城南五山02-島津山・御殿山・八ツ山
天気 晴れ
池田山を下ると中原街道、この台地一帯は
東海道の北側の丘にあたります。
かつては大名屋敷や寺領だった所です。
島津山、八ツ山、御殿山いずれも閑静な住宅地、
落ち着いた雰囲気のある街です。八ツ山通りを
南へ登りましたが、のんびりと散策するには
味わい深い所だと思います。
・・・五反田
品川区の北部にあるJR山手線・東急池上線・都営地下鉄浅草線の五反田駅を中心とした地域名である。単に「五反田」と表記する地名はなくおおむね山手線を境に西五反田と東五反田に分かれる。東京城南区域の中核地としてオフィス街、繁華街、歓楽街として栄えている。江戸時代に「五たんだ」として出現した地名。目黒川の谷がほぼ東西に流れその谷周辺の水田が、一区画が5反(約5000m2)あったために名づけられたと思われる。五反田は大崎村の小字であり周辺でしか知られていない地名であったが、1911年に山手線の五反田駅が開業し星一が大規模な製薬工場(星製薬)を建設したことで知られるようになった。(Wikipedia)
相生坂
相生坂の名勝は古く江戸時代から呼ばれていた。その由来は御殿山方面から宝塔寺(東五反田1丁目)前を通る道とこの坂のある中原街道が雉子神社(東五反田1丁目)の手前で合流していたことにもとづくとされる。昔は急坂が険しいものであったが、だんだんに道路整備がされて現在のようになった。別名を雉子ノ宮坂ともいう。(案内標柱)
新編武蔵風土記では文亀2年(1502)南品川漁師町に建てられたのが始まりだと記し、しかし南品川漁師町は明暦年間(1655-1658)に海岸の寄洲を埋立ててそこにできた町であるから、この伝承は信じられないとしている。万治年間(1658-1661)にのちに下大崎村に建てられた大名の一柳家の下屋敷の近くに移ったが、目黒川に近いので屡屡水害を受けたため現在の場所に移ったという。開創当初は法東寺といったが寛永頃(1624-1644)に宝塔寺と改め慈光院と称したといい、また正徳4年(1714)中興開山伝陽の代に寺格が上り、山号を許されて白雉山と称したという。このときから麹町城琳寺の末寺となったといわれている。(品川区の文化財)
品川区東五反田にある神社。創建は文明年間(1469-1487)と言われている。村民の霊夢により大鳥明神を祀っていた。江戸時代に入り、慶長年間になり三代将軍・徳川家光が鷹狩に来た時、一羽の白雉が社地に飛び入ったのを稀なめでたいしるしとして家光から「以後雉子宮と称すべし」との言葉があり、「雉子ノ宮」と改称した。そして江戸社寺名所にその名を連ねた。明治維新の際に雉子神社と改められる。明治時代以前は隣接してある宝塔寺が別当寺であった。明治43年(1910)に上大崎村にあった三島神社を合祀して現在に至っている。(Wikipedia)
中原街道(五反田・高輪)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22226945/)
・・・島津山
品川区東五反田1・3丁目付近の高台に相当する。名称は旧島津公爵邸に因み、同邸宅は現在清泉女子大学となっている。
階段が多い街ですが、いずれも個性的で風情がありますよ~
袖ヶ崎島津邸
老朽化した袖ヶ崎邸を英国風洋館に改築することを計画し1906年(明治39年)にジョサイア・コンドルに設計を依頼した。設計変更・明治天皇の崩御等もあって竣工したのは1915年(大正4年)。設備や調度等が整えられ1917年(大正6年)に披露された。その後、戦争のため維持できなくなり1944年(昭和19年)に日本銀行へ売却。周囲は大半が戦火焼失したにもかかわらず邸は焼失を免れる。1946年(昭和21年)1月から1954年(昭和29年)5月までGHQの管理下に置かれ、1961年(昭和36年)清泉女子大学本館となる。周囲一帯を島津山という。(Wikipedia)
・・・北品川(五丁目)
東側は北品川四丁目、北側は北品川六丁目になる。当地も「御殿山」と呼ばれる一帯で邸宅や高級マンションが多く見られる。区域北端に八ツ山の坂(通称ソニー通り)、区域内に小関通りが通る。かつては北部にある六丁目とともにソニーの本社や関連施設があったが、五丁目にソニー御殿山テクノロジーセンターを残し2007年に港区港南一丁目(品川駅東側)へ移転した。2012年4月に着工した「北品川五丁目第1地区第一種市街地再開発事業」が2015年にパークシティ大崎として開業した(Wikipedia)
八ツ山通り
北方の高輪には三菱関東閣で有名な八ツ山(土砂採取され、現在は山はない)がある。そこに向かう八ツ山の坂(八ツ山通り、通称ソニー通り、都道317号環状6号線の一部)は目黒川・五反田付近から端を発し左に池田山や島津山、中央向かいの八ツ山に並んで右側に御殿山と「城南五山」のうち4つの山の間を通る坂である。(Wikipedia)
・・・北品川(四丁目)
道灌通り
江戸時代の地誌のひとつ「江戸砂子」などのほか多くの書物の中に「御殿山は太田道灌が居住した地と言い伝えがある」と書かれています。道灌ゆかりの地として通りの名となったのでしょう。(案内板)
・・・御殿山
品川区北品川3-6丁目付近の高台に相当する。名称は徳川将軍家が鷹狩の折りに休んだ品川御殿があったことに因む。旧邸跡は現在の御殿山トラストシティと原美術館になっている。
御殿山
南北にのびる品川宿の中央、目黒川の北に広がる丘陵。長禄(1457-1460)期には大田道灌の屋敷があった。寛永(1624-1644)の頃、この地に御殿が建てられたことが名前の由来。使用目的は「将軍の狩猟の休息所」「西国大名の参勤送迎」など諸説ある。寛文(1661-1673)の頃から吉野の桜が植えられ桜の名所となったが、御殿は元禄15(1702)年2月の大火で焼失しそのまま再建されなかった。幕末、御殿山は品川台場建設のために一部を削られ、また文久2(1862)年には高杉晋作、久坂玄瑞、井上薫らにより新築中の英国公使館が焼き打ちされ全焼となる「御殿山焼き打ち事件」があった。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立図書館)
・・・八ツ山
港区高輪3-4丁目付近の高台に相当する。名称の由来については諸説ある。かつて岩崎家の別邸で、現在は三菱グループの施設となっている開東閣がある(Wikipedia)
品川八ツ山下/国貞(国立図書館所蔵)
谷ツ山-大日山
品川宿の最北端にあった丘陵。明和9(1772)年刊の『江戸砂子』によれば名前の由来は以前ここに「8つの岬があったため」「8つの大名屋敷があったため」など諸説ある。また別名の「大日山」は1700年代初め頃までこの地に大日堂があったことに由来する。麓の海岸には長さと幅がそれぞれ約18mの船繋場があり旅客や往来者が利用した。なおこの山の土は八ツ山下の海辺の石垣整備、目黒川洪水の復旧など土木普請用に使われ、現在では坂があるがほぼ平地となっている。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立図書館)
初代の八ツ山橋は1872年(明治5年)に架けられた日本初の跨線橋である(この橋は木造橋)。1914年(大正3年)にアーチ形の鉄橋に架け替えられ、1924年(大正13年に東京電車鉄道が省線品川駅前から京浜電気鉄道旧品川駅前まで延伸により八ツ山橋上に軌道を敷き、1925年(大正14年)に京浜電気鉄道本線が高輪駅までの延伸に伴いこの軌道線の一部に乗り入れをした。1930年(昭和5年)に既設アーチ橋(2代目)の西側に併設する形でアーチ橋(3代目)を架設し「2つの橋」となる。その後、京浜電気鉄道本線が現在の品川駅に延伸・軌道線廃止により1933年(昭和8年)供用した「八ツ山跨線橋」へ移り、東京電車鉄道の品川駅前から北品川駅前までの廃止により八ツ山橋は道路専用橋となる。1985年(昭和60年)に4代目の橋に架け替え現在に至る(Wikipedia)
東海道品川宿(北品川)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25825171/)
(橙:歩行ルート 赤:東海道 青:目黒川)
(赤:東海道 紫:中原街道 緑:中世古道 橙:八ツ山の坂 青:目黒川)
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資料ファイル
by Twalking | 2017-10-15 23:29 | 東京散歩(新規)