無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:東海道(完)( 213 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり京都06 鴨川   

日時 2015.3.8(月)
天気 曇り

京都はぶらりと歩いているとよく標柱が目につきます。
なんだろう?と見てみるとよく耳にする場所なんですね。
その面影はありませんが、そこに立っているんだ、
と思うと、感慨深いものがあります。

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鴨川
古代の鴨川上流域は加茂氏の本拠地であった。上賀茂神社、下鴨神社はその氏神を祀る。下流域には山背国に配置された秦氏が定住していた。平安京においては都の東限となる。なお、鴨川が平安京の東限とされた理由として、初代造宮大夫である藤原小黒麻呂が新京予定地域である葛野郡に視察に入り「地相」を占したとされることや、作庭記を根拠に、風水の四神相応の思想を反映させたものとする説がある。中世には京都市街に隣接する河原が歓楽地となり、多くの芸人が集まるようになった。その中の一人に出雲阿国がいる。1614年(慶長19年)には角倉了以・素庵父子によって高瀬川が開鑿され、京都と大阪を結ぶ水路として利用された。1890年(明治23年)には琵琶湖疏水によって琵琶湖とも結ばれた。しかし20世紀に入ると、鉄道の開通によりこれらの水運は衰退した。(Wikipedia


d0183387_10502334.jpg三条大橋
橋が架けられた時期は明らかではないが天正18年(1590)、豊臣秀吉の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された。江戸時代においては、五街道のひとつ東海道につながる橋として、幕府直轄の公儀橋に位置付けられ、流出のたびごとに幕府の経費で架け替え・修復が行われた。現在の橋本体は2車線、歩道付のコンクリート製で1950年(昭和25年)に作られた。橋の名は、三条通と鴨川左岸(東側)を走る川端通の交差点名にもなっている。(Wikipedia


d0183387_10501860.jpg四条大橋
八坂神社の「社家記録」によると、1142年(永治2年)に勧進により架けられたという。以後何度も水害により流失し、そのたびに架け直されている。平安時代末期から鎌倉時代にかけては、六波羅が鴨川の東にあったことから重要性が増し、幅の広い橋が架けられていた。近世には三条大橋や五条大橋が街道の起点(終点)であったのに対し、四条大橋は八坂神社への参詣路であり、幕府の管理下になかったことから、これらの橋に比べ小さな橋であった。幕末の1857年(安政4年)にようやく石造の橋に架け換えられ、さらに1874年(明治7年)には鉄製に架け換えられた。Wikipedia


d0183387_11134190.jpgみそそぎ川 
加茂大橋下流で鴨川から分かれ、西岸の河川敷(鴨川公園の地下川道、丸太町橋下流で地上へ)を鴨川本流と並行する。二条大橋の下流で高瀬川を分けた後、五条大橋付近で再び鴨川に合流する。夏の納涼床はこの川にまたがる形で設けられる。(Wikipedia




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先斗町(ぽんとちょう)
京都市中京区に位置し、鴨川と木屋町通の間にある花街。「町」と付くが地名としての先斗町はない。もともとは鴨川の州で、江戸時代初期の寛文10年(1670年)に護岸工事で埋立てられ新河原町通と呼ばれていた。 繁華街としては茶屋、旅籠などが置かれたのが始まりである。芸妓、娼妓が居住するようになり何度も取り締りを受けたが、川端二条にあった『二条新地』の出稼ぎ地として認められ、明治初期に独立した。明治5年(1872年)に鴨川をどりが初演され、先斗町は花街としての花を開かせた。(Wikipedia

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高瀬川 
江戸時代
初期(1611年)に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である。開削から大正9年(1920)までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。 現在は鴨川において京都側と伏見側で分断されており、上流側を高瀬川、下流側を東高瀬川、新高瀬川と呼ぶ。高瀬川は二条大橋の南で鴨川西岸を併走する「みそぎ川」(鴨川の分流)から取水する。かつて、京都と伏見を結ぶ運河であった頃は、現在の鴨川合流点のやや上流側で鴨川を東へ横断したのち、一部区間で竹田街道と並行、濠川と合流し伏見港を経て宇治川に合流していた。(Wikipedia



d0183387_11231863.jpg池田屋騒動之址

池田屋事件 
幕末の186478日(元治
元年65日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。当地には佐々木旅館の縁者が建立した「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑がある。(Wikipedia




d0183387_11234901.jpg坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)

この地は、慶応3年(18671115日、維新の功労者である土佐藩海援隊長の坂本龍馬が盟友である陸援隊長の中岡慎太郎とともに刺客に暗殺された近江屋(醤油商)があった所である。龍馬は、海援隊の本部があった酢屋(材木商)に下宿していたが、前年の寺田屋事件により幕府から狙われていたため、土佐藩の出入商人であった近江屋に移っていたのである。1115日の夕刻、中岡が近江屋を訪ね大政奉還後の政局について論じていたが、夜になり十津川郷士と称する男たちによる襲撃を受けた。龍馬はその場で絶命し、中岡も二日後この世を去った。龍馬33歳、中岡30歳、実に大政奉還(1014日)が行われた1ヵ月後、王政復古の大号令(129日)が出る1ヶ月前の出来事であった。龍馬と中岡は、ともに遭難した山田藤吉と現在の京都霊山護国神社に埋葬されている。(京都市)


d0183387_11262821.jpg山本覚馬 八重邸跡地










by Twalking | 2015-03-15 13:49 | 東海道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり京都05 祇園界隈   

日時 2015.3.9(月)
天気 小雨

少し時間があったので、昨夜歩いた道をたどり寄れなかった八坂神社、高台寺に参拝してきました。昼もやはり情緒があっていい所ですね。


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八坂神社
京都市東山区祇園町にある神社。全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社である。通称として祇園さんとも呼ばれる。7月の祇園祭(祇園会)で知られる。元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応4=明治元年(1868)の神仏分離令により「八坂神社」と改められた。社伝によれば、斉明天皇2年(656)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、名は森羅の牛頭山に由来するのだという。そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まる。(Wikipedia


d0183387_18474731.jpg楼門
明応6年(1497年)西楼門とも称する。本殿の西方、四条通りの突き当たりに建つ。切妻造の楼門(2階建て門)。





d0183387_18474975.jpg本殿
承応3年(1654年)一般の神社では別棟とする本殿と拝殿を1つの入母屋屋根で覆った独特の建築様式をとり「祇園造」と言われる。




石鳥居
本殿南側の正面入口に立つ。正保3年(1646年)建立。寛文2年(1662年)の地震で倒壊後、同6年(1666年)に補修再建された。


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高台寺
(こうだいじ)
京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は鷲峰山(じゅぶさん)、寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、これを「高台寺蒔絵」と呼ぶ。他に北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の通称がある。豊臣秀吉が病死したのは慶長3年(1598)であった。秀吉の正室である北政所(ねね、出家後は高台院湖月心尼)は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し、当初は北政所の実母・朝日局が眠る康徳寺(京都の寺町にあった)をそれに充てようとしたが手狭であったため、東山の現在地に新たな寺院を建立することになった。秀吉没後の権力者となった徳川家康は北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命した。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られている。高台寺の開山は慶長11年(1606年)で、当初は曹洞宗の寺院であった。寛永元年7月(1624)、高台寺は臨済宗建仁寺派の大本山である建仁寺の三江紹益を中興開山に招聘。この時、高台寺は曹洞宗から臨済宗に改宗している。(Wikipedia


d0183387_19080535.jpg開山堂(重要文化財)書院の東方、庭園内に建つ入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂。慶長10年(1605年)の建築。元来、北政所の持仏堂だったもので、その後、中興開山の三江紹益の木像を祀る堂となっている。堂内は中央奥に三江紹益像、向かって右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の木像を安置している。この堂の天井は、秀吉の御座舟の天井と、北政所の御所車の天井を用いたものという。


d0183387_19081089.jpg霊屋(重要文化財)
開山堂の東方、一段高くなった敷地に建つ、宝形造檜皮葺きの堂。慶長10年(1605年)の建築。内部は中央の厨子(平素、扉を閉じている)に大隨求菩薩(だいずいぐぼさつ)像を安置し、向かって右の厨子には豊臣秀吉の坐像、左の厨子には正室・北政所の片膝立の木像がそれぞれ安置されている。厨子の扉には秋草、松竹など、須弥壇には楽器などの蒔絵が施されている。厨子の目立たぬところに蒔絵の作者の名が線描きされておりその点でも貴重。寺に所蔵される、北政所所用と伝える調度品類にも同じ様式の蒔絵が施され、これらを高台寺蒔絵と称している。高台寺蒔絵の特色は、金の平蒔絵(文様部分の漆を盛り上げずに、平滑に仕上げたもの)を主体に秋草などの絵画的な文様を描くことである。なお、北政所は自身の像の約2メートル下に葬られている。


d0183387_19181284.jpg庭園(史跡・名称)
小堀遠州作とされ、しだれ桜と萩の名所。石組みの見事さは桃山時代を代表する庭園として知られる。





d0183387_19324857.jpg傘亭(安閑窟 重要文化財)
境内東奥の小高い場所に位置する。伏見城から移築したものとされ、千利休好み(=「利休作」の意)の茶室と伝える(ただし伏見城建設は利休の自刃後)。宝形造茅葺きの素朴な建物で内部の天井が竹で組まれ、その形が唐傘に似ている所から傘亭の名がある。


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時雨亭(重要文化財)
傘亭の南隣にあり、傘亭との間は屋根付きの土間廊下でつながれている。珍しい2階建ての茶室で、2階南側の上段の間は柱間に壁や建具を設けない吹き放しとする。傘亭同様伏見城からの移築とされ、これも千利休好みと伝える。伏見城「御学問所」に擬する説もある。なお廊下は移転時に付加されたもので、両茶室はもともと別々に建っていたと考えられる。


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高台寺駐車場からの展望 


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清水寺                八坂の塔


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二寧坂(二年坂)
この坂道は古くからあったが産寧坂(三年坂)の手前いう意味で、この名が通り名となった。「ここでつまづき転ぶと二年以内に死ぬ」という言い伝えは、石段、坂道は気を付けて」という警句が語り伝えられたものと思われる。「坊日誌」によると、「宝暦81758)桝屋喜兵衛なる者、官の許可を得て、之を開拓屋地と為す」とある。以来この付近は「桝屋町」と称する。大正初期、現在の家並となり、国の町並保存地域に指定されている。(案内板)



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産寧坂
(さんねいざか)
三年坂(さんねんざか)とも呼ばれる。東山の観光地として有名である。狭義には音羽山清水寺の参道である清水坂から北へ石段で降りる坂道をいうが、公式には北に二年坂までの緩い起伏の石畳の道も含む。二年坂を介して北にある八坂神社、円山公園、高台寺、法観寺(八坂の塔)と南にある清水寺を結んでいるため、観光客が絶えない。(Wikipedia


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祇園  
祇園社(明治以降は八坂神社)の門前町であったのでこの名が付けられた町は、鴨川から東大路通・八坂神社までの四条通の南北に発展した。京都有数の花街(舞妓がいることでも有名)であり、地区内には南座(歌舞伎劇場)、祇園甲部歌舞練場、祇園会館などがある。現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く昔のおもかげは薄らいだが、格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれる。北部の新橋通から白川沿いの地区は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定、南部の花見小路を挟む一帯は京都市の歴史的景観保全修景地区に指定され、伝統ある町並みの保護と活用が進んでいる。なお、名の由来となった祇園社は祭神の牛頭天王が祇園精舎の守護神とされていたのでこの名があった。(Wikipedia



by Twalking | 2015-03-12 20:56 | 東海道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり京都04 哲学の道   

日時 2015.3.9(月)
天気 小雨

みなさんそれぞれにプランをお持ちでしたので、ぶらりと哲学の道歩いてみました。ここは一度歩いてみたかった道、いい所ですね~、素晴らしい!


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哲学の道 
京都市左京区
にある琵琶湖疏水分線に沿った歩道である。永観堂付近にある熊野若王子寺神社横から始まり、銀閣寺道バス停付近の白川通今出川交差点まで続く。熊野若王子神社から大豊神社参道までは琵琶湖疏水分線が山裾に沿って流れており、疎水の山側は自然の森となっており、対岸側に桜並木がある。そのため春は桜、秋は紅葉が美しい区間である。桜の季節や紅葉の季節には多くの観光客でにぎわう。明治の頃、文人が多く住むようになり「文人の道」と称されていた。その後、京都学派の哲学者・西田幾太郎や田辺元らが散策したため「哲学の小径」と云われたり、「散策の道」「思索の道」「疏水の小径」などと呼ばれた。1972年(昭和47年)、地元住民が保存運動を進めるに際し、相談した結果「哲学の道」と決まりその名前で親しまれるようになった。道の中ほどの法然院近くには、西田が詠んだ歌「人は人吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑がある。(Wikipedia



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慈照寺
(じしょうじ)
京都市左京区にある、臨済宗相国寺派の寺院。相国寺の境外(けいがい)塔頭である。室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園を有する。室町幕府8代将軍足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣(ぎんかく)、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺(ぎんかくじ)として知られる。銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は足利義政、開山は夢窓疎石とされている。夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物(故人)であり、このような例を勧請開山という。足利義政は文明5年(1473)に子の足利義尚に将軍職を譲り、 文明14年(1482)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。延徳2年(14902月、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。(Wikipedia


d0183387_00332880.jpg観音殿(銀閣)
銀閣は木造2階建ての楼閣建築で、慈照寺境内、錦鏡池(きんきょうち)の畔に東面して建つ。長享3年(1489)の上棟である。屋根は宝形造、杮葺きで、屋頂に銅製鳳凰を置く。ただし、古記録や名所図会によれば、18世紀後半頃までは鳳凰ではなく宝珠が置かれていた。鹿苑寺舎利殿(金閣)が文字通り金箔を張った建物であるのに対し、銀閣には銀箔は張られておらず、張られていた痕跡もない。上層は当初は内外とも黒漆塗であった。初層の平面規模は東面および西面が8.2メートル、北面が7.0m、南面が5.9mである(西面の北寄りに勝手口が突出しているため、北面は南面より1mほど長くなっている)。金閣になぞらえて慈照寺観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代以降のことである。万治元年(1658)に刊行された『洛陽名所集』などの文献に「銀閣寺」の名前が見られる。(Wikipedia


d0183387_00335012.jpg東求堂(とうぐどう)
一重入母屋造、檜皮葺きで、文明18年(1486)の建立である。軒は疎垂木、組物は舟肘木を用いる。義政の持仏堂として建立されたものであるが、様式的には住宅建築の要素が強い。「東求堂」と「同仁斎」の名は義政の命で横川景三(おうせんけいさん)が撰した候補のなかから義政が選んだもので、「東求堂」は「東方の人、念じて西方に生ずるを求む」(六祖壇経)、「同仁斎」は「聖人は一視して同仁」(韓愈)を出典とする。現在の東求堂は方丈の東側に建つが、当初はもう少し銀閣寄り、現在「向月台」と呼ぶ砂盛のあるあたりに建っていたと推測されている。(Wikipedia

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浄土院
  
京都市左京区
銀閣寺町にある浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は清泰山。五山送り火のひとつ「大文字」を管理することから「大文字寺」とも称される。この寺は、かつて慈照寺(銀閣寺)の場所に浄土寺という天台宗の寺院があった。この浄土寺の創建年代等については不詳であるが、986年(寛和2年)浄土寺で有明親王(後醍醐天皇の皇子)の妃である藤原暁子が出家し、有明親王の子救(みょうぐ)が入寺している。その後、皇室との関係が深かったが、室町時代8代将軍足利義政が山荘(後の慈照寺銀閣)を建てるにあたり、相国寺付近に移されその後廃絶した。その浄土寺の跡を引き継ぐにあたり亨保年間に建てられたのがこの寺とされる。(Wikipedia


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法然院
(ほうねんいん)
京都市左京区鹿ヶ谷にある浄土宗系の寺院である。元は浄土宗内の独立した一本山であったが、昭和28年(1953年)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となる。正式名は、「善気山法然院萬無教寺」と号するが院号の「法然院」で名が通っている。寺の起こりは、鎌倉時代に、法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来するという。江戸時代なり、延宝8年(1680年)に、知恩院の第38世である萬無が、法然ゆかりの地に念仏道場を建てることを発願し、門弟の忍徴と共に再興したのが当寺であるとされる。寺は、鄙びた趣きをもつ、茅葺で数奇屋造りの山門と、内藤湖南ン、川上肇、谷崎潤、九鬼周造などの著名な学者や文人の墓が数多く存在する。本堂の本尊は阿弥陀如来坐像であり、法然上人立像なども安置されている。また、方丈にある狩野光信筆の襖絵は重要文化財に指定されている。また境内には、名水として有名な「善気水」が湧き出している。
Wikipedia


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安楽寺
(あんらくじ)
京都市左京区にある浄土宗の寺院で
7月に中風除けを祈願するカボチャ供養で有名である。通称「松虫鈴虫寺」(まつむしすずむしでら)ともいわれる。安楽寺は、1207年(建永2)におこった建永の法難のきっかけとなった法然の念仏道場「鹿ヶ谷草庵」の後身の寺であり、寺宝として安楽房遵西・住蓮坊と後鳥羽上皇の女官であった松虫・鈴虫関連のものが残されている。(Wikipedia



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霊鑑寺(れいがんじ)
京都市左京区鹿ヶ谷にある臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院。円成山と号する。通称谷の御所、また鹿ヶ谷比尼御所。本尊如意輪観音。後水尾法皇の発願で皇女浄法身院宮宗澄尼(多利宮)を開山に、寺領120石を寄せて開創。1654(承応3)勅許により円成山霊鑑寺と称した。そののち明治維新まで皇女が入寺して歴代住持となり、堂宇再造には禁裏の旧御殿を下賜されるなど皇室との関係は深かった。現在本堂、庫裏、書院、表門などを備え寺域は広く境内は閑寂典雅な景趣に富む。(コトバンク)


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大豊神社
この社は少彦名命、応神天皇、菅原道真を祀っている。社伝によると仁和3年(887)宇多天皇の病気平癒のため尚侍藤原淑子が勅命を奉じた勅願社であり、朝野の信仰が篤かった。建武の中興、応仁の乱の兵火などに遭って焼失したが本殿、東社、拝殿、絵馬堂が再建され、鹿ケ谷法然院、南禅寺一帯の産土神として信仰を集めている。特に末寺の大国社、日吉社の狛猿、愛宕社の絵馬はそれぞれ神の使いとして有名である。また神花として椿、枝垂れ紅梅、紫陽花、山野草が四季折参拝者の心を和ませている。更に椿の名所として知られている。(案内板)


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熊野若王子神社
祭神として国常立神(くにとこたちのみこと)、伊佐那岐神(いざなぎのみこと)、伊佐那美神(いざなみのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る。当社は永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権を勧請して建立した若王子の鎮守社で、社名は天照大神の別称「若一王子」に因んでこのように名付けられた。以後、室町幕府及び武家の信仰を集めると共に花見の名所としても知られ、寛正6年(14653月には足利義政により花見の宴が催された。その後、応仁の乱により社殿は荒廃したが豊臣秀吉により再興され、社殿及び境内が整備された。現在の社殿は昭和54年(1979)に一社相殿に改築されたもので、以前は本宮、新宮、那智、若宮の四棟からなっていた。また、境内には末社として恵比須神社及び三解社が祀られ、背後の若王子山頂には同志社英学校(同志社大学の前身)の創立者である新島襄の墓がある。(案内板)


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総門&中門

禅林寺
(ぜんりんじ)
京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の
永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古くより「秋はもみじの永観堂」といわれる。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問(論義)が盛んである。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。当初真言宗寺院として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持の律師・永観の頃から浄土教色を強めていく。永観は文章博士の源国経の子として生まれ、11歳で禅林寺の深観に弟子入りする。当初、南都六宗のうちの三輪宗、法相宗を学ぶが、やがて熱烈な阿弥陀信者となり、日課一万遍の念仏を欠かさぬようになる。師深観の跡を受けて禅林寺に入るのは延久4年(1071)のことである。永観は人々に念仏を勧め、また、禅林寺内に薬王院を設けて、病人救済などの慈善事業も盛んに行なった。永観は、今日の社会福祉活動の先駆者といえるであろう。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。
境内には地形の高低差を生かして多くの建物が建ち、それらの間は渡り廊下でつながれている。Wikipedia


d0183387_00574991.jpg御影堂
1912年(大正元年)に完成した総ケヤキ造の仏堂。宗祖法然を祀る堂で、本尊を安置する阿弥陀堂よりも規模が大きい。





d0183387_00575510.jpg阿弥陀堂
御影堂より一段高い敷地に位置する。1597(慶長2年)の建築。本尊の「顧り(みかえり)阿弥陀」像(重文)を安置す





・総門 江戸時代末期の建築。「高麗門」と呼ばれる形式である。
・中門 延亨元年(1744)の建築。「薬医門」と呼ばれる形式である。「高麗門」「薬医門」ともに、寺院建築よりは城郭、大名屋敷な  どに多く見られる形式である。
・多宝塔 境内の最も高い位置にあり、景観上重要な位置を占めている。
1928年(昭和3年)篤志家の寄付で建設された。
・方丈「方丈」は禅宗寺院特有の建物で、他宗ではあまり見かけないものだが、禅林寺の方丈は、平面、立面ともに禅宗寺院の方丈と同形式の建物である。寺伝では永正年間(15041511)後柏原天皇によって建てられたというが、実際の建築は江戸時代に降るものとみられる。Wikipedia

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南禅寺 
京都市左京区
南禅寺福地町にある、臨済宗南禅寺派大本山の寺院である。山号は瑞龍山、寺号は詳しくは太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)である。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門(大明国師)。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式をもつ。南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元年(1264)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来する。この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の別院・南禅院はその後身である。Wikipedia

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山門 
歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の二幕目返しで石川五右衛門が「絶景かな絶景かな……」という名科白を廻す「南禅寺山門」がこれである。ただし実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628年)の建築。五間三戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建ての門)。藤堂高虎が大阪夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものである。上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の役の戦死者の位牌などを安置する。天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽筆。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに京都三大門の一つに数えられている。湯豆腐は
南禅寺周辺参道の精進料理が起源とされている。


勅使門 寛永18年(1641)、御所の日ノ御門を移築したものという。法堂 明治28年(1895年)にこたつの火の不始末で焼失した後、明治42年(1909年)に再建されたもの。Wikipedia

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境内案内図/南禅寺HP


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史跡琵琶湖疏水のうち「水路閣」
疏水事業は、京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者として、明治18年に起工され、同23年に竣工した。水路閣はこの疏水事業の一環として施行された水路橋で、延長93.17m、幅4.06m、水路幅2.42m、煉瓦造、アーチ構造の優れたデザインを持ち京都を代表する景観の一つとなっている。また、ここから西500mにあるインクラインは、高低差のある蹴上(けあげ)の舟だまりと南禅寺の舟だまりを結ぶ傾斜地に上下2本のレールを敷き、艇架台により舟を運ぶ施設で、当時の舟運(しゅううん)による交通事情がよくうかがえる。いずれも、西欧技術が導入されて間もない当時、日本人のみの手で設計・施工されたもので、土木技術史上極めて貴重なものであり、昭和5871日に「疏水運河のうち水路閣及びインクライン」として京都市指定史跡に指定された。また、平成86月にはこの水路閣、インクラインに加え第1疏水の第1・第2・第3隧道(ずいどう)の各出入口、第1竪坑(たてこう)、第2竪坑、明治36年に架設された日本初の鉄筋コンクリート橋(日ノ岡第11号橋)、同37年架設の山ノ谷橋などが日本を代表する近代化遺産として国の史跡に指定された。(説明板)


by Twalking | 2015-03-11 23:43 | 東海道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり京都03 東山花灯路   

日時 2015.3.8(日)
天気 晴れ

丁度、「東山花灯路」の開催期間と重なったので、
みなさんとぶらりと散策してみました。
早春の京の夜、風情があって素晴らしいですね!
記憶に残ります。


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石塀小路


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二年坂へ


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八坂の塔


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・・・・・・・・・・・
資料ファイル

京都・東山花灯路(きょうと・ひがしやまはなとうろ)
3月中旬に京都の東山山麓の青蓮院から清水寺に至る約4.6キロの小路に京都の伝統工芸である清水焼、北山杉、京銘竹、石工、金属などで作られた約2400基の行灯を点し、夜の散策を楽しむ趣向の、早春を告げる観光イベントである。北は神宮道から青蓮院に始まり、知恩院、円山公園、八坂神社、神幸道などを経由し、大雲院祇園閣を眺め圓徳院、高台寺、ねねの道、一年坂、二年坂から清水寺までの行路の足元を仄かに照らすさまざまな行灯や催し物を見ながら歩く人々の群れで、早春の東山はしばし賑わい、幻想的な色合いに包まれる。(Wikipedia


法観寺
(ほうかんじ)
京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は霊応山。観音霊として知られる清水寺の近隣に位置する。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。境内は狭く、塔以外に目だった建築物がないことから、「八坂の塔」は寺自体を指す通称ともなっている。伝承によれば五重塔は592年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際仏舎利を三粒収めて法観寺と号したという。(Wikipedia



by Twalking | 2015-03-10 16:45 | 東海道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(33)エンディングロード03    

日時 2015.3.7(土)~9(月)
天気 雨&曇り

東海道のエンディングロードを迎えました。
数々の思い出とともにゴールの三条大橋を目指します。
なんだかうきうき、わくわくしてきますね。

初日は予想に反して怪しい空模様、あららです。
ポイントを絞ってご案内しました。
街道随一の草津本陣、急がば廻れの矢橋追分、
大江のふる里、近江一宮・建部神社、ムカデ伝説の
瀬田の唐橋、本降りの中みなさん元気にゴールされました。

2日目は長丁場、天気に恵まれまれほっとしました。
膳所城跡でやっと琵琶湖に会えましたね。
逢坂の関を越えて山科盆地へ、天智天皇の御陵にも寄り
日の岡を越えてみなさん元気にへゴール、がんばりましたね!

やりました~、感動の一瞬です、おめでとうございま~す!
ご褒美は祇園の懐石料理、笑顔に包まれて和やかなひと時です。
旅の思い出話に花がさきました。

解散後、東山花灯路の期間でリクエストもありましたので、
みなさんにお声がけしてぶらりと近くを散策してみました。
早春を彩るイベント、京の夜を満喫しました。

3日目は自由行動。
みなさんプランを練っておられたご様子。
朝食後、お疲れもみぜずお出かけになられました。
京の思い出とたくさんのお土産とともに帰路へ。

3つ歳を重ねましたが、3年、いやそれ以上若返りましたね。
ほんとに楽しい道中、あっという間の3年間でした。
名残は尽きませんが、またご一緒に歩きたいですね。
どうぞ、お元気でお過ごしください、ありがとうございました! 038.gif


・・・初日

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さすが街道随一、素晴らしいですね/草津本陣


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なかなかのボリューム/ボストンプラザ     立木神社に参拝


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あらら、小雨模様ですね~/弁天池


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本降りになりましたね・・・/建部神社
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ゴール、近いですよ~/瀬田の唐橋


・・・2日目

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やっと琵琶に会えましたね~/膳所城址公園


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粟津晴嵐、この付近ですね           樹齢600年だそうです/篠津神社


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巴地蔵に願かけましたかぁ~/義仲寺


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山科盆地、間もなく見えてきますよ~


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関蝉丸神社に参拝                 峠、越えましたね

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天智天皇御陵に寄りました


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東山の丘を越えれば京都盆地で~す     さぁ~ゴール近いですよ/蹴上浄水場


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やりましたね!ゴールです/三条大橋・弥次喜多像


・・・お祝いの宴

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乾杯~!/祇園・美登幸

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完歩の感想、語っていただきました。みなさんの晴れやかな笑顔、素敵で~す。。。


・・・

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東山花灯路、ぶらりと歩いてみました


・・・3日目(自由散策)

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名残おしいですが、帰りましょう~/新幹線京都駅


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記録
人数 17名(全体39名)
歩数 初日 22400歩 2日目 36100歩
時間 初日 4時間40分 2日目8時間15分3 3日目 自由行動
宿泊 初日 ボストンプラザ 2日目アークホテル

行程
(初日)
東京駅7:33⇒草津⇒米原10:00⇒草津10:44・・・ホテル(昼食)
ホテル12:00・・・草津本陣(見学)・・・立木神社13:00(S)・・・
矢倉の立場・・・野路一里塚・・・清家塚・・・セブン(WC14:00)・・・
弁天池・・・月輪立場・・・大萱一里塚・・・瀬田ダイエー(WC)15:00
・・・建部神社(WC)16:05・・・瀬田の唐橋・・・石山駅16:45
石山駅(S)17:05⇒草津・・・ボストンプラザ17:15

(2日目)
ホテル7:45・・・草津駅8:06・・・石山駅(S)8:20・・・
粟津晴嵐・・・瀬田口総門・・・若宮神社・・・篠津神社・・・膳所神社・・・
膳所城(散策・WC9:35)・・・和田神社・・・石坐神社・・・
義仲寺(見学)・・・呼次松・・・大津事件碑・・・曳山会館(WC・S11:15)
・・・札の辻・・・本陣・・・関蝉丸神社11:40・・・逢坂の碑・・・
逢坂の関簸12:05・・・月照寺・走井・・・髭茶屋追分・・・小関越え道標
・・・徳林庵・・四宮コンビニ12:30・・・山科さと(昼食・S)14:10・・・
天智天皇御陵14:40・・・日ノ岡・・・蹴上・・・三条(WC)・・・
三条大橋16:10(記念撮影)・・・三条河原町駅16:45⇒大宮駅・・・
アークホテル17:00

ホテル18:30⇒美登幸20:30・・・東山花燈路散策・・・三条河原町駅⇒大宮駅
・・・ホテル21:40頃

(3日目)
自由行動・・・京都駅八条花時計16:00集合・16:33⇒東京駅19:10

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記念撮影/三条大橋


by Twalking | 2015-03-10 15:26 | 東海道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道、ゴール!   

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やりましたね!東海道五十三次制覇しました、おめでとうございま~す。038.gif
京・三条大橋/東海道
2015.3.8(日)16:15

by Twalking | 2015-03-09 23:04 | 東海道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり石山寺   

日時 2015.2.24(水)
天気 晴れ

近江八景「石山秋月」の地を訪ねてみたいと思い、下見の帰り道行ってみました。噂に違わぬ素晴らしい古刹です、時間があればもっとじっくり見たかったんですが、でも満足!思い切って行ってよかったぁ~。。。


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石山寺(いしやまでら)
大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺。本尊は如意輪観音、基(創立者)は良弁。当寺は京都の清水寺や奈良の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場であり、西国三十三所観音霊場第13番札所となっている。また当寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。石山寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物の桂灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている。


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本堂(国宝)
正堂(しょうどう)合の間、礼堂(らいどう)からなる複合建築である。構造的には正面7間、奥行4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を示す建築用語)の正堂と、正面9間、奥行4間の礼堂という2つの寄棟造建物の間を、奥行1間の「合の間」でつないだ形になり、平面は凸字形になる。正堂は承暦2年(1078年)の火災焼失後、永長元年(1096年)に再建されたもので滋賀県下最古の建築である。


d0183387_15571643.jpg多宝塔(国宝)
建久5年(1194)建立で年代の明らかなものとしては日本最古の多宝塔である。内部には快慶作の大日如来像を安置する。






d0183387_15561270.jpg毘沙門堂1773年建立
 








d0183387_15554043.jpg東大門(重文)
参道入口の門。入母屋造、瓦葺きで建久元年(1190年)の建立だが、本堂の礼堂が建立されたのと同時期の近世初期に大幅な修理を受けている。





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近江八景 石山秋月


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瀬田川の景観

by Twalking | 2015-03-06 16:30 | 東海道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり京都02 京都御所   

日時 2015.2.24(火)~25(水)
天気 晴れ

朝方と夕方でしたので中までは見れませんでしたので、雰囲気だけ感じ取りました。
ゆっくりと見学したい所ですね。

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二条城 
京都市中京区二条通堀川西入二条城町にある江戸時代の日本の城跡である。京都市街の中にある平城で、足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは徳川氏によるものである。城跡全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所でもある。当時の二条大路は朱雀大路が廃れた後、都一の大路であり、足利尊氏から義満まで3代の将軍が二条に屋敷を構えたため将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」といった。(Wikipedia)


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京都御所 
平安遷都(延歴13年・794)時の内裏は、現在の京都御所よりも1.7キロ西の千本通り沿いにあった。現在の京都御所はもと里内裏(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであった土御門東洞院殿の地である。南北朝時代(14世紀半)から内裏の所在地として定着し、明徳3年(1392)の南北朝の合一以後、ここが正式の皇居となって明治2年(1869)、明治天皇の東京行幸時まで存続した。明治以降は京都皇宮とも称される。土御門東洞院殿は、元弘元年(元徳3年・1331)、後醍醐天皇が京都を脱出した後に鎌倉幕府が擁立した光厳天皇がこれを里内裏として以降、明治天皇の東京行幸に至るまで約550年間にわたって使用され続けた内裏である。当初は一町四方の敷地だったが、足利義満によって敷地が拡大され、その後織田信長や豊臣秀吉による整備を経て現在の様相がほぼ固まった。現存の内裏は幕末の安政2年(1855)に平安様式に倣って再建されたもので安政内裏と呼ばれている。なお、南朝と呼ばれることになる大覚寺統の天皇の御所は二条富小路内裏であった。

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御所は敷地の四方を築地塀(延長は東西約
250メートル、南北約450メートル)で囲まれている。築地塀は5本の筋の入ったもっとも格式の高いもので、計6か所の門がある。南面には建礼門、北面には朔平門、東面の南寄りに建春門、西面は南から北へ宣秋門、清所門、皇后門である。建礼門 安宮内裏外郭の南正面にあり、内郭の承明門と相対する。東西の築墻はそれぞれ39間で、その両端に春華門および修明門があり、門外の東西に仗舎を設け、舎前に炬火を焼き、左右の兵衛がこれを警固した。構造としては檜皮葺、切妻屋根の角柱の四脚門である。(Wikipedia)

d0183387_14441719.jpg建春門 
平安宮内裏外郭の東正面にあり、内郭の宣陽門と相対する。東西3間。門のすぐ外に外記庁の建物があったことから「外記門」の異名を持つ。「宮東僻仗門」「左衛門陣」ともいった。



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蛤御門
江戸時代末期の1864・元治元年、この門の周辺で長州藩と御所の護衛に当たっていた会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が行われました。この戦いが「禁門の変」。門の梁にはそのときの鉄砲の弾痕らしき跡が残っています。この門は新在家門としいわれてましたが、江戸時代の大火でそれまで閉ざされていた門が初めて開かれたため「焼けて開く蛤」にたとえられて蛤御門と呼ばれるようになったと云われます。(案内板)

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京都御所案内板


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護王神社
(ごおうじんじゃ)
京都市上京区にある神社である。和気氏の創建による高雄神護寺境内に作られた、和気清麻呂を祀った廟(護王善神堂)に始まる。正確な創建の年代は不詳である。和気清麻呂と姉の広虫は、宇佐八幡宮神託事件のに流刑に処せられながらも皇統を守った。孝明天皇はその功績を讃え、嘉永4年(1851)和気清麻呂に護王大明神の神号と正一位という最高位の神階を授けた。明治7年(1874)、護王善神堂を神社として護王神社に改称し、別格官幣社に列格した。明治19年(1886)明治天皇の勅命により京都御苑蛤御門前付近にあった公家の中院家の邸宅跡(現在地)に遷座された。(Wikipedia)


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菅原院天満宮神社
(通称烏丸の天神さん)
京都市上京区にある神社(天満宮)。菅原道真とその父是善、祖父清公を祀る。親子三代の邸宅で「菅原院」がその前身。左大臣・藤原時平によって大宰府に左遷させられた道真は都に戻ることなく延喜3年(903)に薨去。その後、京の都には異変が相次いだ。その菩提を弔うためにこの地に歓喜光寺が建立された。寺は後「六条道場」と称し、移転している。道真公生誕の地といわれる関わりの深いこの地に社殿を配し、相殿神に父是善、祖父清公を祀るようになった。境内には『菅公御産湯の井』や『菅公御遺愛の石灯籠』がある。(Wikipedia)



by Twalking | 2015-03-06 15:07 | 東海道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり京都 金閣寺   

日時 2015.2.23(月)
天気 曇り

京都はほとんど知りません。
御所とかお寺とかよく耳にするので、
ひとまずそこらあたりから歩いてみました。

修学旅行の感じですが、ますいってみること、
これは大事だな~、と感じます。
おもしろいところですね、京都、素晴らしい!


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金閣・鹿苑寺
お釈迦様の舎利(お骨)をまった舎利殿「金閣」が特に知られ、金閣寺とよばれていますが、正しくは「鹿苑寺」と言い臨済宗相国寺派の禅寺です。この地は鎌倉時代に西園寺公経(きんつね)の別荘「北山第」(だい)が在りましたが、足利三代将軍義満が気に入り、応永4年(1397)に西園寺家から譲り受け山荘「北山殿」を造りました。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に現したと言われ、後小松天皇(一休禅師の父)をお招きしたりしました。室町幕府は中国(明国)との交易を盛んに行い北山文化の中心地として発展しました。義満没後、遺言により夢窓国師を開山(初代の住職)とし義満の法号鹿苑院殿から二字をとり鹿苑寺と名づけられました。(パンフ)


d0183387_01332623.jpg舎利殿(金閣)
金閣の二層と三層は漆の上から純金の箔が貼ってあり、屋根は椹(さわら)の薄い板を何枚も重ねたこけら葺きで、上には鳳凰が輝いています。一層は寝殿造で法水院、二層は武家造で潮音洞とよばれています。三層は中国風の禅宗仏殿造で究竟頂(くっきょうちょう)とよばれ、三つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建物です。(パンフ)


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庭園
金閣のある鏡湖池(きょうこち)を中心として。葦原島はど大小の島々や当時の諸大名が競って献納してその名が付けられた畠山石や赤松石・細川石など名石が配されています。西の衣笠山を借景とした庭園は室町時代の代表的な池泉回遊式庭園で、国の特別史跡及び特別名勝に指定されています。方丈の北側には京都三松の一つで舟形をした『陸舟の松」(りくしゅう)があり、義満が自分で植えたと伝えられています。金閣の後を進むと、義満がお茶の水に使ったと伝えられる「銀河泉」手を清めた「厳下水」があり、それに隣接する「龍門の滝」は鯉が滝を登ると龍になると言われる中国の故事「登龍門」に因んだ「鯉魚石」が置かれています。「安民沢」は古くからある池の名前で、中島には「白蛇の塚」があります。(パンフ)


d0183387_01334515.jpg夕佳亭
江戸時代の茶道家金森宋和が好んだ数寄屋造りの茶席で、夕日に映える金閣が殊に佳いと言うことから「夕佳亭」と名付けられた茶室で、正面の床柱が有名な「南天の床柱」です。その右にある三角の棚が「萩の違棚」中央の古木が「鶯宿梅」(おうしゅくばい)です。1997年解体修理が行われました。茶席の前の石灯籠と富士杉の手水鉢は、慈照寺の「銀閣」を建てた足利八代将軍義政が愛用したものと言われ、茶席横の「貴人搨」(とう)は身分の高い人の椅子という意味です。(パンフ)


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総門                 不動堂


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仁王門・勅使門/南庭より

仁和寺
(にんなじ)
京都市右京区御室にある真言宗御室派総本山の寺院。山号を大内山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇。皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法皇が住したことから、「御室御所」(おむろごしょ)と称された。仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年(886))に建て始められたが、同天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御した。遺志を引き継いだ宇多天皇によって、仁和4年(888)に落成し、「西山御願寺」と称されたが、やがて年号をとって仁和寺と号した。宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、当寺には「御室(仁和寺)御所」の別称がある。なお、「御室」の旧地には現在、「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群が建つ。御所跡地が国の史跡に指定されている。(Wikipedia)

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宸殿
御室御所跡を代表する建物でその姿は中世の建築をほうふつとさせます。宸殿では、白川砂を敷きつめ簡素な美を表した南庭、そして池を配した晴れやかな北庭を見ることができます。南庭に面した白書院、さらに奥にある墨書院では堂本印象による襖絵があります。宸殿の内部は極彩色の襖絵で飾られ、北庭の木立に光格天皇遺愛の茶室「飛濤亭」が覗かれます。また、歴代門跡の御霊を祀る霊明殿に至る途中の回廊から、尾形光琳の屋敷より移された「遼廓亭」が見られます。(パンフ)

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金堂 
仁和寺が寛永年間に再興されたとき、京都御所の紫宸殿を移築し本堂としました。本尊は阿弥陀三尊です。

d0183387_03095321.jpg経蔵


d0183387_03090569.jpg五重の塔 
各層の屋根の大きさがほぼ同じという江戸期の特徴を示しています。 

 

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仁王門 
江戸時代に建てられた左右に金剛力士を安置することから仁王門と呼ばれています。


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北野天満宮

京都市上京区にある神社。旧称は北野神社。二十二(下八社)の一社。通称として天神さん北野さんとも呼ばれる。福岡県の大宰府天満宮とともに天神信仰の中心で、当社から全国各地に勧請が行われている。近年は学問の神として多くの受験生らの信仰を集めている。(Wikipedia)


by Twalking | 2015-03-06 12:02 | 東海道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 “夢”の続き   

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夢大路/中山道草津宿
中山道は草津宿で東海道に合流し京・三条大橋に向かいます。ここと最初の部分、そして甲州街道の分岐・下諏訪宿は歩きましたが、通しで歩いてみたいですね。「夢大路」いい名前ですね、うん、“夢”はまだまだ続く、そんな気持ちにさせられま~す。。。

by Twalking | 2015-03-04 13:59 | 東海道(新規)