無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:東京散歩(新規)( 91 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 芝公園界隈03-芝&高輪   

日時 2017.6.10(土)
天気 晴


芝園橋まで来たので「薩摩の道」から東海道を歩いてみました。
ここは東海道五十三次で歩いた道なので懐かしいです。
「薩摩の道」「札の辻」「高輪大木戸」「泉岳寺」は定番です。

時間の制約はありますが「御田八幡」「東禅寺」は寄りたいところ、
それに海岸線、100mも入ると地形がよく分かりますし、体感できます。
その辺をテーマに歩きましたが、面白い所だと思います。


・・・芝/港区


港区のおよそ東半分を範囲とし江戸・東京の山手を構成している地域のひとつである。単純に述べると現在の港区の範囲のうち赤坂・青山・麻布・六本木を除くすべての町々が芝地域を指す。複数の大通りが交わり公共交通も複数路線があり港区内屈指の交通の要衝である。田町駅と三田駅周辺に広がるビジネス街として栄えており、大通りの裏には古くからの住宅街も混在している。また港区内の他の地域同様に大使館や教育施設も多く近年は高層マンションも増えている。江戸
時代の初めまでは豊島郡柴村・荏原郡金杉村・荏原郡上高輪村であった。戦国時代までに武蔵国荏原郡柴村が成立する。柴村は後に豊島郡の所属となる。江戸時代、東海道の整備によって柴村は急速に発展し、柴町・芝町とも呼ばれるようになる。またこの頃から柴村の周辺地域も「」と呼ばれるようになる。Wikipedia

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古川を渡って「芝薩摩のみち」から旧東海道を歩いてみました/芝園橋(日比谷通り)

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ここが薩摩藩上屋敷の中心部、「芝薩摩のみち」の案内板があります/芝3

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「薩摩のみち」説明板         薩摩屋敷跡の標柱/NEC裏


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薩摩のみち
薩摩島津藩上屋敷図(寛政2年・1790
この場所は広大な薩摩藩の上屋敷のほぼ中央部に位置します。詳しくご覧になれば屋敷内の部屋取りや蔵、馬や、庭園の池、池に架かる橋、能舞台などがあった様子が見てとれます。倒幕から明治維新を迎える時代の流れの中で歴史の舞台となった場所でもあります。(「薩摩のみち」説明板)





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今昔散歩重ね地図
(万延3年・1860
江戸時代の芝周辺には多くの大名屋敷がありました。なかでも薩摩藩の上屋敷は周辺地域最大規模の屋敷であったことがわかります。上屋敷は現在の第一京浜から日比谷通りをはさみ三田通り(桜田通り)まで東西約800m、南北約300mお敷地を有していました。(薩摩のみち」説明板)(緑:東海道 青:古川 橙:薩摩藩蔵屋敷を着色)

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江戸切絵図芝高輪絵図
(安政4年・1857
芝周辺の陸地化は発掘調査の結果、弥生時代の頃はだいぶ進んでいたことが明らかになりつつありますが、本格的な開発は江戸幕府の成立以降とともに始まります。その頃の海岸線は現在のJR「田町」駅より内陸よりにあり、この場所一帯は大名屋敷や町家、
寺社などが軒を連ねるようになります。また当時の東海道(現在の第一京浜国道)の辺りには江戸入り、旅立ちの人々のための一服茶屋も立ち並んでいました。(「薩摩のみち」説明板)











・・・本芝

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中古の時代には豊島郡柴村と呼ばれ、海辺に漁家が点々とした土地でした。柴村を芝村と書くようになった時期は定かではありませんが天正15年(1587)の文書には芝村と記されています。半農半漁の民がここを開拓し、やがて家康入府(天正18.1590)の後、しだいに発達し商家もでき代官支配の町場となっていきました。寛文2年(1662)に町奉行支配となって名実ともに市街地となり、往時の芝村であるというので本芝と呼ばれるようになりました。(芝地区旧町名由来板)


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東海道です、海側に薩摩藩蔵屋敷がありました/三田駅前(第1京浜)

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勝・西郷の会見地/芝5
この敷地は明治維新前夜慶応4314日、幕府の陸軍総裁勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」を行なわれた薩摩屋敷跡の由緒ある場所です。この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で、当時薩摩藩国元より船で送られてくる米などはここで陸揚げされました。(説明板)

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薩摩蔵屋敷の東側には御穂(みほ)鹿島神社が鎮座してます/


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御祭神:御穂鹿島神社藤原藤房卿
後村上天皇の頃この芝浦に気高き一老翁あった。先に禁闕に奉仕の身であったが、南北両朝の時とてその逆浪を避けてこの地にさすらい、俗人の中に交りてささやかなる庵を結び住んでいた。そのころ此の地は戸数幾ばくも無く、漁村で師もなく医もなく村人粗野朴訥礼節も備わらず、翁深くこれを憐み忠孝に義を教へ導いたが、翁の罷り給うた後、その高徳を慕って住んでいた庵の跡に仮に宮所を設け奇霊を斎い祀り、尉殿の宮と崇めたりという。この翁こそ藤原藤房卿であったと伝えられる。(東京都神社名鑑)

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本芝公園
この付近は芝の中でも古川河口三角州に江戸時代よりも昔から開けたところで、本来の芝という意味で本芝と呼ばれた。公園の位置は東海道(現在の第一京浜国道)のうらあたりのに面した砂浜で、江戸時代には魚が水揚げされたので雑魚場(ざこば)と呼ばれた。明治5年に開通した鉄道は軍部の意向で海上の堤防を走ったが、雑魚場はガード下から東京湾に通じていた。最後まで残っていた江戸時代の海岸線であったが芝浦が明治の末から次第に埋め立てられ、漁業も行われなくなって海水が滞留したので、昭和43年に埋め立て本芝公園として開園した。(芝地区総合支所協同推進課)

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雑魚場跡
このあたりは東京湾から小さな入り江となり、昭和37年末まで漁業基地として使用されていた。雑魚場(ざこば)の名は江戸時代前期より本芝・金杉の漁民が東海道往還に出て鮮魚を商うようになり、雑魚を中心とした魚市が立ったことから呼ばれるようになった。江戸時代、本芝・金杉の両浦は将軍家食膳に供される「御采」上納の元締めの地位を占め、江戸湾内44の羨望の的であった。芝の漁業の主流となったのは延網漁、網漁、鰻漁、海苔養殖である。中でも芝の名を冠した「シバエビ」漁は代表的なものであった(標柱)(橙:東海道 赤:薩摩屋敷)

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御菜浦(おさいうら)
領主のための御菜(おかず)の原材料となる海産物を献上していた漁村のこと。特に著名なのは徳川将軍家のために江戸城に海産物を献上していた芝金杉浦(現在の芝)・本芝浦(現在の芝浦)・品川浦(現在の品川)・大井御林浦(現在の大井・東大井)・羽田浦(現在羽田)・生麦浦(現在の生麦)・子安新宿浦(現在の子安)・神奈川浦(現在の神奈川)の8つの御菜浦で、いずれも現在の東京湾に存在して御菜八ケ浦と称された。これらの漁村は後北条以前から御用を勤めていた漁村と上方方面から招き入れられて新たに漁村として開拓されたものに分けられる。これらの漁村は幕府に海産物を献上する代わりに東京湾における漁業における特権を有していた。Wikipedia

芝海老
江戸の芝浦(現在の東京都港区)あたりでとれるエビであることからの命名。江戸時代の芝浦は生きのいい魚のとれる宝庫で、このあたりでとれる魚を「芝魚」「芝物」といった。(語源辞典)

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海からみる海岸線、鉄道は海を通していたんですね、実感します/連絡通路

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入口側(北)              出口側(南)

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線路の向こう側にはモノレール、大きくカーブして羽田へ向かっています/芝浦公園

東京モノレール羽田空港線
港区のモノレール浜松町駅から大田区の羽田空港第2ビル駅までを結ぶ東京モノレールのモノレール路線である。1964年秋の東京オリンピックの開催で日本国内外からの羽田空港利用客の都心へのアクセスの改善を目的として建設され、1010日の東京オリンピック開会式前の917日に開業したWikipedia


・・・田町


むかしは荏原郡上高輪村と呼ばれていました。
芝浦の渚に近い田畑が町家と変わっていったので芝田町と称されるようになりました。寛文2年(1662)町奉行支配となって1丁目~9丁目に分けられ、安永5年(1776)に海を埋め立て町域を拡げました。明治5年(1872)武家屋敷だったところや寺社地を合併しました。江戸の頃は東海道を行き来する人々で賑わい諸大名の浜屋敷が多くあった処です。
(芝地区旧町名由来板)

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田町駅の先で桜田通りが合流します/札の辻


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札の辻
江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられて布告法令などが掲示されたところから札の辻と呼ぶようになりました。元和2年(1616)には芝口門をここに建てて、江戸正面入口としての形式を整えました。この門は「日暮御門」(ひぐらしのごもん)といわれましたが、これはこの東がすぐ江戸湾に接し海を隔てて房総の山々を望む一日眺めてもあきない景色であったためといわれます。その後高札場は天和3年(1683)に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されました。また、宝永7年(1710)に芝口門は新橋北側に建て替えられ、ここは「元札の辻」と呼ぶようになりましたが明治維新後はまた「元」を略して「札の辻」と呼んでいます。(港区教育委員会)

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御田八幡神社
(みた)鳥居/三田

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御田八幡神社
誉田別尊命(ほんだわけのみこと八幡上)を主祭神とし、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武内宿彌命(たけのうちすくねのみこと)を配祀とする。海側斜面に位置する。江戸時代には直ぐ正面に東海道が走り、その向こうは江戸湾の海浜が開けさぞかし風光明媚であったと考えられる。明治40年代芝浦の埋め立てが始まりその面影を失うことになる。周囲の木々の剪定は最低限にとどめられあたり一面薄暗く蕭蕭とした雰囲気を漂わせている。

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和銅2年(7098月東国鎮護の神として牟佐志国牧岡の地に祀られたのに始まる。寛弘7年(1011)武蔵国御田郷久保三田に遷座し、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。延喜式神名帳には「武蔵国荏原郡 稗田神社(ひえだじんじゃ)」として記載されている。ただし「延喜式内稗田神社」は大田区蒲田の稗田神・東六郷の六郷神社も論社となっている。徳川家康の江戸城入城の際に奇瑞があったことから、現在地である荏原郡上高輪村海岸を開拓して社殿を造営し、寛文2年(16628月に遷座が行われた。しかし、寛文82月の大火により社殿は全焼、仮殿が伊皿子坂薬師寺に置かれた。寛文128月に社殿が再建され再度遷座された。慶応元年(1865)に神祗官により延喜式記載の「稗田神社」に改称、明治5年(1874)に「三田八幡神社」に改称し、郷社に列した。明治30年(1897)に「御田八幡神社」に復した。昭和20年の東京大空襲で寛文12年造営の社殿が焼失し戦後の昭和29年に復興された。Wikipedia
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江戸名所図会 三田八幡宮 (
わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

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田町駅周辺地図
(赤:東海道 橙:中原街道 緑:日比谷通り 青:古川)

中原街道(三田)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22220930/



・・・高輪

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この地は海より眺めて高台の縄手道から「高縄手」と称されていましたが、転じて「高縄」から「高輪」となりました。古くから海沿いに人家が点在していましたが、江戸初期に幕府が参勤交代の東海道を整備し、これにより街道沿いに町が広がっていきました。この地域には大木戸、願生寺、泉岳寺、東禅寺など多くの名跡があります。(港区旧町名由来板)

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片側だけですが「高輪大木戸」跡の史跡が残ります/大木戸跡(第1京浜)

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高輪大木戸
高輪大木戸は江戸時代中期の寛永7年(1710)に芝口門に建てられたのが起源である。享保7年(1724)に現在地に移された。現在地の地区年に宝永7年説・寛政4年(1792)など諸説がある。江戸の南の入口として道路幅約六間(約10m)の旧東海道の両側に石垣を築き、夜は閉めて通行止めとし治安維持と交通規制の機能をもっていた。天保2年(1831)には札の辻(現在の港区芝5丁目)から高札場も移された。この高札場は日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋内、半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。

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京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近には茶屋などもあって、当時は品川宿へ至る海岸の景色も良く、月見の名所であった。江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は海岸側に幅5.4m、長さ7.3m、高さ3.6mの石垣のみが残されている。四谷大木戸は既にその痕跡を留めていないので、東京に残されて数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定されている(東京都教育委員会)
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江戸名所図会 高輪大木戸 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

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継ぎ足してるんですね、長いトンネルです/高輪大木戸先

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入口側                トンネル内
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『新撰東京名所図会・高縄鉄道之図』
その当時は田町~品川間2.7kmは海上に幅6.4mの堤防を築き、その上に線路を通していました港区旧町名由来板)
港区旧町由来名板)

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泉岳寺山門/高輪

山門
この門は天保3年(1832年)34世大道貞釣(だいどうていきん)和尚代に再建されたものです。二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ銅彫大蟠龍がはめ込まれています。「泉岳寺」の額は晋唐の墨蹟研究者であった大野約庵による書です。(泉岳寺HP)

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萬松山泉岳寺
泉岳寺は曹洞宗の寺院です。曹洞宗のご本山は2つあり1つは道元禅師が開かれた福井県の永平寺、もう1つは横浜鶴見の総持寺です。道元禅師の主著は仏教の神髄を表した「正法眼蔵」という95巻に渡る書物です。さて、泉岳寺は慶長17年(1612)に「門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。(現在のホテルオークラの近く)しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ高輪に移転した泉岳寺はできあがったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して諸国の僧侶名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。その家風は引き継がれており、人数は少ないものの大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が現在もいます。(説明板)

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中門 
この門は総欅造りで天保7(1836)35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたものです。また昭和7年に大修理が施されています。「萬松山」の額は中国清代の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい)による書です。(泉岳寺HP)



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大石内蔵助良雄銅像
この銅像は浪曲の宗家・桃井軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、所有が転々としていましたが泉岳寺に寄進され、大正101214日に除幕したものです。内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身に付け、連判状を手にして東の空(江戸方面)をじっとにらんでいる姿を表したものです(説明板)

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浅野長矩(ながのり)
及び赤穂義士墓所門
切妻造、本瓦葺、一間一戸棟門で、もとは赤穂藩浅野家の鉄砲州上屋敷(現中央区)の裏門として建築されたものです。大石良雄が屋敷を訪れる際によく出入りした門といわれ、明治初年に取り払われる際にこの場所に移築されました。大名屋敷の江戸藩邸門の様式を残す遺構として大変貴重です。(港区教育委員会)

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血染めの梅・血染めの石
浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際、その血がかかったと伝えられている梅と石です(説明板)



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瑶池梅
義士の墓守りをした堀部妙海法尼が瑶泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものです。(泉岳寺HP)




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首井戸
義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。(泉岳寺HP)
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義士の墓

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浅野長矩公之墓             浅野長矩夫人之墓


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義士墓解説
赤穂城主浅野内匠頭
長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して刃傷に及びし咎により即日切腹を仰せ付けられた。家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に四十七士が結束して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄15年(17021214日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供へ成就を報告し、敢えて官に裁きを求めた。義士一同は1215日夕刻細川家(17名)、松平家(10名)、毛利家(10名)、水野家(9名)の四家に預けられた。翌元禄1624日幕府は苦心の末、武士の体面を立て切腹せしめた。直ちに主君の墓側に各々四家に分けて葬られた。(説明板)

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江戸名所図会 泉岳寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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高輪海岸の石垣石/高輪
ここに展示されている石は、江戸時代に高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。平成7年(1995)高輪2丁目20番地の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。石垣には主に相模湾岸から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています(港区教育委員会)

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桂坂
港区高輪2丁目12番と3丁目19番の境界に存在する坂である。坂上には高輪警察署や高野山東京別院、高輪消防署二本榎出張所や都営バス「高輪警察署前」停留所が、坂下には都営バス「高輪北町」停留所がある。由来は、かつて蔦葛(つたかずら)がはびこっていたから、また、鬘をかぶった僧侶が品川からの帰途、急死したことによるともいわれる。桂はよい字を当てたもの。Wikipedia

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東禅寺仁王門/高輪

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東禅寺
東禅寺は幕末の安政6年(1859)最初の英国公使館が置かれた場所です。幕末の開国に伴い安政6年6月初代英国公使館(着任寺は総領事)ラザフォード・オールコックが着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(1865)6月まで7年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(18615月には尊王攘夷派の水戸藩浪士に、翌25月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが著した「大君の都」には東禅寺の様子や東禅寺襲撃事件が詳述されています。東禅寺は臨済宗妙心寺派に属し、開基の飫肥藩主伊藤家の他、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家等の菩提寺となり、また臨済宗妙心寺派の江戸筆頭でもありました。現在の東禅寺の寺域は往時に比べ縮小し建物の多くも失われていますが、公使館員の宿所となっていた「僊源亭」(せんげんてい)やその前の農園などは良好に残っています。農園と僊源亭を含めた景観は公使館時代にペアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝える唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。(東京都教育委員会)

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東禅寺裏の石仏群              台地へ上る坂

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江戸名所図会 東禅寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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品川駅が見えてきました、品川宿はもう少し先です

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品川駅創業記念碑
明治59月の新橋・横浜間開通に先立つ5月、品川・横浜間が仮開業しました。当時の品川駅は現在より少し南寄りで、駅舎は海岸にあり岩床に打ち砕ける海水の飛沫で、客車の窓は全部閉めねばならなかったといわれています(港区観光協会)

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高輪周辺地図(昭和31年頃)
(赤:東海道 橙:中原街道)

中原街道(高輪)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22226945/

by Twalking | 2017-06-17 19:24 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 芝公園界隈02-芝大門   

日時 2017.6.10(土)
天気 晴


芝公園をぐるりっと一周すると約4kmですが、
距離では測れない歴史が詰まっています。
東海道や中原街道など絡めても面白いですね。

緑も豊かですし、寺社や史蹟も一杯
のんびりと散策するにはいいコースです。
久し振りの芝公園、お子さん達と楽しく歩きました。
どうもありがとうございました。


・・・芝大門

港区の北東に位置し北は新橋に、東は第1京浜(国道15号)を挟んで浜松町、南は古川(渋谷川)をはさんで芝に、西は日比谷通りを挟んで芝公園に接する。町域の東端に都営地下鉄の大門駅があり、西端には増上寺の大門がある。当地域は増上寺門前町として発展した場所であり、多くの狭小な町が混在しており中心となる大きな町が存在しなかった。そのため当地域の俗称である大門(増上寺の大門に由来)を新町名に採用することになった。
Wikipedia

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大門
増上寺の朱く塗られている総門は俗に大門(だいもん)と呼ばれている。江戸時代には門の手前に橋が架かり下馬札が立っていた。

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芝神明は平安時代に造られたという江戸有数の古社で、芝居のめ組のけんかなどでも有名である。これは江戸時代のしょうが市の光景で、今日でも911日から21日まで長く続くためだらだら祭りの名がある。背景は2代広重、人物は3代豊國の筆、元治元年(1864)江戸自慢36興の一枚(案内板)

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芝神明(しばしんめい)
俗に芝神明と称された現在の芝大神宮は江戸の有数の神社のひとつである。往年の参詣の人々や商人たちの生き生きとした姿が描かれている。新板浮世絵 芝神明之図/歌川国丸(案内板)



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めぐ組のけんか
文化2年(18052月(一説)芝神明の境内で勧進相撲を興行していた力士と町火消め組との間でかんがが起きた。これが後に江戸っ子気質の典型として評判になりました。芝居「神明恵和合取組」(かみのめぐみわごうのとりくみ)のモデルとなった(案内板)

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芝大神宮鳥居/
芝大門


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芝大神宮
もともとは単に「神明」あるいは「神明宮」と称していたが、武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから「日比谷神明(日比谷神明宮)」と、また飯倉御厨(後の武蔵国飯倉庄)に鎮座していたことから「飯倉神明(飯倉神明宮)」と、さらに芝の地に住民が居留して町の様相を呈するに及び「芝神明(芝神明宮)」とも称されるに至った。伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い「関東のお伊勢様」とも尊称された。

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市井においては東海道沿線で江戸市中と市外の
境界線上(近くに金杉橋あり)に鎮座し、増上寺も隣接することから江戸時代に入って参詣者が増え江戸から出府する旅人にとっては道中無事を、入府する旅人にとっては道中無事の報賽をといった祈願が行われた。さらに江戸時代にはお蔭参りといわれる伊勢神宮への参拝が数多く見受けられるが、高額な旅費と長期間の旅程を要し、容易に行うことは難しかったため代わりに伊勢神宮の祭神を祀り江戸市中に鎮座する当神社への参詣者が増えていったと考えられる。

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参詣者が増えればそれを当て込んで参道に数々の出店が見られるようになり茶屋、揚弓場、吹き矢、花の露屋(化粧品)、角力、手妻(手品)、軽業、剣術、富籤興行、岡場所(非公認の私娼屋が集まった遊郭)・陰間(かげま・男娼)などの風俗店や、芝居などの見世物小屋で賑わい、特に芝神明の太々餅は土産物として評判を呼び名物となった。更に、江戸で出版された娯楽絵本の版元で、地本問屋として名を馳せた和泉屋が天明頃(
1781-89年)には当神社近隣に店を構えていたといわれ、この界隈はマスコミの拠点にもなっていた。(Wikipedia
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大門から三門への参道も雰囲気がありますね/大門通り

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港区区役所の前に続く松原も憩えます/6号地

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松原の復元
芝公園のうち増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原と呼ばれています。それは寛永17(1640)増上寺20世大僧正南誉上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百本松原と称したことによるとも伝えられています。松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変わりました。ここは江戸時代の番所跡と伝えられ、土塁にはさまれた通路がカギ形をしています。都は園地改修にあたり原形を残すとともに往年の松原を偲ぶものとして黒松を植え、月見をイメージしたモニュメントを設置しました。(東京都)写真:平和の女神像/区役所正面

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浅岡飯たきの井の由来
江戸時代ここに良源院(増上寺の子院)があり、仙台伊達家の仕度所として藩主等の増上寺参詣の折などに使われていた。万治3年(1660年)の伊達騒動の際に嗣子亀千代(後の綱村)を毒殺から守ろうとして、母の浅岡の局がこの井戸の水を汲んで調理したと伝えられる。昭和62年(1987)新庁舎開庁にあたり旧庁舎中庭にあったものをここに移設して保存した。(案内板)

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参道を越えるとペリーの碑があります、日比谷通りの向かい側は東照宮/10号地

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ペルリ提督の像
昭和28720日の日本開国百年記念祭挙行のとき、東京都民からニューポート市に石灯籠1基を贈りました。その答礼として贈られたのがこの像です。(東京都公園協会)


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万延元年遣米使節記念碑
西暦186029日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。副使村垣淡路守範正の詠にいう『竹芝の 浦波遠く こぎ出でて 世に珍しき 舟出なりけり』 遣米使節渡航より百周年にあたり日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。19606月日米修好通商百年記念行事運営会(案内板)


・・・芝公園

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慶長3年(1598)徳川家康によって現在の場所に移された三縁山増上寺の境内で、上野の寛永寺と並び称される江戸名所の一つでした。一時三縁山の名をとって三縁町と称されましたが明治6年(1873)宮内省の管轄地となって公園に編入され、芝公園と定められました。有史以前より人が住む土地であったと考えられ、貝塚や古墳等が残っています。(大正10年(1921)地図/港区旧町名案内板)
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芝東照宮鳥居

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芝東照宮
港区にある東照宮。祭神は徳川家康。神体は徳川家康寿像。旧社格は郷社。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つとされる。芝公園の一角にあり元来は増上寺内社殿であった。徳川家康が慶長6年(1601年)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を自身が駿府城に於いて祭祀していた。元和2年(1616年)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言した。同年10月に着工し翌元和3年(1617年)2月に竣工した。

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この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」より「安国殿」と呼ばれた。これが芝東照宮の起源である。明治初期に神仏分離令により増上寺から切り離されて芝東照宮となった。本殿は大正4年(1915年)旧国宝に指定された。しかし、昭和20年(1945年)525日の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残しあとは全て焼失した。昭和44年(1969年)現在の社殿が再建された。(Wikipedia

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東照宮のイチョウ
芝東照宮は、以前は増上寺安国殿と呼ばれ『江戸名所図会』にもその姿が見られる。明治の神仏分離によって増上寺から切り離され東照宮となった。このイチョウは寛永18年(1641)安国殿の再建に際し3代将軍徳川家光が植えたものと伝えられている。昭和5年(1930)に史蹟名勝天然記念物保存法に基づいて国の天然記念物第2類(地方的なもの)として指定されたが、昭和27年に文化財保護法が改正された一時国指定は一旦解除され、その後昭和31年に東京都の文化財保護条例に基づき指定し直され現在に至っている。平成5年(1993)の調査では高さ約21.5m、目通り幹囲約6.5m、根元の周囲が約8.3mある。(東京都教育委員会)

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銀世界の梅
この梅林は今の新宿区西新宿3丁目の東京ガス敷地にあったもので、江戸時代は「梅屋敷銀世界」と言われていたものを明治4142年ごろ16号地グランドの西側に移植されたが、道路拡張にともない昭和41年にこの1号地に移されました。この石碑は琉球の棟応昌の筆によるもので、梅屋敷内にあったものです。(説明板)

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大イチョウと東京タワー/芝東照宮

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東照宮の奥一帯は丸山と呼ばれたところ、ちょっとした幽谷になっています

d0183387_14273001.jpg東京都指定史跡芝丸山古墳
全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40mくびれ部幅約22mほどの都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約16mの台地端に位置し前方部を南南西に向けている。江戸時代以降原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治31年に日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪を伴うことは知られている。前方部が狭く低い形態や占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ付近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた南武蔵の族長の墓だったと考えられる。(東京都教育委員会

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円山随身稲荷大明神/芝丸山古墳
円山稲荷は増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。随身稲荷の由来は増上寺がこの地に移建当時、桑名よりお迎えした御本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神であります。(大本山増上寺

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丸山の頂上に伊能忠敬の顕彰碑が建っています。

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伊能忠敬測量地遺構標表 
伊能忠敬先生は1745年(延享2年)上総國に生れて下総國佐原伊能家を嗣ぎ、村を治めて後50歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして、全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって続けられ、わが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。その偉業は引きつがれて1821年、大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられ、その精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり、参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである。東京地学協會はその航跡を顕彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが、不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。扔つて今回各方面の協賛を得この碑を再建した次第である。19655月社団法人東京地学協會 會長細川護立(碑文)

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東側に下るとパークタワーの庭園に出られますが、日比谷通りに戻ります

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芝公園の西端には古川が流れています/芝園橋(日比谷通り)

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古川
天現寺橋下の笄川(こうがいがわ)合流点から浜崎橋先の河口までの4.4kmの二級河川。古川は江戸時代から昭和初期頃までは新堀川、金杉川とも言われていたが現在は使われていない。天現寺橋から下流の古川では古い石積護岸が今も残る。赤羽橋から河口までは昭和30年代から防潮堤が整備されているWikipedia

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港区旧町名案内
新堀河岸
古川南岸赤羽橋から将監橋の間にあたる河岸地で、江戸時代はとくに名はなく荷上げ場などに使われていました。薩摩鹿児島藩の荷揚げ場があったことから俗に薩摩河岸とも呼ばれていました。新堀河岸といつごろから呼ばれていたかは不明ですがおそらく明治時代になってからの里俗と思われます。船運の便があるため木材、石材、竹材、米塩、薪炭などの商店が多くあったようです。

栄町
正徳3年(1713)に幕府が御霊御掃除(おたまおそうじにん)に与えた土地で芝御霊屋敷掃除屋敷と呼ばれていました。明治2年(1869)芝御霊屋敷掃除屋敷と金地院拝領屋敷を合併して芝栄町となりました。明治5年さらに近傍の旧鯖江藩邸、武家地、寺社地を合併しました。栄町とした理由は不明ですが町の繁栄を願ってつけたのではないかと考えられます。

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芝地区ちぃまっぷ
(赤:旧東海道・中原街道 橙:日比谷通り・大門通り 青:古川)

by Twalking | 2017-06-14 20:18 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 芝公園界隈01-『TOKYOウオーク2017』   

日時 2017.6.10(土)
天気 晴れ 


『TOKYOウオーク2017』の手伝いで
久振りに芝公園に行ってきました。
朝方コースをひと廻り、緑が多くていいですね。

南を旧東海道、北が中原街道が通り
増上寺を囲むように25区画の公園になっています。
それぞれに寺社や旧蹟などがあって楽しめます。


・・・芝公園/港区

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芝公園地図(橙:日比谷通り・中原街道(桜田通り)・参道 青:古川・首都高)

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芝公園
公園がまだなかった江戸時代、江戸は庭園都市と呼ばれるほどで多くの庭園がありました。しかしこれらは大名や旗本などの屋敷がほとんどで、江戸庶民にとって身近に楽しむことができた緑に触れ合えるリクリエーション等の場としては、寺社境内や徳川吉宗が設けた数少ない花見の名所等でした。明治に時代が移り新政府が打ち出した日本初の公園制度、明治61873)の太政官布達第16により公園が誕生しました。その後、明治20年(1873)めでに江戸時代からの花見の名所や社寺境内など全国81ヶ所の公園が指定されました。上野の寛永寺と共に江戸の花見の名所だった増上寺を中心とした芝公園は上野、浅草、深川、飛鳥山と共に明治6年東京で最初の公園に指定されました。徳川将軍家の菩提寺増上寺の境内を取り込んだ形で公園化を図り、広大な敷地は125号地に区画されました。現在も公園では号地のままで親しまれています。当初は増上寺の境内を含む広い公園でしたが、戦後に新憲法が施行され政教分離によって増上寺の境内部分が除かれ現在の公園となりました。(芝公園設計図明治43年(1910)長岡安平と推定される/案内板)


・・・御成門

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左手4号地がメイン会場、反時計回りで一周します/図書館入口(日比谷通り)

日比谷通り

国道1号・国道20号・都道403大手町湯島線・都道409号日比谷芝浦線の各路線の一部を南北に継ぐ東京都通称道路名設定公告で告示された道路の通称である。神田橋交差点-日比谷交差点-芝五丁目交差点。Wikipedia

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御成門
増上寺(徳川家の菩提寺)の裏門としてつくられたが、もっぱら将軍が参詣するさいに用いられたので、『御成門』と呼ばれるようになった。初め『御成門』は、現在の御成門交差点にあったが明治二十五年の東京市区改正計画で内幸町から増上寺三門を経て芝公園に至る道路が新設された際にこの位置に移築された。その後、増上寺三門や旧庫裡門・徳川家墓地の惣門・二天門とともに関東大震災や太平洋戦争の戦火から難をのがれて今日に及んでいる。(東京都港区教育委員会)

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東京慈恵医大
1881年(明治14年)に創立された成医会講習所が起源。1891年(明治24年)昭憲皇太后の意向を受け東京慈恵医院医学校と改称された。その後、1903年(明治36年)専門学校令を受けて日本初の私立医学専門学校として東京慈恵医院医学専門学校となる。さらに1921年(大正10年)に大学に昇格し東京慈恵会医科大学となった。これは大学令に基づく日本の私立の旧制大学の中で最も古い単科の医科大学である。Wikipedia

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愛宕隧道(全長76.6m 昭和5年完成 一方通行)を抜けて桜田通りを右折します。左手に上りのエレベターも付いてます

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愛宕山
港区愛宕にある丘陵である。一帯の愛宕神社境内には三等三角点があり25.7mの標高が記録されている。天然の山としては東京23区内最高峰。人造の山の最高峰は新宿区の箱根山・45m江戸時代から愛宕山は信仰と山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさで有名な場所であった。山上にある愛宕神社はもとは1603年にこれから建設される江戸の防火のために徳川家康の命で祀られた神社であったが、「天下取りの神」「勝利の神」としても知られ、各藩の者たちは地元へ祭神の分霊を持ち帰り各地で愛宕神社を祀った。Wikipedia


・・・神谷町

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中原街道です、神谷町交差点を左折します/桜田通り

桜田通り

国道1号の桜田門交差点から西五反田1丁目交差点までの区間の通称。中世以前から存在する古道であり、徳川家康によって江戸時代の東海道が整備されるまでは江戸から西への街道(小田原街道・中原街道)であった(Wikipedia)

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光明寺本堂/虎ノ門


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光明寺
浄土真宗本願寺派天正19年(1591)徳川家康と親交のあった光明寺第17世住職証高が、境内の紅梅に和歌を添えて献上し家康をたいそう喜ばせた。そのことを縁として毎年正月の幕府への寺社献上の第一番として光明寺の梅が献上された。正保2年(1645)三代将軍徳川家光が光明寺に立ち寄った際、家康が光明寺の梅を喜んだ故事を聞き山号を梅上山と改めるよう命ぜられた。これにより以後、梅上山光明寺と称するようになった。(光明寺縁起)

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明和の大火死者供養墓(港区指定文化財)
明和9年(1772229日の午後、目黒行人坂の第円寺より出火した火事は強い西南の風に勢いを増し、麻布・虎ノ門から江戸城郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草などに延焼、千住まで達して翌晦日の午後にようやく鎮火しました。いわゆる「目黒行人坂火事」で、明暦3年(1657118日の「振袖火事」以来の江戸の大火であったといわれています。この火事で類焼した大名屋敷は169、町数は934、橋は170、寺は382にのぼったと記録にあります。死者は14700人ほかに行方不明者も4000人を超えています。光明寺の過去帳によれば、境内の山の上に避難した男女90人が焼死し寺の本堂・勝手・諸堂も残らず焼失したとあります。この供養墓はこの惨事に心を痛めた当時の住職が焼死者の供養のために建立したものです。のちに墓は山の上から現在地に移されましたが、火災による惨事を現在まで記憶にとどめるものとして貴重です。(港区教育委員会)

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港区立御成門小学校
所在地は芝公園に隣接しており東京でも最も長い歴史を持つ公立小学校のひとつである。東京府が1870年(明治3年)に初めて設置した仮小学第6校のうちの一番校「東京府小学第一校」に遡る。現在の御成門小学校はこれまで多くの学校が統合された結果として存在しており、源流となっている小学校は6校に及び近年の統廃合によってさらに2校が御成門小学校に合流している。Wikipedia


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御成門小右折/愛宕2(愛宕下通り)    東京プリンス右折/芝公園3

東京都道301
号白山祝田田町線

文京区と港区を結ぶ主要地方道(起点:千石前交差点 終点:札の辻交差点9.3km)である。都心中枢部の区域をほぼ南北に通る。通称は白山通り・内堀通り・愛宕下通り・桜田通り。Wikipedia)中原街道(桜田通り)

愛宕山・飯倉の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22208592/


・・・東京タワー

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いい森ですね、休憩地になります/芝公園23号地

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歩道から園路に            芝公園10体地蔵尊/23号地

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『こともウオーク』コースはのっぽん君とご対面


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東京タワー/20号地
総合電波塔の愛称である。正式名称は日本電波塔1958(昭和33)竣工。東京のシンボル・観光名所として知られる。高さは333mと広報されており、塔脚の間隔は88.0m。総工費約30億円、1年半と延べ219,335人の人員を要して完成した。地上125m(海抜約150m)と223.55m(海抜約250m)に展望台を有したトラス構造の電波塔である。Wikipedia

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左が19号地のもみじ谷です       右が18号地「うかい鳥山」があります

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もみじ谷、ここは紅葉が美しい森です/19号地

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信号横断すると弁天池、この先のスロープからパークタワーへ/1号地

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宝珠院本堂

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宝珠院弁財天の縁起
開運出世辨才天三井寺の開山智証大師が858年竹生島で奇縁に依り彫られ、その後源家に伝わり再興に当り頼朝公深く信仰し天下を平定される。又徳川家康公も厚く信仰され、天下の平和を築かれ除波辨才天を改め開運、出世辨才天と改称されました。古来より一心に崇敬拝する者に開運出世、巳成金福寿、円満厄難消滅、縁結びの利益を授けられ、現在港区七福神の一つに制定されている。(境内掲示)


・・・パークタワー

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パークタワー&芝生の庭園、広々としてくつろげます/1号地

ザ・プリンス パークタワー東京
2005年に徳川家霊廟跡に存在した「芝ゴルフ場」跡地に「東京プリンスホテルパークタワー」として開業Wikipedia

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バラ園の園路             浜松町方面のビル群

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勅額門跡               惣門への下り階段             

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水路跡
ここに並べられて石垣石は増上寺山内松山に造営された台徳院(2代将軍徳川秀忠公)霊廟の惣門前に構築された水路に用いられていたものです。台徳院霊廟は寛永9年(1633)台徳院の死後まもなく造営が始められ、およそ1年後に竣工したことが記録にあります。

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水路は砂地の上に組み上げられた石垣を壁としており、これらの石垣石は壁としておりその建材の一部です。平成14年(2002)に行われて発掘調査によって、この石列の真下地下およそ8mの位置で発見されました。石垣は最も良好な箇所で4段検出されました。石材として相模から伊豆にかけての地域で切り出された安山岩が用いられていますが、形や大きさがまちまちです。最下段の石垣には宝永の火山灰の付着が確認され、刻印や墨書を認めるものもあります。かつての旧御成道(現在の日比谷通り)から御霊屋への通路には、惣門手前までこの水路を渡りました。往時、水路には清らかな水が流れ、発掘調査では惣門手前に架けられていた橋台の一部も検出されました。(説明板)

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台徳院霊廟惣門(正面)

江戸幕府2代将軍徳川秀忠の霊廟建築で増上寺に造営された。台徳院霊廟は増上寺本堂南側の南御霊屋に東を正面として営まれた。所在地は現在の港区芝公園、ザ・プリンスパークタワー東京の敷地にあたる。霊廟の北には隣接して宗源院(秀忠夫人)霊牌所があった。勅額門、丁字門、御成門の3棟は埼玉県所沢市に移築されたWikipedia

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港区指定有形文化財(彫刻)木造仁王像・二躯
重要文化財『旧台徳院霊廟惣門』の左右に安置している寄木造り、砥粉地(とのこじ)彩色の仁王像で、方形の台座に乗った岩坐(いわくら)の上に立っています。平成16年から17年に行われた修理の際に体内から修理銘札が発見され、元は埼玉県北足立郡戸塚村(現在の川口市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもので、寛政元年(1789)、弘化3年(1847)の2度にわたり修理が行われていることがわかりました。さらに安政2年(1855)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、昭和23年(1948)同寺三重塔の修理と同時期に3度目の修理が行われた後で、東京浅草寺に移されたことも記載されています。その後の経緯は詳らかではありませんが、昭和33年ごろまでにはこの惣門に安置されたと考えられます。本像は18世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示す貴重な作品です。像高:阿形243.5cm 吽形247.0cm(港区教育委員会)


・・・増上寺

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増上寺境内

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増上寺
浄土宗の大本山の一つ。三縁山広度院増上寺が正式の呼称です。開山は明徳4年(1393)、浄土宗第八祖・酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。江戸時代初期、増上寺法主12世源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康公から深く帰依を受け手厚い保護を受けました。慶長3年(1598)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺としてまた関東十八檀林の筆頭として興隆し浄土宗の統制機関となりました。その規模は寺領1万石余、20数万坪の境内地、山内寺院48宇、学寮百数十軒、常時3千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行なわれ建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵しています。(説明板)

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三解脱門
慶長16年(1611)に徳川家康公の助成により江戸幕府大工頭中井大和守正清によって建立され、元和8年(1622)に再建されました。この門は増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。三解脱門は別名「三門」とも呼ばれ、三つの煩悩「貪欲(とんよく・むさぼり)・瞋恚(しんに・いかり)・愚痴(ぐち・おろかさ)」の三悪を解脱する悟りの境地を表しています。建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に和様の勾欄などが加味され見事な美しさを見せています。その大きさは間口十間余(約19m)奥行五間(約9m)高さ七丈(約21m)の二重建て構造。さらに左右には三間(約5.4m)の山廓を有しています。上層部(楼上)内部には中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像が安置されています。(説明板)

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水盤舎
元は清楊院(3代将軍徳川家光の3男・6代将軍徳川家宣の父、甲府宰相綱重)の御霊屋にあった建物です。綱重は延宝6年(1678)に逝去し、初め小石川伝通院に埋葬され、家宣の代に増上寺に改葬されました。御霊屋は増上寺裏手に営まれていましたが、昭和20年(1945)の東京大空襲により他の御霊屋の建物とともにほとんどが焼失しました。(港区の文化財)

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鐘楼堂
寛永10年(1633)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大梵鐘は、延宝元年(1673)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。徳川4代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され7回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ東日本では最大級として知られています。その大きさ高さ1丈(約3m)重さ4000貫(約15t)の大鐘です。その鐘の音は時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し人々の心を深い安らぎへと誘います。江戸時代の川柳には「今鳴る鐘は芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ江戸庶民に親しまれてきました。(説明板)

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有章院霊廟二天門
江戸幕府7代将軍徳川家継の霊廟建築。芝増上寺に造営された。現在の東京プリンスホテル敷地には戦前6代将軍家宣の文照院霊廟と並んで、7代将軍家継の有章院霊廟がありました。プリンスホテル正面の二天門は有章院霊廟の総門です。霊廟は8代将軍吉宗が享保元年(1716)に建立しました。Wikipedia
現在シートで覆われています(写真は過去に撮影したものです)

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江戸名所図会 増上寺山内芙蓉洲弁天社(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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日比谷通りをゴールの4号地へ向かいます(増上寺前)

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『TOKYOウオーク2017-こどもウオーク』コース地図
(緑:コース 赤丸:4号地 橙:日比谷通り・桜田通り)


・・・・・
資料ファイル

徳川家霊廟

江戸幕府の将軍職を務めた徳川将軍家歴代の墓所のことで江戸(現・東京)の寛永寺と増上寺及び栃木県には日光の輪王寺にある。江戸時代の華麗な建築技術・意匠の粋を集めた建築群として日光東照宮と並び称されるが、このうち寛永寺と増上寺の霊廟は大部分の建物が1945年(昭和20年)の戦災で焼失した。

(現存する霊廟建築)

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久能山東照宮
初代家康を祀る社殿(本殿・石の間・拝殿)と家康が埋葬されている神廟(廟所)がある。家康の一周忌を前に(16173月〜4月)日光へ分祀された。分祀後の161712月に社殿が完成し東照宮の原型となる。社殿は国宝、神廟他は重要文化財に指定されている。
久能山東照宮の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/20531443/


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日光
日光東照宮- 初代家康を祀る。輪王寺大猷院霊廟- 3代家光を祀る。以上の建築群は国宝および重要文化財に指定され世界遺産にも登録されている。

日光東照宮の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17778572/
大猷院の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/17642344/


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寛永寺
厳有院(4代家綱)と常憲院(5代綱吉)の霊廟があったが1945年(昭和20年)大部分が空襲で焼失。焼け残った以下の建築が重要文化財に指定されている。厳有院霊廟(勅額門・水盤舎・奥院唐門・奥院宝塔)常憲院霊廟(勅額門・水盤舎・奥院唐門・奥院宝塔)8代吉宗、13代家定の宝塔は常憲院霊廟、10代家冶、11代家斉の宝塔は厳有院の霊廟の敷地内に建っている。寛永寺の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/16564921/


高野山
高野山塔頭・蓮花院は松平家時代より徳川家の菩提所・宿坊であった。文禄3年(1594)の家康参詣を機に大徳院と改称。3代家光により初代家康と2代秀忠の霊廟は大徳院にも建築された(徳川家霊台、南院の裏手にあるが現在は金剛峰寺の所有)。国の重要文化財および世界遺産に指定されている。安国院殿霊廟(家康)台徳院殿霊廟(秀忠)。明治期に大徳院は他の塔頭寺院と合併して金剛峯寺門前に移り旧名の蓮花院に復したが、現在も徳川家歴代や大奥関係の位牌が祀られている。ちなみに奥の院には松平秀康および同母の霊屋(蓮花院の所有)がありそちらも国の重要文化財および世界遺産に指定されている。(Wikipedia

・・・
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戦災以前の増上寺御霊屋図

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増上寺
台徳院(2代秀忠)、崇源院(秀忠夫人)、文昭院(6代家宣)、有章院(7代家継)の霊廟と9代家重、12代家慶、14代家茂の宝塔があったが1945年(昭和20年)大部分が空襲で焼失。焼け残った以下の建築が重要文化財に指定されている。台徳院霊廟惣門(芝公園・ザ・プリンスパークタワー東京内)台徳院霊廟勅額門、丁字門、御成門(以上3棟は埼玉県所沢市に移築)有章院霊廟二天門(芝公園・東京プリンスホテル内)これらの霊廟に祀られていた遺体は1958年(昭和33年)に改葬され、墓所は増上寺本堂裏に移転している。現在の増上寺徳川家墓所の入口の門はもと文昭院霊廟の奥院の門だったもの。秀忠夫人崇源院霊廟の一部は鎌倉建長寺に移築された。霊廟跡地は東京プリンスホテル(文昭院、有章院等)、ザ・プリンスパークタワー東京(台徳院、崇源院等)となっている。(Wikipedia

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徳川将軍家墓所
戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ増上寺大殿の南北(左右)に建ち並んでいました。墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟はいずれも国宝に指定され格調ある佇まいでした。その後昭和20年(1945)の空襲直撃で大半が焼失し残った建物もその指定を解除されました。正面の門は旧国宝で「鋳抜門」(いぬきもん)といわれ、文昭院殿霊廟(徳川家六代将軍家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築しました。左右の扉は共に青銅製で5個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれその荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。

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墓所には2代秀忠公・6代家宣公・7代家継公・9代家重公・12代家慶公・14家茂公の6人の将軍のほか、崇源院2代秀忠公正室、家光公の実母、お江)、静寛院宮(14家茂公正室和宮)ら5人の正室、桂昌院(3代家光公側室、5代綱吉公実母)はじめ5人の側室、及び3代家光公第3子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。(説明板)



by Twalking | 2017-06-13 22:41 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり雑司ヶ谷&目白台   

日時 2017.4.30(日)
天気 晴れ 


「緑の木陰がいいわ~」とリクエストあり。
のんびり街歩きなら目白あたりかな・・・、
歩いたばかりですが美術館よってないし。

それに鬼子母神もよさそう、都電にも
乗ってみたいし・・・。
ということで連れだって出かけました。


・・・
雑司が谷/豊島区

雑司が谷は北側に東池袋、東側に文京区大塚、南側に高田、文京区目白台、西側に南池袋、目白と接している。雑司ヶ谷霊園とも接するが霊園の住所は豊島区南池袋4丁目であり(南池袋の面積の7割を占める)、都電荒川線の雑司ヶ谷停留場も南池袋にある。駅名の由来にもなっている法明寺も地内にある(地内にあるのは飛地境内で本堂は南池袋になる)
Wikipedia

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緑が多くて安らぐ霊園です、マップがあれば漱石の墓などみたかってのですが・・・/雑司ヶ谷霊園

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雑司が谷霊園
明治5年(1872)神葬墓地として開設され、明治7年に共葬墓地となった都営霊園です。面積約10万㎡の霊園内には緑豊かな樹々や四季折々の草花が咲き、副都心池袋に隣接する区域とは思えないほど静かで落ち着いた佇まいを見せています。また、江戸時代、霊園西側に将軍家の鷹狩り用の鷹を飼育する御鷹部屋があり、今も緑の枝を広げる「御鷹部屋の松」にその名残を見ることができます。墓域内は著名人の墓が数多くあり夏目漱石をはじめ、小泉八雲、泉鏡花、永井荷風、島村抱月等の日本文学史にその名を刻む作家たちや漂流してアメリカに渡ったジョン万次郎、開明派の幕臣小栗上野介忠順、抒情画家竹久夢二、詩人サトウハチロー、自由学園を創設した羽仁もと子・吉一夫妻、言語学者金田一京助等錚々たる面々がこの地に眠っています。また、帝国大学で哲学を教え、漱石にも畏敬されたラファエル・ケーベルの墓は都の文化財に指定されています。(雑司が谷案内マップ)


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旧マッケーレブ邸(雑司が谷旧宣教師館)

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この建物は明治40年(1907)にアメリカ人宣教師J・M・マッケーレブが建てたものです。マッケーレブは昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていました。19世紀末のアメリカ郊外住宅に多く用いられたシングル洋式を基調とし、細部のデザインはカーペンターゴシック洋式を用いています。建物の内部は1階、2階ともに3部屋がT字形に配置され各階3部屋ともに暖炉が組み込まれ、壁の中で煙突につながっています。1階の西北部にポーチ付きの玄関を設け北側に廊下及び主階段、南側にはサンルームとしても使える広縁があり東側には補助階段が付いています。19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を有する質素な外国人住宅であり都内でも数少ない明治期の宣教師館の一つとして貴重です。東京都指定有形文化財(建造物)(東京都教育委員会)

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1F食堂                2F広縁


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清立院山門

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清立院
日蓮宗、御嶽山。約770年前真言宗・清龍寺として創立。後に村を疫病から救った雲水が日蓮聖人像を寺に残したことから日蓮宗・清立院と改められました。門の石段脇に「かさもり薬王菩薩安置 清立院」と刻まれた石碑があり、雨乞いと皮膚病の祈願寺として尊崇されました。木彫毘沙門天像は区の文化財に登録されています。(雑司が谷案内マップ)

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雨乞い松
正嘉年間(1259)雨乞いに霊験ありとして旱魃の年は農民この所に集まりて雨乞いす(案内板)

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寶城寺山門


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寶城寺
創立時期は天正か寛永の頃と考えられる。元禄15年(1702)代官細井九左衛門の諸寺院境内御改により、牛込原町済松寺領より現在地に移転する。昭和に入って火災で本堂悉く焼失。昭和33年再建。(豊島の寺院)

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江戸名所図会 清立院 日進堂 請雨松 宝城寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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大鳥神社鳥居

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大鳥神社
正徳2年(1712)出雲松江藩主松平出羽守の嫡子が疱瘡にかかって高田村下屋敷で療養中、出雲鷺の浦から鷺大明神が飛来して救ったといわれ、以来ここに勧請したのが始まりと伝えられています。初め社は鬼子母神境内にありましたが、明治初年の神仏分離令により、大鳥神社と改称、ケヤキ並木付近に仮遷座し、その後、現在地を鎮座地として定め、日本武命を祭神として祀っています。権現造の社殿は 昭和56年に造営されたもの。 毎年11月の酉の市には、商売繁盛を願う人々で賑わいます。(雑司が谷案内マップ)

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大鳥神社恵比須神
七福神の中でも日本古来の唯一の神様で、伊邪那岐・伊邪那美の御子です。網と釣竿を持った姿は「釣して鯛せず」ということで、暴利を貪らない清い心をしていると言われ商売繁盛の神として愛されています。皆さんもハイ「えびす顔」ですよ(雑司が谷七福神の会)


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いい並木道ですね~・・・、参道は「面影橋」から来る鎌倉街道でしょうか

鬼子母神参道のケヤキ並木
鬼子母神堂は江戸時代から子授け、安産の御利益があるとされ多くの参詣者を集めてきました。江戸後期には将軍の御成りもあったほど大いに繁盛しました。参道には名物の大きなケヤキ並木とたくさんの茶屋、料亭などが並び、参詣客は土産には現在も造られている「すすきみみずく」などが売られていました。かつては大径のケヤキが多く荘厳な風景を醸し出していましたが、現在は徐々に若いケヤキに植え替えられ、巨木は4本のみです。毎年10月に行われるお会式(おえしき)には万灯行列が周辺を練り歩き、往時のにぎわいを伝えています。(東京都教育委員会)

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鬼子母神境内へ

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雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ
イチョウ(銀杏・公孫樹)は一属一種のイチョウ科に属する裸子植物の落葉高木である。耐寒、耐暑性があり社寺の境内樹、公園樹、街路樹などに広く植えられている。中国原産といわれ日本へは遣唐使の帰国によってもたらせられたという説もある。雌雄異株で4月に開花し10月に種子(銀杏)は成熟し黄葉する。樹高30m、幹周8mの雄株で、都内のイチョウでは麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹であり、樹勢は盛んである。応永年間(13941428)に僧日宥が植えたと伝えられている。古来「子授け銀杏」ともいわれ戸張苗竪の「櫨楓」によると婦人がこのイチョウを抱く光景がみられ、注連縄を張るようになったのは文政年間(181829)の頃という。(東京都教育委員会)

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雑司が谷の鬼子母神
雑司が谷の鬼子母神は永禄4年(1561)に清土(せいど・現在の文京区目白台)で掘り出された鬼子母神像を天正6年(1598)に現在の場所に堂を建てて安置したことにはじまる。寛永2年(1625)には社殿の造営が始まり、正保3年(1646)には宮殿が寄進された。江戸時代前期から将軍の御成りがあるなど武家から庶民まで、子育て安産の神として広く信仰され現在でも多くの参詣者が訪れている。

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現在の鬼子母神堂は手前から「拝殿」「相の間」「本殿」の3つの建物から構成される「権現造り」。本殿の開堂供養は寛文6年(1666)に行われたことが記録にあるが、屋根裏の束に書かれた墨書から寛文4年に上棟されたことが判明している。拝殿と相の間は元禄13年(1700)広島藩2代目藩主浅野光晟(みつあきら)の正室・満姫の寄進により建てられ、その建築には広島から呼び寄せた大工が従事している。拝殿は江戸中期の華やかな建物ではあるものの、装飾を簡素に変えるなど幕府による建築制限令への対応を示す事例であり、本殿と拝殿とで異なる特徴を持つ建築物であることから歴史的、意匠的に価値が高いと評価され、平成287月重要文化財に指定された。(豊島区教育委員会)


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鬼子母神とすすきみみずく
鬼子母神は子授け、安産、子育ての神として江戸時代から人々に信仰を集めている。参詣土産の「すすきみみずく」も東京の郷土玩具として古くから親しまれてきた。その純朴な愛らしい姿はこんな伝説が宿っている。むかし鬼子母神の近くに二人暮らしの母娘が住んでいた。ある時母親が病に倒れ、途方にくれた娘は鬼子母神に願をかけた。すると『この辺りは芒が多いところゆえ、これを刈り取りその穂をもって「すすきみみずく」を作り神の庭で売るとよい』という夢枕のお告げがあったという。孝行娘の一念が通じいつしか母親の病は治り、以来娘は蝶々になって鬼子母神に仕えたという。(豊島の民話・「すすきみみずく」より)(文化と歴史の散歩道・雑司が谷街歩き)

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大国堂                上川口屋

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武芳稲荷神社

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武芳稲荷神社
武芳稲荷堂は倉稲魂命(ウケノミタマノミコト)を祀った堂宇です。「日本書記」では「ウケ」は穀物・食物を意味し稲魂命は「穀物に神」といわれています。昔、このあたりで農耕が盛んに行なわれていたことが伺えます。創建の年代は不明ですが、雑司が谷鬼子母神縁起によれば天正6(1578)に「稲荷の森」と呼ばれていた当地に堂宇を建立して鬼子母神像を安置したと記されていますので、武芳稲荷堂はこれよりも以前に建立され、天正6年当時は既にこの地の地主神として多くの人々に知られていました。もとは一坪にも満たない木造の堂宇でしたが昭和42年に現在の堂が建立され、昭和46年には鳥居25基、昭和49年には正面に神狐像2体が奉納されました。武芳稲荷尊天はまた古来より「出世稲荷」とも称され、商売繁盛・開運隆昌とともにその霊験あらたかなることを慕う大勢の信徒に尊崇されています。毎年、節分後の午の日に初午大祭・518日に夏季大祭・918日には秋季大祭がそれぞれ修され皆様の開運出世、除厄得幸の祈願が行われています。(境内石碑)

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江戸名所図会 鬼子母神 法明寺 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

法明寺
日蓮宗、威光山。創建弘仁元年(810)、もとは真言宗のお寺でしたが、正和元年(1312)日蓮聖人の弟子日源上人により改宗、現在の寺号に改められました。江戸時代から桜の名所として知られ『歩蔵国雑司谷八境』のひとつに「威光山( 法明寺) 花」と記されています。参道から山門に続く風情ある桜並木は今も訪れる人の目を楽しませてくれます。境内には曲尺、算盤、天秤など度量衡の珍しい図案が彫られた梵鐘や酒井抱一筆の朝顔が描かれた蕣(あさがお)塚があり、また墓地には楠公息女の墓(姫塚)や豊島氏累代の墓があります。(雑司が谷案内マップ)

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地名の由来
雑司が谷の地名の紀元については①法明寺の雑司料であったため②小日向金剛寺の雑司料であったため③元弘・建武期の朝廷で雑式の職を務めた柳下・長島・戸張氏がこの地に土着し、その子孫も村民として残ったから④郡領等身分の高い人の子息の子を指す曹司などのはじめた土地だから等諸説あり、「雑司ヶ谷」に統一されたのは8代将軍徳川吉宗が放鷹のため立寄った折、「雑司ヶ谷村」と書くべしとしたからと伝えられています。昭和41年の住居表示実施により現在の「雑司が谷」に町名が変更されました。(未来遺産雑司が谷お散歩マップ)

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雑司が谷案内マップ
(緑:鎌倉街道 茶:目白通り・明治通り・不忍通り)

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旧鎌倉街道
鎌倉時代に幕府鎌倉と諸国の国府を結んだ道路網で、有事の際に「いざ鎌倉」と御家人が駆け参じた道として知られています。そのひとつが豊島区内を縦断していたと云われ、おおよそ北区滝野川から明治通り沿いに上池袋に入り、沖仲橋を経て東池袋南池袋と南進し、さらに雑司が谷から目白通りを超えて面影橋へと続く道筋にあたります。特に鬼子母神表参道から下る宿坂あたりはかつての街道の面影が偲ばれます。(未来遺産雑司が谷お散歩マップ)




・・・神田川&目白台

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都電荒川線に乗って早稲田へ

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大隈通り               大隈庭園前にてランチ


・・・永青文庫

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肥後細川庭園を散策して永青文庫へ

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初めて入りましたが見応えのある美術館です/永青文庫

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記念撮影               胸突き坂を芭蕉庵へ

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永青文庫展示物/パンフレット


・・・関口芭蕉庵

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関口芭蕉庵瓢箪池

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関口芭蕉庵/文京区関口
この地は江戸前期の俳人松尾芭蕉が延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川改修工事に参画し「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。享保11年(1726)芭蕉の33回忌に当たり芭蕉の木像を祀る芭蕉堂が建てられた。その後、去来・其角・嵐雪・丈草の像も堂に安置された。芭蕉は、早稲田田んぼを琵琶湖に見立てその風光を愛したと言われている。そこで、寛延3年(1750)宗瑞・馬光らの俳人が芭蕉の直筆「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の短冊を埋めて墓とした。この墓を「さみだれ塚」と称した。塚は芭蕉堂の近くにある。芭蕉庵の建物は昭和13年(19383月、近火で類焼したが同年8月再建された。しかし、昭和20年(19455月の戦災で再び消失した。敷地内には芭蕉堂・さみだれ塚・朱楽菅江歌碑・伊藤松宇の句碑などがあり往時をしのぶことができる。(文京区教育委員会)

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芭蕉翁の句碑 
ふる池や 蛙飛びこむ 水のをと 
芭蕉翁280年祭にこれを建つ 文字は真筆 昭和48年・1973/案内板




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夜寒の碑
二夜鳴く 一夜は寒し きりぎりす
武玉川の撰者四時慮慶紀逸の句碑(宝暦3年・1753)/案内板





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苑石湖の詩碑             伊藤松宇の誌碑

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史跡関口芭蕉庵案内図



・・・椿山荘

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神田川遊歩道から椿山荘の庭園へ寄り道


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白玉稲荷神社
大正13年(1924)に京都下賀茂神社にあった社殿を譲り受けて移築し、翌14年に伏見稲荷大社から白玉稲荷を勧請して椿山荘の守護神としました。平成3年現在地に新社殿を遷座しました。(説明板)


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圓通閣
圓通閣は平安前期に小野篁(たかむら)によって広島県の竹林寺に創建され、平清盛が第1回目の改修を執り行ったとの言い伝えがあります。椿山荘へは1925年(大正14年)山縣有朋公爵から庭園を譲り受けた藤田組2代目当主藤田平太郎男爵によって移築されました。2010年には移築後初めての大規模改修を行い、新たに聖観世音菩薩を奉安。臨済宗相克国派有馬頼底管長睨下による落慶並びに入仏開眼法要を執り行い「圓通閣」と名乗るところとなりました。「圓通」とは 圓通大士、つまり観世音菩薩の異称で、圓通閣は観音堂を意味しています。(説明板)

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般若寺式石灯篭
「般若寺型」石灯篭は江戸時代の茶人・造庭家の間で「名物の石灯篭」と呼ばれ、本来は奈良市の般若寺に存する石灯篭が原型とされました。しかし、椿山荘所在の般若寺式の方が基礎の反花の勾配の美しさ、火袋の彫刻の図様、中台の各狭間内の文様に原格性があり、のびのびとして優れたものであることから椿山荘所有のものが原型で、般若寺のものはその模作であり江戸時代初期作とされています。(石造美術研究家の権威川勝急政太郎博士の調査発表による)/説明板


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丸型大水鉢
この丸型大水鉢は京都府東山区粟田口から蹴上を経て山科に通じる日ノ岡峠にあったもので、木食上人養阿正禅が旅人のために作ったものと伝えられています。この水鉢は牛車の轍が刻まれた敷石とともに保存されていますが、日ノ岡峠を越える人々が水鉢に溢れる清水で肌を冷やし喉を潤おした往時が偲ばれます。(説明板)

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五丈滝
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椿山荘ガーデンマップ


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江戸川橋公園から地下鉄で帰りました


神田川(目白台・関口)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24138613/

by Twalking | 2017-05-05 22:55 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり市谷   

日時 2016.7.9(金)
天気 曇り


飯田橋で集まりがありましたので、久し振りに都心へ。
折角なので外濠通り&山の手をぶらりと神楽坂へ、
情緒があっていい所ですね。

帰りは酔い覚ましに土手を通って市ヶ谷へ、
眺めもいいし、この土手はいいですね、寛げます。
また、来年元気な姿でみなさんにお会いしたいですね、
ありがとうございました。


・・・市谷


市ヶ谷駅の西側に広がる台地を中心とした地域で、靖国通り、外苑東通り大久保通り、牛込中央通りに囲まれた地域およびその周辺と、靖国通りの外苑東通りから外苑西通りまでの区間の北側に相当する。台地沿いの高台の住宅地の一部は大名屋敷を経て明治時代より元祖山の手の一つとして呼称され、現代においても高級住宅地として評価されている。もっとも、歴史的な市谷の地名は上記地域を指すものの、市ヶ谷駅が上記の市谷地域の東端、外濠を挟んだ千代田区五番町にあるため、現在は千代田区側(番町・九段地域)の駅周辺にも「市ヶ谷」の名を冠した建築物が多いため千代田区内の駅周辺地域も慣例的に市ヶ谷と呼ばれている。名の由来には市ヶ谷孫四郎の領地があったからとか、四谷第一の谷なので「一ヶ谷」、或いは鶴岡八幡宮の門前で市が開かれていた「市買」が訛った、などの説がある。
Wikipedia

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市ヶ谷橋/市ヶ谷駅前


d0183387_00534168.jpg市谷橋/九段北
この橋を市ヶ谷橋といいます。市ヶ谷門に架かる見附橋であります。門は寛永13年(1636)森長継の担当で建造され、市ヶ谷への出口であったので門の名となり、橋の名ともなったのでしょう。また門は「市ヶ谷」「一ヶ谷口」ともかかれています。市ヶ谷の名は、市ヶ谷孫四郎の領地であったからとも、四谷第一の谷、または市が立ったので市買だともいわれています。四谷、牛込をはさんで市ヶ谷付近の濠は、同じ高さなので濠の幅を広くして敵に備えたといいます。このあたりは、昔は桜が多く門は「桜門」といわれていました。現在も橋をはさんで咲く土手の桜は有名です。門は明治4年(1871)撤去されました。現在の橋は昭和2年(1927)に架設されたものです。長さ36.4m、幅15.6m。コンクリート造り。(千代田区教育委員会)


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市谷御門跡/九段北

d0183387_01004804.png市谷御門橋台の石垣石

この石垣石は、江戸城外堀跡の市ヶ谷御門橋台に築かれていた石垣の一部です。市ヶ谷御門の枡形は現存しておりませんが、橋台の石垣は現在もその一部が外堀通りの下に保存されています。この石垣石に刻まれている刻印は、江戸時代初期に御手伝普請で石垣を築いた大名家や職人の印と考えられています。寛永13年(1636)に開削工事が行われた赤坂から四谷・市ヶ谷・牛込橋にいたる掘割や土手の遺構、寛永16年(1639)に修築された外郭門の石垣などが、昭和31年(1956)「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されました。なお、平成7年(19953月に営団地下鉄南北線の市ヶ谷駅構内に開設された「江戸歴史散歩コーナー」では、平成元年(1989)から8年に渡って発掘調査された江戸城外堀跡関連遺跡の発掘成果の一部を展示公開しております。(千代田区教育委員会)

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昭和4年(1929年)に完成した市谷水道橋/外濠通り


・・・市谷八幡町


新宿区の東部に位置する。町域の東は新宿区市谷左内町・市谷田町1丁目、北から西は市谷本村町に接する。南は東西に外堀通りが通り、外濠を境に千代田区五番町に接する。当地は外堀通り沿いから急勾配になっている。靖国通りが市ヶ谷駅前を通り、外濠を渡って外堀通りに突き当たった西側の一角にあたる。外堀通り沿いには高層建物が並び、幹線道路から離れると一般住宅も見られる。地名の由来にもなっている市谷亀岡八幡宮が置かれる。
Wikipedia

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市谷亀岡八幡宮参道

d0183387_01123195.jpg市谷亀岡八幡宮
新宿区市谷八幡町にある神社。当神社は太田道灌が文明11年(1479)江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりである。「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称した。当時は市谷御門の中(現在の千代田区内)にあった。しかし、その後戦火にさらされ荒廃していったが、江戸時代に入り寛永13年頃(1636頃)に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転。市谷亀岡八幡宮は三代将軍・徳川家光や桂昌院などの信仰を得て神社が再興された。江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わったという。その後明治に入り、神仏分離令により別当寺であった東円寺が廃寺となり(1872)、芝居小屋などは撤退し樹木が植えられかつての賑わいはなくなっていった。その後、1945年に第二次世界大戦による戦火により神木なども含め焼失。1962年に現在の社殿が再建される。現在でも地域の人々などから信仰を得ている。市谷亀岡八幡宮の祭神は誉田別命(応神天皇)、気長足姫尊、与登比売神。茶ノ木稲荷神社は稲荷大神。Wikipedia


d0183387_01164533.jpg市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居

文化元年(180412月建立の銅製明神型鳥居で高さ4.6m、台石0.55m、柱には、初願者・当八幡宮別当第七世智光、造立者・東圓寺現住仁龍他7名、鋳物師・西村和泉藤原政平の建造銘と、寄進者442名の名前や職業が陰刻されている。「八幡宮」の額は、播磨姫路15万石の酒井家11代当主雅楽頭忠道の書によるもので、八の字は八幡宮の神使の鳩一対によって形成されている。区内に現存する唯一の銅製鳥居で、意匠や鋳造技術にも優れており貴重である。(新宿区教育委員会)

市谷亀ヶ岡八幡宮の軍配団扇

御府内備考続編之七目録(神社部・市谷八幡宮)には「団扇一本右者太田道灌所持之品図左之通」とあり、左に軍配団扇の図が記してある。当八幡宮には右記のものとして伝えられる軍配団扇が現在も保存されている。木製の柄に竹を編み、間に紙を挟み、表面には黒紫色で漆を塗って仕上げてあるが、文様、文字はない。制作年代は未詳であるが、太田道灌ゆかりの軍配団扇として伝えられており貴重である。(新宿区教育委員会)


d0183387_01123684.jpg茶ノ木稲荷神社
祭神:稲荷大神
(元々此地の地主神、稲荷山と言われた此丘に数多く祭られていた稲霊、年神様の主神である)保食神うけもちのかみ)
市谷八幡神社の境内、石段左の方中段に御鎮座しております茶木稲荷神社。今をさる一千年余りの昔、弘法大師が初めて御鎭祭申上げたのが当社と伝えられています。この山の地主の神でありまして古来この地を稲荷山(いなりやま)と呼んだのもそのいわれによるものです。御祭神は保食神(うけもちのかみ)すなわち稲荷大神です。この大神は、食物衣服のことを司るのが主なる御神徳ですが、その他、家内屋敷の安全を始め、農業、工業、商業の繁昌、諸技藝の上達、交通旅行の安全等を護り、幅広いご利益を持っています。(市谷亀ヶ岡八幡宮HP)

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江戸名所図会 市谷八幡宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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外壕通り

外濠通り(東京都道405号外濠環状線)
港区新橋一丁目を起点、東京都港区新橋二丁目を終点とする皇居(旧江戸城)外濠に沿った環状の特例都道で、通称は「外堀通り」。Wikipedia

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市谷田町
市ヶ谷駅付近の外堀通り沿いの一角にあたる。通り沿いを中心にビルや商店が多く立ち並ぶが道路から離れると住宅も見られるようになる。江戸時代には武家地及び江戸城の外堀に面した町人の居住地である市谷田町1丁目が置かれていた。江戸時代初期に豊島郡市谷領布田新田の百姓屋敷が元和9年(1623)に外堀造成用に幕府の御用地として召し上げられたため、左内坂下に仮住まいをしていた。外堀建設後、旧地が外堀の底になったため布田新田の住人が外堀に町屋取り立てを願い出たものの、示された土地が佐渡殿原(現市谷砂土原町付近)、赤坂御門前の二か所だった。この提案を不服とした住民は佐渡殿原の土を均し武家地として供出することを願い出た。外堀脇の湿地にこの佐渡殿原や浄瑠璃坂下、逢坂辺りの土を落とし埋め立てた。(Wikipedia

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市谷砂土原町方面の景観/新見附橋

市谷砂土原町
新宿区の東部に位置する。明治時代より山の手と呼称される地域の一つである。3丁目寄りになるほど戸建て住宅が残っているが、12丁目も低層マンション主体の住宅地である。特に2丁目は隣接する市谷船河原町、払方町と並び元は大名屋敷の敷地であり、現代においても高級住宅街と評価される。町名は江戸時代に本多佐渡守正信の別邸があって「佐渡原」と呼ばれ、後に本多邸趾の土を採取して埋め立てに使ったことから砂土取り場と称したことによる。Wikipedia


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外濠① 飯田橋方面の景観/新見附橋


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外濠② 市ヶ谷方面の景観/新見附橋

外濠
外濠とはかつての江戸城の堀のうちの外側のものの総称で、かつては水路で江戸城を取り囲み、また内濠や東京湾(江戸湾)ともつながっていた。現在は、外濠にほぼ沿う形で外堀通りが通っている。1970年代の飯田濠埋め立てまで濠を埋めることが度々行われてきたが、現在では都市景観の一つとして保存していこうとする考えが一般であるWikipedia)

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・・・市谷船河原町


新宿区北東部に位置する。逢坂を上がると市谷砂土原町三丁目・払方町に連なる元祖山の手の高級住宅街が造られている。飯田橋駅と市ヶ谷駅の中間にあたる外堀通り沿いの一角にあたる。この外堀通り沿いを中心に高層建造物が建ち並ぶ。Wikipedia

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築土神社/市谷船河原町

史跡・堀兼の井/所在地 
新宿区市谷船河原町九番地 堀兼の井とは「ほりかねる」からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところがしだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ずとうとう精根つきて死んでしまったという。(東京都新宿区教育委員会)
      
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逢坂

昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地にきた時美しい娘と恋仲になり、のちに都へ帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再びあったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。(標柱)

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市谷周辺マップ



・・・神楽坂


新宿区にある早稲田通りにおける大久保通り交差点から外堀通り交差点までの坂である。または新宿区の行政地名である。神楽坂一丁目から六丁目がある。
神楽坂付近は大正時代に隆盛を誇った花街で、飯田橋駅を背にした坂の右手に残る花街特有の路地は、日本でもここにしかないといわれている。また関東大震災以後は日本橋・銀座方面より商人が流入し夜店が盛んになった。山の手銀座と言われた時期はこの時で、林芙美子や矢田津世子の小説にも登場する。坂沿いには商店街が立ち並び瀬戸物屋・和菓子屋など和を思わせるお店が中心であった。Wikipedia

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見番横町


見番横丁

芸者衆の手配や、稽古を行う「見番」が沿道にあることから名付けられた。稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくる。(標柱)

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伏見火防稲荷神社          善国寺

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神楽坂は路地が面白いですね~i

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飯田橋周辺マップ


大久保通り(新宿~神楽坂)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/16191759/


by Twalking | 2016-07-10 15:56 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 登戸道 弦巻~登戸02 喜多見   

日時 2016.3.25(金)
天気 晴れ

世田谷通りは車などでよく通りましたが、喜多見は初めてです。
国分寺崖線から下る縄手道、これ荒玉水道道路でしたが、
わくわくするようないい道ですね。

中世の世田谷は吉良氏は聞きかじっていましたが、喜多見氏は
知りませんでした。秩父平氏の支流・江戸氏の末裔なんですね。
慶元寺、氷川神社周辺はよく史跡などが残され、
景観的にも世田谷とは思えないほどの趣がありました。

こんがらがってはいますが、入口に立ったので少しづつ
整理していこうと思います。


・・・
喜多見(世田谷区)

中世
には本拠地である江戸を追われた江戸氏が本拠地を構え、江戸時代には短期間ながらこの地に藩庁を置く喜多見藩が存在した。1300年代初期には「木田見」とある。16世紀後半頃に「木多見」「喜多見」や「北見」と見られる。この付近は古くの古代集落の遺跡が発見されており、歴史は古い。しかし地名の語源ははっきりしていない。Wikipedia

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国分寺崖線を下ると野川です/水道橋(荒玉水道道路)

荒玉水道
(あらたま)
大正時代から昭和中期にかけ、多摩川の水を砧(世田谷区)から野方(中野区)と大谷口(板橋区)に送水するために使用された地下水道管のことである。現在も砧から杉並区梅里までの荒玉水道に沿って「荒玉水道道路」(都道428号)がある。「荒玉」の「荒」とは荒川、「玉」とは玉川すなわち多摩川を指している。Wikipedia


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用水を復元しています。かつての野川の流域だったようですね/次大夫堀公園・民家園前


d0183387_15554196.jpg次大夫掘公園/喜多見

1983年に開園した公園で、園内のメインは民家園である。かつて世田谷区内で見られた農村生活を身近に見られるように名主屋敷(主屋1棟、土蔵2棟)、民家2棟、表門、消防小屋などが復元され江戸時代後期から明治時代初期にかけての農村風景を再現されており、かつての暮らしぶりを体験できる。園内には公園の名の由来になっている「次大夫掘」という用水が流れており(後年復元されたもの)、これは稲毛・川崎領(現在の川崎市)の代官であった小泉次大夫の指揮により、慶長2年から15年の歳月をかけて開発された農業用水の一部である。この用水は正式には六郷用水といい、昭和初期までは周辺農地などに使われていたが、現在大半は埋められたか雨水用の下水に転用されている。世田谷区内では次大夫掘公園内に復元された約600mの流路と丸子川として一部分のみ残っているのみである。Wikipedia

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次大夫掘公園マップ(登戸道は赤線の茶屋道橋~内田橋へのルートです)


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旧道風景 内田橋から荒玉水道道路を横断・直進します


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寳壽院山門

d0183387_16180229.jpg寳壽院(光傳寺)/喜多見5
当寺は、長徳山寳壽院光傳寺と号し、浄土宗鎮西派で京都の知恩院直末である。本尊は阿弥陀如来坐像で、平安末期から鎌倉初期の作と認定され世田谷区有形文化財に指定されている。寺の創建は永禄13年(1484四)で、開山は西誉上人方阿玉公和尚である。慶安2年(1649)七世本誉上人万休竜長和尚の代に、三代将軍家光より七石二斗余の御朱印をうけ御朱印状九通が寺宝として保存されている。現本堂は、16世荘誉上人願阿意俊和尚の代、寛延3年(1750)に庫裏と共に造営されたものである。また、当寺は明治9年より同11年まで喜多見学校の校舎として使われ、明治23年から同35年までは喜多見尋常小学校高等科教場として使用されていたが、同年5月喜多見、朝陽の両校合併により砧尋常高等小学校が設立され、同校中央教場となり明治403月まで使用されていた。当寺は玉川六阿弥陀三番札所である。(世田谷区教育委員会)


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旧道風景 郵便局を右折、ここを左折、二つ目を右折。直進が品川道(筏道)です/知行院前


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知行院山門

d0183387_16280813.jpg龍寳山常楽寺知行院
本尊は薬師如来で延暦寺の末寺、文明頃(146987)の草創で天正16年(1588)頼存法印が中興開山といわれる。喜多見若狭守勝忠が館の鬼門除けの祈願所として不動明王、閻魔大王をもあわせ祀り、除地若干を寄進した。また須賀神社
の別当寺でもあった。慶安2年(1649)江戸幕府より寺領八石二斗余の朱印状を受け幕末におよんだ。明治6年本堂を喜多見小学校(現在の砧小学校)の仮校舎として使用した。(世田谷区教育委員会)


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喜多見須賀神社

須賀神社は、承応年間(16521654)に喜多見久大夫重勝が喜多見館内の庭園に勧請したのが始まりといわれ、近郊では「天王様」とよばれ親しまれている。湯花神事(湯立)は例大祭の82日に執り行われる。社殿前に大釜を据えて湯を沸かし、笹の葉で湯を周りに振りかける行事である。この湯がかかると、一年間病気をしないといわれ今日も広く信仰を集めている。湯花神事は浄め祓いの行事になっているが、湯立によって占いや託宣を行うのが本来の姿であり、神意を問うことであった。素朴で普遍的な神事であったが、当区では唯一となり都内でも数少ない行事となった。(世田谷区教育委員会)


d0183387_16523894.jpg第六天塚古墳/喜多見4

古墳時代中期(5世紀末~6世紀初頭)の円墳。昭和55年と昭和56の世田谷区教育委員会による墳丘及び周溝の調査によって、古墳の規模と埋葬施設の存在が確認された。これにより本古墳は、直径28.6m高さ2.7mの墳丘を有し、周囲に上端幅6.87.4m下端幅5.2m〜6.7m深さ5080cmの周溝が廻り、その内側にテラスを有し、これらを含めた古墳の直径は3233mとなることが判明した。またこの調査の際に多数の円筒埴輪片が発見された。埋葬施設は墳頂下6070cmの位置に、長さ4m幅1.11.4mの範囲で、磔の存在が確認されていることから礫槨ないし磔床であると思われる。なお同古墳については「新編武蔵風土記稿」によると、江戸時代後期には第六天が祭られ、松の大木が生えていたとの記載が見られる。この松の木は大正時代に伐採されたが、その際に中世陶器の壷と鉄刀が発見されており、同墳が中世の塚として再利用されていたということも考えられる。(世田谷区教育委員会)


d0183387_16524688.jpg稲荷塚古墳/喜多見4(稲荷塚古墳緑地)
喜多見稲荷塚古墳は砧古墳群の一つである喜多見古墳群の中の1基で、墳丘の直径が13m、高さが2.5mの円墳です。昭和34年(1959)と55年(1980)の2回の発掘調査によって、周溝や泥岩切石積み石室の存在が確認され、石室からは古墳に葬られた人の身分を示す圭頭大刀(けいとうのたち)、耳環(じかん)=ネックレスや土師器(はじき)などが出土しています。これらの副葬品から、この古墳は6世紀末~7世紀初(約1,400年前)につくられたと考えられます(世田谷区)


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喜多見慶元寺界わい/喜多見4

江戸氏の祖を弔って建立されたといわれる。江戸氏は皇居のあたりに居を構えていたが、家康が江戸築城のおりこの地に退き姓も喜多見と変えた。江戸氏追善の塔がある。広い寺域に沿う小道は、奥多摩から多摩川を下った筏師が歩いて帰ったという「いかだ道」で、ところどころにのどかな郊外の風景を見ることができる。(せたがや百景)

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本堂


d0183387_17044188.jpg永劫山華林院慶元寺/喜多見4

浄土宗、京都知恩院の末寺で本尊は阿弥陀如来坐像である。当寺は、文治2年(11863月、江戸太郎重長が今の皇居紅葉山辺に開基した江戸氏の氏寺で、当時は岩戸山大沢院東福寺と号し天台宗であった。室町時代の中ごろ、江戸氏の木田見(今の喜多見)移居に伴い氏寺もこの地に移り、その後天文9年(1540)真蓮社空誉上人が中興開山となり浄土宗に改め、永劫山華林院慶元寺と改称した。更に文禄2年(1593)江戸氏改め喜多見氏初代の若狭守勝忠が再建し、元和2年(1616)には永続資糧として五石を寄進し、また、寛永13年(1636)には徳川三代将軍家光より寺領十石の御朱印地を賜り、以後歴代将軍より朱印状を賜った。

d0183387_00540970.jpg現本堂は享保元年(1716)に再建されたもので、現存する区内寺院の本堂では最古の建造物であるといわれている。墓地には江戸氏喜多見氏の墓があり、本堂には一族の霊牌や開基江戸太郎重長と寺記に記されている木像が安置されている。山門は宝暦5年(1755)に建立されたものであり、また、鐘楼堂は宝暦9年に建立されたものを戦後改修したものである。境内には喜多見古墳群中の慶元寺3号墳から6号墳まで4基の古墳が現存している。(世田谷区教育委員会)

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江戸氏喜多見氏墓所(世田谷区指定史跡)

江戸氏は関東の武家の名門で、室町時代の中頃、旧領江戸庄を離れ木田見に移住したと伝えられています。後北条氏にかわって関東に入国した徳川家康は、関東各地に潜居していた名族の者を取り立て、江戸勝重(のち喜多見勝忠)も推挙されて家康の御家人となりました。勝重の孫・重政は5代将軍家綱の側用人となり2万石の大名に出世しましたが、元禄2年(1689)一族の刃傷事件に連座して御家断絶となってしまいました。墓所には寛永4年(1627)に没した勝忠をはじめ一族の墓石や江戸氏歴代の供養塔、石灯籠などが置かれています。(世田谷区)


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旧道風景 この先慶元寺幼稚園角を左折。直進し塀沿いに行けば氷川神社です


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喜多見氷川神社と梼善寺跡/喜多見4

一千年以上も前の創建と伝えられている。境内は保存樹林地となっており、昼なお暗いほどうっそうとし野鳥も多い。長い参道をたどって社殿に至るが村の鎮守の杜の姿そのままだ。ここに伝わる里神楽は区内の貴重な民俗芸能の一つとなっている。(せたがや百景)

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d0183387_17390952.jpg氷川神社

祭神として素盞嗚尊を祀っている。旧社格は郷社。旧喜多見村の鎮守。当神社は天平12年(740)の創建と伝えられているが、室町時代に洪水などで神社にまつわる古文書など流失してしまっているため、詳細は分かっていない。古くは多摩川沿いにあったといわれている。永禄13年(1570)に江戸城からこの地の移り住んだ江戸氏の当主・江戸刑部頼忠が荒廃していた当神社を修復して祈願所としたと言われている。江戸時代になり江戸氏は喜多見氏と改姓し、天和2年(1682)喜多見氏の初代・喜多見若狭守勝忠により神領五石が寄進されたなど、現在の神社の礎が完成した。承応3年(1654年)には、喜多見重恒・重勝兄弟が今に残る石の鳥居を寄進している。(世田谷区有形文化財)また当神社の別当は華蔵院という寺院(明治初期に廃寺)であった。Wikipedia)

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江戸名所図会氷川明神社・祷善寺・慶元寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


・・・狛江市へ

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旧道風景 砧上浄水場へ直進、外周に沿って右回り/こまえ苑前

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GSを左折駒井大通りへ        駒井西を右折


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岩戸八幡神社/岩戸南2
戦国時代のこととして、岩戸八幡神社の由緒に係る次のような伝承があります。永禄元年(1558)に、北条氏康の招きに応じ、古河公方の足利義氏が鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝した際、神前にて八幡神体を懸賞にした大相撲が催されました。吉良頼康に従っていた岩戸の秋元仁左衛門という人物は、この大相撲に勝ち、岩戸に八幡神像を持ち帰って八幡神社を勧請したといいます。江戸時代は村の鎮守で、別当寺は西に隣接する明静院でした。(おすすめ散歩コース)


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日枝神社/駒井町1
日枝神社ははもともと山王権現と称し、江戸時代の記録によると、木の鳥居が立つ小さな祠でした。円住院は、影向山毘沙門寺と号す天台宗の寺院で、山王権現の別当寺でした。もとは毘沙門堂だったようで、元和二年(1616)に喜多見氏が再興したという記録があり、毘沙門堂が円住院になったものと考えられます。日枝神社の参道は、イチョウやケヤキの木に囲まれ、円住院の入口には庚申塔がまつられています。(おすすめ散歩コース)


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旧道風景 駅入口右折、次の信号を左折して世田谷通りへ/和泉多摩川駅


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前駅前広場の地図モニュメント(青:登戸道 緑:世田谷通り)

狛江市

多摩川中流左岸に位置する。市域の北端は国分寺崖線および野川、南端は多摩川にほぼ一致する。このため北から南方向に緩やかに傾斜しているが概ね平地といえる。標高は2030mの間にある。市域は「枝豆」の形をしており、市役所を中心とした半径約2kmの円内に収まる。


・・・多摩水道橋

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多摩川の景観(下流側) 世田谷通りを横断し、狛江高校を左折して橋へ/多摩水道橋


d0183387_23384155.jpg多摩水道橋

狛江市と川崎市の境界であると同時に東京都と神奈川県の境界でもあり、狛江市内で多摩川に掛かる唯一の橋である。多摩水道橋の旧橋は1953年(昭和28年)道路及び水道管の併用橋として開通した。この場所には「登戸の渡し」があったが橋ができたことにより廃止された。現在の多摩水道橋は1997年(平成7年)に竣工した2代目で、エメラルドグリーンのアーチ型になっているが、初代は青色の直線型の橋であった。狛江市の大動脈である「世田谷通り」(正式な名前は世田谷町田線 川崎市では津久井往還と呼ぶ)と川崎市の長沢浄水場から都心へ向かう「導水管」が橋の上で共存している。橋長:358.8m幅員:213m形式:下路鋼3径間連続ローゼ桁橋Wikipedia
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登戸の渡し/小田急ガード先
江戸への往還にかかる重要な渡しであった。江戸時代はやや下流、明治になり上流に移り、終わりのころはここから対岸の和泉に渡った。1952(昭和27)年に廃止(プレート)

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狛江周辺地図
(赤:登戸道 紫:品川道・筏道 緑:世田谷通り 橙丸:喜多見・狛江・和泉多摩川駅)


・・・・
資料ファイル


d0183387_22150649.png江戸氏と喜多見氏

喜多見氏は武家の名門・江戸氏の末裔である。喜多見氏の系譜については現存する江戸氏(喜多見氏)の系図に良質なものがなく、その記載もまちまちなことから判然としない部分が多く残されている。しかし、現在までの研究成果を総合すると、喜多見氏は「関東一円の大福長者」とよばれた江戸重長の孫・重方から連なる家系で、室町時代の中頃まで江戸庄に住していた江戸氏の直系と考えられる。この江戸氏が喜多見の地に移り住んだ時期についてははっきりしないが、「平氏江戸譜」には三郎・右京亮(8代目康重、嘉吉頃の人)の代に至って武蔵国木田見(喜多見)牛丸郷を本拠とした江戸氏庶流木田見氏の嫡流が木田見の名跡を継いだこの時期を、その移住期と考えるのが自然であろう。江戸時代に入ると、その末裔・喜多見重政2万石となり本拠地・喜多見の地には陣屋が置かれることになった。(世田谷区郷土資料館)


d0183387_22164216.jpg江戸重長(しげなが)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。武蔵江戸氏二代当主で、江戸重継の子。通称は太郎。治承4年(1180817日の源頼朝の挙兵に対し、平家方で同族である畠山重忠が、源氏方の三浦氏と合戦となると、重忠の要請に応じて一族の総領家である河越重頼と共に武蔵国の武士団数千騎を率いて出陣する。勢力を回復した頼朝軍が武蔵国に入ると、重長は畠山重忠、河越重頼と共に頼朝に帰伏する。同族の河越重頼、畠山重忠は鎌倉幕府初期における内部の勢力争いによって滅ぼされたが、重長は一族の重鎮として幕府に仕え、子孫も長く繁栄した。江戸氏の菩提寺である世田谷区の慶元寺に重長の供養塔である五輪塔と銅像がある。Wikipedia


江戸氏
武蔵江戸氏は武蔵国を発祥とする武家。鎌倉幕府の御家人にして武蔵国の国人領主。本姓は平氏。家系は鎮守府将軍・平良文の孫、平将恒を祖とする秩父氏の支流の一族。後三年の役で先陣を務めた平武綱の子・秩父重綱の四男・江戸重継は平安時代の末(12世紀半ば)に武蔵国江戸郷を領して「江戸四郎」を称し、江戸氏を興した。江戸氏は後の江戸城の本丸、二の丸周辺の台地上に居館を構えていたと推定されている。ただし正確な位置は不明である。重継は室に関政家(小山政光の叔父)の娘を迎え、その子・重長は猪俣党の藤田政行の娘を室に迎えるなど、江戸氏は武蔵国内の御家人との間に婚姻関係を展開した。治承・寿永の乱(源平合戦)において、江戸氏は治承4年(1180)に源頼朝が挙兵した時、武蔵国内で勢力を拡大した秩父平氏の有力な一角となっていた。重継の子、江戸重長は初め頼朝と対立して、衣笠城合戦で畠山重忠、河越重頼とともに頼朝方の三浦義明を討って衣笠城を落城させた。頼朝が再び安房から挙兵した際には、周辺の豊島氏・葛西氏は頼朝にすぐ従ったが重長は畠山・河越とともに従わず、頼朝が武蔵国鎌倉に入る障害となった。(Wikipedia抜粋

喜多見氏
名族秩父氏の流れを汲む武蔵江戸氏の後裔の一族。江戸氏は平安時代後期に江戸郷を領地とした江戸重継を祖とし、多数の支流一族を配して武蔵国の広範囲に勢力を拡大した。しかし武蔵平一揆で惣領家は衰退し、戦国時代になると江戸氏は江戸を太田道灌に明け渡して喜多見に移り、その後は後北条氏に属して世田谷城主吉良氏に仕えた。しかし天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの余波を受けて世田谷城も攻撃され、吉良氏朝は下総に逃れた。徳川家康が江戸に入ると、江戸勝忠(喜多見勝忠)は家康に仕え、喜多見の地を安堵された。そして江戸氏を改めて喜多見氏とした。(Wikipedia抜粋

江戸城の関記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22004332/



・・・・

d0183387_09340539.jpg狛江の地形と遺跡

狛江市は多摩川の左岸、武蔵野台地の南の縁に位置しています。現在、市の北を野川が南を多摩川が流れていますが、昔の野川は市北部のほぼ中央から南東に向かって流れ、また、狛江駅近くの弁財天池からは清水川が東に向かって流れていました。市内は標高20mくらいのほぼ平坦な地形ですが、かつての野川や清水川の流路と多摩川沿いはやや低い低地になっています。昔の狛江は川の流れる低地と小高い台地からなり、水と緑が豊かな環境だったと考えられます。実際に、狭い市域でありながら昔の人々が生活した痕跡である遺跡は68か所あり、人々は川に近い台地の縁に生活していました。(狛江市)


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次大夫堀流路図(赤:登戸道 緑:品川道・筏道 紫:大山道)


狛江の古い道

一の橋の交差点に立つ文政6六年(1823)の「石橋供養塔」には「東六郷江戸道」「西登戸府中道」「南家村道」「北ほりの内高井戸道」という道しるべが刻まれている。旅人は仏の像を配したこの供養塔に合掌したあと、自分の行路を確認したことであろう。道しるべを刻んだ石塔は狛江市内に10基を数える。その多くは三叉路や十字路に立っている。こうした石に刻まれているこの道の行く手となるいろいろな地名をたどると、狛江の村を通過した人たちが目指したのがどこかということがわかる。またこうした道しるべの立つところをつなぐことによって狛江の古い道を推定することも可能となる。狛江を過ぎる主要な道には次の三つがあった。①江戸-世田谷-喜多見-岩戸一の橋(または駒井)-和泉-渡船場-登戸②六郷-大蔵-喜多見-岩戸一の橋-和泉-国領(または矢ケ崎)③高井戸-祖師谷-入間-覚東-和泉-田中橋-渡船場-登戸。①は狛江を東から南西に横切るもので江戸道、大山道、登戸道ともいわれた。昭和10年代までは東京方面へ下肥を汲みにいく車で早暁からにぎわった。②は品川道、六郷道、府中道、筏道とも呼ばれた。狛江を東から北西へよぎる道である。大正頃までは多摩川を六郷まで筏を運んだ筏乗りの家路を急ぐ蓑笠姿がよく見られたという。③は狛江を南北に縦断する道である。高井戸道、鎌倉道とも呼ばれた。かつて田中橋の南の用水に鎌倉橋という橋がかかっていたが、鎌倉道の伝承に基づいて名付けられたものであろう。狛江に入る少し手前の調布市入間町には「是より泉むら子安地蔵尊二十五丁」とある百万遍供養塔(天明元年・1781)と「西 いづみ村ぢぞう道」とある庚申塔(文化9年・1812)が残る。泉龍寺の子育地蔵に参詣する人が少なくなかったことを語っている。(狛江市)


by Twalking | 2016-03-30 08:49 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 登戸道 弦巻~登戸01 大蔵   

日時 2016.3.25(金)
天気 晴れ

晴れの予報に誘われて世田谷に行ってみました。
津久井往還は三軒茶屋から分かれ津久井へと向かいます。
大山道とは弦巻まで同じ道筋、ここで分岐します。

この界隈は住んでいたので見知ったところですが、
街道として歩いてみると、また違った味わいがあります。
馬事公苑、砧公園の桜が見頃を迎え、気持よく歩けました。


・・・弦巻

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直進は大山道、登戸道はここを右折し、世田谷通りを西に向かいます/弦巻追分

登戸道
大山道から分かれ、弦巻の追分から始まり登戸に至る区間の道を登戸道と呼ぶ。正式名称は津久井往還、別名黒駒道とも言われていた。農作物や登戸近在からの果物を江戸へ運び、江戸からは肥料として下肥えを運び農業に役立てたと言われている。(世田谷区)

d0183387_15154680.jpg弦巻追分
道標(世田谷資料館にある元の道標)
銘文:(正面)左延享三丙寅 さがみ □月吉日(梵字)大山道 世田谷上宿同行五十人 年代 延享三年(1746
伝来:この道標は、もと弦巻51631の三叉路にあったが交通量の増加に伴ない、通行車両の振動や接触などで下部は土中に埋没した状態になっていた。そこで、この保存のために財団法人大場代官屋敷保存会が中心となって当館へ移設されたものである。なお、道標のあった場所にはそのよすがを留めるために同型の石碑が建立され、次の銘文を刻んでいる。「ここにあった道標は区立郷土資料館前庭に移築す。財)大場代官屋敷保存会世田谷上町町会」(世田谷区教育委員会)

大山道・三軒茶屋から用賀への関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22614408/)&(http://teione.exblog.jp/22619327/



・・・馬事公苑界隈

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直進ですが、左も無眼寺へ向かう旧矢倉沢往還とか、行って見ます/松が丘交番前 

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旧道風景 馬事公苑へ行くのによく通った道、懐かしいですね/弦巻5


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左手に馬頭観音            馬事公苑弦巻門


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世田谷通りからの景観

馬事公苑界わい/上用賀2
東京オリンピックの馬術競技の会場になったことで有名。背の高いケヤキ並木をくぐって入る苑内は広大で、多くの樹木や草花が季節をいろどる。雑木林を散策するとかつての武蔵野の姿が思い浮かぶ。ケヤキ並木の道は広場として整備され、また一つ魅力を加えた。(せたがや百景)

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桜が早いですね~/放牧場

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走路                 正門


d0183387_16325473.jpg馬事公苑の由来と苑訓
馬事公苑は騎手の養成、馬事普及および馬術振興のため昭和15年(1940929日に開苑いたしました。当時の苑訓として次の三訓が掲げられました。
・至誠を以って騎道作興すべし 
・努力を以って百錬自得すべし 
・和協を以って人馬を一如たるべし
この苑訓は、時が移り人が代わっても、馬を愛し馬術を志す人の心に、脈々と受け継がれております。開苑50周年を記念して、正門を改修すると同時に、ここに記念碑として設置いたしました。(説明文)


・・・桜丘


世田谷区の地理的中央部に位置し世田谷地域に属する。旧・荏原郡世田谷村。隣接する世田谷区桜に置かれた桜小学校に関係がある。大正119月、桜小学校の分校として横根分教場が置かれる。昭和5年横根分教場は独立して第二桜尋常小学校と改名。昭和16年さらに桜丘国民学校(現:桜丘小学校)に改名され、これに由来する。
Wikipedia

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久成院/桜丘4

天台宗、深大寺末で南照山東耀寺という。無住の時代が久しかったので古い文献は一切所蔵されておらず、したがっていつごろ開基されたかはっきりしないとの事であるが、開山の良尊法師が天和1(1681) 213日に没していることが墓碑に記してあるので、天和年より2.30年前に建立されたものであろうと思う。本尊は7寸の阿弥陀如来(坐像〉で脇侍は観音・勢至の両菩薩である。(せたがや社寺と史跡)

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宇山稲荷神社/桜丘4

祭神:宇迦之御魂神 
新編武蔵風土記稿の荏原郡の部に「宇奈根山谷、村の西の隅にあり」と記されて居るので、今の宇山の名はこれが縮まったものと思ふ。明治初年無格社稲荷神社であったので、相当昔から土地の人等が稲荷社を祀って居た証拠である。其の後明治42612日当時の合祀令により郷社宇佐神社、今の世田谷八幡宮に形式上合祀されたが、昭和29126日神社本庁所属の宗教法人稲荷神社として登記された。「西向稲荷」と稱して参拝する人もあり又「防ぎ神の神事」等古来の信仰行事を続けて居るのもこの神社を除いては少なくなった。(境内由緒板)


・・・砧

古く78世紀のころ、朝廷に納める布を衣板でたたいて柔らかくし、つやを出すために使った道具から生まれたといわれています。女の人の夜なべ仕事として砧の音が響いたことや、その布を染め、多摩川の清流にさらして洗ったことなどは詩情にもうたわれてきました。(世田谷区)

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旧道風景 街道は直進、左へ進み砧公園に寄り道/大蔵1

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ここを左折/宇山バス停先       三本杉陸橋を迂回/環8


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横根稲荷神社/大蔵1
往古より三本杉横根のお稲荷様と尊称され、稲荷講を中心として篤い崇敬と深い信仰をあつめてきました。御社殿は永い年月により老朽化がはなはだしくなり、相寄りあい語らいて御造営をいたし、御神徳をお慰め申し上げることに致しました。子々孫々に至まで大神様のご加護を戴き互いに睦び和らぎつつ平和な世をおくり稲荷様の杜を後世に伝え護ることを祈念いたします。(建設委員会)



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広い芝生と深い森、ここは憩えますね。(前身は期限2600年記念事業として都市計画決定された大緑地。戦中は防空緑地、戦後は都営ゴルフ場でした)

砧ファミリーパーク(世田谷美術館)
日比谷公園の約2倍の園内には一面緑の芝生が敷きつめられている。ゆるやかな起伏と木々が公園の景観にほどよい変化を与えている。家族連れやグループでのんびり一日楽しむには絶好の場所で、遠近各地から訪れる人々が多い。園内にオープンした区立世田谷美術館も人気を呼んでいる。(せたがや百景)

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世田谷美術館


・・・大蔵

『江戸名所図会』は延暦期に武蔵国守兼大蔵卿の石川豊人が居住していたことを由来とする。1240年(仁治元年)足立景盛の次男兼周が石井郷を拝領して石井氏を名乗り、現在に至るまで旧家として残る。永享の乱で鎌倉を逃げ延びた二階堂盛秀の子秀高(清仙上人)が1490年(延徳2年)、鎌倉大蔵ヶ谷にあった永安寺を同じ地名のここ大蔵に再建した。16世紀には吉良頼康の所領で、1557年(弘治3年)大平氏に給付された。1633年(寛永10年)彦根藩領となる。江戸時代後期には国学者石井至穀を輩出した。
Wikipedia


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旧道風景 仙川へくだります、いい坂ですね/日大商学部先

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NHK技研前で合流          旧道は右側を下ります

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仙川・石井戸橋を渡ります       砧小横断右折、すぐ左折


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エドヒガンの枝垂れとオオヤマザクラ見事です


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山門                 桜味堂の桜葉餅置いてました

d0183387_22331252.jpg妙法寺
(みょうほうじ)
世田谷区大蔵にある日蓮宗の寺院。開基はおおよそ今から350年であると言われている。寛永年間の頃に現在の世田谷区宇奈根にある常光寺に当地の人が発願して、この地にも寺院を作ってもらったのがルーツであるとされている。発願した代表者は、当地に長年住んでいた安藤家の人で、安藤家の旧住居は現在世田谷区の文化財に指定されている。現在の本堂は1938年頃のもので、山門は江戸時代に現在の目黒区の碑文谷にある法華寺(:園融寺)の門として建てられていたものを1986年に当地に移築したものである。1994年に境内に高さ8mの「おおくら大仏」が完成、「回転する」ハイテク大仏として知られている。Wikipedia


d0183387_11154149.jpg砧小学校の桜

小学校の校庭に咲く春の桜は誰にとっても懐かしい思い出のあるものだ。砧小学校の桜の老木には地区の子ども達の入学と卒業を何十年にもわたって見守りつづけてきた。(せたがや百景)


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旧道風景 素晴らしい縄手道、野川へ下ります/砧幼稚園角
(後で調べたらこの水道橋へ下る道は荒玉水道道路でした。登戸道は右折し上流の茶屋道橋を渡る道筋になります)


・・・・・
資料ファイル

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世田谷の古道/世田谷区
(赤:登戸道 橙:大山道 緑:瀧坂道 紫:甲州街道 青:鎌倉道)

世田谷の道つくりについて
世田谷の道づくりの歴史は古く、人口2万人足らずの農村地帯だった明治初期には村落と村落とを結ぶ道路が自然発生的にでき、人々に使われていました。その中でも甲州街道や大山街道(現在の玉川通り)、登戸道(現在の世田谷通り)は、当時から幹線道路としての役割を果たしていました。(世田谷区より抜粋)


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世田谷二十ヶ村絵図(複製) 文化3年・1806/世田谷郷土資料館
(赤:登戸道 紫:おおやま道 橙:甲州街道 黄:滝坂道)


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世田谷知行地図(近世初期)/世田谷郷土資料館 


by Twalking | 2016-03-27 13:22 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 仙川リバーサイド&祖師谷   

日時 2016.3.3(木)
天気 晴れ 

成城の台地の西には野川、東は仙川が流れます。
瀧坂道でも会いましたが宿題も残してましたので、
成城から仙川の遊歩道をぶらりと歩いてみました。

この界隈は両岸が高く、ちょっとした小渓谷をなし、
その間を蛇行して流れる仙川の様はなかなかのものです。
国分寺崖線とはまた違った雰囲気が味わえます。


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左が成城、右は祖師谷、仙川が境になります/小田急線&成城橋(成城2丁目)


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成城学園中の横断橋の先が桜橋です/祖師谷3丁目


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続いて稲荷山橋、左が成城学園高校、右が同初等学校になります/成城6丁目


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桜並木が切れて大石橋まで住宅地を行きます/成城7丁目


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大石橋を左折すると観世音堂があります/成城7丁目


d0183387_14494827.jpg観世音堂
当観世音堂は承応3年(1654)祖師谷村信徒一同の誓願に依り起立されたもので、延宝2年(1674)同村安穏寺
住職権大僧都法印秀我の代に修復、其の後元禄1311月(1700)に再建、今日に至っております。堂は四間半四方、十一面観音は寄木造一尺八寸許17世紀後半のものと云われ、不動明王像には元禄106月(1697)の刻がある。境内燈籠の最も古いものは、萬治210月(1659)の建立である。観世音菩薩は古来子供の無事・生長を御加護下さる「子育観音」と云われています。(説明板)


d0183387_14501712.jpg薬師堂
当薬師堂は享保119月(1726)安穏寺
住職権大僧都法印賢光の代に下祖師谷村福田甚左衛門願主となって創立し、其の後明治中期に当境内に移設されたものであります。薬師如来は昭和35年作寄木造、脇侍は一木造、十二神将立像は何れも江戸時代中期の作と云われている。薬師如来は心と身体の病をなおし生きる命の力を授けて下さると云われ、特に「眼病」にごりやくがあらたかであると古来当地の人々の信仰の厚い薬師さまです。(説明板)


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仙川遊歩道、なかなかいい道です/成城9丁目


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祖師谷公園のせきれい橋。鞍橋を右折し釣鐘池バス停へ/鞍橋(上祖師谷4丁目)


・・・祖師谷


祖師谷は世田谷区中部に位置し砧地域に属する。祖師ヶ谷大蔵駅の北側が祖師谷で(南側は砧)、北口周辺と駅に通じる祖師谷通り、西通りを中心商店や住宅が広がっている。周辺に円谷プロダクション本社があったことなどからウルトラマンを用いた街起こしがされている。祖師谷という地名の起こりは、一つには村の谷の近くに地福寺というお寺があってその境内に祖師堂があったためという説がある。また一方の説では、鎌倉時代初期にこの地に住んでいた豪族の粕谷氏が、弘安年間に法華宗の開祖・日蓮の布教によってその教えに帰依する人々が多い中で、法華宗を深く崇敬し領内に一堂守を建立(祖師山院就沢寺(後焼失)と命名)し、日蓮の死後に祖師像を彫刻し安置したことによるとされている。(Wikipedia


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住宅地に囲まれてありますので探すのに苦労しました/祖師谷5丁目


d0183387_15110794.jpg釣鐘池

釣鐘池は標高凡45mの武蔵野台地に囲まれ、昔は深い自然林におおわれて野川の一支流である西方の仙川に注ぐ豊富な湧水池であった。台地上にはこの水を求めたであろう古代のひと達の遺跡である。縄文時代中期の住居跡が昭和52年(1977)の区教育委員会の発掘調査によって確認されている。人々は生活の水を求めて野菜などを洗い、洗い場組合を作って水を大切にしたし神様にお祀りした。毎年47日には今でも弁天祭が行われ、また日照りのときは雨乞いの行事も以前あった。伝説によると近くにお寺があり仏教徒の争いのあげく僧が寺の鐘を被ってこの池に身を投げたとか、あるいは日照りで農民が困った時これを救おうと僧が釣鐘を抱いて池に身を沈めたところただちに大雨が降ったなどといいつたえ、それ以後「つりがね池」と呼ばれるようになったという。(世田谷区教育委員会)

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祖師谷つりがね池
雨乞いのため、僧が釣鐘を抱えて身を沈めたことからその名がついたと伝えられている。現在は付近の子ども達の絶好の遊び場だ。池の周辺には緑も残り、雨の降った後には池底から水が湧き出すのを見ることもできる。小さな風景だが、なんともいえない親しみがある。(せたがや百景)

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d0183387_21132812.jpg祖師谷神明社/祖師谷5丁目

創立・由緒・沿革については不詳であるが古老の口碑によれば「正平年間(134669)新田義興・義宗等、足利尊氏を討つべく義憤の兵を興し、各所に戦い勝に乗じ逃るるを追いてこの地に来た時、小祠があるのを見て、祭神の何たるを聞き天照皇大神たるを知り吾が憩いたるは皇祖の吾を助くるものなりとて戦勝を祈願し、甲冑一具を献じ兵を励まして出発した。その後、村民崇敬し、年とともに栄えた。昭和23年祖霊社を建立、昭和38年神楽殿・社務所を建築、社殿屋根銅版葺替工事をおこなった」そうです。


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ウルトラマン商店街/祖師谷大蔵駅前

当駅から祖師谷通りを約800メートル南下した場所に円谷プロダクションの旧本社(後の砧社屋)があったことから「ウルトラマン発祥の地」と呼ばれていることにちなみ、駅周辺の商店街を2005年から「ウルトラマン商店街」と名づけた。駅前広場や商店街の端にゾフィー、ウルトラマン、ウルトラマンジャックが飛んでいる姿のシンボル像「ウルトラマンアーチ」が西通り保健センター、北通り塚戸十字路、南の耕雲寺の近くの3ヶ所に建設された。ウルトラマンを合言葉に安全安心で賑わいのある街づくりを目指している。(Wikipedia

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祖師谷周辺地図
(赤:ルート 青:仙川 橙:戸塚十字路・祖師谷大蔵駅)

瀧坂道・上祖師谷の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22903611/


by Twalking | 2016-03-06 13:32 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり成城・国分寺崖線   

日時 2016.3.3(木)
天気 晴れ


ほんとうに久し振りに成城へ行ってきました。
閑静な住宅街、お洒落な店・・・人気がありますね、
車ではよく行ってたんですが。

今回は野川と仙川に挟まれた成城の丘の周辺、
特に国分寺崖線を上からと下から見るのが目的です。
部分的にしか歩けませんが、それでも十分。

すばらしい「自然」と「みどり」が保存されています。
街といい、崖線といい、川といい、歩くには最高ですね。。。


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成城学園前駅・北口

成城

東に仙川、西に野川が流れ台地状の土地に街は広がる。また、西に国分寺崖線、神明の森みつ池がある。住居表示としての成城は小田急線の成城学園前駅を中心とした約68万坪(225.9ヘクタール)に及ぶ地域、都内屈指の高級住宅街として有名である。明治の末ごろまでは北多摩郡砧村大字喜多見と呼ばれ、武蔵野の雑木林と原野が広がっていた。この地に小田急線が開通することを突き止めた小原國芳の尽力で、学園建設資金捻出のため周辺の土地2万坪を購入し、区画整理をして売り出す。当時、この土地をみた小原は、「雑木林、家一軒もない、この百二十丁歩の高台、地価は安く、家はなし、いい高台で、西に富士の秀峰、足下は玉川の清流、全く不思議な土地でした」と述べている。小原は、さらに、中央鉄道(現在の小田急電鉄)と交渉して学園前駅の開設の約束を取り付けた。学園用地24000坪のうち1万坪は地元の大地主の鈴木久弥の寄付によるものであり、小原は鈴木から現金1万円(当時、公務員の給与は75円)の寄付をも受けている。地名は1925年(大正14年)に東京市牛込区(現新宿区)原町の成城学校(現、成城中・高等学校)からこの地に分離独立してきた成城学園が由来であり、「成城」というのは中国の古典「詩経」の大雅の一節にある「哲夫成城」に由来する。(Wikipedia


d0183387_14490775.jpg成城学園前のいちょう並木

大正末期.から昭和の初期にかけて計画的に造成された住宅地である成城のまちには、まちの人々が大事にしてきた景観がそこかしこに見出される。学園前に伸びるイチョウ並木もその一つで、四季それぞれにまちに表情を与えてくれる。(せたがや百景)


d0183387_14510000.jpg成城大学正門






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成城の桜並木/成城6丁目

桜のないまちの春はなにか物足りない。満開のときなど、まちに一斉に春が訪れたことを告げてくれる。花実の宴のにぎわいはないが、路上や家々の屋根に降る花びらは、閑静なこのまちに春の風流心を呼び起こす。(せたがや百景)


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庭園

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和室                 書斎

旧猪股邸住宅/成城5丁目

旧猪股邸は、財団法人労務行政研究所の理事長を務めた故・猪股猛夫氏ご夫妻の邸宅として建てられたものです。母屋は文化勲章受章者の建築家・吉田五十八の設計によるもので、武家屋敷風の趣がある数寄屋造りの建物です。邸内にはアカマツをはじめとする多くの樹木や、居間に面した一帯にスギゴケを植えて水路を配した回遊式風の日本庭園としています。この邸宅を猛氏の長男・猪俣靖氏が「貴重な文化財として末永く残したい」との意向から平成8年11月に(財)せたがやトラスト協会と保全協定契約を締結、平成10年7月に世田谷区に寄贈、そして平成11年から当協会の管理により一般公開が始まりました。(パンフ)


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成城みつ池/崖線上の広場
(成城4丁目)
成城みつ池周辺は「都市計画緑地」として定められています。その一部は都市緑地上の「成城みつ池特別緑地保全区」や世田谷区みどり基本条例における「神明の森みつ池特別保護区」として指定されています。(世田谷区)


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崖線に付けられた階段を下ります


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ここが入口              やはり立派な邸宅ですね

成城4丁目発明の杜市民緑地
故「樫尾俊夫雄」氏(カシオ計算機株式会社の設立者)が発明の多くを考案した自宅の庭であった事に由来。この緑地は地域の原風景や自然環境を保全しながら、区民に憩いの場を提供することを目的に土地所有者と契約を交わし、地域の皆さまに公開しています。(世田谷トラストまちづくり)


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発明の杜市民緑地のすぐ隣の森です

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崖線の上(入口)           崖線の下

成城4丁目緑地/成城4丁目
桜やアカマツの木々やミツバツツジの群生、崖線樹木園などがあり、崖線の上と下を繋ぐ散策路でみどりを楽しむことができます。冬の晴れた日には木々の向こうに富士山を眺めることができます。(案内板)


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なにがあるんだろう?上ってみたくなる坂、行ってみよっと/崖線下


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下ると野川に架かる谷戸橋、左手が国分寺崖線になります/東野川広場


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野川に沿って折り返してみつ池へ/崖線下のみつ池広場


成城みつ池
/成城4丁目
成城みつ池は「世田谷のみどりの生命線」と呼ばれる国分寺崖線の上にあります。4ヶ所の湧水があり、斜面にはコナラ・クヌギ等の雑木林があり、水際にはハンノキ、セキショウなどの湿性植物がみられ、ニリンソウ、キンラン等の希少種も自生しています。23区内には珍しいゲンジボタルの自生地となっています。サワガニ、カブトムシ、オニヤンマ、ウグイスの他、都の指定する絶滅危惧種であるフクロウも飛来します。「みつ池」の名は、かつて三つの池を作り、水を暖めて田んぼに流したことから来ているといわれています(世田谷区)


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十一山市民緑地/成城4丁目



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成城みつ池北緑地/成城4丁目

もともとは住宅地でしたが、国分寺崖線のみどりを保全する目的で整備された緑地です。崖の下から崖の上の広場まで散策路で結ばれ、大きなアカマツやモミジをはじめとする斜面のみどりを楽しむことができます。崖の上の広場まで登ると、景石を配した広場となっています。冬の晴れた日には落葉した樹木の額縁から富士山や丹沢の山々を望むことができます。(案内板)


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フェンス越しにみることができます。

成城34丁目の国分寺崖線の樹林
崖線に沿って緑が豊かに残されている。低地に下る坂は両側の深い緑で隈取られ大地との間に陰影をかたちづくる。まちに変化に富んだ散歩道があることは素晴らしいことだ。(せたがや百景)

神明の森みつ池
(しんめいのもりみついけ)世田谷区成城にある緑地である。国分寺崖線上に位置し、湧水が4か所存在する。ハンノキやクマシデなどの落葉樹の天然林と、武蔵野の林を代表するクヌギやコナラなどの林が混じり合っている。東京戸23区内では2か所しか自生していないゲンジボタルや、絶滅危惧種に指定されている動植物が数多く残る、貴重な自然保護区である。特別保護区となっており、開放時期は年数回の観察会に限られている。(Wikipedia


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滝の脇から階段を上ると本殿があります


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珠姫稲荷            岩谷不動

喜多見不動堂/成城4丁目

この不動堂は喜多見慶元寺の境外仏堂で、本尊は不動明王坐像である。創建は明治95月で村内安全、諸難消除、各願成弁のため喜多見の住人浦野半次郎が発起人となり西山八郎兵衛、田中福太郎、宮川太郎兵衛、田中留吉、宮川安五郎、西山伊兵衛の各氏が願主となって、有志の寄進を得て今の地に堂宇を建立し尊像を安置したものである。この尊像は、明治の初め多摩川大洪水のとき、喜多見川原に流れ着いたものを前記の願主たちが成田山新勝寺で入魂したものと伝えられている。境内には湧水による滝があり、かつては信者が水行した。また、この滝口には滝不動が祀られている。堂宇と並んで岩屋不動、玉姫稲荷、蚕蔭大神を祀った小祠がある。
毎年冬至の日には星祭りが執行され、護摩が奉修され、特に南瓜に”真田幸村”と書き、自分の名を併記して護摩供養すると喘息や中風に罹らないという南瓜護摩が古くからこの日に行われている。(世田谷区教育委員会)

慶元寺の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23022006/


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成城の富士見橋と不動橋
切り通しを抜けて小田急線が走る。二つの橋はこの小田急線に架かっている。よく晴れた日は、崖線を越えて丹沢の山々や遠く富士山を望むこともできる。夕日の沈むころは、懐かしい哀愁のただよう陸橋の風景が浮かび上がる。(せたがや百景・富士の見える橋)


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成城3丁目桜と紅葉の並木

春の桜のころや新緑の5月ももちろん美しいが、秋の紅葉のトンネルも素晴らしい。落葉を踏みしだいて歩く趣のある散策路だ。この小風景を愛する住民も多い。車の入らないこうした小道はまちなかに奥行きをつけてくれる貴重な空間だ。(せたがや百景)


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成城三丁目緑地

三丁目緑地は多摩川が長い年月をかけて削ってできた「国分寺崖線」にある森です。もともとは国の土地に宿舎や建物がありました。人々の暮らしを支えた雑木林や斜面から流れ出る湧き水、竹林などがあります。(案内板)


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崖線を下ります


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きよみずばし             崖線下の湧水


成城三丁目緑地
成城の住宅街の中にある成城三丁目緑地には斜面林とともに2箇所の湧水地があります。多くの自然が残されサワガニやカブトムシなどを観察することができます。現代の生活にあった「まちの里山」をテーマに、地域住民が中心となって、住民参加による公園づくりを行っています。(世田谷風景資産)


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成城学園前駅・南口


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世田谷みどりのフィールドミュージアムMAP
(赤:ルート 青:野川 橙:喜多見駅・成城学園前駅)



・・・
資料ファイル

国分寺崖線とは
多摩川が10万年以上かけて武蔵野台地を削ってきた段丘のことで、立川から国分寺、調布を経由し世田谷から大田区へ続く約30kmの「崖のつらなり」をいいます。多摩川と野川に沿って約8km続き、高さ10~20mの斜面から成ります。緑が帯状に存在し、湧水など自然環境に恵まれた崖線は世田谷の「みどりの生命線」ともいわれています。(案内板)

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成城付近の崖線の緑地
(黄色:緑地 青:野川 茶:小田急線 紫:東名)


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崖線の地層

野川

東京都を流れる多摩川水系多摩川支流の一級河川。国分寺市東恋ヶ窪一丁目の日立製作所中央研究所内に源を発し、南へ流れる。世田谷区鎌田で北から流れ来る仙川を合わせ、世田谷区玉川一丁目付近で多摩川に合流する。野川は、南岸が平坦なのに北岸が急斜面となっていて、両岸の高さが違う。北の崖は、武蔵野段丘面を多摩川が削りこんで作った国分寺崖線である。「ハケ」と呼ばれる崖の斜面からはかつてに比べれば大幅に減少しているものの清水も多く湧き都内でも珍しい自然が残っている。野川が流れる立川段丘面は、2万~3万年前の更新世に古多摩川が流れて作った河岸段丘である。その時代の多摩川は立川段丘面に礫を残しながら武蔵野段丘を横から削っていた。多摩川本流が流路を変えた後に、国分寺崖線の湧水を集め多摩川旧河道を流れた小河川が野川である。野川には多摩川が運んで残した礫の層(立川礫層)を削るほどの流量がなく、礫層を川底にして浅い谷を作った。野川の上流部北側には旧石器時代の遺跡がある。(Wikipedia



by Twalking | 2016-03-04 22:41 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 滝坂道を行く04 祖師谷   

日時 2016.2.18(木)
天気 薄曇り


祖師谷は駅前くらいしか知りません。
なんかこみごみとしていた感じ、の記憶ですが、
少し離れるとのどかな田園風景が残っています。

世田谷に住んでいてよく車で通った道ですが、
こうして歩いてみると懐かしさとともに新たな出会いも、
道は面を繋ぐでしょうか、面白ですね。


・・・祖師谷

祖師ヶ谷という地名の起こりは、一つには村の谷の近くに地福寺というお寺があってその境内に祖師堂があったためという説があります。また一方の説では、鎌倉時代初期にこの地に住んでいた豪族の粕谷氏が、弘安年間に法華宗の開祖日蓮上人の布教によってその教えに帰依する人々が多い中で、法華宗を深く崇敬し、領内に一堂守を建立(祖師山院就沢寺(後焼失)と命名)し、日蓮上人他界後に祖師像を彫刻し、安置したことによるとされています。(世田谷区)


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広がったんですね、狭い道でしたが・・・/東京中央農協前


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交差するのが「六郷田無道」左手の旧道へ進みます/榎交差点


上祖師谷の六郷田無道

狭いうえにも交通量が多く、古い道とは想像もできない。しかし、道筋に寺や社を見つけると、かつてののんびりした往来が目に浮かんでくる。地形に素直に合っている古い道は、なぜか人の匂いがある。(せたがや百景)


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旧道風景 安穏寺坂を仙川へ下る/安穏寺門前


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武家屋敷風の安穏寺

寛永年間(1624-44)に建てられたといわれるが、一時荒れはてていたため詳しいことは不明。古い墓石には名字を持つものが多く、謎が深まる。車の往来の激しい坂道に沿って、山門や白壁の塀が黙然と存在している。(せたがや百景)



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d0183387_21510759.jpg安穏寺

舜栄山行王院安穏寺と号する。新義真言宗智山派に属し、川崎市小杉の西明寺の末寺である。明治維新の前後18年余り無住となり東覚院の兼務寺となる。この頃、寺の荒廃はなはだしく博徒が出入りする程のあれようであった。明治18年には風禍により本堂が倒壊したが大正14年まで再建されず庫裡を本堂として過した。このような状態であったので、寺に関する資料はほんど失われてしまったが、墓碑・石灯寵などから吉岡九郎左衛門が元禄年間(1688~1703)に開基したもの思われる。当寺3世の墓は吉岡九郎左衛門の裏山から運ばれたものである。また過去帳などから等々力の満願寺からきた権大僧都元光が寛政年(1789~1800)に中興したとも云われている。本尊は不動明王で木の坐像22(70cm)のものである。なお境外の地蔵堂には岩船地蔵尊を安置している。(せたがや社寺と歴史)


d0183387_21552586.jpg類さん川/駒大グランド手前

大川(今の仙川)の東堀の現在の上祖師谷まちづくりセンター付近をさす。原島類蔵という人が住んでいたのでこの名の由来がある。田んぼが盛んだった昭和30年前半までは、現在の佼成幼稚園と第一生命グランドとの間(現みどり橋)に灌漑用の堰があった。これを「おおぜき」「おおたげえのせき」といった。田んぼに水が必要なとき、この堰で仙川の水深をあげ西堀と東堀に水を流し田を潤した。(上祖師谷郷土研究会)


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d0183387_23153308.jpg仙川/宮前橋

現在の上流部は人工的に作られたもので、小金井市の新小金井街道直下が「上端」と定められ、東京都による立札が設置されている。野川宿橋の所から川幅が広がり流れも自然な蛇行となる。ここが21世紀現在確立された最初の水源である(正確には地下水汲み上げ場所・樋口取水場)。少しずつ蛇行しながらおおむね南東方向に流れてゆき調布市に入る。両岸に祖師谷公園を見て通り抜け、成城に達して成城学園の横を流れ、世田谷区鎌田で野川に合流する。三鷹市新川丸池公園にかつて丸池という湧水池がり、たくさん水が湧いていたことから千釜と呼ばれていた。この千釜という言葉が仙川の由来といわれている。また、流域に仙人が住んでいた伝説からという説もある。Wikipedia


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祖師谷公園
世田谷区上祖師谷にある都立公園。昭和188月に防空緑地のひとつとして計画された「祖師ケ谷緑地」に由来する。計画開始から34年後の昭和50年、旧東京教育大学の農場跡地を中心として「祖師谷公園」として開園した。仙川が園内を南北に流れ公園は東西に分かれている。なお現在も造成は完了しておらず周囲の土地買収が進められている。その対象のひとつに世田谷一家殺害事件の現場となった家屋(公園北部に所在)も含まれているが、平成25年現在も事件が未解決であることから現場保存の意味合いもあり、取り壊し及び公園の造成再開の目処は立っていない。Wikipedia)

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祖師谷公園マップ(赤:滝坂道 黄:宮前橋)



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上祖師谷神明社例大祭

浅葱色をした社殿は昭和41年に建てられたもの。江戸時代から上祖師谷の鎮守だったと思われます。神明社の脇を通る道は、昔「滝坂道」といわれた街道で現在も交通量は多い。時代の激しい移り変わりをじっと見つめてきたお社です。(せたがや百景)


d0183387_22202692.jpg上祖師谷神明社(祭神:天照皇大神)
創立縁由沿革等詳ナラズト雖モ当社ハ新編武蔵風土記稿ニ登載セラレ、又享和元年9月建立ノ石燈籠及ビ文久弐年八月建立ノ手洗石アリ。明治612月村社ニ列セラル、明治41年会計法指定神社トナル。明治42年同所字大道北796番地無格社稲荷社及ビ同所字本伊勢449番地無格社本伊勢社ヲ合祀ス。社殿ハ明治431218日改築申請、同月23日認可、明治454月落成、遷座祭執行。昭和29121日宗教法人登記。昭和4112月・21日本殿、祝詞殿、社務所改築申請、昭和42115日庶収第401号神社本應統理承認.昭和41121日祖師谷1丁目1205番地三峯社、同所1207番地厳島社ヲ合併申請、昭和42115日庶収第404号神社本應統理承認、同日庶収第405号合併ニヨル境内神社創立規則変更承認。昭和42313日付第63号東京都知事合併及ビ規則変更、三峯社、厳島社境内神社ト記入承認証。昭和4245日宗教法人合併登記完了.昭和42111日社殿、社務所、石鳥居、境内整備竣工完了、正遷座祭執行、引続キ113日遷座奉祝祭執行スル(説明板)

d0183387_22213287.jpg上祖師谷之沿革

祖師谷という名の由来は諸説あるが、むかし釣鐘池北側の高台に日蓮宗の地福寺という寺があり、そこに祖師堂があったのが地名の由来となっている。それまで一つだった祖師谷村が江戸元禄10年(1697)に上・下の祖師谷村に分かれた。江戸幕府によって編纂された新編武蔵国風土記稿・文政11年刊(1828)には「上祖師谷村は郡の(多摩郡)東南にあり(中略)村内に10丁余かかれる一条の街道あり、甲州の裏道と云。(中略)民戸67軒所所々に散在せり(人口323人)」とある。この一条の街道とは神明社の(旧青山道又は滝坂道)現仙川通りのことである。甲州街道滝坂より青山まで至る重要な街道であった。また、風土記稿には「用水は上仙川村より来れる流をもって田圃に沃せり」とある。この用水とは現仙川のことである。大川と呼ばれたこの川は三鷹市勝淵神社前の丸池を水源とした川で、この川の水を利用して江戸時代より田圃が作られていた。また水車も二ヶ所あった。神明社の創建は不詳であるが、前述の風土記稿には「神明宮村の中程にあり、ここの鎮守なり。前に15級の石段あり」と書いてある。境内には安永6年(1777)の太鼓、享和元年(1801)の石灯籠、文政年間の幟、文久2年の手洗石等が現存している。祭神は天照皇大神、相殿倉稲魂命が祭られている。この両神は農耕豊作の神である。田を見下ろす高台に古より村人により祭られたものであろう。本年神明社遷宮45周年、奉賛会設立50周年を記念し、神明社崇敬者の安寧を願いこの記念碑を建立するものである。(碑文)


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旧道風景 右手が「大道北」地区になります


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手前に庚申塔             大道北記念公園の案内板

「大道北」地区の歴史

我が町「上祖師谷」は世田谷区の西北にあり、江戸開府の頃は祖師谷村と言われていました。その後村は大川(仙川)の上流を上祖師谷、下流を下祖師谷(今の祖師谷)と川の上下で二村に分かれました。上祖師谷の中央を東西に走る道は大道(または滝坂道)と呼ばれています。大川の西側と大道の北側が「大川北」地区です。「大川北」地区は昭和30年後半まで大川の水を利用した水田が広がり、乳牛や養鶏も営む世田谷有数の農村地帯でした。(大川北土地区画整理組合)


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上祖師谷の周辺地図(赤:滝坂道 青:宮前橋・仙川)



・・・調布

現在の市域に当たる区域は武蔵国多磨郡内の一部として属した。布田5宿があり、甲州街道の国領宿(日本橋より4番目)・下布田宿・上布田宿・下石原宿と上石原宿(同8番目)がこの地にあった。本陣と脇本陣が無く旅籠だけの小さな宿場であったが、布田天神社の市場は賑わった。
調布という名称は昔の税金である租庸調の調(その土地の特産物を納める)で布を納めていたことに由来する。調布と書いて「たづくり」もしくは「てづくり」とも読んでいた。調布市内には布田(ふだ)、染地(そめち)など布にかかわる地名が存在する。江戸時代までは多摩川で布をさらしていた記録が残っている。「多摩川にさらすてづくりさらさらに何ぞこの児のここだ愛(かな)しき」という万葉集の歌が布多天神社に残っている。Wikipedia


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旧道風景 調布市に入ります/若葉町

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実篤記念館寄るの忘れたな~      京王線を越えます 


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あれ、キュピーさん、いない?!/仙川2丁目交差点

d0183387_12045338.jpg滝坂道の出口です/R20号

仙川キユーポート
閉鎖した旧仙川工場(20113月閉鎖。1960年から1969年まで本社)跡地に201310月開設。上記の通り渋谷区の本社ビル建替完成までの仮本社が置かれていた。


若葉町・実篤公園付近の関連記事は琴らへ(http://teione.exblog.jp/23100786/




・・・滝坂(甲州街道)

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滝坂

甲州街道の旧道が国分寺崖線を上下する急坂である。「八王子以東の甲州街道で旧観をとどめている唯一の貴重な場所」といわれ、「調布の古道・坂道・水路・橋:75頁」に「この坂の名は、大雨のとき、雨水が路上を滝のように流れ下ったことからついたといわれる」とあり、また坂上は旧滝坂道の崖うえで、東南側に文政13年(1830年)に建立された薬師如来坐像〔「調布市の石造物(1)路傍の石仏」24頁より〕が立っている。(「坂のプロフィル」さんより)

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馬宿川口屋&標柱           薬師如来坐像


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「滝坂下」の信号に名が残ります/つつじが丘駅入口(甲州街道)


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瀧坂道ルート図 (紫)起点:道玄坂上 終点:瀧坂 
(橙:旧甲州街道 赤:大山道 茶:津久井道)



by Twalking | 2016-02-21 22:51 | 東京散歩(新規)