日時 2018.1.10(水)
天気 晴れ
大蔵の河岸段丘を下ると都幾川です。
街道は蛇坂を上り返して菅谷宿へ向かいます。
駅から戻って菅谷館のある嵐山史跡の博物館へ。
この菅谷館は訪ねて見たかった所です。
じっくり見れば30分以上ですが、都幾川の桜堤を
鎌形へ向かいました。
(鎌形は大蔵との関連性があるのでこの項に掲載します)
・・・大蔵/嵐山町
大蔵村(比企郡菅谷村大字大蔵)
大蔵村ハ江戸ヨリノ行程前村ニ同ジ、大蔵郷ニ属シ領名モ亦前村ニ同ジ、昔帯刀先生義賢ガ武州大蔵ノ館ト聞エシハ当所ニテ、ソノ旧蹟今ニ存シテ慥(たしか)ナルコトナレバ、久寿 (1154-1156)ノ頃ヨリ唱ヘシ地名ナルコト論ナシ。民戸七十余、東ハ根岸村、南ハ将軍沢村、西ハ鎌形村ニテ、北ハ都幾川ヲ隔テヽ千手堂・菅谷・上唐子(かみがらこ)ノ三村ナリ。東西八町南北六町、正保 (1644-1648)ノ頃ハ御料所ニシテ検地ハ夫ヨリ前寛永三年(1626)アリシニ、後次第ニ新田ノ地開ケシハ万治三年(1660)・寛文八年(1668)・天和二年(1682)ノ三度、時ノ代官糺(ただ)セリ。元禄四年(1691)地ヲ割テ石黒某ニ賜リ、残ル御料ノ所ハ宝暦十四年(1764)清水殿領地トナリシヲ、寛政九年(1797)再ビ御料トナリ今モ替ラズ。(新編武蔵風土記稿/嵐山町web博物誌)
街道の風景① 都幾川を挟んで右岸に「大蔵宿」、左岸に「菅谷宿」がありました/大蔵
右手に「修験別格本山大行院」、左手に「神明院」があります
安養寺参道/大蔵 天台宗のお寺さんです。奥の森が大蔵神社になります。
安養寺山門
安養寺山門
当山門は棟札から江戸時代後期天保10年(1839)の造営と知られる。天台の宗門にふさわしく重厚で気品あふれる風格をそなえ、貴族的な趣味を彷彿させる。一部龍飾りの唐獅子・龍・佗鳥が配される。棟梁は棟札に河原明戸村飯田和泉藤原全績とある。現在の熊谷市(旧大麻生村)の人で当代北武蔵の名工と名高い。なお、東松山市八雲神社社殿、川越市氷川神社の彫刻など天保期の造営となる建造物の棟札にも飯田姓を多く見ることができる。これら一連の工匠と彫刻は同族飯田一族と推察されるがその卓越した技法は群を抜いている。(嵐山町教育委員会)
街道の風景② 左手が「大蔵館跡」右手前に「源義賢の墓」があります。大蔵宿はこの辺りでしょうか
県道交差点 「鎌倉街道・御所ヶ谷大蔵下宿」
・・・大蔵館跡
街道の風景③ 左に曲がった一画に「大蔵館一族一門 南無馬頭観背音菩薩 平氏一族一門」の碑が建ちます。こちらのお宅に空堀跡が確認されているそうです
大蔵館跡
大蔵館跡は平安時代の末期、帯刀先生源義賢によって築かれたと伝わります。館跡の四隅にはそれぞれ土塁、空堀が残っており、これから推定される館の規模は東西170~200m、南北220mである。また館跡の内外には「御所ヶ谷戸」「堀之内」「高御蔵(高見櫓)」など館があったことを示す小字名もある。館の東方100mには鎌倉街道が南北に通過しており、館の入口は街道に面して東方に設けられている。館の中核は南西の一画に一段高く土盛されている現在の大蔵神社付近と考えられるが、現存する大蔵館跡の規模は必ずしも義賢当時のままとはいない。嵐山町周辺は南北朝~室町、戦国時代にかけて戦乱の絶えなかった地域であり、そうした時代にも軍事上の重要拠点として幾度となく造りかえられ利用されていたようである。(埼玉県教育委員会・嵐山町教育委員会)
畑地の先、一段小高くなった森が大蔵神社、館の中核と考えられます/案内板先より
大蔵神社東側参道 境内より東を望む
県道より北側を望む
大蔵神社鳥居
大蔵神社
/大蔵字御所ヶ谷戸
当地は鎌倉街道の要衝として知られ、鎌倉開幕以前に築造されていた大蔵館跡がある。この館は六条判官源為義の次男義賢(よしかた)の居城であった。当社は明治35年の「日吉神社(当社)上地森林境内編入出願に付取調上申書」に、古老の口碑として木曽義賢が大蔵館の新築後に、武神として尊信していた近江国日吉神社の分霊を天養元年(1144)に勧請したと伝える。(埼玉県神社庁)
大蔵館跡/大蔵神社境内
大蔵館は源氏の棟梁六条判館源為義の次子・東宮帯刀先生源義賢の居館で、都幾川をのぞむ台地上にあった。現在する遺構から推定すると館の規模は東西170m・南北200m余りであったと思われる。館のあった名残りか、館跡のある地名は御所ヶ谷戸及び堀之内とよばれる。現在遺構としては土塁・空堀などがあり、ことに東面100m地点の竹林内(大澤知助氏宅)には土塁の残存がはっきり認められる。また、かつては高見櫓の跡もあった。なお館跡地内には伝城山稲荷と大蔵神社がある。源義賢は当地を拠点として武威を高めたが、久寿2年(1155)8月16日源義朝の長子である甥の悪源太義平に討たれた。義賢の次子で当時2歳の駒王丸は畠山重能(しげよし)に助けられ齋藤別当実盛により木曾の中原兼遠に預けられた。これが後の旭将軍・木曽義仲である(埼玉県)
大蔵屋敷跡/大蔵神社境内
大蔵館跡は8次にわたる発掘調査や館周辺の遺跡群の発掘調査、現存する考古資料などから小館と大館の二つの構えが存在したことがわかっている。現存するのは大館の跡で、土塁や空堀の配置状況から推定される規模が東西170m、南北220mを測り面積にして4万m2に及ぶ。一方、小館の跡は発掘調査により遺構が確認されたものであり、一辺70mの堀を方形にめぐらせた区画である。堀の内側には柵列のような柱穴列や掘立柱の建物跡などが確認された。しかし、大小の館が築かれ存在した年代の詳細は明らかではない。この地域の中世史は大きく3期に分けて理解することが出来る。第1期は12世紀代、すなわち史料に見る源義賢の年代である。第2期は13世紀から14世紀前半、この時期は周辺の遺跡群や考古資料とも一致する大蔵の最盛期で、鎌倉街道大蔵宿の繁栄が背景にあったと予想されている。第3期は15世紀以降、極端に出土品や考古資料が少なくなり地域の衰退期と捉えることができるが、大館の普請が行われた時期と考えられる。発掘調査によって判明した大小の館跡は「鎌倉街道」と都幾川の河川交通の交わる大蔵宿の中心としての姿や、街道筋で南北朝~室町、戦国時代にくり返された多くの合戦の際にも攻防の場、また拠点として利用されていた様相をうかがわせている。(嵐山町教育委員会)
行司面遺跡/大蔵神社先
大蔵館の西側にある行司面遺跡は縄文時代中期の大規模な集落、古墳時代の集落と墓域、中世の集落からなる複合遺跡でした。中世には市場的な性格の集落がつくられ、区画溝、建物跡、井戸跡、墓跡などが発見されています。遺跡は圃場整備工事にともない失われましたが、畑のなかに石組をもつ井戸跡が唯一保存され町指定史跡になっています。(比企の中世・再発見/嵐山史跡の博物館)(写真は参道入口です)
・・・源義賢の墓/大蔵
交差点の右、畑地に「源義賢の墓」があります/大蔵
源義賢の墓
義賢は
源為義の
次子(長子は義朝)で、近衛天皇が東宮の時に仕え帯刀の長となったので
帯刀先生(たてわきせんじょう)と称され、その後東国に下り
上野国多胡館(群馬県多野郡吉井町)を本拠地としたので
多胡先生とも称された。更にその後、この地(大蔵館
)に移住し武蔵国や上野国に勢力を振るったが、久寿2年(1155)8月16日大蔵館で義朝の長子である甥の悪源太(源)義平と合戦して討たれた。なお、木曽義仲は義賢の次子である。源義賢の墓とつたえられるこの五輪塔は、数度の火災にあったためかやや赤く変色しているが、県内では最古の部類に属するものである。大正13年3月31日に県指定史跡に指定されている。(埼玉県)
埼玉県指定史跡 源義賢墓
所在地:嵐山町大字大蔵字大東66 時代:平安末期この五輪塔は火輪部と水輪部のみ残存しており、空輪部と地輪部は後から補われたもので風輪部は欠損しています。材質は凝灰岩製で、火災にあったためか変色のあとがみられ、損傷も激しかったため昭和52年に東京国立文化財研究所により修理処理されました。
このかたちはいわゆる
古式五輪塔と呼ばれ、県内に所在する五輪塔の中では
最古の例です。なお、この墓は義賢ゆかりの人々が供養のために建立したものと考えられます。
この五輪塔は本来供養のために建てられましたが、後には墓石として建てられるようになりました。密教の宇宙観より上から空・風・火・水・地として、五大の考え方をあらわしています。(嵐山町教育委員会)
源義賢
没年:久寿2.8.16(1155.9.14) 生年:生年不詳
平安末期の武将。源為義と六条大夫重俊の娘の子。義朝は兄、頼賢、為朝は弟。保延5(1139)年春宮帯刀先生となるが翌年殺人犯人と同心したとして解官。以後父と共に摂関家の藤原忠実・頼長に臣従。康治2(1143)年、頼長より能登庄を預けられたが4年後に年貢未進で解任。仁平3(1153)年、上野国(群馬県)多胡郡に下向し、武蔵国の豪族秩父重隆の婿となり武蔵北部に勢力を伸ばすが、久寿2(1155)年当時鎌倉にあった義朝の長子義平の攻撃を受けて武蔵国比企郡の大蔵館で岳父重隆と共に殺された。この際、幼少だった子の義仲は木曾に逃れた。また養子となっていた弟頼賢が復讐に下向し義朝に追討の院宣が下される一幕もあった(コトバンク)
源義平
没年:永暦1.1.19(1160.2.27) 生年:永治1(1141)
平安後期の武士。源義朝の長男。母は三浦義明の娘。鳥羽上皇に登用されて中央に進出した義朝のあとをうけて鎌倉を本拠に活動。久寿2(1155)年8月18日、叔父の義賢(木曾義仲の父)を武蔵国大蔵館に攻め殺し「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになった。平治の乱には上洛して義朝に従い奮戦の様子は『平治物語』によって広く知られている。敗戦ののち、再挙を期して北国に向かったが義朝の死を聞いて都に潜入。平家一門の要人に対するテロを企てたが機を得ないうちに平家の家人難波経遠にとらえられ京都の六条河原で斬首された。(コトバンク)
大蔵合戦
久寿2年(1155)8月16日、平安時代末期に武蔵国で源義平が源義賢の拠点であった大蔵館を襲撃し義賢と秩父重隆を攻め殺した戦い。秩父氏の家督争いに源氏内部の同族争いが結びついたものである。保元の乱の前哨戦ともされる。河内源氏の当主であった源為義は摂関家を後ろ盾としたのに対し、長男・義朝は都から東国へ下って南関東へ勢力を伸ばし、院近臣を後ろ盾とした。義朝は仁平3年(1153)3月には父の官職を超えて下野守に任じられ、関東を地盤として都の武者としての地位を高めた。源為義は長男・義朝への対抗策として勢力の及んでいない北関東に、義朝に代わって嫡子とした次男・義賢を下向させる。義賢は上野国多胡荘(現・高崎市旧吉井町地区)を本拠とし、武蔵国最大の武士団で留守所総検校職にあった秩父重隆の娘を娶り「養君」となって武蔵国比企郡大蔵(現・埼玉県比企郡嵐山町)に館を構える。秩父重隆は甥・畠山重能並び父・重綱の後妻との間で家督を巡って対立し、また隣国の新田氏や藤姓足利氏と利根川を挟んで抗争を繰り返していた。秩父重隆の対抗勢力である新田氏、藤姓足利氏、畠山氏らは源義朝とその長男・義兵親子の勢力と結んでおり、父・重綱の後妻は義平の乳母であった。源義朝は曾祖父・頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え相模国一帯に強い基盤を持っていた。都へ戻った義朝に代わりその地盤を受け継いだ義平は本拠である鎌倉より北上をもくろみ、叔父・義賢と秩父重隆の勢力が上野、武蔵の武士団を糾合して南へ勢力を伸ばそうとする動きを見せると、両者は武蔵国で衝突する事になる。久寿2年(1155)8月16日、源義平率いる軍勢が突如、武蔵国の大蔵館を襲撃し源義賢、秩父重隆共に討たれた。わずか15歳の義平はこの戦いで大いに武名をあげ「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになる。この時、源義賢の子で2歳の駒王丸は、畠山重能の計らいで義朝・義平親子と義賢との間を揺れ動いた武蔵武士団の一人でどちらの側にも従ったことがある齋藤実盛により、駒王丸の乳母夫である信濃国の中原兼遠のもとに逃がされた。駒王丸は後の木曽義仲となり、命の恩人である斎藤実盛とは大蔵合戦から28年後の篠原の戦いにおいて首実験の場で悲劇的な対面をする。(Wikipedia)
(系図はガイドブック「畠山重忠」/埼玉県立嵐山史跡の博物館を参照しました)
・・・
街道の風景④大蔵の集落を抜け都幾川へくだります/大蔵バス停
向徳寺山門/大蔵
向徳寺
向徳寺は時宗、創建は鎌倉時代と伝わります。重要文化財の阿弥陀三尊像はいわゆる善光寺式阿弥陀三尊の典型とされる優美な像ですが、普段は公開していません。主尊の台座の銘文から宝治3年(1249)児玉党小代氏の本拠地・小代(東松山市正代)で作られた可能性が説かれていますが詳細は分かりません。境内に町指定文化財の板碑群があり、鎌倉~室町時代にかけて年号を刻むものが20基以上並んでいます。時宗特有の「南無阿弥陀仏」を刻む名号板碑があり寺の歴史を物語っています。(比企の中世・再発見/嵐山史跡の博物館)
向徳寺参道 向徳寺板碑群
川の風景① 上流を望みます、正面が大平山・嵐山渓谷、右手の森が菅谷館になります/都幾川(学校橋)
都幾川
埼玉県西部を流れる荒川水系の一級河川、越辺川の支流である。支流の槻川と共に入間川流域では最も北側を流れる。埼玉県比企郡ときがわ町大野地区の高篠峠付近に源を発する。源流部には大正末期から昭和初期にかけて設置された石積みの砂防堰堤(落差工)が多数ある。名前の由来の一説であり慈光寺がある都幾山の南麓を通る比企郡嵐山町で秩父郡秩父村を源流とする槻川を合わせる辺りは京都の嵐山の風景によく似ている事から武蔵嵐山と命名され嵐山渓谷と呼ばれている。左岸側の崖は都幾川により開析された河岸段丘である。東松山市に入り、関越道を越えたあたりから両側を高い堤防で挟まれるようになる。河川域も運動公園など都市近郊河川の様相を見せ、比企郡川島町長楽において越辺川に合流する。都幾川の語源については清めることを意味する『斎(とき)』から来ていると考えられている(Wikipedia)
・・・鎌形
川の風景② 正面が菅谷館跡、二瀬橋から鎌形まで右岸の桜堤をリバーサイドウオーク/千騎沢橋(都幾川)
鎌形八幡神社鳥居/鎌形
門でしょうか?舞台のようでもありますが・・・、ここを潜ります
鎌形八幡神社
鎌形八幡神社は平安時代初期、延暦年間に坂上田村麻呂が九州の宇佐八幡宮の御霊をここに迎えて祀ったのが始まりであると言い伝えられている。武門、武将の神として仰がれ「源頼朝及び尼御前の信仰ことのはか厚く」と縁起の中にもある。源義賢、義仲、義高の氏神として仰がれていたという。また、嵐山町指定文化財である懸仏が2枚保存されている。安元2年(1176)の銘がある懸仏は径18cmで、中央に阿弥陀座像が鋳出されていて「奉納八幡宮宝前安元二丙申天八月之吉 清水冠者源義高」と刻印されている(但し源義高は安元2年には生まれていない)もう一つの貞和4年(1348)の銘がある懸仏は径17cmで、薬師如来坐像が刻まれていて「渋河閑坊 貞和二戌二子七月 施主大工 兼泰」と刻まれている。その他木曽義仲産湯の清水や徳川幕府歴代将軍の御朱印状など多数の文書がある(埼玉県)
鎌形八幡神社本殿
正面の建物は拝殿を兼ねた覆屋であり、本殿はその中に納められている。本殿は簡素な一間社流造りりで、装飾的な彫刻は正面両扉、両脇、脇障子、蟇股、向拝木鼻、向拝蟇股などに限られている。彩色もこの彫刻部分にのみ施されている。本殿の建立年代は棟札に「奉再建立正八幡宮御神殿干時寛延二巳暦三月朔日遷宮」とあり、寛延2年(1749)である。しかし、新材がかなり含まれ何度かの修理を経ているものと考えられる。一方、身舎部分(もや)に付けられて蟇股、頭貫の木鼻などの形状は簡素な整ったものであり、古式を踏襲したのおかあるいは棟札の年代よりもさらに古いものかと思われる(嵐山町教育委員会)
伝木曽義仲産湯の清水
義仲は仁平3年(1153)源義賢が大蔵の館に移り住んだ年に生まれたと伝えられます。その時に近くの七つの清水から産湯を沸かした伝えがあります。他の清水は枯れてしまい、神社に残るものが唯一だそうです。
貞和の懸仏
年代:貞和4年(1348)南北朝時代 大きさ:直径17cm
懸仏は建物の内側(内陣)にかけて礼拝の対象などにしたもので、立体的な尊像や吊り懸けるための金具が設けられている。本来は御正体といい、神仏習合により神の本地として各種の仏が表現されることが多い。この懸仏は県内に所在する懸仏のなかで最も古い紀年銘をもち、中央には阿弥陀生像が鋳出されている。大工兼泰の懸仏は東京国立博物館にもあり、大きさや文字が刻まれていて関連性が指摘されている。(嵐山町教育委員会)
斑渓寺山門/鎌形
斑渓寺
曹洞宗の寺で威徳山斑渓寺という。この寺の
梵鐘に次の文字が記るされている。『
木曽義仲 長男 清水冠者源義高為 阿母威徳院殿斑渓妙虎大姉 創建スル所也』つまり
母の
妙虎大姉(
山吹姫)が吾子・
義高が
11歳の時、
入間川原で頼朝の命を受けた堀藤次に斬られた
菩提を弔ってこの寺を建てた。仁平
3年(
1153)に
源義賢が武蔵国大蔵に館を構えて、
鎌形に
下屋敷を設け
小枝御前を住まわせ生まれたのが
義仲(幼名駒王丸)である。
久寿
2年(
1155)
8月義賢は甥の
悪源太義平に討たれたが、
駒王丸は畠山重能、斉藤実盛の情により
木曽に送られ成人後、
旭将軍に出世した。
山吹姫は木曽育ちの娘、
義仲の
室とし幾度かの合戦に従軍し建久元年(
1190)
11月
22日ここに寂す。
義高は頼朝の娘大姫と結ばれ源氏の世継といわれたが、頼朝のため命を落した。(埼埼玉県)
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//teione.exblog.jp/26123824/
「木曽義仲公誕生の地」の碑 一帯は「伝木曽殿館跡」と伝わります
木曽義仲公顕彰碑
朝日将軍としてその名を馳せた木曽義仲はこの地鎌形に生まれた。その幼名を駒王丸と云い、久寿2年(1156)父・帯刀先生源義賢が甥の悪源太義平に大蔵の館にて討たれた時、僅2歳であった。駒王丸は畠山重忠の父重能と齋藤別当実盛に助けられ、信濃国権守中原兼遠のもと木曽に送られ、その山中にかくまわれ元服して木曽次郎義仲と称し、20有余年の歳月は過ぎた。その間時勢は大きく移り変わり保元・平治の乱により源氏は殆どその影をひそめ、平家一門の全勢の世となった。「驕る平家久しからず」と云うがやがて諸国に潜んでいた源氏は以仁王の令旨により東国で源頼朝、信濃では木曽義仲が挙兵し、義仲は今の長野県日義村の八幡宮で旗挙げをした。時に治承4年(1180)9月7日のことであった。やがて越後国の平家方の城氏を信濃の横田河原で撃ち破り、続いて倶利伽羅峠の戦い、篠原の戦いで平家の軍勢を撃破し比叡山を押さえて怒涛の如き勢いで平家を追って京都に上った。こうして義仲は後白河法皇に謁し朝日将軍の名称を贈られ、続いて平家追討のため京都より西海へと出撃した。その間、後白河法皇は鎌倉の源頼朝と相通じ義仲を討つ計画をしたので、義仲は従兄弟の源頼朝と対決することになった。義仲は寿永3年(1184)1月20日征夷大将軍に任じられたが、源頼朝の遣わした追討軍に撃たれ波乱に富んだ生涯を近海の粟津が原の露と消えた。時に寿永3年(1184)1月20日義仲31歳であった。今茲に義仲の遺徳を偲んでその業績を讃えるため鎌形の郷民資金を相募り、その顕彰碑を建立し永く義仲公を郷土の誇りとするものである。(木曽義仲公記念碑建立委員会)
川の風景③ 都幾川は大きく蛇行して流れます。正面は正山、右手が斑渓寺です/斑渓寺橋
東海道大津宿(義仲寺・義仲墓所)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21593969/)
嵐山渓谷周辺案内図(180°回転)
(赤:鎌倉街道 紫:歩行ルート 青:都幾川・槻川)
大蔵周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:鎌倉街道 青:都幾川・槻川)