無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(蒲田~品川)02-大森   

日時 2017.9.19(火)
天気 晴れ

蒲田・大森は第一京浜を歩きますので
呑川、梅屋敷くらいで街道の面影はありません。
美浜通りに入るとちょっと一息の感じです。

すぐに内川、暗渠でしたが平間道でもであった川筋、
ここは流れが残り、旧羽田道の案内が立ちます。
大森神社、涌井神社に寄りながら商店街を散策しました。
首都高の先が鈴ヶ森刑場跡、区界で、すぐ海でした。


・・・大森


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大田区の地名または大森駅を中心とする街。東京湾に臨み、古くから農業漁業(特に海苔)の盛んな地域であった。古くは「大杜」とも記され、鎌倉時代の1204年(元久元年)に大井郷の地頭が大井四郎に大杜と永富の郷を譲与したとあるのが文献上の初出である。江戸時代には品川宿と川崎宿を結ぶ東海道の街道のため賑わった。名物である海苔の養殖は天和〜貞享年間(16811688)ごろに浅草から移住してきた漁民によって始められ「浅草海苔」として販売された。1876年(明治9年)に大森駅が開業し、さらに1923年(大正12年)の関東大震災によって住宅の密集した都心から多くの人が移り住むようになった。旧馬込町と旧入新井町の一帯には大正後期から昭和初期にかけて多くの文士や芸術家が居住し馬込文士村と呼ばれる地域でもあったWikipedia 江戸名所百景-八景坂鎧掛松/広重

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街道の風景① 密乗院に寄り道して街道に戻りました/大森中

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密乗院山門/
大森中
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密乗院
およそ800年前に真栄が開創し不動明王を安置した。徳川家康が狩に来て当寺に休んだとの伝説がある。寺領20石を賜ったが天明年間(1781-1789)火災のため朱印および堂宇を焼失した。神仏混淆の頃は大森各神社別当を兼ねたと伝えられている。(大田区の寺院)

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板碑群(大田区文化財)
当寺に保存されている板碑は昭和6年に、隣地三輪厳島神社境内から発掘されたもののうちの16基である。年代銘のあるものは延慶3年(1310年)から文明6年(1474)まで、このうち延慶6年のものは釈迦種子、他は全部阿弥陀種子を刻する。板碑は中世の人が仏を供養するために緑泥片岩で作った卒塔婆で、俗に青石塔婆と呼ばれる。区内においては鵜の木光明寺・池上本門寺・馬込萬福寺等その密集地として知られているが、それらに次ぐ大量の板碑が、海岸に近い当畜から出土した事実は注目に値する。(大田区教育委員会)

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貴菅神社/大森西

江戸時代、東海道に面していた本宿村の鎮守で、後に菅原神社と合祀して貴舩(貴菅)神社となったそうです。祭神は高靄神で水や雨を司る神と菅原道真です。


・・大森東

大田区の東部に位置する。北部は概ね環七通りに接し大森本町になる。東部は平和の森公園やふるさとの浜辺公園になる。地域南部は大森南に接する。西部は第一京浜・産業道路にそれぞれに接しこれらを境に大森西・大森中にそれぞれ接する。東西に内川が流れている。また、第一京浜との交差点である大森警察署前交差点を始点として産業道路が南へ向かって伸びている。
Wikipedia


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街道の風景② 産業道路を横断すると「美原通り」入口、やっと街道らしくなります/大森警察署前

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旧東海道(美原通り)
昭和2年(1927)東海道は拡幅改修され第一京浜国道が完成した。そのため往時の幅員を比較的よく残しているのはこの美原通りと六郷地区の一部だけとなった。旧東海道はかつて美原通りといわれた。美原とは宇名の南原中原北原の三原のことで美称して美原となった。歌舞伎「浮世塚比翼稲妻」(うきよづかひよくのいなずま・鶴屋南北作)で有名な旅籠「駿河屋」のあった「するが通り」は内川橋の際から分かれる。(大田区教育委員会)

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川の風景① 内川を渡ります、上流側に第一京浜が並走しています/内川橋

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内川
大田区を流れる河川。二級水系の本流である。全長1.55km、流域面積3.252。大田区中央、大森西の東海道本線橋下、大森学園高等学校前を流れて京浜運河、東京湾に注ぐ。元々は北馬込付近を水源とした天然の小川であった。現在では東海道本線より上流は暗渠化し下水道の幹線とされ、下流が河川法上の指定区間となっている。Wikipedia



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内川橋                旧羽田通り(するがや通り)

羽田道(するがや通り)
羽田道の出発点である内川橋は、昔するがや橋といわれた。「駿河屋」という旅宿があったので現在の「するがや通り」という名が残されています(標柱)

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徳浄寺山門/大森東

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徳浄寺
開基は祐信、俗姓は菅原氏。豊島郡四谷に住む。日世智行の時念仏門に帰依し、寛永4年(1627)に本尊及び親鸞の影像と寺号を本山より下賜された。元禄年間(1688-1704)に13世秀山の子・教伝が当地に移し、徳浄寺の1世となった。9世祐海が天保年間(1830-44)に本堂を建立したが戦災により焼失、昭和35年に再建した。(大田区の寺院)

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街道の風景③ 環七通りを渡ると仲町商店街が続きます/美原通り

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環七通りを横断            京急平和島駅/第一京浜

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大森神社鳥居/大森北


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大森神社
伝説によると昔このあたりが海辺であったが、ある時海上に金色の光が輝き(弥陀の像ともいう)波のまにまに浮んで岸辺に流ついた。里人達は畏れてこの像を沖へ押流したが、再び元の場所に流れつき、押流すこと三度に及んだ。なおも元の場所に寄り来たるのでこの像をを建てて祀ったのが当社の起源だといわれている。そのためこの社を寄来明神と称し、また寄来神社と称した。また流れついた里を美原の里(美原通りのあたり)と呼ぶようになったといわれている。(大田区の神社)

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最徳寺山門/大森北

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最徳寺
開基の永頓藤原氏の一族で、鎌子の玄孫内麻呂の子孫、相模国三浦郡野北郷五明山最宝寺の開基・明光の弟。初めは天台の僧であったが兄に従い鎌倉において親鸞に会い改宗する。文暦元年(12349月当地に住し、兄の名を山号として明光山智慧光院西蓮坊最徳寺と号した。なお「新編武蔵風土記稿」によれば、開山は永順で仁冶2年(1241)入寂、何世代かの後永頓の時に、徳川家康関東入国を慕って鎌倉より当地へ移ったとある。(大田区の寺院)

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街道の風景④ 美原通りから第一京浜へ、左側の杜が磐井神社です/平和島口

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老舗の浅草海苔屋さん         東側入口の道標

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江戸名所図会 大森和中散 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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磐井神社鳥居/大森北


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磐井神社
三代実録」によれば貞観元年(859)「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」とあり、当社を武州の八幡社の総社に定めたといわれる。また「延喜式神名帳」に記載されている古社であり、当社の由緒書によれば徳川家の将軍もここに参詣したことが記されている。万葉集の「草陰の荒蘭の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とはここの笠島弁天を指したものという説もある。(大田区教育委員会)

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鈴石・烏石(非公開)と江戸文人石碑群
鈴石は、社伝によれば延暦年間(782806)に武蔵国の国司であった石川氏が奉納した神功皇后ゆかりの石とされる。これを打つと鈴のような音がしたことから「鈴ケ森」の地名の由来になったと伝えられる。また烏石は鳥の模様が浮き出た自然石で、江戸時代の書家松下烏石(?~1779)が寄進した。鈴石・烏石はともに屋内に保管されている。江戸文人石碑群はこの烏石の寄進の由来を記した烏石碑をはじめ松下烏石の門人等が建立寄進したもので、向かって右から次のように並んでいる。狸筆塚 文化6(1809) 筆塚 天明6(1786) 烏石碑 元文6(1741) これら、かつて弁天池周辺にあったが神社の境内整備に伴って現在地に移された。(大田区教育委員会)

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磐井の井戸
当社社名の由来となったこの井戸「磐井」と呼ばれる古井で、東海道往来の旅人に利用され、霊水又は薬水と称されて古来有名である。この位置はもと神社の境内であったが、国道の拡幅により境域がせばめられたため社前歩道上に遺存されることになった。土地の人々はこの井戸水を飲むと心正しければ清水、心邪ならば塩水という伝説を昔から伝えている。(大田区教育委員会)

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笠島弁天社              神楽殿と海豊稲荷神社

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江戸名所図会 鈴の森八幡宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景⑤ 首都高先が鈴ヶ森刑場跡、手前海側には平和島競艇場、品川水族館があります/南大井

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平和島競艇場
大田区にある競艇場である大森競走場として1954年に東京都主催で開催されたのが最初である。現在は府中市による開催のみとなっており、大田区を含む東京23区は開催に関与していない(同じ23区内・江戸川区の江戸川競艇場も同様)。また府中市には多摩川競艇場があるが府中市は一切関与していない。競艇場は平和島と大森の海岸の間の運河を利用している。競走水面は海で水質は海水。潮の満ち引きによる潮位の差はあるが、東京湾からの波は直接入ってくることはないWikipedia

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しながわ水族館
品川区のしながわ区民公園内南端にある水族館。地上一階地下二階建て。一階の「海面フロア」では東京湾の魚や生物などを展示、スタジアムではイルカ・アシカのショーが開催される。地下の「海底フロア」では巨大なトンネル水槽を通ることができる。また、水族館の外部にはレストラン「ドルフィン」とマリンショップ「シーガル」がある。Wikipedia

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街道の風景⑥ 第一京浜から旧道の入口に鈴ヶ森刑場跡があります/南大井

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都旧跡 鈴ヶ森遺跡
寛政11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写によると、慶安4年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面しており、規模は元禄8年(1695)に実施された検地では間口40間(74m)、奥行9間(16.2m)であったという。

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歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ
石碑は元禄6年(1693)池上本門寺日顗の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。

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大径寺改題には火あぶりや、はりつけに使用したという岩石が残っている。ここで処刑された者のうち丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などは演劇などによってよく知られている。江戸刑制史上、小塚原とともに重要な遺跡である。(東京都教育委員会)

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鈴森山大経寺
当寺は鈴ヶ森刑場が開設された慶安4年(1651)と前後して堂宇が建立されたらしい。度々の台風等により建物を失いその都度再建された様であるが、記録がない為その間の様子を詳しく知る事は出来ない。明らかな文章によると文久2年(1862)大井村名主大野貫蔵が中心となり刑場に隣接して百姓番小屋を建立し、内々に本尊を安置、密かに刑場受刑者の供養を行うように成ったのを始めと伝えられる。その後、明治4年(1871)刑場廃止と同時に「旭松庵」と称して、無縁受刑者供養を専らとし檀家を持つことなく今日に至っている。その間、昭和17年(1942)品川蓮長寺42世慈洽院日完上人を開山として、寺号公称を行い「鈴森山大経寺」と成り、第2世小越妙誠法尼の時代に戦争を経て建物を維持、昭和29年国の区画整理事業により寺域を大幅に失い縮小された現地に移り、平成2年老朽化した建物を全面改良し近代的寺院として再建、今日を迎えた。(鈴森山大経寺栞)

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江戸名所図会 鈴の森 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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大森駅付近地図(180°回転)
(赤:東海道 緑:平間街道・池上道 青:呑川・内川)

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大森周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:東海道 緑:平間街道・池上道 青:内川)

平間街道・池上道-大森の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25574003/


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資料ファイル

品川の海苔

浅草海苔の名が生まれたのは慶長年間(1596 1614)と言われ、続いて品川海苔の名称が有名になった。海苔の大量生産が可能になったのは、品川の漁業者が養殖方法を発明しそれが各地に伝わったからである。初めは各地方とも生産地名で売り出したが、浅草海苔の名に押されて伸び悩み、次第に商いの上から有利である「浅草海苔」の名で売り出すようになっていった。なお、「浅草海苔」の由来については、①品川大森で採れた海苔を浅草に持って行って製造したから②浅草川(現隅田川)で採れたから③大森の野口六郎左衛門が浅草紙の作り方をまねて工夫をこらし、乾海苔を作りこれを浅草海苔と名付けたからといった諸説がある。(品川歴史館解説シート抜粋)


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江戸名所図会 浅草海苔 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

大森品川等の海に産せり。これを浅草海苔と称するは、往古かしこの海に産せしゆゑに、その旧称を失はずしてかくは呼び来れり。秋の時正(ひがん)に麁朶(そだ)を建て、春の時正に止まるを定規とす。寒中に採るものを絶品とし、一年の間囲ひ置くとうへどもその色合ひ風味ともに変はることなし。ゆゑに高貴の家にも賞翫せらるるをもって、諸国ともに送り手これを産業とする者は夥しく、実に江戸の名産なり』(江戸名所図会)

by Twalking | 2017-09-24 19:56 | 東京散歩(新規)

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