無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(蒲田~品川)06-品川猟師町   

日時 2017.9.29(金)
天気 晴れ


「五街道」ということでは八ッ山口から青物横丁辺りの旧道を
街道筋にある案内で史跡や幾つかのお寺などを訪ねられますが、
やはり品川湊、旧目黒川の河口は外せないポイントだと思います。

品川湊は武蔵国府の国府津との説もありますし、鎌倉幕府、
執権北条一門、上杉氏(大田道灌)、後北条氏と古くから
拠点として重要視した湊、古刹が多いのもこれに関連しています。
久し振りに歩きましたが、じっくり見て歩くと面白いですね。



・・・東品川


品川区東部に位置する。北部は港区港南に、東部は東京港になり品川区東八潮に、南東部一体は京浜運河に接し品川区八潮になる。南部は都道420号鮫洲大山線に接し品川区東大井に、西部は元なぎさ通り・八ツ山通りに接しこれを境に品川区南品川・北品川になる。
Wikipedia

d0183387_00353023.jpg
南品川猟師町と利田新地
南品川猟師町は洲崎(すさき)(冽崎)とも呼ばれ、現在の東品川1丁目の一部で目黒川河口砂洲(寄洲・よりす)にできた町です。この町の誕生は江戸時代の明暦の頃(1655年頃)で、その昔は兜島と呼ばれ人家は無かったといいます。漁業を生業として幕府に対して魚介類を納める御菜肴八ヶ浦のひとつでした。また猟師町の地先は江戸時代中頃から埋立が行われ、新しく開かれた土地ということで「南品川新開場(しんかいば)」といい、この開墾に着手した南品川宿の名主利田吉左衛門(かがた)の姓をとって「利田新地」と呼ばれていました。幕末、この地の東側に「御殿山下砲台」が築造されました。現在の台場小学校周辺です。『江戸名所図会』には南品川猟師町と利田新地の名所として洲崎弁天寄木明神社2ヵ所が挿し絵とともに紹介されています。(江戸から明治の品川名所/品川区)

d0183387_17293466.jpg
旧河道の風景① 元なぎさ通りは旧目黒川の流路でした、右手が寄木神社です/新品川橋先

元なぎさ通り

かつて旧東海道のすぐ東側は潮の香りとさざ波の寄せるきれいな海が広がっていた。この通りは埋め立て前さざ波が寄せたなぎさの場所にあたる。このことにちなんで元なぎさ通りとした。(品川区)

d0183387_17422506.jpg
北浜三社稲荷とイチョウ
推定樹齢400年以上の大銀杏と稲荷大明神の社。このイチョウは品川浦を航行する舟の目印となった由緒ある木のひとつ。海辺のまちの面影をとどめる貴重な風景。地元で北浜(北品川宿浜通りの略)と呼ばれる地域にある稲荷社。大きないちょうと赤い鳥居のコントラストがとても美しい。(しながわ観光協会)

d0183387_17452760.jpg
寄木神社鳥居/東品川

d0183387_17454008.jpg
寄木神社
日本武尊東夷御征伐のみぎり、相模国の海中にて南風烈しく吹き、御船が沈まんとする時、弟橘姫命は御船を救わんと、海神の怒りを鎮めるために御入水せられた。そのみぎり当品川浦へ船木流れ寄りそのところに神霊を勧請したという。また兜島伝説として源義家朝臣、奥州征伐の時、この地に馬をとめ寄木明神の由来を漁人に問いしに、漁人当社の神伝を答え奉れば、義家朝臣白から奉幣ありて軍の勝利を祈り給う。奥羽平定ののち、帰路再び当社に詣でられを奉納した。以後この地を兜島といった。亀の甲社の由来として、明治末品川浦に大海亀迷いこみ、猟師大勢にてこれを捕え村民に披露した。この大亀不幸にも独り鎖を首に巻き付けて死亡した。この甲は当時の小学生音楽隊を先頭に上野まで行進し博物館へ寄贈した。後、その霊を末社に祀った。(東京都神社名鑑)

d0183387_17455053.jpg
鏝絵天鈿女命(あまのうずめのみこと)功績図
本殿正面奥の二枚扉の内面にある鏝絵(こてえ)は、幕末から明治にかけて活躍した左官の名工・伊豆の長八(本名入江長八:181589)の手になるもので、向かって左扉には上の方に天照大神、下の方に天鈿女命を描き、右扉の方には猿田彦命を描いている。これは天照大神が素戔嗚命の乱暴によって岩戸に隠れて世の中が暗くなった時、天鈿女命が滑稽な踊りをして神々を笑わせ、それに誘われて天照大神が岩戸を開き、世の中が再び明るくなったことと天照大神の子孫が地上に降った際、天鈿女命はこれを妨害した猿田彦命を服従させて道案内をさせたという神話に基づいている。共に漆喰の壁面に鏝で像を盛り上げ浮彫風に彩色したもので、製作者の独自の発想と創造による技法である。品川区指定有形文化財(品川区教育委員会)写真は手水舎です

d0183387_14025168.jpg
d0183387_14025634.jpg
寄木神社付近                横町の風景

d0183387_17582083.jpg
江戸名所図会 寄木明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

南品川猟師町のもうひとつの名所「寄木明神社」現在の寄木神社で日本武尊と弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)が祀られています。挿し絵では海岸に漁師の舟のほか魚を取る網や海苔養殖に使う「粗朶(そだ)ひび」という木の枝も描かれ漁師町の様子がわかります。『江戸名所図会』にはこの寄木明神社の由来について「土地の人たちが弟橘姫の霊を祀るために社を建て寄木明神とした」とあります。この弟橘姫の伝説は日本武尊が東征の途中、海上が荒れて船が転覆しそうになり海を鎮めるために妃の弟橘姫が海神に祈願して入水したという、その時の船の残り木が流れ着いたので祀った、または弟橘姫の御衣(ぎょい)が流れ着いたので祀ったといった伝承です。このほかに源義家が奥州出兵のときにこの寄木明神に立ち寄り戦勝祈願をしたといいます。奥州平定後の帰路に再び立ち寄り、兜をこの社に納めたのでこの地を兜島と名付けたなどこの地の伝承を紹介しています。(江戸から明治の品川名所/品川区)

d0183387_00031666.jpg
旧河道の風景② 柳ですね~、本陣が置かれた聖蹟公園の付近です

d0183387_00154784.jpg
利田神社鳥居(かがたじんじゃ)

d0183387_00155153.jpg
利田神社
当社は元洲崎弁財天と称せられ、由緒不詳であるが寛永3年(163696日東海寺の沢庵禅師これを祀り、弁天社と号したといういい伝えがある。福徳智恵の神として信仰され、近来福寿弁財天とも尊称せられている。(東京都神社名鑑)


d0183387_14194502.jpg
鯨塚
この鯨碑(鯨塚)は寛政10年(179851日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約16.5m)高さ六尺八寸(約2m)の大鯨で江戸中の評判となった。ついには11代将軍家斉(いえなり)が浜御殿(現浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。(品川区教育委員会)写真は品川浦公園です

d0183387_13530822.jpg
旧河道の風景③この辺りが目黒川の河口でしょうか、船溜まりに面影が残ります/品川浦 

d0183387_14174612.jpg
d0183387_14175304.jpg
天王洲運河に繋がります        北品川橋の風景
 
d0183387_00220625.jpg
江戸名所図会 洲崎弁天 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


洲崎弁天は現在の利田神社で弁財天を祀っています。「洲崎弁天」の挿し絵には鯨塚も描かれています。この鯨塚の由来は寛政10年(17985月に品川沖に大鯨が迷い込み、地元の漁師によって浅瀬に追い込み捕らえたのです。捕獲された鯨は評判となり浜御殿で11代将軍徳川家斉(いえなり)が上覧するほどでした。その後、この鯨の骨を埋めて塚の上に碑を建てたのです。これが今も利田神社脇にある鯨塚(鯨碑)で品川区の文化財に指定されています。明治後期の『風俗画報』では利田新地の様子を「人家が連なっていて、北には中央気象台の出張所などもあるが、広っぱは網干場でうまり東側の海岸は夏になると海水浴場が開かれたところ」と書いています。
(江戸から明治の品川名所/品川区)

d0183387_00502453.jpg
御殿山下砲台
(台場)跡

d0183387_21571484.png
御殿山下砲台(台場)
嘉永6年(1853)アメリカ合衆国のペリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀に来航しました。鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守る為急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにしたのです。伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台造りの指導にあたり、第一から第三台場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第八以下は着工にも至らなかったのです。その代りとして陸続き五角形の砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。

d0183387_00505249.jpg
明治になると埋立てられ姿を消しましたが、幸いな事に台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることが出来ます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分程の面積を占めています。台場跡からは石垣が発見され小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つ灯台は明治3年(1870)日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。現在、品川灯台は国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。(品川区教育委員会)

d0183387_13415517.png
旧東海道品川宿・宿場マップ/案内板
(赤:東海道 緑:品川道 青:目黒川・立会川)


・・・大崎/品川区


品川区
の北部に所在し大崎駅を中心とした地域である。北東側には目黒川が流れていて北品川地区との自然境界を形成している。また北西側には東急池上線があり西五反田地区との境界を成している。現在の大崎二丁目・大崎三丁目に相当する地域は目黒川を望む高台であり、古くから栄えていたと考えられている。西品川三丁目付近を含むこれらの地域は居木橋遺跡と呼ばれ、縄文時代の土器や貝塚などが出土している。室町時代には品川宿から多摩地域への街道のため、目黒川に居木橋(いるきばし)がかけられた。大崎という地名が現れたのは江戸時代という説が有力である。地名は秩父から続く尾崎であることに由来し、これが転訛して大崎となったとする説、および過去に大きな崎(岬)として東京湾に突き出ていたためとする説が知られている。ただし当時大崎と呼ばれていた地域は、現在のJR目黒駅近辺(上大崎村)から五反田駅北側(下大崎村)にかけてであるWikipedia


d0183387_15234017.jpg
街道の風景① 折角なので御殿山通りから「品川氏館跡」(推定)へ向かいます/御殿山橋

d0183387_15231255.jpg
d0183387_15233457.jpg
御殿山通り              閑静な住宅街です/坂上

d0183387_15355045.jpg
街道の風景② 山手通りからJRを越え、百反通りを上ります/居木橋(目黒川)

d0183387_15412201.jpg
貴船神社鳥居/西品川 


d0183387_15410397.jpg
貴船神社
祭神:高龗神、素盞嗚尊
当神社の御創建の年月は『新編武蔵国風土記稿』『品川町史』等の記述によると、人皇43代元明天皇の御年、和銅2年(70999藤原伊勢人の御勧請によるもので、貴布禰大明神と号し、旧地名東京府荏原郡南品川三ッ木の地に御鎮座された。当社の社号は貴布禰大明神と号していたが、口碑によれば享和3年(1803)に貴船神社と書くように改められたと伝えられる。(東京都神社名鑑)

d0183387_15451129.jpg
d0183387_15450459.jpg
祖霊社                三本稲荷社

d0183387_19395126.jpg
品川氏(紀氏)
紀氏長谷雄流品川氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて武蔵国荏原郡品川郷を中心に活動した武家の一族。品河氏とも表記される。家祖は紀実直(大井実直)の子・品川清実。平安時代末期、紀実直は国衙の関係者として武蔵国に土着し、荏原郡大井郷の地名から大井氏を称した。大井氏は次男の大井実春が継ぎ、一族は周辺地域に所領を得て広がった。実直の子から分かれた一族には品川氏のほかに春日部氏・堤氏・潮田氏がある。1184年(元歴元年)8月、実直の三男清実は源頼朝から品川郷の雑公事を免除されている(田代文書)。この文書が「品川」の地名が登場する現存最古の史料である。1185年(文治元年)2月、清実は源範頼の下で豊後上陸に関わる水軍の「先登」に選ばれている。その後も品川氏は大井氏と共に頼朝の「随兵」に選ばれるなど厚遇された。品川氏の重要な役割として、武蔵国の国府津である品川湊の管理があげられる。紀氏伊勢国との関係の深い氏族で、品川氏の所領は伊勢国員弁郡曾原御厨にもあった。1242年(仁治3年)頃には伊豆国の田代氏と婚姻関係があることが記録されており、品川氏は伊勢から品川までの太平洋航路にも関わっていたと考えられる。品川氏のの所在地については貴船神社(品川区西品川3丁目)周辺の台地上が有力とされている。ほかに現在の戸越公園(品川区豊町2丁目)とする説もある。(中略)1424年(応永31年)鎌倉公方足利持氏によって品川氏はわずかに館とその周辺のみを残し、品川郷を没収された。これには、品川氏が上杉弾正の乱に関与したためという説がある。以後史料において品川氏の宗家の姿は見られず没落したものと思われる。Wikipedia

大井氏の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25679688/

d0183387_22035165.jpg
街道の風景③ 百反通り坂上から下ると大崎駅の西側、谷間になってます/居木神社手前

d0183387_19431338.jpg
居木神社鳥居/大崎

d0183387_19435654.jpg
居木神社
当神社の御創建の年代は詳らかではないが、古い記録によると往古鎮座の地は武蔵国荏原郡居木橋村(現在の居木橋付近)に位置し、「雉子の宮」と称され境内に「ゆるぎの松」と呼ばれた大木があったと伝えられる。江戸の初期、目黒川溢水の難を避け現在の社地に御動座された。そのおり村内に鎮座の「貴船明神」「春日明神」「子権現」「稲荷明神」の四社を配祀「五社明神」とも称した。元禄郷帳には居木橋村の石高は230石余72戸で、頭屋(年番)による運営がなされ郷土の崇敬は篤く祭事は盛んで、特に里神楽を催し秋の大祭には他村よりの参拝も多く御社頭は賑わったという。

d0183387_19512019.jpg
明治5年御社号を「居木神社」と改め、同29年および同42年には村内鎮座の「稲荷神社」「川上神社」「本部神社」の36座が合祀された。昭和5年には氏子内の崇敬熱意により御本殿改築、境内整備の議が起こり、同89月に4年の歳月と赤誠、奉賛によって総坪数36坪余の木造銅板茸の御社殿が竣工、境内整備も正面階段、御影鳥居、玉垣、同富士講塚の築庭、手水合の新設、参道敷石の布設等すべてが荘厳に完成したが、先の大戦末に戦火によって炎上し、その後は災禍をまぬかれたもとの本殿建物であった境内末社に御祭神をお遷し申し上げ祭祀につとめた。(東京都神社名鑑)

d0183387_19542101.jpg
居木橋遺跡
居木橋遺跡は居木神社の南方に位置する台地上にあり、縄文時代前期(約6-5千年前)の貝塚を伴う遺跡で、竪穴住居も多数確認されています。貝塚は食用にした貝の殻や魚・獣の骨のほか、土器片などが堆積したもので、当時の生活を知る重要な手がかりを現在の私たちに提供してくれています。これまでの調査から多くの縄文土器、石器などが出土していますが、貝類では海でとれるものの他に陸でとれるヒダリマキマイイマイ(かたつむり)も発見され注目されました。(品川区教育委員会)

d0183387_21473516.jpg
観音寺山門/大崎

d0183387_21474054.jpg
観音寺
弘治年間(1555558)の創建といわれ開山は光海和尚。当初は目黒川居木橋の南に所在していたのが、数度の水害を被り、これを避ける為に元禄年間一村挙げ現在の高台の地に移転をしたとされます。本尊仏は如意輪観世音菩薩でありましたが、滅罪と祈願と分つに至って別堂を設け現本尊仏の釈迦如来を安置、鎮守五社明神の本地仏として歴代の住職が其の別当職ということであります。中興開山第13世知淵(享保年間)の時に麹町山王別当城琳寺の末寺になりましたが、明治のご維新以来復飾され之に依って芝町三田の西藏院の末寺になりました。本尊の釈迦如来坐像は像高51.6(一尺七寸)木造・漆箔。玉眼嵌入、肉髻珠と白毫・水晶製。(天台宗東京教区)

d0183387_19414314.png
大崎駅周辺マップ
d0183387_21274776.png
品川周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:東海道 紫:中原街道 青:目黒川)


・・・・
資料ファイル

d0183387_22404517.png
品川湊(品河湊)
武蔵国荏原郡品川(現在の品川区)の目黒川河口付近にあった港。狭義には中世の港町を指す。品川湊は河口の砂洲によって流れが湾曲し緩やかとなり、砂洲を見渡すテラス状の高台があるという、古来から好まれた形状の港だった。1937年(昭和12年)に目黒川の流れが直線化されるまでは河口は現在より北の品川浦付近にあった。突端は洲崎と呼ばれ利田神社が建っていた。品川湊のあった品川湾は遠浅で、品川湊の沖合いでは、東京湾内の小型廻船(瀬取船など)と太平洋航路の大型廻船(弁財船など)の積み替えが行われた。現在の東京港品川埠頭から天王洲にかけての一帯がこれにあたる。積み替えが行われた理由は、品川以北には浅瀬が広がっており、北に向かって航行可能なのは2つの細い水路だけだったことや北上する為には、川の流れに逆らって進まなければならなかったことが考えられる。

古代

荷物を受け取った小型廻船は河川を通じて北関東香取海にまで至り、西国との流通路を形成した。品川湊は内陸部にあった武蔵国国府(現府中市)の外港(国府津)だったという説がある。品川と府中は品川道によって結ばれていた。品川にある荏原神社は府中の大國魂神社との関係が深い。品川海上禊祓式(汐汲み・お浜降り)が行われる。

中世

鎌倉時代には鎌倉との関係が深くなった。御家人として品川氏が置かれた。北条氏得宗が掌握する武蔵国の国庫の納物を鎌倉に運ぶ港として使われた可能性も指摘されている。室町時代には六浦に代わり、神奈川湊(横浜港)と共に東京湾有数の湊へと成長した。浅草や江戸湊と並ぶ武蔵国の代表的な湊であった。品川湊は伊勢・熊野と結ぶ太平洋航路で栄えた。中世の太平洋水運を担っていた伊勢神宮(伊勢大湊)や熊野三山とのつながりが強い。金沢文庫の「湊船帳」によると、南北朝時代末期の明徳3年(13921月から9月までの間に伊勢神宮配下の「神船」(免税船)が30隻入港したとされる。これらの物流は、鈴木道胤榎本道琳などの熊野出身の商人(有徳人・うとくにん・中世の富裕層)が担っていた。品川湊の問屋(土倉)は鎌倉府の財政基盤の1つであった。称名寺や円覚寺の造営料も徴収された。鎌倉府は直轄地化を進めた。領主であった品川氏1424(応永31年)鎌倉公方足利持氏に所領を没収された。
Wikipedia抜粋


d0183387_23094809.png
中世東国江戸湾図

品川の湊と商人
南北朝・室町二台の品川は六浦、神奈川(横浜)と並ぶ重要な港町として発展し、太平洋を運ばれた西国からの物資は品川を経由して武蔵野平野の各地へ届けられました。品川には人々が往来し、物資が流通して湾内の交易も盛んに行われ東国の都市として繁栄しました。15世紀半ばには熊野地方出身の海運商人鈴木道胤、榎本道琳などの有徳人が活躍しました。(品川歴史館)

by Twalking | 2017-10-10 13:45 | 東京散歩(新規)

<< 白バラ ○写真上達への道 >>