無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 .   

d0183387_17174361.jpg

------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

# by Twalking | 2017-12-31 23:59 | 自己紹介

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 バラ   

d0183387_22092049.jpg

多摩市愛宕
惹きつけられますね~
黄色いバラ
元気に咲いてます、ありがと~。

# by Twalking | 2017-05-25 22:19 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(5)お茶の水~柳橋02-浅草橋   

日時 2017.5.20(土)
天気 晴れ

昔は筋違い御門から浅草橋にかけて
右岸は柳の土手、左岸は河岸だったそうです。
面影はありませんが、裏路地は面白はいですね。

岩本町は以前、龍馬ウオークで訪ねたところ、
浅草橋は日光街道で歩きました。
そんな懐かしさもあってついつい寄り道、
街道とはまた違った出会いもあってよかったです。


・・・岩本町(右岸)

千代田区の北東部に位置する。岩本町と神田岩本町を含めた町域の北側は神田川を挟んで千代田区神田佐久間町・神田佐久間河岸に接し、東は千代田区東神田、南は中央区日本橋小伝馬町・日本橋本町、西は千代田区神田須田町・神田松下町・神田東紺屋町・神田紺屋町・神田西福田町・神田美倉町にそれぞれ接している。岩本町と神田岩本町の間を昭和通りが通っている。(Wikipedia

d0183387_00105723.jpg
神田川の風景① 左岸は神田佐久間町、右岸は岩本町になります/和泉橋

d0183387_00140829.jpg
和泉橋/昭和通り
この橋を和泉橋といいます。『御符内備考』には藤堂和泉守屋敷前の通りに架かるゆえに呼名にしたとあります。橋を渡った右側が和泉守の屋敷跡で神田和泉町の町名が残っています。神田川の南岸沿いには柳を植えた土手が築かれていたのでこの辺りを柳原といい、橋の北側一帯を向柳原(むこうやなぎはら)といいましたが、明治初年頃に柳は枯れたり取り除かれ、また関東大震災後の区画整理で土手も平になりました。橋はたびたびの火災で焼けましたが明治25(1892)に鉄橋となり欄干の唐草模様の中に神田和泉の文字が崩し模様になっていました。大正5(1916)に鋼橋に架け替え、さらに昭和2(1927)帝都復興事業の一環で拡張されました。長さ35.8m、幅44m、鋼橋。(千代田区教育委員会)

d0183387_00163069.jpg
昭和通り
1京浜・銀座中央通り(国道15号)とが交差する港区新橋交差点から明治通りが交わる台東区大関横丁交差点に至る道路の東京都通称道路名である。昭和通りは関東大震災の復興事業として計画、建設された道路である。当時東京市長だった後藤新平の原案では道幅を108mとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず結果現在の道幅に狭められ1928年(昭和3年)に完成した。(Wikipedia

d0183387_00192741.jpg
柳原土手跡/和泉橋
「江戸名勝志」に『柳原土手西は筋違橋(元の万世橋・よろずよばし)より東は浅草橋迄の間、長さ10丁余(1.1km)つづけり。柳樹多くあり』とあり昔このあたりは土手で柳の並木がありました。「柳森神社記」によると長禄2(1458)太田道灌が江戸城の鬼門よけに柳を植えさせたとあります。また享保(171635)のはじめ将軍吉宗が昔の柳が枯れて柳原土手の名だけになっていたので植えさせたものだともいいます。昔は町屋が土手の南側下まで並んでいたので、土手上を人は通行していました。寛政6年(1794)幕府は土手沿いの人家を取り払い火除け地とし、この明地(あきち)にその後老中松平定信は凶災に備えてお救い米を貯蔵する籾蔵(もみぐら)を建てました。安政3年(1856)この籾倉は葛飾郡小菅村に移されたため翌年夏よりこの跡地にまた町家ができました。柳森稲荷(柳森神社)は土手下にあって元禄八年(1695)はじめて社が完成し繁盛したといいます。故に稲荷河岸とも呼ばれていました。関東大震災(1923)で社殿は焼失しましたが再建され境内に力石などが残っています。また土手は昔、葦簀張(よしずばり)の古着屋、古道具屋が店を並べていたそうです。明治6年(1873)土手は崩されました。(千代田区教育委員会)

d0183387_00314379.png
柳原土手(緑:柳原土手 青:神田川 橙:中山道・日光街道 赤丸:筋違見附・浅草見附)

d0183387_00420293.jpg
江戸名所図会 柳原堤 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


d0183387_18083545.png
岩本町3丁目/和泉橋
江戸時代この界隈を流れる神田の土手は柳並木があったことから「柳原土手」と呼ばれていました。岩本町周辺は江戸城から見れば鬼門(北東方向)にあたります。柳森神社(現・神田須田町2丁目)の社伝によれば、太田道灌鬼門除け稲荷を祀り、を植えたのが始まりといわれています。そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは大名旗本などの武士たちでした。江戸時代の後半になると商人職人で町も栄えはじめます。さらに土手の周辺では古着を扱う露店が集まるようになりました。その伝統は明治維新後も引き継がれました。明治14年(1881)、現在の岩本町3丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。「岩本町古着市場」と呼ばれたこの市場には、多いときには400軒もの古着屋が軒を連ねていたと伝わっています。さらに昭和に入ると町内には4階建てのビルまで登場し「和泉橋ダンスホール」が併設されました。このように洒落て小粋な雰囲気を醸していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形もなく焼き尽くされてしまいました。それでも戦後この地は「服の町」としてよみがえります。紳士服や婦人服の製造を手がける繊維メーカーが集まってきて、この町でつくられた洋服が全国のデパートのショーウインドーを飾るようになりました。現在、数こそ減ってきましたが岩本町3丁目をささえ町の礎を築いてきたのはこうした繊維業者です。日本の繊維産業とともに発展してきた町それが岩本町3丁目なのです。(千代田区町名由来板)

d0183387_11482926.jpg
お玉ヶ池種痘所
お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さであったのが、安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけです。一時は池のほとりに梁川星巌の玉池吟社、市川寛斎の江湖詩社、大窪詩仏の詩聖堂、東條一堂の瑶池塾、佐久間象山の象山書院、剣士千葉周作の道場玄武館、磯又右衛門の柔道道場、永坂宅、清元太左衛門宅など文武の華が咲きほこりました。この標柱の場所は勘定奉行川路聖謨の屋敷内に設けられたお玉ヶ池種痘所があったところで、東京大学医学部発祥の地です。同学部は昭和33年に迎えた創立百年の記念に昭和36年文化の日お玉ヶ池種痘所記念碑と同時にこゝに元標を立てられました。(お玉ヶ池史蹟保存会)

d0183387_15261551.jpg
繁栄お玉稲荷神社/岩本町
桜ヶ池」と呼ばれた巨大な池に身投げしたお玉の霊を祀る社として「江戸砂子」「江戸惣鹿子名所大全」や「江戸名所図会」などに取り上げられている神社。隣接する小祠は弁天財を祀っている。『新撰東京名所図会』には古くからお玉ヶ池稲荷神社に龍神社と市杵島比売之命が合殿されていると記し、龍神の伝承も記されている。(千代田区観光協会)

d0183387_16101015.jpg
千葉周作玄武館跡・東條一堂の瑶池塾跡/東松下町
『千葉周作はここに玄武館を開いて北辰一刀流の剣術を指南し、その西隣に文政4年(1821)東條一堂は瑶池塾を開いて諸生に儒学と詩文を教授した(千代田区)』の案内板があったんですが、マンションになっていて見当たりませんでした。

d0183387_15441492.jpg
江戸名所図会於玉ヶ池の故事 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


・・・佐久間河岸(左岸)

d0183387_15561215.jpg
神田川の風景② 蔵地だったようです、橋詰に蔵をあしらったWCがあります/美倉橋

d0183387_15560832.jpg
美倉橋
神田川に架かり左衛門橋から約250m上流にあります。東神田13丁目と神田佐久間町4丁目の間を結び、清洲橋通り上にあります。江戸図を見ると正保年間(16441650)に記載はなく、承応年間(16531655)に「くわんはし」とあり、寛文年間(1670)以降には「あたらしばし」として出ています。神田美倉町はもと佐柄木町・本銀町・紺屋町の蔵地からなり三倉地と呼ばれ、橋の営繕は町の費用で行われていました。明治2年(1869)に三を美に改め町名・橋名にしました。現在の橋は昭和4年(19292月の架設、長さ35.35m、幅23.31mの鋼橋です。別名として、「くわんしんはし」・「あたらしばし」があります。(千代田区観光協会)

d0183387_16203326.png
神田佐久間町
佐久間町の町名は佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来すると伝わっています。実際この地域は江戸でも早い時期から商人や職人が集まる町でした。一方でこの地域は火事が多かったことも古文書に記されています。享保3年(1718年)には火災で焼け落ちた町の一部が防火のための火除地に定められ、そこに住んでいた人々は元誓願寺前(現在の神田東松下町周辺)に移動するように命じられます。しかし、町の人々にとって河岸(船荷を上げ下ろしする場所)に隣接したこの地から離れるのは好ましいことではなかったようです。そこで奉行所に願い出てたき火をしないことや建物の間を空けるといった条件つきで火除地の一部の使用許可を得ました。その結果、この界隈は商人や職人たちの町として発展を続け明治維新を迎えています。明治2年(1869)神田佐久間町4丁目元地、神田佐久間町4丁目裏町、そして神田富松町元地が合併し神田佐久間町4丁目となり、明治5年(1872年)には隣接していた武家地を編入しました。明治44年(1911)の町名変更でいったん佐久間町4丁目となりますが昭和22年(1947年)、神田区と麹町区が合併して千代田区となるとふたたび神田佐久間町4丁目となりました。(旧町名案内板)


・・・東神田

d0183387_16080707.jpg
神田川の風景③ 左岸は台東区、なんとなく川の雰囲気が変わってきました/左衛門橋

d0183387_16043415.jpg
左衛門橋
神田川に架かり東神田2丁目と同3丁目の間を結んでいます。もと橋の北側に酒井左衛門尉の屋敷があったことからこの橋名がつきました。明治4年(1871)の「東京大絵図」には記載がなく、明治33年(1900)発行の『新撰東京名所図会』には「長十四間幅三間なり。明治8年(1875)換架(経費1881円)したりしが、爾来25星霜を経、朽損せしを以て目下新設工事中にて……」とあります。現在の橋は昭和5年(19305月の架設、長さ35.5m、幅15.6mの鋼橋です。(千代田区観光協会)

d0183387_16060607.png
東神田3丁目
南に神田川をのぞむ東神田3丁目はかつて神田八名川町(やながわちょう)、神田元久右衛門町、神田餌鳥町(えとりまち)、神田向柳原町一丁目に分かれていました。このうち八名川町という名は江戸時代初期の元和2年(1616年)駿府在城時の徳川家康に奉仕した三河国八名川村出身の旗本22名がこの地に屋敷を与えられたことから付けられました。隣の神田元久右衛門町は同じく元和2年久右衛門という人物が町屋を草創したことに由来するとされています。このあたりは河岸地で材木商、薪炭(しんたん)商が多く住んでいました。一時、火事で深川に移転し、荷揚げに便利なこの地に願い出て戻り焼け跡を蔵地として復興しました。神田餌鳥町は鷹狩の鷹の餌となる小鳥などを飼う仕事を請け負っていた役人の屋敷が、神田餌鳥屋敷と呼ばれていたことからこの名が付きました。また、神田向柳原町は神田川南岸の柳原から見て川向こうであることにちなむ名前です。江戸時代からのこれらの町の名は明治5年(1872年)に正式な町名となりました。向柳原町は浅草区へ編入したのちに一部神田区へ戻り、神田向柳原町一丁目となります。昭和42年(1967)住居表示の実施により町名が大きく変わることになりました。このとき案として出された「秋葉原」や「秋葉」の名前に満足できなかった町の人たちは要望書を提出して「神田」の二文字を残すことにしました。こうして江戸時代から続いていた町名は東神田3丁目という名前に生まれ変わったのです。(町名案内板)


・・・
日本橋馬喰町/中央区(右岸)

日本橋地域の最北端に位置し千代田区(東神田)、台東区(浅草橋)との区境にあたる。日本橋横山町と共に東京都内屈指の問屋街である。(Wikipedia

d0183387_19525845.jpg
街道の風景① 懐かしいですね、日光・奥州街道の見附になります/浅草橋南交差点

江戸通り(6号)

千代田区大手町2丁目から台東区花川戸2丁目に至る道路の通称である。浅草橋交差点より先は隅田川とほぼ平行している。(Wikipedia


d0183387_19545925.jpg
郡代屋敷跡/浅草橋南詰
江戸時代に、主として関東の幕府直轄領年貢の徴収治水領民紛争の処理などを管理した関東郡代役宅があった場所です。関東郡代は天正18年(1590)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永19年(1642)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688-1704)には関東郡代という名称が正式に成立し代々伊奈氏世襲しました。その役宅は初め江戸城の常盤橋門内にありましたが明暦の大火(1657)による焼失後、この地に移り馬喰町郡代屋敷と称されました。寛政4年(1792)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなりこの地に居住しました。文化3年(1806)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には代官の拝領地となって馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。(中央区教育委員会神田川の風景④ いい風景ですね、柳橋の先に隅田川が覗いてます/浅草橋(江戸通り)

d0183387_20303767.jpg
初音森神社由緒/中央区東日本橋
当神社は元弘年間(1330年頃)に創祀され豊受比売命(宇迦之魂神)を祀る。文明年中太田道灌公により大社殿が建てられた。当時初音之里と呼ばれ奥州街道添い樟木等の生い茂った森、すなわち後の初音の森が現在の馬喰町靖国通り交差点の辺りであった。尚この処を初音の里と称え日本橋四之部、馬喰町、横山町はその中心に位置し、社殿建立によって付近の産土神として信仰をあつめた。天文20年(1551)社前に馬場が出来、初午祭には馬追いの催し等が行われ、天正日記に初音の馬場を当時の博労(馬喰)高木源兵衛預りの記録がある。徳川幕府の入府後、この所が見附番所(浅草見附門)建設にあたり境内地の半分程が削られ、更に明暦3年の大火後、その別当地(神社をお守りする寺:西光寺)も関東郡代屋敷地となり、現在本社(初音森神社)のある墨田区千歳替え地を拝領し遷宮、今日に及ぶ。昭和23年旧蹟の一部であるこの所(現地)に神社を建立し、昭和4812月新殿及び儀式殿を近代建築とした。(説明板)

d0183387_14325873.png
名井三日月の井戸由緒
慶長5年(1600)関が原の戦起るや徳川家康は下野国の小山にいたが急遽引返し、初音の馬場に勢揃し木村常陸之介を代参として初音森神社に戦勝祈願。神井の水にて一息、乗馬にもその水を呑ませて出発、大勝してかえった。後その縁故を以て神井に三日月(みかづき)と命名したと伝えられている。明暦3年(1657)の大火後、神社寺院の境内が幕府の用地に指定され移転する事となり、初音森神社も当時下総国葛飾郡たる現在本社のある墨田区遷宮した。旧跡は一部郡代屋敷、他は町家となり三日月の井戸も町家の庭内となった。江戸時代飲料水は順次水道になったが勿論充分ではなく、用水として井戸を掘っても飲料には不適であるため良水の井戸は有名となり古老の話には三日月の井戸の水は水売り商人が諸々に運んで売ったものだと云う。此の井戸のあった家に、浮世絵師喜多川歌麿紫廼家と名乗り住んでいたが、ある問題で歌麿が罰せられ遂に病死した。その後住んだ染物屋が有名な歌麿の屋号をつけてむらさきやとした。むらさきやは三日月の井戸を使用するにあたり、側に神祠を建て初水を供えて使用したと云う。明治にいたり水道の発達により20年頃井戸は埋められたが井桁に組まれた石の井戸枠は昭和3年の区割整理迄保存されむらさきやが移転に際し先祖よりの伝承を説明し、神祠の神鏡を当社に納めた。その神鏡は今も初音森神社に祀られている。(説明板)

d0183387_18005894.jpg
神田川の風景④ 柳橋の先に隅田川がのぞいています/浅草橋(江戸通り)

d0183387_20072418.jpg
浅草橋
神田川にかかる橋で国道6号(江戸通り)を通す国管理の橋である。その名の通り旧江戸郭内の日本橋と浅草を結ぶ橋であり、かつては浅草寺門前橋浅草橋御門)であった。五街道日光・奥州街道として非常に往来の多い橋梁であった。現在も浅草橋を通る道路は国道6号に指定されており、古今を通じて交通の要所を担っている。Wikipedia

d0183387_20131968.jpg
浅草見附跡碑
浅草見附は江戸36門の中外郭門に配する12見附の一つであり、奥羽への街道口として寛永13年に設営された。慶長年間すでに浅草橋の名があり、見附が廃されたのは明治以前のことである。これに因んで昭和961日現在の浅草橋123丁目の町名が生れた。昭和31101日開都500年大東京祭記念浅草南部有志観光協会之を建てる(碑文)

江戸城三十六見附

江戸城門に置かれた見附(見張り番所)のうちの目ぼしい36か所を挙げたもの。見附とは本来、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所に由来する言葉で、城門を警護する番兵が通行人を見張る場所のことを言い、とくに枡形をもつ城門の監視場所を指した。俗に江戸城には36見付があったといわれ(江戸城36見附)現在も四谷見附・赤坂見附など地名として残っている。実際には江戸の城門の見張り場所自体はもっと多数あったようだが(6690など諸説あり)枡形門を持つ見附は幕府作事方の資料によると外曲輪に26門あり、内曲輪にいくつあったかは明らかになっていない。語呂の関係から枡形の26門に目ぼしい10門を足して「三十六見附」とし江戸の名所として喧伝されたようである。Wikipedia


・・・浅草橋


台東区の地名で旧浅草区にあたる浅草地域内である。浅草橋1丁目から5丁目まで設けられている。人形やビーズアクセサリー、雑貨、店舗用品等を取り扱う会社・店舗が多く建ち並んでいる。(Wikipedia

d0183387_22393630.jpg
街道の風景② 浅草寺へ向かう江戸通り、賑やかですね/浅草橋駅前

d0183387_22421670.png
旧浅草橋
浅草橋という町は昭和9年(1934)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。江戸幕府は主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永13年(1636)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。(旧町名由来案内板/台東区)

d0183387_23011927.jpg
銀杏岡八幡神社鳥居/浅草橋


d0183387_23015633.jpg
銀杏岡八幡神社
後冷泉天皇の御代
源頼義公、八幡太郎義家公は、朝廷の命に依り奥州の安倍貞任、宗任を平定する為に奥州街道を下向の砌当地に至りました。当時このところは小高い丘で隅田川の流れを一望出来る絶景の地であった。一休止のため陣をとりました時、川上より流れくるものを拾い上げてみますと銀杏の枝でありました。その枝をこの丘の上に差し立て都の氏神を遥かに拝み「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と祈願し旅立ち安倍一族を平定の後、再びこの地に帰り至りました時丘の上に差した銀杏の枝は大きく繁茂しておりましたので、義家公は御神恩に感謝し、この処に大刀一振を捧げ八幡宮を勧請いたしましたのが、康平5年(1062)当社の始と伝へられています。そしてこの銀杏は大樹となりまして、隅田川を上り下りする舟や街道を行き交う人々のよい目標となりましたが、時代は下り徳川家江戸入府後、元和4年(1618)この地は福井藩松平家の屋敷となり、邸内社として尊崇されてまいりましたが、享保10年(1725)この地が公収され屋敷の跡地は町屋となり同15年、時の町奉行大岡越前守様に依り福井町と命名され願いにより当社は地域の産土神として崇敬されてまいりました。大銀杏は延享2年(1745)9月14日台風のため中程より折れましたが、高さ6m位を残して繁茂しておりましたが、文化3年(1806)江戸大火の折焼失しました。御祭礼は、江戸時代8月15日に執り行われていましたが、明治の中頃より6月15日にかわり、現在は原則として6月第1土曜、日曜に執り行っています。(説明板)

d0183387_15003583.jpg
須賀神社鳥居/浅草橋

d0183387_15005331.jpg
須賀神社
巻子本仕立のものと天正塚碑文というものとあるが内容はだいたい同じである。すなわち推古天皇九辛酉年(601)このあたり(武蔵国豊島郡)に疫病が流行した折、郷人等が牛頭天王に病難平癒を願ったところ、ことごとく快気を得たのでこの所にをたてたのが創始とされる。68日と伝えられる。『求涼雑記』『江戸名所図会』等にも村上天皇の天暦年中(94757)神祠があったことを記している。江戸時代将軍家光の時、松平伊豆守信網公銭を与え賜わり、時の奉行神尾備前守元勝、朝倉石見守在重に命じて造替せしめ寛永16年(1639)りっぱに竣工せりと記している。当社所在地である蔵前は江戸時代「札差」が軒を並べていたところで、当社の氏子にもその札差が多かった。札差とは旗本や御家人の代理として禄米を受けることを業とした、いわば米商人で吉宗将軍のころには109名もが公認されていたといわれている。彼らは武士への金貸しなども行なって富を得、次第に江戸の経済を動かすほどの勢力を持つようになった。それが大の祭り好きで6月の祭礼もその財力を背景にして大いに賑わった。その有様は『江戸名所図会』には4頁にわたって描かれている。また文政の頃(181830)両国吉川町大黒屋平吉の板による新版御祭双六にも出ている。明治以降、天台宗東叡山寛永寺末真鏡山宝現院大円寺から分離して須賀神社と改称した。大正12年関東大震災・昭和20年の戦災被害をうけたが、昭和36年社殿・社務所等建物はことごとく完成した。(東京都神社名鑑)

d0183387_17472730.png
浅草橋周辺マップ
(青:神田川・隅田川 橙:日光・奥州街道 茶:江戸通り・靖国通り)


# by Twalking | 2017-05-25 20:47 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狛犬-銀杏岡八幡神社   

d0183387_19114080.jpg
阿形

d0183387_19114411.jpg
吽形
新しく奉納(平成4年)されものですが、かなかな愛嬌がありますね。


d0183387_19151315.jpg
その先に一対だけの狛犬、古い方でしょうか。
文化11年(1814年)の奉納??、さすがにどっしりとして重厚です。

銀杏岡八幡神社/台東区浅草橋


# by Twalking | 2017-05-24 19:40 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

d0183387_08560144.jpg
アジサイ
愛宕下通り/多摩市愛宕
ひと雨、ほしいね・・・、
ふ~ぅ。

# by Twalking | 2017-05-24 09:10 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(5)お茶の水~柳橋01-神田   

日時 2017.5.20(土)
天気 晴れ

暑くなりそうですね~、
いよいよゴールの柳橋を目指します。
駿河台、神田、浅草橋等見所は一杯あります。

距離はありませんが下町はよく知りませんので
ひとまずさわりだけでもと、思っています。
暑いのであまり無理せず歩きます。


・・・御茶ノ水


文京区湯島から千代田区神田に至る千代田区神田駿河台を中心とした一帯の地名(通称)。台地上にあり、中央部を東西に走る掘割に神田川(両区の境界にあたる)が流れ、またJR東日本御茶ノ水駅がある。江戸時代は付近一帯が大名屋敷地であった。現在では地区内と周辺に明治大学、東京医科歯科大学、順天堂大学などの大学や専門学校、予備校が集る日本国内最大の学生街として知られ、また、江戸の総鎮守・神田明神湯島聖堂ニコライ堂等を始めとする宗教施設、有名病院等が多数存在。
古くは北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きで「神田山」と呼ばれていたが、2代将軍秀忠の時代に水害防止用の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が形成された。同じ頃、その北側にあった高林寺から泉が出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことからこの地が御茶ノ水と呼ばれるようになったといわれる。Wikipedia

d0183387_20072249.jpg
神田川の風景① 神田山を崩して壕割った渓谷です、右が淡路坂、左が相生坂になります/聖橋

d0183387_20165827.jpg
聖橋/本郷通り
神田川に架けられた橋の1つ。千代田区駿河台と文京区湯島にまたがり本郷通り(都道403号)を結んでいる。御茶ノ水駅の東端にある。放物線を描くアーチ橋で形式は鉄筋コンクリートアーチ橋。関東大震災後の震災復興橋梁の1つで昭和21927)に完成した。設計・デザインは山田守、成瀬勝武。名前は東京市(現:東京都)が公募し、両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名された。橋は船から見上げた時に最も美しく見えるようにデザインされており御茶ノ水駅のホームからはややそれに近い視点で見ることができる。長さ92.0m、幅22.0m(Wikipedia

d0183387_20173600.jpg
近代教育発祥の地/湯島
江戸時代このあたりは学問(儒学)の府であった聖堂(孔子廟)の一部、昌平坂学問所(昌平黌:しょうへいこう)があったところである。寛政9(1797)学問所の学寮、宿舎が建てられ、旗本や藩士の子弟を対象とした教育が施された。明治維新後、学問所は新政府に引き継がれ昌平学校、大学校、東京大学と発展していった。明治4(1871)に文部省が設置され我が国の近代教育の原点となる施策が展開されることになった。当地には明治5(1872)師範学校(翌年東京師範学校と改称)が開校し、その後隣接地に東京女子師範学校が置かれた。東京高等師範学校は明治36年に大塚窪町に移転し後に東京教育大学(現筑波大学)となり、東京高等女子師範学校は昭和7年に大塚に移転し後に新制大学として発足の折、この場所の地名を冠しお茶ノ水女子大学と称し現在に至っている。(文京区教育委員会)

d0183387_22514318.jpg
駿河台交差点から坂上方向の景観です/本郷通り

本郷通り

千代田区神田錦町および内神田の神田橋交差点から北区滝野川の飛鳥山交差点に至る道路の通称である。文京区本郷を通ることからこの名が付けられた。国道17号線内は中山道、都道455号線内は日光御成街道(岩槻街道)の道筋である。(Wikipedia

d0183387_22462418.jpg
太田姫神社(旧地)/淡路坂上
太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり 伊達家と徳川家が神田山を開削した時 江戸城の結界また鬼門の護り神として江戸城内よりこの地に移された 昭和6年(1931)総武線開通に伴い 現在の駿河台下に移る。なお、鉄道(「甲武線」中央線の前身)は堀の中にあり、開通時天皇家との間に「堀幅を減じない」「中で商業を営まない環境を守る」との約束がある(明治期鉄道史より)

d0183387_23090510.jpg
軍艦山/ソラシティ
大正12年(1923)の関東大震災では神田駿河台周辺においても火災により多くの建物が焼失しました。震災後の復興区画整理事業により本郷通りと聖橋が整理され、本郷通りと霊南坂の交差部分には石垣による鋭角の角地ができました。石垣をよく見ると幽霊坂側と本郷通り側では石種や石組が異なるのが分かります。この辺りは「軍艦山」と呼ばれ、特に昭和10年代には子供たちの遊び場となっていました。軍艦山先端の石垣とクスノキは往時のまま残され、岩崎彌之助邸擁壁の煉瓦を再利用したこの歴史案内板や広場のベンチと共に神田駿河台の歴史ある風景を継承しています。(案内板)岩崎彌之助邸跡/ソラシティ

d0183387_23172607.jpg
蜀山人終焉の地/ソラシティ
太田蜀山人は、名は覃(ふかし)、通称直次郎・七左衛門、南畝・四方山人などの号を称しました。寛延2(1749)に江戸の牛込に生まれ、勘定所の役人として支配勘定まで登用され、大坂銅座、長崎奉行所への赴任などの役目を歴任しました。また幼少期から学問を好み、文筆に優れた才能を発揮しました。明和4(1767)に狂詩集「寝惚先生文集」が評判となり、寛政初年までは「万載狂歌集」、洒落本「甲駅新話」を発表し、のちに随筆「半日閑話」、「一話一言」を執筆しました。文化9(1812)に当地に移り住み、文政6(1823)に没するまで過ごしています。(説明板)

d0183387_23181942.jpg
岩崎彌之助は嘉永4(1851)に土佐国で生まれ、明治7(1874)後藤象二郎の長女早苗との結婚を機に、当地の洋館に住みました。明治18(1885)に三菱2代社長に就任し、三菱社を設立して本社を当地に置きました。彌之助は、鉱業、造船を中心に、銀行、保険、倉庫業にも力を注ぎ、経営の多角化を行いました。また丸の内や三崎町の官有地を買い取り、それぞれにオフィス街や繁華街を計画しました。彌之助は文化・芸術を好み、収集した図書を母体として静嘉堂文庫を当地に設立し、東洋固有の文化財の収集を行いました。(説明板)

d0183387_23202940.jpg
幽霊坂
この坂を幽霊坂といいます。もとは紅梅坂と続いていましたが、大正13年(1924)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた坂になりました。「東京名所図会」には「紅梅坂は」「往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりしを、今は改めて紅梅坂と称す」とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂などとも呼ばれていたこともあるようですが一般には幽霊坂の名でとおっています(千代田区)

d0183387_23530584.jpg
ニコライ堂/神田駿河台
このすばらしい聖堂は高さ約34.5m、鐘楼の高さは約37.7m、建坪は約105002あります。ニコライ堂とはこの堂を建てたニコライ大主教の名前をとった呼称で、正しくは日本ハリストス正教会教団東京復活大聖堂といいます。建築の様式はビザンチン式が基本で、壁が厚く窓が小さく中央にドームがあり外からみると壮大で堅牢です。細かい部分にイギリスのロマネスク風やルネッサンス式が巧みに取り入れられているのは、イギリス人のジョサイア・コンドルが工事監督にあたったからでしょうか。そもそもこの大聖堂が建てられた駿河台の場所は、江戸時代は定火消屋敷跡で火の見櫓が高くそびえており、ニコライがはじめて明治5(1872)に東京に来たい際、この地に大聖堂と心に決めた所でロシア国公使館の付属地でもありました。最初の大聖堂はロシア人・シュチュールボフの基本設計、コンドルの監督設計、長野泰輔の工事責任で、明治17(1884)に工事が始まり約7年かかって明治24年(1891)に完成しました。(千代田区観光協会)

d0183387_23552639.jpg
太田姫稲荷神社鳥居/駿河台道灌通り

d0183387_23562419.jpg
太田姫稲荷神社
千代田区にある神社である。旧社格は村社。社伝によると室町時代中期に太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)に罹って生死の境をさまよい、京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が小野篁にまつわる縁起により天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、長禄元年(1457)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を築いたとされる。後に城内鬼門に祀られた。徳川家康江戸入府後、慶長11年(1606)に江戸城の改築により、城外鬼門にあたる神田川のほとり(南側・右岸)(現在の千代田区神田駿河台4丁目、後に架けられた聖橋南詰の東側)に遷座した。明治5年(1872)村社に定められ名も太田姫稲荷神社と改めた。大正12年(1923)の関東大震災では社殿が焼失、湯島天神に避難したが昭和3年(1928)に再建された。昭和6年(1931)に御茶ノ水駅の総武線拡張により現在地遷座した。淡路坂上の旧社所在地で御茶ノ水駅臨時改札口脇に残された椋の木には元宮を示す木札と神札が貼られている。Wikipedia


・・・神田

1947
年に神田区が麹町区と合併し千代田区が発足する際、神田区内の町名にはすべて「神田」を冠称する町名変更がなされた.元は現在の大手町の平将門首塚付近から神田山(駿河台)にかけての一帯を指したが、江戸城・城下下町整備後には常盤橋から浅草橋にかけての奥州往還沿いに成立した本町通り北側地域を指すようになった。江戸時代後期には幕府が武芸修練所として現在の小川町に設置した講武所や、北辰一刀流の玄武館などの剣術道場があった。伝馬町牢屋敷も置かれ安政の大獄では多くの人物が処刑された。Wikipedia

d0183387_00144760.jpg
今回は淡路坂(右岸)を昌平橋へ下ってみました/駿河台

d0183387_00172710.jpg
淡路坂
この坂を淡路坂といいます。この坂には相生坂、大坂、一口坂(いもあらいざか)などの別名もあります。坂上に太田姫稲荷、道をはさんで鈴木淡路守の屋敷がありこれが町名・坂名の由来といわれます。一口坂太田姫稲荷が一口稲荷(いもあらいいなり)と称したためです(標柱)

神田淡路町(右岸)

代田区の北部に位置し神田地域に属する。主に商業地として利用される。江戸時代は武家地だった。1872年(明治5年)神田淡路町12丁目が起立する。1911年(明治44年)に神田の冠称を外したが1947年(昭和22年)に神田区が千代田区に合併すると同時に冠称を復した。地名は淡路坂に由来する。淡路坂は江戸前期に坂上西側に鈴木淡路守の屋敷が存在したことに由来し一口坂(いもあらいざか)相生坂とも呼ばれた。一口坂は坂上東側にあった太田姫稲荷神社旧称に由来する。相生坂とは本来神田川を挟んで並行する坂との総称だが、現在ではそちらの坂のみを相生坂と称する。(Wikipedia

d0183387_12085592.jpg
街道の風景① 昌平橋を挟み昌平橋架道橋(手前)松住町架道橋と歴代の鉄道橋が架かります/淡路坂下(外濠通り)

昌平橋架道橋
千代田区神田須田町1丁目・神田淡路町2丁目にある鉄道経(架道橋)、JR東日本中央本線を通している。中央本線が昌平橋駅から万世橋駅まで延長された際、昌平橋駅-万世橋駅間(紅梅河岸高架橋-万世橋高架橋間)の一等道路第二類の道路(現在の外濠通り)に架けられた橋梁である。橋長:44.2m 線数:複線(3線)竣工:1908年(明治41年)(Wikipedia

d0183387_12312515.jpg
神田川の風景② 上流側にはお馴染みの総武線神田川橋梁が架かります/昌平橋


神田川橋梁

千代田区外神田1丁目・神田淡路町2丁目にある鉄道橋、JR総武線が御茶ノ水駅まで延長された際、御茶ノ水駅-秋葉原駅間の神田川に架けられた橋梁である。橋脚は八の字形のラーメン形式であるのが特徴である。本橋梁の御茶ノ水方はコンクリート製橋台が中央線上り線を跨ぐ形となっている。秋葉原方はコンクリート製橋台を挟んで松住架道橋へと繋がる。橋長:56.0m 線数:単線×2 竣工:1932年(昭和7年)(Wikipedia


d0183387_12375801.jpg
神田川の風景③ 下流側は万世橋&秋葉原、右岸は旧万世橋駅跡(現マーチエキュート神田万世橋)になります/昌平橋


d0183387_12422843.jpg
昌平橋
外濠通り上にあり上流側・下流側に歩行者用の橋が併設されている。橋の北は千代田区外神田1丁目・同2丁目、南は千代田区神田淡路町2丁目・神田須田町1丁目で、北側の総武本線松住町架道橋・南側の中央本線昌平橋架道橋(昌平橋ガード)に挟まれた場所にある。この地に最初に橋が架設されたのは寛永年間1624 -1645)と伝えられており、橋の南西にある淡路坂の坂上に一口稲荷社(いもあらいいなりしゃ、現在の太田姫稲荷神社)があったことから「一口橋」や「芋洗橋」(いずれも「いもあらいばし」と読む)と称した。また『新板江戸大絵図』(寛文五枚図)には「あたらし橋(新し橋)」、元禄初期の江戸図には「相生橋」とも記されている。1691年(元禄4年)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで同年22日(169131日)に「昌平橋」と命名された。Wikipedia

d0183387_13110493.jpg
神田川の風景④ この一帯がハつ小路、筋違い見付があった所です/神田須田町

神田須田町(右岸)

千代田区の北東部にある地区。かつては中央線の前身甲武鉄道の始発駅万世橋駅や青物市場があったところで、明治・大正期は一都心部を形成して繁栄。その後、1936年に万世橋駅は廃止となり、駅舎跡には交通博物館が建てられた。青物市場も関東大震災後は外神田、さらに大田区に移転。江戸時代の柳原土手の古着市の伝統を受継ぎ服地、洋服付属品の問屋が多く卸売えい商業が盛んである。(コトバンク)

d0183387_13194506.png
御成道/マーチエキュート神田万世橋
「御府内備考」に「御成道、筋違外(すじかいそと)広小路の東より上野広小路に至るの道をいう」とあります。筋違は筋違御門のあった所で、現在の昌平橋の下流50mの所あたりに見付橋が架かっていました。御成道の名は将軍が上野の寛永寺に参墓のため、江戸城から神田橋(神田御門)を渡りこの道を通って行ったからです。見附内の広場は八つ小路といって江戸で最も賑やかな場所で明治時代まで続きました。八つ小路といわれたのは筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町(須田町)、柳原の各口に通じていたからだといわれます。また、御成道の道筋には武家屋敷が多くありました。江戸時代筋違の橋の北詰めに高砂屋という料理屋があり庭の松が評判であったといいます。明治時代には御成道の京屋の大時計は人の眼をひいたようです。また代々餅で売出した有名な店もありました。(千代田区)
(青:神田川 紫:御成道 橙:中山道 緑:八つ小路 赤:筋違い御門・筋違い橋・昌平橋)

d0183387_13595155.jpg
江戸名所図会 筋違ハツ小路 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
左が筋違い御門・筋違い橋、右手が昌平橋になります。万世橋が架けられたのは後の時代です。

中山道(湯島聖堂・神田明神)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21114882/

d0183387_21520228.jpg

d0183387_23182865.jpg
旧万世橋駅(右)
かつて中央線の神田~御茶ノ水間に明治451912)年に開業した「万世橋駅」がありました。昭和18年に休止になりましたが、赤レンガの万世橋高架橋の中にホームや階段など駅の施設が一部残っていました。「旧万世橋駅」はこれら駅の遺構を再生し歴史的価値ある遺構を随所にご覧いただける施設です。開業当時の姿をほぼ留めた「1912階段」や交通博物館開館時に設けられた「1935階段」をはじめとする遺構を公開するほか、旧万世橋駅時代のプラットホームにデッキを設けた“2013プラットホームにはフリースペースやカフェがあります。このほかにも万世橋駅の足跡を今に伝える展示も実施しています。(東日本鉄道文化財団)


d0183387_13544161.png
万世橋と神田祭
外神田にある神田明神平将門を祀った江戸の総鎮守として、古代以来柴崎村(神田橋内)に鎮座していたが、江戸城築城にあたり慶長8年(1603)に神田駿河台、元和2年(1616)に現在地に移った。江戸時代の神田祭は山王権現の山王祭とともに「天下祭」と呼ばれ、将軍が上覧、神幸行列が江戸城内に入ることを許された祭礼である。山王祭と神田祭は隔年で執行され、各所が自前の山車と神輿を仕立てた行列が町を練り歩くので、祭礼番付とよばれたパンフレットが毎年作られるなど各所化されていった。神田祭は915日に庶民の祭礼として執り行われ雉子町の名主である斉藤月琴(げっしん)が著した「江戸名所図会」や「東都歳時記」によれば贅を尽くした練り物が町中に練り歩き、人々は桟敷を造って見物したとある。明治時代の「新撰東京名所図会」によれば明治17年神田祭は40余りの山車が八辻(筋違八小路)に集合し、万世橋を渡り聖堂前より師範学校前を経て神田神社に向ったとある。電線の設置など都市の近代化によって明治期以降、山車行列が難しくなり巡行が少なくなっていく。(説明板)

d0183387_14512082.jpg
神田川の風景⑤ 上流側の昌平橋方向の景観です/万世橋

d0183387_14354189.jpg
万世橋
中央通り(国道17号)上にある。万世橋の歴史は1676年(延宝4年)に架けられた筋違橋に遡る。当橋は徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の昌平橋と万世橋との中間にあった。すぐ南に筋違見附があり、橋はその見附の付属物であった。1872年(明治5年)に筋違見附が取り壊され、翌1873年(明治6年)にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ2連の石造りの橋が完成した。当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第にまんせいばしという音読みが一般化した。眼鏡橋とも呼ばれた。上流の昌平橋1873年に洪水に流され1896年(明治29年)に復旧されるまでは、現在の万世橋の位置に仮木橋が架けられ、それが昌平橋と呼ばれた。この期間は万世橋の下流に昌平橋があったことになる。1903年(明治36年)一時昌平橋と呼ばれた仮木橋の場所(現在の位置)に新万世橋が架け直され、元万世橋と名を変えた上流の眼鏡橋は1906年(明治39年)に撤去された。新万世橋は1923年(大正12年)の関東大震災で被災したが、直ちに修復された。(Wikipedia

d0183387_14411396.png
震災復興と万世橋
明治5年(1872)に筋違見附が取り壊され、翌年その石材を再利用して筋違橋の場所にアーチ2連の石造りの橋が完成した。この橋は当時の東京府知事・大久保忠寛が萬世橋(よろずはし)と命名したが、次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化した。さらに明治29年(1896)に万世橋東側木橋を架けて馬場鉄道が開通する。明治361903)に現在の位置に新しい万世橋が架け直され、元万世橋と名前を変えた上流の眼鏡橋の方は後に撤去された。この元万世橋には路面電車が走るなど東京の名所となったが、大正12年(1923)の関東大震災で被災し、昭和5年(1930)に長さ26m、幅36m、石及びコンクリート混成のアイーチ橋に架け替えられた。現在神田川に架けられている橋の多くは震災復興橋梁と呼ばれる大正末年から昭和初期に架け替えられたもので、各橋は地域性を踏まえたデザインで造られたという。トラスドアーチ橋の聖橋、鋼ラーメンゲルバー桁橋のお茶の水橋、ヒンジアーチ橋の和泉橋と美倉橋など神田川にある震災復興橋梁は様々な構造で造られ、親柱や欄干にデザインに特徴を見出すことができる。(説明板)

d0183387_14473759.jpg
神田旅籠町/万世橋
この周辺はかつて神田旅籠町と呼ばれていました。昌平橋北側に当たるこの地は中山道の第一宿場である板橋宿日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として旅籠が数多く立ち並んでいたため「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。江戸幕府は五街道のなかでも遠く京都に通じる東海道と中山道の整備に特に力を入れていました。

d0183387_22025179.png
また、日光御成街道は将軍日光参拝の際必ず通った街道で現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。しかし、天和2(1682)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大樋です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄7(1694)には浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原(やないはら)周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも1丁目と2丁目ができました。さらに明治2(1869)昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅籠町3丁目と改称されました。さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが幕末のころにはほとんど姿を消しています。『諸問屋名前帳』によれば嘉永(1848~1854)のころまで残っていた旅籠はわずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町はその後、活気あふれる商人の町として生長をとげたのです。(千代田区町名由来板)

d0183387_14253794.jpg
街道の風景② 万世橋を渡ると秋葉原、賑やかな街です/万世橋(中央通り)

d0183387_15062955.jpg
秋葉原(左岸)
東京都の千代田区と台東区にまたがる地名。JR秋葉原駅周辺の外神田134丁目、神田佐久間町12丁目一帯を指す。1869(明治2)12月の火災以後、火よけ地を置き70年に秋葉神社をまつり秋葉ヶ原と称したことに由来する。かつては〈あきばはら〉と呼ばれていたが、駅名の〈あきはばら〉の方が一般化した。神田川北岸に位置し江戸時代から町屋(商店街)として発達してきた。JR山手・京浜東北両線と総武線が交差し、貨物駅もあり、また駅に隣接してあった東京中央卸売市場神田分場は1989年、大田区東海の東京卸売市場大田市場(386000m2)が開設されて移転した(コトバンク)

d0183387_15305743.jpg
神田川の風景⑥ 新幹線を潜ると柳森神社があります/神田ふれあい橋

d0183387_15321628.jpg
神田ふれあい橋
神田川に架かりJR東北新幹線のすぐ東側にあります。同新幹線の工事用の橋でしたが、地元の要望により工事完了後も撤去しないで平成元年(19894月から歩道橋として供用されています。神田須田町2丁目と神田佐久間町1丁目を結んでいます。それまで遠回りしなければ行き来できなかった両地区の住民が直接往来できることになったので親しみをこめて「神田ふれあい橋」と命名されました。長さ48.6m、幅2.6mの鋼橋です。(千代田区観光協会)

d0183387_15440585.jpg
柳森神社鳥居/神田須田町(右岸)

d0183387_15441758.jpg
柳森神社
祭神:倉稲魂大神 境内社:倉稲魂大神
今を去る500余年の昔、この東京が武蔵野の原と称し足利時代の頃長禄2年(1457太田道灌公江戸築城の時、その東北方即ち此所に城郭鎮護鬼門除けとして京都伏見稲荷大明神を勧請して御祀り申し上げ、神田川土堤一帯柳の木を多数植え繁茂したるに依り、柳原の名と共に柳森神社の起源となった。其の後、江戸城を中心に年を追って江戸八百八町は繁栄しこの柳森神社も商売繁盛の神として非常に賑わいを極めたのである。元禄と文政の頃には徳川家より社殿造営の寄進があり、其の造営物は大正129月の関東大震災にて惜しくも烏有に帰した。尚其頃迄には柳町・小柳町・元柳町向柳町・柳原河岸などと柳に因んだ町名のあったことも此の柳の森より起因したものである。昭和30年が当神社創建500年祭に相当するので、崇敬者の発願に依って祈念事業として此の神楽殿を建立し、同年515日楽慶大祭を執行した次第である。例大祭は毎年51415日。昭和365月吉日(境内説明板)

d0183387_15490798.jpg
d0183387_15492205.jpg
おたぬきさん・福寿神御由来
江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して漸く泰平の世を迎えた5代将軍綱吉公の御代、将軍のご生母桂昌院によって江戸城内に福寿いなりとして創建された。桂昌院は京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて3代将軍徳川家光の側室となり5代将軍徳川家綱吉の生母となる。大奥の御女中衆は他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいと、こぞって「おたぬきさま」を崇拝したという。後世、元倉前甚内橋際・向柳原の旗本・瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、明治2年現在の柳森神社に合祀されました。開運、諸願成就の福寿神として殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上などにご利益があると信奉されております。なお当社において頒与する〝おたぬきさん〟と呼ばれる土製の親子狸のお守りは素朴で大変に愛されております。(説明板)



d0183387_15514331.jpg
富士講関係石碑群
柳森神社は延宝8年(1680)に駿河富士宮浅間神社から分祠した富士浅間神社を相殿・合祠しました。また『東都歳時記』には天保期(18301844)頃の「富士参」の例として柳森神社が上げられています。これらのことから柳森神社は富士講に関わりが深い神社であり、富士塚なども境内に築かれていたと思われています。この塚が明治時代以降何らか理由で一度廃れてしまい、これに対して昭和5年に周辺の富士講によりあらたに富士塚が再建されました。本件の石碑群はこの時再建された富士塚の周辺に移設あるいは設置されたと思われます。しかし戦後には富士講そのものが廃れてしまい、昭和35年に富士塚は破却されました。この際、余った黒ぼくの石を境内の東南隅に積み上げて小山と築きこの周辺に富士講石碑群を設置し直しました。こうして石碑だけが富士講の信仰の痕跡として残されることとなりました。

d0183387_15541380.jpg
各石碑の名称/制作年代/寸法(高××厚、単位cm)/作製者は以下の通りです。①北富士分教会の碑/昭和5年(193011月改築/83.5×79.4×7.5/不詳 ②神田八講の碑/大正14年(19256月再建/141.5×67.5/13.4/神田八講③北口神田講社の碑/昭和5年(193061/139.5×64.2×12.7/山京講④小御嶽大神の碑/(年代不詳)/61.0×35.0×./不詳富士講とは浅間信仰の信者が組織した講であり、夏季に富士山に登山して祈願・修行をしました。江戸時代、特に町民・農民の間で流行し、江戸にあっては沢山の講社が組織され俗に「江戸八百八講」などとも称されます。これらの講社の内から、居ながらにして富士登山が出来る様に富士山とその山内の修行場などを模した塚を築くことが行われるようになりました。この様な塚が富士塚です。富士講の信仰は江戸時代においては幕府の度重なる禁令に抗うかのように隆盛しましたが、明治以降の交通の発達、特に東海道線の開通による登山道、登山方法の変化や、入山に際しての女人禁制の撤廃による登山のあり様そのものの変化の中で、徐々に富士講は数を減らし始め、第二次世界大戦前後には多くの講社が姿を消していきました。したがって富士塚の幾つかも徐々に破却されていきました。都内では現在50前後の富士塚が現存するばかりですが、台東区の「下谷坂本の富士塚」(台東区)豊島区の「豊島長崎の富士塚」練馬区の「江古田の富士塚」は国の有形民俗文化財に指定されているなど、幾つかは文化財として保護されはじめています。「富士講関係石碑群」は江戸時代以降、昭和初期まで当地域に存在した富士講に関わる記念碑であり、千代田区内とその周辺におけるこの時代の信仰の一端を示してくれる貴重な資料です。(千代田区教育委員会)

d0183387_15562920.jpg
力石
「力石」とは一定重量の大小の円形または楕円形の石で、若者達が力試しに用いたと記録されている。古来、わが国民間信仰では石にかかわる信仰は多い。また「力石」に於ける伝承の一つとして「道切」説もあるが、「巨人伝説の大草鞋」同様と考えられる。しかしこれらは石神等に関する伝承の変化であって、昔は村々に疫病の侵入を防ぐための神であり、呪い等であったようである。(疫病は道を伝って来ると信じられていた。)この境内にある「力石」は大正年間(19121926)、当時この道の力士として有名であった神田徳三こと飯田徳三とその一派が使っていた力石の一部と伝える。なお、江戸後期に素人の力持ち仲間で有名な者に、神田明神下の酒屋で内田屋金蔵、神田鎌倉河岸豊島屋の徳治()郎の二人が共に大関格であったとの記録がある。これ等「力石」は江戸・東京の若者たちの生活と娯楽等の一端を知るうえで貴重な資料である。(千代田区教育委員会)

d0183387_16131200.jpg
神田川の風景⑦ 昔は左岸が佐久間河岸、右岸は柳原堤が続いてました/神田ふれあい橋

d0183387_20032761.png
御茶ノ水駅周辺マップ(青:神田川 橙:中山道 紫:御成街道)

# by Twalking | 2017-05-23 23:19 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 竹林の径   

d0183387_10231590.jpg

竹林の径
鶴牧西公園/多摩市鶴牧
竹林にす~と風が抜けて
心地いい午後のひと時
自然のすだれに感謝。

# by Twalking | 2017-05-23 10:40 | ○たま-2017

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 御茶ノ水駅   

d0183387_19500289.jpg

中央線御茶ノ水駅
千代田区神田駿河台
狭い渓谷にあるので神田川に構台を作り
全ての作業はここから行うとか、
長い工事ですね~、お疲れさまです。


御茶ノ水駅
千代田区と文京区にあるJR東日本・東京メトロ(丸ノ内線)の駅である。JR東日本の駅は当駅の所属線である中央本線と、当駅を終点とする総武本線(支線)との分岐駅となっている。中央本線の当駅以西(新宿方面)は急行線(快速線)と緩行線との複々線区間である。急行線には東京駅発着の中央線快速電車が、緩行線には総武本線(錦糸町駅方面)と直通運転を行っている中央・総武各駅停車が乗り入れる。(Wikipedia

# by Twalking | 2017-05-22 20:26 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 黄菖蒲   

d0183387_09210875.jpg
黄菖蒲
谷戸の木陰に
涼しげに
目に優しいですね、ありがとう~。


キショウブ
(黄菖蒲)
アヤメ科アヤメ属の多年草。花茎の高さは60-100 cmになる。葉は幅2-3 cm、長さ60-100 cm、剣形で中脈が隆起し明瞭で縁は全縁。花期は5-6月でアヤメやハナショウブと同じ、外花被片が大型の広卵形で先が下に垂れ、内花被片が小型で直立した黄色の花を咲かせる。外花被片の中央に茶色がかった模様がある。和名は花が黄色であることに由来し、班入葉や八重咲きなどの園芸種がある。(Wikipedia

# by Twalking | 2017-05-22 09:28 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕陽   

d0183387_21184126.jpg
夕陽
鶴牧西公園/多摩市鶴牧
暑かったですね・・・
まだその余韻を残しつつ
静かに暮れていきます。

# by Twalking | 2017-05-21 21:28 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狐さん-銀杏岡八幡神社   

d0183387_10415286.jpg

銀杏岡八幡神社
台東区浅草橋
「え~い」
「う~ん、まだまだ」
灯籠を挟んで力くらべかな・・・。

# by Twalking | 2017-05-21 10:45 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 蕃茉莉   

d0183387_09140395.jpg

蕃茉莉
銀杏岡八幡神社/台東区浅草橋
いい香り
うかがったら「バンマツリ」
はじめてだね、よろしく~。


ニオイバンマツリ(匂蕃茉莉)

ナス科ブルンフェルシア属の常緑樹。初夏から夏にかけて花が咲く。漏斗状の花弁で5弁に開く。花は咲き始め濃い紫色で次に薄い紫色、最後は白色になる。強い芳香がある。葉は互生し革質で光沢がある。和名の匂蕃茉莉は匂(香り)があり、蕃(外国)からの、茉莉(ジャスミン類)の意味で「香りのある外国からのジャスミン」を意味する。ただしジャスミンはモクセイ科ソケイ属であり別属。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-05-21 09:44 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 助六   

d0183387_23285108.jpg

助六
江戸東京博物館/墨田区横砂


助六

浄瑠璃、歌舞伎などの登場人物。延宝(1673-81)のころにおきた京都の万屋(よろずや)助六と島原の遊女揚巻(あげまき)の心中事件をもとに脚色、上方で心中物として流行。のち江戸の2代市川団十郎が花川戸 (はなかわどの)助六として明快な男達(おとこだて)にした助六を演じ江戸庶民の人気を博した。歌舞伎十八番「助六由縁(ゆかりの)江戸桜」として今日につたわる。(コトバンク)

# by Twalking | 2017-05-20 23:32 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 狸さん-柳森神社   

d0183387_21315722.jpg

狸さん
柳森神社/柳原堤(千代田区神田須田町)
「起立、礼!」
ありがと~、気持いいね~。


# by Twalking | 2017-05-20 21:47 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(4)江戸川橋~御茶ノ水03-巻石通り   

日時 2017.5.11(木)
天気 晴れ


神田川と神田上水、ちょっとごちゃごゃしていました。
神田上水は大洗堰で取水し水戸屋敷から外濠を懸樋で越え、
江戸市中に給水していた江戸最古の上水道でした。

その流路は現在の「巻石通り」にあたります。
ここは初めて歩く道でしたが、寺社や旧跡も多くて面白いです。
都水道博物館にも寄り江戸上水の歴史など興味深く拝見しました。
少し整理が進みました、ありがとうございます。


・・小日向/文京区

小日向台
という台地があり坂が多い。坂には「切支丹坂」「薬罐(やかん)坂」など江戸期からの名称がついている。閑静な住宅街。石川啄木・安倍公房・横溝正史などの旧居があった。旧・茗荷谷町付近はその地形の美しさから「茗渓」(めいけい)という美称でも呼ばれていた。『江戸砂子』によれば、当地は鶴高日向守善仁寺の所領で家が絶えたあと「古日向」といっていたのがいつしかこの名になったという。鶴高日向は名主飯塚三四郎家の遠祖といい、小日向水道端鶴高山善仁寺の開基とされる。また、『十方庵遊歴雑記』は大塚大慈寺(現在廃寺)が昔日向国にあり徳川家康に従い当地に移転し、火災後大塚に移転したと伝わることからこの意味の「古日向」の可能性もあるとする。(Wikipedia

d0183387_16522729.jpg
巻石通りの風景① 神田上水は現在の巻石通りを水戸屋敷へ流れていました/江戸川橋

d0183387_16554948.png
旧町名案内-小日向水道町
古くは小日向村の内でほとんどが畑であった。明暦2年(1656)町屋となった。正徳3年町方支配となった。承応年間(165255)から町は神田上水定浚(じょうざらえ)を命じられたので水道町と名づけられた。明治2年知願寺、清光院、龍興寺の門前を併せ同5年久世邸及び武家地、寺地を併せた。大日坂から西、音羽通りの崖上一帯は下総関宿の藩主久世大和守(老中職の家柄)の下屋敷であった。明治維新後長く草原となり、今も「久世山」と呼ばれている。いつか星夜となりて 久世山の 木々にまつわる 霧消えにけり/金子薫園(文京区)
(旧町名案内地図に紺:神田上水(巻石通り)青:神田川 緑:坂等を色付けしました。以下同様です)

d0183387_16595408.jpg
妙足院/小日向

d0183387_11242517.jpg
覺王山長善寺妙足院
東叡山護國院末で本尊は大日如来、寛文年中の創立、浩善法尼の開基に係り、初めは草庵であつたが2世玄順の時護國院末となり山寺號を定めた。文政時代の寺地は御年貢地140坪と借地140坪とで、その大日堂は大日坂名稱の由来をなし、小日向の一名所として縁起が『江戸名所圖会』『新編江戸志』其他に記されている。(小石川区史)


d0183387_17024645.jpg
大日坂/小日向
……坂のなかばに大日の堂あればかくよべり。」(改撰江戸志)この「大日堂とは寛文年中(166173)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。この一円は寺町の感のする所である。『この町に遊びくらして三年居き 寺の墓やぶ深くなりたり』折口信夫(筆名・釈超空1887-1953)文京区教育委員会)

d0183387_17061417.jpg
江戸名所図会 大日坂大日堂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

d0183387_11091431.jpg
巻石通りの風景② 左手が旧黒田小の跡地、白堀跡の説明板があります/総合福祉センター

d0183387_17393940.png
神田上水白堀跡
文京区小日向12丁目南遺跡神田上水旧白堀跡
文京総合福祉センター建設工事に伴い平成23年から24年にかけて実施された文京区小日向12丁目南遺跡の発掘調査で神田上水関連遺構が検出されました。この地は旧黒田小学校(後の区立第五中学校)の跡地にあたります。神田上水は、神田川(旧平川)を水源として江戸市中のおよそ23割の範囲に飲料水をまかなった江戸を代表する上水道として知られています。神田上水が市中に入るこのあたりの白堀開渠の堀)は、神田川の北岸小日向台地の南側縁辺部を沿うように流れていました。

d0183387_17432096.png
本調査で初めて発見された新旧2筋の堀跡は間知石の石積み護岸で、長さは60m以上確認されその一部を現地で展示しています。展示範囲は旧白堀の石積み護岸(15b号遺構)をそのまま利用した新白堀の護岸(15a号遺構)が後に石蓋(万年巻石蓋)で覆われて渠化された所です。発掘調査時には石蓋は取り除かれ石積みも一部破却された状況でしたが、見つかった状態のまま復原し展示しています。東京砲兵工廠(小石川後楽園)では、東京市内への上水の供給が終了した明治341901)年以降も神田上水を工業用水や園内の大泉水の水源として使用していました。大正初期、石蓋で覆われた水路は鉄管の水路へ置換し姿を消します。関口大洗堰の取壊しや庭園用の深井戸設置に伴い昭和81019331935)年頃神田上水の役割は終焉を迎えます。神田上水関連遺構は都市化の進む江戸・東京で飲料水をどう確保してきたのかを考える上で貴重な情報を提供しているといえます。(文京区教育委員会)

d0183387_19411118.jpg
小日向神社鳥居/小日向


小日向神社d0183387_19411742.jpg
祭神 誉田別皇命、建速須佐之男命。
当神社は氷川神社八幡神社を合祀して明治25月に小日向神社と改称された。天慶3年(940)の春、当時の常陸国の長官平貞盛がこの地方を平定して、その奉賛として現在の文京区水道橋2丁目日輪寺の上の蓮華山に建立したものである。また、八幡神社は昔の名を「田中八幡」といい現在の文京区音羽1丁目に鎮座していた。創立は貞観3年(860)の春の事と記述されている。古くからこの地域の氏神さまとして里人に親しまれていた。なお当神社には有栖川宮・小松宮の掛軸や額等があったが、去る昭和20525日の戦災によりすべてのものを焼失した。現在、残っているものは短刀二振だけである。なお、当神社の氏子区域は文京区水道1丁目・2丁目、小日向1丁目・2丁目・3丁目・4丁目、関口1丁目である。(文京区神社誌)

d0183387_19491859.jpg
服部坂/小日向(坂下)
坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷がありそれで「服部坂」と呼ばれた。服部氏屋敷跡には明治2(1869)小日向神社が移された。永井荷風は眺望のよいことろとして『日和下駄』に「金剛寺坂荒木坂 服部坂 大日坂等はみな斉しく 小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい」と書いている。坂下にある文京区立第5中学校はもと黒田小学校といい永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。(文京区教育委員会)


d0183387_19494358.jpg
新渡戸稲造旧居跡/服部坂(坂上)
新渡戸稲造
文久2年(1862)〜昭和8年(1933)教育家・農学博士・法学博士南部藩士の子として盛岡で生まれ、明治4年(1871)上京した。明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。同校卒業後、東京帝国大学専科に学びさらにアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。明治24年メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国、札幌農学校で教えた。

d0183387_19494721.jpg
明治36年京都帝国大学教授、同39年第一高等学校長を経て東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長などを歴任した。また、拓殖大学の学監(学長)も務めた。その人格主義教育は学生たちに深い影響を与えた。日本と外国をつなぐ「太平洋の橋」になりたいと若い時から考え、わが国の思想や文化を西洋に西洋のそれをわが国に紹介することに努めた。国際的にも広く活躍し大正9年(1920)に国際連盟事務次長となり「連盟の良心」といわれた。昭和2年(1927)帰帰国の後、太平洋問題調査会理事長となりきびしい国際情勢のもと平和を求めて各地の国際会議に出席するなか昭和8年にカナダで亡くなった。当地は明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎えニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。(文京区)


・・・水道
/文京区

文京区西部に位置し東西に細長い町域を持つ。巻石通りから神田川に向かって若干傾斜する地勢的特徴を持ち全域とも概ね標高10m以下である。南は神田川、目白通り並びに高架の首都高5号池袋線を介して新宿区と関口、北は巻石通りを介して春日2丁目、小日向1一丁目・2丁目、西は音羽通りと江戸川橋駅を介して音羽、関口、東は神田川が大きく向きを変えるあたり(大曲交差点付近)で後楽2丁目に接する。(Wikipedia

d0183387_20084224.jpg
巻石通りの風景③ 左手に寺社が並び寺町になっています/水道図書館前

d0183387_21464397.png
旧町名案内-水道端12丁目
もと神田川上水堀南北に沿った町で、町名は水道端と名づけられた。明治5年上水堀の南側の持筒組(戦時に先鋒となる)屋敷および武家地を併せて水道端1丁目とした。明治5年上水堀の北側の荒木坂服部坂の間の武家地や寺地を併せて2丁目とした。ここは寺通りで称明寺、本法寺、日輪寺、善仁寺など片側に軒並み寺院が続いている。神田上水は最古の上水道で、徳川家康の命で大久保主水が造った。井の頭池を水源とし、小日向台地下を素掘りで通した。明治11年頃石で巻いて暗渠にした。それで巻石通りまたは水道通りと呼んでいる。(文京区)

d0183387_20253626.jpg
本法寺山門/小日向

d0183387_20334195.jpg
本法寺
高源山随自院本法寺は東本願寺の末寺で真宗大谷派に属し、夏目漱石(金之助)の菩提寺である。夏目家は代々江戸の名主をつとめた。明治141月に母、203月に長兄、6月に次兄が本法寺に葬られた。それ以来漱石はしばしば小日向を訪れた。亡き母を詠んだ句もある。兄の死を悼んだ英文のスピーチを旧制一高で弁じたこともある。蓮如の「御ふみ」の言葉を友人子規に書き送りもした。作家となってからは「坊っちゃん」の清の墓をここに設けるなど漱石の心の中に本法寺の幻はゆらめきつづけた。境内には早稲田大学第14代総長奥島孝康が揮毫した漱石の句碑がある。(早稲田大学創立125周年記念)

d0183387_22142212.jpg
巻石通りの風景④ この辺りの土手に第六天が祭られていたようです。現在は北野神社境内に合祀されてます/小日向交差点

d0183387_11394788.png
旧町案内-旧第六天町
もと小日向村に属し正保3年(1713)町方支配となった。神田上水堀の土手の上に第六天社が祭られていた。その北側の前の町ということで第六天前町と称した。明治2年称名寺門前を併せ、同5年には旧久世長門守下屋敷、寺地、千手組屋敷などを合併した。町名は第六天前町の前を省いて第六天町と変更した。今井坂を上ったところ、もと大久保長門守の屋敷跡に明治34年最後の将軍慶喜(よしのぶ)が移ってきた。そして大正2年ここで波乱の一生を終わらせた。(文京区)
d0183387_20360348.jpg
江戸名所図会 小日向水道端道祖神 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


d0183387_20391134.jpg
荒木坂と巻石通り/小日向交差点 
称名寺の東横を小日向台地に上がる坂である。『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡五丈程(15)、巾貳間貳尺程(4)、(御府内備考)と記されている。この坂下の小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は上水に沿った通りを「水道通り」とか「巻石通り」と呼んでいる。神田上水は井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。明治11年頃水質を保つため開渠に石蓋をかけた。その石蓋を「巻石蓋」と呼んだ。その後、神田上水は鉄管に変わり飲料水としての使用は明治34(1901)までで、以後は水戸屋敷跡地に設けられた兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。(文京区教育委員会)

d0183387_11454255.jpg
今井坂(新坂)/文京区春日(金富小)
『改撰江戸志』には「新坂は金剛寺坂の西なり、案に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(171116)開けしと」とある。新坂の名のおこりである。今井坂のおこりは『続江戸砂子』に「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった」とある。この坂の上西側一帯は現在財務省の宿舎になっている。ここは徳川最後の将軍・慶喜が明治34(1901)以後住んだところである。慶喜は自分が生れた小石川水戸屋敷に近いこの地を愛した。慶喜はここで専ら趣味の生活を送り大正2(1913)に没した。現在、その面影を残すものは入口に繁る大公孫樹のみである。この町に遊びくらして3年居き寺の墓やぶ深くなりたり(釈 超空)(この町とは旧金富町をさす)(文京区教育委員会)

d0183387_22212651.jpg
徳川慶喜公屋敷跡/今井坂(坂上)
徳川幕府最後の将軍徳川慶喜18371913)は水戸徳川藩主斉昭(なりあき)の7男として、小石川上屋敷(現在の小石川後楽園一帯)で生まれた。一橋家の家督を継ぎ、慶応2年(1866)第15代将軍に就任。翌年、大政を奉還したが鳥羽伏見の戦とそれに続く江戸城開城の後、恭順の意を表し水戸にて謹慎の後、駿府に隠棲した。明治30年(1897)東京に戻り、同34年(1901この地に移り住んだ。慶喜はのちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ大正2年(19131122日、急性肺炎のためこの地で没した。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。(文京区)

徳川慶喜墓の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17030445/


d0183387_22342464.png
旧町名案内-旧金富町
明治2年小石川金杉水道町の一部、小石川富坂新町、小日向金剛寺門前町、多福院門前町の4町を合併した。町名は金剛寺の金と富坂新町の富の頭文字をとって金富町とした。金剛寺坂上に俗に鶯谷というところがあった。ここに江戸時代狂歌で有名な大田蜀山人(南畝)が住んでいた。また、小説家永井荷風は明治12年金富町45番地に生まれ、少年時代を過ごしこのあたりから伝通院周辺は荷風の心のふるさとであった。小学校は黒田小学校を卒業した。(文京区)
d0183387_22414146.png
神田上水路/金富小付近
日本最初の上水といわれる「神田上水」は、江戸時代初期徳川家康の命を受けて大久保藤五郎忠行が開いた。井の頭池、善福寺池、妙正寺池の流水を落合で合わせ、目白台下の現在の大滝橋辺りにを設けて川の水位を上げて上水とし、余った水は神田川に(江戸川)に流した。上水は水戸屋敷(現在の小石川後楽園)を通し現在の水道橋東側で神田川にを架けて渡し神田・日本橋方面に給水した。この上水は江戸時代から長い間江戸・東京市民の生命の糧として大きな役割を果たした。明治3419016月飲用水としての給水を停止しその使命を終えた。この前の道路は神田上水の流路で、開渠であったものを明治の初めに暗渠として道路としたものである。通称「水道通り」といい旧町名に水道町、水道端の名を残している。(文京区教育委員会)

d0183387_23155266.jpg
江戸名所図会 金剛寺 氷川神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

神田上水左岸の丘は寺地です。現在、本法寺同じ位置にありますが、金剛寺は中野区へ移転、氷川神社は小日向神社に名を変えています。


金剛寺坂/春日
江戸時代この坂の西側・金富小学校寄りに金剛寺という禅寺があった。この寺のわきにある坂道なのでこの名がついた。小石川台地から神田上水が流れていた水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。この坂の東寄り(現・春日2-20-25あたり)で明治12年に生まれ少年時代をすごした永井荷風は、当時の「黒田小学校」(現在の旧第五中学校のある所、昭和20年廃校)にこの坂を通ってかよっていた。荷風は昭和16年ひさしぶりにこの坂を訪ずれむかしを懐しんでいる様子を日記に記している。(文京区教育委員会)


・・・春日

文京区南部に位置する。北で小石川、東で本郷、南で後楽、南西で水道、西で小日向と接する。春日通り(国道254号)に沿って北西から南東に延びる細長い町域を持つ。1630年(寛永7年)に徳川家光の乳母春日局が拝領、町屋にした。2丁目には三井家の邸宅が存在する。(Wikipedia

d0183387_00103053.jpg
巻石通りの風景⑤ 坂を登ると伝通院になります/安藤坂

伝通院の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22499858/


安藤坂
この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが1909(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで戦前は「安藤殿坂」戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。(文京区教育委員会)

d0183387_01344990.jpg
牛坂/春日
北野神社(牛天神)北側の坂で古くは潮見坂・蛎殻坂・鮫干坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。牛坂とは牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石がありそれが坂名の由来となったといわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)「江戸志」に『源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ老松につないでなぎを待つ。その間、夢に菅中(菅原道真)が牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石がこれでとある」と記されている。(文京区教育委員会)

d0183387_01414440.jpg
牛天神北野神社参道/春日 

d0183387_00433537.jpg
牛天神北野神社
祭神:菅原道真公。当社は寿永3年の昔、右大将・源頼朝御東国追討の時、此処の入江の松に船を繋ぎ和波を待つ。その間夢に菅神牛に乗りて現はれ、頼朝卿に二つの幸のあらんことを告げ、武運満足の後は、必らずや社を営み報ゆべしと託し給ふ。頼朝卿夢覚めて傍を見れば、一つの岩石ありて夢の中に菅神の乗り給ひし牛に似たり。依りて是を奇異とせしが、果して同年の秋頼家卿誕生あり。更に翌年には動かずして、平家を悉く退け国を鎮定せり。その報寶として此処に、御神を勧請ありて御神領等を寄進す。因て御創立はこの年元暦元年なりと云ふ。(境内由緒)

d0183387_00515765.jpg
北野神社・中島歌子歌碑
北野神社は江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれた。御祭神は菅原道真公である。縁起によると、寿永元年(1182源頼朝が東国経営のとき台地下の老松に舟をつなぎ、風波のしずまるのを待った。夢中に菅神(道真公)が現れて、二つの吉事があると伝えた。お告げの通り男子(頼家)が生まれ、平家を西海に追うことができた。頼朝は大いに喜び元暦元年(1184)ここに社殿を造営したという。また、夢さめて菅神の立っていた跡に牛の形をした石(牛石という)があった。(現在は社殿の前にある)境内の南側に中島歌子(1844-1903)の歌碑がある。歌子はすぐ近くの安藤坂の歌塾「萩の舎」の塾主である。門下には梨本宮妃、鍋島侯夫人や前田侯夫人など上流中流層の婦人1000余人がいた。樋口一葉、三宅花圃らはその門弟である。歌碑は歌子の死後、明治42年(1909)門下生によって建てられた。(文京区教育委員会 写真:牛石)

d0183387_00533703.jpg
大田神社
芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と道の神・猿田彦命を祀る。人々の信仰厚く関東大震災のころまでは、祭の日ともなると未明から深夜まで参拝の人出賑わったという。芸能の神とした歌舞伎、新劇人など芸能人の信者を集め名のある役者が度々参拝に訪れた。この神社はもともとは貧乏神ともいわれた黒闇天女(弁財天の姉)を祀っていたが、江戸の頃この近くに住む貧乏旗本の窮状を救ってからは、福の神として庶民の信仰を集めるようになったという伝説が残っている。また、合祀の高木神社は旧第六天町(現小日向1丁目)にあった五穀豊穣の神である第六天社を道路拡張に伴いここに移したものである。(文京区教育委員会)

d0183387_12192731.jpg
巻石通りの風景⑥ 牛坂下の神田上水を渡ると諏訪神社、その先は外濠になります/諏訪神社前

d0183387_01142070.png
旧町名案内-旧諏訪町
元禄9年(1696)、御本丸小間遣10人が町屋敷を拝領しその後変遷があった。町内に諏訪明神があったので古くから諏訪町と呼ばれた。(御府内備考より)明治5年(1872)隣地の牛天神下広小路、袋町新道と呼ばれていた武家地を合併した。(東京府志科より)(文京区)

d0183387_01173554.jpg
小石川諏訪神社鳥居/後楽

d0183387_01175033.jpg
小石川諏訪神社
御祭神:健御名方命、八坂刀売命
由緒
室町時代1390年(明徳元年)7月に牛天神別当『龍門寺』の住職であった乗観法印が信州諏訪大社より勧請、創建したと伝う。由緒によるとある夜諏訪明神が霊夢に現れ「汝の在国に清浄の地ありや」法印曰く「寺の西南に当たりて杉松のうっそうとした浄地あり」と、明神曰く「我其の地の森に移りて氏を守り、汝が思ひを満足せん」と言ひで光焉として飛び去り給う。(思い満足せる森とて今に思ひの森と言い伝え(り)その日比の地は大風が吹き荒れ雷鳴がとどろきわたった。風が収まりし後に一本の大木に白幣がたなびいていたという。信州より帰った乗観が信託の趣を衆に語り不思議な符号を認め此の地に民と力を合わせ官居を建てた。この信託により当社を思いの森と言ひ伝う。」(境内由緒書)

d0183387_01213154.jpg
江戸名所図会 牛天神 諏訪神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

神田上水が麓を流れます。牛神社の正面の参道は現在はありません、左手の裏門が参道になっています。牛坂を下り諏訪神社への道は面影が残ります。


・・・後楽

d0183387_13571377.jpg
巻石通りの風景⑦ 神田上水は水戸屋敷から外濠を懸樋で越え市中に給水されていました/牛天神下

d0183387_14044902.png
旧町名案内-旧小石川町
京都聖護院門跡道興准后が「廻国雑記」(文明181486)に次のことを書いている。『ここ(上野忍岡)を過ぎて小石川と言へる所にまかりて、我方を思ひ深めて小石河いつをせにとかこひ渡るらん』、また「江戸砂子」(享保171732)に『小石多き小川が幾筋もある故なり わけて伝通院の後の流 ねこたま橋の川筋 小石川の濫觴(らんしょう)なり』とある。むかし千川(小石川)江戸川(神田川)や周囲の高台から流れに細流が現在の後楽園一帯で合流していた。こられの川は砂や小石が多かったのでこの辺を小石川村と呼んでいた。明治5年小石川町とした。(文京区)

d0183387_13464593.jpg
小石川後楽園

d0183387_14100665.png
小石川後楽園/後楽
文京区後楽1丁目にある都立公園。江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)であり、国の特別史跡及び特別名勝に指定されている。1629年(寛永6年)水戸徳川家水戸藩初代藩主・徳川頼房が作庭家・徳大寺左兵衛に命じて築いた庭園を、嫡子の光圀が改修、明の遺臣朱舜水(しゅしゅんすい)の選名によって「後楽園」と命名して完成させた。出典は『岳陽楼記』の「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」によっており、岡山市にある後楽園と全く同じである。1869年(明治2年)版籍奉還により藩主徳川昭武が邸宅とともに新政府に奉還し、そののち東京砲兵工廠(しょう)の敷地の一部として陸軍省の所管となった。(Wikipedia

d0183387_14155487.png
砲兵工廠付近地図(明治17年実測)/小石川後楽園
(青:神田川 紺:神田上水 赤枠:かつての屋敷地 緑枠:現在の小石川後楽園)

小石川後楽園の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21935485/

d0183387_21243115.png
神田川流域マップ(江戸川橋~お茶の水)
(赤:神田川 紺破線:神田川上水 紫:日本橋川)


・・・・・・
資料ファイル

d0183387_14494896.jpg
本郷給水所公苑/本郷

本郷給水所の上部に構築されている。東京市水道局1892年(明治25年)に給水場を建設、1898年(明治31年)に配水池が作られ1974年(昭和49年)に配水池の拡張工事が完了。その後配水池の上に文京区が公苑を建設する使用許可を取得し1976年(昭和51年)開園した。日本庭園(和風庭園)とフランス式(洋風庭園)を採用している。(Wikipedia

d0183387_14481416.jpg
東京都水道歴史館
文京区本郷にある東京都水道局が運営するPR施設である。1995年(平成7年)開館。従来、西新宿にあった東京都水道記念館を閉館して本郷給水所に隣接する東京都水道局本郷庁舎2号館に新設された。東京水道400年の歴史を江戸時代と明治時代以降に分けて実物大模型や歴史資料、映像を用いて紹介している。玉川上水に関する歴史資料が非常に充実しており、閲覧室では都立中央図書館でも所蔵されていない貴重な一次資料や二次資料が閲覧できるようになっている。博物館の裏手には、京都水道局が管理する本郷給水公苑があり神田上水の石桶が保存されている。
Wikipedia

d0183387_14543039.jpg
展示風景
d0183387_15291711.png
江戸上水の歴史

d0183387_15325504.png
神田上水
天正18年(1590)徳川家康の江戸入府に先立ち城下に飲料水を供給するため、家臣の大久保藤五郎に上水開設を命じた。藤五郎は小石川に水源を求め、目白台下の流れを利用し神田方面へ通水させたと伝えられる。これが小石川上水の誕生である。その後随時拡張され神田上水となった。井の頭池や善福寺池を水源とした。

d0183387_15091890.jpg
玉川上水
家光が3代将軍になると「参勤交代の制度」「大名正妻嫡子の江戸在府の制度」により、諸国の武家が江戸に集まってくるとともにその生活を支える町人が増え、江戸の人口は増加し水需要が増大した。この江戸の都市化に対し神田上水に加え新たな上水の開設が必要になった。江戸町人・庄右衛門、清右衛門兄弟により、多摩川を水源に承知3年(1654)玉川上水が開設された。

d0183387_15164438.png
青山上水
万治3年(1660)に木瓜屋庄兵衛によって開設された。四谷大木戸で玉川上水の余水をに水口を付け給水し、主に青山・赤坂・麻布・芝方面に供給された。享保7年(1722)に廃止されたが明治15年(1882)から麻生水道として近代水道が敷設されるまでの一時期に利用された。

三田上水

三田上水は玉川上水を下北沢で分水し、渋谷川の谷と目黒川の谷の間の狭い台地を通している。寛文4年(1664)に中村八郎右衛門、磯野助六により開設され、三田・芝・金杉方面へ供給された。享保7年(1722)に廃止された。

d0183387_15201420.png
千川上水
元禄9年(1696)小石川白山御殿、本郷湯島、聖堂、上野東叡山寛永寺、浅草浅草寺など将軍御成りのところへ上水を引用するため、玉川上水を谷保村で分水し開設された。享保7年(1722)に廃止されたが、沿線への村々には灌漑用水として利用された。また明治13年(1880)岩崎弥太郎により千川水道株式会社として復活した。

d0183387_15233369.jpg
亀有上水
明暦の大火後、江戸の復興に伴って本所深川の町づくりが万治2年(1659)以降に行われており、この頃開設されたと思われる。隅田川西側には神田・玉川上水より給水されていたが、東側には給水することが出来ず、このため元荒川に堰を作って溜井とし、埼玉県北足立郡を経て亀有に入り南下して本所方面に給水された。後に本所上水と呼ばれるようになった。享保7年(1722)に廃止。(展示パネルより)

d0183387_15474835.jpg
神田川に懸けられた懸樋の模型(1/50

d0183387_15535101.jpg
発掘された江戸上水「東京都千代田区丸の内3丁目遺跡」(旧都庁・阿波徳島藩上屋敷跡)

d0183387_16021275.jpg
d0183387_16020752.jpg
馬水槽                消火栓

d0183387_16165385.jpg

神田上水石樋(復元)

d0183387_16173915.jpg
神田上水石樋の由来
神田上水は天正18年すなわち西暦1590年、徳川家康が関東入国に際し良質な飲料水を得るため、家臣大久保藤五郎忠行に命じて開削させたのが始まりと伝えられています。この上水は井の頭池を水源とする神田川の流れを、現在の文京区目白台下に堰を設けて取水し、後楽園のあたりからは地下の石樋によって導き、途中掛樋で神田川を渡して神田・日本橋方面へ給水していました。日本における最初の上水道といわれ、その後明治34年近代水道が整備されるのにともない廃止されるまで、ながく江戸・東京の人々の暮らしに大きな役割を果たしてきたのです。ここに見られる石樋は昭和62年文京区本郷1丁目先の外堀通りで、神田川分水路の工事中発掘された神田上水遺跡の一部です。四百年近く土中に埋もれていたにもかかわらず原型を損なわず、往時の技術の優秀さ水準の高さを示しており、東京の水道発祥の記念として永く後世に伝えるため移設復原されたものであります。平成210月 杉本苑子誌(碑文)

# by Twalking | 2017-05-20 19:41 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 百度石-三崎稲荷神社   

d0183387_19593119.jpg

百度石
三崎稲荷神社/千代田区三崎町
よく見かけますけど
まだ未体験ですね・・・。

百度参り
日本の民間信仰で神仏に祈願するために同一の社寺に百度参拝することである。元は、近くの氏神神社や有名な社寺に百日間毎日参拝するというもので、これを百日詣という。百度参りの方法は社寺の入口から拝殿・本堂まで行って参拝し、また社寺の入口まで戻るということを百度繰り返す。俗にこれを「お百度を踏む」という。社寺の入口近くに、その目標となる「百度石」という石柱が立てられていることがある。回数を間違えないように小石やこより、竹串などを百個用意しておいて参拝のたびに拝殿・本堂に1個ずつ置いたり、百度石に備えつけられているそろばん状のもので数を数えたりする。(Wikipedia

# by Twalking | 2017-05-19 20:01 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 エゴノキ   

d0183387_12133826.jpg
エゴノキ
愛宕下通り/多摩市
初夏の陽ざしに輝いて
咲きだしましたね~
おはよ~!


エゴノキ

エゴノキ科の落葉小高木である。和名は果実を口に入れると喉や舌を刺激してえぐい(えごい)ことに由来する。高さは10mほどになる。樹皮は赤褐色できめが細かい。葉は両端のとがった楕円形で互生。花期は5月頃、横枝から出た小枝の先端に房状に白い花を下向きに多数つけ、芳香がある。花冠は5片に深く裂けるが大きくは開かずややつぼみ加減で咲き、雄しべは10本。品種により淡紅色の花をつける。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-05-19 12:14 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 飯田橋駅   

d0183387_22552320.jpg

総武線飯田橋駅
法政側からみると大きくカーブしてます。
朝からさすがに通勤・通学の乗降が多いですね~。

飯田橋駅

JR
駅に乗り入れている路線は中央本線であるが当駅には緩行線を走る中央・総武線各駅停車のみが停車する。島式ホーム12線を有する高架駅で駅舎は東西に出口がある。地形が傾斜しているため東口側は高架駅舎のようになっているが西口側は橋上駅舎となっている。駅名は1928(昭和3)年、当時の国鉄は飯田町駅の旅客営業および牛込駅を廃止すると同時に両駅の中間地点に新駅を設置したが、その際至近であった橋「飯田橋」の名をとって「飯田橋駅」と命名した。(Wikipedia

# by Twalking | 2017-05-17 23:03 | ○station

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 スモークツリー   

d0183387_16325696.jpg

スモークツリー
愛宕下通り/多摩市
あれ、いつの間に、
煙のようだね~・・・、いらっしゃ~い。


スモークツリー

ウルシ科。南ヨーロッパからヒマラヤを経て中国に至るまでの広い範囲に分布する落葉性の樹木で、樹高は4m5mになります。雄株と雌株がある雌雄異株の樹木です。5月~6月に径3mmほどの小さな淡緑色の花を穂状たくさん咲かせ、咲き進むと紫色を帯びます。花後、雌株は不稔花(タネを結ばない花)の軸部分(花柄)が長く伸びて羽毛のようになり、花穂の見た目がもふもふした感じなります。スモークツリーの名前はこの開花後の花穂が煙のように見えるところに由来します。和名のハグマノキ(白熊の木)はその姿をハグマ(ヤクのしっぽの白毛)で作られた仏具の払子(ほっす)に見立てたものです。(ヤサシイエンゲイ)

# by Twalking | 2017-05-17 16:39 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 石仏-傳明寺   

d0183387_13053252.jpg

石仏
藤寺・傳明寺/文京区小石川
物静かな
やさしいお顔だこと
合掌。

# by Twalking | 2017-05-17 13:07 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(4)江戸川橋~御茶ノ水02-水道橋   

日時 2017.5.11(木)
天気 晴れ

飯田橋から水道橋、お茶の水坂を登り駿河台へ。
家康入府以前は平川が流れていた湿地帯でしたが、
ここに濠を掘って外濠とし、現在の神田川とした所です。

その後、秀忠の時代には神田山を掘割り流路を隅田川へ変え、
また神田上水はこの壕を懸樋で渡して市中へ給水しました。
江戸の街づくりの上で重要なポイントとなる事業です。
面影は少ないですが、それでも興味深い場所です。



・・・飯田橋

d0183387_20202655.jpg
神田川の風景① 右手は讃岐高松藩の上屋敷、旧平川が日比谷入りに流れていました。大事なポイントのようですね/飯田橋

d0183387_21450071.png
飯田町遺跡周辺の歴史
江戸時代以降、この地域には日本橋川や神田川という河川があり、近くには水道橋の由来となった神田上水が流れていました。もともとこの一帯は神田川下流の平川小石川合流する地点で、駿河台と麹町台地に挟まれた低地にあたり、絶えず水害の危険にさらされていた場所でした。元和6年(1620)幕府は江戸中心部を洪水から守るために、神田川の流路を船河原橋あたりで東に曲げて駿河台を掘りぬく現在の運河神田川」を切り開きました。この工事によってそれまで日比谷入江に注いでいた平川堀留(現在の堀留橋)で神田川から切り離し、江戸城外堀としました。「正保年中江戸絵図」には堀留の北側にも堀が延びており工事後しばらくはこの付近まで平川の流路が残っていたことを示しています。平成12年に行われた飯田町遺跡の発掘調査では讃岐高松藩上屋敷とともに、江戸時代初期の盛土や石垣、板の土留めの護岸をもつ幅10mの堀が発見されました。この堀は先の「正保年中江戸絵図」に見える平川の流路の名残と考えられ、明暦31657)の大火直後に埋め立てられたことがわかりました。その後、神田川や外堀には水運に利用された多くの河岸が設けられました。明治維新後、この地は神田川の対岸を含めて陸軍用地となり、明治28年(1895)には甲武鉄道飯田町駅が開業、明治36年には日本橋川再度開削して神田川に接続させ、陸軍用地を中心に水運と鉄道をつなぐ貨物のターミナルになりました。このようにこの一帯は古くから河川とともに歩んできた地域でした。飯田町遺跡の発掘によって江戸時代初期の堀跡や大規模な盛土による造成工事の様子が明らかになりました。そこには当時の人々の水害を防ぐ努力を見ることができます。(千代田区教育委員会)

d0183387_23012438.jpg
街道の風景① 外濠通りの歩道にモニュメントが造られてます/外濠通り

都道405号外濠環状線
港区新橋1丁目を起点、同新橋2丁目を終点とする皇居(旧江戸城)外濠に沿った環状の特例都道である。本線の通称は「外堀通り」(Wikipedia

d0183387_23045477.jpg
旧町名案内-市兵衛河岸 
小石川橋北側の神田川(外堀)の河岸一帯で水道橋から船河原橋までの河岸地である。『江戸砂子』(享保17年・1732)に『牛込御門の外なり。岩瀬市兵衛の屋敷あるゆえにいう』とある。この市兵衛から町名をとった。昭和15年の改正で市兵衛河岸を分けて一部は小石川町1丁目に、一部は春日町1丁目に編入されて残地がわずかに残った。神田川の昌平橋との間を往復する客船の船着場であった。また荷物を岸に揚げる物揚場があった。東京砲兵工廠のあったころは工廠用の貨物が揚げ下ろしされた。(文京区)

d0183387_23244096.jpg
d0183387_23243555.jpg
首都高点検用の船が係留してます    小石川橋です


・・・後楽/文京区

文京区南部に位置する。中央部に小石川後楽園、東部に東京ドームシティが所在する。西と南の境界を神田川が流れ、神田川に沿って南北に目白通りと首都高5号池袋線、東西に外堀通りが、東の境界を白山通りが走っている。地名は水戸徳川家の庭園小石川後楽園に由来する。(Wikipedia

d0183387_23364039.jpg
神田川の風景② 飯田橋方面の景観です/小石川橋

d0183387_23381572.jpg
小石川橋(小石川見附)
この橋を小石川橋といいます。寛永13年(1626)に江戸城外郭門が設けられた際、備前岡山藩池田光政によってここに見附が構築されました。曲輪内から小石川方面への出入口であるところから「小石川口」と呼ばれ小石川見附と名付けられました。橋は見附の構築に合わせて木橋が設けられています。見附の渡櫓は寛政4年(1792)に焼失しその後、再建されないまま明治維新を迎え、名残りの桝形石垣も明治6に他の外郭門取り壊されました。一方、橋はいくたびか架け替えられましたが、後楽園一帯が造兵工廠であった頃はそこに勤める人達で朝夕は賑わいを見せていました。現在の小石川橋は昭和212月に架橋されました。長さ19.7m、幅13.03mです。(千代田区教育委員会)
d0183387_23405431.jpg
神田川の風景③ 左先が後楽橋、右手が三崎橋、現在の日本橋川の起点です/小石川橋

d0183387_23450789.jpg
三崎橋
神田川と日本橋川の分流点にあって日本橋川に架かる橋です。新三崎橋と同様に飯田橋3丁目と三崎町3丁目の間を結んでいます。明治の日本橋川再掘削にともない架橋されましたが、現在の橋は昭和29年(195433日に改架されました。長さ27m、幅7.6mの鋼橋です。分流点の神田川には小石川橋が架かっています(千代田区観光協会)

d0183387_00030995.jpg
神田川の風景④ 左岸が文京区(後楽)、左岸が千代田区(三崎町)になります。/後楽橋

d0183387_00052275.jpg
d0183387_00110136.jpg
後楽橋
千代田区と文京区の間を流れる神田川に架かる橋である。関東大震災の復興橋の一つとして1927年(昭和2年)に架設された。緑色に塗装された鋼製のアーチ橋で石造りの親柱を持つ(橋長21.0m、幅員22.56m)橋の名称は北側にある小石川後楽園から採られている。1964年には東隣に歩行者専用の後楽園ブリッジが架けられた。上流側の小石川橋との間で日本橋川が分岐する。この分流点と後楽橋の間には千代田清掃事務所三崎町中継所があり、千代田区と文京区で出される不燃ごみが船に積み込まれて神田川を通って臨海部の処理センターまで水上輸送される(Wikipedia

d0183387_00111326.jpg
市兵衛河岸 
河岸とは物資輸送のために水ぎわに作られた物揚場などの施設のことである。この河岸の名は江戸時代の中頃まで現在の後楽2-1-18あたりに岩瀬市兵衛の屋敷があったことによる。市兵衛河岸は飯田橋駅近くの船河原橋から水道橋までの神田川沿いの一帯で、江戸外切絵図にもこの名が見える。この河岸は明治8年から昭和8年まで現在の後楽園遊園地一帯にあった砲兵工廠荷揚場としてにぎわった。明治時代、この河岸から早船といわれた客船が神田昌平橋まで往復していたこともあった。町名としての市兵衛河岸は昭和39年の住居表示の施行により後楽1丁目となりこの名は消滅した(文京区教育委員会)

d0183387_00344640.png
延宝年中之形(1673~1681)/案内板
(青:神田川・江戸川 紺:神田上水 赤角:岩瀬市兵衛の屋敷)


・・・三崎町(千代田区)

d0183387_09541755.jpg
街道の風景② JRのガードを潜ると三崎町、学生さんが多いですね/水道橋駅

d0183387_10095319.jpg
三崎町1丁目
三崎町という町名が誕生したのは明治5年(1872)のことです。江戸に幕府が開かれる以前、この地にあった「三崎村」が町名の由来といわれています。江戸が開発されるまで、現在の大手町から日比谷や新橋周辺には日比谷入江と呼ばれる遠浅の海が広がっていました。三崎村は日比谷入江に突き出した「ミサキ(岬)」だったためこの名が付いたと伝わっています。JR水道橋駅のすぐ南側には三崎稲荷神社が鎮座しています。創建は詳らかではありませんが、鎌倉時代初期の建久年間(1190年~1199年)よりも前とも伝わっておりとても歴史ある神社です。江戸時代には3代将軍家光が自ら三崎稲荷を崇敬するばかりでなく、参勤交代の大名たちにも信仰させたことから参勤登城する大名は必ずまず三崎稲荷に参拝し心身を清めたそうです。ここから三崎稲荷は「清めの稲荷」とも称されています。閑静な武家地であった三崎町は明治も中ごろを過ぎると劇場や飲食店が増え、賑やかな歓楽街へと生まれ変わります。隣町の三崎町2丁目には三崎三座と呼ばれる三つの劇場ができるなど周辺も活気にあふれる街でした。関東大震災後の区画整理で三崎町1丁目は昭和9年(1934)に三崎町2丁目と統合されますが町名は三崎町1丁目のままでした。昭和22年(1947)神田区と麹町区が合併して千代田区になると、頭に神田を付けて神田三崎町1丁目に変わります。そして昭和42年(1967)の住居表示の実施にともない、神田三崎町1丁目は分割され旧三崎町1丁目だった区域がふたたび三崎町1丁目と定められ現在に至っています。(千代田区HP)

d0183387_10141258.jpg
三崎稲荷神社鳥居/三崎町

d0183387_10141576.jpg
三崎稲荷神社
創建は建久(12世紀末)以前とされています。氏神社の社号は三崎稲荷神社ですが、金刀比羅神社を合祀しているため三崎神社と通称されています。創建当初は和田倉付近にありその後三崎村に移転、万延元年(1860)講武所の設置に伴って水道橋に移転し、甲武鉄道(現JR中央線)が万世橋まで延長されたのに伴い明治38年(1905現在の地に移りました。(千代田区観光協会)

d0183387_10263457.jpg
百度石
古来より度重ねて祈る事により願い事の成就を祈るという信仰がある。「百度石」は俗に「お百度を踏む」即ち百回の参詣の往復の起点として参道の入り口に立てられてものです。本来は百日間に渡り参詣するのので百日参りと言われてましたが、今日では一日で百度参詣される者もあるようです。お百度を踏むときには回数を間違えないように、予めこより等を百用意して祈願する度に置いていくのが一般的な参詣の方法です。(案内板)

d0183387_17130734.jpg
江戸名所図会 三崎稲荷社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

d0183387_14571955.jpg
街道の風景③ すり鉢の底ですが広いですね、神田川上水が合わせてきます/水道橋交差点(白山通り)

白山通り

都道301号白山祝田田町線の千代田区の平川門交差点から文京区の千石駅前交差点までと、国道17号の千石駅前交差点から豊島区の西巣鴨交差点までの東京都の公式愛称である(Wikipedia

d0183387_15060849.jpg
水道橋
千代田区と文京区の間を流れる神田川に架かる橋である。右岸(南側)が千代田区三崎町12丁目、左岸は上流側が文京区後楽1丁目、下流側が同本郷1丁目となる。文京区には水道という町名があるが本橋より神田川沿いに2kmほど上流に離れている。江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まりで当初は現在よりやや下流に位置していた。付近にあった吉祥寺から「吉祥寺橋」とも呼ばれた時期もあるが、この寺院は1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失し本駒込に移転している。1670年(寛文12年)の地図では「水道橋」と表記されており、この橋名は本橋の下流に神田上水懸樋があったことに由来する。1928年(昭和3年)に長さ17.8m、幅30.7mの鋼橋が架けられた。現在の橋は1988年(昭和63年)3月に架け替えられたものであり先代よりやや大ぶりの橋である。(Wikipedia

吉祥寺の関連記事はこちらへ(
http://teione.exblog.jp/20891042/

d0183387_15522993.jpg
神田川の風景⑤ 江戸初期に神田山を開削したんですね、凄い工事です/仙台壕

d0183387_15554669.jpg
d0183387_15555135.jpg
神田上水
神田上水は井の頭池の湧水を水源とする江戸時代初期につくられた日本最古の都市水道です。文京区関口に堰を設けて上水を取り入れ、小日向台下の裾をとおり小石川後楽園をぬけ、水道橋の東側で神田川を掛樋で渡し、神田・日本橋方面に給水されていました。文京区本郷2丁目7番にある本郷給水所公苑内に神田上水石垣樋が移設保存されています。(文京区土木部公園緑地課)

d0183387_16001769.jpg
神田川分水路事業
「お茶の水分水路」碑

d0183387_16411523.png
神田川分水路案内図
(赤:神田川分水路 青:神田川・隅田川 紺:神田上水 緑:中山道・日光街道)

d0183387_16504232.jpg
神田川の風景⑥ 神田川上水を掛樋で渡したのはこの付近でしょうか


d0183387_16434052.jpg
神田上水懸樋(掛樋)跡
江戸時代、神田川に木製の碑を架け神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。明治34年(1901)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。この樋は懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。(文京区)

d0183387_16041724.png
神田上水御茶水
『万治の比 仙臺侯欽命を請け 御茶能水(おちゃのみず)を切王(わ)り、小石川より浅草川(隅田川)へ船路の自由を奈須(なす) 神田川是なり 岸奈免(なめ)らか尓(に)して巌のことく 蛾眉山の月影川水(かすい)に流れて風景絶勝なり 川上に橋あり 水道ばしといふ いの頭上水の樋をかけて流すゆへ この橋の名に呼ふ』

d0183387_17131465.jpg
江戸名所図会 御茶の水 水道橋 神田上水懸樋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

d0183387_16545797.jpg
街道の風景④ 駿河台へ上るお茶の水坂です/外濠通り

お茶の水坂
この神田川の外堀工事は元和年間(1615-1626)に行われた。それ以前にここにあった高林寺(現向丘2丁目)の境内に湧き水があり『お茶の水』として将軍に献上したことから「お茶の水」の地名がおこった。『御府内備考』によれば「御茶ノ水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶ノ水に召し上げられしと・・・」とある。この坂は神田川(仙台堀)に沿ってお茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34(1901)取りはずされた。『お茶の水橋 低きに見ゆる水のいろ 寒む夜はふけてわれは行くなり』島木赤彦(1876-1926)(文京区教育委員会)


・・・駿河台

d0183387_17590591.png
千代田区の台地。秋葉原の南西、千代田区神田駿河台1丁目と2丁目に位置する。元は北の本郷台地南端に当たる部分だが、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達正宗1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)を開削したことにより湯島台と駿河台とに分離され、孤立した高台となった。神田川を挟んで北側に位置する湯島台とは聖橋お茶の水橋により台地上端の標高で結ばれている。削って下町を埋めたために今は台地ではないところもある。地名は江戸時代初期に、駿府(駿河府中、現・静岡市葵区付近)から江戸(東京都区部)に移住した徳川家康家臣居を構えたことに由来する。(Wikipedia)

d0183387_17465713.jpg
神田川の風景⑦ 駿河台から振り返る仙台壕の景観です/お茶の水橋

d0183387_17511348.jpg
d0183387_17500981.jpg
お茶の水橋              聖橋方向の景観

d0183387_17521701.jpg
お茶の水橋
神田川に架かり、聖橋の上流約200mの所にあります。神田駿河台2丁目と文京区湯島1丁目を結んでいます。橋下は都心では珍しい渓谷の面影を残しています。お茶の水の地名は江戸時代に将軍家の茶の湯に用いる清水がこの渓谷近くから湧き出ていたことによります。橋の名もその地名にちなんでつけられました。明治24年(1891)に初の日本人設計の鉄橋として完成しました。明治34年(1901)に修復しましたが関東大震災で損害を受けました。現在の橋は昭和6年(1931)に架けられました。長さ80.0m、幅23.8mの鋼橋です。(千代田区観光協会)

d0183387_17564507.jpg
お茶の水碑/お茶の水橋南詰
聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり。神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る。享保14年江戸川拡張の後川幅を広げられし時 川の中になりて今その形もなし (「再校江戸砂子」より)慶長の昔この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった ある時 寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところ お茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた それから毎日この水を差し上げる様になりこの寺をお茶の水高林寺と呼ばれ この辺りをお茶の水と云うようになった 其の後 茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地であった 時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた(お茶の水保勝会 坂内熊治 高林寺 田中良彰 昭和3299日)

d0183387_20191679.png
水道橋周辺マップ
(青:神田川・日本橋川 茶:外堀通り・靖国通り・目白通り・白山通り)


# by Twalking | 2017-05-17 10:16 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夕焼け   

d0183387_22055201.jpg

夕焼け
多摩丘陵/多摩市
あれ~、綺麗な夕焼だこと
どんよりと曇っていたんですが
不思議ですね。


# by Twalking | 2017-05-16 22:15 | ○sun&moon

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 たんぽぱ   

d0183387_12295528.jpg

たんぽぽ
乞田川/多摩市落合
なんだかひんやりとして
梅雨の前触れのような感じです
おはよ~!元気に咲いてるね~。


タンポポ
(蒲公英)
キク科タンポポ属の総称である。多年生。多くはユーラシア大陸に自然分布する。多くの種では黄色い花を咲かせ、綿毛(冠毛)のついた種子を作る。生命力の強い植物でアスファルトの裂目から生えることもある。成長点が地面近くに位置するロゼット型の生育型で、茎が非常に短く葉が水平に広がっている。このため表面の花や茎を刈っても容易に再び生え始める。攪乱の頻発する他の植物が生きていけないような厳しい環境下で生えていることが多い。(Wikipedia


# by Twalking | 2017-05-16 12:47 | ○Flower

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

d0183387_21285661.jpg

ツワブキの葉
愛宕下通り/多摩市愛宕
受け止めてくれてるんだね
やさしいな~、ありがとう~!

# by Twalking | 2017-05-15 21:33 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 石虎-善国寺   

d0183387_16151434.jpg
阿形


d0183387_16144760.jpg
吽形

石虎/善国寺(新宿区神楽坂)
縞模様があるから、確かに虎さん
力強いですね~、迫力満点です。


石虎
本堂の左右には神社の狛犬のように阿吽の一対の狛虎像が置かれている。案内板には「石虎」と表記され、制作は江戸時代後期のもので保存状態は向かって右側の阿形が比較的良く残っている。向かって左の吽形には全身にヒビ割れや多少の欠けと縞模様に若干の磨耗がありこれは東京大空襲による損傷とその後の修復の痕とされる。虎の作風は頭部が扁平し前肢が長大でどちらかといえば類人猿にも近い印象の肉付きの良い作風の像である。台座部にも虎のレリーフ彫刻が施されている。像高:阿形82cm 吽形85cm 奉納年1848年(嘉永元年)石工名: 平田四郎右衛門(原町) ・柿沼長右衛門(横寺町) 新宿区指定有形民俗文化財
Wikipedia


# by Twalking | 2017-05-15 16:21 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

d0183387_15224713.jpg

アーケード
ココリア多摩センター/多摩市落合
なんてことはないんですが、
ここ歩くと気分転換になります。


アーケード
(英語:arcade
柱で支えられる連続したアーチやヴォールトを用いた通路や歩道、または一続きのアーチが覆う歩道等の道路を指す言葉である。都市において通りに面して建つ建造物、古くから街を囲む城壁の内面、柱廊で覆われた橋などは全て小さな店舗や露店が立ち並ぶ広く一般的な場所となっていた。これらは太陽光や天候から守られ、また多くの人々の徒歩での通行を惹きつけた。そして時代を越え「アーケード」という言葉はとりわけ通りに沿って並ぶ行商人の間でよく使われるようになったのである。またイタリア語で「ガッレリア」として知られていた、屋根が天井部を覆うアーケードは後にショピングモールへと発展した。Wikipedia


# by Twalking | 2017-05-15 15:50 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 神田川(4)江戸川橋~御茶ノ水01-飯田橋   

日時 2017.5.11(金)
天気 晴れ


夏日になりそうですが、出かけてきました。
飯田橋で降りましたので牛込城址のことを知り、
牛込台地を散策しながら江戸川橋へ向かいました。

江戸川橋から神田川は外濠へ、神田上水は水戸屋敷へ
と分流しますので、行ったり来たりしながの道中です。
整理の都合上、それぞれ別々のまとめとしました。


・・・牛込(新宿区)


新宿区
の地域名の一つで旧東京市牛込区の範囲を指す。主な地名としては神楽坂市谷および早稲田が牛込地域に該当する。江戸時代は大名や旗本の住む武家屋敷が集中した地域で伝統ある山の手の住宅街である。一方で町屋も少なからず形成され、古くからこの地に住む住民が多くコミュニティ活動が活発なことも当地の特色である。地名のとおり牛込の歴史は少なからずに縁がある。701年(大宝元年)大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧(ぎゅうまき)」という牧場が設けられ「乳牛院」という飼育舎がこの地に建てられたという。古代の馬牧が今日東京都内に「駒込」「馬込」の地名で残されているところから「牛込」がこの牛牧に比定された。Wikipedia

d0183387_16144230.jpg
街道の風景① 牛込見附から早稲田通りを江戸川橋へ向かいます/飯田橋駅

牛込見附

飯田橋駅西口から左へ進み跨線橋(牛込橋)を渡りきったあたり、日本基督教団富士見町教会前の交差点近辺に江戸城牛込門の枡形があった。道を挟んで向かい合っていた2基の見附櫓の基部が残っている。名称は(城内から)牛込方面へぬける門の意。門から北西へ延びる道がいわゆる神楽坂である。Wikipedia

d0183387_16241214.jpg
街道の風景② やはりここは裏路地が風情があって面白いですね/神楽坂

d0183387_16281979.png
神楽坂
神楽坂の由来については「坂の途中にあった穴八幡の御旅所で神楽を奏したから」「津久戸明神が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから」「若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから」「この坂に赤城明神の神楽堂があったから」などの説があります(案内板)

d0183387_16403422.jpg

善国寺
(ぜんこくじ)
新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺院である。旧本山は大本山池上本門寺で鎮護山善国寺という。開基は徳川家康、開山は日惺上人と伝わる。安土桃山時代の文禄4年(1595)池上本門寺第12代貫主である日惺上人により馬喰町に創建される。たびたび火災に見舞われ麹町を経て寛政5年(1793)には現在地へ移転した。本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め芝正伝寺・浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれた。現在は新宿山ノ手七福神の一つに数えられている。(Wikipedia

d0183387_22543572.jpg
善國寺の毘沙門天像
神楽坂の毘沙門天さまとして江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。木彫で像高30cm、右手に鉾、左手に宝塔を持ち磐座に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃を推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の守本尊だったとも土中より出現したともいわれる。善國寺は、文禄4年(1595)德川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。毘沙門天は別名を多聞天と称し持国寺・増長天・広目天と共に四天王の一つである。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい北方の守護神とされる。善國寺の毘沙門天は江戸の三毘沙門と呼ばれ多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・5月・9月の初寅の日に毘沙門を開帳し、賑わいを見せている。(新宿区教育委員会)

d0183387_22544148.jpg
善國寺の石虎
安山岩製の虎の石像で像高は阿形(右)が82cm、吽形(左)は85cmで、台石・基礎部も含めた総高は両像ともに2mをこえる。台石正面には浮彫があり虎の姿を動的に表現している。嘉永元年(1848)に奉納されたもので、阿形の台石右面には「岩戸町1丁目」「藁店」「神楽坂」「肴町」などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者が善國寺周辺の住民であったことがわかる。石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳沼長右衛門である。善國寺は毘沙門天信仰から「虎」を重視し、石虎の造立も寄進者らの毘沙門天信仰によると考えられる。また、台石に残された寄進者名や地名は江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。石虎は都内でも珍しく区内では唯一の作例である。戦災による傷みが見られるが希少な石像であるとともに地域にとっても貴重な文化財である。なお、阿形の台石正面にある「不」に似た刻印は明治初年のイギリス式測量の几号水準点で残存している数は全国的にも少ない。新宿区指定民俗文化財(新宿区教育委員会)

d0183387_22583426.jpg
江戸名所図会 牛込神楽坂 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・袋町


d0183387_16442315.jpg
牛込台地上にあり見晴らしがよかったことから戦国時代には牛込氏がこの地一帯に牛込城を構えたが、後北条氏滅亡後廃城となった。江戸時代には地蔵坂に牛込肴町に属する町屋があり、藁を売る店が多かったことから「藁店」(わらだな)と呼ばれた。また坂上は牛込北御徒町(現・北町)に入るところで御徒組の門に突き当たり袋小路となっていたため袋町と呼ばれた。1645年(正保2年)当地に光照寺が移転し門前町が形成された。Wikipedia

d0183387_16492977.jpg
光照寺山門/袋町


d0183387_16495675.jpg
光照寺
浄土宗、増上寺の末寺である。この地は室町初期に上野国(群馬県)大胡から移って来た大胡(のち牛込)氏の築いた牛込城の跡といわれ、光照寺は正保2年(1645)に神田から移転した。この付近は見晴しの良い高台で昔は江戸湾に出入りする船が望見できたと伝えられている。光照寺は出羽(山形県)松山藩主酒井家の江戸における菩提寺であったため、初代忠恒をはじめ歴代藩主一族の墓が並んでおり大名家の威勢をしのばせてくれる。

d0183387_17010466.jpg
境内には東京のほうずき業者が昭和16年に建てた珍しい「海ほうづき供養塔」をはじめ、金石学研究家奥田抱生の墓、徳川家の奥右筆だった大久保北隠の石庭風の墓、狂歌師便々館湖鯉鮒(文政元年45日没、法号は便了院殿松誉夕山居士)の墓(区登録史跡)などがある。また「諸国旅人供養碑」(区登録文化財)は神田松永町の旅籠屋紀伊国屋の店主利八が文政8年(1825)に旅行先で死亡した人々の菩提をとむらうためにたてたもので、信濃(長野県)、奥州(福島・宮城県など)、越後(新潟県)など関東、中部、東北の諸国からの旅人の名が記されている。(新宿区の文化財)

d0183387_17030880.jpg
出羽国松山藩主酒井家墓地
この墓域は出羽国松山(松嶺)藩主酒井家一族の墓所である。松山藩は徳川の譜代大名であり、庄内藩初代藩主酒井忠勝の3男忠恒が分家して、正保4年(16472万石で創設された。明治の廃藩置県に至るまで8代を数える。このうち3代藩主忠休が寛延2年(1749)より26年間幕府の若年寄りの要職を務めた功により、安永8年(1779)上野国に5千石が加増され築城も許された。光照寺には初代忠恒以下代々の藩主及び妻子の墓があるが、一族のうち江戸で死去したものは光照寺に、国元で死去したものは酒田市初山心光寺に葬られた。現在同寺には国元の有志により3代の廟所が設けられている。8代以降数代はカトリックに改宗したため墓所は台東区谷中に移された。江戸期における大名墓は一般に国元ではよく保存されているが、府内のものは次々に消失している。新宿区内では当寺のものを含む数カ所のみである。(説明板)

d0183387_17045980.jpg
牛込城跡
光照寺一帯は戦国時代この地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。牛込氏は赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文年間(153255年)に当主大胡重行が南関東に移り北条氏の家臣となった。天文24(1555)重行の子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂、桜田、日比谷付近も含めて領有したが、天正18年(1590年)北条氏滅亡後は徳川家康に従い牛込城は取り壊される。現在の光照寺は正保2(1645)に神田から移転してきたものである。なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」「便々館湖鯉鮒の墓」などがある。(東京都新宿区教育委員会)

牛込氏(墓所・宗参寺)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24131657/


・・・筑土八幡町


町域南端部を大久保通りが通っている。地名の由来となっている筑土八幡神社があり筑土八幡町の中心的な存在となっている。(Wikipedia

d0183387_17360965.jpg
筑土八幡神社参道/筑土八幡町

d0183387_17364511.jpg
筑土八幡神社
昔、嵯峨天皇の御代(今から約1200年前)に武蔵国豊島郡牛込の里に大変熱心に八幡神社を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現われて「われ、汝が信心に感じ跡をたれん」と言われたので、翁は不思議に思って目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連縄をゆいまわしてその松を祀った。

d0183387_17381631.jpg
その後、伝教大師がこの地を訪れた時この由を聞いて神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので筑土八幡神社と名づけた。さらにその後、文明年間(今から約500年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾してこの地の産土神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。現在、境内地は約22002あり昭和20年の戦災で焼失した社殿も、昭和38年氏子の人々が浄財を集めて熊谷組によって再建され、筑土八幡町、津久戸町、東五軒町、新小川町、下宮比町、揚場町、神楽河岸、神楽坂4丁目、神楽坂5丁目、白銀町、袋町、岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。(説明板)

d0183387_17410141.jpg
石造鳥居
石造の明神型鳥居で享保11(1726)に建立された区内で現在最古の鳥居である。高さ375cm、幅470cm、柱35cm。柱に奉納者名と奉納年が刻まれておりそれにより常陸下館藩主黒田豊前守直邦により奉納されたことがわかる。(新宿区教育委員会)

d0183387_17411312.jpg
庚申塔
寛文4(1664)に奉納された舟型(光背型)の庚申塔である。高さ186cm。最上部に日月、中央部には一対の雌雄の猿と桃の木を配する。右側の牡猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側の雌猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく大変貴重である。(新宿区教育委員会)

d0183387_18091050.jpg
江戸名所図会 筑土八幡宮・同明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)



・・・赤城元町
(あかぎもとまち)

町域の中央付近に地名の由来にもなっている赤城神社があり、町域の中心的な存在となっている。(Wikipedia

d0183387_18033316.jpg
赤城神社鳥居/赤城元町


d0183387_18034279.jpg
赤城神社
明治維新までは赤城大明神や赤城明神社と呼ばれた。岩筒雄命(いわつつおのみこと)と相殿として赤城姫命(あかぎひめのみこと)を祀る。岩筒雄命は火の神である迦具土神(かぐつち)より生まれ経津主神(ふつぬしのかみ)の親神にあたるという。赤城姫命は一説によると神社を創建した大胡氏の息女と伝わり別当寺である東覚寺の本地仏であった。鎌倉時代の正安2年(1300)上野国赤城山の麓から牛込に移住した大胡彦太郎重治により、牛込早稲田の田島村に創建されたと伝わる。文安元年(1444)には大般若経が奉納された。

d0183387_18052055.jpg
寛正元年(1460)江戸城を築城した太田道灌により牛込台に移された。その後、弘治元年(1555大胡宮内少輔により現在地に移される。江戸時代には徳川幕府によって江戸大社の一つとされ牛込の鎮守として信仰を集めた。『江戸名所図会』では「赤城明神社」として紹介され大胡重泰(おおごしげやす)により創建されたこと、牛込の鎮守であり別当寺は東覚寺(天台宗)であることなどが記されている。
Wikipedia
d0183387_18130055.jpg
江戸名所図会 赤城明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

d0183387_18265545.jpg
街道の風景③ 牛込台地を江戸川橋へ下ります/東西線神楽坂駅付近

d0183387_18270154.jpg
渡邊坂/江戸川橋通り
江戸時代坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は500石取りの御書院番で寛文7年(1667)に市谷鷹匠町の屋敷と引替えにこの屋敷を拝領し、渡邊家は幕末までこの地にあった。(標柱)


d0183387_18270711.jpg
子育て地蔵尊/地蔵通り商店街(文京区関口)
三方を台地に囲まれたこの地が一面の田畑であったころ、近くの江戸川(現在の神田川)がしばしば氾濫した。この地蔵尊は明治の初めにいずこからか流れてきてここに留まったものと言い伝えられている。やさしいお顔の尊像に接した里人がこの地におまつりして以来、子育て・商売繁盛、またこの地域が戦災のほか大火に見舞われないことから「火伏せ地蔵」として敬われている。地元では「延命講」をつくり地蔵尊をお守している。(文京区教育委員会)


・・・関口(文京区)

西古川町、東古川町、小日向町、松ヶ枝町、関口町、関口水道町、関口駒井町、関口台町などが合併されて誕生。正保年間(16441648)には関口村と称していた。地名の由来は奥州街道の関所、神田上水を神田川に分流するための堰があったからなど諸説あり。(Wikipedia

d0183387_23390247.jpg
神田川の風景① 下ってきた右岸の牛込台地と左岸の小日向台地の間を南へ流れます/江戸川橋

d0183387_23110321.jpg
d0183387_23110743.jpg
江戸川橋               江戸川橋公園/目白通り

d0183387_00264823.jpg
石切橋の由来
この橋は江戸時代の初期・寛文年間(166173年)に架けられたといわれ、かつてこの橋の周辺に石工が住んでいたことからその名がついたともいわれますが定かではありません。明治時代中頃の記録によれば、この橋は長さ8間半3(およそ長さ15m・幅5m強)の木橋で、当時この付近では最も幅が広く大きい橋でした。中流域にあたるこの付近では昭和40年位まで神田川を江戸川という名で呼んでおりこの橋も元は江戸川大橋と呼ばれていたそうです。(案内板)

d0183387_01414644.jpg
西江戸川橋
この橋は明治後期の資料によると西江戸川町(現在の文京区水道2丁目)牛込五軒町(現在の新宿区西五軒町)との間に架けられた木橋であったそうです。橋が架けられた時期などは定かではありませんが、橋の名はこうした地名に因んで付けられたものと推察されます。また、明治初期の資料にはこの橋の記載はありませんが明治20(1887)頃の地図ではこの橋と見られる橋が現在よりやや上流に記されています(案内板)

d0183387_01254599.jpg
d0183387_12065339.png
中之橋の由来
この橋が架けられた時期は明確ではありませんが、江戸時代初期に(1670年頃)刊行された「寛文江戸図」の中には無名ながらこの橋を見つけることができます。当時はまだ現在のようにたくさんの橋がなかったので、この橋の下流側の隆慶橋と上流側の石切橋の間にあることになり「中之橋」と名付けられてといいます。明治時代中頃、この橋を挟む両岸一帯に桜が植えられ明治末頃まで東京市内屈指の桜の名所として知られていました。(「東京江戸川の桜」/案内板)
d0183387_01303404.jpg
神田川の風景② 白鳥橋から大きく右にカーブしていきます/大曲交差点(目白通り)
d0183387_01435150.png
明治20年頃の西江戸川橋付近(東京実測図/案内板)
(青:神田川 紺:神田上水)


・・・飯田橋

d0183387_13224958.png
江戸時代、千代田区側外堀の城壁である土居にかこまれてこの目白通りも飯田橋もありませんでした。明治初年(1868)に簡単な木橋がかけられましたが、明治14年(1881)に土居が掘切られて車の通行ができるになりました。明治23年(1890)には鉄製の橋にかわり、昭和4年(1929)に現在の橋がかかりました。飯田橋と言っても町の名前ではありません。JR飯田橋駅の新宿側の橋の名前です。その向こう側に船河原橋があります。こちらの橋の方が飯田橋より古いのかもしれません。現在の飯田橋という町は、以前は飯田町と言われていました。戦後の町名変更で飯田橋となって飯田町という町名は残っていません。(飯田橋散歩路)
(「飯田橋界隈」安政3年・1856/案内板 青:神田川 緑:外濠 赤丸:牛込御門・小石川御門)

d0183387_13363659.jpg
街道の風景④ 外濠の内側はオフィス街、記念碑が並びます/東西線飯田橋駅前

飯田橋サンポーロ
昔々、縄文時代の頃このあたりは波の打ち寄せる入江でした。その後、海は後退して葦の生い茂る広い湿地となりました。徳川家康が江戸に来て大規模な築の城工事が行われこのあたりは湿地から旗本屋敷にかわりました。九段坂、中坂を中心とした元飯田町は町人の町として賑わいましたが、明治になって旗本屋敷の後は住む人もなくなり、一時は大変さびれました。しかし、次第に賑わいを取り戻し現在のようなビル街に変わりました。この飯田橋散歩路に標柱を建てこの町の移りかわりを示します。(飯田橋散歩路)


d0183387_13414328.jpg
日本大学開校の地
明治22年(1889)ここ皇典講究所内に維新の志士・吉田松陰門下、時の司法大臣である山田顕義により日本法律学校が創立されました。これは日本大学の前身にあたります。明治28年(1895)に三崎町に移りました。(飯田橋散歩路)

d0183387_13433750.jpg
國學院大學開校の地
明治15年(1882)この地旧飯田町5丁目に国学を研究する皇典講究所が設けられました。明治23年(1890)、皇典講究所を母体として所長山田顕義によって國學院が開校しました。現在の國學院大學です。大正12年(1923)、渋谷に移りました。(飯田橋散歩路)

d0183387_13434624.jpg
甲武鉄道飯田町駅明治22年(1889)新宿-八王子間に甲武鉄道が開業し、同28年(1895)には市街線として延長され飯田町駅が開業し現在の中央線の始発駅となりました。同37年(1904)我が国で初めて飯田町-中野間で電車が運転され、円板型自動信号機が設置されました。その後甲武鉄道は御茶ノ水方面に延長されました。同39年(1906)甲武鉄道は国有化され昭和8年(1933)に飯田町駅は貨物専用駅となりました。この奥のホテルエドモントが旧駅構内で改札口は小石川側にありました。(飯田橋散歩路)

d0183387_13484441.jpg
神田川の風景③ 歩道橋から江戸川橋方面の景観です。外濠に合流し東へ流れます/飯田橋交差点

d0183387_13524763.jpg
街道の風景⑤ 右が飯田橋、左の船河原橋から外濠の流路となります/飯田橋交差点

d0183387_14051316.jpg
d0183387_14051848.jpg
飯田橋親柱              橋下は外濠からの流れです

飯田橋

神田川に架かり小石川橋の上流約550mの所にあります。飯田橋34丁目の間と新宿区下宮比町を結ぶ目白通りの橋です。明治初年に橋が架けられ近くに飯田町があることから飯田橋と名付けられました。明治23年(189011月に修築、同41年(19081023日に鉄橋に改架して渡り初めを行いました。現在の橋は昭和4年(1929410日に架設、長さ18m、幅27.2mのコンクリ-ト橋です(千代田区観光協会)

d0183387_14120776.jpg
船河原橋
飯田橋の直ぐ東側に船河原橋がV字状にあります。外堀通りの内回り左折車の一方通行路として交通渋滞の緩和に役立っています。もともとの船河原橋は飯田橋と「カギ形」に新宿区と文京区を結ぶ外堀通りの橋です。この橋は江戸図にも出てくる古くからある橋です。現在の橋は昭和45年(1970)に架けられたコンクリ-ト橋です。この橋から枝分かれした形で飯田橋とV字形に並んでいますので飯田橋の一部と見られがちです。なお、飯田橋西側の外濠埋立て地にあるセントラルプラザの庭園に流れるせせらぎに可愛い橋があります。「ひいらぎ橋」といい、昭和59年(19843月のセントラルプラザの完成と同時にオ-プンし人々の憩いの場に花をそえています。この庭園にはこのほかに「かえで橋」「けやき橋」「さくら橋」がありますがこれらの橋は新宿区に入ります。(千代田区観光協会)

d0183387_15042247.jpg
セントラルプラザ前の親水公園/飯田橋駅

d0183387_15053314.jpg

牛込揚場跡碑/親水公園
江戸時代には海からここまで船が上ってきた。全国各地から運ばれてきた米、味噌、醤油、酒、材木などがこの岸で荷揚げされたのでこの辺は揚場と呼ばれた。昭和47年(1972)に都の市街地再開発事業としてビル建設が決定され飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存してほしいという都民の強い要望からビルの西側に飯田壕の一部を復元すると共に以前水面があったことにちなんで約230mのせせらぎを造った。小濠の水はこのせせらぎの地下水路を通って昔のとおり神田川に注いでいる。(東京都)

d0183387_15394651.png
安藤広重 絵本江戸土産「牛込揚場」
『牛込御門外北の方 船河原橋より南の方 町武の第宅軒を並べ 東南のかたより御堀にて材木および米味噌はさら也 酒醤油始め諸色を載せてここに集へる 船丘をなせり故に揚場の名は負けらく これより四谷赤坂辺まで運送す因ってこの所の繁華山ノ手第一とせり』
d0183387_23024905.png
飯田橋周辺マップ
(青:神田川 紺:神田上水 緑:外濠 茶:目白通り・早稲田通り・大久保通り・外濠通り)


外濠(市ヶ谷・飯田橋)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23284543/

# by Twalking | 2017-05-14 23:50 | リバーサイドウオーク(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

d0183387_22021744.jpg

おみくじ
牛天神北野神社/牛坂(文京区春日)
『寿永3(1184)年 源頼朝の東国経営のとき 小石川の入江に舟をとめ 老松につないでなぎを待つ その間 夢に菅中(菅原道真)が 牛に乗り衣冠を正して現われ ふしぎなお告げをした 夢さめると牛に似た石があった 牛石これなり』(「江戸志」)
昔は坂下に、現在は本殿の横にあります。おみくじが一杯、人気がありますね、引いてみようかな~。


# by Twalking | 2017-05-13 22:10 | ○写真上達への道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 子育地蔵-地蔵通り   

d0183387_20201141.jpg

子育地蔵尊
地蔵通り商店街入口(文京区)
なんとやさしいお顔立ちだこと、
魅せられますね~、合掌。


子育て地蔵尊(火伏せ地蔵)/地蔵通り商店街(文京区関口)

三方を台地に囲まれたこの地が一面の田畑であったころ、近くの江戸川(現在の神田川)がしばしば氾濫した。この地蔵尊は明治の初めにいずこからか流れてきてここに留まったものと言い伝えられている。やさしいお顔の尊像に接した里人がこの地におまつりして以来、子育て・商売繁盛、またこの地域が戦災のほか大火に見舞われないことから「火伏せ地蔵」として敬われている。地元では「延命講」をつくり地蔵尊をお守している。(文京区教育委員会)

# by Twalking | 2017-05-12 20:26 | ○石像&モニュメント

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ○写真上達への道   

d0183387_12143528.jpg

青葉
愛宕下通り/多摩市愛宕
夕陽に輝く葉っぱを撮っていたのですが
よくみると小さな花?
つけてたんですね~・・・、美しい。


# by Twalking | 2017-05-12 13:09 | ○写真上達への道