無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:東京散歩(新規)( 88 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり雑司ヶ谷&目白台   

日時 2017.4.30(日)
天気 晴れ 


「緑の木陰がいいわ~」とリクエストあり。
のんびり街歩きなら目白あたりかな・・・、
歩いたばかりですが美術館よってないし。

それに鬼子母神もよさそう、都電にも
乗ってみたいし・・・。
ということで連れだって出かけました。


・・・
雑司が谷/豊島区

雑司が谷は北側に東池袋、東側に文京区大塚、南側に高田、文京区目白台、西側に南池袋、目白と接している。雑司ヶ谷霊園とも接するが霊園の住所は豊島区南池袋4丁目であり(南池袋の面積の7割を占める)、都電荒川線の雑司ヶ谷停留場も南池袋にある。駅名の由来にもなっている法明寺も地内にある(地内にあるのは飛地境内で本堂は南池袋になる)
Wikipedia

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緑が多くて安らぐ霊園です、マップがあれば漱石の墓などみたかってのですが・・・/雑司ヶ谷霊園

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雑司が谷霊園
明治5年(1872)神葬墓地として開設され、明治7年に共葬墓地となった都営霊園です。面積約10万㎡の霊園内には緑豊かな樹々や四季折々の草花が咲き、副都心池袋に隣接する区域とは思えないほど静かで落ち着いた佇まいを見せています。また、江戸時代、霊園西側に将軍家の鷹狩り用の鷹を飼育する御鷹部屋があり、今も緑の枝を広げる「御鷹部屋の松」にその名残を見ることができます。墓域内は著名人の墓が数多くあり夏目漱石をはじめ、小泉八雲、泉鏡花、永井荷風、島村抱月等の日本文学史にその名を刻む作家たちや漂流してアメリカに渡ったジョン万次郎、開明派の幕臣小栗上野介忠順、抒情画家竹久夢二、詩人サトウハチロー、自由学園を創設した羽仁もと子・吉一夫妻、言語学者金田一京助等錚々たる面々がこの地に眠っています。また、帝国大学で哲学を教え、漱石にも畏敬されたラファエル・ケーベルの墓は都の文化財に指定されています。(雑司が谷案内マップ)


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旧マッケーレブ邸(雑司が谷旧宣教師館)

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この建物は明治40年(1907)にアメリカ人宣教師J・M・マッケーレブが建てたものです。マッケーレブは昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていました。19世紀末のアメリカ郊外住宅に多く用いられたシングル洋式を基調とし、細部のデザインはカーペンターゴシック洋式を用いています。建物の内部は1階、2階ともに3部屋がT字形に配置され各階3部屋ともに暖炉が組み込まれ、壁の中で煙突につながっています。1階の西北部にポーチ付きの玄関を設け北側に廊下及び主階段、南側にはサンルームとしても使える広縁があり東側には補助階段が付いています。19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を有する質素な外国人住宅であり都内でも数少ない明治期の宣教師館の一つとして貴重です。東京都指定有形文化財(建造物)(東京都教育委員会)

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1F食堂                2F広縁


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清立院山門

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清立院
日蓮宗、御嶽山。約770年前真言宗・清龍寺として創立。後に村を疫病から救った雲水が日蓮聖人像を寺に残したことから日蓮宗・清立院と改められました。門の石段脇に「かさもり薬王菩薩安置 清立院」と刻まれた石碑があり、雨乞いと皮膚病の祈願寺として尊崇されました。木彫毘沙門天像は区の文化財に登録されています。(雑司が谷案内マップ)

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雨乞い松
正嘉年間(1259)雨乞いに霊験ありとして旱魃の年は農民この所に集まりて雨乞いす(案内板)

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寶城寺山門


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寶城寺
創立時期は天正か寛永の頃と考えられる。元禄15年(1702)代官細井九左衛門の諸寺院境内御改により、牛込原町済松寺領より現在地に移転する。昭和に入って火災で本堂悉く焼失。昭和33年再建。(豊島の寺院)

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江戸名所図会 清立院 日進堂 請雨松 宝城寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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大鳥神社鳥居

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大鳥神社
正徳2年(1712)出雲松江藩主松平出羽守の嫡子が疱瘡にかかって高田村下屋敷で療養中、出雲鷺の浦から鷺大明神が飛来して救ったといわれ、以来ここに勧請したのが始まりと伝えられています。初め社は鬼子母神境内にありましたが、明治初年の神仏分離令により、大鳥神社と改称、ケヤキ並木付近に仮遷座し、その後、現在地を鎮座地として定め、日本武命を祭神として祀っています。権現造の社殿は 昭和56年に造営されたもの。 毎年11月の酉の市には、商売繁盛を願う人々で賑わいます。(雑司が谷案内マップ)

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大鳥神社恵比須神
七福神の中でも日本古来の唯一の神様で、伊邪那岐・伊邪那美の御子です。網と釣竿を持った姿は「釣して鯛せず」ということで、暴利を貪らない清い心をしていると言われ商売繁盛の神として愛されています。皆さんもハイ「えびす顔」ですよ(雑司が谷七福神の会)


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いい並木道ですね~・・・、参道は「面影橋」から来る鎌倉街道でしょうか

鬼子母神参道のケヤキ並木
鬼子母神堂は江戸時代から子授け、安産の御利益があるとされ多くの参詣者を集めてきました。江戸後期には将軍の御成りもあったほど大いに繁盛しました。参道には名物の大きなケヤキ並木とたくさんの茶屋、料亭などが並び、参詣客は土産には現在も造られている「すすきみみずく」などが売られていました。かつては大径のケヤキが多く荘厳な風景を醸し出していましたが、現在は徐々に若いケヤキに植え替えられ、巨木は4本のみです。毎年10月に行われるお会式(おえしき)には万灯行列が周辺を練り歩き、往時のにぎわいを伝えています。(東京都教育委員会)

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鬼子母神境内へ

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雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ
イチョウ(銀杏・公孫樹)は一属一種のイチョウ科に属する裸子植物の落葉高木である。耐寒、耐暑性があり社寺の境内樹、公園樹、街路樹などに広く植えられている。中国原産といわれ日本へは遣唐使の帰国によってもたらせられたという説もある。雌雄異株で4月に開花し10月に種子(銀杏)は成熟し黄葉する。樹高30m、幹周8mの雄株で、都内のイチョウでは麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹であり、樹勢は盛んである。応永年間(13941428)に僧日宥が植えたと伝えられている。古来「子授け銀杏」ともいわれ戸張苗竪の「櫨楓」によると婦人がこのイチョウを抱く光景がみられ、注連縄を張るようになったのは文政年間(181829)の頃という。(東京都教育委員会)

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雑司が谷の鬼子母神
雑司が谷の鬼子母神は永禄4年(1561)に清土(せいど・現在の文京区目白台)で掘り出された鬼子母神像を天正6年(1598)に現在の場所に堂を建てて安置したことにはじまる。寛永2年(1625)には社殿の造営が始まり、正保3年(1646)には宮殿が寄進された。江戸時代前期から将軍の御成りがあるなど武家から庶民まで、子育て安産の神として広く信仰され現在でも多くの参詣者が訪れている。

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現在の鬼子母神堂は手前から「拝殿」「相の間」「本殿」の3つの建物から構成される「権現造り」。本殿の開堂供養は寛文6年(1666)に行われたことが記録にあるが、屋根裏の束に書かれた墨書から寛文4年に上棟されたことが判明している。拝殿と相の間は元禄13年(1700)広島藩2代目藩主浅野光晟(みつあきら)の正室・満姫の寄進により建てられ、その建築には広島から呼び寄せた大工が従事している。拝殿は江戸中期の華やかな建物ではあるものの、装飾を簡素に変えるなど幕府による建築制限令への対応を示す事例であり、本殿と拝殿とで異なる特徴を持つ建築物であることから歴史的、意匠的に価値が高いと評価され、平成287月重要文化財に指定された。(豊島区教育委員会)


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鬼子母神とすすきみみずく
鬼子母神は子授け、安産、子育ての神として江戸時代から人々に信仰を集めている。参詣土産の「すすきみみずく」も東京の郷土玩具として古くから親しまれてきた。その純朴な愛らしい姿はこんな伝説が宿っている。むかし鬼子母神の近くに二人暮らしの母娘が住んでいた。ある時母親が病に倒れ、途方にくれた娘は鬼子母神に願をかけた。すると『この辺りは芒が多いところゆえ、これを刈り取りその穂をもって「すすきみみずく」を作り神の庭で売るとよい』という夢枕のお告げがあったという。孝行娘の一念が通じいつしか母親の病は治り、以来娘は蝶々になって鬼子母神に仕えたという。(豊島の民話・「すすきみみずく」より)(文化と歴史の散歩道・雑司が谷街歩き)

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大国堂                上川口屋

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武芳稲荷神社

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武芳稲荷神社
武芳稲荷堂は倉稲魂命(ウケノミタマノミコト)を祀った堂宇です。「日本書記」では「ウケ」は穀物・食物を意味し稲魂命は「穀物に神」といわれています。昔、このあたりで農耕が盛んに行なわれていたことが伺えます。創建の年代は不明ですが、雑司が谷鬼子母神縁起によれば天正6(1578)に「稲荷の森」と呼ばれていた当地に堂宇を建立して鬼子母神像を安置したと記されていますので、武芳稲荷堂はこれよりも以前に建立され、天正6年当時は既にこの地の地主神として多くの人々に知られていました。もとは一坪にも満たない木造の堂宇でしたが昭和42年に現在の堂が建立され、昭和46年には鳥居25基、昭和49年には正面に神狐像2体が奉納されました。武芳稲荷尊天はまた古来より「出世稲荷」とも称され、商売繁盛・開運隆昌とともにその霊験あらたかなることを慕う大勢の信徒に尊崇されています。毎年、節分後の午の日に初午大祭・518日に夏季大祭・918日には秋季大祭がそれぞれ修され皆様の開運出世、除厄得幸の祈願が行われています。(境内石碑)

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江戸名所図会 鬼子母神 法明寺 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

法明寺
日蓮宗、威光山。創建弘仁元年(810)、もとは真言宗のお寺でしたが、正和元年(1312)日蓮聖人の弟子日源上人により改宗、現在の寺号に改められました。江戸時代から桜の名所として知られ『歩蔵国雑司谷八境』のひとつに「威光山( 法明寺) 花」と記されています。参道から山門に続く風情ある桜並木は今も訪れる人の目を楽しませてくれます。境内には曲尺、算盤、天秤など度量衡の珍しい図案が彫られた梵鐘や酒井抱一筆の朝顔が描かれた蕣(あさがお)塚があり、また墓地には楠公息女の墓(姫塚)や豊島氏累代の墓があります。(雑司が谷案内マップ)

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地名の由来
雑司が谷の地名の紀元については①法明寺の雑司料であったため②小日向金剛寺の雑司料であったため③元弘・建武期の朝廷で雑式の職を務めた柳下・長島・戸張氏がこの地に土着し、その子孫も村民として残ったから④郡領等身分の高い人の子息の子を指す曹司などのはじめた土地だから等諸説あり、「雑司ヶ谷」に統一されたのは8代将軍徳川吉宗が放鷹のため立寄った折、「雑司ヶ谷村」と書くべしとしたからと伝えられています。昭和41年の住居表示実施により現在の「雑司が谷」に町名が変更されました。(未来遺産雑司が谷お散歩マップ)

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雑司が谷案内マップ
(緑:鎌倉街道 茶:目白通り・明治通り・不忍通り)

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旧鎌倉街道
鎌倉時代に幕府鎌倉と諸国の国府を結んだ道路網で、有事の際に「いざ鎌倉」と御家人が駆け参じた道として知られています。そのひとつが豊島区内を縦断していたと云われ、おおよそ北区滝野川から明治通り沿いに上池袋に入り、沖仲橋を経て東池袋南池袋と南進し、さらに雑司が谷から目白通りを超えて面影橋へと続く道筋にあたります。特に鬼子母神表参道から下る宿坂あたりはかつての街道の面影が偲ばれます。(未来遺産雑司が谷お散歩マップ)




・・・神田川&目白台

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都電荒川線に乗って早稲田へ

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大隈通り               大隈庭園前にてランチ


・・・永青文庫

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肥後細川庭園を散策して永青文庫へ

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初めて入りましたが見応えのある美術館です/永青文庫

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記念撮影               胸突き坂を芭蕉庵へ

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永青文庫展示物/パンフレット


・・・関口芭蕉庵

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関口芭蕉庵瓢箪池

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関口芭蕉庵/文京区関口
この地は江戸前期の俳人松尾芭蕉が延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川改修工事に参画し「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。享保11年(1726)芭蕉の33回忌に当たり芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。その後、去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。芭蕉は、早稲田田んぼを琵琶湖に見立てその風光を愛したと言われている。そこで、寛延3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が芭蕉の直筆「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓とした。この墓を「さみだれ塚」と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。芭蕉庵の建物は昭和13年(19383月、近火で類焼したが同年8月再建された。しかし、昭和20年(19455月の戦災で再び消失した。敷地内には芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり往時をしのぶことができる。(文京区教育委員会)

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芭蕉翁の句碑 
ふる池や 蛙飛びこむ 水のをと 
芭蕉翁280年祭にこれを建つ 文字は真筆 昭和48年・1973/案内板




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夜寒の碑
二夜鳴く 一夜は寒し きりぎりす
武玉川の撰者四時慮慶紀逸の句碑(宝暦3年・1753)/案内板





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苑石湖の詩碑             伊藤松宇の誌碑

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史跡関口芭蕉庵案内図



・・・椿山荘

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神田川遊歩道から椿山荘の庭園へ寄り道


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白玉稲荷神社
大正13年(1924)に京都下賀茂神社にあった社殿を譲り受けて移築し、翌14年に伏見稲荷大社から白玉稲荷を勧請して椿山荘の守護神としました。平成3年現在地に新社殿を遷座しました。(説明板)


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圓通閣
圓通閣は平安前期に小野篁(たかむら)によって広島県の竹林寺に創建され、平清盛が第1回目の改修を執り行ったとの言い伝えがあります。椿山荘へは1925年(大正14年)山縣有朋公爵から庭園を譲り受けた藤田組2代目当主藤田平太郎男爵によって移築されました。2010年には移築後初めての大規模改修を行い、新たに聖観世音菩薩を奉安。臨済宗相克国派有馬頼底管長睨下による落慶並びに入仏開眼法要を執り行い「圓通閣」と名乗るところとなりました。「圓通」とは 圓通大士、つまり観世音菩薩の異称で、圓通閣は観音堂を意味しています。(説明板)

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般若寺式石灯篭
「般若寺型」石灯篭は江戸時代の茶人・造庭家の間で「名物の石灯篭」と呼ばれ、本来は奈良市の般若寺に存する石灯篭が原型とされました。しかし、椿山荘所在の般若寺式の方が基礎の反花の勾配の美しさ、火袋の彫刻の図様、中台の各狭間内の文様に原格性があり、のびのびとして優れたものであることから椿山荘所有のものが原型で、般若寺のものはその模作であり江戸時代初期作とされています。(石造美術研究家の権威川勝急政太郎博士の調査発表による)/説明板


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丸型大水鉢
この丸型大水鉢は京都府東山区粟田口から蹴上を経て山科に通じる日ノ岡峠にあったもので、木食上人養阿正禅が旅人のために作ったものと伝えられています。この水鉢は牛車の轍が刻まれた敷石とともに保存されていますが、日ノ岡峠を越える人々が水鉢に溢れる清水で肌を冷やし喉を潤おした往時が偲ばれます。(説明板)

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五丈滝
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椿山荘ガーデンマップ


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江戸川橋公園から地下鉄で帰りました


神田川(目白台・関口)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24138613/

by Twalking | 2017-05-05 22:55 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり市谷   

日時 2016.7.9(金)
天気 曇り


飯田橋で集まりがありましたので、久し振りに都心へ。
折角なので外濠通り&山の手をぶらりと神楽坂へ、
情緒があっていい所ですね。

帰りは酔い覚ましに土手を通って市ヶ谷へ、
眺めもいいし、この土手はいいですね、寛げます。
また、来年元気な姿でみなさんにお会いしたいですね、
ありがとうございました。


・・・市谷


市ヶ谷駅の西側に広がる台地を中心とした地域で、靖国通り、外苑東通り大久保通り、牛込中央通りに囲まれた地域およびその周辺と、靖国通りの外苑東通りから外苑西通りまでの区間の北側に相当する。台地沿いの高台の住宅地の一部は大名屋敷を経て明治時代より元祖山の手の一つとして呼称され、現代においても高級住宅地として評価されている。もっとも、歴史的な市谷の地名は上記地域を指すものの、市ヶ谷駅が上記の市谷地域の東端、外濠を挟んだ千代田区五番町にあるため、現在は千代田区側(番町・九段地域)の駅周辺にも「市ヶ谷」の名を冠した建築物が多いため千代田区内の駅周辺地域も慣例的に市ヶ谷と呼ばれている。名の由来には市ヶ谷孫四郎の領地があったからとか、四谷第一の谷なので「一ヶ谷」、或いは鶴岡八幡宮の門前で市が開かれていた「市買」が訛った、などの説がある。
Wikipedia

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市ヶ谷橋/市ヶ谷駅前


d0183387_00534168.jpg市谷橋/九段北
この橋を市ヶ谷橋といいます。市ヶ谷門に架かる見附橋であります。門は寛永13年(1636)森長継の担当で建造され、市ヶ谷への出口であったので門の名となり、橋の名ともなったのでしょう。また門は「市ヶ谷」「一ヶ谷口」ともかかれています。市ヶ谷の名は、市ヶ谷孫四郎の領地であったからとも、四谷第一の谷、または市が立ったので市買だともいわれています。四谷、牛込をはさんで市ヶ谷付近の濠は、同じ高さなので濠の幅を広くして敵に備えたといいます。このあたりは、昔は桜が多く門は「桜門」といわれていました。現在も橋をはさんで咲く土手の桜は有名です。門は明治4年(1871)撤去されました。現在の橋は昭和2年(1927)に架設されたものです。長さ36.4m、幅15.6m。コンクリート造り。(千代田区教育委員会)


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市谷御門跡/九段北

d0183387_01004804.png市谷御門橋台の石垣石

この石垣石は、江戸城外堀跡の市ヶ谷御門橋台に築かれていた石垣の一部です。市ヶ谷御門の枡形は現存しておりませんが、橋台の石垣は現在もその一部が外堀通りの下に保存されています。この石垣石に刻まれている刻印は、江戸時代初期に御手伝普請で石垣を築いた大名家や職人の印と考えられています。寛永13年(1636)に開削工事が行われた赤坂から四谷・市ヶ谷・牛込橋にいたる掘割や土手の遺構、寛永16年(1639)に修築された外郭門の石垣などが、昭和31年(1956)「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されました。なお、平成7年(19953月に営団地下鉄南北線の市ヶ谷駅構内に開設された「江戸歴史散歩コーナー」では、平成元年(1989)から8年に渡って発掘調査された江戸城外堀跡関連遺跡の発掘成果の一部を展示公開しております。(千代田区教育委員会)

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昭和4年(1929年)に完成した市谷水道橋/外濠通り


・・・市谷八幡町


新宿区の東部に位置する。町域の東は新宿区市谷左内町・市谷田町1丁目、北から西は市谷本村町に接する。南は東西に外堀通りが通り、外濠を境に千代田区五番町に接する。当地は外堀通り沿いから急勾配になっている。靖国通りが市ヶ谷駅前を通り、外濠を渡って外堀通りに突き当たった西側の一角にあたる。外堀通り沿いには高層建物が並び、幹線道路から離れると一般住宅も見られる。地名の由来にもなっている市谷亀岡八幡宮が置かれる。
Wikipedia

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市谷亀岡八幡宮参道

d0183387_01123195.jpg市谷亀岡八幡宮
新宿区市谷八幡町にある神社。当神社は太田道灌が文明11年(1479)江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりである。「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称した。当時は市谷御門の中(現在の千代田区内)にあった。しかし、その後戦火にさらされ荒廃していったが、江戸時代に入り寛永13年頃(1636頃)に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転。市谷亀岡八幡宮は三代将軍・徳川家光や桂昌院などの信仰を得て神社が再興された。江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わったという。その後明治に入り、神仏分離令により別当寺であった東円寺が廃寺となり(1872)、芝居小屋などは撤退し樹木が植えられかつての賑わいはなくなっていった。その後、1945年に第二次世界大戦による戦火により神木なども含め焼失。1962年に現在の社殿が再建される。現在でも地域の人々などから信仰を得ている。市谷亀岡八幡宮の祭神は誉田別命(応神天皇)、気長足姫尊、与登比売神。茶ノ木稲荷神社は稲荷大神。Wikipedia


d0183387_01164533.jpg市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居

文化元年(180412月建立の銅製明神型鳥居で高さ4.6m、台石0.55m、柱には、初願者・当八幡宮別当第七世智光、造立者・東圓寺現住仁龍他7名、鋳物師・西村和泉藤原政平の建造銘と、寄進者442名の名前や職業が陰刻されている。「八幡宮」の額は、播磨姫路15万石の酒井家11代当主雅楽頭忠道の書によるもので、八の字は八幡宮の神使の鳩一対によって形成されている。区内に現存する唯一の銅製鳥居で、意匠や鋳造技術にも優れており貴重である。(新宿区教育委員会)

市谷亀ヶ岡八幡宮の軍配団扇

御府内備考続編之七目録(神社部・市谷八幡宮)には「団扇一本右者太田道灌所持之品図左之通」とあり、左に軍配団扇の図が記してある。当八幡宮には右記のものとして伝えられる軍配団扇が現在も保存されている。木製の柄に竹を編み、間に紙を挟み、表面には黒紫色で漆を塗って仕上げてあるが、文様、文字はない。制作年代は未詳であるが、太田道灌ゆかりの軍配団扇として伝えられており貴重である。(新宿区教育委員会)


d0183387_01123684.jpg茶ノ木稲荷神社
祭神:稲荷大神
(元々此地の地主神、稲荷山と言われた此丘に数多く祭られていた稲霊、年神様の主神である)保食神うけもちのかみ)
市谷八幡神社の境内、石段左の方中段に御鎮座しております茶木稲荷神社。今をさる一千年余りの昔、弘法大師が初めて御鎭祭申上げたのが当社と伝えられています。この山の地主の神でありまして古来この地を稲荷山(いなりやま)と呼んだのもそのいわれによるものです。御祭神は保食神(うけもちのかみ)すなわち稲荷大神です。この大神は、食物衣服のことを司るのが主なる御神徳ですが、その他、家内屋敷の安全を始め、農業、工業、商業の繁昌、諸技藝の上達、交通旅行の安全等を護り、幅広いご利益を持っています。(市谷亀ヶ岡八幡宮HP)

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江戸名所図会 市谷八幡宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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外壕通り

外濠通り(東京都道405号外濠環状線)
港区新橋一丁目を起点、東京都港区新橋二丁目を終点とする皇居(旧江戸城)外濠に沿った環状の特例都道で、通称は「外堀通り」。Wikipedia

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市谷田町
市ヶ谷駅付近の外堀通り沿いの一角にあたる。通り沿いを中心にビルや商店が多く立ち並ぶが道路から離れると住宅も見られるようになる。江戸時代には武家地及び江戸城の外堀に面した町人の居住地である市谷田町1丁目が置かれていた。江戸時代初期に豊島郡市谷領布田新田の百姓屋敷が元和9年(1623)に外堀造成用に幕府の御用地として召し上げられたため、左内坂下に仮住まいをしていた。外堀建設後、旧地が外堀の底になったため布田新田の住人が外堀に町屋取り立てを願い出たものの、示された土地が佐渡殿原(現市谷砂土原町付近)、赤坂御門前の二か所だった。この提案を不服とした住民は佐渡殿原の土を均し武家地として供出することを願い出た。外堀脇の湿地にこの佐渡殿原や浄瑠璃坂下、逢坂辺りの土を落とし埋め立てた。(Wikipedia

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市谷砂土原町方面の景観/新見附橋

市谷砂土原町
新宿区の東部に位置する。明治時代より山の手と呼称される地域の一つである。3丁目寄りになるほど戸建て住宅が残っているが、12丁目も低層マンション主体の住宅地である。特に2丁目は隣接する市谷船河原町、払方町と並び元は大名屋敷の敷地であり、現代においても高級住宅街と評価される。町名は江戸時代に本多佐渡守正信の別邸があって「佐渡原」と呼ばれ、後に本多邸趾の土を採取して埋め立てに使ったことから砂土取り場と称したことによる。Wikipedia


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外濠① 飯田橋方面の景観/新見附橋


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外濠② 市ヶ谷方面の景観/新見附橋

外濠
外濠とはかつての江戸城の堀のうちの外側のものの総称で、かつては水路で江戸城を取り囲み、また内濠や東京湾(江戸湾)ともつながっていた。現在は、外濠にほぼ沿う形で外堀通りが通っている。1970年代の飯田濠埋め立てまで濠を埋めることが度々行われてきたが、現在では都市景観の一つとして保存していこうとする考えが一般であるWikipedia)

外濠(総武線から見る外濠)の関連記事はこちらへ
http://teione.exblog.jp/21934262/



・・・市谷船河原町


新宿区北東部に位置する。逢坂を上がると市谷砂土原町三丁目・払方町に連なる元祖山の手の高級住宅街が造られている。飯田橋駅と市ヶ谷駅の中間にあたる外堀通り沿いの一角にあたる。この外堀通り沿いを中心に高層建造物が建ち並ぶ。Wikipedia

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築土神社/市谷船河原町

史跡・堀兼の井/所在地 
新宿区市谷船河原町九番地 堀兼の井とは「ほりかねる」からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところがしだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ずとうとう精根つきて死んでしまったという。(東京都新宿区教育委員会)
      
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逢坂

昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地にきた時美しい娘と恋仲になり、のちに都へ帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再びあったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。(標柱)

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市谷周辺マップ



・・・神楽坂


新宿区にある早稲田通りにおける大久保通り交差点から外堀通り交差点までの坂である。または新宿区の行政地名である。神楽坂一丁目から六丁目がある。
神楽坂付近は大正時代に隆盛を誇った花街で、飯田橋駅を背にした坂の右手に残る花街特有の路地は、日本でもここにしかないといわれている。また関東大震災以後は日本橋・銀座方面より商人が流入し夜店が盛んになった。山の手銀座と言われた時期はこの時で、林芙美子や矢田津世子の小説にも登場する。坂沿いには商店街が立ち並び瀬戸物屋・和菓子屋など和を思わせるお店が中心であった。Wikipedia

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見番横町


見番横丁

芸者衆の手配や、稽古を行う「見番」が沿道にあることから名付けられた。稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくる。(標柱)

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伏見火防稲荷神社          善国寺

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神楽坂は路地が面白いですね~i

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飯田橋周辺マップ


大久保通り(新宿~神楽坂)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/16191759/


by Twalking | 2016-07-10 15:56 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 登戸道 弦巻~登戸02 喜多見   

日時 2016.3.25(金)
天気 晴れ

世田谷通りは車などでよく通りましたが、喜多見は初めてです。
国分寺崖線から下る縄手道、これ荒玉水道道路でしたが、
わくわくするようないい道ですね。

中世の世田谷は吉良氏は聞きかじっていましたが、喜多見氏は
知りませんでした。秩父平氏の支流・江戸氏の末裔なんですね。
慶元寺、氷川神社周辺はよく史跡などが残され、
景観的にも世田谷とは思えないほどの趣がありました。

こんがらがってはいますが、入口に立ったので少しづつ
整理していこうと思います。


・・・
喜多見(世田谷区)

中世
には本拠地である江戸を追われた江戸氏が本拠地を構え、江戸時代には短期間ながらこの地に藩庁を置く喜多見藩が存在した。1300年代初期には「木田見」とある。16世紀後半頃に「木多見」「喜多見」や「北見」と見られる。この付近は古くの古代集落の遺跡が発見されており、歴史は古い。しかし地名の語源ははっきりしていない。Wikipedia

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国分寺崖線を下ると野川です/水道橋(荒玉水道道路)

荒玉水道
(あらたま)
大正時代から昭和中期にかけ、多摩川の水を砧(世田谷区)から野方(中野区)と大谷口(板橋区)に送水するために使用された地下水道管のことである。現在も砧から杉並区梅里までの荒玉水道に沿って「荒玉水道道路」(都道428号)がある。「荒玉」の「荒」とは荒川、「玉」とは玉川すなわち多摩川を指している。Wikipedia


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用水を復元しています。かつての野川の流域だったようですね/次大夫堀公園・民家園前


d0183387_15554196.jpg次大夫掘公園/喜多見

1983年に開園した公園で、園内のメインは民家園である。かつて世田谷区内で見られた農村生活を身近に見られるように名主屋敷(主屋1棟、土蔵2棟)、民家2棟、表門、消防小屋などが復元され江戸時代後期から明治時代初期にかけての農村風景を再現されており、かつての暮らしぶりを体験できる。園内には公園の名の由来になっている「次大夫掘」という用水が流れており(後年復元されたもの)、これは稲毛・川崎領(現在の川崎市)の代官であった小泉次大夫の指揮により、慶長2年から15年の歳月をかけて開発された農業用水の一部である。この用水は正式には六郷用水といい、昭和初期までは周辺農地などに使われていたが、現在大半は埋められたか雨水用の下水に転用されている。世田谷区内では次大夫掘公園内に復元された約600mの流路と丸子川として一部分のみ残っているのみである。Wikipedia

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次大夫掘公園マップ(登戸道は赤線の茶屋道橋~内田橋へのルートです)


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旧道風景 内田橋から荒玉水道道路を横断・直進します


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寳壽院山門

d0183387_16180229.jpg寳壽院(光傳寺)/喜多見5
当寺は、長徳山寳壽院光傳寺と号し、浄土宗鎮西派で京都の知恩院直末である。本尊は阿弥陀如来坐像で、平安末期から鎌倉初期の作と認定され世田谷区有形文化財に指定されている。寺の創建は永禄13年(1484四)で、開山は西誉上人方阿玉公和尚である。慶安2年(1649)七世本誉上人万休竜長和尚の代に、三代将軍家光より七石二斗余の御朱印をうけ御朱印状九通が寺宝として保存されている。現本堂は、16世荘誉上人願阿意俊和尚の代、寛延3年(1750)に庫裏と共に造営されたものである。また、当寺は明治9年より同11年まで喜多見学校の校舎として使われ、明治23年から同35年までは喜多見尋常小学校高等科教場として使用されていたが、同年5月喜多見、朝陽の両校合併により砧尋常高等小学校が設立され、同校中央教場となり明治403月まで使用されていた。当寺は玉川六阿弥陀三番札所である。(世田谷区教育委員会)


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旧道風景 郵便局を右折、ここを左折、二つ目を右折。直進が品川道(筏道)です/知行院前


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知行院山門

d0183387_16280813.jpg龍寳山常楽寺知行院
本尊は薬師如来で延暦寺の末寺、文明頃(146987)の草創で天正16年(1588)頼存法印が中興開山といわれる。喜多見若狭守勝忠が館の鬼門除けの祈願所として不動明王、閻魔大王をもあわせ祀り、除地若干を寄進した。また須賀神社
の別当寺でもあった。慶安2年(1649)江戸幕府より寺領八石二斗余の朱印状を受け幕末におよんだ。明治6年本堂を喜多見小学校(現在の砧小学校)の仮校舎として使用した。(世田谷区教育委員会)


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喜多見須賀神社

須賀神社は、承応年間(16521654)に喜多見久大夫重勝が喜多見館内の庭園に勧請したのが始まりといわれ、近郊では「天王様」とよばれ親しまれている。湯花神事(湯立)は例大祭の82日に執り行われる。社殿前に大釜を据えて湯を沸かし、笹の葉で湯を周りに振りかける行事である。この湯がかかると、一年間病気をしないといわれ今日も広く信仰を集めている。湯花神事は浄め祓いの行事になっているが、湯立によって占いや託宣を行うのが本来の姿であり、神意を問うことであった。素朴で普遍的な神事であったが、当区では唯一となり都内でも数少ない行事となった。(世田谷区教育委員会)


d0183387_16523894.jpg第六天塚古墳/喜多見4

古墳時代中期(5世紀末~6世紀初頭)の円墳。昭和55年と昭和56の世田谷区教育委員会による墳丘及び周溝の調査によって、古墳の規模と埋葬施設の存在が確認された。これにより本古墳は、直径28.6m高さ2.7mの墳丘を有し、周囲に上端幅6.87.4m下端幅5.2m〜6.7m深さ5080cmの周溝が廻り、その内側にテラスを有し、これらを含めた古墳の直径は3233mとなることが判明した。またこの調査の際に多数の円筒埴輪片が発見された。埋葬施設は墳頂下6070cmの位置に、長さ4m幅1.11.4mの範囲で、磔の存在が確認されていることから礫槨ないし磔床であると思われる。なお同古墳については「新編武蔵風土記稿」によると、江戸時代後期には第六天が祭られ、松の大木が生えていたとの記載が見られる。この松の木は大正時代に伐採されたが、その際に中世陶器の壷と鉄刀が発見されており、同墳が中世の塚として再利用されていたということも考えられる。(世田谷区教育委員会)


d0183387_16524688.jpg稲荷塚古墳/喜多見4(稲荷塚古墳緑地)
喜多見稲荷塚古墳は砧古墳群の一つである喜多見古墳群の中の1基で、墳丘の直径が13m、高さが2.5mの円墳です。昭和34年(1959)と55年(1980)の2回の発掘調査によって、周溝や泥岩切石積み石室の存在が確認され、石室からは古墳に葬られた人の身分を示す圭頭大刀(けいとうのたち)、耳環(じかん)=ネックレスや土師器(はじき)などが出土しています。これらの副葬品から、この古墳は6世紀末~7世紀初(約1,400年前)につくられたと考えられます(世田谷区)


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喜多見慶元寺界わい/喜多見4

江戸氏の祖を弔って建立されたといわれる。江戸氏は皇居のあたりに居を構えていたが、家康が江戸築城のおりこの地に退き姓も喜多見と変えた。江戸氏追善の塔がある。広い寺域に沿う小道は、奥多摩から多摩川を下った筏師が歩いて帰ったという「いかだ道」で、ところどころにのどかな郊外の風景を見ることができる。(せたがや百景)

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本堂


d0183387_17044188.jpg永劫山華林院慶元寺/喜多見4

浄土宗、京都知恩院の末寺で本尊は阿弥陀如来坐像である。当寺は、文治2年(11863月、江戸太郎重長が今の皇居紅葉山辺に開基した江戸氏の氏寺で、当時は岩戸山大沢院東福寺と号し天台宗であった。室町時代の中ごろ、江戸氏の木田見(今の喜多見)移居に伴い氏寺もこの地に移り、その後天文9年(1540)真蓮社空誉上人が中興開山となり浄土宗に改め、永劫山華林院慶元寺と改称した。更に文禄2年(1593)江戸氏改め喜多見氏初代の若狭守勝忠が再建し、元和2年(1616)には永続資糧として五石を寄進し、また、寛永13年(1636)には徳川三代将軍家光より寺領十石の御朱印地を賜り、以後歴代将軍より朱印状を賜った。

d0183387_00540970.jpg現本堂は享保元年(1716)に再建されたもので、現存する区内寺院の本堂では最古の建造物であるといわれている。墓地には江戸氏喜多見氏の墓があり、本堂には一族の霊牌や開基江戸太郎重長と寺記に記されている木像が安置されている。山門は宝暦5年(1755)に建立されたものであり、また、鐘楼堂は宝暦9年に建立されたものを戦後改修したものである。境内には喜多見古墳群中の慶元寺3号墳から6号墳まで4基の古墳が現存している。(世田谷区教育委員会)

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江戸氏喜多見氏墓所(世田谷区指定史跡)

江戸氏は関東の武家の名門で、室町時代の中頃、旧領江戸庄を離れ木田見に移住したと伝えられています。後北条氏にかわって関東に入国した徳川家康は、関東各地に潜居していた名族の者を取り立て、江戸勝重(のち喜多見勝忠)も推挙されて家康の御家人となりました。勝重の孫・重政は5代将軍家綱の側用人となり2万石の大名に出世しましたが、元禄2年(1689)一族の刃傷事件に連座して御家断絶となってしまいました。墓所には寛永4年(1627)に没した勝忠をはじめ一族の墓石や江戸氏歴代の供養塔、石灯籠などが置かれています。(世田谷区)


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旧道風景 この先慶元寺幼稚園角を左折。直進し塀沿いに行けば氷川神社です


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喜多見氷川神社と梼善寺跡/喜多見4

一千年以上も前の創建と伝えられている。境内は保存樹林地となっており、昼なお暗いほどうっそうとし野鳥も多い。長い参道をたどって社殿に至るが村の鎮守の杜の姿そのままだ。ここに伝わる里神楽は区内の貴重な民俗芸能の一つとなっている。(せたがや百景)

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d0183387_17390952.jpg氷川神社

祭神として素盞嗚尊を祀っている。旧社格は郷社。旧喜多見村の鎮守。当神社は天平12年(740)の創建と伝えられているが、室町時代に洪水などで神社にまつわる古文書など流失してしまっているため、詳細は分かっていない。古くは多摩川沿いにあったといわれている。永禄13年(1570)に江戸城からこの地の移り住んだ江戸氏の当主・江戸刑部頼忠が荒廃していた当神社を修復して祈願所としたと言われている。江戸時代になり江戸氏は喜多見氏と改姓し、天和2年(1682)喜多見氏の初代・喜多見若狭守勝忠により神領五石が寄進されたなど、現在の神社の礎が完成した。承応3年(1654年)には、喜多見重恒・重勝兄弟が今に残る石の鳥居を寄進している。(世田谷区有形文化財)また当神社の別当は華蔵院という寺院(明治初期に廃寺)であった。Wikipedia)

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江戸名所図会氷川明神社・祷善寺・慶元寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・狛江市へ

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旧道風景 砧上浄水場へ直進、外周に沿って右回り/こまえ苑前

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GSを左折駒井大通りへ        駒井西を右折


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岩戸八幡神社/岩戸南2
戦国時代のこととして、岩戸八幡神社の由緒に係る次のような伝承があります。永禄元年(1558)に、北条氏康の招きに応じ、古河公方の足利義氏が鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝した際、神前にて八幡神体を懸賞にした大相撲が催されました。吉良頼康に従っていた岩戸の秋元仁左衛門という人物は、この大相撲に勝ち、岩戸に八幡神像を持ち帰って八幡神社を勧請したといいます。江戸時代は村の鎮守で、別当寺は西に隣接する明静院でした。(おすすめ散歩コース)


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日枝神社/駒井町1
日枝神社ははもともと山王権現と称し、江戸時代の記録によると、木の鳥居が立つ小さな祠でした。円住院は、影向山毘沙門寺と号す天台宗の寺院で、山王権現の別当寺でした。もとは毘沙門堂だったようで、元和二年(1616)に喜多見氏が再興したという記録があり、毘沙門堂が円住院になったものと考えられます。日枝神社の参道は、イチョウやケヤキの木に囲まれ、円住院の入口には庚申塔がまつられています。(おすすめ散歩コース)


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旧道風景 駅入口右折、次の信号を左折して世田谷通りへ/和泉多摩川駅


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前駅前広場の地図モニュメント(青:登戸道 緑:世田谷通り)

狛江市

多摩川中流左岸に位置する。市域の北端は国分寺崖線および野川、南端は多摩川にほぼ一致する。このため北から南方向に緩やかに傾斜しているが概ね平地といえる。標高は2030mの間にある。市域は「枝豆」の形をしており、市役所を中心とした半径約2kmの円内に収まる。


・・・多摩水道橋

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多摩川の景観(下流側) 世田谷通りを横断し、狛江高校を左折して橋へ/多摩水道橋


d0183387_23384155.jpg多摩水道橋

狛江市と川崎市の境界であると同時に東京都と神奈川県の境界でもあり、狛江市内で多摩川に掛かる唯一の橋である。多摩水道橋の旧橋は1953年(昭和28年)道路及び水道管の併用橋として開通した。この場所には「登戸の渡し」があったが橋ができたことにより廃止された。現在の多摩水道橋は1997年(平成7年)に竣工した2代目で、エメラルドグリーンのアーチ型になっているが、初代は青色の直線型の橋であった。狛江市の大動脈である「世田谷通り」(正式な名前は世田谷町田線 川崎市では津久井往還と呼ぶ)と川崎市の長沢浄水場から都心へ向かう「導水管」が橋の上で共存している。橋長:358.8m幅員:213m形式:下路鋼3径間連続ローゼ桁橋Wikipedia
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登戸の渡し/小田急ガード先
江戸への往還にかかる重要な渡しであった。江戸時代はやや下流、明治になり上流に移り、終わりのころはここから対岸の和泉に渡った。1952(昭和27)年に廃止(プレート)

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狛江周辺地図
(赤:登戸道 紫:品川道・筏道 緑:世田谷通り 橙丸:喜多見・狛江・和泉多摩川駅)


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資料ファイル


d0183387_22150649.png江戸氏と喜多見氏

喜多見氏は武家の名門・江戸氏の末裔である。喜多見氏の系譜については現存する江戸氏(喜多見氏)の系図に良質なものがなく、その記載もまちまちなことから判然としない部分が多く残されている。しかし、現在までの研究成果を総合すると、喜多見氏は「関東一円の大福長者」とよばれた江戸重長の孫・重方から連なる家系で、室町時代の中頃まで江戸庄に住していた江戸氏の直系と考えられる。この江戸氏が喜多見の地に移り住んだ時期についてははっきりしないが、「平氏江戸譜」には三郎・右京亮(8代目康重、嘉吉頃の人)の代に至って武蔵国木田見(喜多見)牛丸郷を本拠とした江戸氏庶流木田見氏の嫡流が木田見の名跡を継いだこの時期を、その移住期と考えるのが自然であろう。江戸時代に入ると、その末裔・喜多見重政2万石となり本拠地・喜多見の地には陣屋が置かれることになった。(世田谷区郷土資料館)


d0183387_22164216.jpg江戸重長(しげなが)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。武蔵江戸氏二代当主で、江戸重継の子。通称は太郎。治承4年(1180817日の源頼朝の挙兵に対し、平家方で同族である畠山重忠が、源氏方の三浦氏と合戦となると、重忠の要請に応じて一族の総領家である河越重頼と共に武蔵国の武士団数千騎を率いて出陣する。勢力を回復した頼朝軍が武蔵国に入ると、重長は畠山重忠、河越重頼と共に頼朝に帰伏する。同族の河越重頼、畠山重忠は鎌倉幕府初期における内部の勢力争いによって滅ぼされたが、重長は一族の重鎮として幕府に仕え、子孫も長く繁栄した。江戸氏の菩提寺である世田谷区の慶元寺に重長の供養塔である五輪塔と銅像がある。Wikipedia


江戸氏
武蔵江戸氏は武蔵国を発祥とする武家。鎌倉幕府の御家人にして武蔵国の国人領主。本姓は平氏。家系は鎮守府将軍・平良文の孫、平将恒を祖とする秩父氏の支流の一族。後三年の役で先陣を務めた平武綱の子・秩父重綱の四男・江戸重継は平安時代の末(12世紀半ば)に武蔵国江戸郷を領して「江戸四郎」を称し、江戸氏を興した。江戸氏は後の江戸城の本丸、二の丸周辺の台地上に居館を構えていたと推定されている。ただし正確な位置は不明である。重継は室に関政家(小山政光の叔父)の娘を迎え、その子・重長は猪俣党の藤田政行の娘を室に迎えるなど、江戸氏は武蔵国内の御家人との間に婚姻関係を展開した。治承・寿永の乱(源平合戦)において、江戸氏は治承4年(1180)に源頼朝が挙兵した時、武蔵国内で勢力を拡大した秩父平氏の有力な一角となっていた。重継の子、江戸重長は初め頼朝と対立して、衣笠城合戦で畠山重忠、河越重頼とともに頼朝方の三浦義明を討って衣笠城を落城させた。頼朝が再び安房から挙兵した際には、周辺の豊島氏・葛西氏は頼朝にすぐ従ったが重長は畠山・河越とともに従わず、頼朝が武蔵国鎌倉に入る障害となった。(Wikipedia抜粋

喜多見氏
名族秩父氏の流れを汲む武蔵江戸氏の後裔の一族。江戸氏は平安時代後期に江戸郷を領地とした江戸重継を祖とし、多数の支流一族を配して武蔵国の広範囲に勢力を拡大した。しかし武蔵平一揆で惣領家は衰退し、戦国時代になると江戸氏は江戸を太田道灌に明け渡して喜多見に移り、その後は後北条氏に属して世田谷城主吉良氏に仕えた。しかし天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの余波を受けて世田谷城も攻撃され、吉良氏朝は下総に逃れた。徳川家康が江戸に入ると、江戸勝忠(喜多見勝忠)は家康に仕え、喜多見の地を安堵された。そして江戸氏を改めて喜多見氏とした。(Wikipedia抜粋

江戸城の関記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22004332/



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d0183387_09340539.jpg狛江の地形と遺跡

狛江市は多摩川の左岸、武蔵野台地の南の縁に位置しています。現在、市の北を野川が南を多摩川が流れていますが、昔の野川は市北部のほぼ中央から南東に向かって流れ、また、狛江駅近くの弁財天池からは清水川が東に向かって流れていました。市内は標高20mくらいのほぼ平坦な地形ですが、かつての野川や清水川の流路と多摩川沿いはやや低い低地になっています。昔の狛江は川の流れる低地と小高い台地からなり、水と緑が豊かな環境だったと考えられます。実際に、狭い市域でありながら昔の人々が生活した痕跡である遺跡は68か所あり、人々は川に近い台地の縁に生活していました。(狛江市)


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次大夫堀流路図(赤:登戸道 緑:品川道・筏道 紫:大山道)


狛江の古い道

一の橋の交差点に立つ文政6六年(1823)の「石橋供養塔」には「東六郷江戸道」「西登戸府中道」「南家村道」「北ほりの内高井戸道」という道しるべが刻まれている。旅人は仏の像を配したこの供養塔に合掌したあと、自分の行路を確認したことであろう。道しるべを刻んだ石塔は狛江市内に10基を数える。その多くは三叉路や十字路に立っている。こうした石に刻まれているこの道の行く手となるいろいろな地名をたどると、狛江の村を通過した人たちが目指したのがどこかということがわかる。またこうした道しるべの立つところをつなぐことによって狛江の古い道を推定することも可能となる。狛江を過ぎる主要な道には次の三つがあった。①江戸-世田谷-喜多見-岩戸一の橋(または駒井)-和泉-渡船場-登戸②六郷-大蔵-喜多見-岩戸一の橋-和泉-国領(または矢ケ崎)③高井戸-祖師谷-入間-覚東-和泉-田中橋-渡船場-登戸。①は狛江を東から南西に横切るもので江戸道、大山道、登戸道ともいわれた。昭和10年代までは東京方面へ下肥を汲みにいく車で早暁からにぎわった。②は品川道、六郷道、府中道、筏道とも呼ばれた。狛江を東から北西へよぎる道である。大正頃までは多摩川を六郷まで筏を運んだ筏乗りの家路を急ぐ蓑笠姿がよく見られたという。③は狛江を南北に縦断する道である。高井戸道、鎌倉道とも呼ばれた。かつて田中橋の南の用水に鎌倉橋という橋がかかっていたが、鎌倉道の伝承に基づいて名付けられたものであろう。狛江に入る少し手前の調布市入間町には「是より泉むら子安地蔵尊二十五丁」とある百万遍供養塔(天明元年・1781)と「西 いづみ村ぢぞう道」とある庚申塔(文化9年・1812)が残る。泉龍寺の子育地蔵に参詣する人が少なくなかったことを語っている。(狛江市)


by Twalking | 2016-03-30 08:49 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 登戸道 弦巻~登戸01 大蔵   

日時 2016.3.25(金)
天気 晴れ

晴れの予報に誘われて世田谷に行ってみました。
津久井往還は三軒茶屋から分かれ津久井へと向かいます。
大山道とは弦巻まで同じ道筋、ここで分岐します。

この界隈は住んでいたので見知ったところですが、
街道として歩いてみると、また違った味わいがあります。
馬事公苑、砧公園の桜が見頃を迎え、気持よく歩けました。


・・・弦巻

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直進は大山道、登戸道はここを右折し、世田谷通りを西に向かいます/弦巻追分

登戸道
大山道から分かれ、弦巻の追分から始まり登戸に至る区間の道を登戸道と呼ぶ。正式名称は津久井往還、別名黒駒道とも言われていた。農作物や登戸近在からの果物を江戸へ運び、江戸からは肥料として下肥えを運び農業に役立てたと言われている。(世田谷区)

d0183387_15154680.jpg弦巻追分
道標(世田谷資料館にある元の道標)
銘文:(正面)左延享三丙寅 さがみ □月吉日(梵字)大山道 世田谷上宿同行五十人 年代 延享三年(1746
伝来:この道標は、もと弦巻51631の三叉路にあったが交通量の増加に伴ない、通行車両の振動や接触などで下部は土中に埋没した状態になっていた。そこで、この保存のために財団法人大場代官屋敷保存会が中心となって当館へ移設されたものである。なお、道標のあった場所にはそのよすがを留めるために同型の石碑が建立され、次の銘文を刻んでいる。「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す。財)大場代官屋敷保存会世田谷上町町会」(世田谷区教育委員会)

大山道・三軒茶屋から用賀への関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22614408/)&(http://teione.exblog.jp/22619327/



・・・馬事公苑界隈

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直進ですが、左も無眼寺へ向かう旧矢倉沢往還とか、行って見ます/松が丘交番前 

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旧道風景 馬事公苑へ行くのによく通った道、懐かしいですね/弦巻5


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左手に馬頭観音            馬事公苑弦巻門


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世田谷通りからの景観

馬事公苑界わい/上用賀2
東京オリンピックの馬術競技の会場になったことで有名。背の高いケヤキ並木をくぐって入る苑内は広大で、多くの樹木や草花が季節をいろどる。雑木林を散策するとかつての武蔵野の姿が思い浮かぶ。ケヤキ並木の道は広場として整備され、また一つ魅力を加えた。(せたがや百景)

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桜が早いですね~/放牧場

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走路                 正門


d0183387_16325473.jpg馬事公苑の由来と苑訓
馬事公苑は騎手の養成、馬事普及および馬術振興のため昭和15年(1940929日に開苑いたしました。当時の苑訓として次の三訓が掲げられました。
・至誠を以って騎道作興すべし 
・努力を以って百錬自得すべし 
・和協を以って人馬を一如たるべし
この苑訓は、時が移り人が代わっても、馬を愛し馬術を志す人の心に、脈々と受け継がれております。開苑50周年を記念して、正門を改修すると同時に、ここに記念碑として設置いたしました。(説明文)


・・・桜丘


世田谷区の地理的中央部に位置し世田谷地域に属する。旧・荏原郡世田谷村。隣接する世田谷区桜に置かれた桜小学校に関係がある。大正119月、桜小学校の分校として横根分教場が置かれる。昭和5年横根分教場は独立して第二桜尋常小学校と改名。昭和16年さらに桜丘国民学校(現:桜丘小学校)に改名され、これに由来する。
Wikipedia

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久成院/桜丘4

天台宗、深大寺末で南照山東耀寺という。無住の時代が久しかったので古い文献は一切所蔵されておらず、したがっていつごろ開基されたかはっきりしないとの事であるが、開山の良尊法師が天和1(1681) 213日に没していることが墓碑に記してあるので、天和年より2.30年前に建立されたものであろうと思う。本尊は7寸の阿弥陀如来(坐像〉で脇侍は観音・勢至の両菩薩である。(せたがや社寺と史跡)

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宇山稲荷神社/桜丘4

祭神:宇迦之御魂神 
新編武蔵風土記稿の荏原郡の部に「宇奈根山谷、村の西の隅にあり」と記されて居るので、今の宇山の名はこれが縮まったものと思ふ。明治初年無格社稲荷神社であったので、相当昔から土地の人等が稲荷社を祀って居た証拠である。其の後明治42612日当時の合祀令により郷社宇佐神社、今の世田谷八幡宮に形式上合祀されたが、昭和29126日神社本庁所属の宗教法人稲荷神社として登記された。「西向稲荷」と稱して参拝する人もあり又「防ぎ神の神事」等古来の信仰行事を続けて居るのもこの神社を除いては少なくなった。(境内由緒板)


・・・砧

古く78世紀のころ、朝廷に納める布を衣板でたたいて柔らかくし、つやを出すために使った道具から生まれたといわれています。女の人の夜なべ仕事として砧の音が響いたことや、その布を染め、多摩川の清流にさらして洗ったことなどは詩情にもうたわれてきました。(世田谷区)

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旧道風景 街道は直進、左へ進み砧公園に寄り道/大蔵1

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ここを左折/宇山バス停先       三本杉陸橋を迂回/環8


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横根稲荷神社/大蔵1
往古より三本杉横根のお稲荷様と尊称され、稲荷講を中心として篤い崇敬と深い信仰をあつめてきました。御社殿は永い年月により老朽化がはなはだしくなり、相寄りあい語らいて御造営をいたし、御神徳をお慰め申し上げることに致しました。子々孫々に至まで大神様のご加護を戴き互いに睦び和らぎつつ平和な世をおくり稲荷様の杜を後世に伝え護ることを祈念いたします。(建設委員会)



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広い芝生と深い森、ここは憩えますね。(前身は期限2600年記念事業として都市計画決定された大緑地。戦中は防空緑地、戦後は都営ゴルフ場でした)

砧ファミリーパーク(世田谷美術館)
日比谷公園の約2倍の園内には一面緑の芝生が敷きつめられている。ゆるやかな起伏と木々が公園の景観にほどよい変化を与えている。家族連れやグループでのんびり一日楽しむには絶好の場所で、遠近各地から訪れる人々が多い。園内にオープンした区立世田谷美術館も人気を呼んでいる。(せたがや百景)

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世田谷美術館


・・・大蔵

『江戸名所図会』は延暦期に武蔵国守兼大蔵卿の石川豊人が居住していたことを由来とする。1240年(仁治元年)足立景盛の次男兼周が石井郷を拝領して石井氏を名乗り、現在に至るまで旧家として残る。永享の乱で鎌倉を逃げ延びた二階堂盛秀の子秀高(清仙上人)が1490年(延徳2年)、鎌倉大蔵ヶ谷にあった永安寺を同じ地名のここ大蔵に再建した。16世紀には吉良頼康の所領で、1557年(弘治3年)大平氏に給付された。1633年(寛永10年)彦根藩領となる。江戸時代後期には国学者石井至穀を輩出した。
Wikipedia


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旧道風景 仙川へくだります、いい坂ですね/日大商学部先

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NHK技研前で合流          旧道は右側を下ります

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仙川・石井戸橋を渡ります       砧小横断右折、すぐ左折


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エドヒガンの枝垂れとオオヤマザクラ見事です


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山門                 桜味堂の桜葉餅置いてました

d0183387_22331252.jpg妙法寺
(みょうほうじ)
世田谷区大蔵にある日蓮宗の寺院。開基はおおよそ今から350年であると言われている。寛永年間の頃に現在の世田谷区宇奈根にある常光寺に当地の人が発願して、この地にも寺院を作ってもらったのがルーツであるとされている。発願した代表者は、当地に長年住んでいた安藤家の人で、安藤家の旧住居は現在世田谷区の文化財に指定されている。現在の本堂は1938年頃のもので、山門は江戸時代に現在の目黒区の碑文谷にある法華寺(:園融寺)の門として建てられていたものを1986年に当地に移築したものである。1994年に境内に高さ8mの「おおくら大仏」が完成、「回転する」ハイテク大仏として知られている。Wikipedia


d0183387_11154149.jpg砧小学校の桜

小学校の校庭に咲く春の桜は誰にとっても懐かしい思い出のあるものだ。砧小学校の桜の老木には地区の子ども達の入学と卒業を何十年にもわたって見守りつづけてきた。(せたがや百景)


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旧道風景 素晴らしい縄手道、野川へ下ります/砧幼稚園角
(後で調べたらこの水道橋へ下る道は荒玉水道道路でした。登戸道は右折し上流の茶屋道橋を渡る道筋になります)


・・・・・
資料ファイル

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世田谷の古道/世田谷区
(赤:登戸道 橙:大山道 緑:瀧坂道 紫:甲州街道 青:鎌倉道)

世田谷の道つくりについて
世田谷の道づくりの歴史は古く、人口2万人足らずの農村地帯だった明治初期には村落と村落とを結ぶ道路が自然発生的にでき、人々に使われていました。その中でも甲州街道や大山街道(現在の玉川通り)、登戸道(現在の世田谷通り)は、当時から幹線道路としての役割を果たしていました。(世田谷区より抜粋)


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世田谷二十ヶ村絵図(複製) 文化3年・1806/世田谷郷土資料館
(赤:登戸道 紫:おおやま道 橙:甲州街道 黄:滝坂道)


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世田谷知行地図(近世初期)/世田谷郷土資料館 


by Twalking | 2016-03-27 13:22 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 仙川リバーサイド&祖師谷   

日時 2016.3.3(木)
天気 晴れ 

成城の台地の西には野川、東は仙川が流れます。
瀧坂道でも会いましたが宿題も残してましたので、
成城から仙川の遊歩道をぶらりと歩いてみました。

この界隈は両岸が高く、ちょっとした小渓谷をなし、
その間を蛇行して流れる仙川の様はなかなかのものです。
国分寺崖線とはまた違った雰囲気が味わえます。


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左が成城、右は祖師谷、仙川が境になります/小田急線&成城橋(成城2丁目)


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成城学園中の横断橋の先が桜橋です/祖師谷3丁目


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続いて稲荷山橋、左が成城学園高校、右が同初等学校になります/成城6丁目


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桜並木が切れて大石橋まで住宅地を行きます/成城7丁目


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大石橋を左折すると観世音堂があります/成城7丁目


d0183387_14494827.jpg観世音堂
当観世音堂は承応3年(1654)祖師谷村信徒一同の誓願に依り起立されたもので、延宝2年(1674)同村安穏寺
住職権大僧都法印秀我の代に修復、其の後元禄1311月(1700)に再建、今日に至っております。堂は四間半四方、十一面観音は寄木造一尺八寸許17世紀後半のものと云われ、不動明王像には元禄106月(1697)の刻がある。境内燈籠の最も古いものは、萬治210月(1659)の建立である。観世音菩薩は古来子供の無事・生長を御加護下さる「子育観音」と云われています。(説明板)


d0183387_14501712.jpg薬師堂
当薬師堂は享保119月(1726)安穏寺
住職権大僧都法印賢光の代に下祖師谷村福田甚左衛門願主となって創立し、其の後明治中期に当境内に移設されたものであります。薬師如来は昭和35年作寄木造、脇侍は一木造、十二神将立像は何れも江戸時代中期の作と云われている。薬師如来は心と身体の病をなおし生きる命の力を授けて下さると云われ、特に「眼病」にごりやくがあらたかであると古来当地の人々の信仰の厚い薬師さまです。(説明板)


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仙川遊歩道、なかなかいい道です/成城9丁目


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祖師谷公園のせきれい橋。鞍橋を右折し釣鐘池バス停へ/鞍橋(上祖師谷4丁目)


・・・祖師谷


祖師谷は世田谷区中部に位置し砧地域に属する。祖師ヶ谷大蔵駅の北側が祖師谷で(南側は砧)、北口周辺と駅に通じる祖師谷通り、西通りを中心商店や住宅が広がっている。周辺に円谷プロダクション本社があったことなどからウルトラマンを用いた街起こしがされている。祖師谷という地名の起こりは、一つには村の谷の近くに地福寺というお寺があってその境内に祖師堂があったためという説がある。また一方の説では、鎌倉時代初期にこの地に住んでいた豪族の粕谷氏が、弘安年間に法華宗の開祖・日蓮の布教によってその教えに帰依する人々が多い中で、法華宗を深く崇敬し領内に一堂守を建立(祖師山院就沢寺(後焼失)と命名)し、日蓮の死後に祖師像を彫刻し安置したことによるとされている。(Wikipedia


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住宅地に囲まれてありますので探すのに苦労しました/祖師谷5丁目


d0183387_15110794.jpg釣鐘池

釣鐘池は標高凡45mの武蔵野台地に囲まれ、昔は深い自然林におおわれて野川の一支流である西方の仙川に注ぐ豊富な湧水池であった。台地上にはこの水を求めたであろう古代のひと達の遺跡である。縄文時代中期の住居跡が昭和52年(1977)の区教育委員会の発掘調査によって確認されている。人々は生活の水を求めて野菜などを洗い、洗い場組合を作って水を大切にしたし神様にお祀りした。毎年47日には今でも弁天祭が行われ、また日照りのときは雨乞いの行事も以前あった。伝説によると近くにお寺があり仏教徒の争いのあげく僧が寺の鐘を被ってこの池に身を投げたとか、あるいは日照りで農民が困った時これを救おうと僧が釣鐘を抱いて池に身を沈めたところただちに大雨が降ったなどといいつたえ、それ以後「つりがね池」と呼ばれるようになったという。(世田谷区教育委員会)

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祖師谷つりがね池
雨乞いのため、僧が釣鐘を抱えて身を沈めたことからその名がついたと伝えられている。現在は付近の子ども達の絶好の遊び場だ。池の周辺には緑も残り、雨の降った後には池底から水が湧き出すのを見ることもできる。小さな風景だが、なんともいえない親しみがある。(せたがや百景)

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d0183387_21132812.jpg祖師谷神明社/祖師谷5丁目

創立・由緒・沿革については不詳であるが古老の口碑によれば「正平年間(134669)新田義興・義宗等、足利尊氏を討つべく義憤の兵を興し、各所に戦い勝に乗じ逃るるを追いてこの地に来た時、小祠があるのを見て、祭神の何たるを聞き天照皇大神たるを知り吾が憩いたるは皇祖の吾を助くるものなりとて戦勝を祈願し、甲冑一具を献じ兵を励まして出発した。その後、村民崇敬し、年とともに栄えた。昭和23年祖霊社を建立、昭和38年神楽殿・社務所を建築、社殿屋根銅版葺替工事をおこなった」そうです。


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ウルトラマン商店街/祖師谷大蔵駅前

当駅から祖師谷通りを約800メートル南下した場所に円谷プロダクションの旧本社(後の砧社屋)があったことから「ウルトラマン発祥の地」と呼ばれていることにちなみ、駅周辺の商店街を2005年から「ウルトラマン商店街」と名づけた。駅前広場や商店街の端にゾフィー、ウルトラマン、ウルトラマンジャックが飛んでいる姿のシンボル像「ウルトラマンアーチ」が西通り保健センター、北通り塚戸十字路、南の耕雲寺の近くの3ヶ所に建設された。ウルトラマンを合言葉に安全安心で賑わいのある街づくりを目指している。(Wikipedia

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祖師谷周辺地図
(赤:ルート 青:仙川 橙:戸塚十字路・祖師谷大蔵駅)

瀧坂道・上祖師谷の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22903611/


by Twalking | 2016-03-06 13:32 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり成城・国分寺崖線   

日時 2016.3.3(木)
天気 晴れ


ほんとうに久し振りに成城へ行ってきました。
閑静な住宅街、お洒落な店・・・人気がありますね、
車ではよく行ってたんですが。

今回は野川と仙川に挟まれた成城の丘の周辺、
特に国分寺崖線を上からと下から見るのが目的です。
部分的にしか歩けませんが、それでも十分。

すばらしい「自然」と「みどり」が保存されています。
街といい、崖線といい、川といい、歩くには最高ですね。。。


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成城学園前駅・北口

成城

東に仙川、西に野川が流れ台地状の土地に街は広がる。また、西に国分寺崖線、神明の森みつ池がある。住居表示としての成城は小田急線の成城学園前駅を中心とした約68万坪(225.9ヘクタール)に及ぶ地域、都内屈指の高級住宅街として有名である。明治の末ごろまでは北多摩郡砧村大字喜多見と呼ばれ、武蔵野の雑木林と原野が広がっていた。この地に小田急線が開通することを突き止めた小原國芳の尽力で、学園建設資金捻出のため周辺の土地2万坪を購入し、区画整理をして売り出す。当時、この土地をみた小原は、「雑木林、家一軒もない、この百二十丁歩の高台、地価は安く、家はなし、いい高台で、西に富士の秀峰、足下は玉川の清流、全く不思議な土地でした」と述べている。小原は、さらに、中央鉄道(現在の小田急電鉄)と交渉して学園前駅の開設の約束を取り付けた。学園用地24000坪のうち1万坪は地元の大地主の鈴木久弥の寄付によるものであり、小原は鈴木から現金1万円(当時、公務員の給与は75円)の寄付をも受けている。地名は1925年(大正14年)に東京市牛込区(現新宿区)原町の成城学校(現、成城中・高等学校)からこの地に分離独立してきた成城学園が由来であり、「成城」というのは中国の古典「詩経」の大雅の一節にある「哲夫成城」に由来する。(Wikipedia


d0183387_14490775.jpg成城学園前のいちょう並木

大正末期.から昭和の初期にかけて計画的に造成された住宅地である成城のまちには、まちの人々が大事にしてきた景観がそこかしこに見出される。学園前に伸びるイチョウ並木もその一つで、四季それぞれにまちに表情を与えてくれる。(せたがや百景)


d0183387_14510000.jpg成城大学正門






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成城の桜並木/成城6丁目

桜のないまちの春はなにか物足りない。満開のときなど、まちに一斉に春が訪れたことを告げてくれる。花実の宴のにぎわいはないが、路上や家々の屋根に降る花びらは、閑静なこのまちに春の風流心を呼び起こす。(せたがや百景)


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庭園

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和室                 書斎

旧猪股邸住宅/成城5丁目

旧猪股邸は、財団法人労務行政研究所の理事長を務めた故・猪股猛夫氏ご夫妻の邸宅として建てられたものです。母屋は文化勲章受章者の建築家・吉田五十八の設計によるもので、武家屋敷風の趣がある数寄屋造りの建物です。邸内にはアカマツをはじめとする多くの樹木や、居間に面した一帯にスギゴケを植えて水路を配した回遊式風の日本庭園としています。この邸宅を猛氏の長男・猪俣靖氏が「貴重な文化財として末永く残したい」との意向から平成8年11月に(財)せたがやトラスト協会と保全協定契約を締結、平成10年7月に世田谷区に寄贈、そして平成11年から当協会の管理により一般公開が始まりました。(パンフ)


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成城みつ池/崖線上の広場
(成城4丁目)
成城みつ池周辺は「都市計画緑地」として定められています。その一部は都市緑地上の「成城みつ池特別緑地保全区」や世田谷区みどり基本条例における「神明の森みつ池特別保護区」として指定されています。(世田谷区)


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崖線に付けられた階段を下ります


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ここが入口              やはり立派な邸宅ですね

成城4丁目発明の杜市民緑地
故「樫尾俊夫雄」氏(カシオ計算機株式会社の設立者)が発明の多くを考案した自宅の庭であった事に由来。この緑地は地域の原風景や自然環境を保全しながら、区民に憩いの場を提供することを目的に土地所有者と契約を交わし、地域の皆さまに公開しています。(世田谷トラストまちづくり)


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発明の杜市民緑地のすぐ隣の森です

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崖線の上(入口)           崖線の下

成城4丁目緑地/成城4丁目
桜やアカマツの木々やミツバツツジの群生、崖線樹木園などがあり、崖線の上と下を繋ぐ散策路でみどりを楽しむことができます。冬の晴れた日には木々の向こうに富士山を眺めることができます。(案内板)


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なにがあるんだろう?上ってみたくなる坂、行ってみよっと/崖線下


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下ると野川に架かる谷戸橋、左手が国分寺崖線になります/東野川広場


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野川に沿って折り返してみつ池へ/崖線下のみつ池広場


成城みつ池
/成城4丁目
成城みつ池は「世田谷のみどりの生命線」と呼ばれる国分寺崖線の上にあります。4ヶ所の湧水があり、斜面にはコナラ・クヌギ等の雑木林があり、水際にはハンノキ、セキショウなどの湿性植物がみられ、ニリンソウ、キンラン等の希少種も自生しています。23区内には珍しいゲンジボタルの自生地となっています。サワガニ、カブトムシ、オニヤンマ、ウグイスの他、都の指定する絶滅危惧種であるフクロウも飛来します。「みつ池」の名は、かつて三つの池を作り、水を暖めて田んぼに流したことから来ているといわれています(世田谷区)


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十一山市民緑地/成城4丁目



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成城みつ池北緑地/成城4丁目

もともとは住宅地でしたが、国分寺崖線のみどりを保全する目的で整備された緑地です。崖の下から崖の上の広場まで散策路で結ばれ、大きなアカマツやモミジをはじめとする斜面のみどりを楽しむことができます。崖の上の広場まで登ると、景石を配した広場となっています。冬の晴れた日には落葉した樹木の額縁から富士山や丹沢の山々を望むことができます。(案内板)


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フェンス越しにみることができます。

成城34丁目の国分寺崖線の樹林
崖線に沿って緑が豊かに残されている。低地に下る坂は両側の深い緑で隈取られ大地との間に陰影をかたちづくる。まちに変化に富んだ散歩道があることは素晴らしいことだ。(せたがや百景)

神明の森みつ池
(しんめいのもりみついけ)世田谷区成城にある緑地である。国分寺崖線上に位置し、湧水が4か所存在する。ハンノキやクマシデなどの落葉樹の天然林と、武蔵野の林を代表するクヌギやコナラなどの林が混じり合っている。東京戸23区内では2か所しか自生していないゲンジボタルや、絶滅危惧種に指定されている動植物が数多く残る、貴重な自然保護区である。特別保護区となっており、開放時期は年数回の観察会に限られている。(Wikipedia


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滝の脇から階段を上ると本殿があります


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珠姫稲荷            岩谷不動

喜多見不動堂/成城4丁目

この不動堂は喜多見慶元寺の境外仏堂で、本尊は不動明王坐像である。創建は明治95月で村内安全、諸難消除、各願成弁のため喜多見の住人浦野半次郎が発起人となり西山八郎兵衛、田中福太郎、宮川太郎兵衛、田中留吉、宮川安五郎、西山伊兵衛の各氏が願主となって、有志の寄進を得て今の地に堂宇を建立し尊像を安置したものである。この尊像は、明治の初め多摩川大洪水のとき、喜多見川原に流れ着いたものを前記の願主たちが成田山新勝寺で入魂したものと伝えられている。境内には湧水による滝があり、かつては信者が水行した。また、この滝口には滝不動が祀られている。堂宇と並んで岩屋不動、玉姫稲荷、蚕蔭大神を祀った小祠がある。
毎年冬至の日には星祭りが執行され、護摩が奉修され、特に南瓜に”真田幸村”と書き、自分の名を併記して護摩供養すると喘息や中風に罹らないという南瓜護摩が古くからこの日に行われている。(世田谷区教育委員会)

慶元寺の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23022006/


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成城の富士見橋と不動橋
切り通しを抜けて小田急線が走る。二つの橋はこの小田急線に架かっている。よく晴れた日は、崖線を越えて丹沢の山々や遠く富士山を望むこともできる。夕日の沈むころは、懐かしい哀愁のただよう陸橋の風景が浮かび上がる。(せたがや百景・富士の見える橋)


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成城3丁目桜と紅葉の並木

春の桜のころや新緑の5月ももちろん美しいが、秋の紅葉のトンネルも素晴らしい。落葉を踏みしだいて歩く趣のある散策路だ。この小風景を愛する住民も多い。車の入らないこうした小道はまちなかに奥行きをつけてくれる貴重な空間だ。(せたがや百景)


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成城三丁目緑地

三丁目緑地は多摩川が長い年月をかけて削ってできた「国分寺崖線」にある森です。もともとは国の土地に宿舎や建物がありました。人々の暮らしを支えた雑木林や斜面から流れ出る湧き水、竹林などがあります。(案内板)


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崖線を下ります


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きよみずばし             崖線下の湧水


成城三丁目緑地
成城の住宅街の中にある成城三丁目緑地には斜面林とともに2箇所の湧水地があります。多くの自然が残されサワガニやカブトムシなどを観察することができます。現代の生活にあった「まちの里山」をテーマに、地域住民が中心となって、住民参加による公園づくりを行っています。(世田谷風景資産)


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成城学園前駅・南口


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世田谷みどりのフィールドミュージアムMAP
(赤:ルート 青:野川 橙:喜多見駅・成城学園前駅)



・・・
資料ファイル

国分寺崖線とは
多摩川が10万年以上かけて武蔵野台地を削ってきた段丘のことで、立川から国分寺、調布を経由し世田谷から大田区へ続く約30kmの「崖のつらなり」をいいます。多摩川と野川に沿って約8km続き、高さ10~20mの斜面から成ります。緑が帯状に存在し、湧水など自然環境に恵まれた崖線は世田谷の「みどりの生命線」ともいわれています。(案内板)

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成城付近の崖線の緑地
(黄色:緑地 青:野川 茶:小田急線 紫:東名)


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崖線の地層

野川

東京都を流れる多摩川水系多摩川支流の一級河川。国分寺市東恋ヶ窪一丁目の日立製作所中央研究所内に源を発し、南へ流れる。世田谷区鎌田で北から流れ来る仙川を合わせ、世田谷区玉川一丁目付近で多摩川に合流する。野川は、南岸が平坦なのに北岸が急斜面となっていて、両岸の高さが違う。北の崖は、武蔵野段丘面を多摩川が削りこんで作った国分寺崖線である。「ハケ」と呼ばれる崖の斜面からはかつてに比べれば大幅に減少しているものの清水も多く湧き都内でも珍しい自然が残っている。野川が流れる立川段丘面は、2万~3万年前の更新世に古多摩川が流れて作った河岸段丘である。その時代の多摩川は立川段丘面に礫を残しながら武蔵野段丘を横から削っていた。多摩川本流が流路を変えた後に、国分寺崖線の湧水を集め多摩川旧河道を流れた小河川が野川である。野川には多摩川が運んで残した礫の層(立川礫層)を削るほどの流量がなく、礫層を川底にして浅い谷を作った。野川の上流部北側には旧石器時代の遺跡がある。(Wikipedia



by Twalking | 2016-03-04 22:41 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 滝坂道を行く04 祖師谷   

日時 2016.2.18(木)
天気 薄曇り


祖師谷は駅前くらいしか知りません。
なんかこみごみとしていた感じ、の記憶ですが、
少し離れるとのどかな田園風景が残っています。

世田谷に住んでいてよく車で通った道ですが、
こうして歩いてみると懐かしさとともに新たな出会いも、
道は面を繋ぐでしょうか、面白ですね。


・・・祖師谷

祖師ヶ谷という地名の起こりは、一つには村の谷の近くに地福寺というお寺があってその境内に祖師堂があったためという説があります。また一方の説では、鎌倉時代初期にこの地に住んでいた豪族の粕谷氏が、弘安年間に法華宗の開祖日蓮上人の布教によってその教えに帰依する人々が多い中で、法華宗を深く崇敬し、領内に一堂守を建立(祖師山院就沢寺(後焼失)と命名)し、日蓮上人他界後に祖師像を彫刻し、安置したことによるとされています。(世田谷区)


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広がったんですね、狭い道でしたが・・・/東京中央農協前


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交差するのが「六郷田無道」左手の旧道へ進みます/榎交差点


上祖師谷の六郷田無道

狭いうえにも交通量が多く、古い道とは想像もできない。しかし、道筋に寺や社を見つけると、かつてののんびりした往来が目に浮かんでくる。地形に素直に合っている古い道は、なぜか人の匂いがある。(せたがや百景)


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旧道風景 安穏寺坂を仙川へ下る/安穏寺門前


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武家屋敷風の安穏寺

寛永年間(1624-44)に建てられたといわれるが、一時荒れはてていたため詳しいことは不明。古い墓石には名字を持つものが多く、謎が深まる。車の往来の激しい坂道に沿って、山門や白壁の塀が黙然と存在している。(せたがや百景)



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d0183387_21510759.jpg安穏寺

舜栄山行王院安穏寺と号する。新義真言宗智山派に属し、川崎市小杉の西明寺の末寺である。明治維新の前後18年余り無住となり東覚院の兼務寺となる。この頃、寺の荒廃はなはだしく博徒が出入りする程のあれようであった。明治18年には風禍により本堂が倒壊したが大正14年まで再建されず庫裡を本堂として過した。このような状態であったので、寺に関する資料はほんど失われてしまったが、墓碑・石灯寵などから吉岡九郎左衛門が元禄年間(1688~1703)に開基したもの思われる。当寺3世の墓は吉岡九郎左衛門の裏山から運ばれたものである。また過去帳などから等々力の満願寺からきた権大僧都元光が寛政年(1789~1800)に中興したとも云われている。本尊は不動明王で木の坐像22(70cm)のものである。なお境外の地蔵堂には岩船地蔵尊を安置している。(せたがや社寺と歴史)


d0183387_21552586.jpg類さん川/駒大グランド手前

大川(今の仙川)の東堀の現在の上祖師谷まちづくりセンター付近をさす。原島類蔵という人が住んでいたのでこの名の由来がある。田んぼが盛んだった昭和30年前半までは、現在の佼成幼稚園と第一生命グランドとの間(現みどり橋)に灌漑用の堰があった。これを「おおぜき」「おおたげえのせき」といった。田んぼに水が必要なとき、この堰で仙川の水深をあげ西堀と東堀に水を流し田を潤した。(上祖師谷郷土研究会)


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d0183387_23153308.jpg仙川/宮前橋

現在の上流部は人工的に作られたもので、小金井市の新小金井街道直下が「上端」と定められ、東京都による立札が設置されている。野川宿橋の所から川幅が広がり流れも自然な蛇行となる。ここが21世紀現在確立された最初の水源である(正確には地下水汲み上げ場所・樋口取水場)。少しずつ蛇行しながらおおむね南東方向に流れてゆき調布市に入る。両岸に祖師谷公園を見て通り抜け、成城に達して成城学園の横を流れ、世田谷区鎌田で野川に合流する。三鷹市新川丸池公園にかつて丸池という湧水池がり、たくさん水が湧いていたことから千釜と呼ばれていた。この千釜という言葉が仙川の由来といわれている。また、流域に仙人が住んでいた伝説からという説もある。Wikipedia


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祖師谷公園
世田谷区上祖師谷にある都立公園。昭和188月に防空緑地のひとつとして計画された「祖師ケ谷緑地」に由来する。計画開始から34年後の昭和50年、旧東京教育大学の農場跡地を中心として「祖師谷公園」として開園した。仙川が園内を南北に流れ公園は東西に分かれている。なお現在も造成は完了しておらず周囲の土地買収が進められている。その対象のひとつに世田谷一家殺害事件の現場となった家屋(公園北部に所在)も含まれているが、平成25年現在も事件が未解決であることから現場保存の意味合いもあり、取り壊し及び公園の造成再開の目処は立っていない。Wikipedia)

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祖師谷公園マップ(赤:滝坂道 黄:宮前橋)



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上祖師谷神明社例大祭

浅葱色をした社殿は昭和41年に建てられたもの。江戸時代から上祖師谷の鎮守だったと思われます。神明社の脇を通る道は、昔「滝坂道」といわれた街道で現在も交通量は多い。時代の激しい移り変わりをじっと見つめてきたお社です。(せたがや百景)


d0183387_22202692.jpg上祖師谷神明社(祭神:天照皇大神)
創立縁由沿革等詳ナラズト雖モ当社ハ新編武蔵風土記稿ニ登載セラレ、又享和元年9月建立ノ石燈籠及ビ文久弐年八月建立ノ手洗石アリ。明治612月村社ニ列セラル、明治41年会計法指定神社トナル。明治42年同所字大道北796番地無格社稲荷社及ビ同所字本伊勢449番地無格社本伊勢社ヲ合祀ス。社殿ハ明治431218日改築申請、同月23日認可、明治454月落成、遷座祭執行。昭和29121日宗教法人登記。昭和4112月・21日本殿、祝詞殿、社務所改築申請、昭和42115日庶収第401号神社本應統理承認.昭和41121日祖師谷1丁目1205番地三峯社、同所1207番地厳島社ヲ合併申請、昭和42115日庶収第404号神社本應統理承認、同日庶収第405号合併ニヨル境内神社創立規則変更承認。昭和42313日付第63号東京都知事合併及ビ規則変更、三峯社、厳島社境内神社ト記入承認証。昭和4245日宗教法人合併登記完了.昭和42111日社殿、社務所、石鳥居、境内整備竣工完了、正遷座祭執行、引続キ113日遷座奉祝祭執行スル(説明板)

d0183387_22213287.jpg上祖師谷之沿革

祖師谷という名の由来は諸説あるが、むかし釣鐘池北側の高台に日蓮宗の地福寺という寺があり、そこに祖師堂があったのが地名の由来となっている。それまで一つだった祖師谷村が江戸元禄10年(1697)に上・下の祖師谷村に分かれた。江戸幕府によって編纂された新編武蔵国風土記稿・文政11年刊(1828)には「上祖師谷村は郡の(多摩郡)東南にあり(中略)村内に10丁余かかれる一条の街道あり、甲州の裏道と云。(中略)民戸67軒所所々に散在せり(人口323人)」とある。この一条の街道とは神明社の(旧青山道又は滝坂道)現仙川通りのことである。甲州街道滝坂より青山まで至る重要な街道であった。また、風土記稿には「用水は上仙川村より来れる流をもって田圃に沃せり」とある。この用水とは現仙川のことである。大川と呼ばれたこの川は三鷹市勝淵神社前の丸池を水源とした川で、この川の水を利用して江戸時代より田圃が作られていた。また水車も二ヶ所あった。神明社の創建は不詳であるが、前述の風土記稿には「神明宮村の中程にあり、ここの鎮守なり。前に15級の石段あり」と書いてある。境内には安永6年(1777)の太鼓、享和元年(1801)の石灯籠、文政年間の幟、文久2年の手洗石等が現存している。祭神は天照皇大神、相殿倉稲魂命が祭られている。この両神は農耕豊作の神である。田を見下ろす高台に古より村人により祭られたものであろう。本年神明社遷宮45周年、奉賛会設立50周年を記念し、神明社崇敬者の安寧を願いこの記念碑を建立するものである。(碑文)


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旧道風景 右手が「大道北」地区になります


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手前に庚申塔             大道北記念公園の案内板

「大道北」地区の歴史

我が町「上祖師谷」は世田谷区の西北にあり、江戸開府の頃は祖師谷村と言われていました。その後村は大川(仙川)の上流を上祖師谷、下流を下祖師谷(今の祖師谷)と川の上下で二村に分かれました。上祖師谷の中央を東西に走る道は大道(または滝坂道)と呼ばれています。大川の西側と大道の北側が「大川北」地区です。「大川北」地区は昭和30年後半まで大川の水を利用した水田が広がり、乳牛や養鶏も営む世田谷有数の農村地帯でした。(大川北土地区画整理組合)


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上祖師谷の周辺地図(赤:滝坂道 青:宮前橋・仙川)



・・・調布

現在の市域に当たる区域は武蔵国多磨郡内の一部として属した。布田5宿があり、甲州街道の国領宿(日本橋より4番目)・下布田宿・上布田宿・下石原宿と上石原宿(同8番目)がこの地にあった。本陣と脇本陣が無く旅籠だけの小さな宿場であったが、布田天神社の市場は賑わった。
調布という名称は昔の税金である租庸調の調(その土地の特産物を納める)で布を納めていたことに由来する。調布と書いて「たづくり」もしくは「てづくり」とも読んでいた。調布市内には布田(ふだ)、染地(そめち)など布にかかわる地名が存在する。江戸時代までは多摩川で布をさらしていた記録が残っている。「多摩川にさらすてづくりさらさらに何ぞこの児のここだ愛(かな)しき」という万葉集の歌が布多天神社に残っている。Wikipedia


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旧道風景 調布市に入ります/若葉町

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実篤記念館寄るの忘れたな~      京王線を越えます 


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あれ、キュピーさん、いない?!/仙川2丁目交差点

d0183387_12045338.jpg滝坂道の出口です/R20号

仙川キユーポート
閉鎖した旧仙川工場(20113月閉鎖。1960年から1969年まで本社)跡地に201310月開設。上記の通り渋谷区の本社ビル建替完成までの仮本社が置かれていた。


若葉町・実篤公園付近の関連記事は琴らへ(http://teione.exblog.jp/23100786/




・・・滝坂(甲州街道)

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滝坂

甲州街道の旧道が国分寺崖線を上下する急坂である。「八王子以東の甲州街道で旧観をとどめている唯一の貴重な場所」といわれ、「調布の古道・坂道・水路・橋:75頁」に「この坂の名は、大雨のとき、雨水が路上を滝のように流れ下ったことからついたといわれる」とあり、また坂上は旧滝坂道の崖うえで、東南側に文政13年(1830年)に建立された薬師如来坐像〔「調布市の石造物(1)路傍の石仏」24頁より〕が立っている。(「坂のプロフィル」さんより)

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馬宿川口屋&標柱           薬師如来坐像


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「滝坂下」の信号に名が残ります/つつじが丘駅入口(甲州街道)


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瀧坂道ルート図 (紫)起点:道玄坂上 終点:瀧坂 
(橙:旧甲州街道 赤:大山道 茶:津久井道)



by Twalking | 2016-02-21 22:51 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 滝坂道を行く03 経堂   

日時 2016.2.18(水)
天気 薄曇り

経堂は小田急を使う時の駅、船橋は妹が通った高校があり、
また、戦時中は母もここに疎開していたとか、
そう聞くと縁があるんですね・・・、思い出深い土地です。

世田谷に住んでいて名前だけは知ってましたが、
芦花公園、いいところですね。
近くまでよく行ってたのに~、と思います。
やはり、歩くと出会うものが多いと感じました。


・・・経堂

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すずらん通りを西へ向かいます


d0183387_12455831.jpg経堂在家という名はいくつかの説が残されています。経堂駅から少し南側に福昌寺というお寺がありますが、この寺は正しくは「経堂山福昌寺」といい江戸時代の初め頃に建てられた古いお寺です。当時この地を与えられていた松原土佐守弥右衛門が、屋敷の中にお坊さんを迎えて開基したものだと言われています。この松原土佐守は、徳川幕府のお抱えの医者(御殿医)として中国から迎えられ日本に帰化した人で、医者なので当然たくさんの本を持っていました。このころ人々はほとんど字の読み書きができなかったので本といえばお経の本だと思い込んだということです。それに自分の屋敷内にお堂を建てたので近くの人はこれを経堂と呼ぶようになりました。松原氏が常徳院から玄浦和尚を迎えて寺を建て、この経堂の名をとって「経堂山福昌寺」と名づけたのは寛永3(1626)のことでした。在家という名は出家に対して使われた言葉で、松原氏が自分の屋敷内に寺を建てて普通の生活をしながら仏教を信仰したのでそう言われ、経堂と在家がついて村の名になったとされています。第二の説は、昔この土地が開かれ始めたころのこと、既に野原の中に一つのお堂が建てられていましたが、その堂の造り方や形が関東地方には見られない京都風のものだったので人々がこれを京堂と呼び、いつの間にかその字が経堂になったとされています。三つ目の説は、昔お経の本をたくさん入れた石室を土の中に埋め、そのうえに小さなお堂を建てて村の人々が信仰の糧にしたので、これを経堂と呼んだといわれるものです。(世田谷区)


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道は経堂小学校前で合流します/経堂2丁目


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光輪成院/手前(右)          稲荷社/角の左



・・・船橋

船橋という名の由来はいくつかの説があります。その一つは昔多摩川の蛇行する川岸に集落があって、多摩川を住民が渡るために船橋を架けたことから名がついたと言われるものです。また別の考え方では、ずっと昔には烏山川を含む周辺一帯に幅200m、長さ1800mくらいの大きな池があったのではないかとされ、そこに船橋が架けられていたと見る説です。その橋の位置は今の希望丘橋のあたりで、この船橋を通る道は古い鎌倉街道の一つだったであろうといわれています。この幻の船橋の池と考えられるところは、かつての水田地帯だった場所で、長い間に池は徐々に湿地帯となって水田に利用されたのではないかといわれています。またもう一節は、佐野景綱という豪族の子の船橋春綱という人が下野の国に住んでいて、その子孫にあたる船橋の一族が移り住んだので船橋と呼ぶようになったというのですが、それ以上のことは何もわかってはいません。(世田谷区)


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細い路地が滝坂道、左から合流するのは赤堤通り(環状7号~20号線)/船橋5


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瀧山道は直進、右手は人見街道を経由して府中へ向かう「古府中街道」/水道辻


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荒玉水道道路を横断突き当りを左折   すぐのFマート右折、次を左折

玉水道
大正時代時代から昭和中期にかけ、多摩川の水を砧(現・世田谷区)から野方(同中野区)と大谷口(同板橋区)に送水するために使用された地下水道管のことである。当時、東京の発展に伴う人口の増加による上水の需要増により敷設された。現在も砧から杉並区梅里までの荒玉水道に沿って「荒玉水道道路」がある。「荒玉」の「荒」とは荒川、「玉」とは玉川すなわち多摩川を指している。Wikipedia


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旧道風景 まだ畑が残ります。千歳の清掃工場の煙突が見えてきます/八幡山



・・・八幡山


中世
には鍛冶山と呼ばれた。1553年(天文22年)吉良頼康から大平清九郎に「かち山」が与えられた文書が残る。江戸時代には当初は天領だったが、1633年(寛永10年)に彦根藩井伊家領となった。村南部は藩の御林となり、薪炭が採取された。八幡山遺跡からは江戸時代初期の炭焼窯跡が発掘されている。慶安年間、船橋村より移住した島田五兵衛が当地を開拓し八幡山村が成立した。村内にあった八幡神社が由来といわれるが定かではない。一般的には一丁目の八幡社が由来の神社とされている。Wikipedia


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八幡社
祭神:誉田別命(ほんだわけのみこと)創立年月並びに古代由緒沿革は未詳なれど、古老口碑また地名より古社と推定される。なお奥宮(新殿に斉奉)には文化7年(181010月との記銘あり。明治410月に村社に列社られ、明治4111月府告第218号に依り会計法指定神社となる。明治4236日許可を得て同所稲荷社を合祀す。昭和2943日新殿、社務所並びに境内諸施設を新築し遷宮奉祭を執行す。本来八幡社は海防守護の神であるが、主神が文化や産業の振興につくされたことから繁栄と平和、つまり厄除開運の御神徳をたれ給う神として一般の崇敬をうけております。(説明板)


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旧道風景 明大グランドを見ながら環状8号線へ/八幡社門前


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烏山緑道               環8を横断/千歳台

烏山川
世田谷区北烏山付近に源を発し南東へ流れ、同区三宿付近で北沢川と合流して目黒川となる。流路延長は11.70km。近年は暗渠部の緑道化が進められ「烏山川緑道」と呼ばれている。(Wikipedia)


・・・千歳台


千歳台という地名は昭和46年環状八号道路の貫通などによる地域の変更で誕生しました。それ以前は烏山南部、粕谷、八幡山などとともに「廻沢」という広い地域でした。廻沢村は、昔は施沢、巡沢とも書きこのめぐり沢の名は地形から付けられたものとされ、村の東に位置する東覚院の本尊薬師如来像はこの地が水清らかな舟形の霊地であるから安置されたといういわれがあります。これを裏づけるのは、かつて東覚院の西北の窪地は雨が降ると水が溜まる沢地で、そのためにこの水を烏山川へ落としていていわゆる水めぐる沢だったのではないかといわれています。旧千歳村は、明治2251日市制及び町村制が施行されたとき、旧上祖師ヶ谷村、旧下祖師ヶ谷村、旧廻沢村、旧船橋村、旧八幡山村、旧粕谷村、旧給田村、旧烏山村の8ヶ村が合併して成立したもの。「千歳」という村名は候補村名12のうちから投票により決定したもので、古くから土地に密着した由来等はなく単に縁起のよい名称に過ぎないものである。(世田谷区)


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東覚院
青林山薬王寺東覚院と号す。川崎市の新義真言宗智山派西明寺の末寺である。宝暦6(1756)作成のこの寺の「薬師如来御縁起」によれば正応元年(1288)大和長谷寺より月空という廻国の僧が草庵を結んだのがこの寺の草創であるという。その頃は民家もなく広々とした原野であった。永禄元年(1558)大願寺と号し民家もここかしこに出来た。その後400年余り過ぎて武州玉川のほとりに河野氏という神主あり。両眼失明し氷川明神に祈願したところ夢中に駿河富士山中宮薬師に祈誓すべしとお告あり早速霊場に参寵した。或夜東に有縁の地あり汝供奉して彼の地に遷さばたちどころに平癒すべしと雷の如く鳴り渡り胸のほとりに下らせ給うた。これに供奉して東に帰ると忽に両眠が癒った。かかる尊き御仏を不浄の地におくべきでないと浄地を探し求めたところ廻沢という所に不思議な霊地あり。その昔吉良の御所勝光公の御母公の御祈願寺で30石の寺領を受けていたが吉良氏没落後は無縁の寺となり大破し境内のみ残った。境内は水清らかな舟型の霊地であったのでここに御堂を建て尊像を安置し青林山薬王寺東覚院と号した。本尊は薬師如来富士山薬師ケ嶽より将来の尊像御丈38(12cm)閻浮だ金の御仏で弘法大師の御作なり云々とある。(せたがやの寺社と歴史)



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文豪の住まいと雑木林のある蘆花恒春園/粕谷

芦花恒春園は、文豪徳富蘆花が明治40年から昭和3年の死亡までの20年間を、愛子夫人とともに過ごしたところで、園内には蘆花記念館と当時のままの書院、母屋が残されている。裏手には、児童公園や散策によい公園が続いている。近くの粕谷八幡には蘆花ゆかりの「別れの杉」二代目が植えられている。このあたりは緑の深い趣のあるところだ。(せたがや百景)

蘆花恒春園の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22896127/


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廻沢のガスタンク/粕谷
巨大な球形のガスタンクもいつの間にか、まちの風景の中に溶け込んでいく。朝日を浴び、夕日に照らされ、雨に霞んで、一冴の風情さえ帯びてくる。都市風景のなかで一際目立つランドマークだ。(せたがや百景)


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旧道風景 ここは以前から広がってましたね~/千歳台

都道118号調布経堂停車場線

調布市仙川二丁目交差点と世田谷区の小田急線経堂駅前を結ぶ一般都道である。現在の渋谷区の道玄坂上から調布市の甲州街道上にある滝坂を結んでいた滝坂道の西半分に相当し、東半分は概ね都道423号渋谷経堂遷の一部となっている。(Wikipedia


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船橋周辺マップ
(赤:すずらん通り 橙:経堂西通り 緑:古府中道 紫:荒玉水道道路・赤堤通り)



by Twalking | 2016-02-20 20:50 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり蘆花恒春園   

日時 2016.2.18(木)
天気 薄曇り


滝坂道の環8を越えたすぐ右手に蘆花公園はあります。
名前だけはしっていましたが、行くのは初めて、
手前の温水プールには子供とよく行ったのに~、です。

世田谷にもこんなに広い雑木林がまだあるとは・・・、
武蔵野の面影が色濃く残るすばらしい空間です。
恒春園の建物は工事中のため内部は見れませんでした。
季節を変えて、また行ってみたい公園ですね~。。。


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千歳台側入口

蘆花恒春園

世田谷区にある都立公園である。一般的には、周りにある広場なども含めて芦花公園とも呼ばれている。明治期から大正にかけて活躍した文豪・徳富蘆花の旧宅が、没後、東京市(現:東京都)に寄贈され武蔵野の面影を多分に残した公園として一般に公開された。公園内には広場の他、徳富蘆花の旧宅などを現在でも見ることができ、晴耕雨読を旨とした晩年の蘆花の生活ぶりを垣間見ることができる。Wikipedia


・・・解放公園区域

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花の丘区
域長野県高遠町よりいただいた高遠小彼岸桜を始め藤棚、萩のトンネル等四季折々の花々が咲き誇ります。中央の五つの花壇にはコスモスをはじめヒマワリ、菜の花等四季感あふれる草花の彩りも楽しむことができます。随所にある休憩所で花木や草花を見ながらそよ風に吹かれてひと休みするのも気分爽快です。(パンフ)


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草地広場
雑木林にかこまれたこの広場で思いのまま楽しんでみてはいかがでしょうか。お弁当を広げ家族だんらんでくつろぐのも良いものです。また園内をウオーキングやジョキングする人も見かけられます。(パンフ)


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児童公園
すべり台、ブランコ、シーソー、砂場等子供達の絶好の遊び場として人気を呼んでます。いつもはしゃぎ声が絶えません。(パンフ)



・・・恒春園区域

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東京都立蘆花恒春園

蘆花、健次郎がこの武蔵野の粕谷の里に移り住んだのは明治40227日、彼が40歳の春であった。以後彼は雑木林にかこまれた自然の中で田園生活を楽しみ、数々の名著を残し、昭和2918日療養先の伊香保の地で永遠の眠りについた。蘆花の遺骸はは邸前のクヌギ林内に埋葬され、昭和12614日愛子夫人より建物のすべてが当時の東京市に寄付された。市は文豪の生活を偲ぶ記念の地として蘆花恒春園と名付け一般に公開してきた。昭和61310日邸地を当時の姿に復元・保存して永久に子孫に伝えていくために「東京都指定史跡」に指定され現在に至っている。(東京都)


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蘆花記念館入口            都史跡標柱


徳富蘆花旧宅
徳富蘆花は肥後国葦北郡(あしきたごおり)水俣村手永(現在の熊本県水俣市浜2-6-5)に代々惣庄屋を勤めた徳冨家の三男として明治元年(18681025日(旧暦)に生まれた。名は健次郎。兄は猪一郎(蘇峰)である。明治31年から翌年にかけて「国民新聞」に連載された長編小説「不如帰」(ほととぎす)が明治文学のベストセラーになった。明治40227日青山高樹町の借家から北多摩郡千歳村字粕谷の庫落ちに転居した。トルストイの示唆を受け、自ら「美的百姓」と称して晴耕雨読の生活を送り、大正26年間の生活記録を「みみずのたはごと」として出版。大正7年には自宅を恒春園と名付けた。昭和27月伊香保に病気療養のため転地するが、同年918日かけつけた兄蘇峰と会見したその夜に満58歳で死去した。墓所は旧宅の東側の雑木林の中にあり、墓碑銘は兄蘇峰の筆による。昭和12年蘆花没後10周年に際し、愛子夫人から建物とその敷地及び蘆花の遺品の全てが当時の東京市に寄付され、翌年227日「東京蘆花恒春園」として開園した。この旧宅は、母屋、梅花書屋、秋水書院の三棟の萱葺家屋からなり、これらは渡り廊下によって連結されている。「美的百姓」として生きた蘆花の20年間にわたる文筆活動の拠点であり、主要な建物は旧態をよくとどめている。(東京都教育委員会)

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恒春園の名の起り

住居(すまい)の雅名が欲しくなったので、私の「新春」が出た大正7年に恒春園と命名しました。台湾の南端に恒春と云ふ地名があります。其恒春に私共の農園があるといふ評判が立って其処に人を使ふて呉れぬかとある人から頼まれたことがあります。思もかけない事でしたが、縁喜が好いので、一つは「永久に若い」意味をこめて、台湾ならぬ粕谷の私共の住居を恒春園と名づけたのであります。「みみずのたはことより」


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梅花書屋

この建物は、蘆花が1909年(明治42年)3月に松沢町北沢(現世田谷区)に売家があるとの情報で早速見に行って手付を渡し、420日に建前を行い、530日に全部終了した。母屋との間は、踏石を渡って往復した。梅花書屋の名称は、この家に掲げられてある薩摩の書家鮫島白鶴翁(西郷隆盛の書道の師)の筆になる横額によるものであり、この額は蘆花の父徳富一敬から譲られたものである。梅花書屋の命名以前には、単に「書屋」後には「表書院」とよばれた。現在ある梅花書屋、秋水書院、母屋をつないでいる廊下は秋水書院完成後につくられたものである。(説明板)


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秋水書院
この建物は、蘆花が烏山に在った古屋を買い取り移築し、明治44年1月から春にかけて、建て直したもので通称「奥書院」の名がある。建前は124日であった。その日蘆花は当日の午後になってから判ったのだが、当時世間の耳目を集めた大逆事件の犯人とされた幸徳秋水以下12名の死刑執行の日であった。蘆花は大逆事件については冤罪であると、大きな関心を寄せていたが1月中旬に12名が死刑判決を受けたことを知ると兄蘇峰及び桂総理宛に再考の書簡を出した。また122日には、第一高等学校(現東京大学)生徒の弁論部員が演説を依頼にきたので、とっさの思いつきで「謀叛論」と題し2月1日を約束し当日は草稿も持たず会場に溢れんばかりの生徒たちを前に演説した。かくして奥書院は同年春に完成した。蘆花夫婦はこの建物を「秋水書院」と名付けたが一般に「秋水書院」と呼ばれるようになつたのは戦後のことである。


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徳冨蘆花墓誌
この墓に眠る人は徳富健次郎といい、号を蘆花と称した。1868年12月8日(明治元年10月25日)熊本県水俣市に生まれ、父は徳富一敬、号洪水、母は久子、矢島氏の出である。兄に蘇峰徳富猪一郎がいる。蘆花の幼時はひよわであったが、少年時代から青年時代にかけて、父や兄から訓育を受け教導されて、その性格が形づくられた。中年以降はすぐれた文人として自立し、その著作は広く世間に読まれて多くの読者に好まれた。蘆花の妻は愛子、原田氏の出である。夫妻は互いに相たすけ、常に離れることがなかった。しかしついに子宝に恵まれなかったが、伊香保の療養先で、最期に臨んで兄に後事を頼み心静かに永眠した。数え60歳である。時に昭和2年9月18日のことであった。蘆花は生まれつき真面目で意思強く、妥協を排し、世間の動きに左右されることがなかった。また与えることが多く、愛情をもって人々に接した。文章を作るにあたっては、さまざまな思いが泉のように湧き出でて、つぎつぎと言葉が流れ出るようであった。蘆花の生涯は、終始自らを偽らず、思うままに行動し、ひたすら真善美を追求することに努めた人生であった。遺骸は粕谷恒春園の林の中に持ち帰り埋葬された。これは自身の生前からの願いであり、また粕谷の村人たちの希望するところであった。兄蘇峰65歳 涙をぬぐいつつ畫く。

徳富愛子墓誌
ここに葬られているのは蘆花徳富健次郎の夫人である。女史は原田氏の出で、名は藍子、後に愛子と改め、明治7年に熊本県菊池(隈府)市に生れ、長じて東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)に学んだ。ある日、私のところへ、兄の良八が同行してきた。一見して弟の妻に好ましいと思い、弟の意向を聞き、老父母にも相談し、卒業後婚姻が成立した。女史は才色ともにめぐまれ、態度はつつしみ深く、精神はしっかりして動揺することがない。夫婦生活34年間心は一つとなり、相愛し、相たすけた。蘆花が大を成し得たのは女子の内助によるところが大きい。蘆花死去後、二十余年をひとりで生きて、自身の病弱をおして、蘆花の遺作を整理刊行しまた後々の計画を定めた。すなわち十回忌に恒春園の土地と邸宅一切を東京都に寄贈し、蘆花記念公園としたのである。女史は昭和22年2月20日住居で永眠した。数え年74歳。遺骨は蘆花の左隣に葬られた。兄徳富蘇峰85歳記す。


・・・八幡神社

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d0183387_15204664.jpg粕谷八幡神社

祭神:誉田別命。創立年月並びに古代由緒沿革等末祥なれど古老、口碑等により開村当時よりの鎮守として尊敬をうけてきた。古社と推定される。明治612月村社に列せられ、明治41年府告示第218号により会計法指定神社となる。社殿は明治143月改築、その後昭和2年改築奉祝祭を挙行す。昭和29126、宗教法人法による登記完了す。その後、昭和34330日放火により全焼せるにより、直ちに氏子協力浄財により復興に着手、諸手続きを経て同年12月鉄筋コンクリートにより社殿を、また軽量鉄骨造により社務所を完成、奉祝遷座を執行した。当社はその本社を九州宇佐神宮(元宮弊大社)の御分霊を祀り、主神が文化や産業の振興に尽くされたことから繁栄と平和、つまり厄除開運の御神徳を垂れ給う神として一般の崇敬をうけております。(説明板)


d0183387_15204993.jpgわかれの杉

明治・大正の文豪・徳富蘆花(本名健次郎)は明治412(28)、ここ粕谷に住居を定めました。蘆花は彼を訪ねて帰る人をいつもこの粕谷八幡神社の入口の杉の下に佇んで、感慨深く見送っていました。それはここでの別れが死別となったことが一・二度に止まらず、またたとえ生きていたととしても再び会えるかどうか分からぬ人も少なくなかったからです。そこで蘆花は彼の著書「みみずのたわごと」の中で、この杉を「わかれの杉」と名付けました。「わかれの杉」は蘆花にとってだけではなく、戦争の都度応兵兵士たちが武運長久を氏神の八幡神社に祈願し、この下で郷土の人々と別れ再び会うことが出来なかったなど、粕谷の人たちともかかわり深かったものなのです。杉は第二次大戦後に枯れ、幹を3mほど残して切られましたが、二代目の杉が氏子のてによって植えられました。立派に育つよう大切にしましょう。(世田谷区教育委員会)


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蘆花恒春園(蘆花記念館)マップ


by Twalking | 2016-02-19 15:14 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 滝坂道を行く02 松原   

日時 2016.2.2(火)
天気 晴れ

梅ヶ丘一帯は学校の最寄駅でしたので懐かしい所です。
だいぶ前に統合で廃校になりましたが、跡地には国士舘の
梅ヶ丘校舎が建っていました。

豪徳寺裏の道も良く通りましたが、この鍵の手が松原宿
だったとは・・・、知らなかったですね。
この一帯は世田谷の貴重な歴史資産、留めておいて欲しいものです。


・・・代田

この地域は北条氏康の家臣垪和又太郎が永禄12年(1569年)にこの地の領主になったとき、すでに代田屯と呼ばれていたようです(『北条分限帳』)。代田の地名の由来は「だいたらぼっち」の伝説によるという説が有力だと考えられています。昔、代田の西の守山近辺(現在の守山小学校付近)の窪地のことを村人は「だいたらぼっち」と呼んでいました。それは、この地に雨水や湧水を集めてできた沼地があり、その形が人の足跡に似ていたことから大男「だいたらぼっち」の足跡と呼ぶようになり、池の近くの玉川上水に大男が一晩でかけたといわれる橋を代田橋と呼びましたが、今はこの橋も池もなくなっています。この「だいたらぼっち」が変化し「だいた」になったというものです。(世田谷区)

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左は三軒茶屋、右が下北沢方向になります/代田十字路(淡島通り)

茶沢通り
三軒茶屋
と下北沢、東北沢を結ぶ世田谷区道の通称。現行幅員は約11mで停車帯がない。代沢十字路から小田急線踏切跡付近の区間は幅員16mとして都市計画決定されているが、代沢十字路から三軒茶屋の区間は現行幅員で完成である。Wikipedia


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旧道風景/代田十字路先を右折 

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環7を左に迂回            コジマ角を左折/若林陸橋



・・・梅ヶ丘


梅ヶ丘駅ができこれは後の町名にもなりました。(昭和9年)小田急50年史の記録によると「この地は北沢窪という地名で、かつては麦畑の中に一基の古墳があり出土品もあった。したがって梅丘は古墳にちなむ埋ヶ丘に由来するとの説がある。またこの地の大地主旧家に梅の古木があり、同家の家紋も梅をかたどったものであるところからこれをとって優雅な「梅ヶ丘」の駅名をつけたともいう」とあります。この大地主というのが相原家で、たまたま同家を訪れていた三人の間で新駅名のことが話題に上ったとき、相原家の土蔵の梅鉢の家紋を見て、これにちなんで梅ヶ丘にしてはとの提案がされ、小田急側にも異議なく採用されたということです。(世田谷区)


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旧道風景

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高校の跡地は国士舘の梅ヶ丘校舎、テニスコートは幼稚園になってました



・・・松原


地名の起源・地区の沿革

松原村という名称は元禄101616971703)年より以前に、経堂在家村の名主松原太郎左衛門の先祖で、世田谷城主吉良氏の家臣松原佐渡守の3兄弟が松原宿を開き、その宿の商人等がこの辺りを開墾したので松原と称するようになったというのが定説化しています。幕末の頃、旧松原村は、北を甲州街道、東を旧世田ヶ谷村・旧代田村、南を旧世田ヶ谷村、西を旧赤堤村に境する本村地区と、赤堤村の南端に接する飛地字山下並びに赤堤村の南端字木村と字新井とにはさまれたわずかばかりの飛地から成っていました。明治22年、市町村制施行により松原・赤堤・上北沢の3村が合併して新しく松沢村が成立し、旧3村の区域は大字となりました。昭和710月に東京市域が拡張され、松沢村は他の3町村と合併し世田谷区が成立し、松原1丁目から松原4丁目の区域整備が行われました。昭和30年に飛地整理が行われ、昭和39年から40年にかけて住居表示の実施に伴う町区域の変更により現在に至っています。(世田谷区)


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杓子稲荷神社/
梅丘1
御祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと) 室町時代、足利管領の下にあって権勢関東に響いた吉良治郎大輔治家は当時世田谷に城を築き、その鬼門鎮護としてこの地に伏見稲荷を招請、奉斉し厚く信仰しました。その後およそ200年を経た天正18(1590)吉良氏は、当時姻戚の間柄にあった小田原北条氏と運命を共にして豊臣秀吉の軍門に降り、当神社もまた衰滅に帰しましたが、後年松原宿の住民をはじめととする里人の再信仰するところとなり今日に至りました。なお、徳川幕府による元禄年間の検知帳にも当神社の所在は記されておりその鎮座のいかに古きかを知ることができます。 (杓子のいわれ) 杓子で食べ物を掬うは、救うに通じ、総ての病難・災難を払い、福徳円満 長寿開運、万福招来の象徴であります。御神徳 五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、交通安全、芸能上達の守護神としてあまねく信仰をあつめています。(説明板)


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旧道風景/豪徳寺1丁目

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鍵の手①               鍵の手②


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地域風景資産 古道・瀧坂道
この道は瀧坂道です。瀧坂道は世田谷を縦断している古道です。東は江戸(青山)、南はかつての武蔵国の国府があった府中に繋がっています。江戸時代初期に甲州街道が開設され以前はこの瀧坂道が江戸と府中を結ぶ一番重要な往還でした。往還とは街道のことです。現在の瀧坂道を東からやってくると、豪徳寺1丁目に入る所(松原宿)で左に90°曲がりS字をかいた後、今度は右に90°曲がりがあります。足利尊氏と祖を同じくする吉良氏は14世紀後半から16世紀終わりまで約220年間、世田谷を領国としました。その城跡は現在の豪徳寺の寺域とその周辺の付属地を含む一帯の区域と考えられています。吉良氏がここに居館を設けた理由の一つに交通の便があります。つまり西では府中に東では青山に通じる瀧坂街道に接し、南では溝口を経て矢倉沢の関所に通じる矢倉沢往還(大山道)に出られる場所だったからです。二つ目の理由は防衛上のものです。世田谷城のあった所は高台になっていました。北の方は北沢川という湿地帯があり、南の方には烏山川が流れ湿地帯になっていました。東からの侵入に備え城の東方約3kmの所、二つの川の合流点近くに多聞寺砦という出城を置き、西からの侵入に備えては常徳院、世田谷八幡、勝光院、大吉寺、円光院、勝国寺、杓子稲荷等の寺社を並べました。瀧坂道が松原宿で鍵の手に曲がっているのもS字カーブがあるのも防衛が目的で、吉良氏によって整備されたと考えられます。古道瀧坂道は平成19年に世田谷区の風景資産に選定されました。(豪徳寺駅周辺風景づくりの会)

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滝坂道のルート(説明板)

世田谷城址の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/21642253/


・・・
宮坂

この宮坂の地が歴史に上るのは寛治元年(1087)のことで、源義家が後三年の役に勝利してその帰路、世田谷八幡宮(宇佐八幡宮)を勧請したことに始まります。宮ノ坂の地名は、世田谷八幡宮(宇佐八幡宮)の東側の坂道を人々がそう呼んだことから名づけられたものです。また、宮ノ坂の地名は、住居表示実施以前世田谷3丁目にあった字名で、住居表示実施に伴い宮ノ坂の区域を拡大して町名としたことから、「ノ」を除いて「宮坂」としました。(世田谷区)


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左手が豪徳寺・世田谷城址、右手が世田谷八幡になります/世田谷線踏切


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常徳院

寺伝などによれば開基は足利義尚といわれる。本尊の十一面観音像は慈覚大師円円仁作と伝えられ、毎年820日の開帳には多くの人々が訪れている。曹洞宗に属し、本山は永平寺・總持寺、山号を「観谷山」という。常徳院には古い地蔵菩薩像がいくつか残されている。1735年(享保20年)10月造立の高さ150cm余の地蔵立像は女中念仏講中26名の寄進によるものであり、1865年(慶応元年)の地蔵立像は村中の寄進である。1777年(安永6年)に造立された六地蔵の台座には多くの銘が刻み込まれている。常徳院に敷地の境を接して乗泉寺世田谷別院(本門佛立宗)が存在する。Wikipedia)


d0183387_01030602.jpgわたしたちの宗旨 
宗名:曹洞宗(禅寺)といいます 
宗旨:曹洞宗はお釈迦さまより歴代の祖師によって相続されてきた「正法の仏法」をよりどころとします。座禅を修行の根本とし、座禅によって得られる身と心のやすらぎがそのまま「仏の姿」であると自覚し、仏道にかなった生き方をすることを目指します。
開宗:曹洞宗は今から800年ほど前の鎌倉時代に高祖道元禅師さまが日本に伝えてその基盤を確立されました。道元禅師さまが亡くなられてから50年後、太祖瑩山禅師さまが多くのお弟子さまとともに一層盛んにされました。このお二人を両祖としてお慕い申し上げています。
大本山:福井県吉田郡の永平寺(ご開山 道元禅師さま) 神奈川県横浜市惣持寺(ご開山 瑩山禅師さま) 
教義:わたしたちは仏さまと同じ「仏心」を与えられてこの世に生まれてきました。しかしその尊さに気づかすわがままをつくしています。そこでわたしたちは釈迦牟尼仏、高祖道元禅師さま、太祖瑩山禅師さま(一仏両祖)の御前で誓いを新たにし、仏の教えを信じ、仏の教えに導かれて本来の自分の姿(仏)に目覚め、まごごろに生きる実戦を深めなければならないのです。そこに生きがいと幸福を見出すのが曹洞宗です。
経典:「修証義」「摩訶般若波羅密多心経」「妙法蓮華普門品」等の諸経典(境内掲示書)


d0183387_01183421.jpg人生可もなく不可もなし お前はお前で丁度よい 顔も身体も名前も姓も お前にそれは丁度よい 貧も富みも親も子も息子の嫁もその孫も それはお前に丁度よい 幸も不幸もよろこびも 悲しみさえも丁度よい 歩いたお前の人生は 悪くもなければ良くもない お前にとって丁度よい うぬぼれる要もなければ卑下する要もない 上もなけば下もない 死んでいく日も月さえも その時期さえも丁度よい 人生いろいろ丁度よい み仏と二人連れ 丁度よくないはずがない 丁度よいのだと聞こえた時 憶念の信がうまれます



・・・経堂西通りへ

常徳院の先からの道は二筋あったようです。ひとつは直進して「すずらん通り」へ、もう一つは左折して福昌寺門前から「経堂西通り」へ。経堂小学校の前で合流しますが、まず西通りRを行ってみます。


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お地蔵さんで道が分かれます。ここを左折して経堂西通りへ/常徳院先


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二又の地蔵尊 







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旧道風景 住宅地ですがまだ畑が残ります


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「不老門」とありました        庚申塔/農大通り
            

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福昌寺/経堂駅裏
曹洞宗に属し、正式の名称は「経堂山福昌寺」といい常徳院(宮坂2丁目に現存)の末寺である。福昌寺は経堂在家村の東北に位置していた。この寺の開基となった松原土佐守弥右衛門は、中国から帰化した人物で江戸幕府に仕えていた医師であった。松原はこの近辺の地所のほとんどを所有していた。学識豊かで信仰心の厚い人物であり、世田ヶ谷村字宮ノ坂の常徳院から玄畝という名の僧侶(常徳院第8世住職という)を招き、屋敷内に寺を建立した。建立の時期については、1624年(寛永元年)または1626年(寛永3年)3月の2説がある。Wikipedia抜粋


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小田急高架を渡り左折         角に庚申塔


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経堂西通り商店街入口


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西通り商店街入口に地蔵尊       その先の二又に子育て観音

子育て地蔵尊の由来

地蔵および諸尊によりますと建立されたのは1175年(正徳5124日)で、当時の経堂在家村の48の講中の手によって建立されたとあります。当時、地蔵信仰が流行っており村の子供の将来の幸福と丈夫で育成が出来る様心をこめて建立したと古老より聞いている。また他説として流行病のため子供が亡くなりその供養とも言われているが、定かではないが、子供たちのすこやかな成長を願う子育地蔵であるとの方が正当かもしれないとのことである。(説明板)



・・・本町通り


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旧道風景 二又を直進すると経堂本町通りから経堂駅前にでます。


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経堂付近の地図
(赤:すずらん通りR 橙:経堂西通りR 緑:烏山川緑道 青:経堂駅・宮坂駅)



by Twalking | 2016-02-05 08:22 | 東京散歩(新規)