東生田自然遊歩道(向ヶ丘遊園駅~読売ランド前駅)01-生田緑地
天気 晴れ
多摩市内を歩いていましたが、移動の時間帯と
通勤ラッシュ等、混雑を避けて新緑の生田緑地から
東生田自然遊歩道を歩いてきました。
生田緑地は何回か訪ねていますが、自然豊かで史跡や
古刹も多く、また枡形城跡からの景観も良好で、
何度訪れてもわくわくする出会いがありますね、
天気もいいし、新緑の里山を楽しみたいと思います
枡形
枡形一丁目から七丁目は小田急線が多摩川沿いの平地から多摩丘陵へ入る入口の丘陵地帯に位置しています。丘陵の南側には日本民家園や生田緑地などがあって緑に恵まれた地域です。枡形も明治8年以前は上菅生村に含まれその後、生田村を経て昭和55年の住居表示で枡形一丁目~七丁目となりました。(多摩区・麻生区の町名の移り変わり/川崎市)
川崎市多摩区にある法華神道系の神社。神仏分離が行われた後も別当寺の日蓮種法言山安立寺によって祭祀が行われており、従って神社本庁には所属していない。境内は安立寺の開基檀越家・佐伯家の敷地で、社殿等は氏子講中である長森稲荷講によって護持されている。主神:長森稲荷大明神。(Wikipedia)
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・・・生田緑地
位置図 出土した副葬品/案内板
平安時代、川崎市のほぼ全域は「稲毛」と呼ばれており稲毛荘という荘園がありました。庄司が稲毛三郎重成であり、正室は北条時政の娘(姉は北条政子)です。飯室山には鎌倉時代初期(1190~1199)稲毛三郎重成により構築された枡形城の出城(見張りを兼ねる)がありました/説明板
小田急線向ケ丘遊園駅の西南約800mの丘陵地に枡形山があります。山頂は東西130m、南北80mの平坦地で眺望もよく、四方は容易に寄りつけないような断崖で囲まれた要害の地をなしています。おそらく枡形山という地名はこうした地形が枡の形に似ていることから名付けられたのでしょう。枡形山は枡形城跡とも呼ばれており、かつてはここが城であったことが文献からもうかがえます。古くは源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、稲毛三郎重成がここ枡形山を城としたと江戸時代に書かれた『新編武蔵風土記稿』は伝えています。稲毛三郎重成は北条政子の妹を妻に迎え源頼朝の重臣として活躍した人物です。
枡形山は約7アールのほぼ正方形の平地を山頂とし、その四方は刀をもって削り去ったような絶壁で眺望もよく天然の要害をなしている。その名も形が枡に似たところに由来するのであろう。源頼朝開幕の頃、領主稲毛三郎重成がここを居城としたと相伝え、下って永正元年扇谷山内両上杉氏の抗争に際し扇谷方に味方した北條早雲は立川に陣する山内軍を攻めるため、伊豆から進軍して途中ここに布陣し駿河の今川氏親もこれに駆け参じたことが当時の記録に残されている。また永禄12年甲斐の武田信玄が小田原へ乱入したとき土地の豪族横山式部少輔弘成は塁をここに築いて北條氏のために守ったとの古伝もある。これらのことからこの枡形山が山城としてしばしは戦国の武将に利用されていたことが推考さる。(昭和35年3月 川崎市)
鎌倉時代、多摩川沿いの丘陵地には山城や丘城がいくつも連なっていた。この枡形城をはじめ小沢城、作延城、亀井城、有馬城、井田城、加瀬城。多摩丘陵の突端にあって、いずれも関東平野を一望できる格好の地につくられ、鎌倉幕府の北の守りを固めていた。とりわけ稲毛三郎重成が本拠を置いたこの枡形城は要所で、重成の没後、幾度となく争奪が繰り返されている。城址の一隅にある「馬場あとも・・・」の碑は伊藤韋天が自作の句を刻んだもの(案内板)
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鎌倉時代稲毛三郎重成の居城があったといわれる枡形山に、昭和2年秋一堂が建てられました。本尊不動明王(像高39.5cm)と二童子は明治初年まで信州戸隠神社実道寺の仏像で、その後東京本所・竪(立)川の法樹院に奉安されていましたが、昭和5年現在地に本堂が建立され安置されました。昭和40年、武相不動尊霊28札所の第26番札所となり酉年には多くの参詣者が訪れましたが、平成5年冬焼失し現在跡地が生田緑地として整備されています。(説明板)
枡形山の北の麓には五反田川が流れており、かつては谷川と呼ばれていました。この川にかかる松本橋を渡り、城跡に向かう道はくらやみ坂と呼ばれて、両側の木々に陽をさえぎられ昼なお暗い急坂で、城の正面にあたる大手門へと通じる道でした。この坂の途中に真言宗広福寺があります。境内には稲毛三郎重成の墓といわれる五輪塔があり、平安時代の木造地蔵観音像と鎌倉時代の木造観世音菩薩像はともに県の重要文化財に指定されています。(多摩区・麻生区の町名の移り変わり/川崎市)(写真:くらやみ坂)
平安時代に開かれた真言宗広福寺は鎌倉時代、この地の領主稲毛三郎重成により中興されたと伝わる。本堂には木彫の重成像、境内にはその墓といわれる五輪塔もある。(川崎歴史ガイド)
広福寺は枡形城址の北側のふもとにある寺院で、その門には「稲毛領主菩提寺・稲毛館跡」と書かれた扁額が懸けられています。承和年間(834~848)に慈覚大師によって開かれた後、鎌倉時代に長弁阿闍梨によって中興されたと言われています。現在は真言宗豊山派に属し、準西国稲毛三十三所観音札所第1番となっています。
源頼朝の御家人稲毛荘長官(現川崎市・稲城市)。父は(現町田市)の領主小山田別當有重、母は(現宇都宮市)の領主・宇都宮宗綱の娘。重成は畠山重忠の従兄弟。内室は北条四郎時政の娘・尼将軍政子の実妹然后、建久6年7月4日病死。重成別離の愁に耐えず出家、広福寺を氏寺とし中興。建久9年12月28日三回忌供養に相模川に架橋(馬入橋)橋供養をする(石碑文)
天神社はこの辺り一円の氏神。古く「江戸名所図会」には韋駄天社と記されている。足の速い神として知られる韋駄天の像は今も広福寺の守護神として祀られている。(川崎歴史ガイド)
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by Twalking | 2021-04-15 11:53 | たまのさんぽ道(新規)