鎌倉街道上道(10)嵐山~赤浜01-杉山
天気 晴れ
風は少しありますが天気がいいので出掛けました。
嵐山から奈良梨、今宿を通り荒川の渡し・赤浜に向かいます。
帰りの便を考えると東上線男衾駅がよさそうですね。
資料等を見ますと嵐山から中爪へは市野川沿いと丘陵越えの
2ルートがあるようですが、ひとまず川沿いの道を行きます。
旧道の跡が残るようなので現地ですり合わせできれば幸いです。
・・・菅谷/嵐山町
菅谷宿
川越・児玉往還あった宿場。現在の埼玉県比企郡嵐山町の武蔵嵐山駅周辺の市街地が該当する。東京方面からくると国道254号(旧道)は菅谷交差点で左折して小川町へ向かうが、川越・児玉往還は直進でありかつてはこのルートが正統なルートであったことを示している(Wikipedia)
嵐山三差路を直進して下ります 東武線の踏切を横断します
・・・志賀/嵐山町
埼玉県道296号菅谷寄居線
埼玉県比企郡嵐山町と大里郡寄居町を結ぶ一般県道である。途中、深谷市(旧大里郡花園町)荒川から大里郡寄居町までは国道140号と重複している。旧花園町から嵐山町に掛けてはかつての鎌倉街道上道の街道筋を辿っている。(Wikipedia)
本堂 門前から南の景観です
・・・杉山
昔、杉山に金子屋という団子屋があり親切できれいな娘がいて繁昌していました。ある晩、泥棒が店の金、そして娘をさらい逃げました。娘は途中多右衛門の家の前で助けを求めました。昔侍だった多右衛門は追いましたが娘は斬られ、探すと首と胴は別々になり変わり果てた姿になっていました。多右衛門は娘の供養にと娘に似たお地蔵さんを作り毎月命日の24日にはお花やお線香をあげました。ところがある晩、お地蔵さんの首が誰かが取り幾度続けても首だけがない不思議なことが続きました。今も首のないお地蔵さんはお参りの人々の「苦悲や悲しみがなくなる」のでその後利益から「苦悲なし地蔵」と呼ばれています。(説明板)
この城は室町~戦国時代の築城と推定される典型的な山城である。総面積は7.6haにも及び、急峻な丘陵を巧みに利用して十余の郭を理想的に配している。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内でも有数の城である。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えに当時の高度な築城技術が偲ばれる。また、城の立地についても北方で四津山城(高見城)越畑城に連絡し、南方に鎌倉街道を見下して、その遠方に小倉城を臨むという絶好の条件を備えている。当時の社会情勢から判断して松山城と鉢形城を連絡する軍事上の重要拠点であったと考えられる。築城年代や城主名等に不明な点も多いが、一説には松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水の居城と伝えられている。(埼玉県教育委員会 嵐山町教育委員会)
荒川水系の支流で流路延長は38.1 km。埼玉県大里郡寄居町大字牟礼字下金井の丘陵地帯北斜面の溜池に源を発する。流路を北から徐々に南東に向きを変え、田園地帯の中いくつもの小河川や沢を合流し次第に流量を増す。また、左岸の丘陵地帯沿いに関越自動車道が並行する。嵐山町役場付近で流路を東向きに転じ、東武東上線の北側を平行して流れる。滑川が左岸に合流し比企丘陵を抜けた辺りから流路を南から次第に東に向きを変える。市野川大橋が架かる富貴ゴルフ場付近では川幅は600mと最大になる。かつての荒川の旧堤防であったさくら堤公園付近で流路を南東に向きを変え、比企郡川島町三保谷宿と北本市石戸宿の境界付近で荒川右岸に合流する(Wikipedia)写真:六万橋
越畑城跡は丘陵の頂きに築かれた本郭と二の郭、三の郭の小規模な城です。本郭は頂部縁辺に上幅2m、深さ1mの小規模な空堀を回し、虎口は折りをつけ食違いに作られていました。出土遺物の年代は15世紀後半で杉山城と同時期です。城の規模や構造、本郭から検出された狼煙を上げた土抗などから、鎌倉街道を見下ろす位置に置かれ、砦の役割を果たしていた城と考えられます。現在は関越自動車道により大半が消滅し、二の郭の一部と「越畑城址之跡」が残っています。(比企の中世・再発見/嵐山史跡の博物館)
・・・中爪/小川町
薬王山瑠璃光院普光寺(中爪の大師様、小川厄除大師)比企郡小川町中爪にある天台宗の寺院。小川七福神。小川町小川990 の八宮神社(やみやじんじゃ)の北隣に神宮寺として移転・中興したもの(Wikipedia)
中爪の善光寺は「大師様」もしくは「厄除け大師」の通称で知られる天台宗の寺院である。当社はこの善光寺の西に隣接している。中爪の鎮守として祀られてきた社で江戸時代には善光寺が別当であった。創建の時期は明らかではないが、善光寺の創建が元和2年(1616)と伝えられることから、当社もその前後に勧請されたものではないかと考えられている。(埼玉の神社/埼玉県神社庁)
(赤:鎌倉街道 橙:同別ルート 青:市野川 緑:歩行ルート)
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資料ファイル
杉山城址
杉山城址は鎌倉街道を見下ろす丘陵の尾根上に作られています。傾斜の急な切岸、大規模な横堀と屏風のように連続する折れ、枡形虎口や馬出部などを複合的に持つさまざまな虎口の形態など高度な築城技術の粋を集めたこの城は、戦国期城郭の最高傑作の一つと高い評価を得ています。今まで築城年代が不明でしたが、近年の発掘調査によって15世紀末から16世紀前葉の土器や陶磁器が出土したことから、長淳の大乱のあと山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗するために造った可能性が高いと考えられるようになりました。
発掘調査
本郭の東虎口は方形に区画されており、その内側にはハの字形に広がる石積みのあることがわかりました。このほか本郭南虎口、南二の郭南虎口などにも石組みが確認されたことから、小倉城とおなじく石組みで装飾された城であったことが明らかになりました。また、本郭からは焼けた壁土とコマイとして使用されていた竹の炭化材が大量に出土しました。南二の郭と南三郭からも少量の炭化材の出土があったため杉山城は城の広い範囲で火災があった後に廃絶されたことがわかります。
出土品
染付・白磁・青磁・褐釉(かつゆう)などの中国から輸入された陶磁器、瀬戸美濃・常滑などの国産陶器、地元産のかわらけ(出土物の大半を占めています。武士の儀式や宴で用いられたった1回使うと捨てられました)や火鉢、硯・砥石・臼などの石製品、中国の貨幣、釘、はかりの錘、鍛冶滓(さい)など多彩な遺物が出土しました。年代は15世紀末から16世紀初頭に近い前半の限られた時期とみられます。(県立嵐山史跡の博物館リーフレット)
出郭
大手の前に配置されている部をいい、北側には低い土塁が見られます。一見無防備な広い空間に見えますが、この説明板の部分には発掘調査によって溝が掘られていることが分かり、大手には直線的に侵入できないような工夫がされています。(案内板)
二の虎口から西へ下ると細長い帯状(帯郭)が続きます。右(北)に進むと井戸跡に向かい途中の斜面には市野川沿い(城郭西側)から登ってくる敵にた対して横方向への動きを防ぐため竪堀が数本ご覧いただけます。
馬出部は南三の郭と大手の間に位置する堀で囲まれた小さな空間です。南三の郭南虎口に向かい登って行くと左側に土塁が張り出しており、横矢掛りが設置され防御の工夫を見ることが出来ます(案内板)
食違い虎口
南三の郭と南二の郭の間に設けられてある虎口は左右の土塁が平行にずれている虎口(食違い虎口といいます)になっています(案内板)
三の郭から本郭へ 東の二郭・東の三の郭
この城は戦国時代の築城と推定される典型的な山城です。総面積は8haに及び、山の高低差を利用して巧みに10あまりの郭(くるわ)を理想的に配置しています。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい埼玉県でも屈指の名城と評価されています。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えには当時の高度な築城技術が偲ばれます。「馬出し」や「桝形」の塁線を屈曲させて構える「横矢掛り」の多用は、その典型とされるものです。また、城の立地についても北方に越畑城、高見城と連絡し、西方全体に鎌倉街道を見下ろすという絶好の条件を備えています。当時の社会情勢から判断して松山城と鉢形城とを繋ぐ軍事上の重要拠点の一つであったと考えられます。築城年代や城主名等に不明な点も多いですが、地元では松山城主上田氏の家臣・杉山(庄)主水の居城と伝えています。この城跡はすべて私有地であり地権者のご理解とご協力によって公開されているものです。文化財保護にご理解いただき利用、見学をしていただくようお願いいたします。(嵐山町教育委員会)
by Twalking | 2018-01-23 13:37 | 鎌倉街道(新規)