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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(蒲田~品川)01-蒲田   

日時 2017.9.19(火)
天気 晴れ

品川道、筏道、平間道と歩きましたが
時代は違ってもやはり東海道ですね。
通過のようなものでしたので歩き直してみました。

蒲田は戦災にはあっていますが、古い地名です。
東海道からちょっと外れますが
呑川左岸がかつての中心地、古刹が集まります。


・・・蒲田/大田区


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広義には蒲田駅や京急蒲田駅を中心とした地域、または合併前の旧鎌田区全体の地域を指す広域地名としての呼称。蒲田は古い地名で、かつては蒲田郷と呼ばれていた。927年の延喜式神名帳に荏原郡の社として蒲田の薭田神社(ひえたじんじゃ)が上げられている。中世には武蔵江戸氏の支流一族である江戸蒲田氏が蒲田郷を領地とした。後北条氏が作成した小田原衆所領役帳にも蒲田氏の一族が蒲田周辺を所領としていたことが記されている。新編武蔵風土記稿によると、かつて蒲田は梅の木村と呼ばれ梅の名所であった。江戸時代には歌川広重が蒲田の梅を描いており蒲田梅屋敷と呼ばれた。現在でも蒲田の属する大田区の「区の花」は梅である。1945415日の空襲(城南空襲)により蒲田駅周辺は太平洋戦争末期に焦土となった。地名は湿地に溝を掘ると水が抜けて乾燥地が出来る。これを蒲池と呼ぶがそれが転じた。かつてこの辺り一帯は沼地でありそれにちなみ泥深い田地を示す「蒲田」から来ている。飛び越えた所や沼の中の島などを意味するアイヌ語の「カマタ」から来ているなど諸説ある。昔は「鎌田」とも呼ばれていた。『和妙類聚抄』にも記載があり奈良・平安時代から続く古い地名であるWikipedia 名所江戸百景-蒲田の梅園/広重

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蒲田駅前のモニュメントです、先ず西側へ/東口駅前広場

『上昇気流』
無限なる上昇の軌跡 躍動するエネルギーの渦 出会いに満ちた人々の輪 1989.7.大田区


・・・西蒲田

大田区の中南部に位置する。町域北部は呑川に接しこれを境に中央に接する。東部はJR京浜東北線の線路に接しこれを境に大森西・蒲田に接する。南部は環八通りに接し新蒲田に接する。西部は東急池上線の線路に接し東矢口・池上にそれぞれ接する。町域内を多摩川通りが通っている。
Wikipedia

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女塚神社鳥居、新田義興にまつわる神社です

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女塚神社/西鎌田
御祭神:
誉田別命(ほんだわけのみこと) 創建:不詳。
由緒
当社は以前、八幡社と呼ばれ女塚村429番地(JR蒲田駅東口付近)に鎮座していましたが明治5年京浜間に鉄道が敷設されるため、明治21年現在地に遷座され女塚神社と改称されました。現在の社地は新田義興憤死のおり、侍女であった少将局が忠節を尽くしてともに害せられたのを村民が憐れみ、この地に祀ると伝えられ八幡社を遷座する以前より村民の崇敬の熱い聖地でありました。現在も境内の一隅に女塚霊神の塚が残っています。(女塚神社HP)

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女塚古墳の由緒
南北朝時代の烈士新田義貞の子義興公は越後の國に城郭を構えいたりしも其の勢漸く武蔵の國に萌しければ鎌倉管領足利基氏は家臣畠山國清と計り竹澤右京亮に命じて義興公を矢口の渡しにて欺き討つ。時に正平13(1358) 10月のことなり。義興公憤死の時その侍女少将局忠節を盡して共に害せらる。村民憐れみて此の地に祀り、侍従神と崇敬し爾来女塚と稱す。(碑文)




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女塚古墳と女塚稲荷神社女塚古墳

筏道・新田神社の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25462327/


・・・蒲田本町
(ほんちょう)

大田区の南東部に位置する。地域北部は環八通りに接しこれを境に蒲田に接する。地域東部は第一京浜に接しこれを境に南蒲田に接する。地域南部は仲六郷に接する。地域西部はJR東海道本線の線路に接しこれを境に新蒲田・西六郷にそれぞれ接する
Wikipedia

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蒲田八幡神社鳥居 現在社殿の建替えが行われています/蒲田

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蒲田八幡神社/蒲田
創建年代は不詳。境内に小円墳が存在していたことや伝承などから古くからの聖地・祭祀の場であったことが伺える。江戸時代初頭の慶長年間(15961615)蒲田村より蒲田新宿村が分立するにあたって、鎮守として薭田神社から行基作の神体三座のうち春日の像一体を分祀したところ、霊験あらたかであったという。なお、分村の時期については平安末期か鎌倉初期という説もあり決定的な資料は現存していない。神社側では史実・諸般の事情から創建時期を1600(慶長5)年と推測している。明治維新後の神仏分離令により春日像は別当であった妙安寺に遷され、後に戦災により焼失している。当社自体も1945(昭和20)415日の空襲により社殿が焼失した。戦後の1949(昭和24)8月新宿八幡神社から蒲田八幡神社と改称し、1958(昭和33)88日社殿復興遷宮祭を執行した。(蒲田八幡神社)

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妙安寺山門 斉藤政賢屋敷跡です/蒲田

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妙安寺
永禄(1558-69)年間の当所地頭行方修理亮義安が戦死の後、その室・円光院妙安尼が、斉藤政賢屋敷内に庵室を結んだのがこの地である。尼は法華宗を信奉して池上本門寺第12世仏寿院日現に帰依していたが、天正17年(1589)尼が没した後、庵室をとし開山を日現として開創した。開基は円光院妙安尼、行方の家号を以って山号とし、尼の法号を寺号としている。

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「新編武蔵風土記稿」に所載せる八幡社(蒲田八幡神社)の神体は、明治初年の神仏分離に際して当寺の七面堂に移され、安置していたが戦災により焼失した。この神体は右手に軍配、左手に巻物を持った地蔵像で、寺の言い伝えによれば、開山日現が古川薬師安養寺と寺宝を懸けて法論し、勝った日現が仁王像と地蔵像を持ち帰り、論破の証左として軍配を持たしめたという。また毎年1月に行われていた八幡講大祭は神像の焼失により廃止された。(大田区の寺院)

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日蓮聖人坐像(大田区指定有形文化財)
桧材寄木造、彩色、玉眼。像高36.7cm。
台座の裏に慶長17年(1612)石井新右衛門の発願によって造立された旨の墨書銘がある。この周辺に石井姓は多いが石井新右衛門尉については明らかでない。後年修理塗替えが施されている。在銘の祖師像として本区では池上本門寺祖師像に次ぐ古いものである。(大田区教育委員会)

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妙安尼供養塔
宝篋印塔、高さ124cm。
御北条氏の被官人、当地の地頭行方修理亮義安の室・妙安尼の供養塔である。妙安尼は、義安の死後この地の豪族・兄斉藤政賢屋敷内を結び、池上本門寺12世日現に帰依し天正17年(1589)に没した。その後この庵室が妙安寺となった。この供養塔は台石の銘文により寛永20年(1643)に造立されたと考えられる。大田区指定有形文化財(大田区教育委員会)

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街道の風景① 京急の高架先は第一京浜、旧東海道ですが面影はありません/京急蒲田駅前

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川の風景① 上流側の夫婦橋(旧東海道)を望みます/夫婦橋親水公園

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旧夫婦橋と共同荷揚場跡
夫婦橋は第一京浜国道(かつての東海道)が呑川を渡る場所に架かる橋です。昔は橋のすぐ上流にがあり、呑川の水を分けた小さな川(農業用水として使用された六郷用水)が脇を流れていました。呑川用水に架かる二つの橋が並んでいたことから夫婦橋と呼ばれ、江戸時代からその名が知られていました。呑川河口付近はかつて海苔採取業者が生活し、てんま(ベガ)と呼ばれる舟が行き来していました。水害対策のために新呑川ができた昭和14年、共同舟揚場がつくられたがその後付近の発展にともない種々の荷揚にも利用されました。その跡地がこの夫婦橋親水公園のある場所です。(大田区土木部公園課)


・・・蒲田

町名としての「蒲田」に所在する鉄道駅はJRの蒲田駅、京急本線の梅屋屋敷駅、京急蒲田駅である。蒲田駅周辺は空襲により太平洋戦争末期に焦土となり、復興の土地区画整理事業により現在の街並みの原型が形成された。街は京浜東北線により東西に分断され北端は呑川、南端は環八通り、西端は池上線、東端は第一京浜とするおおよそ東西1.6km、南北800m程度のエリアに商業地が集中し、近隣に伸びる多摩堤通り、大城通り沿道付近にも一定の商業集積が見られる。都心から外れる地区では有数の繁華街、商業地区である
Wikipedia

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川の風景② 上流の仲町橋へ、古は呑川の左岸が中心地だったようです/柳橋

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弾正橋
弾正橋の橋名は行方弾正直清に由来しています。行方弾正直清後北条氏の家臣として仕え、六郷領一帯(蒲田から六郷地域)を支配する領主でした。直清は現在の円頓寺のあるあたりに屋敷を構えていましたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐の際に討死しました。その後、直清の弟・日芸が屋敷跡に円頓寺を創建し供養塔を建立したとされています。呑川を渡った円頓寺に通じるこの道は行方弾正直清との縁の深さから弾正道と呼ばれており、この橋の名のいわれとなっています(案内板)

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明治後期から大正時代の蒲田
この柄は地元の郷土資料家が明治後期から大正時代の蒲田地域を描いたものです。左上から右下にかけて呑川が流れ、左縦に現在のJR線、右縦に京浜急行線、下中央に菖蒲園、下右の呑川と京急の交差部が弾正橋の位置で、中央少し右に弾正橋の由来となった行方弾正直清宅跡の円頓寺が見られます。(案内板)

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街道の風景② 薭田神社から梅屋敷へ続く道です、かつての中心部でしょうか

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薭田神社鳥居/蒲田


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薭田神社
度々の火災や水害で古い記録は残っていないが、旧社格は郷社で貞観6年(864延喜式内社に列し、従五位を賜ったといわれ、延喜式に「荏原郡薭田神社」とあるのが当社であろう。社伝によれば和銅2年(709)僧行基が天照、八幡、春日の三神を創り、当社に安置し、後に僧日蓮が村民の請を容れ改めて開眼したといわれるが明らかでない。近来は応神天皇をまつる八幡社で、隣接の栄林寺が別当寺であったが、明治初年の神仏分離により独立し、近くの小祠をいくつか境内に合祀した。(大田区教育委員会)

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稗田神社の石鳥居
当社は延喜式内の古社といわれている。この鳥居は、柱背面の銘文によって寛政12年(1800)に北蒲田村の氏子により寄進されたことがわかる。花崗岩の明神型鳥居で、高さ310cm、柱間314cm、中央に「稗田神社」の社号を刻した石額を掲げてある。笠木は、全体にゆるやかな反りをもって柱のつり合いもよく、安定した姿をみせる。区内の鳥居では古いものの一つで貴重な存在といえよう。大田区指定 有形文化財(大田区教育委員会)


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三十番神(さんじゅうばんしん)
神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことである。太陰太陽暦では月の日数は29日か30日である。最澄(伝教大師)が比叡山に祀ったのが最初とされ、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになった。中世以降は特に日蓮宗・法華宗(法華神道)で重視され、法華経守護の神(諸天善神)とされた。これは、京都に日蓮宗を布教しようとした日像が布教のために比叡山の三十番神を取り入れたためである。また、吉田神道も天台宗・日蓮宗とは別の三十番神として「天地擁護の三十番神」「王城守護の三十番神」「吾国守護の三十番神」などを唱えた。1868年神仏分離のため明治政府によって配祠を禁じられたWikipedia

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栄林寺山門/
蒲田

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栄林寺
寛永3年(1626429日示寂した千如院日好の開山である。神体が日蓮の開眼と伝えられる延喜式内社・蒲田神社(薭田神社)の別当寺として、安政の地震により大破した社殿を41世日現代に再建したことが、当寺所蔵の「諸寄進帳」により推察される。江戸時代、現在の呑川東岸に鶴寄せ場があり、それを中心にした蒲田寄りの水田地域は当寺の檀徒区域で、将軍が鷹狩りに来て休息したという家も檀徒のなかにあり、現在お成り橋、馬引橋などの橋もあることなど鷹狩りにまつわる伝説がある。また春秋の彼岸中日に檀徒によって仏前に供えられた供物を、法要の終った後で参諸者一同に振る舞い、懇親の時を過ごす慣習は今日も続いている。(大田区の寺院)

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開山供養塔
この寺の開基である千如院日好を供養するために日英が建てたものである。日英については不詳であるが、開基日好が寛永3年(1626)に没したことが銘文からわかり、当寺の歴史を位置づける貴重な資料として注目される。二つの石を積み重ねた塔身からなっていることも様式上珍しく、素朴ではあるが、重厚な趣のあるものであり、開山供養塔としては時代的に古いものと考えられる。大田区指定有形文化財(大田区教育委員会)


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円頓寺山門/鎌田


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円頓寺
「新編武蔵風土記稿」をはじめ「江戸名所図会」その他の地誌にも円頓寺の事跡については記載されているが、寺伝によれば小田原北条氏分国の頃、荏原部南部に行方氏という豪族があった。行方氏ははじめ上杉氏の家人であったが、のち北条氏に属し永禄年間155869弾正明連の時には八幡塚、高畑、吉川、町屋、道塚、雑色の6郷および大師河原を合せて36124文の地の領主であった。明連の子孫は修理亮義安弾正忠直清と引続きこの地を知行していたが、直清は天正18年(1590)北条氏滅亡の際、小田原攻めの先鋒・上杉景勝、前田利家等の諸将の軍と戦い、一門の郎党と共にその館において討死したが、直清のは池上本願寺に逃れ出家して日芸と名乗った。文禄元年(1592)日芸は兄弾正忠直清と一門の追善菩握のため、旧館跡1宇を建立、寺名を直清の法名・性光院殿円安行頓日方居士からとって性光山円頓寺と号した。(大田区の寺院)

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行方弾正直清供養塔(大田区指定史跡)
行方弾正直清は後北条氏の家臣でこの辺りの六郷領を支配していた。直清は天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐の際に討ち死にしたと伝えられる。当時は行方弾正の居屋敷跡で、その中興開基である日芸(寛永20年・1643没)が、直清の供養のためにこの塔を建立したことが碑面に刻まれた銘文からわかる。寺伝によれば日芸は直清ので出家後、旧宅を寺院とその中興開基となった。(大田区教育委員会設置)

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江戸名所図会 蒲田里梅園 行方弾正宅跡 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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この絵は江戸時代後期に刊行された江戸名所図会の一枚です。上段にかつて梅屋敷と呼ばれた佐左エ門の屋敷周辺の梅園(現蒲田1丁目30番 蒲田小学校付近)、下中央に行方弾正直清宅跡として円頓寺が描かれています。上記の俳句「梅干しを 見知って居るか 梅の花」の作者嵐雪1654-1707)は松尾芭蕉の高弟でした。(案内板/弾正橋)

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街道の風景③ 直進すると梅屋敷公園、左折すると妙典寺があります/椿神社前

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蒲田椿神社

創建は不詳であるが、百日咳の治癒に御神験あらたかなりしとして古くより土地の人の信仰が厚い。(東京都神社名鑑)

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除病習俗
風邪、百日咳、喘息等にかかると境内の額堂に奉納されている麻を借り受けて、病人に首に巻くと咳が止まると言い伝えられ、病気が治ると祈願者は新しい麻を奉納するという現世利益的な習俗が行われている。しかも神社であるのに祈願者は社前に線香を供えるという神仏混淆の習俗が、今なお存続している例として興味深いものがある。また足の病気が治るよう祈願してワラジを奉納するものもあったという。神社の祭神は猿田彦命とされているが、本来は道祖神(道や旅人守護する神)をまつったもので、土地の人は「ドウソジンサマ」「ドウロクジンサマ」と呼んできた。(大田区教育委員会)

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妙典寺山門/蒲田


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妙典寺
古くは天台宗の寺で妙田寺といわれ永徳元年(1381)上杉六郎を開基とする。天台の学僧で、後に日蓮宗に改宗し池上、比企ケ谷、および身延三か寺の学頭となった日饒(13581428)により改宗され、寺号も妙典寺と書き改められたという。関東管領上杉憲政にゆかりのあると考えられる晴天院朗忠日杉(天文12壬子1014日歿)上杉六郎の位牌を安置している。なお天文12年(1543)の干支は癸卯で、壬子が正しいとすれば天文21年(1552)となる。記年の誤りか。当地は草分の旧家といわれる蒲田氏、光浄院蓮光の墓をはじめ大森谷戸宿脇本陣山本氏と、山本氏から分れた和中散梅林堂の梅路翁の墓があり、別墓地には漢方の医家でこの地方にはじめて華道遠州流を伝えた林松庵平林氏、武田家の部将といわれる嶋田氏、荘官とみられる杉原氏の近郷旧家の墓がある。(大田区の寺院)

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聖蹟蒲田梅屋敷公園/鎌田

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梅屋敷の由来
梅屋敷は山本忠左衛門和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地内に、その子久三郎が文政の頃(18181829)に梅の木数百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まるといわれています。当時は後の12代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、その雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、特に梅の開花期には非常なにぎわいを見せたようでした。(大田区土木部)

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狂歌堂真顔の歌碑(復元)
昔、梅屋敷の園内には数多くの碑石がありましたが、所有者が移った時や戦後の混乱期に姿を消してしまいました。この歌碑はそれらの一つを資料をもとに復元したものです。文面は『旅人の 神に手向の幣代や 白絹咲きし 庭中梅 狂歌堂真顔』であったと伝えられています。(大田区)

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里程票(復元)
昔、梅屋敷山本家の門の傍に自然石の里程標の石碑がありました。その高さは1mほどでその表面には、距日本橋三里十八丁 蒲田村山本屋と刻されていたと伝えれています。木戸孝允、伊藤博文らが梅屋敷で新年宴会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戸孝允の画にも描かれていました。戦後里程標は姿を消しましたが資料をもとに復元しました。(大田区)

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梅屋敷と和中散売薬所跡
「和中散」は食あたり、暑気あたりなどに効く道中常備薬としてつくられ旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(16181716)大森中原、谷戸(やと)、南原(みなみはら)に三店が開業した。このうち南原にあった店がのちに北蒲田村の忠左衛門に譲られこの地に移転したという。文政年間(18181830)初め、忠左衛門の子の久三郎の代に庭園に梅の銘木を集めて休み茶屋を開いた。亀戸の梅林とともに名所「梅屋敷」として有名になり広重の浮世絵にも描かれた。(大田区教育委員会)

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街道の風景④ 東海道ですが、この右手方向に『堀之内』という地名があるので寄ってみます/梅屋敷公園

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大井氏」あるいは「蒲田氏」館跡では?とも、地名からですがよく分かりません/谷戸三輪神社


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堀ノ内の起源と三輪神社の由来
当堀ノ内町会の堀ノ内という地名の起源は遠く徳川期以前にまでさかのぼることが出来る古い地名であります。大森の中の本村としてこの地名は輝かしい伝統と古い歴史に刻まれ現在に伝えられて来ました。徳川期以前すでに大森周辺は武蔵国大森と総称され、その字の呼称でありました堀ノ内が今日まで絶えることなく伝承され住民に親しまれて来たのであります。因みに堀ノ内という地名は屋形に濠を巡らした土地だけに与えられた由緒あるものでありまして、伝えられるところによると現在私共の住む堀ノ内は北條時頼の時代1247-1259年)における陣屋の旧跡であるとも言われております。徳川期に至り幕政上大森は東大森西大森北大森の三ヵ村に分割されましたが、堀ノ内は東大森村に属し幕府の直轄地として代官がおかれ明治期に至っております。
大森村の中でも当村は本村として早くから拓け住民は代々農業と漁業を生業として栄え豊かな集落を形成して来たのであります。この集落の住民の精神的支柱が氏神であったことは今更言うまでもありません。私共の氏神である三輪神社は享徳年間(1452-1456)住民が土地開拓の神として、大国主命を祀り第六天社‐此の地では従来「デイロクサマ」と呼ばれ親しまれて来ました‐と呼び村人の崇敬を集めたのが創始であると伝へられています。大正4年(19157月当所内の天祖神社貴船神社を合祀し社殿も改まり神社の威容は大いに高まったのでありますが、昭和244月惜しくも戦禍により一切を焼失しました。その後昭和278月社殿を新築し現在に至っております。(説明板)

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川の風景③かつてはこの辺りを流れていたんですね、現在は緑地公園になっています/呑川緑道公園

旧呑川

旧呑川はほぼ全区間埋め立てられ(1976年完成)緑道となって整備されている。京急蒲田駅近くの東蒲中学校あたりで旧呑川と新呑川に分流し、旧呑川は昭和島の目の前が河口であった。河口のほんの一部は開渠となっており水門もあるWikipedia

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蒲田駅周辺地図(右90°回転)
(赤:歩行ルート 紫:旧東海道 青:呑川)

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蒲田周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:旧東海道 橙:平間街道 青:呑川)


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資料ファイル

大井氏
紀氏のうち長谷雄流に属する一族は実直の頃、国衙の関係者として武蔵国に土着した。伊勢国との関わりが深い。一族には大井氏の他に品川氏・春日部氏・堤氏・潮田氏が居る。なお春日部氏は源頼政の郎党であったと考えられる。大井実春(さねはる)は寿永3年(11843月、伊勢国の平氏残党(志田義広や平田家継(平田入道)、平信兼)の征討に参加する。元暦2年(11841月、源義経拝賀のカン飯を勤める。文治元年(118511月、伊勢国桑名郡香取五ヶ郷(桑名市多度町香取)を所領とする。元久元年(120412月、大杜郷を所領とする。その後も大井氏は品川氏と共に源頼朝の「随兵」に選ばれるなど厚遇されていた。また大井実春は怪力の持ち主で源頼朝の御前で催される相撲の選手でもあったWikipedia

紀氏
(きうじ)

「紀」を氏の名とする氏族。大和国平軍県紀里(現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)を本拠とした古代豪族である。姓は初め臣(おみ)であり、天武天皇13年(684)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓した。天智天皇朝には大人が御史大夫となり、奈良時代に入ってからは麻呂が大納言、麻路が中納言、飯麻呂が参議となっている。平安時代初期には藤原北家の隆盛に圧倒されるようになる。広浜・百継以降は公卿に昇る者が途絶え、名虎が娘を入内させるが家運は好転せず、応天門の変で夏井が配流されると一族は衰退した。宇多天皇に重用された長谷雄より後は、政治・軍事面で活躍する機会がほぼなくなり淑望・在昌や貫之・友則・時文などの文人歌人を輩出するに留まる。紀氏の流れをくむ末裔として田長流の石清水八幡宮別当家(田中・善法寺家)の他、下野に下向した清主より出たとされる下野紀党(益子氏)、長谷雄流を称する池田氏・信太氏・細見氏・大井氏・中村氏・品川氏・春日部氏・堀田氏・浦上氏・安富氏・高安氏などが挙げられる。Wikipedia

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中世大井の概念図 
大井氏関連の所領および大井地域の想定範囲

鎌倉武士 
大井一族
武士の時代・中世には地域名を苗字冠した在地領主が台頭しました。鎌倉時代に大井の地を納めたのは大井実春(さねはる)の率いる武士団でした。大井氏は分家の品河氏らとともに将軍源頼朝や執権北条義時に従って幕府御家人として活躍しました。承久の乱(1221)の後、大井一族は薩摩国(鹿児島県)などに領地を拝領し、活躍の拠点を西へ移していきました(品川歴史博物館)


江戸蒲田氏
江戸蒲田氏は武蔵国を発祥とする武家。本姓は平氏。家系は鎮守府将軍・平良文の孫、平ら将恒を祖とする秩父氏の一門で、鎌倉幕府の有力御家人であった名門・武蔵江戸氏支流の一族。通字は「重」。家祖・蒲田忠武(四郎入道道儀)は江戸氏12代江戸長門の次男・江戸雅正長(蔵人入道希全)の子で、南北朝時代に鎌田郷を領有して蒲田氏を興した。また、江戸長門の三男・江戸重道も蒲田入道を称している。江戸長門は新田氏一族の一井貞政の姉が生母とされるが、人見原の合戦では足利尊氏に従って新田氏と戦った。江戸長門が鎌倉をめざして挙兵した新田義興の迎撃を命じられると、蒲田忠武首謀者のひとりとして参加し矢口渡新田義興を謀殺したとされる。室町時代には本家の江戸氏とともに関東足利氏に仕えた。至徳元年(1384)には、江戸長門が得た恩賞地の内の稲毛庄渋口郷が岩松直国へ与えられたが、江戸正長、蒲田忠武らが渋口郷の引き渡しを妨害した(「正木文書」)。そして、大慈恩寺領の大杜郷永富郷を蒲田家の由緒ある土地であるとして押領し、足利満兼足利から狼藉をやめるよう命じられている。このことから蒲田氏が稲毛方面へも進出したことがわかる。菩提寺は大田区蒲田にある日蓮宗・妙典寺で、北蒲田村にあった「大屋舗」が江戸蒲田氏の館跡とする説がある(大田区史)Wikipedia


by Twalking | 2017-09-22 10:39 | 東京散歩(新規)

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