無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 玉川上水リバーサイド(中流域-02)三鷹~下高井戸   

日時 2017.12.2
天気 晴れ

東京Wで井の頭公園まできましたので
帰りがてら桜上水辺りまで歩いてみました。

井の頭公園は、三鷹に住んでいた頃は散歩道、
世田谷に戻ってからは子供と一緒にサイクリング
思い出の一杯詰まった懐かしい緑道です。

久し振りに歩きましたが紅葉もまだ盛りでしたし、
玉川上水の跡も見応え十分、面白かったです。
ついでに高井戸宿もちょっと寄ってみました。


・・・下連雀
/三鷹市


三鷹市の北部に位置する。北部は武蔵野市御殿山、同市中町、西部は上連雀、南部は野崎、新川、東部は牟礼にそれぞれ接する。武蔵野台地にあり玉川上水の流れに接している。名は1657年(明暦3年)1月の明暦の大火による神田連雀町(現在の千代田区神田須田町・神田淡路町付近)の被災者の移住地として1658年(万治元年)に神田連雀新田として開墾されたことに由来する。「連雀」とは小板を使った背負子(しょいこ)のことで、江戸神田のその職人仲間が住んでいた町を連雀町と呼んでいたことが連雀の名の由来とする説もある。1700年前後に新田開発の進捗とともに、連雀新田が連雀村と称され、京都(朝廷)に近い方を「上」と称し、江戸方に近い方を「下」と称す慣習により上連雀村に対して下連雀村となった
。(Wikipedia

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上水はJRの下を潜って井の頭公園へ続きます/三鷹橋(風の散歩道/三鷹駅)

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国指定史跡玉川上水/三鷹橋
江戸・東京の水道に果たした役割玉川上水は羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmにわたる水路で、承応31654)年に完成しました。これにより多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給されることになり江戸が大きく発展することが出来ました。その後、明治31年(1898)年に完成した淀橋浄水場(今の新宿区)への水路として昭和401965)年に同浄水場が廃止されるまで利用されていました。現在も羽村取水口から小平監視所までは現役の水道用の水路として都民の生活を支えています。

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貴重な土木施設・遺構としての歴史的価値
玉川上水は約43kmの区間を焼く92cmの標高差(100mでわずか約21cmの高低差)を利用して水を流すように設計された長大な土木設計・遺構です。特に小平監視所から浅間橋までの中流部には開削当時の素掘りの水路・法面が多く残され、往時の姿を今日に伝えています。玉川上水は近世の水利技術を知る上で重要な土木施設・遺構であることから平成152003)年、開渠区間約30kmが国の史跡に指定されました。(説明板)


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風の散歩道
玉川上水沿いの道(都市計画道路3413号線、三鷹駅万助橋区間)は、以前は幅員が5m程度しかなく快適な道路空間とは程遠いものでした。市では市民のみなさんと話し合いを続けご協力をいただきながら用地の取得を進めて平成6年度に築造工事に着手しました。約8年をかけて今回完成した道路は幅員が10mに広がり玉川上水沿いに1.5mの散歩道を、住宅側には3.5mの歩道を設けています。整備にあたっては江戸時代の貴重な歴史的遺構である玉川上水に配慮し、全体として落ち着きのある高品質の道路づくりをめざしました。歩道は天然の御影石を使ったブロック舗装、照明灯や車止めは色調をこげ茶色に統一し、桜や若葉の季節には玉川上水の樹木をライトアップする装置も設けています。道沿いには歴史的、文化的に貴重な文化財や施設も数多くあります。三鷹のシンボルともいえるこの道の完成を記念し「愛称名」を公募しました。愛称名募集には文化財や玉川上水にちなんだものや山本有三や太宰治などゆかりの文学者をイメージしたもの、三鷹の森ジブリ美術館(三鷹市立アニメーション美術館)に関連したものなど614通、総数1002件もの作品が集まりました。応募者のみなさんの説明文に散歩道としての素晴らしさを綴ったものが多く、この道にふさわしい新しい感覚を持つ呼びやすい名であることから「風の散歩道」が選ばれました。(三鷹市)

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太宰修碑
『四月なかばひるごろの事である。頭を挙げてみると、玉川上水は深くゆるゆると流れて両岸の桜はもう葉桜になっていて、真青に茂り合い青い枝葉が両側から覆いかぶさり青葉のトンネルのようである。・・・』(太宰治「乞食学生」より)


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むらさき橋
この橋は三鷹市と武蔵野市を結ぶ都市計画街路の一部として両市により昭和3011月に建設されました。現在の橋は平成103月に旧橋の老朽化に伴い架け替えられたものです。橋名は旧橋完成の際両市民の公募により応募総数594通の中から選定されました。橋名のいわれは「古今和歌集」より『紫の ひともとゆへに 武蔵野の 草はみなから あはれとぞ見る』(巻第17 雑歌より よみ人しらず)とあるように、昔はこのあたり一面に咲きほこっていた紫草で染め上げた「むらさき染め」にちなんで命名されたものです。(三鷹市・武蔵野市)

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中を見学したかったですが「長期休館中」でした/山本雄三記念館

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建物
大正末期に建てられた洋風の住宅で、当時流行していたフランスの建築家・フランク・ロイド・ライトに影響された意匠が取り入れられ、様々な建築様式が融合している。個性的な意匠を施された3つの暖炉や、自然風に大谷石が積み上げられた煙突が見所である。希少な建築物として1994年(平成6年)に三鷹市有形文化財に指定された。建物の南側には有三記念公園があり四季折々の緑と花を見る事ができる。
Wikipedia


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名作を記念する『路傍の石』
小説「路傍の石」執筆当時の昭和12年、有三は中野旧陸軍電信隊付近の道端でこの大きな石を見つけ、この家の裏庭に運び込んだと伝えられています。この石は作品の名に因みいつしか「路傍の石」と呼ばれ親しまれるようになり、その後東京都に寄付された山本邸から昭和33年有三青少年文庫として開設された時に現在の位置に移されました。山本有三記念館の開館にあたり、有三の名作「路傍の石」を記念するものとしてこの石の由来を記します。(三鷹市)


・・・井の頭
(いのかしら)/三鷹市

三鷹市の北部に位置する。「井の頭公園」の名で知られる井の頭恩賜公園が地域内にあり地域の多くは閑静な住宅街からなる。歴史的には井の頭の池を中心に古くから集落の形成が見られ、江戸時代は鷹狩場もあった。1965年(昭和40年)にそれまでの牟礼から独立し井の頭として住居表示を実施。井の頭の名は德川家光が鷹狩りに訪れ、湧水がほとばしるように出ているのを見て「井の頭」と命名したとされている。神田川源泉であり江戸市民の行楽地として親しまれてきた井の頭池の歴史にちなんでいる。Wikipedia


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玉川上水の風景① 井の頭公園の森の中を流れます、紅葉が見事です/万助橋


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萬助橋/吉祥寺通り
玉川上水に架かる橋のひとつ、三鷹市下連雀1丁目・2丁目と武蔵野市御殿山1丁目の境に架かっている橋で、吉祥寺通り(都道114号武蔵野狛江線)を通す。橋長は16.5m、幅員は16.8m。橋名はその創架した人物の名前に由来する。安政年間に下連雀村地主であった渡邉萬助が、近く大盛寺境内の杉の木をふたつに割って架けたものだったという。また明治時代に編纂された「下連雀村皇国地誌書上」には、当時の橋が長さ23尺、幅9尺の木橋であったとの記述がみられる。ちなみに「萬助」とは渡邉家の世襲名で8代目の渡邉萬助は第2代三鷹市長を務めた。現在の大きさの橋に改架されたのは19633月。その橋も老朽化のため、19948月に架け替えられている。Wikipedia

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井の頭恩賜公園
武蔵野市と三鷹市にまたがる都立公園である。1917年(大正6年)開園。三宝字池(石神井公園)・善福寺池と並び武蔵野三大湧水池として知られる井の頭池を中心とした公園である。井の頭公園はその中心に井の頭池(約43,0002)を擁している。井の頭池は北西-南東方向に延びる細長い形の池であり、北西端は二つに分かれ、南東端からは井の頭池を源とする神田川が流出している。井の頭池の西側には御殿山の雑木林があり、吉祥寺通りを挟んで井の頭自然文化園が位置している。雑木林の南側には玉川上水が東南方向に流れ、そのさらに南には「西園」が位置している。この西園には400mトラックと三鷹の森ジブリ美術館、玉川上水の下流側の脇には小さな広場のある「東園」がある。Wikipedia

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三鷹の森ジブリ美術館三鷹市
にある三鷹市立のアニメーション美術館。式名称は三鷹市立アニメーション美術館。設計者は日本設計。宮崎駿による断面スケッチを元にデザインされた。2001年に開館した美術館の運営と2007年から三鷹の森ジブリ美術館ライブラリーとして世界のアニメーション映画の配給やテレビ放送を行っているWikipedia

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新橋                 井の頭橋

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玉川上水のの風景② 右岸は左岸より小高く、雑木林が続きます/法政大高裏

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・・・牟礼
/三鷹市

三鷹市の東部に位置する。武蔵野台地にあり地域は玉川上水の流れに接している。北部は井の頭に、西部は下連雀に、南部は北野、新川、世田谷区北烏山に、東部は杉並区久我山に接する。歴史的には北多摩郡牟礼村であり、隣接する井の頭にも含まれる部分があった。その後三鷹村を経て三鷹市に編入されて現在に至る。
Wikipedia

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牟礼神明社鳥居/牟礼

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牟礼神明社
天照皇大 神合祀:倉稲魂命この神明社は牟礼の開祖・北條常陸之介康種(牟礼の開村は天正18年・西暦1590年)の父・北條治部少輔綱種(本氏高橋将監種政、北條早雲に養育され軍師多目氏に従学し伊豆韮山城に住んだ。北條左京大夫氏綱の時、大道寺方に配属され江戸城を攻略した。戦功あって御猶子に准ぜられ家号を賜い、北條常陸之介綱種と改め相州甘縄の城代となる。北條氏康の命あって治部少輔と進んで武蔵国の鎮衛の司として江戸城主となる)大永4年正月上杉修理大夫朝興を攻略した。上杉氏は河越に敗走、天文64月河越城に没した。五郎朝定は父の遺志を継いで江戸城を復さんと図る。天文67月老臣難波田弾正を以って深大寺城に出陣。主命あって綱種は江戸城を進発し深大寺城に対峙して砦を築く。天文61115五日(1537)綱種は陣内鎮護のために飯倉神明社の御分霊を勧請し高番山(現在地)に祀る。合祀された稲荷神社は往年村人の結衆に依って稲荷山(高山)に祀られていた。明治元年太政官布告神仏判然令に基き、氏子の総意によって合殿された。以上が牟礼の鎮守と崇められて今日に至るを略記する。(牟礼郷土史研究会)(境内掲示板)

石燈籠(巳待講)
井の頭辨財天への道標を兼ねて牟礼村の巳待講が建てた常夜灯である。以前は高井戸から連雀への道と井の頭道の分岐する角(現在の牟礼2丁目交差点付近)にあった。幕末期、嘉永3年(1850)の建立であり、竜の浮彫は見事である。寄進者名に江戸講中の人名があることから江戸市中の信仰が厚かったと思われる。(三鷹市教育委員会)

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玉川上水の風景③ 川辺のモミジが綺麗に紅葉しています/長兵衛橋

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玉川上水の風景④ 人見街道を横断、この先は杉並区になります/牟礼橋

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どんどん橋             どんどん橋道標&石橋供養塔(宝暦7年) 

どんどん橋/人見街道

三鷹市と杉並区の境を流れる玉川上水にかかる橋で、変わった名前は「橋の上を歩くとドンドンという音がしたから」とも「橋の下を水がどんどん流れていたから」ともいわれています。(三鷹市)

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蛇行する玉川上水
井之頭公園からどんどん橋付近にかけては直線が多い他の区間に比べて蛇行する箇所が多くなっています。これはこの地域が入り組んだ複雑な地形をしており、その中で少しでも高い地点を選んで水路を引いたためです。このことからも玉川上水がわずかな高低差を利用して水が流れるよう設計されていることがわかります。(東京都水道局)


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人見街道
府中市八幡と杉並区大宮の大宮八幡宮を結ぶ古くからの街道である。別名「大宮街道」「下総街道」「府中道」「八幡通り」。人見街道の名は、江戸以前にあった「人見村」を通る道であった事に由来するもので地名に「小人見」の名称がある。さらに、北にある浅間山の別名が人見山である。一説には浅間山の別名人見山(小高い丘から敵の情勢を見る意味)からとも。Wikipedia

大宮八幡宮(善福寺川)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24090782/


・・・久我山
/杉並区

町域内を
神田川玉川上水が流れその両岸にあたる。玉川上水には上水を挟んで両側に未舗装の土の遊歩道が見られ、上水の水と緑とあいまって区部有数の貴重な武蔵野の原風景を形成しているが、東京都がすすめる大規模な放射5号線道路計画の対象となっている。また、当地域内を人見街道が横断している。
くが」とは空閑地や陸地のことであり、武蔵野の新開地の意と推測される。古くは久ケ山とも。江戸時代から1889年までは江戸幕府領久我山村であった。文化文政時代は64戸、水利は玉川上水、鎮守神は久我山稲荷神社であったWikipedia

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玉川上水の風景⑤ 左岸は放射5号線の工事中ですが両側に緑道が続きます/牟礼橋

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岩崎橋                中央道の先は暗渠になります/浅間橋

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玉川上水緑道マップ(三鷹橋~浅間橋)


・・・高井戸/杉並区


杉並区の最南部に位置する地域。現在の町名では上高井戸、高井戸西、高井戸東、下高井戸の4
地域に分かれる。京王井の頭線富士見ヶ丘駅から京王線下高井戸駅、八幡山駅の範囲の地域である。
地名の由来については諸説あるが、かつて村内の小高い所にあった堂の傍らから水が湧き出ていて、高いところから出ていた井戸なので「高井戸」と呼ばれたという説と地域内の宗源寺にある高井戸不動が江戸時代までは高台に祀られていて「高いお堂の不動様」と呼ばれるようになり「高井堂不動」という名が生まれた。そこから高井戸の名が生まれたという説などがある。実際には高低や井戸とは無関係でありかつて高井家が代々宮司を務める神宮司があり、目印となるお堂に「不動様」が祀られていたことから通称「たかいどう」と呼ばれ、周辺を指す地名で使われるうち転じて「たかいど」となる。跡地は団地となっているが高井家15代までの墓が残されているWikipedia


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玉川上水の風景⑤ 浅間橋からは暗渠となり、中央道の下を流れています/環八交差点

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中央道下               20号手前から明大前まで緑道が続きます

・・・
高井戸宿

かつて甲州街道にあった上高井戸宿および下高井戸宿の合宿。現在の杉並区高井戸にあった。通行大名が少なく脇本陣は置かれなかった。当初は、甲州街道の一番目の宿場であったが、後に内藤新宿が設置され、次第に素通りするものが多くなった。周辺住民は農業を主としており、一宿で継ぎ立てを勤められず月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていた。
下高井戸宿:日本橋から4里。宗源寺(下高井戸4-2-3)の左隣の「富よし」に本陣が置かれた。本陣前が高札場、本陣向かい側の少し日本橋寄りが問屋(細淵家)跡となる。

上高井戸宿:日本橋から41240間。上高井戸一丁目信号(環八通りとの交点)の北東角にあった並木氏の「武蔵屋」に本陣が置かれた。問屋は篠弥惣治。Wikipedia

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かつての下高井戸宿の中心部ですが、面影はありません/宗源寺門前

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宗源寺
叡昌山宗源寺は十界諸尊を本尊とする日蓮系の寺です。当寺の壇家であった有名な地理学者志賀重昂が記した「宗源寺開基碑」によると、当寺開山光伯院日善の祖先は畠山重忠の一族江戸遠江守太郎判官重永で甲斐国(山梨県)吉田郷に住した吉田宗利であり、宗利が法華宗に帰依して法名宗源」と称したのにちなみ、末孫の日善がこの地に一寺を開いて寺名としたと伝えます。そしてその時期は慶長(1596-1614)初年の頃とされています。境内の不動堂はもとこの近くにあった修験道の本覚院(明治5年廃寺)のものでしたが、明治44年に現在地に移し、昭和42年に改築したものです。なお、この不動堂はかつて高台にあったため「高井堂」と呼ばれそれが高井戸という地名の起源になったとする説もあります。当寺蔵の文化財としては、南北朝初期の板碑や滝沢求馬(1713没)の筆になる釈迦涅槃図が保存されています。(杉並区教育委員会)

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覚蔵寺/下高井戸
清月山覚蔵寺は日蓮宗の寺で本尊は十界曼荼羅・宗祖日蓮聖人像です。当寺はもと真言宗の寺でしたが、慶長年間(1596-1614)に日蓮宗に改宗、中興開山は実成院日相と伝えられています。当寺に安置されている鬼子母神像日蓮聖人の直刻と伝えられています。このことは「江戸名所図会」にも記載されているもので、丈永8年(1271)聖人が龍ノロ法難にあわれる前、馬に乗せられ鎌倉の町を引きまわされて刑場に向う途中、一老女からごまのぼた餅を供養され、そのお礼として手渡したものであるといわれています。この像は江戸時代の中頃に鎌倉の妙法寺から当寺に安置され、それ以降開運鬼子母神として人々の信仰を集めるようになり、寺運も大いに栄えたといわれています。境内の日蓮聖人五百遠忌塔は天明元年(1781)頃に建立されたもので、昭和56年(1981)は聖人七百遠忌の年にあたりそれを記念して銅像を建立しています。また、開山日相聖人塔は三百五十遠忌の年(昭和41年)に建立されたものです。なお、当寺は大本山池上本門寺の末で、現本堂は昭和31年に改築されたものです。(杉並区教育委員会)


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甲州道中一里塚跡
江戸時代、五街道のひとつであった甲州道中(街道)は江戸日本橋を基点とし内藤新宿、高井戸、府中、八王子、甲府を経て上諏訪に至り、つぎの下諏訪で中山道に合するようになっていました。この街道を利用した諸大名は信州高島藩、同高遠藩、同飯田藩の三藩でした。また甲府には江戸幕府の甲府勤番がおり幕府諸役人の往来もありました。この場所の前方、高速道路下に日本橋から数えて4里目(約16km)を示す「一里塚」がありました。当時の旅人はこの「一里塚」を見て道程を知り駄賃などの支払いをしました。塚は五間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)を基準として土を盛り上げて築き、榎を植えてありました。(杉並区教育委員会

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玉川上水緑道ルートマップ(三鷹~高井戸)


神田川(久我山・高井戸)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24061274/



・・・・・・・
資料ファイル

江戸東京博物館(江戸上水関連)

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玉川上水ジオラマ/
江戸東京博物館

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小金井橋と玉川上水
玉川上水は江戸の人口増加に対応するために新たに設置された上水で、1653年(承応2)から翌年にかけて玉川庄右衛門・清右衛門によって羽村から虎ノ門までが開削されたとされる。玉川上水の特徴はその測量技術であり、羽村から四谷大木戸までの開渠部分の距離約43kmに対し標高差約100mであった。これは100m流れて20cmほど下がるというもので測量技術の高さがうかがえる。小金井橋は開渠部の中流域にあたり、この一帯は水の便が悪く江戸中期までは大きな開墾は行われなかったが、玉川上水の生活用水としての分流が認められたことによりこの一帯が定住できる場所に変わっていったのである。開拓した時期に植えられたという上水沿いの桜並木は江戸後期になると桜の名所として江戸市中に知られた。(説明板)

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武蔵野小金井桜順道絵図(複製)/1851年(嘉永4以降)/江戸東京博物館

小金井周辺の玉川上水沿いに桜が植えられたのは享保期から元文期にかけての武蔵野新田が開発されたころとされるが、名所として知られるようになるのは寛文年間以降のことである。本図中には観光名所となった小金井周辺の名所、旧跡が記され、江戸や近隣からの里程、碑文なども載せられた一枚の観光案内図である。(説明板)

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江戸上水図/江戸中期(複製)/江戸東京博物館
江戸市内における上水道ごとの配水分布図を示した図。本所・深川地域に配水された本所上水を除いた五上水が記されている。図からは江戸の北部に神田上水が、南部に玉川上水が配されていたことがわかる。このうち玉川上水から分流する青山上水・三田上水・千川上水は1722年(享保7)に上水道としての使用を幕府により禁止された。(説明板)

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江戸府内上水分布図

江戸の上水道はおもに北部が神田上水を、南部が玉川上水の水を利用した。

玉川上水(上流域)はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20693841/
玉川上水(中流域-1)はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20674257/
玉川上水(下流域)はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20780418/

by Twalking | 2017-12-09 09:09 | リバーサイドウオーク(新規)

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