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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 鎌倉街道上道(10)嵐山~赤浜01-杉山   

日時 2018.1.19(金)
天気 晴れ


風は少しありますが天気がいいので出掛けました。
嵐山から奈良梨、今宿を通り荒川の渡し・赤浜に向かいます。
帰りの便を考えると東上線男衾駅がよさそうですね。

資料等を見ますと嵐山から中爪へは市野川沿いと丘陵越えの
2ルートがあるようですが、ひとまず川沿いの道を行きます。
旧道の跡が残るようなので現地ですり合わせできれば幸いです。



・・・菅谷/嵐山町

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街道の風景① 都幾川左岸の段丘上、菅谷宿の中心部でしょうか/武蔵嵐山駅先

菅谷宿
川越・児玉往還
あった宿場。現在の埼玉県比企郡嵐山町の武蔵嵐山駅周辺市街地が該当する。東京方面からくると国道254号(旧道)は菅谷交差点で左折して小川町へ向かうが、川越・児玉往還は直進でありかつてはこのルートが正統なルートであったことを示しているWikipedia

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嵐山三差路を直進して下ります     東武線の踏切を横断します

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東昌寺山門 下り口の左手にある曹洞宗のお寺です/菅谷

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本堂                 鐘楼

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観音堂の由来
当寺観音堂は本尊に千手眼観瀬音菩薩を祭る。その初期は徳川家2代将軍秀忠公の乳母を務めた正心院日幸大姉(慶長151126日江戸城内にて没した)の持仏であった千手観音をその子岡部主水が所領の地であった菅谷の地に一宇を建立し持仏の千手観音を祭り、母の菩提を行い以後家臣の多田家守護を任せてきたものである。昭和3年菅谷大火により堂宇本尊ともに悉く焼失せり。その後昭和22年に仮堂に千手観音を拝請し昭和62年に現在の堂を建立し、新たに本尊千手観音龍頭観音一葉を寺族長谷川澄子が寄附、並びに西国坂東秩父の百体観音を中島標夫夫婦が寄附されている。天井には住職の希望により36体の観音像を描く(説明板)


・・・志賀/嵐山町

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街道の風景② 旧道を抜ると志賀の堂沼があります。

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旧道入口               左に堂沼、右手が観音堂です

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志賀の観音堂

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志賀観音堂の石仏群
近世の志賀は「川越児玉往還」の宿駅として知られ、志賀観音堂は「比企西国観音霊場28」の札所として賑わいをみせた。境内には多くの石仏があり近年においての建立も盛んである7種類、11点について町指定となっている。内訳は庚申塔3、馬頭観音1、地蔵菩薩2、名塔1、大黒天1、宝塔1、聖徳皇太子2であり造立年代は貞享5年(1688)を初出とし明治8年(1873)とまでの185年間である。

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いくつかの特色をあげると2基の聖徳皇太子は近郷の大工職による「聖徳太子講」による建立、寛保元年(1741)の宝塔は高さ224cmで町内最大、安政7年(1860)の庚申塔は「志賀駅」、元治元年(1864)の飽海地蔵菩薩には「左鬼神道」とあり道標を兼ねている。これらの石部群は造形的に優れているのはもとより信仰の拠点、交通の要衝という観音堂の歴史的背景を知ることができる貴重な資料である(嵐山町教育委員会)

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街道の風景③ 296号を北へ向かいます、志賀の町並みです。

埼玉県道296号菅谷寄居線

埼玉県比企郡嵐山町と大里郡寄居町を結ぶ一般県道である。途中、深谷市(旧大里郡花園町)荒川から大里郡寄居町までは国道140号と重複している。旧花園町から嵐山町に掛けてはかつての鎌倉街道上道の街道筋を辿っている。Wikipedia

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宝城寺山門 曹洞宗のお寺さんです/志賀

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本堂                 門前から南の景観です


・・・杉山

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街道の風景④ 街道の東側、杉山城址へ寄り道します/相生橋(市野川)

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積善寺山門/杉山

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天台宗積善寺(しゃくぜんじ)
当寺は正式には福王山泉明院積善寺と称し、その神通力で日本各地に伝説の残る役小角(えんのおずね)の創建と伝えられています。(西暦600年代)小角亡き後、その弟子で積善という行者がおり、慶雲3年(706)夏、諸国が日照りに悩まされていた時、積善が当寺裏山「杉山城」中腹に泉わきでる大岩を見て仏心を感得し、その水を汲み閼伽水としたところ直ぐに天から慈雨が降り注いだと伝われます。その後、天慶9年の兵乱で本堂を焼失した後、応永181411比企・小高の両氏が檀主となり再興されましたが、再び戦に巻き込まれ寺は荒廃しました。

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そこへ伯耆の国(鳥取県)の大山寺祐源和尚が回国修行の折、当山に留まり(1573中興の祖となりました。以来現在に至るまで歴代住職、檀信徒の厚き信仰により法灯は守られています。本尊は西方浄土より万民を救済する身心平穏の仏様阿弥陀如来です。この歴史と自然に囲まれた積善寺を参拝いただき今日生きていることの幸せを心に感じていただければ幸いです(住職)

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苦悲(くび)なし地蔵
昔、杉山に金子屋という団子屋があり親切できれいな娘がいて繁昌していました。ある晩、泥棒が店の金、そして娘をさらい逃げました。娘は途中多右衛門の家の前で助けを求めました。昔侍だった多右衛門は追いましたが娘は斬られ、探すと首と胴は別々になり変わり果てた姿になっていました。多右衛門は娘の供養にと娘に似たお地蔵さんを作り毎月命日の24日にはお花やお線香をあげました。ところがある晩、お地蔵さんの首が誰かが取り幾度続けても首だけがない不思議なことが続きました。今も首のないお地蔵さんはお参りの人々の「苦悲や悲しみがなくなる」のでその後利益から「苦悲なし地蔵」と呼ばれています。(説明板)

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積善寺の裏手の「杉山」に国指定史跡・杉山城址があります(別掲)

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国指定史跡杉山城跡
この城は室町~戦国時代の築城と推定される典型的な山城である。総面積は7.6haにも及び、急峻な丘陵を巧みに利用して十余を理想的に配している。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内でも有数の城である。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えに当時の高度な築城技術が偲ばれる。また、城の立地についても北方で四津山城(高見城)越畑城に連絡し、南方に鎌倉街道を見下して、その遠方に小倉城を臨むという絶好の条件を備えている。当時の社会情勢から判断して松山城鉢形城を連絡する軍事上の重要拠点であったと考えられる。築城年代や城主名等に不明な点も多いが、一説には松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水の居城と伝えられている。(埼玉県教育委員会 嵐山町教育委員会)

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本郭下から南側の景観です、街道は右下を通ります

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本郭から北側へくだり、街道に戻ります/六万坂

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杉山六万坂の石仏群
石仏群が位置する道路は西の市野川筋から東の粕川筋へと通じる古道で、地元では通称「六万坂」と呼ばれている。道路脇に石仏が散在し、このうち江戸期の類別には庚申塔8、馬頭観音4、地蔵菩薩2、加意輪観音1、六十六部経塔1であり、造立年代は貞淳2年(1685)を初出として慶応3年(1867)までの182年間である。杉山地区で確認されている石仏は38基あり、そのうち15基がここに集中している。造立者は個人基に馬持講や庚申講といった講中などの集団によるものが12基と半数以上を占めている。この場所が当時の杉山村の中では特別な場所であり、村でどのような信仰が行われていたのかという特色を示す貴重な資料となっている。(嵐山町教育委員会)

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川の風景① 杉山城の先には越畑城(跡)がありました、街道は市野川に沿って北へ向かいます/六万橋(市野川)

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市野川
荒川水系の支流で流路延長は38.1 km。埼玉県大里郡寄居町大字牟礼字下金井の丘陵地帯北斜面の溜池に源を発する。流路を北から徐々に南東に向きを変え、田園地帯の中いくつもの小河川や沢を合流し次第に流量を増す。また、左岸の丘陵地帯沿いに関越自動車道が並行する。嵐山町役場付近で流路を東向きに転じ、東武東上線の北側を平行して流れる。滑川が左岸に合流し比企丘陵を抜けた辺りから流路を南から次第に東に向きを変える。市野川大橋が架かる富貴ゴルフ場付近では川幅は600mと最大になる。かつての荒川の旧堤防であったさくら堤公園付近で流路を南東に向きを変え、比企郡川島町三保谷宿と北本市石戸宿の境界付近で荒川右岸に合流するWikipedia)写真:六万橋

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越畑城跡/越畑(おっぱた)
越畑城跡は丘陵の頂きに築かれた本郭と二の郭、三の郭の小規模な城です。本郭は頂部縁辺に上幅2m、深さ1mの小規模な空堀を回し、虎口は折りをつけ食違いに作られていました。出土遺物の年代は15世紀後半で杉山城と同時期です。城の規模や構造、本郭から検出された狼煙を上げた土抗などから、鎌倉街道を見下ろす位置に置かれ、砦の役割を果たしていた城と考えられます。現在は関越自動車道により大半が消滅し、二の郭の一部と「越畑城址之跡」が残っています。(比企の中世・再発見/嵐山史跡の博物館)


・・・中爪/小川町

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街道の風景⑤ 市野川の左岸は小川町になります、左折して普光寺へ寄り道します/嵐山小川IC

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普光寺山門 山門に茅の輪が掛ってました

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普光寺
薬王山瑠璃光院普光寺(中爪の大師様、小川厄除大師)比企郡小川町中爪にある天台宗の寺院。小川七福神。小川町小川990 の八宮神社(やみやじんじゃ)の北隣に神宮寺として移転・中興したものWikipedia


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絹本着色徳川家康画像
この画像は中爪村を治めていた旗本高木甚左衛門正則が三代将軍徳川家光に懇願し拝領したものです。正保2(1645)正則はこの画像を安置するため、中爪村の鎮守である八宮明神の近くに普光寺を中興開基しました。開山にはもともと村内にあった毘沙門堂に隠居していた男衾郡赤浜村塚田(寄居町)の普光寺の僧尊栄を迎え、普光寺の寺号を襲用しました。像はやや右を向き衣冠束帯で敷畳の上に座り、右手に笏を持ち左手は太刀に添えています。頭上の御簾に葵巴文、背障に山水画、手前の板敷に一対の狛犬が描かれており、神格化された家康像として典型的なものです。軸木の銘から慶安4(1651)に奉納されたことが分ります。この画像は毎年417日に普光寺で公開されています。(説明板)

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八宮神社(やみやじんじゃ)鳥居/中爪

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八宮神社
中爪の善光寺は「大師様」もしくは「厄除け大師」の通称で知られる天台宗の寺院である。当社はこの善光寺の西に隣接している。中爪の鎮守として祀られてきた社で江戸時代には善光寺別当であった。創建の時期は明らかではないが、善光寺の創建が元和21616)と伝えられることから、当社もその前後に勧請されたものではないかと考えられている。(埼玉の神社/埼玉県神社庁)

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杉山(城)周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照
(赤:鎌倉街道 橙:同別ルート 青:市野川 緑:歩行ルート)


・・・・
資料ファイル

杉山城址

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比企城館跡群・杉山城址
杉山城址は鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に作られています。傾斜の急な切岸、大規模な横堀と屏風のように連続する折れ、枡形虎口や馬出部などを複合的に持つさまざまな虎口の形態など高度な築城技術の粋を集めたこの城は、戦国期城郭の最高傑作の一つと高い評価を得ています。今まで築城年代が不明でしたが、近年の発掘調査によって15世紀末から16世紀前葉の土器や陶磁器が出土したことから、長淳の大乱のあと山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗するために造った可能性が高いと考えられるようになりました。

発掘調査

本郭の東虎口は方形に区画されており、その内側にはハの字形に広がる石積みのあることがわかりました。このほか本郭南虎口、南二の郭南虎口などにも石組みが確認されたことから、小倉城とおなじく石組みで装飾された城であったことが明らかになりました。また、本郭からは焼けた壁土とコマイとして使用されていた竹の炭化材が大量に出土しました。南二の郭と南三郭からも少量の炭化材の出土があったため杉山城は城の広い範囲火災があった後に廃絶されたことがわかります。

出土品

染付・白磁・青磁・褐釉(かつゆう)などの中国から輸入された陶磁器、瀬戸美濃・常滑などの国産陶器、地元産のかわらけ(出土物の大半を占めています。武士の儀式や宴で用いられたった1回使うと捨てられました)や火鉢、硯・砥石・臼などの石製品、中国の貨幣、釘、はかりの錘、鍛冶滓(さい)など多彩な遺物が出土しました。年代は15世紀末から16世紀初頭に近い前半の限られた時期とみられます。(県立嵐山史跡の博物館リーフレット)

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大手(出口)

出郭 
大手の前に配置されている部をいい、北側には低い土塁が見られます。一見無防備な広い空間に見えますが、この説明板の部分には発掘調査によって溝が掘られていることが分かり、大手には直線的に侵入できないような工夫がされています。(案内板)

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南三の郭

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南三の郭 西虎口
二の虎口から西へ下ると細長い帯状(帯郭)が続きます。右(北)に進むと井戸跡に向かい途中の斜面には市野川沿い(城郭西側)から登ってくる敵にた対して横方向への動きを防ぐため竪堀が数本ご覧いただけます。

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左(南)に進むと南三の郭を一周するように馬出部に向かい、南三の郭南側の屏風状に造られた屏風折り(土塁)をご覧いただけます(案内板)




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馬出部
馬出部は南三の郭と大手の間に位置する堀で囲まれた小さな空間です。南三の郭南虎口に向かい登って行くと左側に土塁が張り出しており、横矢掛りが設置され防御の工夫を見ることが出来ます(案内板)


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南の二郭               食違い虎口

食違い虎口
南三の郭と南二の郭の間に設けられてある虎口は左右の土塁が平行にずれている虎口(食違い虎口といいます)になっています(案内板)

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三の郭から本郭へ           東の二郭・東の三の郭

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本郭

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杉山城跡(国指定史跡)/本郭
この城は戦国時代の築城と推定される典型的な山城です。総面積は8haに及び、山の高低差を利用して巧みに10あまりの郭(くるわ)を理想的に配置しています。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい埼玉県でも屈指の名城と評価されています。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えには当時の高度な築城技術が偲ばれます。「馬出し」や「桝形」の塁線を屈曲させて構える「横矢掛り」の多用は、その典型とされるものです。また、城の立地についても北方越畑城高見城と連絡し、西方全体に鎌倉街道を見下ろすという絶好の条件を備えています。当時の社会情勢から判断して松山城鉢形城とを繋ぐ軍事上の重要拠点の一つであったと考えられます。築城年代や城主名等に不明な点も多いですが、地元では松山城主上田氏の家臣・杉山(庄)主水の居城と伝えています。この城跡はすべて私有地であり地権者のご理解とご協力によって公開されているものです。文化財保護にご理解いただき利用、見学をしていただくようお願いいたします。(嵐山町教育委員会)

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本郭北虎口
北方面の虎口は強力な横矢掛りに守られています。南西の井戸跡方面から帯郭を登り進んできた敵は大きく廻りこまなければ本郭に侵入できないよう工夫されています。虎口の前は小さな平場(虎口受けと言います)が見られます(案内板)


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北二の郭               北三の郭

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北二の郭先から望む北側の景観です

by Twalking | 2018-01-23 13:37 | 鎌倉街道(新規)

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