無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 平間街道(旧池上道)04-大井   

日時 2017.9.9(土)
天気 晴れ

品川道から鹿島神社に戻って平間道へ。
池上通りも昔の道ですが、旧道には
江戸名所図会に描かれた寺社が軒を並べます。

遺跡は出ていませんが「大井駅家」の有力地とか。
これだけ並べばそうかも知れませんね~・・・、
そんなことを思いながら訪ねてみました。


・・・大井/品川区


品川区の南東部に位置する。町域北辺は広町に、東部は東海道本線などの線路に接しこれを境に東大井・南大井に接する。南部は大田区山王に、西部は西大井に接する。町域東部を南北に池上通りが通っている。他に地域内に光学通り(西大井にあるニコンに由来)、滝王子通りが通っている。大井一丁目の北東端に大井町駅があり、駅前にビルや商店などが多く集まり、駅周辺は品川区でも有数の規模の商業地となっている。他に池上通り沿いに商店などが見られるほかは住宅地となっている。
Wikipedia

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街道の風景① 鹿島神社裏手から来迎院へ向う旧道/鹿島神社裏

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歴史
延喜式に東海道宿駅名として見える。和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)では荏原郡内に駅家郷が存在し当地に比定される。鎌倉時代には紀実春が土着して大井氏を名乗り大井郷と呼ばれた。江戸時代には鈴ヶ森刑場(南大井)が置かれた。1889年(明治22年)村制を施行した。1908年(明治41年)町制を施行して大井町となりこれが駅名に残る。1932年(昭和7年)東京市に編入され品川区の一部となり、大井は一帯の町名の冠称となった。1939年(昭和14年)沿岸が埋め立てられ、戦後、大井競馬場(勝島)や大井埠頭(八潮)が整備された。昭和39年住居表示により大井・南大井・東大井・西大井が成立した。地名は字義通り井戸に関係するともいわれるが定かではない。光福寺には由来とされる井戸が伝えられ、新編武蔵風土記稿は了海が1201年(建仁元年)出生時に湧き出て産湯に使われたものとするが、大井という地名は延喜式が成立した10世紀に已に存在しており矛盾する。(Wikipedia
(地図は『東京古道散歩』/萩窪圭氏著を参照しました)


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池上道と分かれ右折/鹿島神社     来迎院門前を直進、下ると水神社です

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鹿嶋神社鳥居/大井

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鹿嶋神社
『新編武蔵風土記稿』には鹿島社『江戸名所図会』には鹿島大明神社として紹介された。武甕槌神(タケミカヅチ)を祀る。同社社伝によると、安和2年(969919日に武蔵国荏原郡大井村字関ヶ原(現在の東大井6丁目)の常行三昧寺住職であった尊栄法印が常陸国鹿島神宮から分霊を勧請したことに始まり、同日、別当として来迎院を建立、慈覚大師(794- 864)がつくった薬師如来像を安置したという。常行三昧寺は江戸時代、1653年(承応2年)に大井から現在の南品川に移転した。

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1868年(明治元年)神仏分離令を受け来迎院と同一敷地内で分離、同社は大井村の村社、総鎮守と位置づけられた。来迎院は通称「お茶屋寺」と呼ばれる。古来より祭礼として相撲が奉納されており、渋谷氷川神社世田谷八幡宮と共に江戸郊外の三大相撲として知られていた。現在の社殿は1931年(昭和6年)に竣工した。旧社殿は1862年(文久2年)の造営で精巧を極めた鎌倉彫の彫刻が施されており、これを後世に伝えるため境内末社として移設して現存してある。(Wikipedia

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来迎院山門/大井


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来迎院
安和2年(969919日、南品川の常行三昧寺(現、常行寺)の住僧法印尊栄が現在の地に鹿島社(鹿島神社)を創立し、共に当寺を創建して常行寺の末寺とし鹿島示現山常住鶴林寺来迎院と称した。其の後当寺は無住となり大破したが、貞和3年(1347)に了覚法印という僧が来住して中興し示現山覚林寺観音院と改称した。江戸期に入って、この一帯は将軍の放鷹の地となり、将軍義光が鷹狩りのため当寺に来遊したとき、この附近の景色を賞して当寺の境内に休息所を建てた。家光は鷹狩りのつどこの休息所で休憩し正保年中には堀田加賀守が将軍に茶を献じたのでこの休息所は大井の御殿と呼ばれ、また当寺は御茶屋寺とも呼ばれている。また将軍義光は当寺の本尊薬師如来を厚く尊崇し、正保2年(1645)には42歳の厄年にあたって節分の日当寺に親しく参詣したと伝えられている。江戸期には当寺の境内は桜が多く植えられていたので、桜の名所として開花の時期には杖を引く者が多かったというが、近世に入って当寺は江戸郊外の風光のよい場所として知られ、将軍の来遊も得てその尊崇をうけたことが窺える。天保4年(1833)には上野寛永寺の塔頭涼泉院(廃寺)の住職が代々当寺の住職を兼務することとなりこのとき鹿島山来迎院と改称した。(品川区の文化財)

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境外地蔵堂
来迎院石造念仏講供養塔3/門前向い
江戸時代に盛んに行われた念仏講供養塔で、右側の堂内に2基、真ん中の堂との間に一基が建てられている。堂内の地蔵菩薩像を彫った舟形の二基の塔は明暦2年(1656)と万冶2年(1659)の造立で、

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堂外にある六字名号(南無阿弥陀佛)と彫った笠塔婆型の塔は寛文7年(1667)の造立である。いずれも江戸時代の初期に大井村に念仏講が存在していたことを示す資料として貴重である。この場所はもともと来迎院の境内であったが道路建設のために現在のようになっている。品川区指定文化財(品川区教育委員会)

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水神社鳥居/南大井

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水神社
水葉乃女命(ミヅハノメ)を祀る。武蔵野台地の末端に位置し湧水が豊富だった当地で、1685年(貞享2年)村民たちの手によって水神(九頭龍権現・くずりゅう)を祀ったのが始まりであるという。願主は桜井伊兵衛と大野忠左衛門であった。明治時代までは日照りになると村人がここへ集まって雨乞いをしていたと伝えられている。

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湧水は「柳の清水」と呼ばれ、歯痛を止めるのにも利益があったという。明治時代になると祭神は水葉乃女命に変わった。同社にちなみ同地域は「大井水神町」という町名であった(1963年町名変更)。1975年(昭和50年)前後までは水が湧き出ていたという。現在ではポンプで水をくみ上げている。1978年(昭和53年)品川区指定史跡、1988年(昭和63年)、しながわ百景(大井の水神社)に認定される(Wikipedia)

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街道の風景② 来迎院から住宅地を道なりに進むと左手に光福寺があります

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光福寺山門/大井


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光福寺
延暦元年(78211月、伝教大師の法脈を伝える性顕阿闍梨の弟子顕教房栄順律師の開創になるものと伝えられている。随って開創当初は神宮寺と呼ばれ天台宗であったが、その後文永2年(1265)に了海上人興してより浄土真宗となったと伝えられている。了海は東国に流されていた鳥羽院の皇胤信光の嫡男中将光政が荏原の住人実経の娘(一説では滋野井宰相の父)を娶って、設けた子と伝えられている。了海は当寺の境内にある井戸の井水を産湯としたといわれており、現在の大井の井戸と呼ばれる湧き水が当寺の境内にあり、品川区文化財に認定されている。この井戸があることによって当寺は大井山と呼ばれており、また大井の地名もこの井戸によって起こったものだといわれている。了海は建仁元年(1201)に生まれ幼名を松丸と呼ばれていたが、8歳のとき出家して覚円律師に仕えた。のち叡山に登って浄宋僧都の門に入った。その後親鸞に師事したが、この頃父光福も空範と号し親鸞の門に入って剃髪したので帰国して当寺を再興し、真宗に改め光福寺と改称したという。また了海は麻布善福寺をも開創したといわれている。
(品川区の文化財)
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江戸名所図会 弘福寺  (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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大井の井(品川区指定史跡)
この井戸には鎌倉時代に親鸞聖人門下の関東六老僧の一人として活躍した了海上人にまつわる話が残されている。寺伝によれば了海上人の父が子授けを蔵王権現に祈願したところ、妻が懐妊し男子(了海)を出産した。その時、境内にこつ然と泉が湧き出したのでこの泉の水を産湯として使い、泉を大井と命名したという。大井の地名はこの泉に由来すると伝えられている。この泉は当寺本堂裏の墓地内にあり、横穴式の古い型をした井戸で今でも水が湧き出している。(品川区教育委員会)

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江戸名所図会 大井 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景③ 品川道からの下り坂を横断して西光寺へ/光福寺先

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三社宮」の標柱がありましたので寄りましたが、詳しいことは分かりません

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西光寺山門/大井
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本堂と江戸名名所図会に描かれた兒桜

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西光寺
弘安9年(12683月栄順律師が開創した寺である。当時は天台宗であったがのち浄土真宗にかわった。浄土真宗に改宗した時期はわからない。当寺の歴世は、当寺に遺されている天明2年(1782)頃直筆の過去帳によると栄順以来世襲で継承されているので、開創直後に改宗したことが推察される。ただ6世は5世了証の子であるにも拘わらず心月律師となっているので一時期天台宗に復していたことも考えられる。その後慶長年中(1596-1615)に至って栄空が再興したといわれている。

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栄空は前述の過去帳では15世空善とされ、清原武則の長子で幼名を伯王丸と呼び父は北条氏康の幕下であったと記述されているが、当寺に記されている「芳賀氏系図」では栄空は芳賀出雲守定仲と呼び孝譲朝、天平勝宝5年(753)に下野国司となって芳賀郡に住んだ芳賀豊澄の子孫だといわれ、織田信長麾下の武将であったが信長の死後比叡山に隠れて出家し、3年後比叡山を下って当寺の住職になったといわれている。この系図によると定仲は武田信玄の家臣であった芳賀右近介定明(のちに入道して玄覚と呼ぶ)の子で定明は天目山の戦いで武田勝頼と共に戦死し、その子の定仲は織田信長に仕えたといわれている。当寺には前記の「過去帳」一冊、「芳賀氏系図」一巻のほか武田信玄が玄覚に与えた「感状」一通、徳川家康が玄覚に与えた「御教書」一通が、現在も遺されている。江戸時代には当寺も来迎院と同様桜の名所であったが、明治26年(18935月に当寺は火災に遇って本堂その他の建造物と桜の名木が焼けてしまっている。(品川区の文化財)

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西光寺石造供養塔(品川区指定文化財)
1)明暦元年・(1655)造立、地蔵菩薩彫刻の舟型、(2)寛文9(1669)造立、阿弥陀如来彫刻の舟型、(3)寛文13(1673)造立、阿弥陀如来彫刻の笠塔婆型の3基。(4)(2)は念仏講の女性が(3)は大井村の人々が造立したもの。(品川区の文化財)

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江戸名所図会 西光寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景④ 道が狭くなって曲がりくねってます。右の「作守稲荷神社」は薩摩藩島津家のお抱え屋敷にあった屋敷神だそうです

旧・薩摩鹿児島藩島津家抱屋敷跡/立会川駅・関ヶ原公園 
この付近より東海道線を越えた地域を含む広大な地は、鹿児島藩島津家の抱屋敷(万治2年(1658)買取)および抱地(天保3年(1832)取得)であった。敷地は約18千坪に及ぶ。安政3年(1856)当時、藩主島津斉彬の父で前藩主の斉興(松平大隈守)がこの抱屋敷で隠居生活を送っていたため、絵図上では「松平大隈守」と表記されている場合がある。慶応年間になり、大井村の平林九兵衛が島津家よりこの地を譲り受け、開墾して耕地にしたと伝えられている。安政2年(1855)頃の薩摩藩主島津薩摩守斉彬は778百石の家禄があり、上屋敷幸橋御門内(現・千代田区内幸町)にあった(品川区教育委員会)

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作守稲荷神社に沿って道なりに進むと池上通りにでます/大井三差路手前

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街道の風景⑤ 品川道は右折して南品川へ、古東海道は直進して目黒川居木橋方面に向ったようです/大井三差路

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大井三又地蔵/三つ又商店街入口
古く平安時代(7951185)にはこのあたりに十一面観音を祀った観音堂があったと伝えられる。その堂が戦乱により焼失したあとに、諸国行脚の高僧がこの辺りの地中から読経が聞こえてくるのを不思議に思い、掘ってみると地蔵菩薩像が出てきた。そのためこの場所に丁重に祀った。後に病気、災害の「身代わり地蔵」として庶民の信仰を集め、今でも線香が絶えることが無い。また、この場所は夏目雅子主演の映画「時代屋の女房」でも有名。(品川観光協会)

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街道の風景⑥ 見逃しましたがこの手前左手に庚申堂があります/大井三つ又先

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庚申
この庚申堂は昔庚申塚と呼ばれ、さらに古くは右大将頼朝卿が戦死諸兵供養の為に写経を埋められたので、その当時は納経塚といわれていた。後柏原帝の文亀元年(1501年前)梅巌というお坊さんがこの塚の傍を通られると、土中より読経の声を聞かれて仏体を掘出された。当時内乱で行方知れずであった來福寺(東大井三丁目)の本尊延命地蔵尊であることがわかり寺に迎えて再び安置された。その為にこのご本尊は別名経読地蔵尊といわれるようになった。戦後地元有志の方々が堂を建立された。現在も來福寺所管の境外仏堂で縁日は毎月1日・10日・20日。尚毎年「かのえさる」の日に庚申祭りの修法をいたします(所管寺院来福寺)

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坂下は立会道路、道は消えてます    右は大井町駅です

立会道路

立会道路は立会川に蓋を掛け下水道として整備されていた川の上に道路や花と緑の親しめる緑道が整備された。立会川の名称をとって立会道路と呼ばれている。延長4760(品川区)


・・・広町/品川区

品川区の地理的中央部に位置する。北で大崎、北東で目黒川を境に北品川、東で南品川、南で大井、西で西品川と接する。東京総合車両センターと工場が目立っており、間を埋めるように住宅が並ぶ。北東には目黒川が流れる(Wikipedia

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街道の風景⑦ 道は消えてますので区役所通りを居木橋へ向かいます/区役所通り

区役所通り
昭和43年に区役所が現在の場所に移転したため交通量が増大し、区内の主要道路のひとつとなった。この通りの一部は都道だが区役所までの案内を含め名称を区役所通りとした。(品川区)

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東急ガードを右折           区役所通りを下ります/中央公園

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東京総合車両センター/広町
東京総合車両センターは旧大井工場が1915年新橋から現在地に移転。旧山手電車区も1964年大崎電車区として現在地にて着工し1985年山手電車区と名称変更、20046月に山手電車区と大井工場と統合して発足した。JR東日本の車両基地・車両工場で国鉄時代から東京地区の電車の検修・改造などを行っている。山手線を走る全ての電車に対し日夜定期検査や臨時修繕などを行い始発にそなえている。15万平方メートルの敷地に550の車両を収容。
地名の由来・権現台
大井村にある蔵王権現が祀られてた権現台に続く場所であったことからこう呼ばれた。現在の東京総合車両センターのあたり。(品川観光協会)

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街道の風景⑧ 区役所通りから臨海線沿いに進み先の歩道橋を渡ります/百反歩道橋

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山手線ガードを潜ります        山手通りに出ます/居木橋(目黒川)

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街道の風景⑨ 目黒川にでました、古道はこの辺りを渡ったのでしょうか/居木橋

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居木橋(いるきばし)
現在の環状6号線は室町時代以前のころから品川から多摩方面に抜ける主要な街道であったそうです。品川宿から丁度1kmのこの辺りで目黒川を渡りますが、この川辺に風が吹くとゆらゆらと揺れる一本の松の木があったそうです。多摩方面から来た旅人はこの松の木が見えるともう品川宿も近いと思ったことでしょう。そしていつしかこの松の木を人々は「ゆるぎの松」と呼んだそうです。この「ゆるぎの松」が時の流れとともに変化ししだいに「いるぎ(居木)の松」と呼ばれ、ここに架かる居木橋の名前の由来になったといわれています。当時の旅人に親しまれた「居木の松」も安政年間の暴風で倒失したとのことで、場所は定かではありませんが、現在の居木橋の付近にあったと伝えられています。(説明板)

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街道の風景⑩ この後、御殿山を越え高輪から中原街道へと続いていたようです/御殿山通り

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三菱開東閣前/御殿山         二本榎木通り/高輪

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大井町駅周辺地図
(赤:平間街道 橙:品川道 青:立会川(道路)・目黒川 赤丸:大井三差路)

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平間街道ルート図
(紫:平間街道(池上道) 茶:東海道・中原街道 赤:品川道 橙:筏道 緑:奥州街道)


・・・・
資料ファイル

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鹿島神社の向かいに品川歴史館があります、寄られるといいと思います

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品川区立品川歴史館/大井
品川区が1985年に設立し運営する区立の歴史博物館。原始からの品川の歴史、生活文化に関する資料を展示。史料の収集、保存や行政資料の保存も行う。地域史等の歴史を学ぶ場としての機能もあり、企画展や講演会、子供向けの講座、親子体験講座を随時開催している。元々建設地には昭和初期に安田財閥系の安田善助の邸宅として建てられ、その後電通の出捐で設立された財団法人吉田秀雄記念事業財団が譲り受けて1966年に吉田記念館として開館した書院造の屋敷が建っており、歴史館の建設に際しては離れで建てられていた茶室と庭園の大部分をそのままの形で残している。建設中には「大井鹿島遺跡」が発見され、26軒に上る堅穴式住居跡群や土器、砥石などの生活用品が見つかっているWikipedia

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常滑焼の大甕/御殿山出土           東海寺境界石

大井鹿島遺跡の概要

大井鹿島遺跡は昭和58 年(1983)、品川区立品川歴史館(品川区大井6 丁目111 号)の建設工事中に発見された。遺跡名はこの地域の旧字名鹿島谷から来ている。広さ約1500㎡の発掘範囲からは26軒に及ぶ竪穴式住居群と土器、紡錘車、砥石などの生活用具が見つかったが、土器の特徴などからみてこの遺跡は古墳時代後半から奈良・平安時代にかけて断続的に形成された古代の村の一部であると考えられる。品川区内における古代遺跡の調査はこれが初めてで、当時の様子を知る貴重な資料となっている。その後、品川歴史館周辺地域を含めて平成21年(2009)までに第9 次におよぶ調査がおこなわれ、集落の中心地域の発掘はほぼ完了した。遺跡の範囲は台地の端とそれに続く緩やかな斜面にまで広がり住居跡は合計45 軒になった。この地域は、古代東海道駅家(うまや)「大井駅」の推定地の一つに挙げられている。現在のところ直接駅家の存在を窺うかがわせるような遺物は出土していないが、大井鹿島遺跡の存在は大きく今後の調査の進展が期待されている
(品川歴史館解説シートより抜粋)


by Twalking | 2017-09-17 13:00 | 東京散歩(新規)

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