東海道(蒲田~品川)02-大森
天気 晴れ
蒲田・大森は第一京浜を歩きますので
呑川、梅屋敷くらいで街道の面影はありません。
美浜通りに入るとちょっと一息の感じです。
すぐに内川、暗渠でしたが平間道でもであった川筋、
ここは流れが残り、旧羽田道の案内が立ちます。
大森神社、涌井神社に寄りながら商店街を散策しました。
首都高の先が鈴ヶ森刑場跡、区界で、すぐ海でした。
・・・大森
江戸時代、東海道に面していた本宿村の鎮守で、後に菅原神社と合祀して貴舩(貴菅)神社となったそうです。祭神は高靄神で水や雨を司る神と菅原道真です。
・・・大森東
大田区の東部に位置する。北部は概ね環七通りに接し大森本町になる。東部は平和の森公園やふるさとの浜辺公園になる。地域南部は大森南に接する。西部は第一京浜・産業道路にそれぞれに接しこれらを境に大森西・大森中にそれぞれ接する。東西に内川が流れている。また、第一京浜との交差点である大森警察署前交差点を始点として産業道路が南へ向かって伸びている。(Wikipedia)
環七通りを横断 京急平和島駅/第一京浜
老舗の浅草海苔屋さん 東側入口の道標
笠島弁天社 神楽殿と海豊稲荷神社
当寺は鈴ヶ森刑場が開設された慶安4年(1651)と前後して堂宇が建立されたらしい。度々の台風等により建物を失いその都度再建された様であるが、記録がない為その間の様子を詳しく知る事は出来ない。明らかな文章によると文久2年(1862)大井村名主大野貫蔵が中心となり刑場に隣接して百姓番小屋を建立し、内々に本尊を安置、密かに刑場受刑者の供養を行うように成ったのを始めと伝えられる。その後、明治4年(1871)刑場廃止と同時に「旭松庵」と称して、無縁受刑者供養を専らとし檀家を持つことなく今日に至っている。その間、昭和17年(1942)品川蓮長寺42世慈洽院日完上人を開山として、寺号公称を行い「鈴森山大経寺」と成り、第2世小越妙誠法尼の時代に戦争を経て建物を維持、昭和29年国の区画整理事業により寺域を大幅に失い縮小された現地に移り、平成2年老朽化した建物を全面改良し近代的寺院として再建、今日を迎えた。(鈴森山大経寺栞)
(赤:東海道 緑:平間街道・池上道 青:呑川・内川)
(赤:東海道 緑:平間街道・池上道 青:内川)
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資料ファイル
品川の海苔
浅草海苔の名が生まれたのは慶長年間(1596 ~ 1614)と言われ、続いて品川海苔の名称が有名になった。海苔の大量生産が可能になったのは、品川の漁業者が養殖方法を発明しそれが各地に伝わったからである。初めは各地方とも生産地名で売り出したが、浅草海苔の名に押されて伸び悩み、次第に商いの上から有利である「浅草海苔」の名で売り出すようになっていった。なお、「浅草海苔」の由来については、①品川・大森で採れた海苔を浅草に持って行って製造したから②浅草川(現隅田川)で採れたから③大森の野口六郎左衛門が浅草紙の作り方をまねて工夫をこらし、乾海苔を作りこれを浅草海苔と名付けたからといった諸説がある。(品川歴史館解説シート抜粋)
『大森・品川等の海に産せり。これを浅草海苔と称するは、往古かしこの海に産せしゆゑに、その旧称を失はずしてかくは呼び来れり。秋の時正(ひがん)に麁朶(そだ)を建て、春の時正に止まるを定規とす。寒中に採るものを絶品とし、一年の間囲ひ置くとうへどもその色合ひ風味ともに変はることなし。ゆゑに高貴の家にも賞翫せらるるをもって、諸国ともに送り手これを産業とする者は夥しく、実に江戸の名産なり』(江戸名所図会)
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by Twalking | 2017-09-24 19:56 | 東京散歩(新規)