無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:東京散歩(新規)( 121 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり『高浜運河沿緑地』   

日時 2017.12.12(火)
天気 晴れ

天気がいいので品川から運河沿いを歩いてみました。
学生の頃、芝浦の倉庫街でバイトをしてましたが、
すっかり様変わりして、いい街になりましたね~。

天王洲は品川沖ですから歩いても近いですよ。
行き交う船やカモメが飛んで、海を感じられる
お手頃な散歩コース、「シーサイド」はいいですね!



・・・港南/港区


港区南部の東京港に面した沿岸に位置する。ほぼ全域が埋立地であり「隅田川口改良計画」の東京湾埋立3号地、「東京港修築事業計画」の埋立9号地、品川埠頭埋立地からなる。北で芝浦および海岸、南で品川区北品川および東品川、西で高輪、東で東京港を挟んで対岸に台場と隣接する。嘉永
61853)ペリー来航により危機感を抱いた江戸幕府が、江戸防衛のため現在の港南にあたる地区に台場(品海砲台)を建設する。1912年(明治45年)隅田川口改良工事が始まり、そのとき浚渫された土砂を使って芝浦一帯(現在の港南)の埋め立てが開始される。1933年(昭和8年)高輪海岸埋立地高浜町が起立され東京市芝区の所属となる。Wikipedia



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インターシティーの高層ビル群、再開発ですっかり変わりましたね/品川駅港南口

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御楯橋方向の景観です。高浜運河の両岸には遊歩道が付いています/楽水橋

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楽水橋から旧東海道の北品川宿は近いですよ/遊歩道

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右岸のモニュメント                モニュメントから覗いてみました


・・・東品川
(ひがししながわ)/品川区

品川区東部に位置する。北部は港区港南に、東京港になり品川区東八潮になる。南東部一体は京浜運河に接し八潮になる。東品川は旧来の陸地と新興の埋立地からなっており住宅、オフィスビル、港湾関連の施設、工場、商店などが見られる。東品川二丁目天王洲アイルと呼ばれており1990年代以降、先端的なオフィスビルが次々と登場した区域として知られる。東品川五丁目は北部の港区港南とともに品川ふ頭の一角を担っているところで港湾関連の施設や発電所が見られる
。(Wikipedia

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天王洲運河が区界、前方はかつては旧目黒川の河口だった所です/天王洲橋



・・・天王洲アイル/品川区

東品川
東品川二丁目に東京モノレール羽田空港線・東京臨海高速鉄道りんかい線の天王洲アイル駅がある。シーフォートスクエアの北半分にあたるシーフォートタワー付近は、江戸時代末期に江戸防衛のため築造された第四台場の跡である。また、ボードウォークの護岸は旧第四台場石垣を再利用したものである。天王洲は海中の土砂が堆積してできたで、1751年(宝暦元年)江戸前の海であった頃に、船人が牛頭天王の面をこの海域から引き上げたという。この面は南品川の天王祭において神輿の屋根につける「神面」となっているが、この謂れが「天王洲」の地名の由来となっている。また、アイル(isle)とは英語で「」を意味する言葉で、この地が東京湾のウオーターフロントの良き景観に恵まれたロケーションであるためこの名前がつけられた。1925年(大正14年)から埋立が始まり1939年(昭和14年)に完成。第四台場は埋もれ品川と陸続きとなり埋立地は工場や倉庫の用地として利用が始まるWikipedia

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天王洲ふれあい橋を渡ると天王洲アイルになります


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遊覧船の船着場があります、奥が天王洲水門&天王洲橋です/天王洲運河

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首都高羽田線                       りんかい鉄道天応洲アイル駅

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運河沿いのテラスでランチ&おしゃべりもいいですね~

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waterline(ウォーターライン)
天王洲アイルにある水上ラウンジである。現在はT.Y.HARBOR River Loungeに改称している。東京都では初となる民間による水上利用の開発プロジェクトとして2006年に完成した。内部は併設するレストラン(TYハーバーブルワリー)とあわせてラウンジ船となり、レストラン内で醸造された天王洲エールを飲むこともできる。また、隣接する天王洲ふれあい橋とあわせてドラマのロケ現場やイベント会場となることも多い。Wikipedia)
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港区ベイエリア 安心お散歩カナルコース


・・・・・
資料ファイル

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左が明治39年、右が現在の品川沖です(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:旧東海道 緑:中原街道 青:目黒川 赤丸:第四台場・第六台場)

明治維新後の品川 
嘉永6(1853)のペリー来航後、黒船を迎え撃つために急遽築造された品川台場(品川砲台)は、海上に浮かぶ第一から第七までの7でしたが、第四第七の台場は未完成のままであり、なかでも第七は海面を埋め立てただけでした。他に陸続きの台場「御殿山下砲台」が造られました。しかし、幕府の開国政策によって、完成した台場の大砲を使うことなく終わったことは、江戸庶民だけでなく品川宿周辺の村々にとっても幸運なことでした。明治維新後の品川台場は明治6(1873)に第一師団の中に設けられた海岸砲隊が管理にあたり、同8(1875)以降大正3(1914)までは陸軍省が管轄していました。第四台場は維新後に払い下げられ大正元年(1873)には東京府から緒明菊三郎に払い下げられて造船所となりました。陸軍省によって管理されていた品川台場は大正3年、4年の2回にわたって処分され、第三、第六台場は大正4(1915)74日に東京市に払い下げられ、同13(1924)に東京府によって史跡に仮指定され、同15(1926)1020日に史跡名勝天然紀念物保存法によって国の史跡に指定されています。このうち第三台場は関東大震災によって破壊されたため復旧工事が行われ台場公園として一般に公開していますが、第六台場原型を残していたため貴重な史跡として保存されています。その後、東京湾に浮かぶこれら六つの人工島は、史跡として指定された二つの台場を残し埋立地に埋没したり航路の支障になるということで撤去されたりしてきました。第四台場は大正14(1925)に埋め立てがはじまった旧天王洲町(東品川二丁目)の北側につながって陸続きとなり昭和30(1955)に港区から品川区に編入されています。第一、第五台場は品川埠頭の埋め立てで昭和37(1962)に撤去埋没してしまいました。第二台場は東京港整備の一環として昭和37年末に海上からその姿を消したのです。(品川区教育委員会)

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歌川広重『名所江戸百景』

地域内の往時の様子。画中の神社は現在の利田(かがた)神社(東品川)。手前の水路(当時の目黒川河口)は今では一部を除いて道路になり、背後の海も一部水路を除いて沖まで埋め立てられている。左下の遊郭は有名な相模土蔵を描いたものだともいう。Wikipedia

品川猟師町(旧目黒川河口)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25840234/


by Twalking | 2017-12-15 19:13 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 城南五山02-島津山・御殿山・八ツ山   

日時 2017.10.9(月)
天気 晴れ

池田山を下ると中原街道、この台地一帯は
東海道の北側の丘にあたります。
かつては大名屋敷や寺領だった所です。

島津山、八ツ山、御殿山いずれも閑静な住宅地、
落ち着いた雰囲気のある街です。八ツ山通りを
南へ登りましたが、のんびりと散策するには
味わい深い所だと思います。


・・・五反田


品川区の北部にあるJR山手線・東急池上線・都営地下鉄浅草線の五反田駅を中心とした地域名である。単に「五反田」と表記する地名はなくおおむね山手線を境に西五反田と東五反田に分かれる。東京城南区域の中核地としてオフィス街、繁華街、歓楽街として栄えている。江戸時代に「五たんだ」として出現した地名。目黒川がほぼ東西に流れその谷周辺の水田が、一区画が5反(約50002)あったために名づけられたと思われる。五反田は大崎村小字であり周辺でしか知られていない地名であったが、1911年に山手線の五反田駅が開業し星一が大規模な製薬工場(星製薬)を建設したことで知られるようになった。(Wikipedia

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街道の風景① 中原街道・相生坂の途中を右折して島津山へ向かいます/雉子神社前

相生坂
相生坂の名勝は古く江戸時代から呼ばれていた。その由来は御殿山方面から宝塔寺(東五反田1丁目)前を通る道とこの坂のある中原街道が雉子神社(東五反田1丁目)の手前で合流していたことにもとづくとされる。昔は急坂が険しいものであったが、だんだんに道路整備がされて現在のようになった。別名を雉子ノ宮坂ともいう。(案内標柱)


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宝塔寺山門/東五反田


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宝塔寺
新編武蔵風土記では文亀2年(1502南品川漁師町に建てられたのが始まりだと記し、しかし南品川漁師町は明暦年間(1655-1658)に海岸の寄洲を埋立ててそこにできた町であるから、この伝承は信じられないとしている。万治年間(1658-1661)にのちに下大崎村に建てられた大名の一柳家の下屋敷の近くに移ったが、目黒川に近いので屡屡水害を受けたため現在の場所に移ったという。開創当初は法東寺といったが寛永頃(1624-1644)に宝塔寺と改め慈光院と称したといい、また正徳4年(1714)中興開山伝陽の代に寺格が上り、山号を許されて白雉山と称したという。このときから麹町城琳寺末寺となったといわれている。(品川区の文化財)

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雉子神社鳥居
/東五反田

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雉子神社(きじじんじゃ)
品川区東五反田にある神社。創建は文明年間(1469-1487)と言われている。村民の霊夢により大鳥明神を祀っていた。江戸時代に入り、慶長年間になり三代将軍・徳川家光が鷹狩に来た時、一羽の白雉が社地に飛び入ったのを稀なめでたいしるしとして家光から「以後雉子宮と称すべし」との言葉があり、「雉子ノ宮」と改称した。そして江戸社寺名所にその名を連ねた。明治維新の際に雉子神社と改められる。明治時代以前は隣接してある宝塔寺が別当寺であった。明治43(1910)に上大崎村にあった三島神社を合祀して現在に至っている。(Wikipedia

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江戸名所図会 雉の宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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袖ヶ崎神社/東五反田
当神社はもと忍田稲荷大明神と称し保延3年(11372月鎮斎され、のち康永3年(1342越前国丹生郡小川村の鎮守八幡宮の神主山口直奇の次男直正が東国へ下向し、当神社の神主となった。この時直正累代の守護神、神明宮を社の南方へ勧請し、地名をもって袖ケ崎神明宮と奉称、明治に至るまで忍田稲荷と称していたが、その後、袖ケ崎神社と改め現在におよんでいる。去る昭和205月の戦災により社殿・社務所・末社等一宇も残さず焼失した。(東京都神社名鑑)

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本立寺/東五反田
慶長2年(1597)に池上本門寺12世日惶が上目黒村に建立したのが当寺の始まりであり、開基は能勢市十郎頼永の妻、法性院天窓日忠といわれている。その後この寺は衰微して無住となったので、現在の場所にあった同宗の恵性寺の住職が兼帯していた。貞享4年(1687)幕府の寺院整理政策によって恵性寺が廃寺とせざると得なくなったとき、同寺の住職が願い出て本立寺名跡を同寺に移して恵性寺の跡を残したものと伝えられている。(品川区の文化財)

中原街道(五反田・高輪)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22226945/


・・・島津山

品川区東五反田
13丁目付近の高台に相当する。名称は旧島津公爵邸に因み、同邸宅は現在清泉女子大学となっている。

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街道の風景② 落ち着いた街並ですね~、右手に曲がると清泉女子大学です

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階段が多い街ですが、いずれも個性的で風情がありますよ~

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街道の風景③ 左手が清泉女子大、島津山になります、下って八ツ山通りに向かいます

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清泉女子大学/東五反田3丁目
相生坂八ツ山の坂の間に位置し「島津山」と呼ばれる区内有数の高級住宅地の一角にあります。本館は旧島津公爵邸として大正4年に建てられたルネッサンス様式の美しい洋館で、邸内の見学会も行われています。昭和62年には「しながわ百景」に選定されています。(品川区)

袖ヶ崎島津邸
老朽化した袖ヶ崎邸を英国風洋館に改築することを計画し1906年(明治39年)にジョサイア・コンドルに設計を依頼した。設計変更・明治天皇の崩御等もあって竣工したのは1915年(大正4年)。設備や調度等が整えられ1917年(大正6年)に披露された。その後、戦争のため維持できなくなり1944年(昭和19年)に日本銀行へ売却。周囲は大半が戦火焼失したにもかかわらず邸は焼失を免れる。1946年(昭和21年)1月から1954年(昭和29年)5月までGHQの管理下に置かれ、1961年(昭和36年)清泉女子大学本館となる。周囲一帯を島津山という。(Wikipedia


・・・北品川(五丁目)

東側は北品川四丁目、北側は北品川六丁目になる。当地も「御殿山」と呼ばれる一帯で邸宅や高級マンションが多く見られる。区域北端に八ツ山の坂(通称ソニー通り)、区域内に小関通りが通る。かつては北部にある六丁目とともにソニーの本社や関連施設があったが、五丁目にソニー御殿山テクノロジーセンターを残し2007年に港区港南一丁目(品川駅東側)へ移転した。20124月に着工した「北品川五丁目第1地区第一種市街地再開発事業」が2015年にパークシティ大崎として開業した(Wikipedia

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街道の風景④ 八ツ山の坂を上ります/八ツ山通り(ソニー通り)

八ツ山通り
北方の高輪には三菱関東閣で有名な八ツ山(土砂採取され、現在は山はない)がある。そこに向かう八ツ山の坂(八ツ山通り、通称ソニー通り、都道317号環状6号線の一部)は目黒川・五反田付近から端を発し左に池田山や島津山、中央向かいの八ツ山に並んで右側に御殿山と「城南五山」のうち4つの山の間を通る坂である。(Wikipedia


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ソニー村
ソニー株式会社の根拠地だったことで知られる品川区の御殿山地区を指す通称。ソニーの前身である東京通信工業株式会社(1958年に現社名に改称)が創業翌年の47年同地区に本社を移転。以来、周辺に同社の主要関連施設が多数建設されラジオやテレビ、ウオークマンなどのヒット商品が生み出された。90年にはNSビルが完成し2007年に現在の本社ビル(東京都港区)が稼働するまで本社機能を担った。07年度に地区内の大半のビルが売却され14年にはNSビルの売却が決定。同エリアにはソニー歴史資料館などわずかな施設が残るのみとなっている。(コトバンク)

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八ツ山の坂/坂上
このあたりは武蔵野台地突端にあった丘陵で、湾岸に突き出した洲が八つあったところから八ツ山と呼ばれた。この地にある坂のためにいつしか八ツ山の坂という名がつけられた。この道はもと三間道路と呼ばれ、道幅が3(約6m)で、あたりには人家も少なく夜は寂しい通りであったという。(標柱)

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旧因幡鳥取藩池田家下屋敷跡(元出雲松江藩大崎屋敷跡)
この地は鳥取藩下屋敷になる以前は出雲国(現・島根県)松江藩松平家下屋敷跡(拝領地14982坪、抱地4230坪)で、7代藩主松平治郷(号・不昧)が隠居後ここに独楽庵はじめ11の茶室を造り茶道三昧の晩年を送ったところとしてしられる。その後、周辺の川辺の抱地以外は幕府に公収され嘉永6年(1853)に鳥取藩池田家に下屋敷として与えられた。このころ著名な茶室は取り払わりたという。安政2年(1855)頃の鳥取藩松平(池田)相模守慶徳(15代軍慶喜の兄)は325千石の家禄があり、上屋敷は八代洲河岸(現・千代田区丸の内)中屋敷は浜町大橋際(現・中央区浜町)にあった。(説明板)


・・・北品川(四丁目)


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区域東部はJR線の線路に接し北品川三丁目になる。西部は御殿山通りなどを境に北品川五丁目と接する。一帯は「御殿山」と呼ばれる高級住宅地として知られる。邸宅やマンションが見られるほかJRの線路沿いには御殿山トラストシティ(旧・御殿山ヒルズ→御殿山ガーデン)という高層マンションとオフィスビル・ホテルなどの複合建造物が設置され付近のランドマークにもなっている。区域北東端の新八ツ山橋・八ツ山橋付近は幹線道路が集まっており交通の要所としても知られる。品川御殿は品川区北品川3丁目5番付近、英国公使館は北品川3丁目5番から6番、北品川4丁目8番東側と推定される。(Wikipedia

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街道の風景⑤ 坂上を右折し「道灌通り」を西へ、古は居木橋から高輪への道はこの辺り通ったんでしょうか?/御殿山交番先

道灌通り

江戸時代の地誌のひとつ「江戸砂子」などのほか多くの書物の中に「御殿山は太田道灌居住したと言い伝えがある」と書かれています。道灌ゆかりの地として通りの名となったのでしょう。(案内板)


・・・御殿山

品川区北品川3-6丁目付近の高台に相当する。名称は徳川将軍家が鷹狩の折りに休んだ品川御殿があったことに因む。旧邸跡は現在の御殿山トラストシティと原美術館になっている。


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御殿山花見・品川全図/広重(国立図書館蔵)

御殿山
南北にのびる品川宿の中央、目黒川の北に広がる丘陵。長禄(1457-1460)期には大田道灌の屋敷があった。寛永1624-1644)の頃、この地に御殿が建てられたことが名前の由来。使用目的は「将軍の狩猟の休息所」「西国大名の参勤送迎」など諸説ある。寛文(1661-1673)の頃から吉野が植えられ桜の名所となったが、御殿は元禄151702)年2月の大火で焼失しそのまま再建されなかった。幕末、御殿山は品川台場建設のために一部を削られ、また文久21862)年には高杉晋作、久坂玄瑞、井上薫らにより新築中の英国公使館が焼き打ちされ全焼となる「御殿山焼き打ち事件」があった。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立図書館)

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原美術館
品川区北品川にある原俊夫が設立した現代美術を中心とした私立美術館である。JR品川駅から車で5分ほどの住宅街のなかにある原美術館は東京ガス会長、日本航空会長、営団地下鉄総裁などを歴任した実業家・原邦造の邸宅であった。原邦造の養父の原六郎も実業家・美術品収集家として知られている。(Wikipedia

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御殿山の坂
ミャンマー大使館の前から小関に下る坂で、以前は現在よりさらに急な坂であった。戦前と戦後にかけて道を修理し勾配を緩和した。当時この辺は徳川藩の御料地であり、御殿山と呼ばれていましたのでこの名になりました。(品川区)


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御殿山通り
御殿山の地名のおこりは太田道灌の館があったからとも、また江戸時代に将軍の別邸があったからともいわれている。この通りが御殿山を横断する通りであることから御殿山通りとした。(品川区)
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御殿山庭園/北品川

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殿山庭園
品川駅から徒歩10分、八ツ山の坂と第1京浜に挟まれて御殿山アークヒルズが天高くそびえたっています。その裏手にあるのが御殿山庭園。よく管理された園内は南に行くにしたがって谷地になっており、ビルとのコントラストがよくとれた時間と空間を周りからシャットアウトできる絶好のスポットです。池に注ぐ滝は水量も多く、ライトアップされる夜間には大人たちに絶好のロケーションを提供してくれています。(品川区)

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東海道線を御殿山橋が跨ぎますが、鉄道建設等で分断された様子が分かります


・・・八ツ山

港区高輪
3-4丁目付近の高台に相当する。名称の由来については諸説ある。かつて岩崎家の別邸で、現在は三菱グループの施設となっている開東閣があるWikipedia

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街道の風景⑥ 庭園をひと廻りして第一京浜を下ります、左手が開東郭になります/御殿山交差点

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東海道名所案内 
品川八ツ山下/国貞(国立図書館所蔵)

谷ツ山-大日山
品川宿の最北端にあった丘陵。明和91772)年刊の『江戸砂子』によれば名前の由来は以前ここに「8つの岬があったため」「8つの大名屋敷があったため」など諸説ある。また別名の「大日山」は1700年代初め頃までこの地に大日堂があったことに由来する。麓の海岸には長さと幅がそれぞれ約18mの船繋場があり旅客や往来者が利用した。なおこの山の土は八ツ山下の海辺の石垣整備、目黒川洪水の復旧など土木普請用に使われ、現在では坂があるがほぼ平地となっている。(錦絵で楽しむ江戸の名所/国立図書館)

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開東閣
港区高輪にある建築物、旧岩崎家高輪別邸である。高輪台の東にあり11200坪の広大な敷地面積を有する。一般公開はされておらず現在は三菱グループの倶楽部として使われている。周りに鬱蒼と木々を茂らせ外部からは建物自体が視認出来ないようにしてある(Wikipedia)

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街道の風景⑦ 右手が開東郭(八ツ山)奥が御殿山トラストシティ、下ると品川駅です/八山入口

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八ツ山橋
初代の八ツ山橋は1872年(明治5年)に架けられた日本初跨線橋である(この橋は木造橋)。1914年(大正3年)にアーチ形の鉄橋に架け替えられ、1924年(大正13年に東京電車鉄道が省線品川駅前から京浜電気鉄道旧品川駅前まで延伸により八ツ山橋上軌道を敷き、1925年(大正14年)に京浜電気鉄道本線が高輪駅までの延伸に伴いこの軌道線の一部に乗り入れをした。1930年(昭和5年)に既設アーチ橋(2代目)の西側に併設する形でアーチ橋(3代目)を架設し「2つの橋」となる。その後、京浜電気鉄道本線が現在の品川駅に延伸・軌道線廃止により1933年(昭和8年)供用した「八ツ山跨線橋」へ移り、東京電車鉄道の品川駅前から北品川駅前までの廃止により八ツ山橋は道路専用橋となる。1985年(昭和60年)に4代目の橋に架け替え現在に至る(Wikipedia
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街道の風景⑧ 八ツ山橋を渡ると東海道・品川宿の入口です/八ツ山口

東海道品川宿(北品川)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25825171/

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御殿山周辺地図(90°回転)
(橙:歩行ルート 赤:東海道 青:目黒川)

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御殿山周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:東海道 紫:中原街道 緑:中世古道 橙:八ツ山の坂 青:目黒川) 


・・・・
資料ファイル

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品川の霊場・御殿山
御殿山はかつて海を一望できる小高い丘陵でした。幕末の台場築造に伴う土取りの際に、14世紀初頭~15世紀末にかけて造立された大量の碑や宝輪塔、宝篋印塔が人骨とともに見つかりました。中世の御殿山は極楽往生を願って供養や葬送が行われた霊場であったことが想定されます。また、船の航行する目印となる「当て山」であったと考えられます。(品川歴史館)
写真:「浜御殿山より品川新宿迄江戸街道絵巻(部分)」/東京都江戸東京博物館蔵

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品川御殿
中世においては墓石や供養塔が立てられた霊場であり、船が航行するときの目印にしたとされる御殿山は、江戸中期に桜の名所となったが、徳川将軍家の別邸「品川御殿」にその名の由来をもつ。品川には鷹狩場(品川筋 のち目黒筋と改称)があったことから歴代将軍がよく訪れており、御殿はその休憩所として使用された。また、海を一望できるその立地から品川御殿は軍事的な意味を持ち、江戸の防衛上重要な位置にあったと想定される。(品川歴史館解説シート抜粋)

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寛永期の御殿山(ジオラマ)/品川歴史館
(右上:品川御殿 中:品川神社 左:東海寺)

by Twalking | 2017-10-15 23:29 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 城南五山01-花房山&池田山   

日時 2017.10.9(月)
天気 晴れ


八ツ山や御殿山は街道筋なので知ってますが、
「城南五山」というのは知りませんでした。
目黒から北品川へ続く丘陵のピークを言います。

目黒川低地の東側、山手線の内側の高台ですが、
江戸の頃は大名の下屋敷で、名の謂れとなっています。
閑静な住宅地、坂も面白そうなので訪ねてみました。


・・・下目黒/目黒区


目黒区東部地区に属する。北で目黒一~四丁目、東で品川区上大崎四丁目、南で品川区西五反田三・四丁目、南西で品川区小山台一・二丁目、西で目黒本町一丁目、北西で中町一丁目と接する。町域の東部には平安時代前期の創建とされる瀧泉寺目黒不動)があり、毎月28日の縁日には多くの人出で賑わいを見せる。一丁目と三丁目は坂が多く、なかでも行人坂は都内屈指の急坂である
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街道の風景① 行人坂を目黒川へ下ります/大円寺前

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行人坂
行人坂は下目黒一丁目8番の雅叙園西わきを北東へ、目黒川の太鼓橋から目黒駅の東方に上る急坂である。この坂は江戸時代に権之助坂が開かれる前は二子道として江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路であった。「江戸名所図会」には『目黒へ下る坂をいふ。寛永の頃、湯殿山の行者某、大日如来の堂を建立し、大円寺と号す』とある。行人坂という名称は湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂現大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったのでつけられたという。また、この坂は「振袖火事」「車町火事」と並ぶ江戸三大火のひとつ「行人坂火事」とも関連して知られている。行人坂火事は明和9年(1772年)2月、行人坂の大円寺から出た火が延焼し3日間も燃え続けたというものである。明和9年の出来事であったのでだれいうとなく「めいわくの年」だと言い出したので幕府は年号を「安永」と改めたといわれている。現在、雅叙園のある付近一帯はかつて「夕日の岡」と呼ばれ、紅葉が夕陽に映えるさまは実に見事で、品川の海晏寺とともに江戸中に知れわたっていたところである。(『明王院の後ろの方、西に向かへる岡をいへり。古へは楓樹数株梢を交へ、晩秋の頃は紅葉夕日に映じ、奇観たりしとなり。されどいまは楓樹少なく、ただ名のみを存せり』「江戸名所図会」)。行人坂が急坂であることは権之助坂を下ったところにある「新橋」よりも「太鼓橋」が低い位置にあることからうかがえる。(目黒区)

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大円寺本堂

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大円寺/下目黒
天台宗。この寺は「松林山大円寺」といいます。寛永のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切り開き、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりであると伝えられています。本寺には「生身の釈迦如来」と言われている木造「清涼寺式釈迦如来立像」(国指定文化財)「木造十一面観音立像」(区指定文化財)徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天像」(山手七福神の一つ)などが安置されています。

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明和92月(1772)本堂から出火、江戸六百余町を焼き多くの死者を出しましたが、その供養のために造られた釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像等の「大円寺石仏群」(都指定文化財)が建てられています。また阿弥陀堂には「木造阿弥陀如来三尊像」(区指定文化財)や八百やお七の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られています。境内には「行人坂敷石石造道供養碑」(区指定文化財)、「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。江戸の面影を残している行人坂の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守っています。(目黒区教育委員会)

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川の風景 上流の新大橋(権之助坂)の景観です」/太鼓橋

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太鼓橋
太鼓橋は行人坂から目黒不動へ向かう道筋の目黒川にかかる橋です。明和61769年)に完成し、長さ83尺(約15.3m)幅2m間(約3.6m)太鼓の胴のような形をした石橋でした。広重の『名所江戸百景』の中にも描かれた橋でしたが大正991日の豪雨で崩落しました。翌年、木橋が架けられ、昭和7年に東京市編入記念事業として鉄橋に架け替えられ、平成3年の目黒川改修工事に伴い現在の橋になりなした。太鼓形ではありませんが橋名は昔のまま受け継がれています。(目黒区)

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江戸名所図会 夕日岡 行人坂 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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大鳥神社鳥居/下目黒

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大鳥神社
かつての目黒村(それ以前は下目黒村)の鎮守。11月に行われる酉の市でも知られる。言い伝えによると景行天皇の時代に当地に国常立尊を祀った社があり、日本武尊東夷平定の折に当社に立ち寄って祈願した。その後日本武尊の霊が白鳥として当地に舞い降り鳥明神として祀られ、大同元年(806)に社殿が完成したという。この年を大鳥神社では創建の年としておりこれは目黒区最古である。江戸図における最古のものとされている室町時代の長禄の江戸図には「鳥明神」として当神社が描かれており、当時の江戸図には9つの神社しか描かれていないため、大鳥神社は江戸九社のひとつとして知られている。

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また江戸名所図会では「大鳥大明神社」として描かれている。当神社の酉の市は江戸時代の天保6年(1835)に当地の農家が浅草から取り寄せて売ったことから始まったといわれている。現在でも11月の酉の日には境内には熊手を扱う店が軒を連ね賑わいを見せる。現在の社殿は昭和37年(1962)に完成したもの。平成18年(2006)には鎮座1200年祭が行われた。隣接する目黒通りと山手通りの交差点は大鳥神社の名前が冠せられており、交通の要所となっているWikipedia

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織部式燈籠(切支丹燈籠)
下目黒の大鳥神社所蔵で昭和38年守屋図書館に開設された郷土資料室に出品公開されて以来、中庭で展示されていたものです。もとは千代が崎(東京都教職員研修センター附近)の大村邸内にあり、かつてこの地にあった肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷にまつられ、密かに信仰されていたものと伝えられています。竿石の下部に刻まれた像には足の表現がなく、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯籠で、キリシタンへの弾圧と迫害が厳しくなった寛永・正保・慶安の頃から江戸中期にかけて造られたものと考えられます。(境内掲示)

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大鳥神社のオオアカガシ
大鳥神社境内に生育していたオオアカガシは、基本種のアカガシに比べ非常に大きく薄い葉を繁らせ、また、雄花穂の花軸はアカガシより太く長く、苞や果実も大きいという特徴からアカガシの変種とみなされました。新変種命名の基準となった本樹は、学術上貴重な樹木として昭和38年に東京都の天然記念物に指定されました。本樹の枝葉は現在でもオオアカガシのタイプ標本として、国立科学博物館筑波実験植物園に保管されています。指定時に樹高約16m、幹周り1.6mあった本樹は、生育環境の変化等により昭和50年代初め頃から樹勢の衰退がはじまり、数回にわたる樹勢回復事業も実施されましたが平成14年枯死が確認されました。また、後継樹育成のため挿し木による増殖も試みましたが成功せず、平成24年に指定解除となりました。ここに説明板を設置し都内でも学術上貴重な名木が存在したことを後世に伝えるものです。(東京都教育委員会)

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江戸名所図会 大鳥明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景② 権之助坂(目黒通り)を目黒駅に上ります/大鳥神社先

目黒不動尊の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22246396/



・・・上大崎/品川区


品川区の北部に位置し港区・目黒区・渋谷区との区境に接する。北部は目黒区三田・渋谷区恵比寿に、東部は港区白金台に、南東部は品川区東五反田に接する。南西部は品川区西五反田に、西部は目黒区・下目黒にそれぞれ接する。山手線の線路が縦断しており目黒駅がある。また地域内を東西に目黒通りが通っている。目黒駅周辺には商業施設が見られる。上大崎一丁目付近は白金台や池田山に隣接し、上大崎二丁目付近は高速道路脇の通称「(白金)長者丸」、上大崎三丁目付近は大使館が多く集まり通称「花房山」と呼ばれ高級住宅地としても知られる。
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街道の風景③ 右手がJR目黒駅、目黒区だと思ったら品川区なんですね/駅前

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江戸名所図会 富士見茶亭 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

夕日の岡
目黒駅のあたりは高台の地で目黒川に続く荏原台の方角に沈む夕日が趣深く「夕日の岡」と呼ばれていました。江戸後期に刊行された『江戸名所図会』には挿絵入りで紹介されていますが『昔は紅葉が一面に生い茂り、晩秋の頃は夕日が照り映え見事であったが、今は紅葉も少なく、その名だけが伝わっている』と書かれていて、当時、既に様子が変わっていたことがわかります。しかし、はるか西南に富士山を望む景勝地であったことに変わりはなく『江戸名所図会』には行人坂上富士見茶屋で人々が休憩する様子も描かれています。(文化財めぐり/目黒区)

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生誕八幡神社
鳥居/上大崎


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生誕八幡神社
当神社は文明年中(1469-87
太田道濯公の勧請により創立され、明治維新前は誕生八幡宮と称し高福院別当であったが、維新後、下大崎村鎮座の雉子神社の摂社として八幡神社と称して永峯町、六軒茶屋町二力町の崇敬者によって維持奉祀されてきた。明治42614日、六軒茶屋町551番地の稲荷神社を合祀した。戦後社号を誕生八幡神社と改称して現在におよんでいる。(東京都神社名鑑)

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高福院山門/上大崎

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高福院
高野山真言宗。寛永年間(1624年から1644年)に香川の高松藩主松平讃岐守が現在の国立自然教育園一帯に下屋敷を拝領した折に創建したといわれています。墓地には大正から昭和期にかけて活躍した劇作家・小説家の長谷川伸、版画家の恩地孝四郎、江戸時代後期の蘭学医石井宗謙の墓があります。石井宗謙はシーボルトの鳴滝塾に学んだ人物で、シーボルトの娘いねに産科の技術と知識を指導しました。(文化財めぐり/目黒区)


・・・花房山

城南五山
東京の城南地区にある高台5ヶ所の総称である。いずれも山手線の内側、目黒駅から品川駅にかけての地域にあり、古くからの高級住宅街として知られる。島津山 池田山 花房山 御殿山 八ツ山で構成されるWikipedia

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この辺りがちょっと小高い感じがします/花房山通り

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花房山
花房山の桜並木。周辺は静かな住宅街。そばにはJR山手線が通る(写真:コロンビア大使館)

「花房山」の由来
住所は上大崎3丁目山手線に沿った地域。目黒駅の東側、目黒通りをはさんで南側に位置するのが花房山。明治末、花房子爵が屋敷を構えたことによる呼称で、現在も山手線沿いの道路に「花房山通り」の名称がつけられている。花房子爵とは花房義質という明治、大正期の高名な外交官。爵位授爵の際にこの高台に邸を構えた。(品川観光協会)

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街道の風景④ 山手線に沿って五反田へ下ります/花房山通り

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旧・播磨三日月藩森家上屋敷跡/上大崎3丁目播磨国
(現・兵庫県)森家上屋敷は品川区内の大名屋敷の中で唯一の上屋敷である。三日月藩は1万5千石の大名で、上屋敷と地続きの抱屋敷を含めて約1万坪余の広さがあった。屋敷一帯の字は「森ヶ崎」と呼ばれているが、森家の「森」と舌状台地の先端を示す「崎」から名付けられたとされている。安政3年(1856)頃の三日月藩主は森伊豆守俊滋。(品川区教育委員会)


・・・東五反田/品川区


品川区の北部に位置する。町域北部は品川区上大崎・港区白金台に接する。東部は港区高輪、南東部は品川区北品川に、南部は目黒川に接しこれを境に品川区大崎に接する。西部は山手線の線路に接しこれを境に品川区西五反田に接する。東五反田三丁目付近は通称「島津山」、東五反田五丁目付近は通称「池田山」と呼ばれておりこれらの付近は高級マンション、邸宅などが見られ山の手を代表する高級住宅地としても知られる。皇后美智子も当地(東五反田五丁目)の出身であるWikipedia

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街道の風景⑤ 坂下の外苑西通りを上り返して先を右折、池田山に向かいます

外苑西通り

東京都道418号北品川四谷線のうち富久町西交差点から四谷四丁目、南青山三丁目、西麻布、天現寺橋を経由し、白金六丁目で左折して白金台交差点に至る区間には「外苑西通り」の名称がついており、これは1984年(昭和59年)の「東京都通称道路名設定」にも含まれている。外苑西通りは1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックに向けて着工された通りであるWikipedia


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インドネシア大使館先にねむの木の庭  この先が池田山公園入口です


・・・池田山


品川区東五反田45丁目付近の高台に相当する。名称は備前岡山藩・池田家の下屋敷があったことに因む。池田山には池田山公園やねむの木の庭といった公園も整備されている。


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ねむの木の庭/東五反田

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ねむの木の庭
品川区東五反田五丁目にある品川区立の公園である。当地にはもともと皇后美智子生家として知られる正田家の邸宅があった。1933年(昭和8年)に日清製粉正田英三郎社長邸として当時の清水組が設計施工した。趣きのある建物だが故正田英三郎の遺産にかかる相続税の一部として2001年(平成13年)に国に物納された。建物の老朽化が激しく、建物の保存を求める要望書の提出のほか、署名や募金を呼びかけたり長野県軽井沢町への移築も検討されたりしたが、建物は2002年(平成14年)に解体された。その後、品川区が国から公園用地として跡地を取得して整備、2004年(平成16年)「ねむの木の庭」として開園した。名前の由来は皇后が高校時代に自身で作った詩「ねむの木の子守歌」に因む(Wikipedia)

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眩いばかりの緑、これが紅葉したら美しいでしょう
ね~/池田山公園

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池田山公園
品川区東五反田にある品川区立の都市公園である。当地一帯は江戸時代、岡山城主・池田氏下屋敷があったところであり、付近一体の高台は「池田山」という名称で呼ばれた。廃藩置県以降も池田氏の屋敷として使われていた。やがて池田山付近は宅地化され邸宅が立ち並び、池田山は山の手有数の高級住宅街として知られるようになった(そのなかの邸宅のひとつに皇后美智子実家である正田家の邸宅があった。現在建物はなく跡地はねむの木の庭という小さな区立公園になって一般に公開されている)。

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また、池田山公園のあるところは池田家の下屋敷の奥庭の部分であった。戦後しばらく私人の邸宅があったところであったが品川区が庭園を保存すべく土地を取得し公園として整備し、1985年に区立公園として開園されたものである。現在でも江戸時代回遊式庭園が良好に整備・保存されており一般に公開されている
Wikipedia
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谷戸にひっそりと佇む大池、オアシスですね、美しい

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街道の風景⑥ 池田山を下ると中原街道、南側の丘が島津山になります/東五反田

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目黒駅周辺地図(180°回転)
(赤:歩行ルート 青:目黒川 緑:目黒通り・山手通り・外苑西通り)

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目黒駅周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(緑:目黒道 紫:中原街道 青:目黒川)


・・・・
資料ファイル


江戸の大名屋敷
大名屋敷に上屋敷・中屋敷・下屋敷の制が整えられたのは明和31657)の大火以後のことである。上屋敷は藩主やその家族が住む居屋敷として江戸城周辺に、中屋敷は隠居や嗣子(しし)の住む屋敷として主に江戸城の外堀の内側に営まれ、上屋敷罹災の折予備の邸宅にあてられた。下屋敷のうち海浜、川辺のものは国許から送られてくる物資の荷揚場・蔵屋敷として、また江戸近郊に設けられてものは避難用の屋敷として位置づけられたが、いずれも築山や園池を配し休息用の別荘としても利用されていた。これらは、幕府から大名が拝領するもので(拝領屋敷)、大名自ら土地を買い上げて屋敷にする抱地・抱屋敷とは異なる。
当時江戸近郊に位置した品川地区には大名・旗本などの下屋敷・抱屋敷が多くみられた。大井村の島津(薩摩藩)、山内(土佐藩)、上大崎村の一橋、真田(松代藩)、下大崎村の伊達(仙台藩)、北品川の細川(肥後宇土藩・熊本藩支藩)の屋敷などである。(品川歴史館解説シート抜粋)

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品川区域の武家地一覧(安政3年・1856頃)/品川歴史館


目黒道

江戸市中から品川宿を経由しない主な道筋をみてみましょう。今の港区二本榎から中原街道を利用して東五反田一丁目付近から西に入り、徳蔵寺・谷山橋・安楽寺を経て目黒不動へ、もしくは徳蔵寺に向かわず直進し今の本村橋を渡ってから安楽寺方向へ行く道筋でした。また今の港区白金(江戸時代の白金大通り)から六軒茶屋町、今の誕生八幡神社付近から目黒駅近くの行人坂を経て目黒川に架かる太鼓橋を渡って目黒不動に至る道筋がありました。さらに港区赤坂・麻布付近からは広尾を経て爺ヶ茶屋 (じいがじゃや)(目黒区三田2丁目)を通って茶屋坂から目黒川に架かる田道橋などを渡り、大鳥神社から目黒不動へゆく道などもありました。 このように目黒不動尊へは江戸からも周辺の村々からも多くの道筋がありました。当然、参詣者も多く目黒駅近くの上大崎4丁目から下目黒2丁目に下る行人坂をすぎるあたりから竜泉寺門前まで酒食の茶屋や土産物屋が連なっていたといいます。(江戸時代の道/品川区より抜粋)



by Twalking | 2017-10-13 12:39 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(蒲田~品川)06-品川猟師町   

日時 2017.9.29(金)
天気 晴れ


「五街道」ということでは八ッ山口から青物横丁辺りの旧道を
街道筋にある案内で史跡や幾つかのお寺などを訪ねられますが、
やはり品川湊、旧目黒川の河口は外せないポイントだと思います。

品川湊は武蔵国府の国府津との説もありますし、鎌倉幕府、
執権北条一門、上杉氏(大田道灌)、後北条氏と古くから
拠点として重要視した湊、古刹が多いのもこれに関連しています。
久し振りに歩きましたが、じっくり見て歩くと面白いですね。



・・・東品川


品川区東部に位置する。北部は港区港南に、東部は東京港になり品川区東八潮に、南東部一体は京浜運河に接し品川区八潮になる。南部は都道420号鮫洲大山線に接し品川区東大井に、西部は元なぎさ通り・八ツ山通りに接しこれを境に品川区南品川・北品川になる。
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南品川猟師町と利田新地
南品川猟師町は洲崎(すさき)(冽崎)とも呼ばれ、現在の東品川1丁目の一部で目黒川河口砂洲(寄洲・よりす)にできた町です。この町の誕生は江戸時代の明暦の頃(1655年頃)で、その昔は兜島と呼ばれ人家は無かったといいます。漁業を生業として幕府に対して魚介類を納める御菜肴八ヶ浦のひとつでした。また猟師町の地先は江戸時代中頃から埋立が行われ、新しく開かれた土地ということで「南品川新開場(しんかいば)」といい、この開墾に着手した南品川宿の名主利田吉左衛門(かがた)の姓をとって「利田新地」と呼ばれていました。幕末、この地の東側に「御殿山下砲台」が築造されました。現在の台場小学校周辺です。『江戸名所図会』には南品川猟師町と利田新地の名所として洲崎弁天寄木明神社2ヵ所が挿し絵とともに紹介されています。(江戸から明治の品川名所/品川区)

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旧河道の風景① 元なぎさ通りは旧目黒川の流路でした、右手が寄木神社です/新品川橋先

元なぎさ通り

かつて旧東海道のすぐ東側は潮の香りとさざ波の寄せるきれいな海が広がっていた。この通りは埋め立て前さざ波が寄せたなぎさの場所にあたる。このことにちなんで元なぎさ通りとした。(品川区)

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北浜三社稲荷とイチョウ
推定樹齢400年以上の大銀杏と稲荷大明神の社。このイチョウは品川浦を航行する舟の目印となった由緒ある木のひとつ。海辺のまちの面影をとどめる貴重な風景。地元で北浜(北品川宿浜通りの略)と呼ばれる地域にある稲荷社。大きないちょうと赤い鳥居のコントラストがとても美しい。(しながわ観光協会)

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寄木神社鳥居/東品川

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寄木神社
日本武尊東夷御征伐のみぎり、相模国の海中にて南風烈しく吹き、御船が沈まんとする時、弟橘姫命は御船を救わんと、海神の怒りを鎮めるために御入水せられた。そのみぎり当品川浦へ船木流れ寄りそのところに神霊を勧請したという。また兜島伝説として源義家朝臣、奥州征伐の時、この地に馬をとめ寄木明神の由来を漁人に問いしに、漁人当社の神伝を答え奉れば、義家朝臣白から奉幣ありて軍の勝利を祈り給う。奥羽平定ののち、帰路再び当社に詣でられを奉納した。以後この地を兜島といった。亀の甲社の由来として、明治末品川浦に大海亀迷いこみ、猟師大勢にてこれを捕え村民に披露した。この大亀不幸にも独り鎖を首に巻き付けて死亡した。この甲は当時の小学生音楽隊を先頭に上野まで行進し博物館へ寄贈した。後、その霊を末社に祀った。(東京都神社名鑑)

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鏝絵天鈿女命(あまのうずめのみこと)功績図
本殿正面奥の二枚扉の内面にある鏝絵(こてえ)は、幕末から明治にかけて活躍した左官の名工・伊豆の長八(本名入江長八:181589)の手になるもので、向かって左扉には上の方に天照大神、下の方に天鈿女命を描き、右扉の方には猿田彦命を描いている。これは天照大神が素戔嗚命の乱暴によって岩戸に隠れて世の中が暗くなった時、天鈿女命が滑稽な踊りをして神々を笑わせ、それに誘われて天照大神が岩戸を開き、世の中が再び明るくなったことと天照大神の子孫が地上に降った際、天鈿女命はこれを妨害した猿田彦命を服従させて道案内をさせたという神話に基づいている。共に漆喰の壁面に鏝で像を盛り上げ浮彫風に彩色したもので、製作者の独自の発想と創造による技法である。品川区指定有形文化財(品川区教育委員会)写真は手水舎です

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寄木神社付近                横町の風景

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江戸名所図会 寄木明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

南品川猟師町のもうひとつの名所「寄木明神社」現在の寄木神社で日本武尊と弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)が祀られています。挿し絵では海岸に漁師の舟のほか魚を取る網や海苔養殖に使う「粗朶(そだ)ひび」という木の枝も描かれ漁師町の様子がわかります。『江戸名所図会』にはこの寄木明神社の由来について「土地の人たちが弟橘姫の霊を祀るために社を建て寄木明神とした」とあります。この弟橘姫の伝説は日本武尊が東征の途中、海上が荒れて船が転覆しそうになり海を鎮めるために妃の弟橘姫が海神に祈願して入水したという、その時の船の残り木が流れ着いたので祀った、または弟橘姫の御衣(ぎょい)が流れ着いたので祀ったといった伝承です。このほかに源義家が奥州出兵のときにこの寄木明神に立ち寄り戦勝祈願をしたといいます。奥州平定後の帰路に再び立ち寄り、兜をこの社に納めたのでこの地を兜島と名付けたなどこの地の伝承を紹介しています。(江戸から明治の品川名所/品川区)

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旧河道の風景② 柳ですね~、本陣が置かれた聖蹟公園の付近です

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利田神社鳥居(かがたじんじゃ)

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利田神社
当社は元洲崎弁財天と称せられ、由緒不詳であるが寛永3年(163696日東海寺の沢庵禅師これを祀り、弁天社と号したといういい伝えがある。福徳智恵の神として信仰され、近来福寿弁財天とも尊称せられている。(東京都神社名鑑)


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鯨塚
この鯨碑(鯨塚)は寛政10年(179851日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約16.5m)高さ六尺八寸(約2m)の大鯨で江戸中の評判となった。ついには11代将軍家斉(いえなり)が浜御殿(現浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。(品川区教育委員会)写真は品川浦公園です

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旧河道の風景③この辺りが目黒川の河口でしょうか、船溜まりに面影が残ります/品川浦 

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天王洲運河に繋がります        北品川橋の風景
 
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江戸名所図会 洲崎弁天 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


洲崎弁天は現在の利田神社で弁財天を祀っています。「洲崎弁天」の挿し絵には鯨塚も描かれています。この鯨塚の由来は寛政10年(17985月に品川沖に大鯨が迷い込み、地元の漁師によって浅瀬に追い込み捕らえたのです。捕獲された鯨は評判となり浜御殿で11代将軍徳川家斉(いえなり)が上覧するほどでした。その後、この鯨の骨を埋めて塚の上に碑を建てたのです。これが今も利田神社脇にある鯨塚(鯨碑)で品川区の文化財に指定されています。明治後期の『風俗画報』では利田新地の様子を「人家が連なっていて、北には中央気象台の出張所などもあるが、広っぱは網干場でうまり東側の海岸は夏になると海水浴場が開かれたところ」と書いています。
(江戸から明治の品川名所/品川区)

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御殿山下砲台
(台場)跡

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御殿山下砲台(台場)
嘉永6年(1853)アメリカ合衆国のペリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀に来航しました。鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守る為急いで品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造ることにしたのです。伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台造りの指導にあたり、第一から第三台場と第五・第六台場は完成させましたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第八以下は着工にも至らなかったのです。その代りとして陸続き五角形の砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。

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明治になると埋立てられ姿を消しましたが、幸いな事に台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることが出来ます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分程の面積を占めています。台場跡からは石垣が発見され小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つ灯台は明治3年(1870)日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。現在、品川灯台は国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。(品川区教育委員会)

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旧東海道品川宿・宿場マップ/案内板
(赤:東海道 緑:品川道 青:目黒川・立会川)


・・・大崎/品川区


品川区
の北部に所在し大崎駅を中心とした地域である。北東側には目黒川が流れていて北品川地区との自然境界を形成している。また北西側には東急池上線があり西五反田地区との境界を成している。現在の大崎二丁目・大崎三丁目に相当する地域は目黒川を望む高台であり、古くから栄えていたと考えられている。西品川三丁目付近を含むこれらの地域は居木橋遺跡と呼ばれ、縄文時代の土器や貝塚などが出土している。室町時代には品川宿から多摩地域への街道のため、目黒川に居木橋(いるきばし)がかけられた。大崎という地名が現れたのは江戸時代という説が有力である。地名は秩父から続く尾崎であることに由来し、これが転訛して大崎となったとする説、および過去に大きな崎(岬)として東京湾に突き出ていたためとする説が知られている。ただし当時大崎と呼ばれていた地域は、現在のJR目黒駅近辺(上大崎村)から五反田駅北側(下大崎村)にかけてであるWikipedia


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街道の風景① 折角なので御殿山通りから「品川氏館跡」(推定)へ向かいます/御殿山橋

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御殿山通り              閑静な住宅街です/坂上

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街道の風景② 山手通りからJRを越え、百反通りを上ります/居木橋(目黒川)

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貴船神社鳥居/西品川 


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貴船神社
祭神:高龗神、素盞嗚尊
当神社の御創建の年月は『新編武蔵国風土記稿』『品川町史』等の記述によると、人皇43代元明天皇の御年、和銅2年(70999藤原伊勢人の御勧請によるもので、貴布禰大明神と号し、旧地名東京府荏原郡南品川三ッ木の地に御鎮座された。当社の社号は貴布禰大明神と号していたが、口碑によれば享和3年(1803)に貴船神社と書くように改められたと伝えられる。(東京都神社名鑑)

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祖霊社                三本稲荷社

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品川氏(紀氏)
紀氏長谷雄流品川氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて武蔵国荏原郡品川郷を中心に活動した武家の一族。品河氏とも表記される。家祖は紀実直(大井実直)の子・品川清実。平安時代末期、紀実直は国衙の関係者として武蔵国に土着し、荏原郡大井郷の地名から大井氏を称した。大井氏は次男の大井実春が継ぎ、一族は周辺地域に所領を得て広がった。実直の子から分かれた一族には品川氏のほかに春日部氏・堤氏・潮田氏がある。1184年(元歴元年)8月、実直の三男清実は源頼朝から品川郷の雑公事を免除されている(田代文書)。この文書が「品川」の地名が登場する現存最古の史料である。1185年(文治元年)2月、清実は源範頼の下で豊後上陸に関わる水軍の「先登」に選ばれている。その後も品川氏は大井氏と共に頼朝の「随兵」に選ばれるなど厚遇された。品川氏の重要な役割として、武蔵国の国府津である品川湊の管理があげられる。紀氏伊勢国との関係の深い氏族で、品川氏の所領は伊勢国員弁郡曾原御厨にもあった。1242年(仁治3年)頃には伊豆国の田代氏と婚姻関係があることが記録されており、品川氏は伊勢から品川までの太平洋航路にも関わっていたと考えられる。品川氏のの所在地については貴船神社(品川区西品川3丁目)周辺の台地上が有力とされている。ほかに現在の戸越公園(品川区豊町2丁目)とする説もある。(中略)1424年(応永31年)鎌倉公方足利持氏によって品川氏はわずかに館とその周辺のみを残し、品川郷を没収された。これには、品川氏が上杉弾正の乱に関与したためという説がある。以後史料において品川氏の宗家の姿は見られず没落したものと思われる。Wikipedia

大井氏の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25679688/

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街道の風景③ 百反通り坂上から下ると大崎駅の西側、谷間になってます/居木神社手前

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居木神社鳥居/大崎

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居木神社
当神社の御創建の年代は詳らかではないが、古い記録によると往古鎮座の地は武蔵国荏原郡居木橋村(現在の居木橋付近)に位置し、「雉子の宮」と称され境内に「ゆるぎの松」と呼ばれた大木があったと伝えられる。江戸の初期、目黒川溢水の難を避け現在の社地に御動座された。そのおり村内に鎮座の「貴船明神」「春日明神」「子権現」「稲荷明神」の四社を配祀「五社明神」とも称した。元禄郷帳には居木橋村の石高は230石余72戸で、頭屋(年番)による運営がなされ郷土の崇敬は篤く祭事は盛んで、特に里神楽を催し秋の大祭には他村よりの参拝も多く御社頭は賑わったという。

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明治5年御社号を「居木神社」と改め、同29年および同42年には村内鎮座の「稲荷神社」「川上神社」「本部神社」の36座が合祀された。昭和5年には氏子内の崇敬熱意により御本殿改築、境内整備の議が起こり、同89月に4年の歳月と赤誠、奉賛によって総坪数36坪余の木造銅板茸の御社殿が竣工、境内整備も正面階段、御影鳥居、玉垣、同富士講塚の築庭、手水合の新設、参道敷石の布設等すべてが荘厳に完成したが、先の大戦末に戦火によって炎上し、その後は災禍をまぬかれたもとの本殿建物であった境内末社に御祭神をお遷し申し上げ祭祀につとめた。(東京都神社名鑑)

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居木橋遺跡
居木橋遺跡は居木神社の南方に位置する台地上にあり、縄文時代前期(約6-5千年前)の貝塚を伴う遺跡で、竪穴住居も多数確認されています。貝塚は食用にした貝の殻や魚・獣の骨のほか、土器片などが堆積したもので、当時の生活を知る重要な手がかりを現在の私たちに提供してくれています。これまでの調査から多くの縄文土器、石器などが出土していますが、貝類では海でとれるものの他に陸でとれるヒダリマキマイイマイ(かたつむり)も発見され注目されました。(品川区教育委員会)

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観音寺山門/大崎

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観音寺
弘治年間(1555558)の創建といわれ開山は光海和尚。当初は目黒川居木橋の南に所在していたのが、数度の水害を被り、これを避ける為に元禄年間一村挙げ現在の高台の地に移転をしたとされます。本尊仏は如意輪観世音菩薩でありましたが、滅罪と祈願と分つに至って別堂を設け現本尊仏の釈迦如来を安置、鎮守五社明神の本地仏として歴代の住職が其の別当職ということであります。中興開山第13世知淵(享保年間)の時に麹町山王別当城琳寺の末寺になりましたが、明治のご維新以来復飾され之に依って芝町三田の西藏院の末寺になりました。本尊の釈迦如来坐像は像高51.6(一尺七寸)木造・漆箔。玉眼嵌入、肉髻珠と白毫・水晶製。(天台宗東京教区)

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大崎駅周辺マップ
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品川周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:東海道 紫:中原街道 青:目黒川)


・・・・
資料ファイル

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品川湊(品河湊)
武蔵国荏原郡品川(現在の品川区)の目黒川河口付近にあった港。狭義には中世の港町を指す。品川湊は河口の砂洲によって流れが湾曲し緩やかとなり、砂洲を見渡すテラス状の高台があるという、古来から好まれた形状の港だった。1937年(昭和12年)に目黒川の流れが直線化されるまでは河口は現在より北の品川浦付近にあった。突端は洲崎と呼ばれ利田神社が建っていた。品川湊のあった品川湾は遠浅で、品川湊の沖合いでは、東京湾内の小型廻船(瀬取船など)と太平洋航路の大型廻船(弁財船など)の積み替えが行われた。現在の東京港品川埠頭から天王洲にかけての一帯がこれにあたる。積み替えが行われた理由は、品川以北には浅瀬が広がっており、北に向かって航行可能なのは2つの細い水路だけだったことや北上する為には、川の流れに逆らって進まなければならなかったことが考えられる。

古代

荷物を受け取った小型廻船は河川を通じて北関東香取海にまで至り、西国との流通路を形成した。品川湊は内陸部にあった武蔵国国府(現府中市)の外港(国府津)だったという説がある。品川と府中は品川道によって結ばれていた。品川にある荏原神社は府中の大國魂神社との関係が深い。品川海上禊祓式(汐汲み・お浜降り)が行われる。

中世

鎌倉時代には鎌倉との関係が深くなった。御家人として品川氏が置かれた。北条氏得宗が掌握する武蔵国の国庫の納物を鎌倉に運ぶ港として使われた可能性も指摘されている。室町時代には六浦に代わり、神奈川湊(横浜港)と共に東京湾有数の湊へと成長した。浅草や江戸湊と並ぶ武蔵国の代表的な湊であった。品川湊は伊勢・熊野と結ぶ太平洋航路で栄えた。中世の太平洋水運を担っていた伊勢神宮(伊勢大湊)や熊野三山とのつながりが強い。金沢文庫の「湊船帳」によると、南北朝時代末期の明徳3年(13921月から9月までの間に伊勢神宮配下の「神船」(免税船)が30隻入港したとされる。これらの物流は、鈴木道胤榎本道琳などの熊野出身の商人(有徳人・うとくにん・中世の富裕層)が担っていた。品川湊の問屋(土倉)は鎌倉府の財政基盤の1つであった。称名寺や円覚寺の造営料も徴収された。鎌倉府は直轄地化を進めた。領主であった品川氏1424(応永31年)鎌倉公方足利持氏に所領を没収された。
Wikipedia抜粋


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中世東国江戸湾図

品川の湊と商人
南北朝・室町二台の品川は六浦、神奈川(横浜)と並ぶ重要な港町として発展し、太平洋を運ばれた西国からの物資は品川を経由して武蔵野平野の各地へ届けられました。品川には人々が往来し、物資が流通して湾内の交易も盛んに行われ東国の都市として繁栄しました。15世紀半ばには熊野地方出身の海運商人鈴木道胤、榎本道琳などの有徳人が活躍しました。(品川歴史館)

by Twalking | 2017-10-10 13:45 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(蒲田~品川)05-北品川   

日時 2017.9.29(金)
天気 晴れ


南品川宿から目黒川を渡ると北品川宿になります。
川の袂には大国魂神社と縁の深い荏原神社、
御殿山西麓には東海寺と鬼門にあたる品川神社があります。

下流には寄木神社、品川猟師町、船溜まりに面影が。
賑やかな商店街を徒歩新宿に向かいますが、
寺社の横町がなんだか面白そうですね~・・・。


・・・
北品川


品川区の北部に位置する。町域北部は港区高輪・港南に接する。東部は概ね八ツ山通りに接しこれを境に品川区東品川に接する。南部から南西部にかけては目黒川に接しこれを境に南品川・広町・大崎にそれぞれ接する。西部は東五反田に接する。一丁目・二丁目内には旧東海道があり、かつての品川宿の名残を見ることができる。三丁目・四丁目・五丁目には高級住宅地として知られる御殿山がある
Wikipedia

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街道の風景① 目黒川手前に脇本陣、役所問屋場などがありました/南品川

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東海道品川宿 是より南 南品川宿
日本橋から東海道を上り目黒川を渡ると南品川宿に入ります。この高札の場所は脇本陣跡(現、城南信用金庫)で、百足屋(広瀬)浜兵衛が営んでいました。品川宿を南北にわけていた目黒川は大正時代末頃まで大きく蛇行し、荏原神社の北側を流れていました。東海道から神社への道を天王横町といい、今の鳥居の向きから往時が推定できます。東海道を南に進み、先に見える信号の左角が継立業務等を行なう宿場の役所問屋場跡(現、製菓実験社)で、その後、同じ建物内に人馬の荷の重さを検査する貫目改所も設けられました。(品川宿場通り商会、城南信用金庫品川支店)

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川の風景① 目黒川はこの先から左にカーブし江戸湾に注いでいました/品川橋

南品川宿河岸(俗に百足河岸)
江戸時代、品川領の村々では年貢米を目黒川や陸路をつかってこの河岸まで運び、幕府の浅草御殿に送っていました。この南品川宿河原のことを俗に百足河岸と呼んでいました。百足河岸と呼んだのは南品川宿河岸のそばに百足屋という大きな旅籠屋があったからだといいます。(案内板)

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品川橋の今昔/目黒川
この辺りは海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く当時の面影がしのばれます。「品川橋」は旧東海道の北品川宿と南品川宿のを流れる目黒川に架けられ、江戸時代には「境橋」と呼ばれていました。また別に「行合橋」「中の橋」とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたがその後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともにその姿を川面に映してきました。上流の鎮守橋をみる(品川区)

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目黒川
氾濫の多かった目黒川は大正から昭和のはじめにかけて川幅や川筋を替える大改修が行われました。とくに第一京浜国道に架かる東海橋より下流は、東京湾まで直線の川筋となり、荏原神社の北側を流れていたものが南側になりましたが、品川橋よりやや下ったところから大きく曲がり北向きに流れる部分は、本流から分かれて猟師町の漁船を繋留するために残されていました。この旧川筋部分は現在、埋め立てられて「八ツ山通り」になっています。(品川区)

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荏原神社鳥居/北品川

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荏原神社
南品川の鎮守である。社伝によれば和銅2年(70999日、藤原伊勢人が武蔵国荏原郡荏原川(目黒川)のほとりに勧請して当所の鎮守となした。一説には天長年間のこととも云、此神は大和国丹生神社と御同体で祈雨止雨の守護神である。当社の旧地は枝郷三ッ木の地であるとも伝えており、現在旧地貴船神社がある。康平5619源頼義義家両朝臣が勅命により陸奥の安倍貞任、宗任を征伐の為下向の節、武蔵国府総社六所宮(府中市大国魂神社)に祈願し、又当社にも参詣し社頭の海浜に身を浄め一心に祈願奉幣して出陣した。勝利を治めて無事帰途の際に六所宮ならびに当社に御礼を奉幣された

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此吉例によって以来総社の大祭である55日の前、430日に神主社家一同が神馬をひきいて当社に来たり、社頭の浜に各自が身を浄め塩水を汲み取って持ち帰り55日までの間毎日潔斉し5日の祭典を奉祀するのを管領とする様になった。天正18徳川家康関東に下向の節当社に立寄り由緒故実等を尋ねられた。当寺の神主鈴木正根が参上し由緒等を差出した処、古社であることによって左文字の太刀一振りを納められた。ついで翌1911月神主正根が召出され家康より5石の朱印状を賜った。以来代々この将軍より判状を受けてきたのであるが、途中北の稲荷社(品川神社)との間で争論が起こり、結果としては二分して25斗づつに分割されるようになったのである。(品川区の文化財)

武蔵国府・大国魂神社の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23803641/

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鎮守橋
北品川二丁目荏原神社鳥居前より南品川一丁目旧後地町の入口に至る間の目黒川に架けられた橋。目黒川の川筋が変わったため、南品川より荏原神社への参道が必要になり昭和3年(19289月完成した。この橋は荏原神社の氏子の拠出によって架けられた橋で、南品川の鎮守ということで鎮守橋と名づけられたもので、コンクリートの橋ではあるが神社の橋らしく左右各々に6本、計12本の橋柱には青銅の擬宝珠がつけられている(品川区教育委員会)

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江戸名所図会 
貴船明神社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

貴船明神社
(きふねみょうじんしゃ)
『江戸名所図会』で南品川宿の最初に出てくる挿絵は貴船明神社(貴布祢社)で現在の荏原神社です。挿絵では目黒川の南側に描かれていますが、現在は目黒川の北側にあります。これは蛇行していた川筋を大正から昭和初期にかけて川の改修工事によって流れを変えたためです。『江戸名所図会』の説明では「貴船明神社は神明(しんめい)牛頭天王をあわせて祀り、南品川の産土神(鎮守)なり。毎年67日は祭礼で、その前日神輿を海中にかつぎ入れ、後に宿内にお仮屋(御旅所)を設けて神輿を駐め、宿内を巡幸した」と記されています。さらに貴布祢の祭礼は99日で神明は同じ月の15日とあります。江戸時代の天王祭は『品川町史』によると、祭礼はいつの頃からか67日から19日まで執行されるようになったと記されています。現在は67日に近い土曜・日曜を含む3日間です。(江戸から明治の品川名所/品川区)

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川の風景② 目黒川沿いに上流へ行くと東海寺(左)があります/要津橋

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東海寺山門/北品川


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東海寺
品川区北品川三丁目にある臨済宗大徳寺派。山号は万松山。徳川幕府3代将軍家光により創建され、元禄7年の全焼後にはすぐに5代将軍綱吉によって再建されるなど幕府による手厚い保護を受けていた。500石の朱印領と47666坪に及ぶ広大な寺域を有していた。寛永16年(1639) 徳川家光が但馬国出石(いずし)の沢庵宗彭(たくあんそうほう)を招聘して創建。沢庵を住職とする。寛永21年(1644)土岐頼行が出羽国上山の春雨庵を模した塔中を沢庵宗彭のために建立する。元禄7年(1694)品川宿から出火した火災で全焼。すぐに徳川綱吉と生母桂昌院によって再建され大伽藍となる。明治6年 寺領が新政府に接収され、衰退。現在の寺域は旧塔頭玄性院(元・臨川院)にあたるWikipedia

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東海寺梵鐘
東海寺は寛永15年(1638)に三代将軍徳川家光の信任をうけていた沢庵禅師のために建立されたものである。本鐘は元禄5年(1692)住持天倫宗忽が撰文し、名工といわれた幕府の御用鋳物師である椎名伊予守良寛によって造られたものである。総高198cm、口径106cm、撞座は竜頭の側面方向に2ヶ所、乳は乳の間ごとに縦横5箇ずつ配列されている。(品川区教育委員会)

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沢庵墓/東海寺墓地

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国指定史跡沢庵墓/東海寺墓地
沢庵(15731645)は江戸時代初期に活躍した禅僧で、名は宗彭(そうほう)、沢庵は。但馬国出石(いずいし:現兵庫県豊岡市)に生まれ、幼少のころ出家して禅を学び、各地を修行して信望を集め、慶長14年(1609大徳寺153世住持となった。寛永6年(1629紫衣事件で流罪となり出羽国上山(現山形県上山市)藩主土岐頼行に御預けとなる。3年後許され、その後は三代将軍徳川家光に重用される。寛永16年(1639)家光によって創建された品川・東海寺の開山に迎えられ晩年を送った。正保2年(164512月没、73歳。沢庵は禅僧として大成しただけでなく兵法、儒学に通じ書画、詩歌にもすぐれ茶道に造詣が深かった。(品川区教育委員会

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渋川春海墓
渋川春海は寛永16年(1639)に京都で生れ、14歳で父の跡をついで幕府の碁所となり安井算哲(二代)と称した。囲碁の研鑽の一方で天文・数学・暦学を学び暦学者となった。その頃、日本では中国の宣明暦を使っていたが、2日の誤差があったので春海はみずから計算して新しい暦を作った。これが貞享元年(1648)に官暦となり翌年から用いられ、貞享暦として後の太陽暦の基本となったのである。貞享暦は日本人の手で作られた初めての和暦であり、春海はこの功によって幕府最初の天文方に任ぜられ本所(墨田区)に宅地を拝領した。春海は屋敷内司天台(天文台)を設けて天体の観測にあたった。これが江戸で最初の天文台である。春海は正徳5年(1715106日に77歳で亡くなりこの地に葬られた。(品川区教育委員会

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初代鉄道頭 井上勝
「鉄道の父」と称される井上勝は萩藩士の三男として生れた。15才から長崎、江戸で学び1863(文久3)年井上薫、伊藤博文らとともにイギリスに密航し鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した鉄道を日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓地は東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている(説明板)

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官営品川硝子製造所跡/東海寺墓地入口
日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは明治6年(1873)に東海寺境内に創設された興業社である。興業社は明治9年(1876)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり全国のガラス工業の発展に貢献した。明治18年(1885)には西村勝三らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため明治25年(1892)に解散した。昭和36年1961)に官営時代の建物は取り片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は明治初期の貴重な建築物として愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。品川区指定史跡(品川区教育委員会)

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東海寺想絵図万治3年(1660)
東海寺境内
家光が建立した東海寺は朱印領500石を有し、4766(1570002)に及ぶ広大な寺域をもつ大禅寺であった。創建にあたっては品川(目黒川)に橋(要津橋)を渡し、橋の向こうに門前町が作られた。寺内には最盛期に17の塔頭寺院が営まれた。なかには信濃松本城主堀田正盛の臨川院、若狭小浜藩主細川光尚の妙解院、丹波園部藩主小出吉親の雲龍院、出羽藩主土岐頼行の春雨庵などの大名創建の塔頭もあった。元禄7年(16943月品川宿から出火した火災で全焼したが、すぐに5代将軍綱吉と桂昌院によって再建された。現在の東海寺は旧塔頭の玄性院(元の臨川院)が東海寺の名称を引き継いでいる。(品川歴史館解説シート抜粋)

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江戸名所図会 牛頭天王 東海禅寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

『江戸名所図会』に北品川宿の名所として大きくとりあげられているのは東海寺周辺です。挿し絵も6頁にわたる鳥瞰図で、御殿山から牛頭天王社(現在の品川神社)、清徳寺と東海寺の本堂や山門、目黒川両岸の塔頭寺院をも描いた境内パノラマ絵図です。東海寺は寛永15年(1638年)に三代将軍徳川家光の命によって、沢庵和尚を開山として建てた寺院です。東海寺は品川海晏寺とともに紅葉の名所として江戸庶民に知られていました。(江戸から明治の品川名所/品川区)

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街道の風景② 街道に戻り北品川商店街を東へ向かいます/品川橋先

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北馬場
東海道から品川神社へ向かう道の両側一帯を北馬場と呼んでいる。品川宿には幕府公用の旅人に対して1日当たり馬百匹、人足百人を無償で提供する義務があり、従事する馬小屋があったためつけられた地名です。南北品川宿に馬場町があり、北品川宿ということで北馬場といったのです。(案内板)

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品川神社鳥居/北品川

境内入り口の階段前に門柱に龍の細工が施された石鳥居「双龍鳥居」がある。左の柱に昇り龍、右の柱に降り龍が彫刻されている。双龍鳥居は杉並区の高円寺と馬場稲荷神社(阿佐ヶ谷)にもあり、当社のものと合わせて「東京三鳥居」ともいわれている。品川区指定文化財Wikipedia)

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品川神社
社伝によれば後鳥羽天皇の文治3年(1185)に源頼朝安房国州崎明神を勧請した。元応(1319)当国の守護二階堂出羽入道道蘊が当社の神威を感じて本社を新たに造立した。応永年中(1394)当郷の住人鈴木正清入道幸純が当社を深く崇敬して永享4年(1429)社殿の造営を行った。長禄年中(1457太田道灌が江戸城に入り、文明10年(14786月に自ら牛頭天王を勧請して神事を怠慢なくつづけた。後北条氏も崇敬し数度にわたり修理を加えられた。天正18年(159081日徳川家康が江戸城に入り、翌1911月品川大明神へ5石の朱印社領地を賜った。後に南貴船社(荏原神社)と朱印争いをおこし25斗ずつに分けたのである。寛永14年(1637)に東海寺建立のとき、当社地の内南の方が御用地となり代替地1813坪を門前地として賜った。其の時、東海寺の鬼門にあたる為同寺鎮守となり、以来本社以下神主宅まで幕府によって修造され幕末に至った。現在元禄7年焼失の時、造営奉行戸田能登守忠直が社伝等悉く造営した。社前に建てた制札が残されている。(品川区の文化財)

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神楽殿                   水盤(慶安元年)

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浅間神社               品川富士

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品川富士より品川宿を望む

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江戸名所図会 品川牛頭天王神輿洗の図 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

牛頭天王社
とあるのは今の品川神社のことで、東海寺の開創にともなって境内地が鬼門(北東方向)にあたることから明治維新まで東海寺鎮守となっていました。品川神社は古くは品川大明神といわれ、江戸時代には北品川稲荷社と呼ばれていました。牛頭天王を勧請したのは室町時代と考えられています。(江戸から明治の品川名所/品川区)

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街道の風景③ 北品川宿の中心部、右が本陣跡になります/聖蹟公園前

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品川宿本陣跡/聖蹟公園
江戸時代の本陣は宿場で大名や旗本、公家などが休息や宿泊するところで、品川宿には初め南北品川宿一軒ずつありましたが、江戸中期には北品川宿のみとなりました。大名などが宿泊すると本陣には大名の名を記した関札を立て、紋の入った幕をめぐらしました。明治維新後、京都から江戸へ向かった明治天皇宿舎(行在所)にもなったところです。(説明板)

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虚空蔵横町
東海道から養願寺へ入る横町をいいます。養願寺の本尊はかつては阿弥陀如来でしたが、現在は虚空蔵菩薩で品川の虚空蔵さまとして親しまれています。江戸時代には毎月13日にお参りをしていました。今は毎年47日と117日の大祭に開帳され、七の付く日が縁日で新馬場北口の通りには露店が出店しています。(案内板)

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養願寺山門

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養願寺虚空蔵尊
養願寺は正安元年(1299)創建の(山号)明鏡山善行院、天台宗の寺。丑年、寅年の守り本尊である虚空蔵様で知られる。養願寺の虚空蔵菩薩は昔から子供が13歳より15歳までにお参りすると福・徳・智慧が授かると言われる「十三参り」が盛んで、また丑年・寅年生まれの守り本尊ということもあり、大護摩供厳修が行われた4月と11月の大祭には「十三参り」の親子連れや参拝の人たちが次々と訪れている。銅造阿弥陀如来立像:像高47.5cm。もと本尊で鎌倉時代の制作と推定される。長野市の善光寺本尊の模作。善光寺本尊に対する信仰は鎌倉時代から盛んになり各地で模造された。木造不動三尊像:彩色、像高112cmの不動明王立像と像高37cm前後の両脇侍像から成る。万治元年(1658)の造立。(しながわ観光協会)

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一心寺


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一心寺之由来
安政2年(1854)日本開国之気運高まり国運の境目に接面し時、大老師にある井伊直弼公が縁起に依り、江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄安泰の願へとの霊験を悟り開山され、時の町民代表一同に依って建立されたと伝えられております。当山は昭和の御代になり中興の祖とも云うべき僧正弘道大和尚に依り、豊盛山延命院一心寺と云う寺格を拝受し、成田山分身の不動明王を本尊とし延命、商売の護りとして今日に続いております。昭和61年より東海七福神の寿老人(寿命)の指定寺院に認定されしことは誠に意義深く亦、本堂の造りは京都本願寺の宮大工伊藤氏に依るものと称せられており、内陣には両大師、中国渡来之二仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、光霊作観音像、寿老人等が祀られおります。(一心寺僧正照幸代)
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法禅寺山門

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法禅寺
寺伝によれば明徳元年(1390)に開山言誉上人が没してから、それ以前は草庵であったものと思われる。以後時代が下って宝永年間1704-171013世一誉上人の代に寺院として内外共に充実したものであろう。これは宝永4年(1707)付の知恩院43世応誉上人授与の文書にも「法禅寺奉安置元祖円光大師者即大師自彫之霊像及墨跡大字宝号也…」「東照神宮及び桂昌院殿帰依不浅之意趣…」とみえ、本山に認証を求めたりして寺の由緒、格式を高めようとしているところなどにもうかがわれるのである。(品川区の文化財)

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流民叢塚碑(品川区指定史跡)
この碑は天保の大飢饉でなくなった人たちを祀る供養塔である。天保4年(1833)に始まった天候不順はその後数年におよび多数の餓死者を出した。品川宿には農村などから流浪してくる者が多く、この附近で病や飢餓でたおれる人が891人を数えるに至った。これらの死者は法禅寺と海蔵寺に葬られた。本寺には五百余人が埋葬されたという。初めは円墳状の塚で、この塚の上に明治4年(1871)に造立の流民叢塚碑が建てられていた。昭和9年に境内が整備された折、同じ場所にコンクリート製の納骨堂が建てられ、上にこの碑が置かれた。碑の正面には当時の惨状が刻まれており、天保の飢饉の悲惨さを伝えるとともに名もない庶民の存在を伝えている。(品川区教育委員会)

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街道の風景④ 賑やかな商店街を進みます、徒歩新宿になるのでしょうか

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善福寺山門

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善福寺
伊豆長八は幕末から明治初期に活躍した左官工、その漆喰こて絵は「東洋のフレスコ」として名高い。寄木神社本殿の内扉にはユーモアたっぷりな作品が、善福寺本堂正面の上部には力強い龍の作品が残る。(まち歩きマップ)


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歩行新宿字裏町(善福寺裏付近)
歩行新宿字裏町は元善福寺門前と同寺境内をいいました。裏町という名称は明治8年(1875)に地租改正の時から用いられていました。北品川宿字裏町の地域とは異なります。その由来は、東海道に面した歩行新宿の裏側にある町ということで名付けられました。(案内板)

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土蔵相模跡/徒歩新宿 
旅籠屋を営む相模屋は、外壁が土蔵のような海鼠壁だったので「土蔵相模」と呼ばれていました。1862年(文久2)品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作や久坂玄瑞らはこの土蔵相模で密議をこらし、同年1212日夜半に焼き討ちを実行しました。幕末の歴史の舞台となったところです。(案内板)

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街道の風景⑤ 右手に問答河岸の碑、先が八ツ山口になります

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問答河岸跡/徒歩新宿
寛永の昔、徳川三代家光将軍、勇壮活達の明君也。宗彭沢庵禅師に帰依して品川に萬松山東海寺を建つ。寺域五萬坪寺領五百石。殿閣僧坊相連つて輪・美を極む。・・・将軍一日天地丸に座乗し品海を渡り目黒河口に繋船して東海寺に詣し、喫茶法話薄暮に至って江戸城に還らんとす。禅師河畔に立って是を送る。将軍乗船に臨んで禅師に問して曰ク海近くして如何が是れ東海寺と。禅師答而曰ク大軍を指揮して将軍と言が如しと。将軍一笑。_を解いて而て還る。時移りて三百年地勢・変し河海遠し。然れ共市人傳えて問答河岸と称す。一世の英主一代の名僧諧譫談笑の蹟。菊鮨總本店主其煙滅を惜み石に録して永に芳を傳えんとす。亦可しからすや。(案内板)

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江戸名所図会 磯の清水 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

歩行新宿
八ッ山から品川宿に入ったところが歩行新宿です。歩行新宿は北品川宿の北側に発展してできた町場で、享保71722)に新たに品川宿に加わったところです。『江戸名所図会』で歩行新宿の様子を描いた挿し絵に「磯の清水」と題した井戸があります。「この井戸、清泉にして旱魃にも涸れることがなかった」とあり、清水横町の名称の由来となっています。今の京浜急行北品川駅南側付近にありました。この清水井戸の水は自由に汲むことはできず水屋から買い入れて使用していました。明治末期の『風俗画報』では歩行新宿について北は東海道本線品川駅に接し、西側は京浜電車(京浜急行)の停留場を控えていたので最も繁華なところと書いています。(江戸から明治の品川名所/品川区)

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北品川地図/東海道品川宿まち歩きマップ

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北品川周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:東海道 青:旧目黒川)


・・・・
資料ファイル

品川宿

東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。慶長6年(1601年)に中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていた。場所は北は京急の北品川駅から南は青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がっていた。目黒川に北品川宿、南品川宿、北品川の北にあった宿を歩行新宿といった(現在の北品川本通り商店街から北品川の法善寺辺りまで)。歩行新宿は品川宿と高輪の間に存在していた茶屋町が享保71722年)に宿場としてみとめられたもので、宿場が本来負担する伝馬と歩行人足のうち歩行人足だけを負担する新しい宿であることに由来する。品川宿は五街道の中でも重要視された東海道の初宿であり、西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わい、旅籠屋数や参勤交代の大名通過数において他の江戸四宿と比べ数多いというWikipedia


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江戸名所図会 品川駅 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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品川宿の名主
品川宿にも名主が置かれ、南品川宿の利田家(かがた)、北品川宿の宇田川家、南品川宿に属した南品川猟師町の大島家がそれぞれ単独で世襲した。歩行新宿は飯田家と名村家が相名主の形態をとっていたが、後に飯田家の単独世襲となった。宇田川家は太田道灌の江戸城築城に伴い長禄元年(1457)に日比谷郷から移って館を構えたとされ、飯田家と北品川宿の鎮守・北品川稲荷社(現品川神社)の神主小泉家とは親戚筋にあたる。利田家は戦国期の中頃に港町品川で活躍した鳥海氏の一族とされ、のちに利田と改姓したといわれている。(品川歴史館解説シート抜粋)


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品川区域の江戸名所一覧/品川歴史館


by Twalking | 2017-10-06 17:01 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(蒲田~品川)04-南品川   

日時 2017.9.29(金)
天気 晴れ

品川宿の中心部へ向かいます。
品川は東海道第一の宿場町であり、猟師町です。
目黒川河口の品川湊が古くから栄えていました。

街道の丘側には江戸時代以前に創建された寺社が
軒を並べていますし、船溜まりにその面影が残ります。
街道は歩いてますが、周辺をじっくり歩いてみました。


・・・南品川/品川区


品川区東部に位置する。北部は目黒川に接しこれを境に北品川に、東部は元なぎさ通りに接しこれを境に東品川に、南部は概ね都道420号線鮫洲大山線に接し東大井に接する。西部は東海道本線の線路に接しこれを境に広町に接する。町域内を南北に第一京浜が、南東部にはジュネーブ平和通り通っており、五丁目内に仙台坂がある。東部には旧東海道が通っており通り沿いは商店や寺院などかつての品川宿の名残を見ることができる。(Wikipedia


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街道の風景① 大井町からスタート、旧仙台坂を下って東海道へ/東大井

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旧仙台坂(くらやみ坂)/東大井
江戸時代にこの坂の中程から上にかけて仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があったことから、東大井4丁目と南品川5丁目の間のこの坂は仙台坂と呼ばれていました。しかし、現在は青物横丁に抜ける坂道が拡幅され交通量が増加したために、その坂の方を一般的には仙台坂と呼ぶようになり、こちらは旧仙台坂と言われるようになりました。(標柱)

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泊船寺山門/東大井

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泊船寺 
臨済宗 (山号)天林山。
室町時代の永徳2年(1382)に開かれたといわれる。江戸時代の初期、1680年代に住職を勤めた千巌宗億(せんがんそうおく)が俳人・松尾芭蕉と親交が深く、境内に牛耕庵(泊船堂、芭蕉堂)を建てて芭蕉を迎えたと伝えられる。文化年間(180418)には、俳人2世とかくさいさんど杜格斎山奴(白牛禅師)がこの寺に住んだことから、たびたび句会が開かれるなど芭蕉を慕う多くの俳人が集まるようになった。

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泊船寺句碑
境内には「いかめしき音やあられの檜傘」「旅人と我名呼れんはつ時雨」の芭蕉の句碑をはじめ、山奴句碑「漁火に鳥の飛行霜夜哉」、谷口楼川(もくせいあん木犀庵)句碑「はせをの前に芭蕉なく芭蕉の後にはせをなし」など芭蕉にゆかりのものが多い。いずれも江戸時代後期、寛政から天保年間(17891844)の銘が記されている。(しながわ観光協会)

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海晏寺
(かいあんじ)山門/南品川


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海晏寺
品川区南品川五丁目にある曹洞宗の寺院。建長3年(1251)開山。本尊は聖観音菩薩、山号は補陀落山。この寺は、鎌倉幕府5代執権北条時頼が開基となって宋から渡来した禅僧蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)の開山により曹洞宗の寺院として創建されたと伝えられる。本尊の観音像は品川沖でかかった鮫の腹から出た物と伝えられ、一帯の「鮫洲」という地名の由来ともなっている。かつては多くの末寺を有したが衰退し、1593年(文禄2年)徳川家康が天叟慶存を招いて再興し現在の曹洞宗の寺院となった。江戸時代「御殿山の桜」とならび紅葉の名所として知られていた。東京都指定旧跡:白井鳥酔の墓 加舎白雄 松平春嶽 岩倉具視 後藤昌直の墓(墓地には入れません)Wikipedia

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白井鳥酔墓(東京都指定旧跡)
鳥酔(~1769)は上総国埴生郡地引村に生まれた。名は信興といい喜右衛門と称していた。生家はかなりの資産家であったが家を譲って江戸に出て、長谷部柳居に従って俳諧を学んだ。はじめ牧羊と号しのち露柱と号した。さらに松露庵2世を嗣ぎ、南浦松原庵および大磯の鴨立庵に住した。鳥酔は天明俳諧の中興の先駆をなした蕉門の巨匠として名を世人に知られた。著書には「稲ふね」がある。明和644日に没した(東京都教育委員会)

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江戸名所図会 
海晏寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

海晏寺は建長3年(1251年)に鎌倉幕府の執権・北条時頼が建長寺を開いた渡来僧・蘭溪道隆を開山として創建された寺院です。江戸時代、紅葉の名所として知られる海晏寺は絵師・歌川広重らによって描かれた浮世絵があります。(江戸から明治の品川名所/品川


・・・青物横丁商店街


南北の旧東海道と東西のジュネーブ平和通りを軸とした十字面型の広域商店街。東海道五十三次の一番宿として古くから旅人に親しまれた旧品川宿中心に立地。その名は江戸時代の「野菜(青物)市場」に由来し、昭和初期まで大きな八百屋が軒を連ね賑わっていた。弘法大師空海が9世紀に開山した「品川寺(ほんせんじ)」は江戸六地蔵に数えられる高さ約3mの巨大地蔵や、樹齢300年の大銀杏、4代将軍徳川家綱寄進の大梵鐘などで有名。また、新撰組の土方歳三が定宿としていた茶屋「釜屋」跡地もある。
Wikipedia


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街道の風景② 第一京浜の先が旧東海道です/南品川3

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すぐに海晏寺参道入口            参道には幸稲荷社があります

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海雲寺山門
/南品川

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海雲寺/品川区にある曹洞宗の寺院。山号は龍吟山。「千躰鋼荒神」を祀る寺として知られる。この寺は1251年(建長3年)不山が近くの海晏寺内に建てた塔頭庵瑞林に始まると伝えられる。当初臨済宗に属したが、1596年(慶長元年)五世分外祖耕により海晏寺から独立して曹洞宗に改められ、1661年(寛文元年)海雲寺に改名した。十一面観音像:1251年(建長3年)の創建当時からあり春日仏師作とされる。千躰荒神像:インドの毘首羯摩作と伝えられ、古く肥後国天草郡荒神ヶ原にあったが真鍋直澄が島原の乱出陣時に戦勝祈願したところ、千躰の神兵に助太刀され大きな武勲を得たといい、江戸高輪二本榎の佐賀藩鍋島家下屋敷に遷座させたが1770年(明和7年)3当寺に勧請された。移転は島原の乱時にキリシタンによって社を壊されたためとする話も伝わるWikipedia

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千躰荒神堂奉納扁額
千躰荒神王はの神として、また台所の神としても有名である。堂内に懸けられている扁額は信徒の奉納によるものであり全部で27面ある。文字額及び雌雄二鶏図が多く、格天井(ごう)の中央に龍の図が、その周りに纏図(まといず)が描かれている。文久元年(1861)作の雌雄の二鶏図はガラスの上に彩色された貴重な資料であり、また昭和10年に奉納された浪曲家廣澤虎蔵夫妻による文字額もある。品川区指定有形文化財 (品川区教育委員会)

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平蔵地蔵
平蔵は鈴ヶ森刑場の番人で2人の仲間と交代で乞食をしていたが、1860年頃の或る日大金が入った財布を拾い、正直に持ち主の仙台藩士に届けたところ、仲間の乞食に仲間外れにされ凍死したため藩士が平蔵を悼んで建てたものである。当初青物横丁にあったが1900年(明治33年)10月京急本線建設に伴い当寺に移されたWikipedia
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力石
いつの頃からこの力石は海雲寺の境内にあり、若者達の力競べに大正の中頃まで使われていた。当時、門前には多勢の漁師や親船から積荷を小舟に移し取る瀬取(沖仲仕)がいて、この石を何回持ち上げられる、門と本堂の間を何回持って歩けるかと競ったものである。力つきて放り出し大地に落ちるときのドスンという鈍い音は、騒音のなかった当時静けさを破る心持よい響きであった。昭和6110月 福沢嘉吉 記す。この石はその当時からこの場所にあり元気な若者の汗が染み込んだものです。石にふれてお元気を出して下さい。文字は寄せ文字家元・橘右近師匠の奉納揮毫です(説明板)

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江戸名所図会 
海雲寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

荒神様は火と水の神でまた台所(かまど)の守り神とされ、現在も毎年3月と11月の2728日の千躰荒神祭には多くの参詣者で賑わっています。明治時代の『風俗画報』に境内には「大日本帝国議会原始紀年」碑という巨大な石碑があると記してあり、議会開会にかかわるものですが由来は分かっていません。
(江戸から明治の品川名所/品川区)

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品川寺山門
(ほんせんじ)


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品川寺
品川区南品川三丁目にある真言宗醍醐派の寺院である。山号は海照山。本尊は水月観音と静観音で、江戸三十三箇所観音霊場の第31番である。寺伝によると弘法大師空海を開山とし大同年間806-810年)に創建されたという。

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長禄元年(1457)江戸城を築いた太田道灌により伽藍が建立され、寺号を大円寺と称した。その後戦乱により荒廃するが、承応元年(1652)に弘尊上人により再興され現在の寺号となった。スイス・ジュネーブ市と深い縁を持つ梵鐘を始め、江戸六地蔵の第一番にあたる地蔵菩薩像や東海七福神の毘沙門天などがあるWikipedia

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銅造地蔵菩薩坐像
山門前左手にある露座の仏像。宝永5年(1708)に造られた、江戸六地蔵の第一番。現存する江戸六地蔵像のうち唯一頭上に傘を載せていない。東京都指定有形文化財(彫刻)


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梵鐘
明暦3年(1657)の銘があり徳川幕府第4代将軍・徳川家綱の寄進とされる。鐘身に六観音像を鋳出する。この鐘は幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867年)・ウイーン万博(1873年)に展示されたと伝えるが、その後所在不明となっていた。大正8年(1919年)当時の住職であった仲田順海は鐘がスイス・ジュネーブ市のアリアナ美術館に所蔵されていることを突き止め、返還交渉を開始した。外務大臣幣原喜重郎ほか多くの人々の尽力によりジュネーヴ市議会は鐘を日本へ戻すことに同意し、昭和5年(1930)同市の好意により品川寺に返還された。Wikipedia

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品川寺のイチョウ
本樹は幹周り5.35m、樹高25m、推定樹齢約600という古木であるが、整然とした樹姿を見せその樹勢も極めて旺盛であり、幹や大枝からは多くの乳が垂れている。本区内の数あるイチョウのなかでもひときわ目立つ存在であり、かなり離れた地点からも眺めることができ壮観である。また約600年という樹齢は本寺が歴史の古い寺であることを実証するもののひとつである。品川区指定天然記念物(品川区教育委員会)

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江戸名所図会 
品川寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


品川寺の本尊は秘仏「水月観音」とよばれ、弘法大師(空海)が東国巡行中にこの地の領主品河氏に与え、同氏滅亡後は草堂に安置されていたといわれています。また、一説には太田道灌が信仰していた持仏を本尊としたとも伝えられています。山門まえには宝永5年(1708年)に地蔵坊正元(しょうげん)が浄財を集めて江戸の入口6ヵ所に造立した江戸六地蔵の一つが描かれています。境内の鐘楼には明暦3年(1657年)に鋳造された六観音像が浮き出されている梵鐘があります。この梵鐘は慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会に出品され行方不明となっていましたがその後、スイス・ジュネーヴのアリアナ美術館にあることがわかり、昭和5年(1930年)に返還されました。このため「洋行帰りの鐘」と呼ばれようになったのです。
(江戸から明治の品川名所/品川区)


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幕府御用宿 釜屋跡 
この地はもと「釜屋」のあったところです。釜屋は南品川にあった立場茶屋のひとつで、東海道を上がり下りする旅人たちはここで休息したり、見送りや出迎えの人たちと宴会をひらいたりしました。大へん繁盛したので、のちには本陣のような構えに改築しました。それで俗に「本陣」とよばれたりしました。幕末動乱の世情を反映して、慶応3年(1867)には連日のように幕府関係者が休んだり宿泊した記録が残っています。長井尚志(若年寄格)をはじめ奉行、代官、歩兵隊々長他、旗本達が多く利用しました。有名な新撰組副長土方歳三も隊志を連れて、慶応31021日に休息しています。また、慶応41月(1868)の鳥羽・伏見の戦いに敗れた新撰組隊志たちは同月15日に品川に上陸ししばらく釜屋に滞在しました。今から120余年前を偲びつつここに記す次第です。(青物横丁商店会、まちのお宝保存委員会)


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ジュネーブ平和通り
第一京浜から品川シーサイドフォレストまで青物横丁駅前を通る720mの通り。品川寺の梵鐘を通じて品川区と友好都市提携を結んだジュネーヴ市(スイス)から"Avenue de la Paix"(フランス語で「平和通り」)の標識が送られた。この通りは都道だが同市と交流のある地元の方々の要望により名付けられた。(しながわ観光協会)

青物横丁

江戸時代、品川寺の門前町屋・東海道に面したところで、観音前といい池上道に面したところに青物市場があったので「青物横丁」と地元では呼んでいました。明治10年に市場として認可され、敷地520坪余で営業されていました(標柱)


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街道の風景③ ジュネーブ平和通りを横断して東へ、街道の左手に寺社が並びます

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南品川諏訪神社鳥居/南品川

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南品川諏訪神社
天妙国寺の伝によると開基天目は信州の生まれで、寺を建立した後に本国の名社諏訪社を勧請して境内の鎮守とした。当時は海岸の州崎に建っていたので州の宮と称していた。その旧跡は今は海の中になってしまった。その後永享の頃社を境内に引いて再造した。同87月郡司二階堂沙弥正三は神田を寄附して祭事祭社を勧行させたのである。当時の社地は境内古図によるところで、今の処へ移したのはその後の事で神体は衣冠の坐像である。妙国寺には享保1525世日凰の写した縁起が所蔵されている。(品川区の文化財)

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天妙国寺(てんみょうこくじ)山門/南品川

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天妙国寺(てんみょうこくじ) 
弘安8年日蓮の弟子・中老僧天目が開いた寺である。延元2426日寂す。永享65品川八郎三郎国友は当寺に帰依し、その領内南品川の辺りの芝原若干を寄附した。同84月に前上総介定景は両親の菩提の為、畠地を寄附する。同107月、同1111月の二度に憲泰も寺地を寄附した。ここで寺領も広くなり法燈も益々盛んとなった。これは僧日叡の在住の頃である。文安元年になり領主・沙弥道胤鈴木光樹の両人が大檀那となって七堂伽藍の建立を企て17年を経て長禄3年に落成した。為に日叡を中興開山と称する。文安3年の古鏡銘に大檀那沙弥道胤と刻され、宝徳2年の文書にも品川の住人道胤と記してある。此後永正1410月弾正正忠寺に制札を建て、同1910月左京亮元景畠三段を寄附する。大永4北条氏綱、高輪原合戦の時に制札を出して軍兵の狼藉を戒め、その後天文永禄の数回にわたって北条氏より制札文書を賜った。天正19年東照宮より寺領10石の朱印を賜り、後家光鷹狩りの時しばしば御立寄りになり、寛永1111五重塔修造を命じられ、又新たに本尊及仁王門大門、石垣、石燈籠、小書院等を造立させたと云われる。(品川区の文化財)

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桃中軒雲右衛門の墓(品川区指定史跡)
当寺の典籍は文書6点を含む17点で、享保年中から明治に至る間(1720-1885)に作成された写本、稿本(手書きした本)類である。いずれも顕本法華宗の教義・門流・先師に関するもので、特に典籍の「宮谷檀林林玄能歴代本山法主記」のように、現在では孤本となっているものもある。また、文書の中には創建(弘安8=1285)以来から品川地域では大寺であった同宗の天妙国寺に関する史料が含まれているのも興味深い。これらは顕本法華宗の宗門研究にとって大変貴重な史料である。(品川区教育委員会)

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天妙国寺五重塔礎石
天妙国寺五重塔は15世紀中頃に建立されました。その後、慶長19年(1614)秋に大風のために倒壊。寛永年間に修復されたのですが、元禄15年(1702)の四谷塩町より出火した大火によって焼失したと伝えられています。五重塔は「妙国寺絵図」(左図)にも描かれています。五重塔には一本の心柱(塔の中心の柱)と16本の柱があり、それぞれの柱には礎石と呼ばれる大きな石の上に建てられます。特に心柱を受ける礎石を心礎といいます。中央にくぼみのある石が当時の五重塔の柱の礎石です。3個のうち中央の花崗岩製の礎石が心礎と考えられます。なお、この礎石は後世に移されていて五重塔のあった正確な場所は不明です。品川区指定有形文化財(品川区教育委員会)
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江戸名所図会 天妙国寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

天妙国寺は鎌倉時代の弘安8年(1285年)に中老僧の天目上人が開いた寺院です。その後、各時代の有力者に保護され広い寺域をもつようになりました。室町時代の文安元年(1444年)鈴木道胤(どういん)・光純(幸純)父子によって七堂伽藍の建立がはじまり、長禄3年(1459年)に落成したと記されています。そのなかに五重塔がありましたが、江戸時代初期の慶長19年(1614年)828日大風によって倒壊してしまいました。3代将軍徳川家光の命によって五重塔ほか伽藍が再建されましたが、元禄15年(1702年)211四谷塩町から出火の大火により五重塔などを焼失しその後再建されませんでした。この五重塔の礎石の一部が平成21年に発見され、同年11月に品川区の文化財に指定されました。また、五重塔のほか境内を描いた「妙国寺絵図」や室町時代から江戸時代の古文書は東京都の指定文化財になっています。
(江戸から明治の品川名所/品川区)


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長徳寺山門

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長徳寺
昔は北品川小名山岸(旧東海寺本堂の所と云)にあった。天正19年徳川家康より朱印5石の地を下蛇窪村(二葉町)に賜った。寛永14年(1637東海寺建立にあたって御用地となり枝郷三ッ木(西品川)に賜ったが、不都合なので末寺常行寺廃跡に移った。これが現在地である。家康以来歴代将軍の朱印状を所像している。

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閻魔堂は昔馬場東光寺にあったものを、当地を大龍寺に譲ったときに此処へ移したものである。(品川区の文化財)
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常行寺山門

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常行寺
嘉祥34月に慈覚大師が開基したと伝えている。7世源信(風土記稿では恵心)僧都長保年中に住居する様になった。古くは武蔵相模両国に於いて檀林末寺500ヶ寺をかぞえる程であり、目黒不動の像も元は当寺の護摩堂の本尊であると云われる。又鎌倉時代には若干の寺領もあったといわれるが、後次第に衰え文安元年より大永6年に至る81年間は住職も絶えてわずかに寺号を伝えるだけであった。同729世実海僧正の時に、明観の耐えようとするのをなげき力をつくして旧観に復した。

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慶長年中営中に於いて天台論議の時、36世蓮海法印はその列に連なった。此頃当寺は檀林にあって相当な格をもっていたが、東叡山寛永寺の創建の後は檀林を止められその末に入る。尚往古寺地は隣村大井村にあったが、承応2年静尊の時(当時の住持は38世蓮海法印である)今の処へ移して壮観の美をつくしたという。大井の旧地は後に土佐藩山内忠豊の邸となった。宝永の頃火災に遭い記録什物等ことごとく焼失する。享保年中に至って住僧檀越と謀って堂宇を再営して旧に復した。周辺川崎辺りに多くの末寺を持っている。(品川区の文化財)


・・・南馬場通り

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街道の風景④ 南馬場通りを横断、この通りも寺社が並ぶので左折して寄り道/南品川

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「品川道」の推定経路は途中の案内板によると、大井三つ又からこの辺りで旧東海道に交わる道筋となっていました。また、この道は目黒不動尊への「目黒道」、天現寺先から分かれ碑文谷へ向かう「碑文谷道」だったようです(赤:東海道 緑:品川道 紫:平間街道 青・紺:目黒川/推定経路に着色)






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真言宗大谷派の心海寺         日蓮宗の蓮長寺

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顕本法華宗系の妙蓮寺         浄土宗の願行寺

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海蔵寺山門

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海蔵寺
永仁6年(1298)藤沢遊行寺二祖他阿真教上人が、宗祖一遍上人の教えをつぎ念仏をすすめて諸国を巡化の途中、たまたま当地にとどまること3年間、多くの衆生を教化された時に、妙覚庵運心称する妙好人があり、上人の徳風に帰依され祖先伝来の三尊仏を上人に寄進し、伽藍を結構して運心の寄附の三尊仏を安置したのが現在の本尊である。江戸時代に入り、品川宿がおかれ、ここで死亡した人達も葬られたのである。元禄4年(1691)から明和2年に至るまでその数7万余人といわれている。宝永5年(170878日土地の有力な信者の集まりがこれを改葬し、その骨を集め、墳墓をきずきその上に観音像を安置したのが巷間に伝えている頭痛塚である。頭痛を辞めるものがその平癒祈願をすると利益があるといって、香煙の耐えたことがないといわれている。また当時鈴ヶ森刑場で処刑された人や、品川遊郭に於いて死亡した遊女等も葬られている。(品川区の文化財)

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海蔵寺無縁供養塔群(品川区指定文化財)
かつて品川にあった溜牢(牢屋)でなくなった人々の遺骨を集めて、宝永5年(1708)に築かれたである。お参りをすると頭痛が治るということから頭痛塚と呼ばれた。この塚に天保の大飢饉1833-40頃)の折になくなった215人を祀る215人塚も合葬され、更に品川宿の娼妓の大位牌や、鈴ヶ森処刑場で処刑された人の首の一部も埋葬されて総称を首塚と名付けられた。この首塚の他に慶応元年(1865)の造立の津波溺死者供養塔や、大正4年(1915)に造立の京浜鉄道轢死者供養塔、昭和7年(1932)に造立の関東大震火災横死者供養塔などがある。いずれも無縁の横死者の霊を供養するもので、本寺は品川の投込寺であったことがよくわかる(品川区教育委員会)

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天龍寺山門


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天龍寺
寺伝によれば下谷天龍寺(現足立区東伊興功徳山天龍寺)は昔此寺の出張寺であった。それは品川から御城まではかなり遠いので下谷に一寺を建立して住僧はそこに居て時々登城したのである。それで彼の寺も功徳山天龍寺と名付けた。下谷天龍寺の伝に、天正9年一庭氷見が品川の天龍寺を創建したが、東照宮の時二世嶺育に帰し召されて登城した。老僧遠路の往来にたえられず御城の近くに寺地を賜ることを願い上げ、慶長15年湯島を替地として賜り、元地は無住に等しいものになったが、国府台総寧寺哲尊が在府の時宿寺として後、其弟子宝鈯を住まわせ、後で今の地に移ったと云う。(品川区の文化財)

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大龍寺山門


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大龍寺
品川区南品川にある黄檗宗の寺院。山号は瑞雲山。木造釈迦三尊像、木造伽藍神倚像等の品川区指定文化財を多数所蔵する。寛正4年(1463)覚阿が創建した時宗の明王山東光院が起源。元禄16年(1703)百泉己が明国の渡来僧慧林(百和泉譲受穏元の弟子)を開山に黄檗宗に改宗し、寺号も瑞龍山大龍寺に改めた。開基は藤堂伊予守良直。Wikipedia

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本光寺山門


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本光寺
品川区南品川にある単立寺院。山号は経王山。往時は真言宗といわれ室町時代日什(にちじゅう)により法華宗に改宗し、経王山本光寺と改称したという。徳川家光が本光寺を訪れ、本光寺18世・日啓と増上寺・意伝が東海寺・沢庵宗彭(たくあんそうほう)の立会いのもと念仏無間の問答(品川問答)をした。近年、アルゼンチンに流出していた上行寺の祖師像が本光寺へ遷座されたWikipedia

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五輪塔                   三重塔

木像日蓮聖人坐像(品川区指定文化財)

この日蓮聖人坐像は像の高さ68.5cmの堂々たる肖像彫刻である。本像は像内に納入された文書および法華経8巻によって造立の経緯と開眼年代が明らかで、京都上行寺の祖師像であったことが判る。このように造立の経緯のわかる彫刻は区内には数少ない。また像自体については、面部が後世の補作となっている点こそ惜しまれるものの、量感に満ちた体躰や袂先の表現、着衣に見られる緻密な唐草盛り上げ文様など中世の祖師像の表現をよく伝える江戸時代初期の貴重な作品である。(品川区教育委員会)


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江戸名所図会 
本光寺・大竜寺・天竜寺・海竜寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

南品川宿の寺院
次に大きく描かれているのが東海道の西にあたる「本光寺・大竜寺・天竜寺・海竜寺」で、海竜寺海蔵寺のことです。海蔵寺は品川宿の投げ込み寺といわれ、鈴ヶ森で処刑された罪人や引き取り手のない死者を葬ったためです。この挿絵の位置は現在の南品川四丁目付近にあたり、かつてこのあたりは明治後期には字馬場町(あざばんばまち)と字東広町(ひがしひろまち)の一部で、俗に南馬場と呼ばれていたところで寺院が集中しています。この絵の手前(東海道寄り)には、妙蓮寺・願行寺・本栄寺・心海寺・本覚寺があります。品川宿の寺院は東海寺など数ヵ寺をのぞいて江戸時代以前に建立されています。その理由の一つに中世品川湊繁栄が関係していると考えられています。(江戸から明治の品川名所/品川区)

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街道の風景⑤街道の戻り東へ、この先ほどなくで目黒川です/南品川

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街道松の広場
品川宿では旧東海道沿いに五十三次の各宿場から贈られた街道松を植えている。この広場の松は浜松宿から贈られた第1号(まち歩きマップ)




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海徳寺
貴船明神社のとなりに描かれているのが海徳寺です。名所図会では海徳寺の説明はありませんが、海徳寺は大永2年(1522年)に鳥海和泉守によって開かれたお寺で、その境内には淡島社も描かれています。淡島社は江戸時代、子授・安産・万病平癒に霊験がありとくに女性を守護するといわれています。海徳寺には淡島尊天(粟嶋尊天)の護符など御札を摺った板木が残されていて品川区の文化財に指定されています。(江戸から明治の品川名所/品川区)
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南品川宿地図/東海道品川宿・まち歩きマップ

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南品川周辺地図/明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:東海道 緑:品川道 青:目黒川)



・・・・・
資料ファイル

品川

品川区品川地域の地名を指すが、港区の品川駅周辺地域をも含めることも多い。元々は目黒川下流から河口付近一帯の地域を指して品川と言った。品川の名前の由来は目黒川の別名であるとする説、高輪に対して品ヶ輪とした説など様々ありはっきりとしたことはよく分からない。品川の地形的な重要要素となる目黒川は品川区北品川と南品川の間を流れ、現在は東品川の天王洲アイルの南側で東京湾に注いでいる。旧東海道から沖合いはそのほとんどが近代以降の埋立地となっている。Wikipedia

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中世品川の寺社想定図/品川歴史

中世の品川
平安時代末から鎌倉時代の品川
品川区域のことが文献資料に現れるのは平安時代末12世紀後半からです。大井氏とその一族の品河氏がいまの品川区域を支配していました。両氏は源平争乱を経て鎌倉幕府の御家人となりました。 品川区域の大井氏の所領13世紀末には執権の北条氏一門の手に移りました。

室町時代から戦国時代の品川
室町時代になり品河氏の所領鎌倉公方のものとなります。さらに関東管領上杉氏の支配を経て小田原の後北条氏が品川区域を治めます。このように時代の有力者が品川区域を支配下に置いた理由のひとつは、品川が江戸内湾(東京湾)有数の湊だったためです。目黒川河口付近にあったと考えられる品川の湊は、紀伊半島・東海地方と関東を結ぶ太平洋海運と江戸内湾を経て、旧利根川水系・常陸川水系経由で北関東や東北へ続く流通路の結節点でした。品川は港町として栄え、品川のまちには関東への布教拠点として各宗派の寺院が建てられ、有徳人(うとくにん)と呼ばれた裕福な商人・海運業者は寺社に土地や建物を寄進しました。現在、北品川・南品川にある寺院のほとんどはこの時期に建立されたものです。江戸時代の品川宿の骨格はこの時期に出来上がったものです。(品川歴史館)

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常滑焼の大甕
区内北品川の御殿山から発見されたもので15世紀前半、愛知県常滑で作られたものです。当時、このような甕が海運で日本各地に運ばれていたため品川の湊との関連が考えられています。(品川歴史館)


by Twalking | 2017-10-03 10:42 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(蒲田~品川)03-東大井   

日時 2017.9.19(火)
天気 晴れ

名所図会にも描かれていますが街道は海岸線を
品川宿に向かいます、ここは猟師町ですね、
勝島運河にその名残を感じます。

江戸の頃は一帯の丘は大名の下屋敷がありました。
丘の上は平間街道、海べりは東海道、
時代は違いますが見比べると面白いですね。



・・・南大井/品川区


品川区の南東部に位置する。北部は立会川に接しこれを境に東大井に、東部は勝島に、南部は大田区大森北・大森本町に、西部は大井・大田区山王にそれぞれ接する
Wikipedia

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街道の風景① 旧道を立会川へ向かいます、右奥は現在品川区民公園です/南大井


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浜川神社/南大井


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浜川神社
当社の発祥は江戸期の修験である。天明頃(1781-1789)に福島三右衛門という者が富士山、高尾山そして出羽羽黒山で修行して羽黒修験となり、自宅に厄神大権現を祀ったのが当社の始まりであるといわれている。三右衛門はのちに教光院了善と称したが、江戸城大奥の女中や諸大名から篤い尊信を受けていた。天保13年(1842)に了善は町奉行鳥居甲斐神のために穽られて流罪となったが、嘉永3年(1850)放免され、嘉永5年(1852)に了善の孫大野良顕が再興した。明治維新の神仏分離の際に当社は神社となって浜川神社と称し、良顕が還俗して神職となって奉仕した。当社は江戸期には厄神と呼ばれて厄除けの神として尊崇されていたが、元来地元の鎮守でないため氏子がなく信徒が各地に散在しを結成している。信徒が特に多いのは東京湾を隔てた対岸の房総沿岸地域で、木更津から佐貫、鴨川にかけての漁村の人々の信仰を得ている。江戸期には祭日にこれらの人達が舟で東京湾を横断して当社の前に上陸し、その日当社に参籠して翌日高尾山に参拝登山したといわれている。(品川区の文化財)

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天祖神社鳥居/南大井

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天祖・諏訪神社
昭和40(1965)に旧東海道沿いに立会川を挟んで並んで鎮座していた天祖神社(南浜川鎮守)と諏訪神社(北浜川鎮守)が合祀してできたものである。天祖・諏訪神社のひとつであった天祖神社は、建久年間(1190 - 1199)の『大井郷之図』に神明社(天祖神社の旧名)としてその姿を確認することができるからそれ以前の創建と考えられる。元は別当寺である来福寺(正暦元年・990の創建)の境内にあったとも伝わっている。諏訪神社は、松平土佐守の下屋敷の海岸寄りにあり、寛永8年(1631)以前の言われている。その後、昭和40年(1965年)に天祖神社の改築に伴い、両神社が天祖神社のある場所に合祀された。同時に南大井二丁目にある浜川神社から東海七福神の福禄寿を移した。Wikipedia

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境内                 厳島神社

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川の風景① 立会川が勝島運河に注ぎます、河口には浜川砲台がありました/浜川橋

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立会川(たちあいがわ)
目黒区および品川区を流れ東京湾に注ぐ二級河川。全長7.4km。東京都目黒区にある碑文谷池清水池に源を発し、南東方向へ流れる。昭和20年代までは魚やザリガニが棲むきれいな小川であり、子供たちの絶好の遊び場であったが、現在では大部分が暗渠となり、道路(立会道路)や緑の豊富な遊歩道、公園などになっている。名は以下のように複数の説があるが定説となるものは無い。その昔、川を挟んで小競り合いがあったことから「太刀会川」とした。鈴ヶ森刑場へ送られる罪人をその親族や関係者が最後に見送る(立ち会う)場所であることから「立会川」となった。中延の滝間(たきあい)という地を流れていたので滝間川(たきあいがわ)と呼ばれ、それが現在の立会川に変わった。Wikipedia

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浜川橋 
立会川がに注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。この橋が架けられたのは徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。現在の橋は昭和9年(1934)に架け替えられたものです。
涙橋の由来
慶安4年(1651)品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りにきてこの橋で共に涙を流しながら別れたということから「涙橋」と呼ばれるようになりました。(品川区教育委員会)


・・・東大井

品川区の南東部に位置する。北辺は都道420号鮫洲大山線に接しこれを境に南品川・東品川に、東辺は京浜運河に接しこれを境に八潮に、南東は勝島運河に接しこれを境に勝島に接し、南辺は立会川に接しこれを境に南大井に、西辺は東海道本線などの線路に接しこれを境に広町・大井にそれぞれ接する。京急本線が第一京浜と平行して走っており、鮫洲駅と立会川駅が設置されている。両駅付近には旧東海道が通っている(Wikipedia

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川の風景② 勝島運河に沿って「しながわ花街道」の散策路がついてます/立会川河口

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浜川砲台の大砲/新浜川公園
嘉永6年(18536月、アメリカ合衆国はペリー提督の率いる4艘の艦隊を日本に派遣して開国を迫った。国書を幕府に渡すと来春、再来航するとしてペリーは去った。日本側は、次回は戦争になると想定して江戸湾の防備に力を入れることになる。土佐藩はここに鮫洲抱屋敷を持っていたので、砲台を造ることを幕府に願い出た。嘉永7年(18541月ペリー艦隊が再来航した時、急遽、土佐藩が造ったのが浜川砲台である。六貫目ホーイッスル砲一門(復元)・一貫目ホーイッスル砲二門・鉄製五貫目砲五門計八門を配備した砲台だった。ここに復元したのは六貫目ホーイッスル砲である。実物のない他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあった中で土佐藩の装備は江戸っ子の評判も上々で、次のような狂歌も作られている。「品川の固めの出しのよくきくは下地もうまくなれし土佐武士」(品川の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは、準備もうまい熟練の土佐のサムライだからだ)。これは土佐の鰹節にかけた狂歌で堅目のダシの良く効くは、料理の下ごしらえも上手くできる土佐ぶし(鰹節)だからだという意味である。この浜川砲台に佐久間象山塾で大砲操練を学んだ20歳の坂本龍馬がいたのである。(説明板)

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街道の風景② 鮫洲までわずかなので丘側の大名屋敷跡に寄り道します/浜川橋先

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龍馬が世界と出会ったまち品川/北浜川児童遊園

ペリーが初めて来航した嘉永6年(185319歳の坂本龍馬は藩からの許可を得て江戸で剣術修業中でした。土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷(今の品川区東大井)警備のため江戸詰めの武士を動員し龍馬もその中に加わりました。同年9月には「異国船処々来り候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候、其節は異国の首を打取り」と父親に手紙を書いています。品川での黒船警固から龍馬の幕末は出発したのです(案内標柱)

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立会川二十歳の龍馬像
嘉永6年(1853)黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬(1835-1867)は土佐藩品川下屋敷の近くにあった浜川砲台の警護にあたります。当地は後に海運貿易の亀山社中の設立・薩長同盟の斡旋など、近代を切り拓いた龍馬が志を立てたゆかりの地と言えます。地元有志、品川龍馬会の人々のはたらきで、桂浜にあるものと同じ姿の龍馬像が高知市の寄贈により設置されていましたが、近頃の時代の閉塞感とあいまって、龍馬の事績に思いを致す人々の、ブロンズ像であればとの強い願いを受けて、東京京浜ロータリークラブは関係者と密に語らい議って、二十歳の龍馬像としてこれをここに建立したものです。なお、この像には、平成11年修復時の高知県桂浜の像の金属片が溶かし込んであります。(説明板)

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仲町稲荷神社
この公園は北浜川の鎮守・諏訪神社があった場所です。諏訪神社は天祖神社に移されましたが、この稲荷は残されたそうです。

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街道の風景③ 第一京浜の左手丘は大名屋敷跡が立ち並んでいました/立会川駅

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浜川中               下屋敷の範囲/案内板

旧土佐高知藩山内家下屋敷跡/浜川中
第1京浜国道付近の立会川沿いの高知藩山内家は下屋敷16800坪の敷地を抱え、往事の東海道を挟んで河口には抱屋敷の揚場869坪を1658(万治元年)に拝領されたもので、両屋敷は表門通り(現立会川商店街通り)で結ばれていました。抱屋敷には1853(嘉永6)頃に浜川砲台が築かれました。なお、山内家下屋敷は大井村の他に木挽町築地(現中央区築地)にもありました。山内家の上屋敷鍛冶橋御門内大名小路(現千代田区丸の内)にあり、1855(安政2)頃の高知藩主の山内土佐守豊信の家禄は242千石でした。山内豊信は松永慶永 (よしなが)、島津斉彬 (なりあきら)、伊達宗城(むねなり)らとともに国政の方向について論議建策し幕末四賢候と称されました。1858(安政5)の頃江戸幕府が日米通商条約に調印し、徳川家茂を将軍継嗣に決定したことなどに反対した大名・公卿・志士ら100人以上を弾圧する事件が起き、この処罰を安政の大獄と云います。この弾圧により山内豊信は隠居・謹慎を命ぜられ蟄居したのがこの下屋敷でした(品川教育委員会)


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来福寺参道/東大井


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来福寺
当寺は正暦元年(990)藤原兼家が摂政の時、智弁という僧が開かれたものである。それから60年余りして世の中の乱れと共に当寺も衰微した。文亀元年梅巌という僧が、昔右大将頼朝が戦没諸兵追善のために写経を埋めたといわれてる納経塚(大井1丁目庚申堂)の傍らを通られ、その塚の中から読経の声をきかれて仏像を掘出し、この寺に安置したのである。その為にこの御本尊を別名経読地蔵を云われるようになった。この寺は古くは山号を海上山、海照山と云い、又境内に天満宮があったので天神山と呼ばれていた。

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当寺の古い特別信者に梶原一門があり、境内に権五郎景政や平三郎景時の嫡子源太景季の寄進された梶原松、或いは延命桜等があった。当時より桜の名所として知られ、現在も境内に雪中庵蓼太の「世の中は三日見ぬ間の桜かな」という句碑が残っている。(品川区の文化財)


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右側の小山、赤鳥居を上ると聖天堂があります

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阿波藍商人墓標群(外面確認墓標 三十五基)
藍はタデ科の植物で藍染めの染料として、江戸時代になり木綿の普及とともに需要が高まりました。阿波徳島藩(現在の徳島県)の蜂須賀家では藩の財政を支える特産品として藍の栽培を保護奨励し、阿波藍の名声は全国的なものとなります。この墓標群は阿波藍商人として江戸に進出した大坂屋庄三郎(江戸での町人名、本名は久次米兵次郎)家関係者のものです。大坂屋は本八丁堀(現在の中央区八丁堀)に店を構え、藍のほかに材木も取り扱う大店となりました。大坂屋の江戸における菩提寺が来福寺です。墓標は来福寺境外の地蔵堂墓域に建てられていましたが、道路拡張工事のため、昭和2年(1927)に現在の場所に移され合葬されました。 阿波藍の江戸への進出と品川地域との関わりを示す歴史資料として貴重なものです。品川区指定有形文化財(品川区教育委員会)

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宝篋印塔
お経「宝篋印陀羅尼経」の納められた石塔、上から三印目には蓮花の上に佛菩薩の種=梵字が描かれている。享保19年申寅歳9月吉日 願主主□□大覚 現住法印實□の銘が刻まれている(来福寺)

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江戸名所図会 来福寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

来福寺は鎌倉時代の武将梶原景季(かげすえ)に縁があると伝えられ、一族の墓所と伝える「梶原塚」(現在の梶原稲荷神社)や「梶原松」といった名が残っています。本尊は大井1丁目44番の経塚(現在の庚申堂)の土の中から読経が聞こえ掘り起こしたとされる延命地蔵で、別名経読地蔵と呼ばれています。また、江戸時代には桜の名所として知られ、本尊に因んだ「延命桜」が有名でした。来福寺の挿絵には桜の名所らしく、雪中庵蓼太(りょうた)の句「世の中は 三日みぬ間に さくら哉」が添えられています。(大井村の名所/品川区)

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犬坂(俗称:へびだんだん)/大井東
坂の頂上付近が急勾配なため、階段とスロープが設置されており、階段より下側は曲がりくねった坂となっています。犬坂の由来は不明ですが、俗称の「へびだんだん」はその曲がりくねった様子からきているそうです。また、坂の頂上付近の急斜面地には元芝公園がありこの公園は遊戯施設中心の公園となっています。(品川区)

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梶原稲荷鳥居神社/東大井

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梶原稲荷神社
このあたりに鎌倉の武将梶原景時によって建てられた(1190年頃)といわれる万福寺があったが、元応2年(1320)の火災で寺の本堂が焼け、境内にあった稲荷社だけが焼け残った。後に万福寺は馬込村(現大田区)に再建されたが、稲荷社はそのまま残り来福寺所属した。現在は来福寺との間に民家が建ったため、梶原稲荷神社として独立、地元の講中によって祀られている。社殿の後ろにある小高い場所は梶原塚と呼ばれ、梶原氏一門の古墳とも伝えられている。梶原氏は関東平氏の一門で平良茂が初代。源頼朝の挙兵に際し手柄のあった景時の時に梶原姓を名乗った。大井・馬込周辺には梶原景時や景季にまつわる話が多く伝えられているが、一説によるとこの梶原氏は景時らの一族とは別で小田原北条氏家人でこの地域を支配した梶原氏だともいわれている。(品川観光協会)

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山内豊信(容堂)墓/大井公園
山内豊信は容堂と号した。文政10年(1827)に分家の山内豊著の長子として生まれ、嘉永元年(1848)に宗家を継いで第15代の土佐国高知藩主となり、人材を登用して藩政の刷新に努めた。一方、国政についてもいろいろと論議し策を建てて多難な幕末期の幕政に大きな影響を与えた。進歩的で強力な言動は幕閣に恐れを抱かれ、一時大井村の下屋敷に蟄居させられたが、文久2年(1862)に再び政治の場に復し大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の斡旋に力を尽くした。明治元年(1868)に維新後の新政府の内国事務総長となったが、翌年引退し、明治5年に45歳の若さで亡くなった。遺言によって大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていた現地に葬られた。品川区指定史跡(品川区教育委員会)

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元仙台藩伊達家下屋敷跡/大井公園

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旧・越前鯖江藩間部家下屋敷跡(元:陸奥仙台藩伊達家下屋敷跡)/大井公園
この地より高台に向かう一帯には、越前国(現・福井県間部下総守下屋敷があった。もともとは、万治元年(1658)に仙台藩伊達家が麻布(現・港区)下屋敷を返上して、新に大井村に拝領した下屋敷であった。その屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚があり、その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている。元文2年(1737)に、鯖江藩間部家大崎屋敷と伊達家品川屋敷の一部を交換し、間部家の下屋敷となった。その後、一部は再び伊達家の所有になった。安政2年(1855)頃の鯖江藩主間部下総守詮勝(あきかつ)は5万石の家禄があり、上屋敷は常盤橋御門内(現・千代田区大手町)にあった。(品川区教育委員会)

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旧仙台坂(くらやみ坂)/東大井
江戸時代に、この坂の中程から上にかけて仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があったことから、東大井4丁目と南品川5丁目の間のこの坂は仙台坂と呼ばれていました。しかし、現在は青物横丁に抜ける坂道が拡幅され交通量が増加したために、その坂の方を一般的には仙台坂と呼ぶようになり、こちらは旧仙台坂と言われるようになりました。(標柱)

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仙台味噌醸造所
当社所在地(品川区東大井、昔は荏原郡大井村)は江戸時代、仙台・伊達江戸下屋敷であった。伊達藩では備蓄食料確保の観点から寛永2年以来味噌蔵をもち醸造を始めた。江戸在勤の士卒は当時3千名を数えたといわれそれらの人々に与えるためにも味噌は必需品であった。当時の江戸の味噌は江戸甘であり東北武士の口に合わなかったからである。江戸時代も下って末期になると自給自足のためばかりではなく、余ったものを一般にも販売するようになり半ば商売としての性格も持つようになった。江戸市民は仙台の殿様のお屋敷で出来る味噌というので、仙台味噌と呼ぶようになった。安政年間に出た江戸切絵図の『品川、白金、目黒辺之絵図』の中にも『仙台味噌屋敷』と記載されている(東京都味噌協同組合)

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仙台坂タブノキ
本樹は幹廻り4.6m、樹高20mで推定樹齢約300年、樹勢旺盛で美しい樹容を見せている。(品川区教育委員会)

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鮫洲八幡神社鳥居/東大井   

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鮫洲八幡社 
品川区東大井にする神社(八幡宮)。法人名は「八幡神社」。誉田別尊(八幡神)、気長足姫尊、伊弉諾神、伊弉冉神を祀る。当地は古くは御林町(おはやしまち)と呼ばれた漁師町だった。当神社は古くは御林八幡宮と称せられた。創建に関しては明らかになっていないが、寛文8年(1668)の書上帳に記載されている事から御林町草創より建立されていたものと推定される。昭和4年(1929)には白山神社(伊弉諾神、伊弉冉神)が合祀されている。現在の社殿は昭和47年(1972)に造営されたものWikipedia

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富士浅間大神の塚           厳島神社

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土佐藩邸と山内家墓所の位置関係図/品川歴史館
(藩邸の位置はいずれも推定で正確なものではありません。また藩邸位置に建てられている解説版の示す範囲とは異なります)
(同図に着色しました 赤:東海道 緑:平間街道・池上道 紫:品川街道 青:立会川)

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東大井周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:東海道 緑:平間街道 紫:品川道 青:立会川)

平間街道・大井の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25624982/


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資料ファイル江戸

鮫洲海岸
南品川宿南端から北浜川にかけての地、東側の海に面した地域を鮫洲と称した。名前の由来は「干潮時に海中や浜辺の砂の中から清水が出るため(砂水(さみず)」、「この海で建長31251)年に死んだ大鮫が揚がり、その腹から観音像が出て来たので「鮫洲」」、「左の方の海辺に出水があったので「左水(さみず)」」など諸説ある。漁業が盛んであるとともに秋から春にかけては海苔の養殖も行われ、浅草海苔は品川からこの一帯で採取された生海苔が使用された。(国立国会図書館)

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名所百景-品川鮫洲海岸/広重

大井御林浦

大井御林浦(御林猟師町)は大井村に属し、同村名主(櫻井・大野両氏)の管轄下にあった。品川浦同様に猟師頭がいて猟師たちを統括していた。元治元年(1864)に金杉・本芝両村が江戸町奉行に提出した『浦方起立書上』には御林浦成立の由来が記されている。「万治2年(1659)に芝金杉東の海辺より約3町ほどの土地が御用地となり、因幡鳥取藩主池田光沖(松平相模守)が屋敷を拝領することになったため、先住の猟師6が大井村の御林町代地を与えられ移転し、漁業を営んだので御林猟師町と呼ぶになったのである。また「因州組」と唱えている猟師たちが御林浦成立以来の旧家芝金杉浦から分かれたものであり、この地の猟師たちが移転したことで御采肴を献上するようになった」と記されている。御林浦は、南品川と浜川の間の鮫洲付近にあり、鎮守は御林八幡社(現鮫洲八幡神社)である。(品川歴史館解説シートより抜粋)



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御菜肴八ヶ浦図/品川歴史館

御菜浦
(おさいうら)

領主のための御菜(おかず)の原材料となる海産物を献上していた漁村のこと。前近代においては城下近郊にある漁村などを指定して海産物を献上させたり、その他海上における夫役を負担させる代わりに、漁業などに関する特権を付与することが行われていた。その指定された漁村が御菜浦である。特に著名なのは徳川将軍家のために江戸城に海産物を献上していた芝金杉浦(現在の芝)・本芝浦(現在の芝浦)・品川浦(現在の品川)・大井御林浦(現在の大井・東大井)・羽田浦(現在の羽田)・生麦浦(現在の生麦)・子安新宿浦(現在の子安)・神奈川浦(現在の神奈川)の8つの御菜浦で、いずれも現在の東京湾に存在して御菜八ケ浦と称された。これらの漁村は後北条氏以前から御用を勤めていた漁村と上方方面から招き入れられて新たに漁村として開拓されたものに分けられるWikipedia

東海道-芝・高輪の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24491381/

by Twalking | 2017-09-26 21:08 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(蒲田~品川)02-大森   

日時 2017.9.19(火)
天気 晴れ

蒲田・大森は第一京浜を歩きますので
呑川、梅屋敷くらいで街道の面影はありません。
美浜通りに入るとちょっと一息の感じです。

すぐに内川、暗渠でしたが平間道でもであった川筋、
ここは流れが残り、旧羽田道の案内が立ちます。
大森神社、涌井神社に寄りながら商店街を散策しました。
首都高の先が鈴ヶ森刑場跡、区界で、すぐ海でした。


・・・大森


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大田区の地名または大森駅を中心とする街。東京湾に臨み、古くから農業漁業(特に海苔)の盛んな地域であった。古くは「大杜」とも記され、鎌倉時代の1204年(元久元年)に大井郷の地頭が大井四郎に大杜と永富の郷を譲与したとあるのが文献上の初出である。江戸時代には品川宿と川崎宿を結ぶ東海道の街道のため賑わった。名物である海苔の養殖は天和〜貞享年間(16811688)ごろに浅草から移住してきた漁民によって始められ「浅草海苔」として販売された。1876年(明治9年)に大森駅が開業し、さらに1923年(大正12年)の関東大震災によって住宅の密集した都心から多くの人が移り住むようになった。旧馬込町と旧入新井町の一帯には大正後期から昭和初期にかけて多くの文士や芸術家が居住し馬込文士村と呼ばれる地域でもあったWikipedia 江戸名所百景-八景坂鎧掛松/広重

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街道の風景① 密乗院に寄り道して街道に戻りました/大森中

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密乗院山門/
大森中
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密乗院
およそ800年前に真栄が開創し不動明王を安置した。徳川家康が狩に来て当寺に休んだとの伝説がある。寺領20石を賜ったが天明年間(1781-1789)火災のため朱印および堂宇を焼失した。神仏混淆の頃は大森各神社別当を兼ねたと伝えられている。(大田区の寺院)

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板碑群(大田区文化財)
当寺に保存されている板碑は昭和6年に、隣地三輪厳島神社境内から発掘されたもののうちの16基である。年代銘のあるものは延慶3年(1310年)から文明6年(1474)まで、このうち延慶6年のものは釈迦種子、他は全部阿弥陀種子を刻する。板碑は中世の人が仏を供養するために緑泥片岩で作った卒塔婆で、俗に青石塔婆と呼ばれる。区内においては鵜の木光明寺・池上本門寺・馬込萬福寺等その密集地として知られているが、それらに次ぐ大量の板碑が、海岸に近い当畜から出土した事実は注目に値する。(大田区教育委員会)

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貴菅神社/大森西

江戸時代、東海道に面していた本宿村の鎮守で、後に菅原神社と合祀して貴舩(貴菅)神社となったそうです。祭神は高靄神で水や雨を司る神と菅原道真です。


・・大森東

大田区の東部に位置する。北部は概ね環七通りに接し大森本町になる。東部は平和の森公園やふるさとの浜辺公園になる。地域南部は大森南に接する。西部は第一京浜・産業道路にそれぞれに接しこれらを境に大森西・大森中にそれぞれ接する。東西に内川が流れている。また、第一京浜との交差点である大森警察署前交差点を始点として産業道路が南へ向かって伸びている。
Wikipedia


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街道の風景② 産業道路を横断すると「美原通り」入口、やっと街道らしくなります/大森警察署前

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旧東海道(美原通り)
昭和2年(1927)東海道は拡幅改修され第一京浜国道が完成した。そのため往時の幅員を比較的よく残しているのはこの美原通りと六郷地区の一部だけとなった。旧東海道はかつて美原通りといわれた。美原とは宇名の南原中原北原の三原のことで美称して美原となった。歌舞伎「浮世塚比翼稲妻」(うきよづかひよくのいなずま・鶴屋南北作)で有名な旅籠「駿河屋」のあった「するが通り」は内川橋の際から分かれる。(大田区教育委員会)

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川の風景① 内川を渡ります、上流側に第一京浜が並走しています/内川橋

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内川
大田区を流れる河川。二級水系の本流である。全長1.55km、流域面積3.252。大田区中央、大森西の東海道本線橋下、大森学園高等学校前を流れて京浜運河、東京湾に注ぐ。元々は北馬込付近を水源とした天然の小川であった。現在では東海道本線より上流は暗渠化し下水道の幹線とされ、下流が河川法上の指定区間となっている。Wikipedia



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内川橋                旧羽田通り(するがや通り)

羽田道(するがや通り)
羽田道の出発点である内川橋は、昔するがや橋といわれた。「駿河屋」という旅宿があったので現在の「するがや通り」という名が残されています(標柱)

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徳浄寺山門/大森東

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徳浄寺
開基は祐信、俗姓は菅原氏。豊島郡四谷に住む。日世智行の時念仏門に帰依し、寛永4年(1627)に本尊及び親鸞の影像と寺号を本山より下賜された。元禄年間(1688-1704)に13世秀山の子・教伝が当地に移し、徳浄寺の1世となった。9世祐海が天保年間(1830-44)に本堂を建立したが戦災により焼失、昭和35年に再建した。(大田区の寺院)

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街道の風景③ 環七通りを渡ると仲町商店街が続きます/美原通り

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環七通りを横断            京急平和島駅/第一京浜

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大森神社鳥居/大森北


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大森神社
伝説によると昔このあたりが海辺であったが、ある時海上に金色の光が輝き(弥陀の像ともいう)波のまにまに浮んで岸辺に流ついた。里人達は畏れてこの像を沖へ押流したが、再び元の場所に流れつき、押流すこと三度に及んだ。なおも元の場所に寄り来たるのでこの像をを建てて祀ったのが当社の起源だといわれている。そのためこの社を寄来明神と称し、また寄来神社と称した。また流れついた里を美原の里(美原通りのあたり)と呼ぶようになったといわれている。(大田区の神社)

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最徳寺山門/大森北

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最徳寺
開基の永頓藤原氏の一族で、鎌子の玄孫内麻呂の子孫、相模国三浦郡野北郷五明山最宝寺の開基・明光の弟。初めは天台の僧であったが兄に従い鎌倉において親鸞に会い改宗する。文暦元年(12349月当地に住し、兄の名を山号として明光山智慧光院西蓮坊最徳寺と号した。なお「新編武蔵風土記稿」によれば、開山は永順で仁冶2年(1241)入寂、何世代かの後永頓の時に、徳川家康関東入国を慕って鎌倉より当地へ移ったとある。(大田区の寺院)

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街道の風景④ 美原通りから第一京浜へ、左側の杜が磐井神社です/平和島口

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老舗の浅草海苔屋さん         東側入口の道標

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江戸名所図会 大森和中散 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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磐井神社鳥居/大森北


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磐井神社
三代実録」によれば貞観元年(859)「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」とあり、当社を武州の八幡社の総社に定めたといわれる。また「延喜式神名帳」に記載されている古社であり、当社の由緒書によれば徳川家の将軍もここに参詣したことが記されている。万葉集の「草陰の荒蘭の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とはここの笠島弁天を指したものという説もある。(大田区教育委員会)

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鈴石・烏石(非公開)と江戸文人石碑群
鈴石は、社伝によれば延暦年間(782806)に武蔵国の国司であった石川氏が奉納した神功皇后ゆかりの石とされる。これを打つと鈴のような音がしたことから「鈴ケ森」の地名の由来になったと伝えられる。また烏石は鳥の模様が浮き出た自然石で、江戸時代の書家松下烏石(?~1779)が寄進した。鈴石・烏石はともに屋内に保管されている。江戸文人石碑群はこの烏石の寄進の由来を記した烏石碑をはじめ松下烏石の門人等が建立寄進したもので、向かって右から次のように並んでいる。狸筆塚 文化6(1809) 筆塚 天明6(1786) 烏石碑 元文6(1741) これら、かつて弁天池周辺にあったが神社の境内整備に伴って現在地に移された。(大田区教育委員会)

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磐井の井戸
当社社名の由来となったこの井戸「磐井」と呼ばれる古井で、東海道往来の旅人に利用され、霊水又は薬水と称されて古来有名である。この位置はもと神社の境内であったが、国道の拡幅により境域がせばめられたため社前歩道上に遺存されることになった。土地の人々はこの井戸水を飲むと心正しければ清水、心邪ならば塩水という伝説を昔から伝えている。(大田区教育委員会)

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笠島弁天社              神楽殿と海豊稲荷神社

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江戸名所図会 鈴の森八幡宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景⑤ 首都高先が鈴ヶ森刑場跡、手前海側には平和島競艇場、品川水族館があります/南大井

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平和島競艇場
大田区にある競艇場である大森競走場として1954年に東京都主催で開催されたのが最初である。現在は府中市による開催のみとなっており、大田区を含む東京23区は開催に関与していない(同じ23区内・江戸川区の江戸川競艇場も同様)。また府中市には多摩川競艇場があるが府中市は一切関与していない。競艇場は平和島と大森の海岸の間の運河を利用している。競走水面は海で水質は海水。潮の満ち引きによる潮位の差はあるが、東京湾からの波は直接入ってくることはないWikipedia

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しながわ水族館
品川区のしながわ区民公園内南端にある水族館。地上一階地下二階建て。一階の「海面フロア」では東京湾の魚や生物などを展示、スタジアムではイルカ・アシカのショーが開催される。地下の「海底フロア」では巨大なトンネル水槽を通ることができる。また、水族館の外部にはレストラン「ドルフィン」とマリンショップ「シーガル」がある。Wikipedia

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街道の風景⑥ 第一京浜から旧道の入口に鈴ヶ森刑場跡があります/南大井

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都旧跡 鈴ヶ森遺跡
寛政11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写によると、慶安4年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面しており、規模は元禄8年(1695)に実施された検地では間口40間(74m)、奥行9間(16.2m)であったという。

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歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ
石碑は元禄6年(1693)池上本門寺日顗の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。

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大径寺改題には火あぶりや、はりつけに使用したという岩石が残っている。ここで処刑された者のうち丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などは演劇などによってよく知られている。江戸刑制史上、小塚原とともに重要な遺跡である。(東京都教育委員会)

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鈴森山大経寺
当寺は鈴ヶ森刑場が開設された慶安4年(1651)と前後して堂宇が建立されたらしい。度々の台風等により建物を失いその都度再建された様であるが、記録がない為その間の様子を詳しく知る事は出来ない。明らかな文章によると文久2年(1862)大井村名主大野貫蔵が中心となり刑場に隣接して百姓番小屋を建立し、内々に本尊を安置、密かに刑場受刑者の供養を行うように成ったのを始めと伝えられる。その後、明治4年(1871)刑場廃止と同時に「旭松庵」と称して、無縁受刑者供養を専らとし檀家を持つことなく今日に至っている。その間、昭和17年(1942)品川蓮長寺42世慈洽院日完上人を開山として、寺号公称を行い「鈴森山大経寺」と成り、第2世小越妙誠法尼の時代に戦争を経て建物を維持、昭和29年国の区画整理事業により寺域を大幅に失い縮小された現地に移り、平成2年老朽化した建物を全面改良し近代的寺院として再建、今日を迎えた。(鈴森山大経寺栞)

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江戸名所図会 鈴の森 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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大森駅付近地図(180°回転)
(赤:東海道 緑:平間街道・池上道 青:呑川・内川)

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大森周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:東海道 緑:平間街道・池上道 青:内川)

平間街道・池上道-大森の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25574003/


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資料ファイル

品川の海苔

浅草海苔の名が生まれたのは慶長年間(1596 1614)と言われ、続いて品川海苔の名称が有名になった。海苔の大量生産が可能になったのは、品川の漁業者が養殖方法を発明しそれが各地に伝わったからである。初めは各地方とも生産地名で売り出したが、浅草海苔の名に押されて伸び悩み、次第に商いの上から有利である「浅草海苔」の名で売り出すようになっていった。なお、「浅草海苔」の由来については、①品川大森で採れた海苔を浅草に持って行って製造したから②浅草川(現隅田川)で採れたから③大森の野口六郎左衛門が浅草紙の作り方をまねて工夫をこらし、乾海苔を作りこれを浅草海苔と名付けたからといった諸説がある。(品川歴史館解説シート抜粋)


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江戸名所図会 浅草海苔 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

大森品川等の海に産せり。これを浅草海苔と称するは、往古かしこの海に産せしゆゑに、その旧称を失はずしてかくは呼び来れり。秋の時正(ひがん)に麁朶(そだ)を建て、春の時正に止まるを定規とす。寒中に採るものを絶品とし、一年の間囲ひ置くとうへどもその色合ひ風味ともに変はることなし。ゆゑに高貴の家にも賞翫せらるるをもって、諸国ともに送り手これを産業とする者は夥しく、実に江戸の名産なり』(江戸名所図会)

by Twalking | 2017-09-24 19:56 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(蒲田~品川)01-蒲田   

日時 2017.9.19(火)
天気 晴れ

品川道、筏道、平間道と歩きましたが
時代は違ってもやはり東海道ですね。
通過のようなものでしたので歩き直してみました。

蒲田は戦災にはあっていますが、古い地名です。
東海道からちょっと外れますが
呑川左岸がかつての中心地、古刹が集まります。


・・・蒲田/大田区


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広義には蒲田駅や京急蒲田駅を中心とした地域、または合併前の旧鎌田区全体の地域を指す広域地名としての呼称。蒲田は古い地名で、かつては蒲田郷と呼ばれていた。927年の延喜式神名帳に荏原郡の社として蒲田の薭田神社(ひえたじんじゃ)が上げられている。中世には武蔵江戸氏の支流一族である江戸蒲田氏が蒲田郷を領地とした。後北条氏が作成した小田原衆所領役帳にも蒲田氏の一族が蒲田周辺を所領としていたことが記されている。新編武蔵風土記稿によると、かつて蒲田は梅の木村と呼ばれ梅の名所であった。江戸時代には歌川広重が蒲田の梅を描いており蒲田梅屋敷と呼ばれた。現在でも蒲田の属する大田区の「区の花」は梅である。1945415日の空襲(城南空襲)により蒲田駅周辺は太平洋戦争末期に焦土となった。地名は湿地に溝を掘ると水が抜けて乾燥地が出来る。これを蒲池と呼ぶがそれが転じた。かつてこの辺り一帯は沼地でありそれにちなみ泥深い田地を示す「蒲田」から来ている。飛び越えた所や沼の中の島などを意味するアイヌ語の「カマタ」から来ているなど諸説ある。昔は「鎌田」とも呼ばれていた。『和妙類聚抄』にも記載があり奈良・平安時代から続く古い地名であるWikipedia 名所江戸百景-蒲田の梅園/広重

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蒲田駅前のモニュメントです、先ず西側へ/東口駅前広場

『上昇気流』
無限なる上昇の軌跡 躍動するエネルギーの渦 出会いに満ちた人々の輪 1989.7.大田区


・・・西蒲田

大田区の中南部に位置する。町域北部は呑川に接しこれを境に中央に接する。東部はJR京浜東北線の線路に接しこれを境に大森西・蒲田に接する。南部は環八通りに接し新蒲田に接する。西部は東急池上線の線路に接し東矢口・池上にそれぞれ接する。町域内を多摩川通りが通っている。
Wikipedia

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女塚神社鳥居、新田義興にまつわる神社です

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女塚神社/西鎌田
御祭神:
誉田別命(ほんだわけのみこと) 創建:不詳。
由緒
当社は以前、八幡社と呼ばれ女塚村429番地(JR蒲田駅東口付近)に鎮座していましたが明治5年京浜間に鉄道が敷設されるため、明治21年現在地に遷座され女塚神社と改称されました。現在の社地は新田義興憤死のおり、侍女であった少将局が忠節を尽くしてともに害せられたのを村民が憐れみ、この地に祀ると伝えられ八幡社を遷座する以前より村民の崇敬の熱い聖地でありました。現在も境内の一隅に女塚霊神の塚が残っています。(女塚神社HP)

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女塚古墳の由緒
南北朝時代の烈士新田義貞の子義興公は越後の國に城郭を構えいたりしも其の勢漸く武蔵の國に萌しければ鎌倉管領足利基氏は家臣畠山國清と計り竹澤右京亮に命じて義興公を矢口の渡しにて欺き討つ。時に正平13(1358) 10月のことなり。義興公憤死の時その侍女少将局忠節を盡して共に害せらる。村民憐れみて此の地に祀り、侍従神と崇敬し爾来女塚と稱す。(碑文)




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女塚古墳と女塚稲荷神社女塚古墳

筏道・新田神社の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25462327/


・・・蒲田本町
(ほんちょう)

大田区の南東部に位置する。地域北部は環八通りに接しこれを境に蒲田に接する。地域東部は第一京浜に接しこれを境に南蒲田に接する。地域南部は仲六郷に接する。地域西部はJR東海道本線の線路に接しこれを境に新蒲田・西六郷にそれぞれ接する
Wikipedia

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蒲田八幡神社鳥居 現在社殿の建替えが行われています/蒲田

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蒲田八幡神社/蒲田
創建年代は不詳。境内に小円墳が存在していたことや伝承などから古くからの聖地・祭祀の場であったことが伺える。江戸時代初頭の慶長年間(15961615)蒲田村より蒲田新宿村が分立するにあたって、鎮守として薭田神社から行基作の神体三座のうち春日の像一体を分祀したところ、霊験あらたかであったという。なお、分村の時期については平安末期か鎌倉初期という説もあり決定的な資料は現存していない。神社側では史実・諸般の事情から創建時期を1600(慶長5)年と推測している。明治維新後の神仏分離令により春日像は別当であった妙安寺に遷され、後に戦災により焼失している。当社自体も1945(昭和20)415日の空襲により社殿が焼失した。戦後の1949(昭和24)8月新宿八幡神社から蒲田八幡神社と改称し、1958(昭和33)88日社殿復興遷宮祭を執行した。(蒲田八幡神社)

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妙安寺山門 斉藤政賢屋敷跡です/蒲田

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妙安寺
永禄(1558-69)年間の当所地頭行方修理亮義安が戦死の後、その室・円光院妙安尼が、斉藤政賢屋敷内に庵室を結んだのがこの地である。尼は法華宗を信奉して池上本門寺第12世仏寿院日現に帰依していたが、天正17年(1589)尼が没した後、庵室をとし開山を日現として開創した。開基は円光院妙安尼、行方の家号を以って山号とし、尼の法号を寺号としている。

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「新編武蔵風土記稿」に所載せる八幡社(蒲田八幡神社)の神体は、明治初年の神仏分離に際して当寺の七面堂に移され、安置していたが戦災により焼失した。この神体は右手に軍配、左手に巻物を持った地蔵像で、寺の言い伝えによれば、開山日現が古川薬師安養寺と寺宝を懸けて法論し、勝った日現が仁王像と地蔵像を持ち帰り、論破の証左として軍配を持たしめたという。また毎年1月に行われていた八幡講大祭は神像の焼失により廃止された。(大田区の寺院)

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日蓮聖人坐像(大田区指定有形文化財)
桧材寄木造、彩色、玉眼。像高36.7cm。
台座の裏に慶長17年(1612)石井新右衛門の発願によって造立された旨の墨書銘がある。この周辺に石井姓は多いが石井新右衛門尉については明らかでない。後年修理塗替えが施されている。在銘の祖師像として本区では池上本門寺祖師像に次ぐ古いものである。(大田区教育委員会)

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妙安尼供養塔
宝篋印塔、高さ124cm。
御北条氏の被官人、当地の地頭行方修理亮義安の室・妙安尼の供養塔である。妙安尼は、義安の死後この地の豪族・兄斉藤政賢屋敷内を結び、池上本門寺12世日現に帰依し天正17年(1589)に没した。その後この庵室が妙安寺となった。この供養塔は台石の銘文により寛永20年(1643)に造立されたと考えられる。大田区指定有形文化財(大田区教育委員会)

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街道の風景① 京急の高架先は第一京浜、旧東海道ですが面影はありません/京急蒲田駅前

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川の風景① 上流側の夫婦橋(旧東海道)を望みます/夫婦橋親水公園

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旧夫婦橋と共同荷揚場跡
夫婦橋は第一京浜国道(かつての東海道)が呑川を渡る場所に架かる橋です。昔は橋のすぐ上流にがあり、呑川の水を分けた小さな川(農業用水として使用された六郷用水)が脇を流れていました。呑川用水に架かる二つの橋が並んでいたことから夫婦橋と呼ばれ、江戸時代からその名が知られていました。呑川河口付近はかつて海苔採取業者が生活し、てんま(ベガ)と呼ばれる舟が行き来していました。水害対策のために新呑川ができた昭和14年、共同舟揚場がつくられたがその後付近の発展にともない種々の荷揚にも利用されました。その跡地がこの夫婦橋親水公園のある場所です。(大田区土木部公園課)


・・・蒲田

町名としての「蒲田」に所在する鉄道駅はJRの蒲田駅、京急本線の梅屋屋敷駅、京急蒲田駅である。蒲田駅周辺は空襲により太平洋戦争末期に焦土となり、復興の土地区画整理事業により現在の街並みの原型が形成された。街は京浜東北線により東西に分断され北端は呑川、南端は環八通り、西端は池上線、東端は第一京浜とするおおよそ東西1.6km、南北800m程度のエリアに商業地が集中し、近隣に伸びる多摩堤通り、大城通り沿道付近にも一定の商業集積が見られる。都心から外れる地区では有数の繁華街、商業地区である
Wikipedia

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川の風景② 上流の仲町橋へ、古は呑川の左岸が中心地だったようです/柳橋

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弾正橋
弾正橋の橋名は行方弾正直清に由来しています。行方弾正直清後北条氏の家臣として仕え、六郷領一帯(蒲田から六郷地域)を支配する領主でした。直清は現在の円頓寺のあるあたりに屋敷を構えていましたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐の際に討死しました。その後、直清の弟・日芸が屋敷跡に円頓寺を創建し供養塔を建立したとされています。呑川を渡った円頓寺に通じるこの道は行方弾正直清との縁の深さから弾正道と呼ばれており、この橋の名のいわれとなっています(案内板)

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明治後期から大正時代の蒲田
この柄は地元の郷土資料家が明治後期から大正時代の蒲田地域を描いたものです。左上から右下にかけて呑川が流れ、左縦に現在のJR線、右縦に京浜急行線、下中央に菖蒲園、下右の呑川と京急の交差部が弾正橋の位置で、中央少し右に弾正橋の由来となった行方弾正直清宅跡の円頓寺が見られます。(案内板)

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街道の風景② 薭田神社から梅屋敷へ続く道です、かつての中心部でしょうか

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薭田神社鳥居/蒲田


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薭田神社
度々の火災や水害で古い記録は残っていないが、旧社格は郷社で貞観6年(864延喜式内社に列し、従五位を賜ったといわれ、延喜式に「荏原郡薭田神社」とあるのが当社であろう。社伝によれば和銅2年(709)僧行基が天照、八幡、春日の三神を創り、当社に安置し、後に僧日蓮が村民の請を容れ改めて開眼したといわれるが明らかでない。近来は応神天皇をまつる八幡社で、隣接の栄林寺が別当寺であったが、明治初年の神仏分離により独立し、近くの小祠をいくつか境内に合祀した。(大田区教育委員会)

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稗田神社の石鳥居
当社は延喜式内の古社といわれている。この鳥居は、柱背面の銘文によって寛政12年(1800)に北蒲田村の氏子により寄進されたことがわかる。花崗岩の明神型鳥居で、高さ310cm、柱間314cm、中央に「稗田神社」の社号を刻した石額を掲げてある。笠木は、全体にゆるやかな反りをもって柱のつり合いもよく、安定した姿をみせる。区内の鳥居では古いものの一つで貴重な存在といえよう。大田区指定 有形文化財(大田区教育委員会)


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三十番神(さんじゅうばんしん)
神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことである。太陰太陽暦では月の日数は29日か30日である。最澄(伝教大師)が比叡山に祀ったのが最初とされ、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになった。中世以降は特に日蓮宗・法華宗(法華神道)で重視され、法華経守護の神(諸天善神)とされた。これは、京都に日蓮宗を布教しようとした日像が布教のために比叡山の三十番神を取り入れたためである。また、吉田神道も天台宗・日蓮宗とは別の三十番神として「天地擁護の三十番神」「王城守護の三十番神」「吾国守護の三十番神」などを唱えた。1868年神仏分離のため明治政府によって配祠を禁じられたWikipedia

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栄林寺山門/
蒲田

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栄林寺
寛永3年(1626429日示寂した千如院日好の開山である。神体が日蓮の開眼と伝えられる延喜式内社・蒲田神社(薭田神社)の別当寺として、安政の地震により大破した社殿を41世日現代に再建したことが、当寺所蔵の「諸寄進帳」により推察される。江戸時代、現在の呑川東岸に鶴寄せ場があり、それを中心にした蒲田寄りの水田地域は当寺の檀徒区域で、将軍が鷹狩りに来て休息したという家も檀徒のなかにあり、現在お成り橋、馬引橋などの橋もあることなど鷹狩りにまつわる伝説がある。また春秋の彼岸中日に檀徒によって仏前に供えられた供物を、法要の終った後で参諸者一同に振る舞い、懇親の時を過ごす慣習は今日も続いている。(大田区の寺院)

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開山供養塔
この寺の開基である千如院日好を供養するために日英が建てたものである。日英については不詳であるが、開基日好が寛永3年(1626)に没したことが銘文からわかり、当寺の歴史を位置づける貴重な資料として注目される。二つの石を積み重ねた塔身からなっていることも様式上珍しく、素朴ではあるが、重厚な趣のあるものであり、開山供養塔としては時代的に古いものと考えられる。大田区指定有形文化財(大田区教育委員会)


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円頓寺山門/鎌田


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円頓寺
「新編武蔵風土記稿」をはじめ「江戸名所図会」その他の地誌にも円頓寺の事跡については記載されているが、寺伝によれば小田原北条氏分国の頃、荏原部南部に行方氏という豪族があった。行方氏ははじめ上杉氏の家人であったが、のち北条氏に属し永禄年間155869弾正明連の時には八幡塚、高畑、吉川、町屋、道塚、雑色の6郷および大師河原を合せて36124文の地の領主であった。明連の子孫は修理亮義安弾正忠直清と引続きこの地を知行していたが、直清は天正18年(1590)北条氏滅亡の際、小田原攻めの先鋒・上杉景勝、前田利家等の諸将の軍と戦い、一門の郎党と共にその館において討死したが、直清のは池上本願寺に逃れ出家して日芸と名乗った。文禄元年(1592)日芸は兄弾正忠直清と一門の追善菩握のため、旧館跡1宇を建立、寺名を直清の法名・性光院殿円安行頓日方居士からとって性光山円頓寺と号した。(大田区の寺院)

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行方弾正直清供養塔(大田区指定史跡)
行方弾正直清は後北条氏の家臣でこの辺りの六郷領を支配していた。直清は天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐の際に討ち死にしたと伝えられる。当時は行方弾正の居屋敷跡で、その中興開基である日芸(寛永20年・1643没)が、直清の供養のためにこの塔を建立したことが碑面に刻まれた銘文からわかる。寺伝によれば日芸は直清ので出家後、旧宅を寺院とその中興開基となった。(大田区教育委員会設置)

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江戸名所図会 蒲田里梅園 行方弾正宅跡 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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この絵は江戸時代後期に刊行された江戸名所図会の一枚です。上段にかつて梅屋敷と呼ばれた佐左エ門の屋敷周辺の梅園(現蒲田1丁目30番 蒲田小学校付近)、下中央に行方弾正直清宅跡として円頓寺が描かれています。上記の俳句「梅干しを 見知って居るか 梅の花」の作者嵐雪1654-1707)は松尾芭蕉の高弟でした。(案内板/弾正橋)

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街道の風景③ 直進すると梅屋敷公園、左折すると妙典寺があります/椿神社前

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蒲田椿神社

創建は不詳であるが、百日咳の治癒に御神験あらたかなりしとして古くより土地の人の信仰が厚い。(東京都神社名鑑)

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除病習俗
風邪、百日咳、喘息等にかかると境内の額堂に奉納されている麻を借り受けて、病人に首に巻くと咳が止まると言い伝えられ、病気が治ると祈願者は新しい麻を奉納するという現世利益的な習俗が行われている。しかも神社であるのに祈願者は社前に線香を供えるという神仏混淆の習俗が、今なお存続している例として興味深いものがある。また足の病気が治るよう祈願してワラジを奉納するものもあったという。神社の祭神は猿田彦命とされているが、本来は道祖神(道や旅人守護する神)をまつったもので、土地の人は「ドウソジンサマ」「ドウロクジンサマ」と呼んできた。(大田区教育委員会)

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妙典寺山門/蒲田


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妙典寺
古くは天台宗の寺で妙田寺といわれ永徳元年(1381)上杉六郎を開基とする。天台の学僧で、後に日蓮宗に改宗し池上、比企ケ谷、および身延三か寺の学頭となった日饒(13581428)により改宗され、寺号も妙典寺と書き改められたという。関東管領上杉憲政にゆかりのあると考えられる晴天院朗忠日杉(天文12壬子1014日歿)上杉六郎の位牌を安置している。なお天文12年(1543)の干支は癸卯で、壬子が正しいとすれば天文21年(1552)となる。記年の誤りか。当地は草分の旧家といわれる蒲田氏、光浄院蓮光の墓をはじめ大森谷戸宿脇本陣山本氏と、山本氏から分れた和中散梅林堂の梅路翁の墓があり、別墓地には漢方の医家でこの地方にはじめて華道遠州流を伝えた林松庵平林氏、武田家の部将といわれる嶋田氏、荘官とみられる杉原氏の近郷旧家の墓がある。(大田区の寺院)

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聖蹟蒲田梅屋敷公園/鎌田

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梅屋敷の由来
梅屋敷は山本忠左衛門和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地内に、その子久三郎が文政の頃(18181829)に梅の木数百本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたことに始まるといわれています。当時は後の12代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、その雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、特に梅の開花期には非常なにぎわいを見せたようでした。(大田区土木部)

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狂歌堂真顔の歌碑(復元)
昔、梅屋敷の園内には数多くの碑石がありましたが、所有者が移った時や戦後の混乱期に姿を消してしまいました。この歌碑はそれらの一つを資料をもとに復元したものです。文面は『旅人の 神に手向の幣代や 白絹咲きし 庭中梅 狂歌堂真顔』であったと伝えられています。(大田区)

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里程票(復元)
昔、梅屋敷山本家の門の傍に自然石の里程標の石碑がありました。その高さは1mほどでその表面には、距日本橋三里十八丁 蒲田村山本屋と刻されていたと伝えれています。木戸孝允、伊藤博文らが梅屋敷で新年宴会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戸孝允の画にも描かれていました。戦後里程標は姿を消しましたが資料をもとに復元しました。(大田区)

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梅屋敷と和中散売薬所跡
「和中散」は食あたり、暑気あたりなどに効く道中常備薬としてつくられ旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(16181716)大森中原、谷戸(やと)、南原(みなみはら)に三店が開業した。このうち南原にあった店がのちに北蒲田村の忠左衛門に譲られこの地に移転したという。文政年間(18181830)初め、忠左衛門の子の久三郎の代に庭園に梅の銘木を集めて休み茶屋を開いた。亀戸の梅林とともに名所「梅屋敷」として有名になり広重の浮世絵にも描かれた。(大田区教育委員会)

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街道の風景④ 東海道ですが、この右手方向に『堀之内』という地名があるので寄ってみます/梅屋敷公園

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大井氏」あるいは「蒲田氏」館跡では?とも、地名からですがよく分かりません/谷戸三輪神社


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堀ノ内の起源と三輪神社の由来
当堀ノ内町会の堀ノ内という地名の起源は遠く徳川期以前にまでさかのぼることが出来る古い地名であります。大森の中の本村としてこの地名は輝かしい伝統と古い歴史に刻まれ現在に伝えられて来ました。徳川期以前すでに大森周辺は武蔵国大森と総称され、その字の呼称でありました堀ノ内が今日まで絶えることなく伝承され住民に親しまれて来たのであります。因みに堀ノ内という地名は屋形に濠を巡らした土地だけに与えられた由緒あるものでありまして、伝えられるところによると現在私共の住む堀ノ内は北條時頼の時代1247-1259年)における陣屋の旧跡であるとも言われております。徳川期に至り幕政上大森は東大森西大森北大森の三ヵ村に分割されましたが、堀ノ内は東大森村に属し幕府の直轄地として代官がおかれ明治期に至っております。
大森村の中でも当村は本村として早くから拓け住民は代々農業と漁業を生業として栄え豊かな集落を形成して来たのであります。この集落の住民の精神的支柱が氏神であったことは今更言うまでもありません。私共の氏神である三輪神社は享徳年間(1452-1456)住民が土地開拓の神として、大国主命を祀り第六天社‐此の地では従来「デイロクサマ」と呼ばれ親しまれて来ました‐と呼び村人の崇敬を集めたのが創始であると伝へられています。大正4年(19157月当所内の天祖神社貴船神社を合祀し社殿も改まり神社の威容は大いに高まったのでありますが、昭和244月惜しくも戦禍により一切を焼失しました。その後昭和278月社殿を新築し現在に至っております。(説明板)

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川の風景③かつてはこの辺りを流れていたんですね、現在は緑地公園になっています/呑川緑道公園

旧呑川

旧呑川はほぼ全区間埋め立てられ(1976年完成)緑道となって整備されている。京急蒲田駅近くの東蒲中学校あたりで旧呑川と新呑川に分流し、旧呑川は昭和島の目の前が河口であった。河口のほんの一部は開渠となっており水門もあるWikipedia

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蒲田駅周辺地図(右90°回転)
(赤:歩行ルート 紫:旧東海道 青:呑川)

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蒲田周辺地図 明治39年(今昔マップ/埼玉大学教育学部・谷謙二氏を参照)
(赤:旧東海道 橙:平間街道 青:呑川)


・・・・
資料ファイル

大井氏
紀氏のうち長谷雄流に属する一族は実直の頃、国衙の関係者として武蔵国に土着した。伊勢国との関わりが深い。一族には大井氏の他に品川氏・春日部氏・堤氏・潮田氏が居る。なお春日部氏は源頼政の郎党であったと考えられる。大井実春(さねはる)は寿永3年(11843月、伊勢国の平氏残党(志田義広や平田家継(平田入道)、平信兼)の征討に参加する。元暦2年(11841月、源義経拝賀のカン飯を勤める。文治元年(118511月、伊勢国桑名郡香取五ヶ郷(桑名市多度町香取)を所領とする。元久元年(120412月、大杜郷を所領とする。その後も大井氏は品川氏と共に源頼朝の「随兵」に選ばれるなど厚遇されていた。また大井実春は怪力の持ち主で源頼朝の御前で催される相撲の選手でもあったWikipedia

紀氏
(きうじ)

「紀」を氏の名とする氏族。大和国平軍県紀里(現在の奈良県生駒郡平群町上庄付近)を本拠とした古代豪族である。姓は初め臣(おみ)であり、天武天皇13年(684)八色の姓制定に伴い朝臣へ改姓した。天智天皇朝には大人が御史大夫となり、奈良時代に入ってからは麻呂が大納言、麻路が中納言、飯麻呂が参議となっている。平安時代初期には藤原北家の隆盛に圧倒されるようになる。広浜・百継以降は公卿に昇る者が途絶え、名虎が娘を入内させるが家運は好転せず、応天門の変で夏井が配流されると一族は衰退した。宇多天皇に重用された長谷雄より後は、政治・軍事面で活躍する機会がほぼなくなり淑望・在昌や貫之・友則・時文などの文人歌人を輩出するに留まる。紀氏の流れをくむ末裔として田長流の石清水八幡宮別当家(田中・善法寺家)の他、下野に下向した清主より出たとされる下野紀党(益子氏)、長谷雄流を称する池田氏・信太氏・細見氏・大井氏・中村氏・品川氏・春日部氏・堀田氏・浦上氏・安富氏・高安氏などが挙げられる。Wikipedia

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中世大井の概念図 
大井氏関連の所領および大井地域の想定範囲

鎌倉武士 
大井一族
武士の時代・中世には地域名を苗字冠した在地領主が台頭しました。鎌倉時代に大井の地を納めたのは大井実春(さねはる)の率いる武士団でした。大井氏は分家の品河氏らとともに将軍源頼朝や執権北条義時に従って幕府御家人として活躍しました。承久の乱(1221)の後、大井一族は薩摩国(鹿児島県)などに領地を拝領し、活躍の拠点を西へ移していきました(品川歴史博物館)


江戸蒲田氏
江戸蒲田氏は武蔵国を発祥とする武家。本姓は平氏。家系は鎮守府将軍・平良文の孫、平ら将恒を祖とする秩父氏の一門で、鎌倉幕府の有力御家人であった名門・武蔵江戸氏支流の一族。通字は「重」。家祖・蒲田忠武(四郎入道道儀)は江戸氏12代江戸長門の次男・江戸雅正長(蔵人入道希全)の子で、南北朝時代に鎌田郷を領有して蒲田氏を興した。また、江戸長門の三男・江戸重道も蒲田入道を称している。江戸長門は新田氏一族の一井貞政の姉が生母とされるが、人見原の合戦では足利尊氏に従って新田氏と戦った。江戸長門が鎌倉をめざして挙兵した新田義興の迎撃を命じられると、蒲田忠武首謀者のひとりとして参加し矢口渡新田義興を謀殺したとされる。室町時代には本家の江戸氏とともに関東足利氏に仕えた。至徳元年(1384)には、江戸長門が得た恩賞地の内の稲毛庄渋口郷が岩松直国へ与えられたが、江戸正長、蒲田忠武らが渋口郷の引き渡しを妨害した(「正木文書」)。そして、大慈恩寺領の大杜郷永富郷を蒲田家の由緒ある土地であるとして押領し、足利満兼足利から狼藉をやめるよう命じられている。このことから蒲田氏が稲毛方面へも進出したことがわかる。菩提寺は大田区蒲田にある日蓮宗・妙典寺で、北蒲田村にあった「大屋舗」が江戸蒲田氏の館跡とする説がある(大田区史)Wikipedia


by Twalking | 2017-09-22 10:39 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 平間街道(旧池上道)04-大井   

日時 2017.9.9(土)
天気 晴れ

品川道から鹿島神社に戻って平間道へ。
池上通りも昔の道ですが、旧道には
江戸名所図会に描かれた寺社が軒を並べます。

遺跡は出ていませんが「大井駅家」の有力地とか。
これだけ並べばそうかも知れませんね~・・・、
そんなことを思いながら訪ねてみました。


・・・大井/品川区


品川区の南東部に位置する。町域北辺は広町に、東部は東海道本線などの線路に接しこれを境に東大井・南大井に接する。南部は大田区山王に、西部は西大井に接する。町域東部を南北に池上通りが通っている。他に地域内に光学通り(西大井にあるニコンに由来)、滝王子通りが通っている。大井一丁目の北東端に大井町駅があり、駅前にビルや商店などが多く集まり、駅周辺は品川区でも有数の規模の商業地となっている。他に池上通り沿いに商店などが見られるほかは住宅地となっている。
Wikipedia

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街道の風景① 鹿島神社裏手から来迎院へ向う旧道/鹿島神社裏

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歴史
延喜式に東海道宿駅名として見える。和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)では荏原郡内に駅家郷が存在し当地に比定される。鎌倉時代には紀実春が土着して大井氏を名乗り大井郷と呼ばれた。江戸時代には鈴ヶ森刑場(南大井)が置かれた。1889年(明治22年)村制を施行した。1908年(明治41年)町制を施行して大井町となりこれが駅名に残る。1932年(昭和7年)東京市に編入され品川区の一部となり、大井は一帯の町名の冠称となった。1939年(昭和14年)沿岸が埋め立てられ、戦後、大井競馬場(勝島)や大井埠頭(八潮)が整備された。昭和39年住居表示により大井・南大井・東大井・西大井が成立した。地名は字義通り井戸に関係するともいわれるが定かではない。光福寺には由来とされる井戸が伝えられ、新編武蔵風土記稿は了海が1201年(建仁元年)出生時に湧き出て産湯に使われたものとするが、大井という地名は延喜式が成立した10世紀に已に存在しており矛盾する。(Wikipedia
(地図は『東京古道散歩』/萩窪圭氏著を参照しました)


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池上道と分かれ右折/鹿島神社     来迎院門前を直進、下ると水神社です

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鹿嶋神社鳥居/大井

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鹿嶋神社
『新編武蔵風土記稿』には鹿島社『江戸名所図会』には鹿島大明神社として紹介された。武甕槌神(タケミカヅチ)を祀る。同社社伝によると、安和2年(969919日に武蔵国荏原郡大井村字関ヶ原(現在の東大井6丁目)の常行三昧寺住職であった尊栄法印が常陸国鹿島神宮から分霊を勧請したことに始まり、同日、別当として来迎院を建立、慈覚大師(794- 864)がつくった薬師如来像を安置したという。常行三昧寺は江戸時代、1653年(承応2年)に大井から現在の南品川に移転した。

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1868年(明治元年)神仏分離令を受け来迎院と同一敷地内で分離、同社は大井村の村社、総鎮守と位置づけられた。来迎院は通称「お茶屋寺」と呼ばれる。古来より祭礼として相撲が奉納されており、渋谷氷川神社世田谷八幡宮と共に江戸郊外の三大相撲として知られていた。現在の社殿は1931年(昭和6年)に竣工した。旧社殿は1862年(文久2年)の造営で精巧を極めた鎌倉彫の彫刻が施されており、これを後世に伝えるため境内末社として移設して現存してある。(Wikipedia

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来迎院山門/大井


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来迎院
安和2年(969919日、南品川の常行三昧寺(現、常行寺)の住僧法印尊栄が現在の地に鹿島社(鹿島神社)を創立し、共に当寺を創建して常行寺の末寺とし鹿島示現山常住鶴林寺来迎院と称した。其の後当寺は無住となり大破したが、貞和3年(1347)に了覚法印という僧が来住して中興し示現山覚林寺観音院と改称した。江戸期に入って、この一帯は将軍の放鷹の地となり、将軍義光が鷹狩りのため当寺に来遊したとき、この附近の景色を賞して当寺の境内に休息所を建てた。家光は鷹狩りのつどこの休息所で休憩し正保年中には堀田加賀守が将軍に茶を献じたのでこの休息所は大井の御殿と呼ばれ、また当寺は御茶屋寺とも呼ばれている。また将軍義光は当寺の本尊薬師如来を厚く尊崇し、正保2年(1645)には42歳の厄年にあたって節分の日当寺に親しく参詣したと伝えられている。江戸期には当寺の境内は桜が多く植えられていたので、桜の名所として開花の時期には杖を引く者が多かったというが、近世に入って当寺は江戸郊外の風光のよい場所として知られ、将軍の来遊も得てその尊崇をうけたことが窺える。天保4年(1833)には上野寛永寺の塔頭涼泉院(廃寺)の住職が代々当寺の住職を兼務することとなりこのとき鹿島山来迎院と改称した。(品川区の文化財)

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境外地蔵堂
来迎院石造念仏講供養塔3/門前向い
江戸時代に盛んに行われた念仏講供養塔で、右側の堂内に2基、真ん中の堂との間に一基が建てられている。堂内の地蔵菩薩像を彫った舟形の二基の塔は明暦2年(1656)と万冶2年(1659)の造立で、

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堂外にある六字名号(南無阿弥陀佛)と彫った笠塔婆型の塔は寛文7年(1667)の造立である。いずれも江戸時代の初期に大井村に念仏講が存在していたことを示す資料として貴重である。この場所はもともと来迎院の境内であったが道路建設のために現在のようになっている。品川区指定文化財(品川区教育委員会)

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水神社鳥居/南大井

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水神社
水葉乃女命(ミヅハノメ)を祀る。武蔵野台地の末端に位置し湧水が豊富だった当地で、1685年(貞享2年)村民たちの手によって水神(九頭龍権現・くずりゅう)を祀ったのが始まりであるという。願主は桜井伊兵衛と大野忠左衛門であった。明治時代までは日照りになると村人がここへ集まって雨乞いをしていたと伝えられている。

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湧水は「柳の清水」と呼ばれ、歯痛を止めるのにも利益があったという。明治時代になると祭神は水葉乃女命に変わった。同社にちなみ同地域は「大井水神町」という町名であった(1963年町名変更)。1975年(昭和50年)前後までは水が湧き出ていたという。現在ではポンプで水をくみ上げている。1978年(昭和53年)品川区指定史跡、1988年(昭和63年)、しながわ百景(大井の水神社)に認定される(Wikipedia)

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街道の風景② 来迎院から住宅地を道なりに進むと左手に光福寺があります

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光福寺山門/大井


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光福寺
延暦元年(78211月、伝教大師の法脈を伝える性顕阿闍梨の弟子顕教房栄順律師の開創になるものと伝えられている。随って開創当初は神宮寺と呼ばれ天台宗であったが、その後文永2年(1265)に了海上人興してより浄土真宗となったと伝えられている。了海は東国に流されていた鳥羽院の皇胤信光の嫡男中将光政が荏原の住人実経の娘(一説では滋野井宰相の父)を娶って、設けた子と伝えられている。了海は当寺の境内にある井戸の井水を産湯としたといわれており、現在の大井の井戸と呼ばれる湧き水が当寺の境内にあり、品川区文化財に認定されている。この井戸があることによって当寺は大井山と呼ばれており、また大井の地名もこの井戸によって起こったものだといわれている。了海は建仁元年(1201)に生まれ幼名を松丸と呼ばれていたが、8歳のとき出家して覚円律師に仕えた。のち叡山に登って浄宋僧都の門に入った。その後親鸞に師事したが、この頃父光福も空範と号し親鸞の門に入って剃髪したので帰国して当寺を再興し、真宗に改め光福寺と改称したという。また了海は麻布善福寺をも開創したといわれている。
(品川区の文化財)
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江戸名所図会 弘福寺  (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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大井の井(品川区指定史跡)
この井戸には鎌倉時代に親鸞聖人門下の関東六老僧の一人として活躍した了海上人にまつわる話が残されている。寺伝によれば了海上人の父が子授けを蔵王権現に祈願したところ、妻が懐妊し男子(了海)を出産した。その時、境内にこつ然と泉が湧き出したのでこの泉の水を産湯として使い、泉を大井と命名したという。大井の地名はこの泉に由来すると伝えられている。この泉は当寺本堂裏の墓地内にあり、横穴式の古い型をした井戸で今でも水が湧き出している。(品川区教育委員会)

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江戸名所図会 大井 
(わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景③ 品川道からの下り坂を横断して西光寺へ/光福寺先

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三社宮」の標柱がありましたので寄りましたが、詳しいことは分かりません

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西光寺山門/大井
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本堂と江戸名名所図会に描かれた兒桜

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西光寺
弘安9年(12683月栄順律師が開創した寺である。当時は天台宗であったがのち浄土真宗にかわった。浄土真宗に改宗した時期はわからない。当寺の歴世は、当寺に遺されている天明2年(1782)頃直筆の過去帳によると栄順以来世襲で継承されているので、開創直後に改宗したことが推察される。ただ6世は5世了証の子であるにも拘わらず心月律師となっているので一時期天台宗に復していたことも考えられる。その後慶長年中(1596-1615)に至って栄空が再興したといわれている。

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栄空は前述の過去帳では15世空善とされ、清原武則の長子で幼名を伯王丸と呼び父は北条氏康の幕下であったと記述されているが、当寺に記されている「芳賀氏系図」では栄空は芳賀出雲守定仲と呼び孝譲朝、天平勝宝5年(753)に下野国司となって芳賀郡に住んだ芳賀豊澄の子孫だといわれ、織田信長麾下の武将であったが信長の死後比叡山に隠れて出家し、3年後比叡山を下って当寺の住職になったといわれている。この系図によると定仲は武田信玄の家臣であった芳賀右近介定明(のちに入道して玄覚と呼ぶ)の子で定明は天目山の戦いで武田勝頼と共に戦死し、その子の定仲は織田信長に仕えたといわれている。当寺には前記の「過去帳」一冊、「芳賀氏系図」一巻のほか武田信玄が玄覚に与えた「感状」一通、徳川家康が玄覚に与えた「御教書」一通が、現在も遺されている。江戸時代には当寺も来迎院と同様桜の名所であったが、明治26年(18935月に当寺は火災に遇って本堂その他の建造物と桜の名木が焼けてしまっている。(品川区の文化財)

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西光寺石造供養塔(品川区指定文化財)
1)明暦元年・(1655)造立、地蔵菩薩彫刻の舟型、(2)寛文9(1669)造立、阿弥陀如来彫刻の舟型、(3)寛文13(1673)造立、阿弥陀如来彫刻の笠塔婆型の3基。(4)(2)は念仏講の女性が(3)は大井村の人々が造立したもの。(品川区の文化財)

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江戸名所図会 西光寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)

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街道の風景④ 道が狭くなって曲がりくねってます。右の「作守稲荷神社」は薩摩藩島津家のお抱え屋敷にあった屋敷神だそうです

旧・薩摩鹿児島藩島津家抱屋敷跡/立会川駅・関ヶ原公園 
この付近より東海道線を越えた地域を含む広大な地は、鹿児島藩島津家の抱屋敷(万治2年(1658)買取)および抱地(天保3年(1832)取得)であった。敷地は約18千坪に及ぶ。安政3年(1856)当時、藩主島津斉彬の父で前藩主の斉興(松平大隈守)がこの抱屋敷で隠居生活を送っていたため、絵図上では「松平大隈守」と表記されている場合がある。慶応年間になり、大井村の平林九兵衛が島津家よりこの地を譲り受け、開墾して耕地にしたと伝えられている。安政2年(1855)頃の薩摩藩主島津薩摩守斉彬は778百石の家禄があり、上屋敷幸橋御門内(現・千代田区内幸町)にあった(品川区教育委員会)

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作守稲荷神社に沿って道なりに進むと池上通りにでます/大井三差路手前

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街道の風景⑤ 品川道は右折して南品川へ、古東海道は直進して目黒川居木橋方面に向ったようです/大井三差路

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大井三又地蔵/三つ又商店街入口
古く平安時代(7951185)にはこのあたりに十一面観音を祀った観音堂があったと伝えられる。その堂が戦乱により焼失したあとに、諸国行脚の高僧がこの辺りの地中から読経が聞こえてくるのを不思議に思い、掘ってみると地蔵菩薩像が出てきた。そのためこの場所に丁重に祀った。後に病気、災害の「身代わり地蔵」として庶民の信仰を集め、今でも線香が絶えることが無い。また、この場所は夏目雅子主演の映画「時代屋の女房」でも有名。(品川観光協会)

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街道の風景⑥ 見逃しましたがこの手前左手に庚申堂があります/大井三つ又先

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庚申
この庚申堂は昔庚申塚と呼ばれ、さらに古くは右大将頼朝卿が戦死諸兵供養の為に写経を埋められたので、その当時は納経塚といわれていた。後柏原帝の文亀元年(1501年前)梅巌というお坊さんがこの塚の傍を通られると、土中より読経の声を聞かれて仏体を掘出された。当時内乱で行方知れずであった來福寺(東大井三丁目)の本尊延命地蔵尊であることがわかり寺に迎えて再び安置された。その為にこのご本尊は別名経読地蔵尊といわれるようになった。戦後地元有志の方々が堂を建立された。現在も來福寺所管の境外仏堂で縁日は毎月1日・10日・20日。尚毎年「かのえさる」の日に庚申祭りの修法をいたします(所管寺院来福寺)

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坂下は立会道路、道は消えてます    右は大井町駅です

立会道路

立会道路は立会川に蓋を掛け下水道として整備されていた川の上に道路や花と緑の親しめる緑道が整備された。立会川の名称をとって立会道路と呼ばれている。延長4760(品川区)


・・・広町/品川区

品川区の地理的中央部に位置する。北で大崎、北東で目黒川を境に北品川、東で南品川、南で大井、西で西品川と接する。東京総合車両センターと工場が目立っており、間を埋めるように住宅が並ぶ。北東には目黒川が流れる(Wikipedia

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街道の風景⑦ 道は消えてますので区役所通りを居木橋へ向かいます/区役所通り

区役所通り
昭和43年に区役所が現在の場所に移転したため交通量が増大し、区内の主要道路のひとつとなった。この通りの一部は都道だが区役所までの案内を含め名称を区役所通りとした。(品川区)

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東急ガードを右折           区役所通りを下ります/中央公園

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東京総合車両センター/広町
東京総合車両センターは旧大井工場が1915年新橋から現在地に移転。旧山手電車区も1964年大崎電車区として現在地にて着工し1985年山手電車区と名称変更、20046月に山手電車区と大井工場と統合して発足した。JR東日本の車両基地・車両工場で国鉄時代から東京地区の電車の検修・改造などを行っている。山手線を走る全ての電車に対し日夜定期検査や臨時修繕などを行い始発にそなえている。15万平方メートルの敷地に550の車両を収容。
地名の由来・権現台
大井村にある蔵王権現が祀られてた権現台に続く場所であったことからこう呼ばれた。現在の東京総合車両センターのあたり。(品川観光協会)

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街道の風景⑧ 区役所通りから臨海線沿いに進み先の歩道橋を渡ります/百反歩道橋

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山手線ガードを潜ります        山手通りに出ます/居木橋(目黒川)

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街道の風景⑨ 目黒川にでました、古道はこの辺りを渡ったのでしょうか/居木橋

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居木橋(いるきばし)
現在の環状6号線は室町時代以前のころから品川から多摩方面に抜ける主要な街道であったそうです。品川宿から丁度1kmのこの辺りで目黒川を渡りますが、この川辺に風が吹くとゆらゆらと揺れる一本の松の木があったそうです。多摩方面から来た旅人はこの松の木が見えるともう品川宿も近いと思ったことでしょう。そしていつしかこの松の木を人々は「ゆるぎの松」と呼んだそうです。この「ゆるぎの松」が時の流れとともに変化ししだいに「いるぎ(居木)の松」と呼ばれ、ここに架かる居木橋の名前の由来になったといわれています。当時の旅人に親しまれた「居木の松」も安政年間の暴風で倒失したとのことで、場所は定かではありませんが、現在の居木橋の付近にあったと伝えられています。(説明板)

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街道の風景⑩ この後、御殿山を越え高輪から中原街道へと続いていたようです/御殿山通り

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三菱開東閣前/御殿山         二本榎木通り/高輪

中原街道(高輪)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22226945/

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大井町駅周辺地図
(赤:平間街道 橙:品川道 青:立会川(道路)・目黒川 赤丸:大井三差路)

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平間街道ルート図
(紫:平間街道(池上道) 茶:東海道・中原街道 赤:品川道 橙:筏道 緑:奥州街道)


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資料ファイル

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鹿島神社の向かいに品川歴史館があります、寄られるといいと思います

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品川区立品川歴史館/大井
品川区が1985年に設立し運営する区立の歴史博物館。原始からの品川の歴史、生活文化に関する資料を展示。史料の収集、保存や行政資料の保存も行う。地域史等の歴史を学ぶ場としての機能もあり、企画展や講演会、子供向けの講座、親子体験講座を随時開催している。元々建設地には昭和初期に安田財閥系の安田善助の邸宅として建てられ、その後電通の出捐で設立された財団法人吉田秀雄記念事業財団が譲り受けて1966年に吉田記念館として開館した書院造の屋敷が建っており、歴史館の建設に際しては離れで建てられていた茶室と庭園の大部分をそのままの形で残している。建設中には「大井鹿島遺跡」が発見され、26軒に上る堅穴式住居跡群や土器、砥石などの生活用品が見つかっているWikipedia

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常滑焼の大甕/御殿山出土           東海寺境界石

大井鹿島遺跡の概要

大井鹿島遺跡は昭和58 年(1983)、品川区立品川歴史館(品川区大井6 丁目111 号)の建設工事中に発見された。遺跡名はこの地域の旧字名鹿島谷から来ている。広さ約1500㎡の発掘範囲からは26軒に及ぶ竪穴式住居群と土器、紡錘車、砥石などの生活用具が見つかったが、土器の特徴などからみてこの遺跡は古墳時代後半から奈良・平安時代にかけて断続的に形成された古代の村の一部であると考えられる。品川区内における古代遺跡の調査はこれが初めてで、当時の様子を知る貴重な資料となっている。その後、品川歴史館周辺地域を含めて平成21年(2009)までに第9 次におよぶ調査がおこなわれ、集落の中心地域の発掘はほぼ完了した。遺跡の範囲は台地の端とそれに続く緩やかな斜面にまで広がり住居跡は合計45 軒になった。この地域は、古代東海道駅家(うまや)「大井駅」の推定地の一つに挙げられている。現在のところ直接駅家の存在を窺うかがわせるような遺物は出土していないが、大井鹿島遺跡の存在は大きく今後の調査の進展が期待されている
(品川歴史館解説シートより抜粋)


by Twalking | 2017-09-17 13:00 | 東京散歩(新規)