと推定される横穴式墳墓があり「等々力渓谷横穴古墳」と呼ばれている。不動の滝の近くには平安時代に創建された「等々力不動尊」がある。Wikipedia

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等々力ゴルフリンクス
玉川野毛町公園とそこに隣接する国土交通省住宅、都営住宅の敷地は、戦前、目黒蒲田電鉄の経営する「等々力ゴルフリンクス」というゴルフ場であった。等々力駅前のゴルフ橋はその名残である。1931年にオープンしたが戦争の激化により1939年に政府に買収され内務省防空研究所が置かれた。戦後、一部に引揚者住宅が建設された時期もあったが環状8号線整備による道路拡幅に伴って施設の再配置が実施され、現状のように三分割されて今に至っている。Wikipedia

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等々力渓谷案内図

武蔵野の道-等々力渓谷の関連記事はこちらへhttp://teione.exblog.jp/21873742/


・・・尾山台

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世田谷区南部に位置し玉川地域に属する。西から北で等々力、東で奥沢、南東で玉川田園調布、南で大田区田園調布、南西で玉堤と接する。東急大井町線尾山台駅が置かれている。江戸中期には「小山村」とある。明治中期、同じ荏原郡にある小山(現在の武蔵小山)と紛らわしくなるため「尾山」と漢字を充て変えた。小山は国分寺崖線の高台・岡を指すものとされる。Wikipedia

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街道の風景② 等々力駅先を右折して住宅街を真っ直ぐに南へ/尾山台小

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寮の坂

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寮の坂由来
松高山傳乗寺は区内における古刹であり、その縁起は遠く後伏見天皇の正和5(1316)と刻まれた板碑の発掘によっても知られるものである。往昔傳乗寺は坂の東側台地に所在し、かつ本堂とならんで僧侶の学寮が建てられていたためにこの坂道を土地の人は寮の坂と呼んでいる。坂上にある民家の屋号が堂の上と通称されていたことと考え合わせるとこの坂の名称の由来が思い起こされる。

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なお、寮の坂の東側にある雙葉学園を抱く盆地は室町時代に籠谷戸と呼ばれる入江で多摩川の水が滔滔と打ち寄せ、時の奥沢城主太平出羽守は上流から運ばれた武器、兵糧の類を籠谷戸の寮の坂あたりに陸揚げして城へ運び入れたとも言い伝えられている。さらに時代は下り江戸時代に入ると、川崎泉沢寺と奥沢浄真寺の中間軍事拠点として小山傳乗寺がこれに当り、寮の坂は軍用道路として兵馬の往来がはげしかったそうである。(石碑)

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宇佐神社鳥居/尾山台


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宇佐神社
祭神は応神天皇で例祭は923日、境内末社として稲荷神社(倉稲魂命)御嶽神社(大己貴命・日本武之命・少名彦名之命)を祀る。村内に散在したものを明治年間に合祀したものである。神殿には狐塚から発掘した刀・土器片などを奉納してあるという。「新編武蔵風土記稿」によると「除地二段、村ノ中央一字根通リノ内ニアリ、社九尺ニ二間、南向、中二又宮作リノ社アリ、前二鳥居ヲタツ、両柱ノ間七尺、元禄十二年ノ夏、七世精蓮社進誉貞悦ノ時再造セントミエテ、ソノ時ノ棟札アリ、祭礼九月二十三日二行フ、伝乗寺持ナリ、注連引松二株アリ、向ヒテ鳥居ノ右ニアリ、囲尺一丈六七尺モ有ベシ、末社稲荷社向テ右ニアリ、上屋一間ニ一間半、神明社末社ヨリ東北ノ角ノ山ニアリ、南向ナリ」とある。「新編武蔵風土記稿」に大塚・字堂ノ上ニアリ、事跡ツマビラカナラズ」とあるものであろう。かつてこれを開墾した際埴輪・土偶・刀剣の類を出したという。前方後円墳であろうという。(せたがや社寺と史跡)

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伝乗寺山門/尾山台


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伝乗寺
次太夫堀(六郷用水)のほとり北側にある。松高山法生院と号し浄土宗で川崎市小田中の泉澤寺の末、開山は住誉良公和尚という。本尊は阿弥陀如来で木の坐像3尺(約1m)ばかりで板碑を数多く存している。『新編武蔵風土記稿』によれば「除地三段五畝、字根通ニアリ、(中略)本堂ハ六間二四間、南向ナリ。(中略)表門両柱ノ間9尺」と記している。寛政10年(1798)の西村和泉守作になる村念仏話中の伏鉦がある。享和2年(1802)に「さいの神」の火が移って焼失したことがあった。本堂は文化4年(18073月に庫裡は享和2年(18022月に建てられている。本寺の地蔵菩薩立像は頭部のみ古作で一木で保存もよく美しい。藤原期のもので胴体は後補である。小阿弥陀如来座像は鎌倉期のものである。(せたがや社寺と史跡)

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仁王門                   五重塔


・・・奥沢

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貞和頃から吉良氏の所領となり奥沢城が築かれた。江戸時代には荏原郡奥沢村となり、城の跡地には浄真寺が創建された。1622年(寛文2年)西の開墾地が奥沢新田村として分村した。天保頃には奥沢村が奥沢本村、奥沢新田村が奥沢村と称されるようになった。地名は吞川の支流九品仏川水源の湿地帯であることを指す。Wikipedia

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九品仏浄真寺参道/奥沢

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総門

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仁王門
建立は寛政5年(1793)で別名紫雲楼とも呼ばれ楼上には阿弥陀如来と二十五菩薩が安置される


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九品仏浄真寺
本尊は釈迦牟尼仏で浄土宗である。延宝6年(1678)珂碩上人が開いた寺で知恩院の末である。寺の結構がコの字型になっており、総門と本堂が反対を向いて並んでいるのは珍らしい。本堂には上人のほりあげた釈迦牟尼仏を中心に、右に善導大師、左に法然上人の像を安置している。中でも右側にある珂碩上人像は乾漆製の芸術価値の高いものである。堂の隅にはぴんずる尊者像がある。

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本堂は総欅造りで昭和42年修築しかや茸屋根を銅茸にかえた。本堂前にある三つの堂にはそれぞれ3体の丈六の阿弥陀如来9体があり、右から中品、上品、下品の位があるので九品仏といわれ本堂の此岸に対して彼岸をあらわしている。すべて珂碩上人と弟子珂憶上人の合作といわれている。4年毎(オリンピックの年)の81617日には「お面かぶり」の行事が行われる。これは釈尊が漫殻に入り、阿弥陀如来に迎えられて彼岸にわたる意味をあらわしている。山門は紫雲楼といい、楼上には25菩薩の像がある。鐘は、宝永5年(1793)世田谷領の深沢・谷岡又左衛門の寄進で、作は神田鍛冶町の河合兵部郷藤原周徳である。堂屋も欅造りで欄間には十二支がはられ北に子、南に午がほられている。寺宝には国宝級のものが多いが飛び茶釜は有名である。境内には天然記念物のカヤ、大銀杏、ケヤキ等あるが、ケヤキは枯れてしまった。上品堂の両側には菩提樹がある。境内の周囲の土塁は旧奥沢城の城塁といわれている。(せたがや社寺と史跡)

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三仏堂

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九品仏珂碩上人(161794)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられその彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも18歳で発願、51歳のとき完成した九体の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、未代衆生化益の尊い御仏像である。九体とも文化財の指定をうけ、上品堂(中央)・中品堂(右)・下品堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三体ずつ安置してある。上品堂のうち中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。

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中品堂、下品堂と同様でしたがって阿弥陀さまには上品上生から下品下生まで九つの名があり、それぞれ手の位置および印契が異なっている。なにゆえに阿弥陀さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、

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三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から段々念仏によって身と口と意の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃寺(九体寺)とともにわが国における東西の九品仏仏像の双璧である。


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開山堂                  閻魔堂

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江戸名所図会 奥沢村
浄真寺九品仏 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

創建の由来
当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念仏院浄真寺」といい、浄土宗に属し境内約12万m236千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年(1678)に奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経の説相によって堂塔を配置しこの寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を銅板葺に改修した。(説明板)

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奥沢城
奥沢城は吉良氏によって築かれたと言われる平城。世田谷城出城として用いられた。昭和62年(1987)に世田谷区の区指定史跡に指定されている。天文-永禄年間頃、吉良頼康により築かれ、家臣の大平氏が守った。天正18年(1590)小田原征伐の後廃城となった。延宝6年(1678珂碩(かせき)により九品仏浄真寺が開かれた。周囲の平野部に南の台地から北方に突き出た舌状台地上に占地し、台地上の九品仏浄真寺境内に方形の郭跡が認められる。九品仏駅前から台地東麓に掛けて城郭由来の地名が残ることから、城域は九品仏駅付近から台地端まで拡がっていたものと考えられる。また、現在は開発が進んで失われたが、城跡周囲には近年まで堀跡及び「奥沢の底なし田圃」と言われていた深田が拡がっていた。往時はこの堀と北麓の沼地とで、三方の守りを固める構えとなっていたものと考えられる。Wikipedia


・・・田園調布/
大田区


1918
年(大正7年)に実業家渋沢栄一らによって立ち上げられた『理想的な住宅地「田園都市」の開発』を目的とする田園都市株式会社により開発、1923年(大正12年)から分譲された地域であるである。現在の大部分の地域が第一種低層住居専用地域と第2種風致地区であり東京でも有数の高級住宅街である。大田区田園調布以外に田園調布本町(ほんちょう)、田園調布南の住所表記もあるが、旧「大森区田園調布」に相当する地域で、大田区田園調布の南側に位置する。また隣接する世田谷区側に玉川田園調布の表記があるが田園都市株式会社が多摩川台住宅地として田園調布と一体に造成・分譲を行った地域である。Wikipedia

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街道の風景③ この先東横線を右折環八にでます。今回はここまで、田園調布駅に向かいます/玉川田園調布

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すっかり変わりましたね・・・/田園調布駅

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こちらが北口             かつての駅舎が復元されてます

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次大夫堀流路図(2)/説明板
(青:六郷用水・野川・仙川・矢沢川 赤:品川道 橙:筏道 緑:大山街道 紫:中原街道)

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品川道(狛江~田園調布)ルート図

by Twalking | 2017-08-09 10:17 | 東京散歩(新規)

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