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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(3)筏道03-野毛   

日時 2017.8.13(日)
天気 曇り


二子から先のハケも風情があっていいですね。
ハケ上には古刹や古墳があるので
坂を上り下りしながらの散策が面白いです。

ちょっとひと休みはやっぱり等々力渓谷、
矢沢川との合流点も興味深いですね。
そしてフィナーレは多摩川台公園、
古墳展示室もありますから寄られるといいですよ。



・・・上野毛

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川の風景① 二子の賑わいをよそに閑静な住宅地、街に潤があります/上野毛

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稲荷橋(坂下)                   坂上は上野毛駅へ通じます/上野毛通り

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上野毛稲荷神社鳥居/上野毛

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上野毛稲荷神社
祭神は倉稲魂神(ウガノミタマノカミ)で通称お稲荷さんとよばれ、玉川の台地末端の稲荷坂の途中にある。穀物や農業一般をつかさどる神としてまた上野毛鎮守の神として古くから尊崇されている。「新編武蔵風土記稿」でに「稲荷社除地一畝歩、字橋際の上にあり、上屋二間に九尺、東向なり。中に三尺四方の祠あり由緒不詳と言えども 上野毛村の氏神なり」とある。例大祭は1010日、上野毛周辺地区よりの参詣客が集まり賑わう。なお、鳥居左側に「菅公一千年祭再建、北野神社」の石碑があり明治35425日氏子総代によって建てられたものである。(せたがや社寺と史跡)

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覚願寺山門/上野毛


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覚願寺
自性山聖徳院覚願寺と称し真言宗智山派に属する古刹である。「新編武蔵風土記稿」には「此寺元は村の西の方台のにありしが、いつの頃か此所に移せし」とのみあり、その創建の時期を明らかにしていない。しかし、文禄3年(1594)の「武州荏原郡世田谷領上野毛郷縄打屋敷帳」には覚願寺の名が見えておりこの頃寺地が確定したと考えられる。本尊は大日如来で脇仏として弘法大師と興教大師が祀られている。なお、享保6年(1721)の「両大師造立帳」(当寺所蔵)には聖徳太子像(木像漆塗、江戸時代現存)が本尊であったことが記されている。当寺の院号が「聖徳院」と称されているのはこのためであろう。その後、大日如来像が本尊とされたようで現在もこの大日如来像が当寺の本尊となっている。文政7年(1824)には本堂が大破したため大修理を行った記録が残されている。現存する本堂、観音堂は天保年間1830-1843)に再建されたものである。総門は昭和63年に造営された。(世田谷区教育委員会)

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覚願寺から南の坂途中にありますが、内部は見られません

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上野毛稲荷塚古墳/上野毛
この古墳は多摩川下流域左岸の武蔵野台地上に分布する野毛古墳群を構成する古墳の一つで、その西端部に位置し、標高33mほどの舌状台地の上部に立地している。前方後円墳で規模は全長20数m、後円部の高さ約3mである。前方部はかなり削平を受けているが、本来低い墳丘をもっていたと推定され、クビレ部から後円部にかけては良好に遺存している。主体部は、後円部中央に位置する粘土槨で、鉄剣と直刀の破片が出土している。野毛大塚古墳先行する初期の前方後円墳である可能性が高く、野毛古墳群中で最初に築造された首長墳と考えられる。築造された時期は古墳時代前期、4世紀後半と推定される。本墳は、田中泰雄氏(上野毛2丁目在住)から平成94月本区に寄付されたものである。世田谷区指定史跡(世田谷区教育委員会


・・・野毛


野毛はもともと上野毛との対で下野毛村と呼ばれ、1889年に玉川村の大字下野毛となる。1912年に下野毛のうち多摩川右岸は神奈川県に編入された。1932年には世田谷区玉川野毛町とされ、1969年の住居表示改正により現在の「野毛」となった。野毛大塚古墳
は野毛一丁目の玉川野毛町公園内にある、丸子川沿いの荏原台古墳群を代表する古墳である。この古墳のみならず周辺には多くの古墳が存在しており、帆立貝型の前方後円墳が特徴。古く「ノゲ・ニゲ・ヌゲ・ナゲ」は「崖」を意味する言葉。当地が国分寺崖線にある事から「野毛」とされた。Wikipedia

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街道の風景① 多摩川がすぐ近くを流れています。道端に「おもいはせの道」の標柱があります

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おもいはせの道
季節や時の流れとともに表情を変える古代から現代までの様々な顔が見える路です。歴史におもいをはせる、ということから名付けられました。貴重な文化遺産を有する九品仏浄真寺から始まるルート上には、御岳山古墳や玉川野毛町公園内の野毛大塚古墳など古代からの遺跡が点在し、宇佐神社善養寺行善寺などの歴史ある寺社や祠が多く存在しています。また、23区唯一の渓谷である等々力渓谷や上野毛自然公園には都会であることを忘れさせてくれる程の自然が残されています。最後は現代的な高層ビルの立ち並ぶ二子玉川駅まで歩く6.7kmのコースです。(世田谷区)

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川の風景② 対岸に武蔵小杉のビル群を望みます/多摩堤通り

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野毛六所神社鳥居/野毛

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野毛六所神社
六所神社は元和年間(1615-1623)遷座と伝え、古くより上下野毛両部落鎮守で、上下野毛境にあった。祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊で、例祭は926日である。明治31年に村内の末社天祖神社、山際神社、日枝神社、北野神社の4社合祀となり、新たにその祭神天照大神、大山都見之命、大山咋之命、菅原道真を現在地に奉斎した。ただし、合祀社は明治23年に天祖神社に合祀したものをさらに六所神社に合祀したのである。

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「新編武蔵風土記稿」によると「除地一段五畝、(中略)上屋九尺二間、本社六尺に八尺西向なり」とある。この社は昔洪水のとき府中の方から流れてきたというので、土地の人は六所明神と崇めて1社を草創したという。鳥居も西向きに立て別当は善養寺であった。現在、鉄筋コンクリート造の社殿を建造中で11月に落成する。整地の際、石鏃・縄文土器片が多数発見された。近くに六所東貝塚があった。縄文前期に属する黒浜式と諸磯式で、多摩川に面する斜面に形成されていた。貝塚にはヤマトシジミ・ハマグリ・マガキ・アカニシ・キサゴ・イオフキなどがあり、当時は東京湾の海水が浸入していたことを思わせるが、ヤマトシジミが多いことはすでにこの付近は河口になっていたことを示しているのかも知れない。もちろん竪穴住居が設けられていた。(せたがや社寺と史跡)

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善養寺山門/野毛


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善養寺
野毛町玉川通りにある。影光山仏生院と号し真言宗智山派満願寺の末である。本尊は金剛界大日如来で木の座像、高さ4(1.1) 余、開山は阿闍梨祐栄で慶安5年に寂している。『新編武蔵風土記稿』によれば「除地一段五畝許、(中略〉次太夫堀北側ニ臨メリ(中略〉本堂八間ニ六間(中略〕此寺ハ古深沢村ニアリシガ、中ゴロ此地へ移スト云(中略〉表門柱間九尺、門内ニ石階十二級、門前ニ四級、神輿堂門ヲ入テ左ニアリ、九尺四方、鎮守六所明神(野毛六所神社)ノ神輿ヲ入ル所ナリ、閤魔堂(中略〉三間ニ三間半」と記している。本社は近年天平様式の唐招提寺の金堂を模して新築された。境内のカヤの大木は昭和39年に都の天然記念物に指定されている。玉川88ヶ所の一霊場である(せたがや社寺と史跡)

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山門                    善養寺のカヤノキ

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野毛大塚古墳/野毛
野毛大塚古墳は全長82m、後円部の高さ10mの帆立貝式の前方後円墳で、前方部に近接して小さな造出部(つくりだしぶ)が付設されている。墳丘の周囲には馬蹄形の周濠が掘られており、周濠を含めた全長は104mである。三段に構築された墳丘は全体が河原石で覆われ、円筒埴輪がそれぞれの段にめぐらされている。後円部頂上には4基の埋葬施設があり、中央に粘土に包まれた割竹形木棺、南東側に箱式石棺、北西側に2基の箱形木棺が納められている。割竹形木棺からは甲冑、刀剣、鉄鏃などの武器・武具類、鉄鎌、銅鏡、銅釧、玉類、石製模造品、竪櫛などが、箱式石棺からは刀剣、鉄鏃、玉類、石製模造品などが、2基の箱形木棺からは刀剣、鉄鏃、鉄鎌、石製模造品、玉類などがそれぞれ出土している。野毛大塚古墳は関東地方の中期古墳文化を代表する5世紀前半に築造された古墳である。出土した多量の武器・武具類や石製模造品はこの古墳が南武蔵の有力な首長墓であることを示している。(東京都教育委員会

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野毛大塚古墳
野毛大塚古墳は5世紀初めに造られた全国でも最大級の帆立貝式前方後円墳です。墳丘の全長はやく2mで、後円部は直径が約68m、高さ約10m、前方部は前端の幅約28m、高さ約2mで、後円部に比べて極端に小さく低いことが特徴です。また、前方部の脇には長さ、幅とも約10m、高さ約1mの造出部と呼ばれる小さな方形部分が付設されています。さらに、古墳の周囲は最大幅約13m、深さ約2mの空堀で馬蹄形に囲まれています。墳丘は平坦な地面に盛土をして築かれていて前方部は1段、後円部は3段になっています。また、その表面はすべて多摩川の河原石を使った葺石で覆われています。幅約3mのテラス(平坦な部分)と後円部および前方部の頂上には円筒埴輪と朝顔形埴輪による埴輪列が、造出部には柵形埴輪がそれぞれ1重に巡っています。この他には家、盾、鶏などの器物や動物などをかたどった形象埴輪が置かれています。また、濠の中からは本来は墳丘の上に立てられていた埴輪や、祭りに使われた高坏などの土器(土師器)が出土しました。(世田谷区教育委員会)

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帆立貝形古墳(ほたてがいけいこふん)
古墳の一形式で、円丘に小さな方形の張り出しをつけて全体の平面形が帆立貝形になる古墳の総称である。この形式の古墳には(1) 円墳に方形の造り出しがつくものと(2) 前方後円墳の前方部が短小化したものとの二種類があるが、実際には判断の困難な場合が少なくない。前者には奈良県の乙女山古墳があり、後者には群馬県の赤堀茶臼山古墳があげられる。前者は、ほぼ中期初頭に出現し前方後円墳に造り出しがつく時期と一致し、円墳に祭祀の場として造り出しを付設したものと理解することができるWikipedia

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古墳から南へ下ると等々力渓谷、ちょっとひと休み/日本庭園

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日本庭園入口             涼を求めて沢山の人/不動の滝

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等々力渓谷日本庭園・書院
等々力渓谷矢沢川の下流部、等々力不動尊の対岸に昭和36年(1961)に建築された書院建物とそれを取り巻く日本庭園があります。池、流、石畳の階段園路などがある庭は昭和48年に著名な造園家により作庭されたもので、当時のままの姿で保存されています。園内には陽当たりのよい芝生広場があり渓谷散歩の休憩にご利用いただけます。(パンフ)

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川の風景③ 矢沢川はこの手前先で丸子川(六郷用水)と交差します

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渓谷の水・湧水
等々力渓谷を構成する矢沢川は現在の上用賀6丁目付近を水源とし、用賀・中町を貫流します。そして等々力駅付近から渓谷の様相を呈しはじめ渓谷内で不動の滝も合わさり、その後一部六郷用水(丸子川)へ、残り多摩川へと流れていきます。この矢沢川には平成6年(1994)より仙川浄化施設からの導水が始まり水質の改善が行われました。また、等々力渓谷には約30箇所以上の湧水が発生し、一部は窪地に集まって湿地を形成しています。矢沢川の水質はゴルフ場橋から下流に行くにしたがって改善されているから、この矢沢川に流れ込む湧水が水質や水量の維持に大きく寄与していることがうかがえます。等々力渓谷の湧水は平成15年に「東京の名湧水57選」に選定されています。(パンフ)

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街道の風景② 丸子川・矢沢川合流地
現在の丸子川は分水路で矢沢川と合流して多摩川へ、そして矢沢川から揚水した水が丸子川へと注いで南流して行きます。

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丸子川の分水路            矢沢川からの揚水

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街道の風景③ 尾山台から下る「寮の坂」、坂途中に伝乗寺・宇佐八幡神社があります/八幡橋

尾山台・寮の坂の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/25235304/



・・・田園調布

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田園調布八幡神社鳥居/田園調布


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田園調布八幡神社
田園調布八幡神社の創建は鎌倉時代の建長年間(1249-1256)と伝えられる。この時代、鎌倉幕府は執権の北条氏が実権を握り国内基盤固めを行っていた。各地で武士達はもとより村人達も幕府に忠誠を尽くす意味もあり源氏の氏神を祀る八幡信仰が盛んで多くの八幡神社が建てられた。当時、この村の西側、現在の雙葉学園南側の盆地篭谷戸(ろうやと)と呼ばれる入江で、多摩川の水が滔々と打ち寄せる自然の良港であり、物資を積んだ舟が盛んに出入りしていた。また、この村の高台部分には東より西へ貫いて鎌倉街道が通り、篭谷戸の港に接続していた。港を中心としてこの一体には多くの鎌倉武士が駐屯し、鎌倉海道の要衝の地となっていた。そして、この八幡神社の地は港の入口に突き出した台地で、舟の出入りを監視できる重要な場所であった。鎌倉武士はその重要な場所に祠を建て八幡神社を勧請した。以来、この八幡神社の地は聖地となり人々に崇められてきた。天正18年(1590)小田原北条氏滅亡後、八王子城主・北条氏照の旧臣、落合某がこの村に庵を結び主家の冥福を祈った。そして、寛永年間(1624-1644)落合某の孫・落合弥左衛門らによりこの聖地に新たな社殿が創建されご神体が祀られた。江戸時代、この神社は武蔵国荏原郡世田谷領上沼部村に属し、明治中期の四村合併まで村社であった。寛政4年(1792)には、この村の知行主となった神谷縫之助も氏神とするなど、今日まで常にこの地域の人々の心の拠り所として崇敬されて来たのである。(説明板)

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川の風景④ハケに沿って緩やかに蛇行して流れます


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照善寺山門/田園調布


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照善寺
当寺は天正14年(1586)にこの地の芝山を開いて草庵がつくられたのが始まりだと伝えられている。のち寛永16年(1639)に至って漸く堂宇が整備され、この時始めて寺号を得て照善寺と称した。川崎市上小田中の古刹泉澤寺の頓誉上人から常光山無量院と贈号され以来泉澤寺の末寺となった。(大田区の寺院)

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街道の風景④多摩堤通りと合流、ハエ上は多摩川台公園です

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川の風景⑤ 多摩川に架かる丸子橋、この辺りが国分寺崖線の南端でしょうか
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湿性植物園の背後の丘が亀甲山古墳になります/多摩川台公園

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多摩川台公園/田園調布
多摩川に沿って北西から南東に向かって舌状に広がる台地上に約600mにわたって面積66,6612で展開している。公園のある台地は武蔵野台地の南端部にあたり、国分寺崖線に位置するために多摩川との高低差は大きく、多摩川方面への眺望はすばらしい。また、2の大前方後円墳と8古墳があってすぐ近くで眺められるのも本公園の特色のひとつである。 さらに桜の木が多く春には桜の名所として知られている。Wikipedia)

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亀甲山古墳/多摩川台公園



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史跡亀甲山古墳(かめのこやまこふん)
この古墳は大田区から世田谷区におよぶ荏原(台)古墳群最大前方後円墳である。発掘調査は行われておらず詳細は不明であるが、埴輪、葺石等がないことやその古墳の形により、5世紀前半の築造と考えられる、当時、この地方に勢力のあった首長の墓と推定されている。この前方後円墳は後円部南端を浄水場建設により削られているものの、比較的よく原形を保っている。港区芝公園にある丸山古墳とならんで都内の代表的古墳である。昭和3年国の史跡に指定されている。(大田区)
全長107m、前方部の長さ41m、前方部の前端幅49m、後円部の直径66m、前方部の高さ7m、後円部の高さ10

芝公園丸山古墳の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/24459496/

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多摩川台公園案内図(赤・青:筏道&六郷用水)

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田園調布付近マップ
(紺:六郷用水 青:多摩川 赤:筏道 橙:品川道)

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筏道ルート図(喜多見~丸子橋 橙:筏道 赤:品川道)


・・・・・・・・・
資料ファイル

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地形ジオラマ(等々力渓谷付近)/世田谷区郷土資料館
(紺:六郷用水 青:矢沢川・逆川 赤:筏道)

世田谷の地形と遺跡
いわゆる「武蔵野台地」と呼ばれる地域は、古多摩川の形成した東西50km、南北30kmにおよぶ広大な扇状地であり、富士・箱根などの火山灰を厚く堆積させている。この台地のほとんどは多摩川の浸食によって作られた武蔵野面に相当するが、その東端にはこれより古い海成の高位段丘が2ヶ所島状に残されている。淀橋台荏原台で、いずれも下末吉面に相当する。世田谷区において淀橋台は区東北部(代沢~桜上水方面)に、荏原台は区東南部から中央付近(玉川田園調布・等々力~砧方面)にかけて樹枝状に分布している。世田谷の地形はこの下末吉面を最古として、以下武蔵野面・立川面・沖積地の順に形成された。この4つの地形面は、古多摩川によって形成された河成段丘であり、最高位の下末吉面から沖積地に向かって順次低位となる。このうち沖積地を除いた地形面は、それそれ黒色土以下に関東ローム層が堆積しており、下末吉面には立川・武蔵野・下末吉ローム、武蔵野面には立川・武蔵野ローム、立川面には立川ローム層が見られる。武蔵野面と立川面との境にある高低差20mにもおよぶ崖線は「国分寺崖線」と呼ばれる。(展示解説シート)


・・・

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大田区古墳展示室
公園内には4世紀から7世紀に造られた古墳が10基点在しています。公園の南の湿生植物園側から亀甲山古墳、その西側に連なる8基の小山が多摩川台古墳群です。南の1号墳から北の7号墳までは虹橋の手前にあり、虹橋を渡った左側の小山が8号墳です。園内の一番北側には宝莱山古墳があります。この公園内にある古墳群は、かつて都内に存在した古墳群の多くが都市化の波に埋もれてしまった中でも往時の姿をとどめている大変貴重な古墳群です。公園内には田園調布周辺の古墳から発掘された出土品を分かり易く解説した古墳展示室が公園管理事務所に併設されています。(多摩川台公園の古墳群)

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展示風景 大田区の古墳 宝莱山古墳・亀甲山古墳

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展示風景 多摩川台古墳群

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木棺に埋葬された首長
棺の中には美しく盛装した先代の首長と共に首長が生前愛用していた武器や装身具、首長のシンボルとしての鏡などが埋葬品として納められている。周辺ケース内に展示されている出土品も昔はこのように美しい姿をしていた。この副葬品の種類や量を調べることによって、首長が埋葬された年代、武人としての活躍したのかもしくは文人として優れていたのかなど、首長としての性格、権力、他地域の首長との関係、古墳時代の生産技術や生活の様子などいろいろなことが考えられる。(説明板)


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武蔵国造の乱
(「日本書紀」安閑天皇元年の条)
武蔵国では笠原直使主(おみ)とその同族の小杵(おき)が国造(国を治める豪族)の地位を争っており、年を経ても決めがたい状態であった。小杵の性格はけわしく逆らうことがあり心は高慢で素直さがなかった。密かに上毛野君小熊に援助を求め使主を殺そうとした。このことを知った使主は逃げて京へいたり、そのありさまを訴え出た。朝廷は裁断を下し使主を国造とし小杵を誅した。国造使主はかしこまり喜んで横渟(多摩横山と埼玉県横見郡の二説あり)橘花(川崎市と横浜市港北区の一部)多氷(多未の書き誤りといわれ、東京都多摩地域とされる)倉樔(横浜市南部)4箇所の屯倉(みやけ・朝廷の直轄地)を朝廷(大和政権)に献上した(説明パネル)

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小杵(おき)・使主(おみ)・小熊の勢力圏と屯倉の位置


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上毛野国と荏原(台)古墳群を結びつける副葬品
滑石製模造品
滑石製模造品は武器や生活用具をまねて滑石を材料に造られた、マツリなどで使われる道具と考えられている。荏原(台)古墳群の野毛大塚古墳出土のセットは上野毛(群馬県)の白石稲荷山古墳のセットとよく似ており、上野毛以外の関東ではみられない飲食用具の模造品も含まれている。そのため上野毛で造られ南武蔵に持ち込まれたのではないかと考えられる。
甲冑
野毛大山古墳から出土した武具では最古とされる甲冑が出土している。これも上野毛の首長の元にあった甲冑が分け与えられたと考えられる。
鈴鏡
6世紀前半を盛りに上野毛を中心に流行したと考えられる鈴鏡が荏原(台)古墳群の御岳山古墳と西岡第28号古墳でも出土している。
これら両地域は鈴鏡を使ってマツリを行う共通の文化圏としてとらえられるのではないだろうか。
これらの資料は野毛大塚古墳が築造された5世紀前半頃、南武蔵の首長が当時先進的であった上野毛国の政治勢力下に入ったことを暗示している。その結果、①鈴鏡を用いた祭祀(マツリ)が荏原(台)古墳群でも行われたり②武蔵国造の継承権の争いに上野毛君が介入した事件が起こったとかんがえる。(説明パネル)


武蔵国造の乱

古墳時代後期の安閑天皇元年(534?)に起きたとされる戦い。武蔵国造の笠原氏内紛とされる。『日本書紀』に記される出来事であるが伝承性が強いため事実か創作かは明らかとなっていない。乱の経緯は『日本書紀』安閑天皇元年条に記載されている。同条によると武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の笠原直小杵(おき・おぎ)は武蔵国造の地位を巡って長年争っていた。小杵は性格険悪であったため、密かに上毛野君小熊(かみつけののきみおぐま)の助けを借り使主を殺害しようとした。小杵の謀を知った使主は逃げ出して京に上り、朝廷に助けを求めた。そして朝廷は使主を武蔵国造とすると定め、小杵を誅した。これを受け、使主は横渟・橘花・多氷・倉樔の4ヶ所を朝廷に屯倉(みやけ・全国に設置した直轄地を表す語)として献上したという。

屯倉の位置

横渟屯倉(よこぬのみやけ)武蔵国横見郡、現在の埼玉県比企郡吉見町か。
橘花屯倉(たちばなのみやけ)武蔵国橘樹郡御宅郷、現在の川崎市幸区北加瀬から横浜市港北区日吉付近か。
多氷屯倉(おおいのみやけ)「多氷」を「多末」(たま)の誤記として、武蔵国多磨郡、現在の東京都あきる野市か。
倉樔屯倉(くらすのみやけ)「倉樔」を「倉樹」(くらき)の誤記として、武蔵国久良郡(くらきぐん)、現在の神奈川県横浜市(特に南東部)


勢力関係
埼玉県行田市には関東有数の大型古墳群として埼玉古墳群が残っており武蔵国造の本拠地と推測される。また助けを求められた上毛野小熊はその名のように上毛野地域(のち上野国、現在の群馬県)における豪族と推定される。それらを基に乱の舞台・規模を巡って次の2説が存在する。
南北武蔵の抗争とする説
使主の拠点は北武蔵(埼玉古墳群)、小杵の拠点は南武蔵(亀甲山古墳や芝丸山古墳など)とする説。そして、乱後に小杵の領域から橘花・多氷・倉樔の屯倉が供出されたとする。小杵と上毛野が使主を挟む形になる。
北武蔵での抗争とする説
使主の拠点は北東武蔵(埼玉古墳群)、小杵の拠点は北西武蔵(比企地方の古墳群)とする説。小杵と上毛野が隣接し協力を得やすい形になる。
考古学的には5世紀から6世紀で武蔵の古墳群の中心が南武蔵から北武蔵に移動する。また、5世紀後半に上毛野の古墳が小型化する一方で武蔵の埼玉古墳群が成長するという傾向も関連する出来事として指摘されるWikipedia


by Twalking | 2017-08-20 19:50 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(3)筏道02-岡本   

日時 2017.8.13(日)
天気 曇り

世田谷時代、家族そろっての食事というと
二子玉川のレストラン、でしたね。
いろんなお店があるし、駐車も便利でした。

難点は道が混むこと、狭いし信号多いですから。
そんな時、裏道として使ったのが岡本の坂、
眺めもいいし、変化があって好きな道でした。
懐かしいですね~・・・岡本、楽しみです。



・・・岡本

明治22年砧村の大字となる。昭和11年
年より世田谷区岡本町。近代において国分寺崖線沿いには政財界重鎮の別邸が多く建てられたが岡本にも岩崎小弥太、鮎川義介、高橋是清などの別邸が存在した。地名は村内の長円寺の山号からとった、或いは木曽義仲配下の岡本成勝の出身地であることに因むなどと伝えられているが、実際は地形的な命名と考えられる。Wikipedia

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街道の風景① 永安寺からすぐですがハケ下ではなかったようですね~?/水神橋

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せたがや百景-岡本玉川幼稚園と水神橋
岡本幼稚園の建物は2・26事件で暗殺された蔵相高橋是清別邸だったもので、山荘風の構えがよく幼稚園にマッチしている。風光明媚な国分寺崖線には戦前多くの高官や財界人の別荘別邸が立てられ現在の良好な住宅街に引き継がれてきた。水神橋あたりには当時別荘から眺められた田園風景の面影がそこはかとなく残っている。(せたがや百景)

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六郷用水の歴史
六郷用水は徳川家康の家臣小泉次大夫吉次によって慶長2年(1597)から15の歳月をかけて開削された農業用水です。この用水は多摩郡和泉村(現狛江市)で多摩川より取水し、多摩川に並行して掘られ、全長23.2kmありました。堀の幅は世田谷領では平均4.5mありました。主に六郷領(現大田区六郷付近)の35ヶ村を灌漑する目的でしたが、併せて用水が通る世田谷領14ヶ村もその恩恵を蒙りました。六郷用水は小泉次大夫吉次の名にちなみ次大夫堀とも呼ばれています。(世田谷区)

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川の風景① 西谷戸橋からは「丸子川水親公園」になっています/岡本民家園付近

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池の風景 盆休み、お子さん達が伸びやかに遊んでいました/岡本公園

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岡本公園/岡本
1977年(昭和55年)に開園した公園で、メインは江戸時代に建てられた建物を展示した民家園である。園内はかつて世田谷区内で見られた農村生活を身近に見られるように世田谷区の有形文化財第一号に指定された旧長崎家住宅主屋と旧浦野家土蔵、旧横尾家住宅椀木(うでぎ)門を復元し、世田谷周辺で江戸時代後期の典型的な農家の家屋敷を再現している。その他園内には遊具整えられていたり隣接して次大夫堀(丸子川)が流れていたり、また近隣には岡本静嘉堂緑地があったり緑豊かな地域になっている。園内は広く公開されており、民家園では一般の人が参加できる様々な行事が年中執り行われている。Wikipedia

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旧長崎家住宅主屋
区内の瀬田に建っていた旧長崎家住宅主屋は江戸時代後期の建物です。長崎家は村の民政を行っていた村方三役の一つ百姓代を勤めた家でした。主屋の間取りは創建当時広間型形式と推測されています。その後、文政期に当家が百姓代になると室内空間を拡大するため現在復元されている食違い四ツ間取り形式へと増改築されたと考えられます。この改築に伴い、デイに重きが置かれるようになり床と平書院が設けられました。またこの改築により大黒柱や差し鴨居が用いられるなど大幅な構造の変更を行いました。(パンフ)

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旧横尾家住宅腕木門
大正13年、区内桜に建てられたこの門は数寄屋風の形式で造られています。農家の形式とは異なることから、ここでは岡本八幡神社の参道に面した場所に裏門として復元しました。(パンフ)

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岡本隧道
この案内板から右50m、民家園の左奥に石垣囲いの蒲鉾型の扉があり、中は高さ2m、幅2.5mのトンネルになっていて、そこには直径80cmもある送水管が通っていてその長さは120mに及びます。1921年(大正10年)当時の豊多摩郡渋谷町(現在の渋谷区)では多摩川の水を町に引き込もうと大規模な水道工事を始めました。砧下浄水場で取水・浄化された水は駒沢給水所、三軒茶屋を経て渋谷に至り、地下の送水管は南西から北東へ直線的に世田谷を跨いでいます。水は駒沢給水所までは揚水ポンプの力で高く持ち上げられ、給水所から渋谷までは自然の重力で送水されました。砧下浄水場を出てすぐにこの岡専用のトンネルが利用されました。これらは1923年(大正12年)に竣工した近代水道の建造物であり、今でも珍しい施設で極めて貴重な歴史的遺産です。(世田谷区教育委員会)

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せたがや百景-岡本民家園とその一帯
瀬田から移築復元された茅葺きの古民家を中心に農家のありさまが再現されている。鶏の遊ぶ庭先、野菜や草花の植えられた畑など当時そのままの姿を見ることができる。民家園の隣には岡本の鎮守様八幡神社が深い木立の中に鎮まっている。また民家園のある岡本公園の一角ではホタルを養殖しているが、これは崖線から湧き出る清冽な水が利用できるからだ。夏の夕辺にはホタルの飛びかう姿を見に多くの人が岡本公園を訪れる。(せたがや百景)

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八幡神社鳥居/岡本


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八幡神社
神体は30cmばかりの木像である。「新編武蔵風土記稿」には「除地一段、小名河原ニアリ、本社ニ間四方、南向ナリ、神体ハ木像ニテ長サー丈許其作ヲ伝へズ 坂下ニ石ノ鳥居ヲ立、石階60段アリ、例祭ハ927日、(下略)」と記しているが、現在の堂宇は大正11に改築しており、石段も明治128月に再建し50段である。坂下に石の鳥

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居が立ち、高い石段を登ると松やけやきの大木が生い茂り、小島のさえずりがきこえ、いかにも村の鎮守らしい宮居である。鳥居のほとりに天保5年と記した手洗鉢が放置されている。祭礼は10月の第1、土・日の2日間行なわれる。(せたがや社寺と史跡)

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岡本静嘉堂文庫/岡本

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岡本静嘉堂文庫
武蔵野の面影をよく留める丘陵の一隅にこの建物は建っている。鉄筋コンクリート造2階建てスクラッチ・タイル貼りの瀟洒な建物で、イギリスの郊外住宅のスタイルを濃厚に表現している。静嘉堂文庫は元三菱合資会社の第4代社長であった岩崎小彌太がその父彌之助の収集した日本や中国の貴重な古典籍を永久に保存し更に研究者に公開することを目的に建設されたものである。設計者の桜井小太郎はイギリスで建築を学び、英国風の落ち着いた品格あるデザインを得意とした。岩崎小彌太も明治33年イギリスに留学し、ケンブリッジ大学を卒業した英国通でもあり、両者の呼吸が一致した作品でもある。内部は玄関ホール。ラウンジ、閲覧室、2階に応接室等があり19世紀後半のイギリスのアーツ・クラフト運動の雰囲気を持っている。(東京都生活文化局)
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岩崎家廟堂

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岩崎家廟堂案内
この奥にある青緑色のドームを戴く白亜の建物は、静嘉堂文庫を創設した岩崎弥之助の霊廟として建てられ岩崎弥之助、小弥太をはじめ岩崎家代々の墓である。明治433月、わが国西洋建築の始祖というべきジョサイア・コンドルによって建てられた。コンドルは鹿鳴館、ニコライ堂、三菱1号館なども設計している。青銅の扉に刻まれている中国の二十四孝のレリーフ並びに全面の大香炉は岡崎雪聲の作品である。また森の奥には松形正義の文と書による男爵岩崎君墓碑がある。この霊廟は平成11年東京都により歴史的建造物に選定された。(世田谷区教育委員会)

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岡本静嘉堂文庫正門          大蔵通り

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せたがや百景-岡本もみじが丘

綾錦のような紅葉に松の緑を点々と散りばめた秋景は息を呑むようで多摩川八景(行善寺八景)の一つ「岡本紅葉」とうたわれた。今、開発の手から守ろうとする地元の熱意は強い。(せたがや百景)

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岡本静嘉堂緑地

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岡本静嘉堂緑地
岡本静嘉堂緑地は国分寺崖線の一画にあり、もとは岩崎家の所有する庭園であったものです。昭和20年頃までは庭園とともに維持管理されていたものが、その後人の出入りもなくほぼ自然状態のままにあったため貴重な自然が残されています。地域の貴重な財産として末永くこの緑地を残し、人々が身近に自然にふれるあえる場となることを目指しています。(砧公園管理事務所)






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国分寺崖線の自然
国分寺崖線とは武蔵野段丘の南縁に位置する段丘崖線で、立川市の北東に始まり国立市、国分寺市を通って世田谷区の等々力へと続く高さ10m~20mの崖です。崖線の直下には崖線の武蔵野礫層から湧水によって養われている野川が流れています。かつて崖線の南側には水田、北側には雑木林がありました。国分寺崖線はその地形から開発の影響が他に比べて少なく、東京の区部では武蔵野の自然を偲ばせる最後に残された地域となっています(案内板)

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坂の風景①「馬坂」大蔵通りから瀬田に上ります。右手が瀬田4丁目旧小坂緑地、坂上と坂下に入口があります

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旧小坂家住宅/瀬田
旧小坂家住宅は衆議院議員などを歴任した小坂順造1881-1960)が、昭和12年に別宅として建てたものである。昭和124月の空襲で渋谷区金王町にあった本宅が焼失した後はここを本宅としていた。多摩川沿いの国分寺崖線は自然がよく残り明治から昭和初期にかけて政財界人の別邸が多く建てられた。この住宅もその一つで、崖線の中腹にある湧水と緑を巧みに取入れた屋敷構えを持つ。

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主家は大地上に建てられ主家棟、書斎棟、二階建の寝室棟が雁行型に配置され、全ての棟から崖線越しに多摩川の流れを望む。三棟建物は外観を和風に統一しながら内部は、主家棟は和風その他を洋風とし趣を変えている。主家棟や書斎棟に見られる古民家風の意匠は、別邸ならではの個人の趣向のみならず大正から昭和前期にかけて流行した民家風和風住宅の形式を色濃く反映したものとなっている。当時の政財界人の生活・文化意識を良く表しており、建築史、分化史を知る上で貴重遺構である。また、当時この辺りに多くあった別邸のうち現存するものは他になく、地域史を知る上でも重要である。(世田谷区教育委員会)

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瀬田4丁目旧小坂緑地
緑の生命線である国分寺崖線の斜面樹林の一部であり、園内には区指定有形文化財「旧小坂家住宅」と紅葉と竹林が美しい湧水の流れる庭園があります。ここはかつて衆議院議員などを歴任した小坂順造氏の別邸として利用されていました。多摩川が近く国分寺崖線の緑が多いこの地域は、明治から昭和にかけて建てられた別邸が多くありました。都心から玉川電車で往来できるこの辺りは、当時の財界人の週末住宅として絶好の立地でもありました。昭和12年に建てられた「旧小坂家住宅」は別邸として現存する貴重な近代建築です。木造和風平屋建(一部2階建)で、萱葺き風の古民家を思わせる外観を持ち、南向きの斜面を利用した庭園と一体となった美しい景観を形成しています。また、庭園部分はコナラ、トチノキなどの大きな樹林が武蔵野の雑木林の面影をとどめており、崖面からあふれる貴重な湧水は園内に潤いを与えています。散策路や木道を回遊しながら国分寺崖線のみどりとみずを身近に感んじられる空間となっています。(案内板)

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下山稲荷神社鳥居/岡本町

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下山稲荷神社
祭神は倉稲魂命。多摩川岸に近い丘陵の上の欅椿榎等の古木繁茂せる地に鎮座している。社は南向で1間に9尺。欅造りの小祠ながらかえる股、唐獅子等の彫刻を掘施してあり、古い時代よりの神社との土地の古老の説であるが創立の年月は不詳である。当地の芹田氏に古い時代の鰐口が頚けてあり、祭礼の度に向拝にかけて使用している。祭礼は毎年215日と定め、小字下山の20人の旧農家の人々により講社を結成しており、毎年5人ずつを年番役に当てて、五穀豊穣を祈る初午祭を行っている。(せたがや社寺と史跡)

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川の風景② 静嘉堂緑地下で谷戸川が合流します/下山橋

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丸子川親水公園-下山橋
ここから西約900mにある仙川の水神橋際からはじまる丸子川は国分寺崖線に沿って大田区へと流れています。丸子川は江戸時代初期に小泉次大夫と多くの農民の手により開削された六郷用水の一部で、世田谷では俗に「次大夫堀」とも呼ばれてきました。丸子川親水公園は親水橋からここ下山橋までの区間で、水辺の遊歩道に沿って岡本民家園や静嘉堂緑地が続きます。(きしべの路)


・・・玉川


世田谷区の南西部に位置し周囲を鎌田・岡本・瀬田・上野毛の各町に隣接する。多摩川高島屋ショッピングセンター、東急田園都市線・大井町線二子玉川駅、兵庫島公園がある。Wikipedia
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坂の風景②「慈眼寺坂」慈眼寺経由で下ってくる大山道と交差します/次太夫橋

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親柱のイラスト            次太夫橋の標柱と案内板

治大夫橋
大山道とは大山詣りの道のことで大山は神奈川県伊勢原市にあります。世田谷を通る大山道は江戸赤坂御門を起点とし二子玉川で多摩川を経て伊勢原から大山まで続いています。二子玉川にはここ治大夫橋を渡る大山道と、行善寺の東側を通る大山道があります。(世田谷区)


大山街道慈眼寺坂Rの関連記事はこちらへ(
http://teione.exblog.jp/22627917/

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坂の風景③ 246号・東急線の先で善行寺経由の大山道と交差します/調布橋

善行寺坂

急勾配の行善寺坂を登りきったところに行善寺がある。昔、寺の境内からは多摩川の眺望が開け行善寺八景とうたわれた。行善寺坂はもと大山道の一部だった道で、の街道は八十八坂七曲といわれるほど起伏の多い地形を通っていた。(せたがや百景)

大山街道善行寺坂Rの関連記事はこちらへ(
http://teione.exblog.jp/22650910/

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街道の風景②「南大山道道標」の立つ辻、右折が二子の渡しへの道です。この辻で多摩堤通りからの筏道が合流します/調布橋

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調布橋道標/玉川2丁目
ここの道標は安永6(1777)瀬田村の講中により六郷用水脇に建てられたもので『南大山道、左・西、赤坂道、右・東、目黒道』となっている。この用水前の道は筏道、奥多摩へ帰る筏師たちが利用した。調布橋の名は新しい。(みどころマップ・川崎国道)

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二子玉川周辺の案内図
(紺:丸子川 青:多摩川・野川 青点線:筏道 赤点線:大山道)


by Twalking | 2017-08-17 22:17 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(3)筏道01-宇奈根   

日時 2017.8.13(日)
天気 曇り


このところ天気はぐづつき気味ですが、
予報が晴れでしたので出掛けてみました。
暑いので街中は避けて木陰のあるハケの道へ。

なんだか予報外れたみたいですね~、
でも歩るくには幸いだったかもしれません。
知行院から品川道別ルートと筏道を行ってみます。



・・・喜多見

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街道の風景① 成城から登戸道を知行院門前の分岐へ向かいます/内田橋(次太夫堀)

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門前から南西へ向かう品川道          東名を潜ると宇名根です


・・・宇奈根(世田谷区)

宇奈根という地名については『武蔵名勝図会』という書物には「上古の世には海比(うない)と号せしにや。万葉の古詠などにもありけり。それより唱えを転じてウナニともいいけるや。上古には溝渠をウナニと唱へける由」云々とあります。この溝渠はどぶではなく用水路だろうとされ、平陸の地で昔から農業(陸稲)がさかんだったと思われることからウナニが多くあり、これが転じてウナネになったとする説、宇奈根神(宇迦売神なら稲の神様)という穀物の神様説、畦目(うなめ)、畝目(うねめ)からつけられたとする説など、さまざまです。(世田谷区)

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街道の風景② 筏道はこの一本左側、寺社は右側にあります/荒玉水道道路

荒玉水道道路(都道428号)
杉並区梅里から東京都世田谷区喜多見に至る特例都道(約9km)である。道路の地下には荒玉水道の水道管が埋設されておりほぼ全線が一直線の道路形状となっている。1934年(昭和9年)竣工、当初は歩行者専用道路で1962年(昭和37年)より自動車通行可能となった。水道管保護のため重量制限が設けられており大型車両は通行できず、幅の広い車両の進入を制限するために他道路との交差部にポールが設けられているのが特徴である。Wikipedia

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観音寺山門/宇奈根


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薬滝山修善院観音寺(天台宗)
永正年間(15041521)川越喜多院・実海僧正の創立で、本尊は十一面観音、伝教大師作と伝え、円正寺といい小田原にあった。後、氷川社のかたわらに移築したが天文の頃兵火に罹り、元亀年間(15701573)此の地に再建した。円正寺という寺号が炎上と同音なのを忌み今の名に改めた。墓域に後北条の家臣荒井対馬守治義およびその子孫で、井伊家世田谷領の大場氏とともに代官をつとめた当地の水田開拓者、荒井以謙善応父子の墓がある。境内の大銀杏は樹齢数百年といわれる。(世田谷区教育委員会)

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宇奈根氷川神社鳥居/宇奈根町

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宇奈根氷川神社
祭神は素盞嗚尊。喜多見町、大蔵町のそれと共に氷川三所明神のーで「新編武蔵盟風土記稿」には「小名中通リニアリ、村内ノ鎮守ナリ、本社四尺五寸四方ノ東向、上屋二間半四方、前ニ木ノ鳥居ヲ立ツ、神体ハ白幣、イツノ頃鎮坐セシト云コトヲ伝ヘズ、村内観音寺持」とある。村の鎮守で明治4年村社となった。昭和25年の戦災にあったが同3710月社殿を建立した。境内に樹令数百年を経たと思われる銀杏の大木があるが、地上10m程のところで切断され、そのかたわらから数本の枝が出てまだ樹勢の衰えを見せていない。(せたがや社寺と史跡)

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世田谷百景-宇奈根氷川神社
農村風景をそこかしこにとどめる宇奈根。氷川神社の境内には子ども達の遊ぶ姿を見かけることも多い。村の鎮守様は健在だ。都市化の波でつぎつぎに失われていった村の鎮守の原像を見る思いがする。秋祭りには地区の人総出で大いに賑わう。(せたがや百景)
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常光寺/宇奈根町
日蓮宗身延山末、本尊は日蓮大菩薩、35cm程の木彫坐像である。越後の人・泉蔵院日礼はこの土地の青山氏に頼ったが青山氏は日礼に帰依して堂宇を創建して日礼を開山としたという。寺は昭和20525日の大空襲によってすべて災厄にあい、日蓮の尊像のみかろうじて助けだしたとの事である。元禄年間、喜多見若狭守断絶の際、種々の什物を然るべき所へ配ったといわれるがこの寺に手水鉢、石灯篭が送られた。空襲の時手水鉢は焼けてしまったが、石灯籠だけは焼け残って境内にある。高さ44cm程の小灯龍である。(せたがや社寺と史跡より)

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野川の手前の畑にひまわりが群生していました/ハンカチ公園

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川の風景① 多摩川の東側、畑もありますが住宅地ですね/野田橋 

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街道の風景② 野田橋を渡り宇奈根経由のルートもここで合流。直進が筏道になります/永安寺門前

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宇奈根周辺地図(赤:筏道 茶:荒玉水道道路 青:多摩川・野川)


・・・鎌田


鎌田村は隣接する大蔵村の村域内に18箇所飛地状に立地する小村であった。砧村成立時に大字鎌田になり、東京市編入で世田谷区鎌田町となるもいずれもそのまま飛地状態で存立していた。大蔵町の区域は内部に鎌田町が点在していたほか、岡本町、祖師谷一丁目、喜多見町、宇奈根町の飛地が混在しこれに1912年に神奈川県から編入した久地町、諏訪町(いずれも多摩川の河川敷)が含まれていた。市郡合併で旧大字をそのまま町に置き換えたために生じた飛地存続による弊害を1955年に解消することとなり、大蔵町を三分割して北部に砧町、南部に(新)鎌田町を設置して、(旧)鎌田町および当該各町の飛地を新設三町に振り分けた。その後1971年に実施した住居表示で再度区割りに変更が生じて現在の町域が確定した。
Wikipedia

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街道の風景③ ハケ下から離れ鎌田橋(野川)へ向かいます/吉祥院入口

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二差路を右折             砧南小の向かいに吉祥院

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吉祥院山門/鎌田町

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大聖山吉祥院
縁起によると当寺は天平12年(740行基の開基と伝え、同人の作による地蔵菩薩立像を安置し、東覚山と称していた。本尊は不動明王坐像で開山良弁僧正の作と伝えられている。建武2年(1335)兵乱により堂宇などが焼失し、その後は世田谷吉良氏が当寺を再興するが、天正18年(1590)主君北条氏の没落と共に滅び、以降は無住となった。近世後期、周辺の村人によって伽藍などが建てられ現在の配置となる。また、当寺は玉川霊場第61番札所である。(世田谷区教育委員会)

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「贔屓」さんかな???        六地蔵

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天神社鳥居/鎌田町

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天神社
吉祥院の前にあり境内を接している。菅原道真公を祀る、御神体は束帯姿の道真公で約35cmの木彫坐像、胸にあたるところに梅鉢紋がえがかれている。堂宇は2間半に3間の小堂である。「新繍武議風土記稿」には「除地一段ニ畝、村内吉祥院ノ門前ニアリ、本社一門ニー間半、拝殿ニ間ニー間半、東向ナリ、神体ハ尋常ノ形ニテ長サ五寸余リ、社前ニ鳥居ヲ立、例祭ハ年々九月廿五日、本村ノ鎮守ニシテ吉祥院持、元ハ西寄りノ田間ニアリシヲ近村此処ヘ移ス、故ニ除地ハ其旧地ニアリ、社地ハ吉祥院境内ナリ、末社稲荷・神明合祀」と記されている。昔は人々その能筆ならんことを祈念して社の扉に筆をさげ、祈ったものだが今はその風習も絶えてしまったという。堂宇の右傍に明治35年村の有志によって建てられた菅公千年祭記念碑がある。(せたがや社寺と史跡)

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街道の風景④ この先筏道は多摩川沿いの多摩堤通りを二子へ向かいます/鎌田橋

野川(仙川合流地)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23104580/

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川の風景② ハケ下の方が面白そうなので仙川を上流へ/鳥居田橋


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坂の風景 懐かしい坂道です、坂上は「関東の富士見百景」に選ばれてます/西谷戸橋(仙川)


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せたがや百景-岡本三丁目の坂道
国分寺崖線には多摩川沿いに下る坂道が何本も通っている。岡本3丁目の坂道はなかでも勾配が強く、急な坂をたどるとき国分寺崖線の斜面を実感する。坂上からは丹沢の山々も眺望できる。(せたがや百景)


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川の風景③ 右が仙川、左の細い流れが丸子川です/西谷戸橋

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丸子川(まるこがわ)
世田谷区及び大田区を流れる一級河川。六郷用水下流部分が整備され名称を変えて残っている川である。世田谷区岡本3-25にある湧水を水源とする(世田谷区岡本の透明高速道路より下流に位置する仙川の新打越橋付近で取水され、地下の浄化装置を通った水が丸子川に流されているとの説があるが誤りである)。湧水の量は豊富であり、東名高速道路沿いに細い側溝を流れるのを見ることができる。仙川にぶつかる手前でほぼ直角に曲がり、仙川護岸沿いに蓋付きの細い側溝を流れる。15mくらいすると仙川護岸沿いにコンクリート蓋の暗渠になり、仙川の西谷戸橋付近からは開渠となって水神橋付近仙川から離れる。岡本公園周辺から仙川の西谷戸橋付近は整備された丸子川親水公園として南東へ流れ、世田谷区岡本で谷戸川を合わせる。さらに南東へ流れ、世田谷区野毛付近で矢沢川と交差し、大田区田園調布付近で多摩川に合流する。Wikipedia

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次大夫堀流路図(大蔵付近)/説明板
(紺:六郷用水 青:野川・仙川・谷戸川 赤:品川道 橙:筏道 紫:登戸道)


by Twalking | 2017-08-16 09:50 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(2)狛江~田園調布 02-等々力   

日時 2017.7.29(土)
天気 曇り


瀬田から先は環八沿いの住宅地ですから、
街道歩きの妙味はあまりありませんが、
満願寺、九品仏などの古刹は外せない所です。

それに等々力渓谷ですね~、ここは素晴らしいです。
気分を変えるのにハケ下の筏道に寄りましたが
ここも面白いところだと思います。


・・・上野毛

世田谷区南西部に位置し玉川地域に属する。北で瀬田、東で中町、南で野毛、南西で多摩川を跨いで川崎市高津区北見方・諏訪、西で玉川と隣接する。駅周辺と環八通り沿いに商店街があり、南の多摩堤通り沿いが河川敷となっている他は主に住宅地として利用される。古く「ノゲ・ニゲ・ヌゲ・ナゲ」は「」を意味する言葉。当地が国分寺崖線にあり、その崖の上に当たる地域である事から「上野毛」とされた。
Wikipedia

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街道の風景① 環八の多摩美先を左折し旧道に入ります/上野毛

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上野毛通りと交差します。この道は二子からハケを上り目黒・渋谷に向かう鎌倉街道中道になります/上野毛交番裏

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川の風景① 上野毛から緩やかに下ると矢沢川と交差、この先が等々力渓谷です/等々力通り

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矢沢川                この先を右折し等々力駅先へ


・・・等々力


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等々力は江戸期以前は荏原郡等々力村であった。のち周辺の7ヶ村(用賀、瀬田、上野毛、下野毛、野良田、奥沢、尾山)と合併し玉川村(現在の世田谷区玉川地域)の一部となる。1923年(昭和7年)東京市域拡張時に世田ヶ谷町、駒沢町、松沢村と合併し「東京市世田谷区」となった。等々力村・玉川村時代、村役場は一貫して等々力にあった。世田谷区成立後は支所となり現在は玉川総合支所が置かれる。等々力の名は等々力渓谷に流れ落ちる「不動の滝」の轟く音に由来するという説が有名だが、ほかにも渓谷の崩落する音から来たという説、兎々呂城(「とどろじょう」のよみが「とどろき」と変化/現在の園芸高校の地)を由来とする説等がありいずれが正しいのかは詳らかではない。Wikipedia

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満願寺山門/等々力


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満願寺
本尊は大日如来(12寸の木像〉で真言宗智山派、京都智積院の末寺である。開山は文明2(1470)定栄和尚、開基は吉良氏で、深沢兎々巴城内にあったが天文18(1549)2世栄心和尚の代、現在地に移した。等々力の地名はこの兎々目域から出たという伝えがある。江戸時代でも御朱印寺領13石を与えられていた。第9世実祐和尚は柳沢出羽守に召され易経の講義をしている。本堂は宝暦13(1763)に再建したが昭和43年耐火建築に改築しつつある。本掌の額は細井広沢のむすこ九皐の筆である。寺内には細井広沢はじめ一族の墓があり、寺宝には広沢の書や版木等がある。

細井広沢
万治元年(1658)108日掛川に生れ寛文8(1668)11才で父に従って江戸に来、経史を林信篤に、和歌を清水谷実業に、兵学を木工源右衛門に、剣を堀内源太衛門、柔術を渋川伴五郎、槍術を南部宝蔵院、射法を石螢林斉に、騎術を大坪道雲に、天文測量を金子立運に学んだ。元禄6(1693)柳沢吉保に200石で用いられ、 15年辞職し深川八幡前で子弟の教授にあたった。広況は書家として時代を代表する有名人であった。大石良雄は主君の復讐の計画を広沢に告げ、打入の時に彼が用いた「君仇不倶戴宍」のことばはその助言によった。堀部安兵衛とは剣の同門で討入前夜には詩を贈って激励した。広沢は晩年多摩川を愛し、蕉林庵玉川の号を用いた。享保20(1735年〉江戸青山で逝去した。しきたりとして亡父の碑文を世つぎの人が作ることになっている。広沢の命日1223日には最近まで土地の青年会で試胆会を行なっていた。末寺には等々力不動堂、善養寺、金剛寺、覚願寺、真福寺がある。(せたがや社寺と史跡)


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満願寺薬師如来堂              満願寺沿いの庚申塔

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世田谷百景-等々力の満願寺

吉良氏によって創建された寺で等々力不動はこの寺の別院である。境内の建物は新しいが、整った荘厳さを持っており身がひきしまる。柳沢吉保に仕えた学者細井広沢の墓があり国の史跡に指定されている。(せたがや百景)


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江戸名所図会 満願寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


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玉川神社鳥居/等々力 

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玉川神社 
祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解命である。文亀年間に世田谷城主吉良頼康が勧請したものと伝え、明治41熊野神社の社号をいまの玉川神社に改め、字上原にあった伊勢宮(天祖神社)諏訪神社、字小山根にあった御嶽社を合祀した。なお、本社には天照大神・日本武尊、少彦名命、建御名方命が合祀されている。玉川神社の総本社である熊野新宮はもともと熊野に移住した出雲族が、郷里の氏神であったところの島根県八束郡八雲村字熊野にある熊野神社を分祀したもので、微々たる存在だったが平安中期に起った熊野信仰の隆盛と共に、朝廷以下一般の民衆の支持により全国的に信仰せられ、鎌倉時代には山伏や先達により全国に熊野神社が勧請され、特に武士に厚く信仰されるようになり、代々社寺を尊崇した吉良頼康も当村の流行でこの熊野神社を創立したものと思われる。

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境内にある「豊田正冶翁頌徳碑」の石碑は昭和29年に玉川全円耕地整理組合によって建てられたものである。豊田翁はこの地累代の名家に生まれ、学を杉浦重剛先生に受けその思想を実践した人で、玉川村村長として将来の郷土開発事業として玉川村全域の耕地整理、道路整備(宅地造成)に時価にして数十億の巨費と32年の歳月をかけいろいろな妨害や障害をのりこえて昭和32年に完成させた。現在、玉川村の人々が郊外住宅地として恩恵を受けているのは翁のおかげである。なお、その石碑と並んでいるのは、この耕地整理の技師、高屋直弘氏の留魂碑である。玉川神社の真南、等々力1-25にあった八幡社は玉川神社の管理であったが昭和39年玉川神社に合祀された。(せたがや社寺と史跡)


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川の風景② 清流と緑のオアシス、生き返ります/矢沢川

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等々力渓谷
等々力には23区内唯一の渓谷である等々力渓谷がある。等々力駅から等々力渓谷までゴルフ橋を通って徒歩2分ほどの場所にある。西側を矢沢川が流れこの川が渓谷を形成している。目黒通りが傍を通り、環八通りが渓谷の上に蓋をするように通っている。渓谷地内には古墳時代後期から奈良時代(7世紀後半-8世紀)のものと推定される横穴式墳墓があり「等々力渓谷横穴古墳」と呼ばれている。不動の滝の近くには平安時代に創建された「等々力不動尊」がある。Wikipedia

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等々力ゴルフリンクス
玉川野毛町公園とそこに隣接する国土交通省住宅、都営住宅の敷地は、戦前、目黒蒲田電鉄の経営する「等々力ゴルフリンクス」というゴルフ場であった。等々力駅前のゴルフ橋はその名残である。1931年にオープンしたが戦争の激化により1939年に政府に買収され内務省防空研究所が置かれた。戦後、一部に引揚者住宅が建設された時期もあったが環状8号線整備による道路拡幅に伴って施設の再配置が実施され、現状のように三分割されて今に至っている。Wikipedia

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等々力渓谷案内図

武蔵野の道-等々力渓谷の関連記事はこちらへhttp://teione.exblog.jp/21873742/


・・・尾山台

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世田谷区南部に位置し玉川地域に属する。西から北で等々力、東で奥沢、南東で玉川田園調布、南で大田区田園調布、南西で玉堤と接する。東急大井町線尾山台駅が置かれている。江戸中期には「小山村」とある。明治中期、同じ荏原郡にある小山(現在の武蔵小山)と紛らわしくなるため「尾山」と漢字を充て変えた。小山は国分寺崖線の高台・岡を指すものとされる。Wikipedia

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街道の風景② 等々力駅先を右折して住宅街を真っ直ぐに南へ/尾山台小

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寮の坂

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寮の坂由来
松高山傳乗寺は区内における古刹であり、その縁起は遠く後伏見天皇の正和5(1316)と刻まれた板碑の発掘によっても知られるものである。往昔傳乗寺は坂の東側台地に所在し、かつ本堂とならんで僧侶の学寮が建てられていたためにこの坂道を土地の人は寮の坂と呼んでいる。坂上にある民家の屋号が堂の上と通称されていたことと考え合わせるとこの坂の名称の由来が思い起こされる。

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なお、寮の坂の東側にある雙葉学園を抱く盆地は室町時代に籠谷戸と呼ばれる入江で多摩川の水が滔滔と打ち寄せ、時の奥沢城主太平出羽守は上流から運ばれた武器、兵糧の類を籠谷戸の寮の坂あたりに陸揚げして城へ運び入れたとも言い伝えられている。さらに時代は下り江戸時代に入ると、川崎泉沢寺と奥沢浄真寺の中間軍事拠点として小山傳乗寺がこれに当り、寮の坂は軍用道路として兵馬の往来がはげしかったそうである。(石碑)

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宇佐神社鳥居/尾山台


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宇佐神社
祭神は応神天皇で例祭は923日、境内末社として稲荷神社(倉稲魂命)御嶽神社(大己貴命・日本武之命・少名彦名之命)を祀る。村内に散在したものを明治年間に合祀したものである。神殿には狐塚から発掘した刀・土器片などを奉納してあるという。「新編武蔵風土記稿」によると「除地二段、村ノ中央一字根通リノ内ニアリ、社九尺ニ二間、南向、中二又宮作リノ社アリ、前二鳥居ヲタツ、両柱ノ間七尺、元禄十二年ノ夏、七世精蓮社進誉貞悦ノ時再造セントミエテ、ソノ時ノ棟札アリ、祭礼九月二十三日二行フ、伝乗寺持ナリ、注連引松二株アリ、向ヒテ鳥居ノ右ニアリ、囲尺一丈六七尺モ有ベシ、末社稲荷社向テ右ニアリ、上屋一間ニ一間半、神明社末社ヨリ東北ノ角ノ山ニアリ、南向ナリ」とある。「新編武蔵風土記稿」に大塚・字堂ノ上ニアリ、事跡ツマビラカナラズ」とあるものであろう。かつてこれを開墾した際埴輪・土偶・刀剣の類を出したという。前方後円墳であろうという。(せたがや社寺と史跡)

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伝乗寺山門/尾山台


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伝乗寺
次太夫堀(六郷用水)のほとり北側にある。松高山法生院と号し浄土宗で川崎市小田中の泉澤寺の末、開山は住誉良公和尚という。本尊は阿弥陀如来で木の坐像3尺(約1m)ばかりで板碑を数多く存している。『新編武蔵風土記稿』によれば「除地三段五畝、字根通ニアリ、(中略)本堂ハ六間二四間、南向ナリ。(中略)表門両柱ノ間9尺」と記している。寛政10年(1798)の西村和泉守作になる村念仏話中の伏鉦がある。享和2年(1802)に「さいの神」の火が移って焼失したことがあった。本堂は文化4年(18073月に庫裡は享和2年(18022月に建てられている。本寺の地蔵菩薩立像は頭部のみ古作で一木で保存もよく美しい。藤原期のもので胴体は後補である。小阿弥陀如来座像は鎌倉期のものである。(せたがや社寺と史跡)

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仁王門                   五重塔


・・・奥沢

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貞和頃から吉良氏の所領となり奥沢城が築かれた。江戸時代には荏原郡奥沢村となり、城の跡地には浄真寺が創建された。1622年(寛文2年)西の開墾地が奥沢新田村として分村した。天保頃には奥沢村が奥沢本村、奥沢新田村が奥沢村と称されるようになった。地名は吞川の支流九品仏川水源の湿地帯であることを指す。Wikipedia

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九品仏浄真寺参道/奥沢

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総門

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仁王門
建立は寛政5年(1793)で別名紫雲楼とも呼ばれ楼上には阿弥陀如来と二十五菩薩が安置される


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九品仏浄真寺
本尊は釈迦牟尼仏で浄土宗である。延宝6年(1678)珂碩上人が開いた寺で知恩院の末である。寺の結構がコの字型になっており、総門と本堂が反対を向いて並んでいるのは珍らしい。本堂には上人のほりあげた釈迦牟尼仏を中心に、右に善導大師、左に法然上人の像を安置している。中でも右側にある珂碩上人像は乾漆製の芸術価値の高いものである。堂の隅にはぴんずる尊者像がある。

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本堂は総欅造りで昭和42年修築しかや茸屋根を銅茸にかえた。本堂前にある三つの堂にはそれぞれ3体の丈六の阿弥陀如来9体があり、右から中品、上品、下品の位があるので九品仏といわれ本堂の此岸に対して彼岸をあらわしている。すべて珂碩上人と弟子珂憶上人の合作といわれている。4年毎(オリンピックの年)の81617日には「お面かぶり」の行事が行われる。これは釈尊が漫殻に入り、阿弥陀如来に迎えられて彼岸にわたる意味をあらわしている。山門は紫雲楼といい、楼上には25菩薩の像がある。鐘は、宝永5年(1793)世田谷領の深沢・谷岡又左衛門の寄進で、作は神田鍛冶町の河合兵部郷藤原周徳である。堂屋も欅造りで欄間には十二支がはられ北に子、南に午がほられている。寺宝には国宝級のものが多いが飛び茶釜は有名である。境内には天然記念物のカヤ、大銀杏、ケヤキ等あるが、ケヤキは枯れてしまった。上品堂の両側には菩提樹がある。境内の周囲の土塁は旧奥沢城の城塁といわれている。(せたがや社寺と史跡)

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三仏堂

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九品仏珂碩上人(161794)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられその彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも18歳で発願、51歳のとき完成した九体の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、未代衆生化益の尊い御仏像である。九体とも文化財の指定をうけ、上品堂(中央)・中品堂(右)・下品堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三体ずつ安置してある。上品堂のうち中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。

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中品堂、下品堂と同様でしたがって阿弥陀さまには上品上生から下品下生まで九つの名があり、それぞれ手の位置および印契が異なっている。なにゆえに阿弥陀さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、

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三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から段々念仏によって身と口と意の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃寺(九体寺)とともにわが国における東西の九品仏仏像の双璧である。


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開山堂                  閻魔堂

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江戸名所図会 奥沢村
浄真寺九品仏 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

創建の由来
当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念仏院浄真寺」といい、浄土宗に属し境内約12万m236千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂碩(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年(1678)に奥沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経の説相によって堂塔を配置しこの寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を銅板葺に改修した。(説明板)

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奥沢城
奥沢城は吉良氏によって築かれたと言われる平城。世田谷城出城として用いられた。昭和62年(1987)に世田谷区の区指定史跡に指定されている。天文-永禄年間頃、吉良頼康により築かれ、家臣の大平氏が守った。天正18年(1590)小田原征伐の後廃城となった。延宝6年(1678珂碩(かせき)により九品仏浄真寺が開かれた。周囲の平野部に南の台地から北方に突き出た舌状台地上に占地し、台地上の九品仏浄真寺境内に方形の郭跡が認められる。九品仏駅前から台地東麓に掛けて城郭由来の地名が残ることから、城域は九品仏駅付近から台地端まで拡がっていたものと考えられる。また、現在は開発が進んで失われたが、城跡周囲には近年まで堀跡及び「奥沢の底なし田圃」と言われていた深田が拡がっていた。往時はこの堀と北麓の沼地とで、三方の守りを固める構えとなっていたものと考えられる。Wikipedia


・・・田園調布/
大田区


1918
年(大正7年)に実業家渋沢栄一らによって立ち上げられた『理想的な住宅地「田園都市」の開発』を目的とする田園都市株式会社により開発、1923年(大正12年)から分譲された地域であるである。現在の大部分の地域が第一種低層住居専用地域と第2種風致地区であり東京でも有数の高級住宅街である。大田区田園調布以外に田園調布本町(ほんちょう)、田園調布南の住所表記もあるが、旧「大森区田園調布」に相当する地域で、大田区田園調布の南側に位置する。また隣接する世田谷区側に玉川田園調布の表記があるが田園都市株式会社が多摩川台住宅地として田園調布と一体に造成・分譲を行った地域である。Wikipedia

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街道の風景③ この先東横線を右折環八にでます。今回はここまで、田園調布駅に向かいます/玉川田園調布

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すっかり変わりましたね・・・/田園調布駅

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こちらが北口             かつての駅舎が復元されてます

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次大夫堀流路図(2)/説明板
(青:六郷用水・野川・仙川・矢沢川 赤:品川道 橙:筏道 緑:大山街道 紫:中原街道)

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品川道(狛江~田園調布)ルート図

by Twalking | 2017-08-09 10:17 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(2)狛江~田園調布 01-大蔵   

日時 2017.7.29(土)
天気 晴れ


曇りの予報なので出かけました。
品川道を狛江から田園調布あたりまで。
この辺りは登戸道や大山道で尋ねたところです。

でも、道筋が違うのでまた感じが違います。
国分寺崖線の上を行く品川道、ハケ下が筏道ですが、
ハケ上を行ってみました。


・・・東和泉(狛江市)

狛江市の南部に位置し小田急線小田原が通過している。北から時計回りに和泉本町1丁目、岩戸北3丁目・岩戸南1丁目、緒方134丁目、多摩川を挟んで川崎市多摩区登戸、元和泉31丁目と接する。Wikipedia

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街道の風景① 狛江通りの1本西側に旧道が残ります/東和泉

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庚申塔のある二差路を左へ       合流地に「品川道」の標識/狛江三叉路

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街道の風景② この植え込みは六郷用水の名残のようです/一の橋(世田谷通り)

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一の橋へ/狛江三叉路         二の橋を右へ/世田谷通り

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慶岸寺山門/
岩戸北


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慶岸寺
除地、境内共三段、中央より三町を隔てて北の方にあり、榮氷山道安院と號す、浄土宗、郡内喜多見村慶元寺の末、開山然度正保二年四月十五日遷化、開基は村民河合氏とのみ傳へり、客殿東向、七間に五間半 本尊弥陀木の坐像一尺五寸を安せり。地蔵堂。客殿の東にあり、二間に一尺西向き本尊地蔵は木の坐像一尺八寸、厨子入にて彩色を施せり』(新編武蔵風土記稿)


・・・喜多見(世田谷区)

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街道の風景③ 二差路に念仏車と庚申塔の祠、品川道は直進です

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念仏車/喜多見
旧岩戸村(現東京都狛江市岩戸)とのに近い「いかだ通」と「中通」の交差した地点にある。念仏車とは念仏を唱えながら廻すものであり、一回廻す毎にお経を一巻読んだと同じ功徳があるとされ、念仏の功徳をより効率良く広めるものとして造立されたと考えられる。当地の念仏車には石造四角柱の上部に六角形の車輪が取り付けられており、各面に六字名号の各字が刻まれている。銘文によるとこの念仏車は文政4年(182111月喜多見郷の「女念仏講中」によって建てられた。

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念仏講は女性のみによって構成される場合がままあり、このような念仏講による地蔵等の造立例が区内でも幾つか認められる。しかし区内で近世以前に造立された念仏車の遺例は他に見られないのでこの念仏車は近世世田谷の女性による信仰の遺跡としてはかなり貴重な例といえる。またこの念仏車の傍らの小祠には元禄5年(1692)の庚申塔、並びに享保4年(1719)の地蔵が安置されており、近世の喜多見村における民間信仰の面影を今に留めている。(世田谷区教育委員会)

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知行院山門/喜多見

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龍寳山常楽寺知行院
本尊は薬師如来で延暦寺の末寺、文明頃(146987)の草創で天正16年(1588)頼存法印が中興開山といわれる。喜多見若狭守勝忠が館の鬼門除けの祈願所として不動明王、閻魔大王をもあわせ祀り、除地若干を寄進した。また
須賀神社別当寺でもあった。慶安2年(1649)江戸幕府より寺領八石二斗余の朱印状を受け幕末におよんだ。明治6年本堂を喜多見小学校(現在の砧小学校)の仮校舎として使用した。(世田谷区教育委員会)

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街道の風景④ 知行院門前で登戸道と交差します/喜多見


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二差路を直進             多摩堤通りを右折し新井橋へ

登戸道(喜多見)の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23022006/


・・・大蔵


『江戸名所図会』は延暦期に武蔵国守兼大蔵卿石川豊人が居住していたことを由来とする。1240年(仁治元年)安達景盛次男兼周石井郷を拝領して石井氏を名乗り、現在に至るまで旧家として残る。永享の乱で鎌倉を逃げ延びた二階堂盛秀の子秀高(清仙上人)が1490年(延徳2年)鎌倉大蔵ヶ谷にあった永安寺を同じ地名のここ大蔵再建した。16世紀には吉良頼康の所領で1557年(弘治3年)大平氏に給付された。1633年(寛永10年)彦根藩領となる。江戸時代後期には国学者石井至毅を輩出した。1889年(明治22年)砧村の大字となる。1936年(昭和11年)に世田谷区が成立した際、大蔵町となる。
Wikipedia

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川の風景① 野川を渡ります、上流側の風景です/荒井橋(多摩堤通り)

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東名を潜ります            先を左折して永安寺へ


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永安寺山門/
大蔵


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永安寺
当寺院は、元々当地に建立されたものではなく室町時代に鎌倉公方となった足利氏満 (足利基氏の子)が没したのち、その菩提寺として足利氏満法号から「永安寺」と称した寺院を、応永5(1398)鎌倉の二階堂大蔵谷の地に建立したものが起源になっている。開創当初は天台宗ではなく臨済宗で読みも「ようあんじ」であった。その後鎌倉公方4代目であった足利持氏が永享の乱で敗れ永享11(1439)にこの永安寺において多くの家臣とともに自害した。その後この永安寺も廃れたが、持氏の遺命で家臣であった二階堂信濃守の子で清仙上人が延徳2(1490)に鎌倉の大蔵谷に似た地名であった武蔵国中丸郷大蔵村(現在の世田谷区大蔵)の地に寺院を再建し、名前も同じ「永安寺」とした。これが当寺院の直接的な起源である。その後、天正年間に良深大和尚によって臨済宗から天台宗に改められた。また、明暦年間に法印乗海大和尚によって本堂などが整えられて中興され、現在の永安寺の基礎と言えるものが出来た。現在の本堂は昭和に入ってからで1960年のもの。本堂左手の墓地には江戸幕府書物奉行石井至毅一家累代の墓がある。Wikipedia

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本堂の特色
天台宗本堂堂としての特長が内陣の来迎柱や内陣と外陣の大虹梁(だいこうりょう)によく表れています。平面形式の大きな特色は柱と柱の間を一間六尺(約1.82m)ではなく、二間十五尺(約4.55m)の半分7.5尺を採用しているためとても伸びやかで明るい空間になっています。(説明板)

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不動堂(旧薬師堂)          開山堂長春殿

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せたがや百景-
大蔵の永安寺

山門を入ると樹齢数百年といわれる大イチョウがある。永安寺は室町時代鎌倉の大蔵谷に建てられたものが、地形も地名も似たここに再建されたと伝えられている。本堂右側には江戸幕府のころ書物奉行を務めていた石井一族の墓がある。6代目兼重(かねしげ)は世田谷地域での図書館の始まりとなった「玉川文庫」を創ったので知られている。(せたがや百景)


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大蔵氷川神社鳥居/大蔵

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大蔵氷川神社
祭神:素盞嗚尊 例祭:102
暦仁元年(1238)に江戸氏が埼玉県大宮市の氷川神社を勧請したものと伝えられる。もと大蔵町の永安寺別当であった。永禄8年(1565)の棟札には「武蔵国荏原郡石井土郷大蔵村氷川大明神第四ノ宮」と記されていた。明暦2年(1656)に再建され文政(1818-30)の初めにも本殿および拝殿が再建された。(世田谷区教育委員会)

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大蔵氷川神社本殿並びに棟札
現存する最も古い年記のある棟札は何の目的で奉納されたのかは不明であるが、明暦2年(1656)のもので、これを含めて11枚の棟札がありうち社殿造営に関するもの4枚、鳥居に関するもの4枚、その他奉納金や上棟祭などに関するものが3枚となっている。社殿造営に関しては延宝3年(1675)、元禄6年(1693)にそれぞれ「氷川大明神社頭一宇」と記された棟札が一枚ずつあり、その後文政3年(1820)の幣殿建立と同7年(1824)の本殿再建の棟札がある。幣殿は現存していないが現在の本殿はこの文政七年再建のもので昭和63年に再建された社殿の中に納められている。社殿の造営関係の棟札の他に鳥居の造立やその他の奉納に関する奉納札がある。うち2枚は木製の鳥居の造営と修復について、他2枚は寛政7年(1795)の石華表(石鳥居)と石灯籠、湯立釜の奉納札、文化8年(1811)の石華表とその額、石灯籠の奉納札である。その他にも文化8年(1811)には奉納金として三両三分が納められその金子を元に土地を買い求めていることが記された奉納札などが残されており、これらの一連の棟札は社殿の造営のみならず村社としての氷川神社の変遷や当時の庶民の信仰を知ることができる貴重な史料である。本殿は一間社殿造の様式を持ち屋根は柿葺、総欅造りである。正面に向拝が配されその下には木階五級が付けられる。木階下には浜縁が三面に廻り身舎の四周には幅2尺の大床が付く。装飾は白木造りで、龍の丸彫をはじめ鮎や賢人の浮彫、籠彫が施されており社殿に華美な彫刻を施すという時代的特徴を良くあらわした建物である。棟札により建築年代のほか上平間村(現川崎市)の大工渡辺喜右衛門源棟暁が造営にあたり彫刻は渡辺徳次郎源棟績により行われたことが判る。このように本殿は江戸時代後期の時代的特徴をあらわし、一連の棟札は社殿の造営や神社の変遷を知るうえで貴重である。(世田谷区教育委員会)

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板絵着色大蔵氷川神社奉納絵図
奉納絵図は画面の下方を六郷用水(次大夫堀)が流れ、中央やや右よりに氷川神社社殿その前面に幟と二基の鳥居、画面左横には永安寺本堂や庫裏、観音堂の姿が描かれている。さらに鳥居に向かって右横に堀で囲まれた草葺の農家と土蔵が描かれているが、これが大蔵村名主を勤めた安藤家の屋敷である。六郷用水流域には川で洗い物をする婦人の姿や、子供をつれた村人らが描かれのどかな田園風景が描写されている。絵図背面の木地には寄進社29人の名と明治7113日の年紀が墨書され幕末から明治時代初年頃の情景を描いたものと推定できる。長期間社殿に懸けられていたため彩色の剥落が甚だしいが、墨線は良く残りまた胡粉・群青・緑青・茶などの顔料が幾分認められ当初はかなり鮮やかであったことが窺える。絵図の作者はわからないが描写は専門の絵師の筆とは見えない。いわゆる民画風の素朴な筆法で描かれ、たくましい墨線が随所に残る明治時代初期の民間風俗画の典型を示す。大蔵村民が寄進したためもあって画題に豊かな現実感があり、昔日の大蔵本村一帯の地勢を窺わしめるものとしてもまた貴重な資料である。(世田谷区教育委員会)

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街道の風景⑤ 品川道は永安寺裏の新坂を登ります、筏道はハケ下を直進します



・・・岡本

地名の岡本は長円寺の山号の岡本山(こうほんざん)からとって「おかもと」にしたとする説、鎌倉時代の武将木曽義仲に属していた岡本次郎成勝の出身地であることから付けられたとする説、丘陵起伏の多い地であることから岡本とつけられたとする説などがあります。(世田谷区)


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川の風景② 下ると仙川、ハケ下を流れます/清水橋

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仙川の清水橋を渡ります        庚申塔の祠を右折

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街道の風景⑥ なかなかいい道です。この先は東名沿いに岡本へ向かいます/大蔵運動公園下

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東名を渡り左折            下ると谷戸川の一の橋

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袂に庚申社が祀られています。
石碑に「当社の縁起は定かならざれども、新編武蔵風土記稿に庚申坂の名を記し、石像風化の状などより推して近郷屈指の古祠たる疑いなし」「祠前の道は耕地整理施行前には、東に庚申坂を登れば大山街道に通じ、西に庚申橋を渡れば府中方面に至って往来繁く、堂宇自ら道標として諸人頗る重宝せりと伝う」と記されています。

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川の風景③ 谷戸を流れる谷戸川、岡本は坂の多い街、面白そうです/四の橋

谷戸川

世田谷区を流れる河川。祖師大蔵駅周辺から南流し、砧公園を貫流、世田谷区岡本で丸子川に合流する。コンクリート護岸で整備されている。Wikipedia)

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長円寺境内/
岡本

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長円寺
岡本山安養院長円寺、新義真言宗智山派満願寺末、本尊は大日如来、木彫坐像。開山・開基は寺伝が失われてわからないが中興開基快誉は元文3(1738)1117日に寂している。現在の堂宇は昭和415月の建築になる。境内に門人らが建てた榎本金六の墓がある。金六は筑後(福岡県〉久留米藩の関流六伝藤田閑海の門人で和算の塾を聞き多くの門人を指導した。彼に学んだものはかなり広範囲で,横根村瀬田村用賀村喜多見村大蔵村経堂村奥沢村等々力村鎌田村等世田谷南西部9ケ村に及んでいる。法名春峰道悦信士弘化2(1845) 18日に没している。堂宇内に岡本村信者の寄附した元禄4629日銘の小梵鐘がある。高さ54cm直経34cm(せたがや社寺と史跡)



・・・瀬田

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街道の風景⑦ 大きな木とお地蔵さん、旧道の感じは残ります/瀬田 

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お地蔵さんの祠            環八を右折

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街道の風景⑧ 瀬田陸橋から西を望みます。右手が義眼寺経由、左手は行善寺経由の大山道です

大山街道善行寺坂Rの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22650910/

大山街道慈眼寺坂Rの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/22627917/



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資料ファイル

六郷用水
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永安寺へ向かう品川道に次大夫堀跡が残ります/大蔵


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次大夫堀(六郷用水)の由来
慶長2年(1597)から15年もの歳月をかけて慶長16年(1611)に完成した次大夫堀は、多摩川の水を和泉村(現狛江市)で取り、野川・仙川などの河川と合流し多摩川沿いの武蔵国荏原郡世田谷領14ヶ村(和泉・猪方・岩戸・喜多見・大蔵・鎌田・岡本・瀬田・上野毛・下野毛・等々力・小山・上沼部・下沼部)を通り、下流の六郷領(現大田区)に注いでいました。次大夫堀は江戸の初め江戸近郊の開発を進めた徳川家康の命により、幕府の用水奉行小泉次大夫吉次の指揮・監督によって開削され、世田谷地方における最初の農業用灌漑用水路です。主に六郷領35ヶ村の水田開発を目的とした水利事業「六郷用水」と命名されましたが、婦女子の労働力に頼ったといわれる工事のため俗名「女堀」とも呼ばれていました。一方で世田谷地方の人々は小泉次大夫の功績を称えて六郷用水とは呼ばずに独自に「次大夫堀」と呼んでいました。

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全長23km、川崎側の煮二ヶ領用水との同時平行工事のため長期にわたる難工事となり、沿岸の農民の扶役も相当過重だったようです。しかし世田谷領、六郷領併せて49ヶ村は新田の造成等により大幅に村高が増加し大きな恩恵を受けました。このような由緒ある歴史を持ち玉川八景などにも謳われた美しい環境に流れていた次大夫堀も、戦後の急激な都市化によってその役割を終え、一部が「丸子川」と改称されて僅かに往時の面影を残すのみです。(世田谷区教育委員会)

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かつての六郷用水路(紫:六郷用水 青:多摩川)

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世田谷近辺の流路図
(紺:六郷用水 青:野川 赤:品川道・筏道 黄:登戸道 緑:大山道 橙:甲州街道・中原街道)

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次大夫堀流路図/説明板
(青:次大夫堀・野川・仙川・谷戸川 赤:品川道 橙・筏道 紫:登戸道 緑:大山道)

by Twalking | 2017-08-06 12:14 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(1)府中~狛江-03 狛江   

日時 2017.7.21(金)
天気 晴れ

多摩川団地の通りは抜け道としてよく通りましたが、
この道のハケ上が品川道だったんですね。
住宅地の中を狛江駅に通じています。

この一帯は古墳や伊豆美神社、泉龍寺など
由緒ある古刹が多く、見所が豊富です。
いい森が残り、散策路としては秀逸だと思います。


・・・国領町(調布市)

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街道の風景① この先の信号を右折しすぐの道が旧道です/多摩川住宅入口(品川通り)

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旧道は西側の狛江通りと並走し住宅街を狛江駅へ向かいます


・・・中和泉(狛江市)

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山谷庚申塔/中和泉
この庚申塔は狛江市に25基残っているもののひとつで、本尊は青面金剛といい右側が宝永元年(1704)、左側が文化元年(1804)に建立されたものです。宝永の塔の青面金剛は合掌し斧・矢・索(縄)を持っており、他の青面金剛が持っている矛・宝輪ではなくそのかわりに斧や索を持つ例は珍しいとされています。開墾・五穀豊穣を祈願したのかも知れません。上部左右には日月、青面金剛像の下には大きな三猿、基部には蓮の葉と蕾が掘られています。そして「奉造立庚申像一尊武州多麻郡和泉村 敬白/千時宝永元甲申天霜月良辰同行三十壱人」の銘があります。

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庚申とは干支の「かのえ・さる」を指し、60日ごとにめぐってくる庚申の日には夜を徹して庚申様に長寿を願う行事を行ってきました。これを庚申待ちまたは庚申講と言います。この行事は中国の道教に由来しており俗習として日本に伝わってきました。またこの地域は江戸時代より山谷(さんや)とよばれており、山谷庚申はその地名とともに今でも脈々と受けつがれています。銅板葺きの庚申堂が完成したのは平成5年です。現在は長寿・家内安全・商売繁盛・交通安全などを祈願する場所になっています。(山谷庚申講)


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右は万葉通り、左へ          その先が2ルートの分岐点

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街道の風景② 分岐を直進する道筋、前方に駅のビル群が見えます/和泉児童館西


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街道の風景③ 分岐に庚申塔があります、右折して伊豆美神社へ向かいます/中和泉

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中和泉4丁目の文字庚申塔
現在は品川道にそった駐車場の隅にありますが、以前は道を隔てた東側の角にありました。正面には「庚申塔」という文字が大きく彫られています。右側面に「右地蔵道/願主/栗山栄五良」左側面に「/江戸青山道/安政58月日」台座正面には横書きで「西府中道」とあります。地蔵道は泉竜寺子育地蔵参詣道ということです。この三叉路や十字路に立てられる庚申塔は道しるべが記されることがあります。(狛江市文化財)

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伊豆美神社大鳥居/中和泉

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伊豆美神社参道

伊豆美神社鳥居
この鳥居は高さ2.65mで、柱の刻銘により江戸時代の慶安4年(1651)に石谷貞清が建立したことが知られ、市内に残る最古の石造鳥居です。石谷貞清(15941672)は和泉の一部を領していた石谷清正で島原の乱、由井正雪の乱などに手柄があり江戸町奉行などを勤めた旗本です。(狛江市教育委員会)

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伊豆美神社
当神社は宇多天皇寛平元年920日北谷村字大塚山に六所宮として鎮座し奉る。天文19年多摩川洪水の為地陥欠し同21年現在の境内に遷座し奉る。明治元年伊豆美神社と改称す。徳川家康幕府を江戸に開きし後此の地を領せる井伊、石ヶ谷、松下の諸家より毎年920日恒例として金穀若干を奉奠せられたが明治維新の際廃藩置県の結果廃止となった。明治168月郷社に列せられ同429月供進神社に指定された。昭和20年大東亜戦争終結後神社制度に改革が行われ宗教法人伊豆美神社となった。大国魂大神は慈悲の心深く福の神、縁結び、医薬の神として御神徳高く昔から一般国民が深く崇敬致して居ります。(北多摩神道青年会)

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神楽殿                参集殿

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井伊直弼敬慕碑 
井伊直弼公敬慕碑は明治34年(1901)に建てられました。井伊直弼を顕彰する記念碑として最初に建てられたもので高さは約4mになります。この石碑は開国を成し遂げた井伊直弼の功績と井伊家に儒学者として仕えた小町雄八の遺徳を伝えるものです。伊豆美神社と和泉地域の人々が中心となり狛江村を挙げての運動によって建てられたと考えられます。石碑が建てられた背景には江戸時代に和泉村の一部が井伊家世田谷領だったこと、井伊家に儒学者として仕えた小町雄八和泉村出身だったことなどがあります。井伊直弼公敬慕碑は狛江村の村人たちが自らの村の歴史を顧みつつ、村の誇りとして井伊直弼と小町雄八の功績を広く伝えていくために建てられたものであり、狛江の歴史にとって重要な文化財になります。(狛江市教育委員会)



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垂泉山上泉寺行宝院旧跡
伊豆見神社は古来六所宮(六所大明神)と号しその際礼を司った別当が行宝院である。行宝院の由緒は江戸時代に当社を再興した和泉村地頭石谷家の入部(1590)以前に㴑のぼる。行宝院本尊は不動明王。古く平安時代にこれを奉安して当院が開基されたと伝え、京都聖護院を本山として仰ぎ修験道本山派に属した。天文年中に伽藍を焼失、一説に水難流失しこの地に再建された。慶長年間の六郷用水開墾(1597-1609)に当たっては用水奉行小泉次大夫がここを宿所に充てた史実がある。寛文4年(1644)院宅残らず再焼失を見たが、不動明王は常に火生三昧に佳して無事であったといわれ、文政10年(1827)に台座宮殿再興が行われた。行宝院は代々世襲して修験道の修行を重ね、特に幕末期は和合再建に貢献し広範な信望を集め、明治初年の神仏分離の際会しやむなく行宝院を廃して復職した。爾来小町家は一筋に神社の繁栄を稀いつつ泉神社の宮司として現在に至る。本尊不動明王は明治9年以来、狛江市岩西南明静院に安置されて昔年の面影を伝えている。ここに行宝院往時の事蹟を記し留めてこの碑を建立する。(小町茂子撰 泉神社宮司小町守建立)


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兜塚古墳(東京都指定史跡)/中和泉
兜塚古墳は昭和62年(1987)と平成7年(1995)に行われた確認調査により墳丘の残存径約43m、周溝外端までの規模約70m、高さ約4mの円墳と考えられます。周溝の一部の状況から円墳ではなく帆立貝形の古墳の可能性も指摘されています。墳丘の本格的な調査を実施していないため主体部などは良くわかっていませんが土師器や円筒埴輪が出土しています。円筒埴輪の年代から6世紀前半の築造年代が考えられています。

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兜塚を含む狛江古墳群は南武蔵で最大規模の古墳群と推定されていますが、墳丘の形状を留めているのは僅かで本古墳は良好な状態で遺存している貴重な古墳といえます。狛江古墳群では二ヶ所の主体部が発掘調査され、神人歌舞画像鏡、鉄製刀身、玉類、金銅製馬具などが出土した亀塚古墳が有名です。亀塚古墳は5世紀後半から6世紀初頭ころの狛江古墳群の盟主墳と考えられますが、兜塚古墳は亀塚古墳の次世代の盟主墳と考えられています。(東京都教育委員会)



・・・元和泉

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多摩川にでてみました、いい眺めです/西河原公園

五本松/元和泉
多摩川のほとりに立つ五本松は狛江を代表する景観のひとつとして市民に親しまれ多摩川50景、新東京百景の一つに選ばれている名所です。映画やテレビの撮影にもよく利用されています。(狛江おすすめ散歩コース)

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六郷用水取り入れ口
六郷用水は徳川家康の命により慶長2年(1597)から16年にかけて代官小泉次大夫吉次によって作られた灌漑用水路で、次大夫堀とも呼ばれています。この用水は多摩川の水をこの辺りで取り入れ、市役所の裏で野川と合流し、世田谷区を経て大田区に至り全長約23kmに及びました。市内でも和泉、猪方、岩戸の水田に利用されてきましたがこの辺りは昭和40年に埋め立てられました。写真は多摩川から見た取り入れ口で、右側が現在地付近、左側が玉翠園で昭和初期のものです。(狛江市教育委員会)


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TO THE SKY '90/西河原公園
西河原公園このモニュメントは、大地から一粒の種子が地表の岩石を押しのけ、天空にむかって、たくましく成長する様を表現し、狛江市の将来を象徴したものです(狛江市教育委員会)

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水神社鳥居/元和泉

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水神社
水神とは水にまつわる神の総称で、祀られているのは灌漑用水の神とされる水速女命〈みづはのめのかみ〉になります。六郷用水と関わりがあり、祠は用水取水口の脇に位置し、用水工事に尽力した小泉次大夫が合祀されています。現在の水神の祠は、明治22年(1889)に六郷用水の恩恵を受けた和泉村外13か村によって奉納されました。また、昭和3年(1928)に六郷用水普通水利組合が奉納した幟石があります。(狛江市観光協会)


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万葉歌碑(玉川碑跡)/中和泉
『万葉集』巻14の東歌の一首「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき」が刻まれた歌碑で、松平定信の揮毫になります。文化2年(1805)に猪方村字半縄(現在の猪方4丁目辺り)に建てられましたが洪水によって流失しました。大正時代に玉川史蹟猶予会が結成されると、松平定信を敬慕する渋沢栄一らと狛江村の有志らが協力して大正13年(1924)旧碑の拓本を模刻して新碑が建てられました。(狛江おすすめ散歩コース)

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街道の風景④ 街道に戻り、この道標のある二又を左へ向かいます/中和泉

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道標
文政10年(1827)の道標を兼ねた馬頭観音があります。その脇に「西 府中道 右地蔵尊 渡し場道 左 江戸青山 六郷道」を示す丸石が建っています。品川道は左、右は泉龍寺へ向かう地蔵道のようです。


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ここで直進の道と合流         狛江通りから駅に向かいます


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泉龍寺三門/元和泉


安政6年(1859)に再建されたものです。再建時は切妻造の瓦葺屋根でした。建築を請け負ったのは和泉村の大工で、部材は境内の樹木が用いられました。

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泉龍寺鐘楼門

鐘楼門
天保15年(1844)に牟礼村(三鷹市)の眉山金毛和尚をはじめとして檀家各家や近隣寺院、周辺宿村、江戸市中、泉龍寺に祀られているまわり地蔵を信仰する講中からの寄進によって再建されたものです。再建時は茅葺屋根でした。石積または袴腰の基壇部がなく4本の柱で門の形態をとった珍しい鐘楼門です。


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泉龍寺本堂・開山堂・鐘楼門・山門
江戸時代初期の縁起によると雲松山泉龍寺は、奈良東大寺の別当として名高い良弁僧正が天平神護元年(765)にこの地を訪れ、法相宗の奥義を広めたことに始まるとされています。天暦3年(949)には増賀聖(ぞうがひじり)が廻国の折、天台宗に改め境内をひらき堂宇を建立しました。しかし中世の戦乱期に寺は荒廃し草庵だけになっていました。ここに曹洞宗通幻派の桂破泉祝和尚が行脚中に訪れ、堂宇を建立して寺を復興し多くの僧人が参集しました。その後曹洞宗大源派の鉄叟瑞牛和尚が居住し天正18年(1590)の徳川家康の関東入国後、和泉村の領主となった石谷清定(いしがや)は端牛和尚に帰依しともに諸堂を整備しました。泉龍寺は良弁僧正を開闢(かいじゃく)初祖、鉄叟瑞牛和尚を中興開山、石谷清定を中興開基としています。江戸時代には徳川将軍家から朱印地20石を拝領し境内は約16900坪に及びました。三明龍寅(りゅういん)和尚の代(万治から元禄頃)に諸堂が残らず焼失しましたが、以後は現在に至るまで罹災した記録はありません。伽藍は南北の中心軸上に本堂、鐘楼門、山門が配置されています。こうした中軸を基調とする伽藍配置は曹洞宗寺院の特徴を示しており、また境内の各所に江戸時代の佇まいを残しています。(狛江市教育委員会)


宝永3年(1706)に再建されたものです。再建時は寄棟造の瓦葺屋根でした。昭和30年代に改修・増築がなされましたが本堂内部は江戸時代の遺構を残しています。

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開山堂
弘化4年(1847)に建立されたものです。建立時は茅葺屋根でした。昭和30年代に増築工事がなされましたが堂内の格天井(ごう)などは江戸時代の遺構と考えられます。

泉龍寺建造物の再建及び建立は領主の石谷家や地域の檀家各家のみならず周辺宿村や江戸市中、多摩地域周辺に広がるまわり地蔵を信仰する講中などからの寄進をもとに進められました。造作は狛江周辺や地元の職人の手によってなされており、地域にとって貴重な文化財です。(狛江市教育委員会)

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延命子安地蔵             お地蔵さん

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江戸名所図会 泉龍寺 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


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泉龍寺別院/元和泉
南の参道・大門通りに面する旧龍法寺跡には平成6年(1994年)地蔵菩薩を本尊とした泉龍寺別院が建立されました。檀信徒をはじめ広く市民の物心両面の支援を得て完成し、手入れの行き届いた斎場として定評がありまた市内や地域の文化活動の拠点としても活用されています。(泉龍寺HP)

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耳切地蔵
背中に「明暦3年(1657108日、檀那の菩提のために地蔵菩薩を造立し奉る。龍法寺西源の代」という文字が刻まれています。龍法寺は泉龍寺の塔頭として旅人を泊めたりする村の中の憩いの場でした。ほぼ泉龍寺別院の位置にありましたが明治維新の頃に廃寺となりました。昔、このお地蔵様が道の辻に立っていた頃のこと。村人が追いはぎに襲われて刀で斬り付けられやっと逃げ帰りました。翌日になってみたら何の傷もありません。不思議に思って辻のところに行ってみると、なんとお地蔵様の耳に刀傷がありました。お地蔵様が身代わりになってくれたのでした。(泉龍寺HP)


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弁財天池

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泉龍寺弁財天池(狛江市史跡)
この池は市民に「しみず」という名で親しまれています。「和泉」という地名もこの池からうまれたものと推定されます。伝説によると、今から約1200年以上も前の奈良時代に全国的な大旱魃があり、東大寺開山として有名な良弁僧正がこの地において雨乞いを行ったところ、竜神が現れて雨を降らしその時に水が湧き出したということです。旧「和泉村」の雨乞いの行事をする霊泉として信仰を集めてきました。池の中島には元禄6年(1693)にできた石の祠があり弁財天がまつられています。いつの旱魃にも涸れることなく、その豊富な水量で下流の水田の灌漑用水に利用されてきましたが、昭和4711月に涸れつきてしまいました。昭和48312日に狛江市史跡第1号に指定され、復元工事が行われました。(説明板)

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江戸名所図会 和泉村霊泉 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

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亀塚古墳/元和泉

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亀塚古墳
狛江市南部を中心に分布する狛江古墳群は南武蔵でも屈指の古墳群として知られています。これらは「狛江百塚」ともよばれ、総数70基あまりの古墳があったとされています。そのなかでも亀塚古墳は全長40mと狛江古墳群中屈指の規模を誇り、唯一の帆立貝型前方後円5世紀末~6世紀初頭に造られたと考えられています。昭和2628年に発掘調査が行われ、古墳の周囲には周溝があり、墳丘には円筒埴輪列が廻らされ、前方部には人物や馬をかたどった形象埴輪が置かれていることがわかりました。人物を埋葬した施設は後円部から2基(木炭槨)、前方部から1基(石棺)が発見され、木炭槨からは鏡、金銅製毛彫飾板、馬具、鉄製武器(直刀、鉄鏃など)、鈴釧や玉類などの多数の副葬品が出土しました。特に銅鏡は中国の後漢時代(25220年)につくられた「神人歌舞画像鏡」で、これと同じ鋳型でつくられたものが大阪府の古墳から2面見つかっていることから、この古墳に埋葬された人物が畿内王と深く結びついていた豪族であったと考えられています。また、金銅製毛彫飾板には竜、人物、キリンが描かれていて高句麗の古墳壁画との関係が注目されました。現在は前方部の一部が残るのみですが、多彩な副葬品や古墳の規模・墳形などからみて多摩川流域の古墳時代中期を代表する狛江地域首長墳として位置づけられます。(狛江市教育委員会)


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狛江市地図
(赤:品川道 橙:品川道別路 青:野川 緑:旧野川・野川緑地公園)

野川&野川緑地公園の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23104580/

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品川道(府中~狛江)ルート図(赤:品川道 紫:旧甲州街道)

by Twalking | 2017-07-28 19:31 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(1)府中~狛江02-調布   

日時 2017.7.21(金)
天気 晴れ

調布境辺りは住宅地で農地も残っていますが、
武蔵台から府中崖線沿いのハケの道へ寄ってみました。
ここは「いきき道」「筏道」と呼ばれた古道のようです。

段差は6m位、大きな樹木の下を歩きましたが
ほのかに古道の香りが残る、いい道です。
調布駅付近では2ケ所旧道があり、標識で確認できました。


・・・白糸台

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街道の風景① 品川道は直進ですが、右折して本願寺へ寄り道します/武蔵台駅北

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車返
車返は現在の白糸台二・四・五丁目の一部(旧甲州街道いききの道沿い)に集落の中心があった村落です。幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』には「家数総て89件、西を上とし、中央を中といひ、東方を下といふ」とあります。古名白糸村と称します。地名の起こりは本願寺の縁起によると源頼朝が奥州藤原氏との戦いの折り、秀衡の持仏であった薬師如来を畠山重忠に命じて鎌倉へ移送中に当地で野営したところ、夢告によってこの地に草庵を結んで仏像を安置し、車はもとへ返したことに由来するといわれます。旧境内跡地(市立第四小学校西側)には彦四郎塚・首塚と呼ばれる古塚が現存し往古をしのばせています。(説明板)

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本願寺山門/白糸台5

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浄土宗八幡山廣徳院本願寺
當山の起源はその昔源頼朝の奥州征伐の折彼地よりもたらされた藤原秀衡守本尊と伝えられる薬師如来をまつったことに始まる。その後、総州の人大久保彦四良兵火に焼かれたお堂を再建し、永正13年(15165)鎌倉光明寺の僧・教譽良懐上人を迎えて中興開山となし一寺の形態を定む。(彦四良塚今なお東部出張所南に現存す)徳川家康の家臣宮崎泰重、當地の領主となり當山4世真譽圓良上人に帰依し、天正2年(1574)境内および堂宇を寄進し寺を現在地に移転させ、この時はじめて當寺を八幡山本願寺と呼称する。

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また将軍家より代々114斗の朱印状下附され、併せて葵紋の使用も許され、以後周囲の発展と歩調を共にし現在に至る。現本堂は昭和475月落慶し、中に本尊阿弥陀如来をまつる。境内の薬師堂には旧地より移された車返開運薬師如来が安置され、御名のごとく旧車返の地名の由来と深い因縁に結ばれている。(境内掲示板)

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車返八幡神社鳥居/白糸台

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車返八幡神社
創立年月不詳であるが、伝えによると天正年中(1573-92)当字本願寺守護神として、同寺境内除地に勧請して、村民あげて産土神と崇敬した。(東京都神社名鑑)


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街道の風景② 府中崖線際を飛田給へ向かう道、古道のようです/本願寺門前

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いきき道
はるか昔、多摩川によって削られてできた高さ6の段丘崖で通称「ハケ」呼ばれる道です。段丘崖の上に続くこの道は府中市内を北の台地部と南の低地部に二分し、江戸時代に整備された甲州街道以前の甲州古道であり、東海道の大井から府中を経て甲州の国府へと続いていました。「いききの道」と呼ばれる道は調布市とのあたりから始まり競馬場の辺りまでを言い、昔奥多摩で切り出された材木は筏に組まれて多摩川を下り東京湾まで運ばれていました。そのときの「筏師」たちが「行き来した道」であることから名づけられた道です。古い街道の面影を今なお残していて春になると「やぶづばき」の赤い花が咲く道として知られています。(府中観光協会)

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府中崖線の坂⑤-おっぽり坂
この坂名は大雨の折に野水の流れによって自然に掘られた大堀に由来するといわれます。この坂の道筋は昔からあふれた野水の流路になっていたそうです。この坂は最初「おおぼり坂」と呼ばれていましたがいつからか「おっぽり坂」とつまった呼び名になったようです。この道を下ったあたりは、一昔まえまで美しい田園が広がっており旅の杖を休めた文化人も少なくありません。はけ道を西へしばらく行くと浄土宗本願寺があります(府中市)

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府中崖線の坂⑥-はけた道/白糸台
この坂ははけた道ともいいます。地元ではこのあたりを昔から「はけた」と呼んでおり、坂名もその呼び名をとっています。これは府中崖線を俗にハケと呼ぶことに由来するといわれています。府中崖線上には古い街道がありますが、これは通称いったりきたりする意味で「いさきの道」と呼び親しまれています。この坂を南に下ると江戸時代に武蔵野新田開発に貢献し代官を務めた川崎平右衛門定孝の出身地押立へ出ます(府中市)

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はけた道の坂上には車返諏訪神社が鎮座しています/白糸台

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案内板等はありませんが、諏訪神社の西側一帯が浅野長政の屋敷跡のようです。


浅野長政隠棲の跡/府中白糸台幼稚園

白糸台5丁目に位置する五奉行筆頭としても辣腕を振るった浅野長政の屋敷跡。長政は、秀吉の死の翌年である慶長49月に前田利長・大野治長等と共に徳川家康暗殺を企んだとして罪状をデッチあげられ、長男の幸長に家督を譲って府中在住の旧家臣平田家の屋敷へ隠居した。但し、翌9月の関ヶ原合戦では東軍に組したため罪を許され家康に近侍するようになり、慶長11年には紀伊国和歌山370000石の幸長の所領とは別に常陸国真壁50000石を隠居料として与えられている。現在は府中白糸台幼稚園となっている。Wikipedia


・・・
飛田給(とびたきゅう)/調布市

良時代以降、荘園を管理する役人であった飛田氏が領主からこの土地を給田として支給されたことに由来するという説と、天長10年(833)多摩・入間両郡の境に置かれたといわれる悲田所(古代の貧窮者、孤児の救済施設)の給地(所有地)にちなむという説があります。江戸時代には上飛田給村と下飛田給村に分かれていました。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)

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街道の風景③ この辺りはまだ農地が残ります/白糸台

調布市内へ入ると飛田給駅方向へ直線の細い道が残るが前述の道とは直接接続していないように見える。この道の延長線上に駅南側からも細く直線的な道が残り、品川みちと看板が立っている。現在の品川通りとは太田塚交差点で合流する。これより東側では現在の品川通りとして拡幅されているため面影は見られない。だが、鶴川通り交差点付近、小島町三丁目交差点付近や調布駅南入口交差点付近から布田三丁目交差点付近にかけての区間などに旧道が残されている。
Wikipedia

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この先飛田給薬師堂で旧甲州街道と合流しますが、品川道はこの二差路を右折して飛田給駅に向かいます。すぐ先に「旧品川街道」の標識が建っています/市境

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街道の風景④ 踏切を渡り左折して道は続きます/京王線飛田給駅前

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旧品川道
品川道は今の府中に武蔵国府がおかれていたころ、国府から東海道に通じる脇街道であったという。その名称は大國魂神社(六社宮)の大祭に用いる清めの海水を品川の海から運んだことによるといわれ、もともとは道幅約1.2mの小道であった。近世になると筏乗りたちが多摩川の上流から河口まで木材を運び、その帰り道に利用していたのでいかだ道とも呼ばれている。このような由緒ある品川道も今では市内のところどころに残るのみである。(標柱)

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道生神社鳥居/飛田給

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道生神社
祭神:宇気母智命(ウケモチノミコト)明治17年に飛田神社(もと稲荷神社)と道生神社(もと山王社)を合祀して道生神社と改められました。旧社地が昭和18年調布飛行場用地となったため現在地に遷座されました。社殿は大正4年の建立。飛田給の鎮守社です。境内は飛田給児童遊園となっています。(調布市観光協会)


・・・上石原・下石原


原は文字通りこの辺りが石原であったということからつけれた地名という説があります。中世の記録に「下石原海老名分」とみえていますがこの下石原は調布の下石原のことと推定されています。多摩川は古代から南北に大きく蛇行して流れていたことが知られています。(「調布の地名」/調布市郷土博物館解説シート)

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街道の風景④ 中央道、西調布駅を通りここで「品川通り」に合流します/太田塚

品川通り

品川道に置き換わる新道としての位置付けで、西端は府中市内車返団地東交差点で押立公園通りから延伸する形でそのまま接続し、調布市内の京王線の南側を東西に走る通り(都市計画調布3410号線)東端は東つつじヶ丘二交差点で終わっているが、今後更に延伸がされ若葉町3丁目付近で都道114号線に接続する計画がある。Wikipedia

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若宮八幡神社鳥居


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若宮八幡神社
仁徳天皇は八幡社祭神応神天皇の皇子にあらせられるので當神社を若宮八幡神社と申す。武蔵風土記に宿の鎮守にて鎮座の年歴を傳へずと記されたように古社であるが遠い昔に祖先を遥かに霊峰富士を仰ぎ清き多摩の流れにうるおうこの里のしずめと豊かなみのりとを希い産業を興し仁慈を垂れられた御事績をたたえて此の処に仁徳天皇をお祀りした。相殿には四社明神が合祀されている。(説明板)

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上石原若宮八幡神社本殿
本殿は覆屋内に建ち一間舎流れ造り、総ケヤキ造りである。身舎の四方に腰組縁をめぐらし、正面に向拝を設け、軒は二軒、正面軒唐破風、屋根はこけら葺きである。板壁部等に説話を主題とした彫刻を一面に飾り付け、向拝柱や長押にも繊細な地文を刻み、極めて装飾性豊かな建物で、江戸時代後期を代表する神社建築として重要である。幣束収納箱の蓋裏に「文化四年 棟梁入間郡中藤沢村 杉田石見頭政永 同喜兵衛」と墨書されており再建年代及び作者も明らかである。(調布市教育委員会)

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上石原若宮八幡とはけの緑(調布八景)
若宮八幡の名は応神天皇の御子、仁徳天皇がお祀りされていることから付けられました。総檜造りの本殿は、こけらぶき一間社流造り、そして全体にわたる精巧な彫刻がみごとで、優美で拡張高いものであり、市の重宝に指定されています。神社の周辺は「はけの緑」に覆われ、上石原鎮守の森は、古くから里人が自慢したといわれる景観です。(調布市)

ちょうふ八景

市制30周年を記念して指定。布多天神と市、調布不動尊と国領神社の千年藤。糟嶺神社と明照院、神代植物公園と深大寺、近藤勇の史跡と野川公園、四季の多摩川と花火、実篤公園と記念館、上石原若宮八幡とはけの緑Wikipedia

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街道の風景⑤ この先の信号と調布駅入口の右手に旧道が残されています/小島町 

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旧道/小島町              旧道入口/駅南入口

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街道の風景⑥ 駅北側に残る旧道、「旧品川道」の標識が建っいます/調布駅

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旧品川道の案内/布田4丁目交差点先
この掲示板の脇に東西につながる道はかつての品川道である。この道は府中にかつての武蔵国府がおかれた頃、相模国から国府に行き来する旅人たちの交通路であるとともに、東海道方面に通じる脇街道であったという。また、府中の大国魂神社(六社宮)の大祭に際してはきよめに用いる海水を品川の海から運ぶ重要な道であった。この品川道は府中から調布を通り、狛江・世田谷を経て品川の立合川付近東海道に結ばれていたという。近世になると筏乗たちが多摩川の上流から河口まで材木を運び、その帰り道に利用したので「いかだ道」とも呼ばれていた。このような由緒ある品川道も市内のところどころに残るのみである(調布市教区委員会)

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この交差点を右に行くと白山神社があります


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街道の風景⑥ 品川通りに合流し国領町へ、この先に椿地蔵があります/布田3

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椿地蔵尊/椿地蔵交差点(品川通り)

シロハナヤブツバキ
ツバキ科 ツバキ属 
昭和30年品川道拡張の際に現位置より約5m北の場所から現在地に移植された。根本から5本に分かれていたが現在は2本を残すのみになっている。品種はシロハナヤブツバキ、樹齢は約7800年と鑑定された。ヤブブバキの白花種をシロハナヤブツバキと呼び、自然状態ではまれに見られるもので観賞用として庭園などで栽培される。市指定天然記念(植物)(調布市教育委員会)

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調布ふるさと散歩道地図
(赤:品川道 橙:旧甲州街道 茶:甲州街道(20号) 青:多摩川・野川)

「調布ふるさと散歩道」の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23086367/


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資料ファイル

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調布市
都心へ約20kmの距離にある。地質学的に言うと調布市は武蔵野台地多摩川低地によって構成されており、武蔵野台地部分は更に武蔵野II面と立川I面に分けられる。武蔵野II面と立川I面の間には国分寺崖線が存在しており、立川I面と多摩川低地の間には府中崖線が存在している。国分寺崖線の比高はおよそ12mである。現在の市域に当たる区域は武蔵国多磨郡内の一部として属した。布田5宿があり甲州街道の国領宿(日本橋より4番目の宿場)・下布田宿・上布田宿・下石原宿と上石原宿(同8番目)がこの地にあった。本陣と脇本陣が無く旅籠だけの小さな宿場であったが布多天神社の市場は賑わった。(写真:ハケ下の府中用水/若宮神社)
調布という名称は昔の税金である租庸調の調(その土地の特産物を納める)で布を納めていたことに由来する。調布と書いて「たづくり」もしくは「てづくり」とも読んでいた。調布市内には布田(ふだ)、染地(そめち)など布にかかわる地名が存在する。江戸時代までは多摩川で布をさらしていた記録が残っている。「多摩川に さらすてづくりさらさらに 何ぞこの児の ここだ愛(かな)しき」という万葉集の歌が布多天神社に残っている。

(奈良時代)市域は武蔵国の多麻郡に属した。現在の府中市に置かれた国府から近かったこともあり、国府に勤務する官人の一部が市域に居住していたと考えられている。

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(平安時代)市域には武蔵七党のうち西党狛江氏村山党金子氏が進出していた。狛江氏の館は現在の晃華学園敷地内に存在したと考えられており平成6年の発掘では館の周囲を取り巻く空堀の跡と思われる遺構が見つかっている。一方、旧金子村(現在のつつじヶ丘1丁目、2丁目、3丁目)は金子氏の所領であったという説もあり、三鷹市新川にある島屋敷跡は金子時光の館跡ではないかと考えられている。鎌倉時代に入ると武蔵国は鎌倉幕府の直轄地「関東御分国」に含まれた。(写真:狛江氏の館跡)

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(戦国時代)1537年、後北条氏と対峙していた上杉朝定深大寺城(写真)を築く。しかし朝定はこの年のうちに後北条氏に本拠地を急襲されて敗れており、深大寺城での戦闘は無かったと考えられている。その後、市域は中条出羽守、太田康資(新六郎、太田道灌の曾孫)、太田大膳亮ら後北条氏の家臣団に分け与えられた。Wikipedia
深大寺城の関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23058175/
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大正6年(1917)の地図/調布市郷土博物館
(橙:旧甲州街道 赤:品川道(推定)青:野川を着色しました)


by Twalking | 2017-07-27 13:31 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 品川道(1)府中~狛江01-府中   

日時 2017.7.21(金)
天気 晴れ


暑いので近場で~と、品川道に出かけました。
ここは甲州街道で「初期の甲州」として案内しましたし、
府中Wの予定ルートなのでちょっと下見も兼ねました。

調布から狛江は何度も車では通っていますが、
徒歩で行くのは初めてです。
陽ざしが強いので木陰を選んで歩きたいと思います。



・・・宮町(府中市)

品川道

かつては甲州街道常久一里塚の脇を通り府中の六所宮(大國魂神社)まで続く道であったが、後に北の街道が甲州街道(旧甲州街道)となり、甲州街道が品川道と呼ばれるようになったものである。府中の大國魂神社から国分寺崖線多摩川沿いに品川・六郷付近まで続いた古道で「品川道」「品川街道」「いききの道」「いかだみち」と呼ばれた。大國魂神社くらやみ祭りの神事で使用されたり、多摩川上流で伐った木材をいかだにして流れて行き、その後人だけ上流へ向かってこのいかだ道を歩いて帰った。Wikipedia

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大国魂神社随神門

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大国魂神社本殿 
律令時代国司が国内の大社六社を国府に勧請祭祀し武蔵総社または六所社と称したのがこの大国魂神社である。本殿のうち中殿は大国魂神、御霊大神、国内諸神、東殿は小野大神、小河大神、氷川大神、西殿は秩父大神、金佐奈大神、杉山大神を祀る。この本殿は四代将軍家綱の命によって寛文7(1667)3月完成したもので、その後数回修理を行っているが部分的に室町時代末期の様式をとどめ江戸時代初期の神社建築として保存の価値がある。また特異な構造形式は遺例少なく珍しい。構造は九間社流造、向拝五間、銅板葺、三間社流造の社殿三棟を横に連絡した相殿造。東京都指定有形文化財(東京都教育委員会)

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街道の風景① 今日はここからスタート、京所道を東へ向かいます/東門

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京所道(きょうづみち)
京所道の名はこの道が京所の中心を通ることに由来します。その道は甲州街道が開設(慶安頃・164852)されるまで初期の甲州への道として重要な役割を果たした道です。(標柱)


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京所
京所(きょうづ)は現在の宮町二丁目の一部・三丁目(京所道沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は六所宮(大国魂神社)の社領で八幡宿に属しており『新編武蔵風土記稿』(幕末の地誌)には「六所社領」の小名としてその名が見えます。地名の起こりは経所(きょうじょ)が転訛したものといわれており、ここに国府の写経所のような施設があった名残だと伝えられています。延宝6年(1678)の六所明神領の地検帳には「きょう女」の字があてられています。京所のように「京」のつく地名は国府の所在地には多くあります。この地域からは数多くの掘立柱建物跡が検出されており武蔵国国府(国衙)跡として有力なところです。(説明板)

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府中崖線の坂①地獄坂/宮町
この坂の由来は明らかではありませんが昔、この坂道を繁茂した竹や草木がおおいかぶさり、また周囲の木立などがうっそうとして薄暗くそれはあたかも通行する人の心に地獄への未知のようなイメージを与えていたことによるのかもしれません。別名を「暗闇坂」ともいいますがこの名前は坂道の薄暗い状態から由来していると思われます。坂の西側の叢林は55日の暗闇祭で有名な武蔵総社大国魂神社の杜です。(府中市)

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府中崖線の坂②天神坂/宮町
この坂の名は大国魂神社の末社天神社」がまつられている天神山に由来します。この山は「国造山」とも呼ばれています。天神社は普通「てんじんしゃ」と呼ばれ菅原道真を祭神とする天満宮と混同されていますが本来は「あまつかみのやしろ」と呼ぶのが正しいようです。そのためこの神社の祭神は菅原道真ではなく少彦名命です。天神社は古くから人々の信仰をあつめ道の名や地名として今に伝えられています。(府中市)

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府中崖線の坂③普門寺坂/宮町
この坂名は坂の西側にある真言普門寺の寺名に由来します。別名を「薬師の坂」「古墳の坂」といいます。これは普門寺にまつられている薬師如来からついた名のようです。この薬師様は「目の薬師様」として有名で、毎年912日の供養の縁日には大勢の人が「お目玉」をうけにやってきます。「古墳(ふるはか)」の名は寺の北側にあった古い墓にちなんだものといわれます。ここには昔、西蓮寺という寺があったそうです。坂の西側地域は国庁跡の有力地です。(府中市)

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崖線の下は東京競馬場、馬霊塔や石仏が集められています/競馬場通り


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馬霊塔/宮町
馬霊塔は競走馬の供養のために建てられたもので、左右に10数基の墓石が並んでいます。墓石には昭和26年に皐月賞と日本ダービーを制したトキノミノルをはじめオールド競馬ファンには懐かしい歴代の名馬の名前を見つけることができます。(府中観光協会)

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日吉神社鳥居/宮町

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本殿                 参道

天神社
大國魂神社東方約500m宮町3丁目京所の東端・競馬場に面して小高い所にあり、そこを天神山といい欅の巨木数本がある。また別名丸山ともいいその西北隅・日吉神社の北側に鎮座し一間半四方の覆屋をもつ小社が北面する。北面の末社としては本社と共に数少ない社である。天神山は競馬場が移転する以前もっと東方に延び現在の倍以上の岡であった。一説に国造の墳墓跡ともいわれている。新編武蔵風土記稿に「除地二段、小社、祭神少名彦命」とある。この神は大國主命と義兄弟となって国土経営に当たった神として国府に多く祀られている。天神山の東方から南方にかけて天地(天神の転訛)または天神下などという広い範囲に亙る地名がありもとは相当の信仰があった。ここで近藤勇の天然理心流4代目襲名の野試合が行われた。(嘉慶二2の私案抄文中に「総社の摂社と並べ載たる中に天神の宮とある是れなり」と記されている。)(大國魂神社HP)

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普門寺境内/宮町

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普門寺
正しくは大悲山清涼院。本町にある妙光院の末寺です。真言宗豊山派。本堂は以前この地にあった西蓮寺の薬師堂とのことです。1537年権大僧都恵伝法印が室町末期の戦乱で荒廃した寺を再建し、薬師如来を安置し衆生の病患を救い災難を除くよう祈ったとされています。以来普門寺の薬師様は「目の薬師様」として知られ912日の縁日には多くの人が「お目玉」をお供えしてそのお下りをいただき目の病の快復を祈ります。(府中観光協会)

大国魂神社・武蔵国衙跡などの関連記事はこちらへ(http://teione.exblog.jp/23803641/


・・・八幡町

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街道の風景②この先崖線を右手方向に下ります/府中競馬場正門前駅

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八幡宿(はちまんしゅく)
八幡宿は現在の八幡町12丁目の一部(旧甲州街道沿い)に集落の中心があった村落です。この村落は六所宮(大国魂神社)の社領に属しており、『新編相模風土記稿』(幕末の地誌)には「六所社領」の小名としてその名が見えます。もともと八幡宿は国府八幡宮の周囲に発達した村落ですが、甲州街道が開設(慶安頃=164852)されたのに伴って街道筋に移動したものです。宿場町のような村名ですが八幡宿は農業を中心とした村落です。地名の起こりはこの地に国府八幡宮が鎮座していることによります。国府八幡宮は由緒深いお宮で聖武天応(在位724749)が一国一社の八幡宮として創立したものと伝えられています。(案内板)

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府中崖線の坂③天地の坂/八幡町
この坂名は昔、坂の下に「天地」の屋号の家水車があったことに由来しているといわれます。このあたりはひところは湧水が多く古地図などにもその名が記されています。そのためハケ下にはワサビ田が広がりその風景は一幅の絵画を見るようだったといわれます。ハケ下には滝も流れ落ちていたといわれ「たきの下」「たきの前」の地名が歴史的に確認されています。昭和の初期ごろまではこれらの湧水を利用した水車が数多くあったそうです。(府中市)

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府中崖線の坂④馬坂/八幡町
この坂の由来は明らかではありませんがすでに明治のころには使われていたといわれています。江戸時代、新宿に「おん馬屋(現八幡町)と呼ばれていた旧家の下氏(しもし)がおりあるいはその坂の名は下氏の俗称「おん馬屋」から由来しているのかも知れません。府中は古くから馬との関わりが深い町で、近世には馬市が盛んに行われています。府中の馬市からは将軍家御用馬や関ヶ原・大阪の役に使用された軍馬が供給されています。(府中市)

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武蔵国府八幡宮二の鳥居/八幡町

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武蔵国府八幡宮
府中市八幡町に位置する神社であり一国一社の八幡宮、武蔵国の国府八幡宮である。祭神は応神天応(誉田別命)、八幡神。総社は当社より西側にある大國魂神社。神社の入口は旧甲州街道に北面しており「武蔵国府八幡宮」と記された石碑と石灯篭、一の鳥居がある。長い参道を南へ進むと半ばに京王競馬場線が横切っている。踏切を渡ると京王電鉄が奉納した二の鳥居と立派な門がある。さらに進んで左(東方)へ折れるとすぐ三の鳥居と手水舎がある。その先右手に社務所、正面に灯篭、狛犬、拝殿がある。本殿は西向きになっている。六所宮に至る京所道が西側、南側を東西に東京競馬場から品川道へ至る「八幡道(やわたみち)」という道がある。Wikipedia

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国府八幡宮(こくぶはちまんぐう)
令制国の国府(府中)の近くに創建された八幡宮である。「府中八幡宮」と称されたり「国分八幡宮」と表記されることもある。国府八幡宮には神社によって国衙の鎮守であると伝えるものと、国分寺の鎮守と伝えるものとがある。一般に国府と国分寺は近くにあることが多く両者が混同されたものもあると見られている。総国分寺である奈良の東大寺の鎮守社が手向山八幡宮であることから各地の国府・国分寺でも八幡宮を鎮守としたとも考えられる。これらの国府八幡宮は国府の近くにあることから後に総社の機能を持つようになったものもある。「一国一社の八幡宮」「一道一社の八幡宮」と称する八幡宮も国府八幡宮に由来するものとされる。Wikipedia

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総社
特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(合祀)神社のことである。日本の律令制において国司着任後の最初の仕事は赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することであったが、平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化された。総社の多くは中世にいったん廃れたが、後に再興されたものも多い。ただし今に至るまで再興されずにいるものや、どの神社が総社だったのかわからなくなってしまった国もある。Wikipedia

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江戸名所図会 府中八はた八幡宮 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用

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八幡道/八幡宮             八幡道/鳩林角

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八幡道
八幡道(やはたみち)の名はこの道が国府八幡宮のそばを通る事に由来します。江戸時代の古図にもこの名が記されており道筋は北東に向かい品川道と通じていたようです(標柱)
(橙:八幡道 赤:品川道・京所道 紫:旧甲州街道 茶:20号 緑:競馬場通り)



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競馬場通りを横断/清水ヶ丘1      京王線踏切を横断/東府中駅

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府中駅周辺地図
(赤:品川道 橙:旧甲州街道 紫:国道20号・府中街道・競馬場通り)


・・・清水ヶ丘

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街道の風景③ 踏切を渡ると品川街道の標識があります/東府中駅先

2017
年現在「品川道」・「品川街道」と標識で確認が取れるのは府中市内の東府中駅前地点からで、旧甲州街道との分岐点から東である。京王線とほぼ平行しており一里塚脇、白糸台文化センター西交差点、西武多摩川線の白糸台駅南踏切を渡り、所々の道標識を見ながら東へ進み調布市との市境付近まで所々に古い面影が見られる。一里塚は甲州街道であった時代の跡でありかつては六所宮まで続いていた。Wikipedia

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甲州街道常久一里塚跡/清水が丘
一里塚は旅人に里程を知らせるため街道の両側に一里(約4km)毎に築かれた塚で、我が国では江戸時代になり制度として確立した。すなわち慶長9年(1604)徳川家康は江戸日本橋を起点として東海・東山・北陸の三道に一里塚を築かせそれを全国に普及させた。塚上には塚を固めるため榎をはじめ松や欅などが植えられ、これが旅人にとっては日ざしをさける木かげの休所となった。この常久(つねひさ)一里塚跡は、江戸初期に整備された甲州街道の日本橋から七里のところに設けられた一里塚の跡と伝えられているものである。府中市内ではこのほか日新町1丁目の日本電気株式会社府中事業所内にある一里塚跡が「市史跡 甲州街道本宿一里塚跡」として府中市指定文化財となっている。(府中市教育委員会)

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左側が『武蔵名勝図絵』に描かれた「本宿一里塚(日本電気工場内)、右側は『府中東方面村落古図写し』(享保・元文年間)の常久一里塚/案内板
(赤:品川道 橙:八幡道 紫:旧甲州街道 赤丸:一里塚)


・・・白糸台


現在の白糸台地域は江戸時代には上染谷村、下染谷村、車返村と称されており、車返村古名白糸村といいます。染屋・白糸という地名はその名のとおり製糸布染めに由来するようです。この地域は昔から蚕を飼い絹糸を作っておりそれを世田谷の砧に送り、糸をさらし、それを上染屋、下染屋にまわし糸を染め上げて八王子の織屋に送りこれを国府に納めたものであるという言い伝えがあります。近隣の「調布」「布田」といった地名と由来がよく似ています。(府中市)


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街道の風景④ 右折が多摩霊園駅、子の次の信号を右方向に進みます/九中通り

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上染屋(かみぞめや)
上染屋の集落はもともと多摩川のほとり小字でいえば龍ヶ島・亀沢・鶴代の辺りにありましたが、度重なる洪水を避けて現在の甲州街道沿いの白糸台1丁目の一部に移ったものといわれています。地名の起こりは俗説として調布(てづくりぬの)を染めた所とか、鎌倉時代に染殿のあった所とかいわれ、染屋の名は南北朝時代の資料にも見えています。古くは染屋という一つの村落であったものが時期は不明ですが上染屋下染屋に分かれたものです。寛永12年(1635)の検地帳には上染屋の名が記録されています。幕末の地誌『新編武蔵風土記稿』に「甲州街道の村にて、民戸五十三軒、往還の左右に並居」とあります。(説明板)

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上染谷不動尊境内/白糸台(旧甲州街道)

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上染谷不動尊
国指定重要文化財の「銅像阿弥陀如来立像」が安置されています。像高48.8cm、台座12cmの小さな仏像で、円満・優美な相貌を持っています。背中の銘から弘長元(1261)年に上州八幡庄(群馬県)の友澄入道によって鋳造されたことがわかります。毎年、東京文化財ウィーク期間中の113日(祝)に一般公開が行われています。(府中市)

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右手から西武線を越えます          左角に庚申塔/府中四小角

品川道/府中4小角

品川道の名はこの道が品川宿へ通じるだったことに由来します。この道は「品川街道」「筏道」などとも呼ばれます。この道筋には一里塚(市史跡)があります。(標柱)

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街道の風景⑤ 住宅地を武蔵台駅に向かいます/白糸台中央公園

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品川道ルート地図(府中~飛田給)
『東京古道散歩』/萩窪圭氏著のルートを参照しました。
(赤:品川道 紫:旧甲州街道)

by Twalking | 2017-07-23 21:55 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 柴又界隈02-金町   

日時 2017.7.8(土)
天気 晴れ

金町は水戸街道なんですね。
古い寺社もありそうなので
ちょっと寄り道してみました。


・・・金町

金町
は古くは金町郷といい下総国香取神宮領の中心地として栄え、古利根川沿いの鎌倉街道に面した町屋が形成されていた。その後、金町屋と呼ばれていた時期を経て後に金町村になる。旧南葛飾郡金町にあたるのは、金町・金町浄水場の全域と東金町(2丁目を除く)、柴又(4567丁目)である。古墳時代には既に拓けていたと考えられており、古墳時代の遺物は半田稲荷神社・金町浄水場工事現場ほか各所から発見され、同時代にはかなりの集落が散在し人々が住みついていたことが伺える。時代を下り飛鳥・奈良時代の711年(和銅4年)に半田稲荷神社が、平安時代の1185年(元歴2年)には葛西神社が創立されておりこれら時代にはある程度の大きさのとなっていた。室町時代の1325年(正中2年)に記された「三浦和田文書」には「下総国金町郷」として地名としての金町の記述が見られる。江戸時代初期の1612年(慶長17年)には江戸幕府により水戸道中の要所として江戸川の渡舟場を利用した関所である「金町松戸御関所」が武蔵国金町村(幕府領)に設置され、以後1869年(明治2年)に関所廃止まで江戸幕府の防備上の機能を果たした。Wikipedia
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江戸川の風景① 江戸川堤Sロードを新葛西橋(6号)へ、右は金町浄水場の第3取水塔です

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金町浄水場
葛飾区金町浄水場(町名・元は旧金町一丁目の一部)にある東京都水道局の浄水場。1926年竣工、原水は江戸川の表流水を導入。1992年にオゾンによる高度浄水処理を開始、加えて高度浄水処理施設(オゾン処理)の完成、水系上流の下水処理能力が向上した。この高度浄水処理された水道水は、残留塩素を除去しボトルウォーター『東京水』として都庁舎をはじめ東京都の施設等で市販されている。処理能力は日量150万m3。(Wikipedia
写真:第2取水塔(昭和16年の築造)

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新葛西橋(BP)上流側に常磐線が走ります

金町BP
葛飾区金町から松戸市小山に至る国道6号のBP道路。葛飾橋から松戸市内を通過する旧国道6(水戸街道)を迂回する目的で建設された。
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葛西神社鳥居/東金町

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葛西神社
旧社格は郷社。金町・東金町を合わせた11町会の総氏神。祭囃子発祥の神社でもある。創建の年代は平安時代末期元暦2年(1185)である。当時は上葛西、下葛西合わせた33郷(現在の行政区分では葛飾区、江戸川区の全域、墨田区、江東区、足立区の一部地域にあたる)の総鎮守として葛西三郎清重公の信仰により香取神社の分霊を祀ったのが始まり。この地は葛西御厨の神域にある。その具体的典拠としては「香取文書」の内鎌倉時代から室町時代にかけての文書に「治承元年丁酉十二月九日 香取造営次第 葛西三郎清重」等を始めとする記述が散見出来る。なお、至徳4年(1387年)の官符によると御厨在住の領家である占部氏に関して「武蔵国猿俣関務事 香取大禰宜長房如先規可令成敗云々」等の記載があり、往還の人馬から関銭等も徴収し神宮の用途に充てていた事が検証出来る。中でも金町・小鮎(小合)・猿俣(猿町)・飯塚の四郷は古来より21年ごとに香取神宮の造営を携わっていた事はこの地との由縁を物語っている。上記の事由から葛西神社(当時は香取宮と称す)が郷内の守護神として祀られたと言われている。祭神:経津主神(ふつぬしのかみ)・日本武尊・德川家康尊(Wikipedia

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葛西清重(きよしげ)
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。桓武平氏の流れを汲む秩父氏・豊島氏庶流にあたる葛西氏。源頼朝に従って歴戦し鎌倉幕府初期の重臣になった。初代の奥州総奉行、葛西氏の初代当主である。父の豊島清元は秩父氏の一族・豊島氏の当主で武蔵国に広い所領を有し、下総国葛西御厨(葛飾区)も所領としていた。三男の清重は葛西御厨を相続し葛西三郎と称した。頼朝没後は北条氏に接近し元久2年(1205)の畠山重忠の乱で北条方として参戦し武功を挙げた。建暦3年(1213)の和田合戦でも北条方として武功を挙げている。 清重は北条氏からの信任も特に厚い宿老として鎌倉幕府の初期政治に参加した。(Wikipedia

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葛西御厨
下総国葛飾郡南部にあった伊勢神宮領。現東京都葛飾区・江戸川区一帯。1165年本領主葛西氏が領内33郷を寄進して成立。領家口入職(りょうけくにゅうしき)は当初卜部氏であったがのち神宮外宮(げくう)禰宜度会氏が世襲。(コトバンク)

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史跡葛西神社(葛西ばやし発祥の地)
当社はむかし香取宮と称し、元暦元年(1184)下総国香取神宮の後分霊を勧請し、葛西33郡の総鎮守として創立したものと伝えられ、天正19年(159111月徳川家康より御朱印10石を賜った。享保年間、当社の神官・能勢氏の創作した「和歌ばやし」は後日「葛西ばやし」として江戸市中をはじめ近郷一帯の祭礼時に「はやし」として流行し、今なお当地方の郷土芸能の一つとして伝わり、昭和28年東京都無形文化財に指定され今日に至る(葛飾区・葛飾観光協会)


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葛西神社鐘馗石像(しょうきせき)
この石造は右手に剣を持ち、左手で小鬼をつかむ立像を浮き彫りにしたものです。像光背の左右には「奉造立 鐘馗為悪魔降伏 金町村施主敬白 念仏講結道交1人 元禄8乙亥717日」の銘があります。銘文から元禄8年(1695)金町村の念仏講の人々が悪魔降伏を祈って結成され、来世での極楽往生を願い庶民の間に広がりました。念仏を勤め会食したり葬儀の際には助け合うなど、村町時代にさかのぼって見られますが、石像は他にほとんど例がなくこの鐘馗製造は大変貴重なものです。材質:石材 大きさ:地上隆11cm 像高:72cm(葛飾区教育委員会)

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光増寺山門/東金町 

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光増寺
寺伝によれば当寺は貞応元年(1222)法海が草庵を結んだのを創始とする。元仁元年(12245月、親鸞聖人が常陸の稲田(茨城県笠間市)から西渋江の葛西清重の館(後の四つ木西光寺)へ赴く途中、法海の草庵に一泊し、法海を弟子とし随信房と名づけた。その後、貞永元年(12328月、聖人は再び法海の草庵に泊し、草庵を光増寺と称し、別れるに際して自筆の阿弥陀仏像と三名号を与えた。以来、光増寺は三百余年の間、浄土真宗の法灯を伝えたが、天文7年(1538)および永禄7年(1564)の国府台の合戦に焼失して荒廃した。その後、天正15年(15877月江戸増上寺の僧円蓮社常誉が浄土宗として再興したが、文禄元年(1592)正月また兵火に炎上し慶長年間在誉が再興し、さらに天保3年(1822)と明治16年とに焼亡して多くの寺宝と記録を失い、明治438月の再建を経て昭和49年現在の堂舎に改築された。(葛飾区教育委員会)

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太子堂                俱会堂

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舟形地蔵・道標
元禄7年(1694)7月に建てられたもので中央に地蔵の浮彫、その左側に(そうか迄二里半)、右には(ミキいわつきしおんしミち)とあります。以前はここより30m南の街道ぞいにありました。岩槻慈恩寺は坂東三十三観音霊場の第12番札所として知られ江戸川ぞいの人々の信仰をあつめていました。この道は岩槻慈恩寺道と呼び、舟運が発達するまでは行徳の塩を運ぶ陸路として利用されました。その後慈恩寺へお参りにいく人々の道として賑わいました。「金町村 道行弐百三十五人」と彫られていることから多くの信仰をあつめていた様子がうかがえます。(葛飾区教育委員会)

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この先の左手社叢が半田稲荷神社です/東金町6

都道471号金町線
葛飾区内を通る都道である。全線2車線の道路であり水元公園に行く公園客と周辺住民が利用している。金町バイパスが開通するまで国道6号の一部であった。

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半田稲荷神社鳥居/東金町

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半田稲荷神社葛飾区東金町
にある稲荷神社。和銅4年(711)の創建とも永久年間(1113-17)の創建ともいわれる古社。江戸期には麻疹(ましん・はしか)と安産の神様として知られ歌舞伎や狂言にも描かれている。子供の疱瘡、麻疹、安産祈願の参詣が多く、江戸中期願人坊主という者「葛西金町半田の稲荷疱瘡も軽い麻疹も軽い…」と節面白く全国を謡い踊り歩いたと言われ歌舞伎舞踊で演ぜられている。(Wikipedia

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半田稲荷神社神泉遺構
半田稲荷神社は正確な創建年代などは明らかになっていませんが、享保(171635)の頃には麻疹(はしか)・疱瘡(ほうそう)・安産に霊験ありとして広く信仰されていました。この神泉遺構はかつて涌泉井戸でした。現在、涌泉は渇水し敷石も荒廃していますが、井戸枠には今も注連縄が掛けられ、旧来の形状がよく保存されています。石柵の柱や袖石に刻まれているのは新富町大新をはじめとする寄進者たちの名前です。なかには市川団十郎・尾上菊五郎など新富座の役者の名前も見え、当神社の繁栄を今に伝えています。(葛飾区教育委員会)

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神楽殿                白狐社鳥居

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半田稲荷神社狐一対
左右台座正面には「寛延元年(1748)戌辰11月吉日 海野・塚本・筒井氏」とありますが、側面には「天明8季(1788)戌去月吉日 飯塚桃葉再興」とあります。台座のみの再興か狐を含めての再興かは不明です。向って右の狐は左耳が一部補修され。左の狐はセメントで頭部が造られていますが、区内にある狐の石像としては現在のところ最古のものです。(葛飾区教育委員会)

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江戸名所図会 半田稲荷社 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用


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金蓮院参道

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山門

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金蓮院
永正年間(1504-20)賢秀和尚によって創立。旧門末30余ヵ寺をもった本寺格の寺院である。天正19年(1591)徳川家から10石の朱印状を受けた。寛永19年(1642)火災のため一時荒廃し、万治元年(1658)僧実盛が再興して中興開山となる。享保3年(1718)再び炎上し本堂および多くの寺宝を失ったが元文元年(1736)復興した。寺宝の弘法大師画像は寛永以来のいくたびかの火災の都度、自ら火中から舞い上って境内の巨木にとどまって災害をのがれたので<火伏せの大師>と呼ばれたという。また境内の大羅漢樹(コウヤマキ)は樹高約9.6、幹囲2.7、枝張11-15mを算し、天然記念物として区の文化財に指定されている。(葛飾区教育委員会)

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大師堂                   コウヤマキ

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柴又&金町周辺マップ
(橙:歩行ルート 緑:旧水戸街道 紫:旧佐倉街道 赤:東京W)


・・・・
資料ファイル

江戸川

利根川水系の分流(派川)である。流路延長59.5km(旧江戸川河口より)、流域面積約200km2。茨城県猿島郡五霞町と千葉県野田市の境界付近にある関宿分基点利根川と分かれ、千葉県と埼玉県、東京都の境を南に流れ、千葉県市川市付近で本流である江戸川と旧流路である旧江戸川に分かれる。現在の江戸川の最下流部は放水路として建設され行徳可動堰(江戸川河口堰)を通り千葉県市川市で東京湾に注ぐ。江戸川は古くは太日川太日河(おおいがわまたは ふといがわ)とよばれる渡良瀬川下流部であり、現五霞町元栗橋の西側を南下し権現堂川の河道を通り、古くの下総国葛飾郡の中央を南流し江戸湾(東京湾)へ注いでいた。太日川の西には同じく江戸湾へ南流する利根川並行していた。Wikipedia

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新葛西橋より下流側の景観


川の歴史
幕府の河川計画が生んだ江戸川・中川・綾瀬川
江戸川は400年ほど前までは太日川と呼ばれ、渡良瀬川の水を東京湾へと運んでいました。そう聞くと渡良瀬川は利根川につながっているのでは?と思うかもしれません。でもその当時、利根川は下の図のように太日川の西側を流れ、走水海と呼ばれた現在の東京湾に注いでいたのです。その姿が現在のように変わるのは、徳川家康が江戸に移封された近世初期以降のこと。江戸幕府はさまざまな河川工事を行いましたが、なかでも最大のものが文禄3年(1594)から始まった利根川の流れを江戸の東側に振り向ける「利根川東遷」と呼ばれる大工事でした。60年におよぶ工事の末に利根川は渡良瀬川鬼怒川などの水を集めて銚子で太平洋に注ぐようになったのです。現在の江戸川の流れもこの工事に伴って誕生しました。中川は今も残る古利根川や元荒川などの支川名からもわかるように、利根川東遷以前は利根川荒川本流でした。その後、明治以降の河川改修計画により、江戸川と荒川に囲まれた地域の農業用水路として整備され、さらに新中川の開削、荒川放水路建設を経て現在の姿になりました。綾瀬川も江戸時代以前は荒川の水を流す大河だったと思われますが、江戸幕府成立前後に荒川から分離され以来農業用水路としての役割を担ってきました。(関東地方整備局 江戸川河川事務所HP)

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1000年前の川の流れ。現在の利根川水系の大部分が東京湾に注いでいた様子がわかります/江戸川河川事務所

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現在の川の流れ。利根川の流路を東側に移動することによって、川の流れは現在のようになりました/江戸川河川事務所

(赤:太日川・江戸川 橙:利根川 紺:荒川 青:入間川)



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水戸街道
江戸時代に定められた日本の幹線道路で五街道に準ずる脇街道の一つである。江戸川側の千住宿と水戸藩の城下町である水戸をつなぎ、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれた。本来、街道は行き先の名称を冠したため水戸側では江戸街道と呼ばれた。現在、水戸街道は国道6号の墨田区向島〜水戸市までの区間の愛称である。国道6号に対して「水戸街道」と呼ぶ一方、街道筋が新道・バイパスの開通等により国道6号から外れた部分については「旧水戸街道」として区別することが多い。水戸以北は岩城街道(または磐城街道)や岩城相馬街道と呼ばれ岩沼宿で奥州街道と合流し仙台まで続いていた。(Wikipedia

金町松戸関所
江戸幕府
により慶長年間(1596-1615)に水戸街道の江戸防衛の要所として設けられた。金町と対岸の松戸宿を結ぶ江戸川の渡船場を利用した関所である。金町関所とも称される。金町松戸関所は水戸街道に置かれた唯一の関所である。延享2年(1745年)『金町松戸御関所絵図』によると「金町宿のつきる利根川(支流)に越谷川が注ぐ地点で、両面とも川に抱かれたところにごく小規模につくられた」という。Wikipedia

by Twalking | 2017-07-16 19:53 | 東京散歩(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 柴又界隈-『TOKYOウオーク2017』   

日時 2017.7.8(土)
天気 晴れ

TOKYOウオーク-柴又の手伝いに行ってきました。
ここはなんといっても帝釈天と寅さんですね。
調べたら旧佐倉街道も通っていました。

早く出て下見を兼ねて主要な所を歩いてみましたが
歴史のある街、下町風情があって面白いですね。
渡しに乗って対岸も良さそうです。

真夏日のウオーク、江戸川土手は仕方ありませんが
木陰に入るとホット一息です。無理しないように
様子を見ながら歩きましたが、無事終わってよかったです。


・・・柴又/葛飾区


古くから題経寺柴又帝釈天)の門前町として知られていたが、映画『男はつらいよ』の舞台となったことでさらに広く認知されるようになった。江戸川の西岸に位置し、対岸の松戸市・矢切地区とを結ぶ渡し船「矢切の渡し」の渡し場がある。概ね住宅地からなり、北には金町が隣接し北東に金町浄水場が立地する。東は江戸川の対岸に千葉県の下矢切、南に鎌倉、西に高砂と新宿がある。帝釈天界隈は環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。
Wikipedia

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「寅さん」像と「見送るさくら」像が迎えてくれます/柴又駅前

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柴又帝釈天参道
柴又という地名は極めて古い。奈良の正倉院文書「養老5年(721下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」の中に嶋俣(しままた)とあり、42戸の家と370人の住民がいたことが既に記されている。現在の柴又という文字が文献にあらわれるのは江戸時代の正保元年(1644)「正保改定国図」が初めてである。(案内板)


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人車鉄道
明治32年(1899)葛飾に人車鉄道という珍しい交通機関が誕生した。常磐線金町駅前から柴又・帝釈天までの約1.4kmをハッピ姿の押夫が、定員6名の人車を汗をふきふき押すというのんびりした乗り物であった。(案内板)

下総国葛飾郡大嶋郷戸籍
721
年(養老5年)に作成された「正倉院古文書正集第21巻」に収録されたもので、奈良・東大寺の正倉院に残存する古代の戸籍のひとつ。資料によれば大嶋郷は甲和里、仲村里、嶋俣里からなる郷となっている。律令国家では690年(持統天皇4年)の庚寅年籍(こういんのねんじゃく)の後、50戸を単位として里別に戸籍を作成してきたが、715年(霊亀元年)に郷里制を施行してそれまでの里を郷と称して、郷を約3つの里に区分した。そして従来の里長(郷長)に加えて里正を置いて行政の末端を強化し班田収受や課役徴収を効率的に行える体制を整えた。この戸籍中に姓は「孔王部(あなほべ)」名は「刀良(とら)」という33歳の男性と、別の世帯に同姓の「佐久良賣(さくらめ)」という34歳の女性の名がある。これらが映画「男はつらいよ」の主人公とその妹と同じ名ということで話題になった。
比定地としては、江戸川区小岩、葛飾区水元小合町、同区柴又のいずれも太日川(江戸川)の自然堤防上。埼玉県幸手市(旧・上高野村)の甲和里、杉戸町(旧・下高野村及び大島村)の仲村里、久喜市(旧・鷲宮村)字穴辺の嶋俣里の地域などの説がある。Wikipedia

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柴又八幡神社/柴又

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柴又八幡神社
「新編武蔵風土記稿」柴又村の条に「八幡社 村ノ鎮守ナリ 真勝院持」、「東京府志料」柴又村の条には「柴又八幡神社 村ノ鎮守ナリ。末社四宇アリ。社地九十坪」とある。柴又は「正倉院文書」の「養老5年(721下総国葛飾郡大島郷戸籍」に見える<島俣里>に比定される古地名であり、当社の本殿古墳の上に建てられている。社殿は寛永10年(1633)・宝暦3年(1753)・天明7年(1787)・寛政11年(1856)・大正15年・昭和2年・同7年の再建または修築を経て、昭和435月現在の社殿が造営された。(葛飾区教育委員会)
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鳥俣塚

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柴又八幡神社の古文石室
柴又八幡神社の社殿裏手に古墳の石組らしきものが露呈していたことから、いつのころか古墳ではないかといわれてきました。昭和40年(1965)から何度も調査を行った結果、今の社殿を中心として直径20mから30mの規模を存する円墳であることがわかり、社殿裏手の石組は遺体を安置する石室であるこことが判明しました。古墳の周りには溝が掘られ、円筒埴輪や人物や馬などの形象埴輪がめぐらされていたこともわかりました。出土した遺物は埴輪のほか直刀・馬具・鉄鏃・須恵器などがあり、出土遺物から古墳時代後期(6世紀後半)に構築されたものと考えられます。平成14年この古墳周りにはりめぐらされた溝から「寅さん埴輪」が出土しました。東京低地では石室を伴う古墳は本例のみで、この地域の古墳文化を研究するうえで貴重な考古学資料です。(葛飾区教育委員会)

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柴又帝釈天参道

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柴又帝釈天参道
京成電鉄柴又駅前から参道が伸びている。参道の両側には名物の草だんごや塩せんべいを売る店、老舗の川魚料理店などが軒を連ねている。参道の突き当たりに二天門が建ち、正面に帝釈堂、右に祖師堂(旧本堂)その右手前に釈迦堂(開山堂)本堂裏手に大客殿などが建つ。境内はさほど広くなく建物は大部分が明治以降の建築である。
Wikipedia

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柴又帝釈天二天門
二天門
明治29年(1896)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で屋根には唐破風と千鳥破風を付す。柱上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。二天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである。Wikipedia

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帝釈堂

二天門を入った境内正面に位置する。手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915)、拝殿はッ昭和4年(1929)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(毘沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されているWikipedia

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柴又帝釈天
正式名称は経栄山題経寺(だいきょうじ)である。旧本山は大本山中山法華経寺。親師法縁。なお「帝釈天」とは本来の意味では仏教の守護神である天部の一つを指すが、地元では題経寺の略称として用られることも多い。江戸時代初期の寛永6年(1629)に禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』を始め多くの文芸作品に登場し東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として扱われた。

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20世紀後半以降は人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるが、当寺の日蓮宗寺院としての本尊は帝釈天ではなく、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。(Wikipedia

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祖師堂(本堂)
帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。


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釈迦堂(開山堂)
江戸時代末期に建立された寺内最古の建築であり、奈良時代作という釈迦如来立像と開山日栄・中興の祖日敬の木像を安置する。Wikipedia



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邃渓園(すいけいえん)
大客殿前に広がる池泉式庭園で、昭和40年(1965)向島の庭師永井楽山の設計による。庭園への立ち入りは禁止されているが、周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができるWikipedia



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東京都選定歴史的建造物
設計者:大工棟梁 鈴木源治郎 建築年:昭和4年(1929帝釈天題経寺は寛永年間に創建された日蓮宗の寺院で、境内には文化・文政の頃の釈迦堂をはじめ明治以降に建てられた諸堂が多く現存する。北側の和風庭園(邃渓園・すいけいえん)に面した大客殿は、信徒の接待所として設計された建物で昭和4(1929)に完成した。この年には釈迦堂拝殿の造営も行われている。建物は木造、平屋建、総檜造りで屋根は入母屋、桟瓦葦き。ガラス障子の広縁を巡らし、縁の正面中央に張り出し部分を設けているところが外観上の特徴である。建物内部は四部屋からなる書院造りで、一番奥の頂経の間が上段の間である。天井には杉の一枚板を鏡板に用い、折上げ部分に漆を塗っている。また、床の間には近江の伊吹山山麓にあった「日本一」と言われる大南天の床柱がある。(東京都生活文化局)

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帝釈天出現由来碑
この碑は安永8年(1779)題経寺本堂改修の時発見した日蓮上人自刻の帝釈天板本尊を後世に伝えるため、弘化2年(1845)俳人・鈴木松什および壇徒・石渡忠右衛門等などが協力しその由来を記し併せて帝釈天の功徳を述べている。碑の総高は1.48m、撰文は宮沢雉神遊、書は荻原翬、刻者は窪世昌である。題経寺縁起の整ったものは明治29年(1896)に作成されたが本碑はそれ以前における由緒資料として貴重である。(葛飾区立教育委員会)

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山本亭
建築された年は不明であるが、大正末期から昭和初期に作られたとされている。浅草でカメラの部品を製造していた合資会社山本工場が関東大震災で被害を受けたため、柴又に移転した際に瓦業者の屋敷の跡となっていたものを取得し、改修したものである。山本家が4代に渡って住んでいたが、1988年に葛飾区の所有となり1991年から一般公開された。Wikipedia

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江戸川の風景① いい流れですね~、すぐ上流に「矢切の渡し」場があります/柴又公園

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柴又公園
柴又公園は日本庭園のある山本亭や寅さん記念館を含み、葛飾区の観光名所の一つになっています。また、江戸川河川敷の広場はレクリエーション・スポーツの場として利用されています。(葛飾区)


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矢切の渡し
矢切の地名は江戸川の渡し舟として有名な矢切の渡しの由来でもある。江戸川をはさむ矢切と葛飾区柴又を結んでおり、現在も渡し舟が運行されている。「房総の魅力500選」に選定されているほか柴又帝釈天界隈とともに環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。この渡しは江戸時代初期に江戸幕府が地元民のために設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちのひとつであり、観光用途に設けられたものではない。かつては官営だったがその後民営となり、代々個人により運営されている。この渡しが日本全国に有名になったのは、明治時代の伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906年)によるところが大きい。また、矢切の対岸柴又を舞台とする映画「男はつらいよ」シリーズの作中にもしばしば登場する。Wikipedia)

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柴又観光マップ


・・・北小岩/
江戸川区


江戸川区北東部に位置し同区の最北端にあたる。周辺の西小岩、東小岩、南小岩との総称で「小岩」と呼称することもある。町域の大半に住宅市街地が広がり、町域を南北に分断する形で京成電鉄の線路が東西に走る。江戸川河川敷には小岩緑地があるが鉄道橋を除いて対岸の千葉県と連絡する橋は北小岩が接する江戸川沿い約2km
で国道14号の市川橋のみである。(Wikipedia

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江戸川の風景② この少し下流から江戸川区、対岸は松戸市になります/北総線江戸川橋梁

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北総線
葛飾区の京成高砂駅と千葉県印西市の印旛日本医大駅を結ぶ北総鉄道が運営する鉄道路線である。京成高砂駅を出ると高架橋へと上がり、大きく左へカーブして高架のシェルターを抜けると新柴又駅へと到着する。住宅地を抜けると江戸川橋梁を渡り松戸市へと入るが田園風景が広がる。線路はすぐに下総台地の下に掘られた栗山トンネルへ進入し矢切駅へと至る。この先北国分駅-松飛台駅間は地形上、台地と低地が入り組む谷津田(丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形)が多いためトンネルと高架が連続する高低差の大きい線形となる。(Wikipedia

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八幡神社鳥居/北小岩

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八幡神社
祭神は誉田別尊、相殿に倉稲魂尊をまつっています。創建は不詳ですが、元禄8年(1695)の記録には神社の名がみられます。



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地蔵菩薩像庚申塔(戸川区登録有形民俗文化財)
この地蔵は、詩人として知られる北原白秋縁の三谷の地にあって三谷地蔵として親しまれ、現在は境内右奥にある社務所の中に安置されています。銘文から万治元年(1658)庚申供養のために造立したことが知られます。庚申塔は、60日に1度めぐってくる庚申の日の夜に、眠っている人の体内から三尸という虫が天帝に罪過を告げ命を縮めるという中国の道教の教えに由来する庚申信仰の信者によって建てられました。

北原白秋の歌碑
いつしかに 夏のあわれと なりにけり 乾草小屋の 桃色の月
明治から昭和にかけて高雅な詩や歌で有名な北原白秋(18851942)は、大正5年(191632歳の時)7月から約1年間、妻章子とともにこの小岩村字三谷の乾草商富田家の離れに居を構えました。ここを「紫烟草舎」(現在、市川市里見公園内に復元建設)と名付け、葛飾の風土や刃傷に見守られながら、短歌雑誌「煙草の花」を創刊したり数多い短歌や詩、小品集などの素材を得ました。昭和36年(1961)地元小岩町(現在の北小岩)の人びとは、白秋がこの江戸川べりの農村に住み、風物を愛したことをしのび八幡神社の境内に彼の歌碑を建てました。(江戸川区教育委員会)


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小岩3中から小岩公園を経て旧佐倉街道へ向かいます

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上小岩井親水緑道
北小岩地域を中央に流れていた北小岩川は明治11年に農業用水路として開削されたのち、市街化が進む中で、家庭からの排水が流れ込む排水路となりましたが、蓋をかけて歩行者用通路として地域の方々に利用されてきました。その後、下水道整備により、その役割は終えましたが、その跡地を利用して、四季を感じさせる樹木を植え、小川のせせらぎを演出した上小岩親水緑道を整備しました。また、このあたりは、弥生時代後期から古墳時代にかけての史跡(上小岩遺跡群)が見つかっており、上小岩遺跡のモニュメントや土器が描かれたマンホールを設置しています。(江戸川区)

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旧佐倉街道を新柴又駅方向へ向かいます/北小岩

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親水さくら街道
この道は江戸時代「佐倉街道」と呼ばれ、千住より小岩を経て千葉、佐倉に至る参勤交代の道筋として、江戸末期には成田詣りの道として利用されてきました。また、明治時代になると長年水不足に苦しんでいた農民のため、石井善兵衛氏が中心となり江戸川の水を取り入れ灌漑用水路を完成させました。その後、農業用水路から排水路となり下水道整備によって役目を終えたため、このような歴史的由緒ある水路を活かしつつ桜並木の美しい散策路として親水さくらかいどうを整備しました。(江戸川区)

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佐倉街道
江戸時代の脇往還の一つで佐倉城を終点とするもの。江戸時代史ではその2つの佐倉街道を区別するために便宜上、水戸街道新宿の追分~佐倉を結ぶ佐倉街道を「水戸佐倉道」、寒川湊(現在の千葉港)と佐倉を結ぶ佐倉街道を「千葉佐倉道」と呼び分ける場合がある。江戸幕府が公式に「佐倉道」「佐倉街道」と命名したのは水戸街道新宿から佐倉城までの街道。しかしこの街道を経由して成田山新勝寺へ向かう成田参詣が隆盛するに従い文化年間頃より「成田道」「成田街道」という愛称で呼ばれるようになった。現在千葉道路愛称名により「成田街道」と呼ばれているのはこの江戸幕府公式の佐倉街道のことである。東京都内については水戸街道の新宿追分より南方に分岐して新金線・京成金町線・北総鉄道・柴又街道と順次交差しリフレ京成新柴又店北側道路を経て江戸川土手に至る。千葉県に渡ったのちは市川宿船橋宿大和田宿(八千代市)・臼井宿(佐倉市)を経て目的地の佐倉に至る。その延長線上に芝山を経て九十九里浜あるいは多古を経て佐原に至る多古街道があり、酒々井で左折すると酒々井宿(佐々井町)を経て成田に至る成田道が続いていた。(Wikipedia


・・・鎌倉
/葛飾区

もと鎌倉新田といい正保改定図に初見される。1499年(明応8年)の板曼荼羅が発掘され曼荼羅村とも呼ばれた。1889年(明治22年)南葛飾郡奥戸村の所属となり奥戸村大字鎌倉となる。1930年(昭和5年)には奥戸村が町制施行し奥戸町へ移行、1932年(昭和7年)奥戸町が東京市に編入され大字鎌倉は葛飾区鎌倉町となり昭和41年の住居表示で現在に至る。地名は
いくつかの言い伝えがあり、相模国鎌倉郡にある鎌倉八幡宮から勧請して八幡宮をこの地に置いたのでついた説、相模国鎌倉郡から来た源右衛門がこの地を開発したことからついた説などがある。Wikipedia

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東稲荷神社鳥居/鎌倉

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東稲荷神社
祭神は倉稲魂命。「新編武蔵風土記稿」鎌倉新田の条に、稲荷社ニ宇、同新田浄光院の持とするうちの一社で、鎌倉三丁目の「赤稲荷神社」に対して、「東の稲荷」と呼ばれている。(葛飾区)



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鎌倉公園
鎌倉公園にはプール、遊具、野草園があり、子どもから大人まで楽しめます。鎌倉公園に隣接する北総線高架下の鎌倉児童遊園は遊具コーナーとなっています。(葛飾区)

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柴又街道を帝釈天参道へと向かいます/新柴又駅先


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新柴又駅               帝釈天参道信号


都道307号王子金町江戸川線

北区王子駅前から江戸川区南篠崎町2丁目に至る主要地方道である。柴又街道は金町三丁目交差点-終点までの愛称。Wikipedia

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TOKYOウオーク・子供ウオークコースマップ(5km)

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TOKYOウオーク・スターティング風景/柴又公園 

『TOKYOウオーク2017』の概要・日程等はこちらへ(http://www.tokyo-walk.jp/

by Twalking | 2017-07-14 19:34 | 東京散歩(新規)