ぶらり狭山丘陵・山口地区
天気 晴れ
台風一過、あれよあれよという間に天気が回復、
久し振りの青空に誘われてちょっとドライブ、
昼近くでしたが、狭山丘陵に向かいました。
ここは鎌倉道の上道からは外れていますが、
山口城址や名所図会にも載る古刹があるので
訪ねてみたいと思っていました。
小手指古戦場跡にも寄りたかったんですが、
北野天神で時間切れ、又の機会としたいと思います。
・・・山口地区
狭山丘陵の間を西から東に柳瀬川が流れています。水の便のよいこの場所は古くから人が住み、中世には山口氏という武士が館を構えていました。江戸時代には勝楽寺、堀口、大鐘、新堀、川辺、菩提木、氷川、打越、町谷、山口堀之内、岩崎という11もの村が密集し、これらの村は明治8年に山口村、上山口村、勝楽寺村という3つの村にまとまりました。さらにこれらがひとつの「山口村」となるのは明治35年のことです。その後昭和18年に所沢町などと合併し「山口」「上山口」「勝楽寺」の名が大字として今に残りました。(所沢市)
街道側参道入口 東側参道入口
山口城は平安時代末から鎌倉・室町時代にこの一帯を本拠とした武蔵武士の山口氏によって築かれました。この場所は北に椿峰の丘陵がせまり、南は柳瀬川と湿地に囲まれた要害の地で、西側には鎌倉街道が通っていました。城跡の規模は東西約400m、南北約200mと推定され埼玉県の旧跡に指定されています。築かれた頃の大きさは不明ですが、戦乱の時代に館を囲む土塁(土手)や堀は徐々に広げられました。室町時代の終わりには複数の郭がつながった姿となりました。この城跡には石垣がなく、土塁の上に木や竹の柵を造り幅が広く深い堀をめぐらせて敵が入るのを防いでいました。戦国時代の戦乱によって落城し、江戸時代に入ると城跡は畑や宅地として拓かれ、堀跡は溜め池に利用されました。その後、道路や鉄道が開通し元の姿は一部を除いて失われました。現在、周辺には「堀の内」「城上」「梨の木戸」といった城跡に関係する地名が残されています。
現在、敷地内には3基の土塁があり、土塁の規模はそれぞれ異なりますが幅10m前後、長さ20~30m、高さ3m前後です。第1号土塁と第2号土塁は互いに向かい合い、第3号土塁L時型で東側に張り出しています。さらに発掘調査によって第1・2号土塁の間に南北方向に伸びる第4・5号土塁が新たに確認されました。土塁の外側には堀がめぐり、上部幅約4m、底部幅約2m、深さ1.5~2mの逆台形で底から水が湧き出して沼地のような状態でした。これらの築造と掘削の年代は戦国時代に入った頃と考えられます。土手の下から永楽通宝が、堀跡の底近くからは木製の椀や塔婆が出土しています。
2号土塁 3号土塁
土塁に囲まれた内部は東側より一段高く東西約20m、南北約32mの長方形の平地となっていました。これを「くるわ」と呼び何回か繰り返し整地を行っています。多数の柱穴や焼土とともに井戸跡6基が発見され、建物があったと推測できます。また、鎌倉・室町時代の灯明皿や、常滑焼の壷や甕の破片、年号のわかる板碑等が出土しました。(所沢市教育委員会)
武蔵山口氏
桓武平氏の流れをくむ武蔵七党の村山党から派生した支族であり、平安時代末期から戦国時代にかけて武蔵国入間郡山口(現在の所沢市山口)を領した。なお、武蔵国には横山党から派生した山口氏もある。武蔵国多摩郡村山(現在の武蔵村山市)を領した平頼任が村山党の祖となり、その孫の家継が入間郡山口に住み山口を名乗ったのが始まりである。代々山口城に在した。保元の乱では村山党の金子家忠・仙波家信らと共に山口六郎が源頼朝に従う。承久の乱では山口兵衛太郎が負傷を負っている。山口高清の代に武蔵平一揆で河越氏の側につき、鎌倉公方足利氏満方の上杉憲顕に攻められ山口城は落城。その後永徳3年(1383)、南朝の力を得た高清の子・山口高治は、祖父山口高実とともに再び兵を挙げ氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた。高治の子・山口高忠は上杉氏に仕え、その後上杉氏が没落すると後北条氏に仕えた。後北条氏の滅亡後、子孫の山口大善は徳川氏に仕えた。(Wikipedia)
抑々當山は弘安4辛己年鎌倉建長寺派第一世石門和尚が開山せられ、北条時宗公を開基として創建せられましたが、元弘の乱に屢々兵馬の巷となり堂宇悉く灰燼となり、其の後正平11年慈眼庵次で慈光庵其の他諸堂宇が再建せられ、門風大いに賑いましたが、永正年間に再び回禄の災に遭い堂宇烏有に帰し頗る衰微するに至り天文17年に不動尊を安置し、信者を募り烣復を期すべく檀徒相計り寺門の復興につとめたが、元亀3年時の住持が没し圓覚寺派の僧を住持として迎え自来圓覚寺派となり、天正19年に京都より慶叟和尚来山入寺し、徳川家康公より寺領として境内地壹万坪御朱印貳拾石を下附せられ、速禅和尚の時客殿及び山門等の諸堂宇共に再建せられ、當山の門風大いに賑い太平の幕末の世まで続き今日に至った。(境内説明板)
瑞幡山と号し臨済宗妙心寺派の寺である。同宗の野火止の平林寺、上富の多福寺と共に美しい楼門造りの山門を有することが特徴である。弘安元年(1278)北条時宗の創建と伝えられ、中興・東山天皇より賜わる綸旨を寺宝としている。山門は元禄7年より堂々たる楼門で市内における唐様の白眉ともいえる美しい建築である。粽(ちまき)を有する太い円柱、花頭窓、組子入りの桟唐戸など年輪の美しさに酔うばかりで、十六羅漢を奉安している楼上より望む狭山丘陵の風光は心を洗うながめである。
来迎寺は大光山無量寿院といい、詳しい歴史はわからないが鎌倉時代の初期に創立されたと考えられ、本尊は阿弥陀三尊であり「車返しの弥陀」の伝説がある。昔、奥州平泉、藤原秀衡の守護仏であった阿弥陀三尊を源頼朝の所望により鎌倉に運ぶ途中、東京都府中市車返まで来たところ、車が急に動かなくなりやむなく引き返してこの地まで来たが、再び車が停ったので草堂を建てて三尊を安置したと伝えられています。
板碑
この碑は高さ155cm・幅50cm・厚さ8cmあり、建長8年(1256)2月23日に武蔵七党丹党の加治左衛門尉丹治泰家が建てたものである。碑には梵字「キリク」(弥陀)のほか観無量寿経の一節「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の文字が刻まれている。(所沢市教育委員)
本堂 無量堂・鐘楼
山口氏は平安時代の末期、武蔵七党の一つ村山党から分かれ山口城に居住し、その後戦国時代にかけて武蔵武士の一員として活躍したことが知られています。室町時代の初期に山口氏の菩提寺として創建されたと伝えられる瑞岩寺には、山口氏の墓塔が本堂西側に三基あり、いずれも五輪塔・宝篋印塔などの残欠部分で構成されています。特に向かって左側の塔の基礎部分には「帰実禅門永徳3癸亥6月13日」と彫られており、これは足利氏満と戦って永徳3年(1383)6月13日に討ち死にしたという瑞岩寺に伝わる山口城主・山口高実の位牌の紀年銘と一致しています。中世山口氏の消息を知る資料として貴重です。(所沢市教育委員会)
・・・北野
所沢市中西部に位置し小手指地区に所属する。かつては埼玉県入間郡小手指村であった。小手指村が所沢町と合併した頃には大字北野として現在の青葉台・北野新町・北野南・小手指町・小手指元町・小手指南を含む広大な範囲であったが、昭和52年から平成17年までに区画整理や町名・地番変更により現在の範囲になった。現在の町域一帯は小手指原と呼ばれ緑豊かな原野や畑が広がっている。(Wikipedia)
西側参道 神楽殿
小手指ヶ原古戦場
小手指地区北野の埋蔵文化財調査センターのある一帯は「小手指ヶ原」と呼ばれ、今から650年以上前たびたび合戦が繰り広げられました。中でも新田義貞による鎌倉攻めの戦いは、印象的であったことを地名や伝承地などからうかがうことができます。上野国(現在の群馬県)を本拠とする新田義貞は鎌倉幕府を倒すため兵を挙げ、元弘3年(1333年)5月8日に新田荘を出ます。初め150騎ほどであった一行は、兵を進めるに連れて沿道の武士が加勢し数を増やしていきました。鎌倉を発った幕府軍との合戦の火蓋は5月11日に小手指ヶ原で切って落されます。戦いは一進一退を繰り広げる激戦となりましたが、幕府軍は徐々に新田軍の進軍を許すところとなり5月22日に陥落、鎌倉幕府は滅びました。所在地:所沢市北野二丁目12番地の4(石碑の所在地)(所沢市)
(赤:鎌倉街道上道 緑:青梅街道 紫:五日市街道 紺:玉川上水)
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資料ファイル
村山党
平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国多摩郡村山郷(現在の入間川付近)に勢力のあった武士団、武蔵七党の一つ。野与党と同族である。平頼任が北多摩郡村山に住み村山氏と名乗ったと言う。村山頼任の子孫とされる一族を村山党と呼ぶ。主な一族には金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などがある。子孫は狭山丘陵の北部の武蔵野の台地上に広がっている。金子十郎・山口六郎は共に台地上の畑地を占め、仙波七郎の居も川越市仙波で台地上で前面には荒川の低地の水田が広がっている。三条町の条里地域の西北方約10kmの地点である。(条里の遺構は不明瞭である)。彼らの名字の地(本貫)は現在でも地名として入間市金子、入間市宮寺、川越市仙波、所沢市山口などに残っている。
平安時代、保元の乱では後白河天皇方として金子家忠や仙波家信が活躍した。治承・寿永の乱では当初村山党は他の武蔵の武士団のほとんどと同じく平家方だった。吾妻鏡によれば治承4年武蔵の平氏方の中心的存在である秩父党畠山氏の畠山重忠に従い、村山・金子氏の一党も相模国の三浦氏を攻撃している(衣笠合戦)。その後畠山氏と同じく源頼朝の傘下に入った。
鎌倉時代以降、村山党には金子氏や仙波氏など伊予国を初めとする西国に所領を得たものも多かったが、武蔵では秩父党棟梁の河越氏に従っていた。鎌倉時代末期には河越高重に従い新田義貞の倒幕軍に加わり分倍河原の戦いなど倒幕の原動力になった。室町幕府が成立すると鎌倉公方や関東管領の支配が強くなり、応安元年(1368)1月河越直重を中心に武蔵平一揆を起こすがあえなく鎮圧される。山口高清などは自害し村山党諸氏は没落した。以降村山党諸氏は関東管領上杉氏家臣の大石氏に従う。
戦国時代になり上杉氏が後北条氏に敗れ没落すると、主家を失った大石定久は北条氏康の三男・北条氏照を娘婿に迎えて家督を譲った。以降、後北条氏の支配下となった。小田原征伐で後北条氏が滅亡し徳川家康が関東に入ると、その支配体制に組み込まれた。村山党の子孫の一部は徳川氏の旗本となって存続した。(Wikipedia)
武蔵国七党之系図
東村山の地名のもととなる村山党は平安時代後期から活躍した武士団である武蔵七党のひとつです。この系図によれば桓武平氏の平良文の子孫・村山頼任を始祖としていますが、さだかではありません。13世紀なかばには村山党のまとまりはなくなりますが金子氏、山口氏は武士団として南北朝時代にまで活躍します。(ふるさと歴史館展示資料/東村山市)
狭山丘陵周辺に勢力のあった村山党は次第にその勢力を北に拡げました。そして大井・宮寺・金子・山口・難波田・仙波・久米・荒幡などの場所にちらばり居館(住居)を構えた土地の名を名乗りました。また、なかには源氏と主従関係を結び保元・平治の乱で戦功をあげた金子十郎家忠のような武士もいました。(ふるさと歴史館展示資料/東村山市)
平頼任(よりとう 生年不詳)
村山 頼任(よりとう)は平安時代後期の武蔵国多摩郡の武将である。平基宗の子。村山頼家の父。野与元永の弟。武蔵国多摩郡村山(現在の武蔵村山市)に住み村山氏を名乗り村山党の始祖となった。子孫は金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などと名乗り武蔵七党として活躍した(Wikipedia)
by Twalking | 2017-10-25 20:40 | たまのさんぽ道(新規)