無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 カテゴリ:○ツーリズムウオーク( 37 )   

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(4)新子安~保土ヶ谷   

日時 2015.7.11(土)
天気 晴れ

梅雨の長雨から一転して猛暑日となりました。
木陰を選んで歩きましたが、暑かったですね。
でも、いい浜風が吹いて心地よかったです。

神奈川宿は変化があって面白いでね。
漁師町、浦島伝説、開港後の領事館、神奈川湊、
景勝地神奈川台・・・如何でしたか、内海だったんですね。

保土ヶ谷手前の松原商店街、ここは元気な商店街ですね、
ぶらりとみなさん散策されてました。
浜風とともに楽しい一日をありがとうございました。
どうぞ、お疲れがでませんように!


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ここからスタートです/キリンビアビバレッツジ


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第一京浜を西へ                  時間があれば回りたかったな~/浜通り


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神奈川宿歴史の道/地区公民館前


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オランダ領事館跡、宿の入口です       笠のぎ稲荷神社


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神奈川宿の中心部、河口には神奈川台場がありました/滝ノ川


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浦島伝説の伝わる慶運寺            かつての古戦場/権現山


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この崖下が神奈川湊でした/青木橋慶運寺


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かつての景勝地・神奈川台


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大天狗伝説の伝わる大網金刀比羅神社   おりょうさんもいた「さくらや」/割烹田中屋


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東海道五十三次 神奈川宿 神奈川台之景 (広重)


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松原商店街をぶらり散策/保土ヶ谷宿入口


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旧帷子橋渡ってゴールに向かいましょう/天王子駅


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江戸名所図会 帷子橋 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)


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記録
日時 2015.7.11(土)
人数 26名(2班)
歩数 22800歩
時間 5時間
催行 読売旅行(土浦)

行程
各所⇒キリンビアビバレッジ10:40(WC・S)10:55・・・浜川橋・・・
長延寺跡(オランダ領事館)・・・満能寺・・・良泉寺・・・笠のぎ稲荷神社・・・
歴史の道(神奈川小)・・・神奈川御殿跡・・・金蔵寺・・・熊野神社・・・
地区公民館12:15(昼食・WC)12:50・・・成仏寺・・・慶運寺(フランス領事館)・・・
滝ノ橋(本陣・神奈川台場)・・・宗興寺(シーボルト)・・・権現山・幸ヶ谷公園14:05・・・
洲崎神社(神奈川陣屋)・・・勘行寺・・・青木橋・・・本覚寺(アメリカ領事館・WC)・・・
大綱金刀比羅神社・一里塚・・・神奈川台・田中屋・・・関門跡・・・上台橋・・・
浅間公園(WC)14:55・・・浅間神社・・・八王子道追分・・・松原商店街散策・・・
橘樹神社・・・帷子橋跡・・・保土ヶ谷駅15:45(WC)16:10⇒各所


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資料ファイル

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神奈川宿歴史の道(神奈川区発行)

神奈川宿は東海道を品川宿・川崎宿とあるいて3番目(最初は品川宿に次いで2番目)の宿場町で、生麦村からは海に沿って延びていました。現在の国道15号線沿い山側が旧東海道に当りますが、現在の神奈川警察署のやや手前海側に問屋場がありました。その先滝の川を境に手前を神奈川町といい、橋近くの山側に石井本陣、並んで橋際に高札湯があって、橋を渡ると青木町となり海側に鈴木本陣がありました。神奈川町・青木町の2町でつくられたのが神奈川宿であり、このあたりが宿場の中心で旅籠屋が軒を連ねていたところです。さらに進んで国道15号線から宮前商店街に入りますが、このところの道幅は往時の東海道を偲ばせるものです。そして台町へ。東海道でも有数の景勝地「袖ヶ浦」を左に、「さくらや」など茶屋が並んで客引きも賑やかな坂を上って行きます。
神奈川宿は宿場町としてのはたらきだけではなく、神奈川道・稲毛道という脇往還の起点でもあり、御菜八ヵ浦のうちのーとして幕府へ御肴献上をする由緒ある神奈川猟師町をもち、関西・尾張方面からの千石船が停泊する神奈川湊(袖ヶ浦)が物資の集散地としても栄えるという東海道でも有数な宿場町でありました。1843(天保13)年の幕府の調べ(宿村大概帳)では、川崎宿まで約10km、保土ケ谷宿まで約5km。人口5793人(県内9宿中第1位)、総軒数1341軒(県内9宿中第2位)、旅籠数58軒(茶屋は除く)という記録になっています。(神奈川区)


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神奈川宿歴史の道(神奈川区)
手前の権現山から高島台は尾根続き。その麓を東海道が通り、権現山下の宿中心から神奈川湊、台町へ、下って保土ヶ谷宿に向かいます。対岸が横浜村、居留地へは東海道から分かれ、内海に沿って横浜道が整備されました。

by Twalking | 2015-07-12 16:30 | ○ツーリズムウオーク

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(24)金谷宿~掛川宿   

日時 2015.5.10(日)~11(月)
天気 晴れ

5月の風は爽やかですね~。
久し振りの牧之原・小夜の中山越え、
楽しみにしていました。

新緑と茶畑、青空に輝いてました~、最高!
ちょっと小粒でしたが、みなさん元気に歩かれました。
ここはほんと素晴らしい峠越えの道です。
お疲れさまでしたぁ~、楽しかったで~す!


・・・初日

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この牧之原台地を越えて日坂宿へ向かいます


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一番の難所で~す/清水坂

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名物子育て飴、美味しかったですね~/扇谷 わぁ~、急な下り坂/二の曲がり  
  

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小夜の中山峠、無事に越えましたぁ~/事任八幡宮


・・・2日目

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山城ですから、登り階段が厳し~い!

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こうやってつくるんですかぁ~/桂花園      記念撮影しましょう!/天守閣


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あの牧之原台地を越えて来たんですよ~/天守閣


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広いですね~掛川平野、次回は前方の三ヶ原台地&天竜川を目指しま~す/天守閣


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記録
人数 6名
歩数 初日23800歩 2日目24400歩
時間 初日5時間10分 2日目5時間30分
宿泊 ルートイン掛川
催行 読売旅行宇都宮営業所

行程
初日
各所⇒新金谷駅(WC・S)11:40・・・金谷宿・・・石畳茶屋(WC)12:30・・・
鶏頭塚・・・すべらず地蔵・・・金谷峠・・・諏訪原城址(小休)・・・菊川坂・・・
間宿菊川(WC)13:45・・・清水坂・・・九遠寺・・・扇谷・・・中山公園14:50・・・
佐夜鹿一里塚・・・鎧塚・・・妊婦の墓・・・夜泣き石・・・日坂宿(WC)・・・
事任八幡宮16:40・・・道の駅掛川17:00(WC)⇒ルートイン17:15

2日目
ルートイン7:45⇒道の駅8:15・・・伊藤嵐牛邸・・・伊達方一里塚・・・
諏訪神社・・・道標・・・セブン(WC)9:55・・・葛川一里塚・・・もちや・・・
七曲り・・・桂花園・・・掛川宿・・・掛川城11:00(見学・WC)12:10・・・
・・・・円満寺・・・西の番所・・・十九塚・・・大池橋13:05・・・
大池一里塚13:25・・・善光寺・・・椎木茶屋13:45(昼食)14:30⇒森IC⇒
駿河湾清水(WC)15:45⇒海老名SA17:00




by Twalking | 2015-05-12 13:26 | ○ツーリズムウオーク

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 掛川城   

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掛川城
東海道/掛川宿



掛川城の歴史 
掛川城より東に500mほどのところにあった掛川古城は、戦国時代の明応六年から文亀元年の間に、駿河の守護大名今川氏が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕に築かせたと言われています。その後、遠江における今川氏の勢力拡大に伴い、掛川古城では手狭となり、永正九年から十年頃に現在の地に掛川城が築かれました。永禄三年、桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれると、永禄十一年,義元の子氏真は甲斐の武田氏に駿河を追われ、掛川城に立てこもりました。翌年、徳川家康は掛川城を攻め、長期に渡る攻防の末和睦により開城させました。家康領有後、重臣石川家成が入城し、武田氏侵攻に対する防御の拠点となりました。天正十八年、全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は城の拡張や城下の整備を行うとともに、掛川城に初めて天守閣をつくりました。(掛川市HP)

by Twalking | 2015-05-12 11:06 | ○ツーリズムウオーク

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 東海道(1)日本橋~品川宿   

日時 2015.4.11(土)
天気 小雨&曇り

東海道は人気がありますね。
大勢のお客さまが日本橋からスタートを切られました。

朝方は小雨模様でしたが、すぐに上がりよかったです。
名残の桜をみながら、みなさん元気に歩かれてました。
長い道中、ひとまず箱根を目指し楽しんで頂けたらと思います。
お疲れさまでした、ありがとうございました!


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日本橋川一石橋/常盤橋公園


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芝公園

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増上寺                        泉岳寺


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品川宿


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記録
人数 25名(ルループ全体48名)
歩数 21800歩
時間 6時間40分
催行 阪急交通社

行程
常盤橋公園(WC・S)10:15・・・日本橋(ガイド)10:50・・・
八重洲・・・京橋(WC)11:35・・・新橋・・・芝大明神・・・芝公園・・・
増上寺12:40(参拝・WC)13:10・・・浜松町13:20(昼食・WC・ガイド)
14:00・・・勝・西郷会談地・・・札の辻・・・高輪大木戸・・・
泉岳寺15:10(ガイド・WC)16:00・・・高輪石垣・・・八つ山口・・・
問答河岸・・・土蔵相模跡・・・品海公園・・・聖蹟公園(ガイド)16:50

by Twalking | 2015-04-12 15:39 | ○ツーリズムウオーク

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 番外 ぶらり諏訪大社本宮   

日時 2015.3.30(月)
天気 晴れ

ホテルで聞いたら20~30分の距離とか、
位置も確認したかったのでぶらりと行ってみました。
朝霧のかかる社叢、厳かで気持ちいいですね。
参拝できてよかったです。

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拝所
拝殿から斎庭を隔てて位置する拝殿:拝殿の後ろに幣殿、左右に片拝殿が続く「諏訪造」と呼ばれる独自配置でいずれも重要文化財に指定。


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東参道入口
入口御門:文政12年(1829)造営


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朝霧のかかる守屋山/東参道
守屋山
赤石山脈北端の山で、本宮南方に位置する。古来から上社の神体山とされた。山名から物部守屋に関する伝承があり守屋を祀る守屋神社が南山麓(里宮)と山頂(奥宮)にあるほか、神長官の守矢氏との関係が指摘されている。


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資料ファイル

上社
上社は諏訪湖南岸、諏訪盆地の西南端にある。下社に対しては上流の位置にあたる。本宮・前宮からなり、下社と異なり二宮は古くは本社・摂社という関係であった。御頭祭・蛙狩神事に見られるように狩猟民族的な性格を有している。かつては本宮を主として上諏訪の中心地であったが、近世以後は北方の高島城下町に移り、そちらに甲州街道の上諏訪宿も設けられた。祭神は本宮・建御名方神(たけみなかたのかみ)、前宮・八坂刀売神(やさかとめのかみ)。

本宮(ほんみや)は赤石山脈北端の守屋山北麓に鎮座する。社殿6棟が国の重要文化財に指定され、社叢は落葉樹からなる自然林で長野県の天然記念物に指定されている。

d0183387_00141388.jpg勅願殿(祈祷所)
元禄3年(1690)建立。神霊の宿る守屋山に向かって祈願するための建物。





d0183387_00143615.jpg四脚門
慶長13年(1608)徳川家康が大久保長安に命じて建立させたもの。かつては大祝だけが最上段にある硯石へと登るために使った。現在は重要な祭事においてのみ開かれる。



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布橋 
古くは大祝のみが渡り、布が敷かれた。(重要文化財)





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五間廊
安永2年(1773)造営。








d0183387_00293060.jpg造営
勅使殿
元禄3年(1690)造営。数々の神事が行われた。






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神楽殿
文政10年(1827)造営。殿内に大太鼓。








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諏訪大社本宮境内案内図

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諏訪大社

長野県中央の諏訪湖を挟んで以下の二社四宮の境内が鎮座する。上社(かみしゃ)本宮(ほんみや・諏訪市中洲宮山)前宮(まえみや・茅野市宮川)下社(しもしゃ)秋宮(諏訪郡下諏訪町武居)春宮(諏訪郡下諏訪町下ノ原)。上社は諏訪湖南岸、下社は北岸に位置し遠く離れているため実質的には別の神社となっている。創建の年代は不明だが、日本最古の神社の1つといわれるほど古くから存在する。『梁麈秘杪』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているように軍神として崇敬された。また中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られる。(祭神)当社全体で祀る主祭神は以下の2柱。両神とも上社・下社で祀られている。建御名方神(たけみなかたのかみ)上社本宮祭神。『古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主命の御子神として登場する。母は沼河比売(奴奈川姫)とされる。『先代旧事本紀』には建御名方神が信濃国諏方郡の諏方神社に鎮座すると明示されている。 八坂刀売神(やさかとめのかみ)上社前宮・下社主祭神。建御名方神の妃。 なお、本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるという説もある。現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われる事が多く、区別されることは非常に稀である。神事や祭祀は今尚その殆どが土着信仰に関わるものであるとされる。

d0183387_10403386.jpg(特徴)
御柱:当社の社殿の周りには御柱と呼ぶ以下4本のモミの柱が立てられている。柱の樹皮は本来は剥がさなかったが1986年頃以降剥がすようになった。前宮・秋宮・春宮では一之御柱・二之御柱は正面を向いているが、本宮では南方の守屋山の方向を向いている。諏訪地方では大きい神社から小さい祠にいたるまで、当社にならってこの御柱を設ける社が多い。御柱の由来は明らかでなく古来より説があるが、今日では神霊降臨の依り代説、聖地標示説、社殿建て替え代用説が検討の余地を残している。


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神体・宝殿:当社には本殿が設けられていない。本宮は拝殿後背林(通称・御山)、秋宮はイチイの神木、春宮はスギの神木を神体とし、拝殿からそれらを拝する。なお、前宮は古くは上社摂社であった関係で本殿を有している。本宮・秋宮・春宮には、本殿がない代わりに2つの宝殿がある。宝殿の一方には神輿が納められ、寅と申の年の御柱祭で御柱建て替えと同時にもう一方へ遷座し、古い宝殿は建て替えられる。すなわち1つの宝殿は12年ごとに建て替えられ、神明造に似た古い様式を現在に伝えている。神輿の納められる宝殿は「神殿」と呼ばれて祭祀が行われ、もう一方は「権殿」と呼ばれる。

(歴史)
創建:『古事記』『先代旧日本書紀』では、天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌神(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫ったとされる。これに対して大国主命の次男である見御名方命が国譲りに反対し、武甕槌命に相撲を挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れた。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされる。説話には社を営んだことまでは記されていないが、当社の起源はこの神話にあるといわれている。なお、この説話は『日本書紀』には記載されていない。以上はあくまでも神話の域を出ないが、これを基に土着の勢力の上に外から入った神氏によって成立したのが当社であると考えられている。
中世:鎌倉時代には「諏訪社」の表記が見られ、また「上宮」「上社」の記載もありこの頃には上社・下社に分けられていた。なお、治承4年(1180)が上下社の区別が明示されている初見である。他の神社同様、当社も神仏習合により上社・下社に神宮寺が設けられて別当寺(神社を管理する寺)となり、上社は普賢菩薩・下社は千手観音が本地仏とされた。上社南方の御射山で行われた御射山祭には鎌倉を始め甲斐・信濃など周辺の武士が参加した。それに加えて軍神としての武士からの崇敬や諏訪氏の鎌倉・京都への出仕により、今日に見る諏訪信仰の全国への広まりが形成された。また、諏訪両社においても大祝を中心として武士団化が進み両社間で争いも多かった。戦国時代に甲斐国の武田氏と諏訪氏は同盟関係にあったが、天文11年には手切れとなり、武田信玄による諏訪侵攻が行われ、諏訪地方は武田領国化される。信玄によって永禄8年(1565)から翌年にかけて上社・下社の祭祀の再興が図られた。信玄からの崇敬は強く戦時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に諏訪法性兜をかぶって出陣したと伝えられる。

(神職)
当社には神体と同視される「大祝」(おおほうり= 現代神)のもと五官の祝(神職)が置かれた。
上社大祝:諏訪氏(神氏)祭神・建御名方神の後裔。古代から代々、上社の大祝を務めた。中世には大祝を中心として武士団化した。上諏訪の祭政の権を握っていたが室町時代に兵馬の惣領家・祭祀の大祝家に分かれ、のち惣領家に統一された。江戸時代には諏訪藩を治めたが諏訪頼忠の四男・頼広が大祝家として分かれ、藩主家と異なる「諏方」の字を用いて書き分けた。居館は神殿(ごうどの・現前宮 のち諏訪市中洲)
下社大祝:金刺氏(かなさし)のち武居氏 科野国造の後裔。中世には大祝を中心として武士団化した。室町時代に金刺氏は上社との争いに敗れ他国へ去り、以後は武居祝から大祝が立てられた。居館は下諏訪町上馬場のち下諏訪町武居。(Wikipedia)

by Twalking | 2015-04-04 09:26 | ○ツーリズムウオーク

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 甲州街道(1)下諏訪宿~金沢宿04金沢宿   

日時 2015.3.30(月)
天気 晴れ


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この橋を渡った辺りが間宿茅野になります/上川橋

上原八幡神社の由来 
八幡神社は古くは八幡宮と呼ばれ、当社の由緒書によれば、既に鎌倉時代弘長年中(126164)に前上社大祝諏訪盛重が鎌倉鶴ヶ岡八幡宮を分霊し、八幡山極楽寺を別当として神祭祈祷を盛んにし、さらに戦国時代永禄年中(155870)鎌倉より光明寺を移し極楽寺とともに別当とし、社地は数町歩に及び上原城下町の中枢として広く諏訪一円から崇敬された。慶長6年(1601)諏訪氏が上州から諏訪の旧領に復帰後高島藩主が江戸参勤往復の際、藩主は当社前で下乗、神前において道中の安全を祈願した。即ち、江戸行きの際には藩主は当社まで騎馬、下乗祈願後当社より旅支度を整え駕籠で出府、帰城の際も当社にて駕籠から騎馬にかえたといわれている。今日社前に残る参道と枡形の駕籠置石の配列は数百年の歴史を物語っている。(上原区上原史跡保存会)


d0183387_20062349.jpg諏訪大社茅野駅前参道大鳥居
この大鳥居は、茅野駅より上社を結ぶ参道の入り口に立っており、茅野駅を利用しての諏訪大社参拝をするための表参道になります。この参道を下ると諏訪大社の末社「達屋酢蔵神社」(たつやすくらじんじゃ)があり、この神社へ通じる大鳥居の役目も果たしています。

達屋酢蔵神社
達屋社は諏訪明神の造営を司る大工の神で、酢蔵社(すくら)は酒を造る知恵の神です。文明14年(1482)に両社が合併し、中世より横内の土産神になりました。御柱祭のときは、八ヶ岳の御小屋神社(おこやじんじゃ)から御柱を曳きだす特権を持っています。

三輪神社
三輪神社は、久寿年間(約810年前)に大和の国三輪村神社をこの地にお迎えしたものと伝えられ、宮川茅野・西茅野両区の産土神である。祭神は大国主命・稲御魂命・櫛玉命である。本殿は、文化元年(18043月に矢崎玖右衛門により建築され、拝殿は文政3年(1820)に建築されたが 明治41年に改築している。本殿の彫刻は大隈流の流れをくむ矢崎玖右衛門の代表作である。江戸時代の建築の彫刻に技巧をこらした傾向がよく現れている。題材はすべて中国の歴史物語にとり、北面には「蜀の三傑桃園に義を結ぶ」の図、東面は「黄石公 張良に兵書を授くる」の図(こうせきこう・秦の時代の兵法の祖)、南面は「玄徳赤兎馬に鞭打って潭渓を越ゆる」の図である。欅を材として半肉彫で空間構成もよくととのい香高い芸術作品である。(茅野市教育委員会)

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明治天皇御小休所ご案内
明治13年明治天皇は山梨・三重・京都御巡幸の際茅野をお通りになり、丸井伊藤商店前の五味三郎宅で御休憩された。出発は616日で23日山梨県から諏訪に入られ午後2時に五味宅へお着きになった。一行は伏見宮・太政大臣三條実美・参議寺島宗則・伊藤博文等五百余名が従者としておいでになり、小休所では宗湖庵の井戸水を用いてお茶を差し上げた。御下賜品は白羽二重一匹・金拾五円、宗湖庵へは金50銭を賜った。一行は約1時間お休みになって上諏訪へご出発なされた。

諏訪家(藩祖)と諏訪御寮人(井上靖-由布姫 新田次郎-湖衣姫ゆかりの宗湖寺)

宗湖寺は諏訪家の藩祖諏訪頼忠公(永明寺殿芸州太守光山宗湖大庵主)の菩提寺であります。天文11年惣領家諏訪頼重が武田氏に滅ぼされて以来、雌伏40年上社大祝職(おおほりしょく)にあった頼忠公(頼重の従弟)は、密かに再興の機を狙っていましたが、天正10年武田氏が天目山に滅び、織田信長も又本能寺の変に討滅されるや、いち早く兵を挙げ再び諏訪の地を旧領に復しました。しかし時勢の遍歴は更に厳しく、やがて豊臣の治世となり、頼忠は徳川氏に属し譜代の大名として関東に移封となり、およそ10年の間武州・上州と彼の地にあったのでありますが、慶長6年関ヶ原の戦功により、再び故国諏訪の地に復帰したのであります。帰国後4年、頼忠はすでに71歳を数え慶長10821日その寿を全うして卒去。後、寛永7年故あった永明寺は破却され、その後宮川の地に移り現在に至っています。宗湖寺後方にある上社木落しは御柱祭の見せ場で諏訪の平を見渡せる場所です。武田信玄諏訪侵攻の時、上原城が見え諏訪勢の動きが見通せる木落しに陣を張り諏訪頼重は上川を挟んで犬射原に陣を構えたが軍勢の違いから、退いて上原城を焼きついに桑原城で敗れて囚われ、甲府に送られ自害しました。井上靖小説『風林火山』の中にある宮川部落とは、まさにこの辺りです。(説明板)


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192kmポイント茅野市宮川           酒室神社先を左折/板室橋


d0183387_20175127.jpg酒室神社
酒室神社は、御射山(みさやま)祭りに濁酒(どぶろく)を作り、山の神に供える前夜祭をとり行った神聖な地に祀った神で、酒解子(さけとくね)之神を祭神とする。酒室は御射山の入口に位置し、御射山は通称「はらやま」で、諏訪明神のみ狩神事の祭場である。年4度のみ狩が定められ、これを「みさやままつり」または「はらやまさま」と呼ぶ。4度のみ狩とは、押立み狩・御作田み狩・穂屋のみ狩・秋尾のみ狩である。このうち最も盛大な神事が穂屋のまつりで、旧暦726日、現在は826日に行われている。武術を奨励した昔は、諸国から守護・持頭・代官職等が多数参加し、祭の催しには、的矢・流鏑馬・角力等が行われ、露店や芸人が集まり、そのため槍隊が出て警護にあたったと云われる。参詣人をかぞえる大草(すすき)さずけの儀が行われ、神事が終わると一同勢揃いして弓振川で弓を清め、御射山にのぼりみ狩が行われた。神殿は文政8年(1825)大隅流の建築家矢崎玖右衛門の建築したものである。なお境内の東の隅に「雨降り塚」と呼ぶ古墳があり、明治34年に発掘された。(茅野市教育委員会)


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中央本線の跨線橋を越え、前方の小山の先が金沢宿になります/茅野市木舟


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板室から前方の山間を抜けて木舟、青柳へと歩いてきました。


d0183387_21140002.jpg青柳一里塚
徳川家康が江戸に幕府を開き交通政策の一貫として慶長6年(1601)ころ日本橋を基点に五街道を制定し一里ごとに塚を築かせた。甲州街道は当初甲府までであったが慶長15年ころ下諏訪まで延長し中山道と接続させた。茅野市教育委員会はここに「江戸日本橋より49里」(50ともいわれる)と刻んだ碑を建てた。塚は甲州街道制定当時は両塚であったが、明治18年の道路改修や明治38年の中央線の線路敷設工事などによって塚は取り去られた。また近年この付近の耕地整理が行われたために当初の位置とは変わっている。(金沢財産区金沢区金沢歴史同好会)

権現の森
文化2(1805)に金沢宿より幕府に提出した『御分間御絵図御用宿方明細書上帳』に「宿持鎮守 除地 拾六間四方金山権現森壱ヶ所石御祠御座候但江戸ヨリ右之方往還ニ御座候」とあり、権現の森と石祠(せきし)について報告がされている。参道正面に祀られているのがこの石祠で建立は承応3(1654)である。青柳宿が移転して金沢宿と名を改めた3年後のことである。金山権現の祭神は金山彦命で山の神である。武田信玄の開発した金鶏金山と関係が考えられ、当時すでに祀られていたのではないかと考えられる。石祠の左右には、江戸中期ころより庶民の信仰として祀られた御嶽座王大権現・庚申・矜羯羅童子と制?迦童子の脇侍をともなう不動明王・摩利支天・甲子・秩父坂東西国巡礼供養塔・津島牛頭天王・大六天・如意輪観音・蚕玉大神・道祖神祠・石燈籠など大正期までの石造物20数基が祀られている。 また、石祠建立のころの植樹かと思われるサワラの古木が残存し森に趣を添えており、信仰の場としてまた憩いの場として今も江戸時代の名ごりを留めている貴重な場所である。(茅野市教育委員会)


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宿場風景/茅野市金沢

金沢宿(本陣1軒・旅籠17軒・総家数161軒・人口622人)
江戸から甲府までの甲州道中が下諏訪まで延長されたのは慶長15年(1610)ころです。その頃ここは青柳宿といい、この権現の森の北西に家が並んでいました。しかし、たびかさなる宮川の洪水や慶安3年(1650)の大火を機に南方の現在地へ移転し、翌4年に金沢宿と宿名を改めました。この宿場は山浦方面や松倉峠(金沢峠)を越して高遠方面に通ずる分岐点として、交通上、物資の流通上重要な所でした。


d0183387_21220432.jpg如意輪観音の由来

金沢宿本陣問屋三代目小松三郎左衛門は、金沢山をめぐる金沢町と千野村との山論においてその中心となって働いた人である。延宝6年(1678)藩奉行所の裁許状に対し金沢町の立場を強く主張したが、奉行所では駅伝馬の遅れを裁許状に服しないを理由にはりつけの刑に処した。処刑はその年の1025日町民涙で見守る前で34歳を一期に刑場の露と消える。処刑の地はこの付近と伝えられている。寛延2年(1749)供養の地蔵尊が建てられたがいつの頃か水害にあい流失したものと思われる。寛政12年(1800)下町の人々により祀られた如意輪観音をその対象として供養が行われ今日に至っている。(小松三郎左衛門奉賛会)


d0183387_21220867.jpg金沢宿本陣跡
五街道は幕府直轄で道中奉行の支配下に置き約4里(約15km)おきくらいに宿場を設け、大名の参勤交代や公用旅行荷物の継ぎ建ての業務にあてさせた。甲州街道の宿場には25人の人足と25匹の馬を常駐させその任に当たらせた。本陣は大名や公家が泊ったり休憩する施設で、公用の書状や荷物の継ぎたてをおこなっていた。金沢宿には2軒の問屋が置かれ主は名字帯刀が許されていて世襲であった。金沢宿は慶安年間の初めまでは現在地の北方権現原にあって青柳宿と称していたが、度重なる水害と前年の火災で焼失したのを機に、慶安4年(1651)現在地に移転し金沢町と改称した。本陣の敷地は約4反歩(約40アール)あって、敷地内には高島藩や松本藩の米倉などがあった。小松家は青柳宿当時から代々本陣問屋を勤めていたが、隣村茅野村との山論で家族を顧みる暇もなく、寝食を忘れ町民の先にたって働いた4代三郎左衛門は、延宝6年(1678)高島藩は伝馬を怠ったとの廉で、町民の見守る中ではりつけの刑に処され 家は闕所断絶した。その後明治初年まで白川家が本陣問屋を勤めた。金沢宿を利用した大名は高島藩・飯田藩・高遠藩の3藩であったが、 江戸後期になると幕府の許可を得た大名が東海道や中仙道を通らず甲州街道を通行し金沢宿に泊まっている。(金沢財産区金沢区金沢歴史同好会)



d0183387_22354016.png金鶏金山

戦国最強とうたわれた武田軍団を支えた甲州金です。武田信玄は甲斐国や新たに手に入れた信濃で積極的に金山開発したといわれます。金採掘の技術集団・金山衆が集落をつくり、家内工業の延長のような小規模経営の集合体を形成したとみられています。金沢金山は「金鶏(きんけい)金山」とも呼ばれ、金鉱脈が鶏が羽を広げた姿に似ていることからついたといわれています。信玄が採掘した金山は八カ所あるといわれその一つが金鶏金山でした。ここからは九十貫目の良質な金が出て、甲州金24万両を作ったと伝えられてます。(案内板)


by Twalking | 2015-04-03 21:59 | ○ツーリズムウオーク

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 甲州街道(1)下諏訪宿~金沢宿03 上諏訪宿   

日時 2015.3.29(日)
天気 曇り


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上諏訪宿

上諏訪宿
江戸から数えて38番目の宿場。江戸から5213町、下諏訪から111町に位置する。1592年、諏訪藩主日根野高吉により、高島城の城下町の一部として整備された。本陣は1軒、脇本陣なし、旅籠は14軒であった。(Wikipedia)


d0183387_22053914.jpg温泉寺
(おんせんじ)
諏訪市湯の脇にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は臨江山、本尊は釈迦如来。二代高島藩主諏訪忠恒が下諏訪の慈雲寺14世泰嶺玄米を開山として寛永17年(1640年)建立された。以来高島藩諏訪氏の菩提寺となり、累代藩主の廟がある。高島城より薬医門、山門、能舞台が移築されている。(Wikipedia)


d0183387_22154130.jpg甲州街道五十二里塚
甲州道中は江戸から甲府が表街道、甲府から下諏訪が裏街道と呼ばれ下諏訪宿で中山道と合流していた。各街道とも江戸日本橋より36町(一里約4Km)ごと道の両側に盛り土をして頂上にケヤキ・エノキなどを植えて一里塚とした。ここに一里塚ができたのは慶長15年(1610)頃と言われている。この塚は江戸から52里で西は下諏訪町富部の53里塚、東は四賀神戸の51里塚へと続いている。(諏訪市教育委員会)


d0183387_22051269.jpg吉田のマツ
諏訪市天然記念物  種名 クロマツ(マツ科) 推定樹齢 270300(平成七年現在) 大きさ 目通り幹周 1.45m 地上30cm 幹周2.13m高島藩士吉田式部左衛門が元禄3年(1690)から享保8年(1723)藩主忠虎の大阪城守備に随行したとき持ち帰ったものと伝えられる。代々吉田家の庭園に育てられたものを、昭和の始め旧甲州街道沿いに移植したものであり市内の最年長樹である。クロマツの特徴は樹皮が末端まで暗黒色、下部樹皮が亀甲状に割れ、葉は濃緑色で強剛、新芽の鱗片は白味を帯びる。諏訪地方に見られるクロマツは栽植されたものである。(諏訪市教育委員会)


d0183387_23152957.jpg虫湯跡/諏訪1 虫湯は江戸初期から上諏訪名湯の一つとして「蒸湯」とも呼ばれ、この辺りの小字名も虫湯という。武家専用で高島藩主もよくこの湯で入浴潔斎の後、寺社に参詣した。(標柱)




d0183387_23165520.jpg上諏訪駅足湯 
駅構内でヒノキのベンチに腰掛け、足だけを温泉に浸す足湯。切符があれば誰でも入浴でき、電車を眺めながらのんびり寛げる。(パンフ)




d0183387_23024988.jpg上諏訪宿問屋場跡

上諏訪宿は甲州道中最後の宿場でありその中でも問屋は荷物の継立とそのための人馬を手配する所で、宿の中心であった。問屋は初めの頃より上諏訪駅側の本町にあったが、承応3年(1654)にここ中町に移り、貞享2年(1685)からは代々小平家が問屋を勤めた。本陣は高貴な方々の宿泊するところであったが、上諏訪宿では問屋が本陣も兼ねていた。(諏訪市教育委員会)


d0183387_23025204.jpg精進湯
精進湯の創設年は定かではありませんが、高島藩三代藩主諏訪忠晴が寛文4年(1664)画工に命じて使らせたとされる御枕屏風(八釼神社所蔵)には、精進湯が描かれています。その名は地元の鎮守であり諏訪大社上社の摂社でもある手長神社へ「身を清めて参拝にのぼる」という意味から名付けられました。手長神社には精進の湯の石の祠が現在も祀られています。(パンフ)


d0183387_23063146.jpg手長神社(てながじんじゃ)
諏訪市にある神社。手摩乳命(てなづちのみこと)別名を「手長彦神」といい、諏訪大社の祭神・建御名方神に随従する神。建御名方神が諏訪大社に祀られる以前からこの地で信仰されていた神とされる。創建の由諸は不明であるが、境内の近くには旧石器時代・古墳時代の複合遺跡である手長丘遺跡が、境内上方には茶臼山古墳群があり、周辺には古代から人が住んでいた。古くは「手長宮」・「手長大明神」と称され、諏訪大社の末社であった。元は桑原郷の総鎮守で、足摩乳命とともに祀られていた。のちに鎌倉時代に桑原郷が上桑原と下桑原に分けられたとき、下桑原に手摩乳命を祀る手長神社が作られ、上桑原の足長神社とともにそれぞれの鎮守となったとされる。領主・武家や庶民からの崇敬が篤く、高島城の鬼門に位置することから諏訪藩家中の総鎮守とされた。(案内板)


d0183387_23074840.jpg迎冬山貞松院月仙寺

文禄年(1593)飼開山無哲上人によって開創された(宗派浄土宗)開基は諏訪頼水公、総本山知恩院の直末寺院。開創当時は慈雲院と称していたが正保2年(1645)頼水公夫人の没後貞松院(母公の院殿号)と改称された。天和3年(1683)に徳川家康公の六男・松平忠輝公が高島城南の丸で亡くなられ、生前の縁故によって当院に葬られました。宝永3年(1706)には5代将軍綱吉公から永代供養料として御朱印地30万石の寄進を受け、以後当院は菩提所の一院となり藩主家独礼、蝕頭としてその日常社務は多忙を極めました。(パンフレット)

d0183387_23075769.jpg松平忠輝公の略歴

禄元年(1592)江戸城において出生。家康公6男、母は茶阿の方、幼名辰千代。11歳で上総介を任ぜられ、14歳で参内し、従四位叙任、右近衛少将に補せられる。また同年将軍の名代として大坂城に秀頼を訪い、豊臣、徳川両家の緊張緩和に功績を挙げる。15歳、正宗公の娘五郎八(いろは)姫と結婚。19歳にして越後60万石の大大名となる。その性俊英にして果敢、気宇または壮大、開国思想を持った逸材。たまたま鎖国政策に向う幕府に入れられず、また正宗公や大久保長安との関係も幕府の注目するところとなり、大坂夏の陣後、怠戦等些細な理由で25歳元和2年改易された。伊勢に3年、飛騨に7年、35歳寛永3年に当地に配流。当藩主頼水公は南の丸を整備して迎え好遇した。この地に住むこと58年、天和3年(16837393歳を一期に没せられ、当院に葬られた。生前当地の文化向上に多大な影響を与え、今日も郷土の恩人として敬われている。(案内板)

d0183387_13303251.jpg貞松院墓所 
岡崎城太守本多康重公息女、天正11年(1583)家康公のお声かかりで当藩初代頼水公の夫人となる。つとに良妻賢母の誉れ高く当藩300年安泰の基礎固めに果たした内助の功は多大であったといわれる。正保2年(1645)10月7日没。その息2代藩主忠恒公は母堂の素意(没後当院に葬られたいという生前の願い)により、追孝の真心を以て当院を大修復し慈母を当院の中興開基として寺領や広大な山林を寄進し、供養の誠を示された。当院は慈雲院と称したが、この時から貞松院の御戒名に因んで貞松院を寺号にするようになった。(案内板)



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正願寺 
松尾芭蕉の門人河合曽良と作家新田次郎の墓がある。別名「あじさい寺」とも呼ばれ多くの人が訪れる。(パンフ)





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河合曽良翁 
曽良は慶安2年(1649)諏訪士下桑原高野七兵衛を父として出生。俳聖松尾芭蕉の門人。元禄2年(1689)3月、江戸深川から東北北陸を巡り岐阜大垣までの約5ヶ月間、全工程600里の旅を師芭蕉に伴って踏破。この旅に基づいて書かれたのが「奥の細道」であり、芭蕉文学の大成の一端を担う。晩年は幕府の巡見使として九州壱岐勝本に渡るが、その地にて病に倒れ宝永7年(1710)5月22日に客死寿算62才。
松島や 鶴の身を借れ ほととぎす」 奥の細道・松島にて
春にわれ 乞食やめても 筑紫かな」 辞世の句


d0183387_13530590.jpg新田次郎の墓 
本名:藤原 寛人(ふじわら ひろと) 諏訪市角間新田(かくましんでん)に生まれる。ペンネームは“新田の次男坊”から「しんでん」を「にった」と読み替え。妻は作家の藤原てい、数学者でエッセイストの藤原正彦は次男。
春風や 次郎の夢の まだつづく新田次郎  とありました。


d0183387_15063060.jpg上諏訪の酒蔵

霧ヶ峰の伏流水に恵まれた上諏訪は酒作りが盛んな土地で、現在も元町付近に多くの酒蔵が軒を連ねています。宮坂酒造は寛文2年(1662)、麗人酒造は寛政元年(1789)の創業です。伊藤酒造、本金酒蔵、舞姫酒蔵など名酒の酒蔵巡りを楽しめる飲み歩きイベントも行われています(2)


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高島城 
城郭の形式は連郭式平城である。かつては諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城(すわのうきしろ)」と呼ばれていたが、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ水城の面影は失われた。しかし、浮城の異名を持っていたことから日本三大湖城の一つに数えられている。日根野氏によって総石垣造で8棟の櫓、6棟の門、3重の天守などが建て並べられ近世城郭の体裁が整えられたが、軟弱な地盤であったため木材を筏状に組み、その上に石を積むなどの当時の最先端技術が用いられた。中世、諏訪氏は現市街地北方にある茶臼山に高島城(茶臼山城)を築いて居城とした。諏訪頼忠は、平城の金子城(諏訪市中洲)を築き、新しい拠点としたが、1590年(天正18)に諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が茶臼山にあった旧高島城に入城する。高吉は、1592(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築く。その際村人には漁業権や賦役免除権などの特権を与える代わりに小和田へ移転させた。高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で普請を経験していたことから、織豊系城郭として築城し、石垣を築いて天守も上げた。同時に上原城周辺にいた商工業者を移住させ、城下町の建設を開始した。1601年(慶長6年)日根野氏は下野壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が27千石で入封。再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなった。寛永3年(1626)には徳川家康六男の松平忠輝を預かる。南の丸を増設し監禁場所とした。以降も南の丸は幕府から預かった吉良義周などの流人の監禁場所となる。(Wikipedia

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諏訪市
諏訪盆地には峠を挟んで諏訪側が反対側に比べて急勾配であるという地形が見られるが、諏訪市も例外ではなく、同様の地形が例えば諏訪市と上伊奈郡辰野町を結ぶ県道50号(有賀峠)などに見られる。これは、諏訪地方に中央構造線と糸魚川静岡構造線が通ることに起因する断層地形である。なお、この2つの構造線は諏訪市付近で交差(接触)しているとされている。東側の山地のふもとはいくつかの小さな扇状地を成しており、ここには住宅や田畑などが広がっている。市域には縄文、弥生時代からの考古遺跡が分布し、高原を中心に集落遺跡が分布している。下諏訪の和田峠を始めとする黒曜石による石器、また、縄文・弥生時代の土器の破片も出土している。中世には諏訪の国人領主で諏訪大社上社の大祝家・諏訪市によって治められる。南北朝時代には諏訪頼重がなか中先代の乱を起こしている。戦国時代には諏訪頼満が分裂した諏訪一族を統一し、隣国である甲斐国の国人勢力と同調し甲斐国内へも侵攻する。頼満の頃には武田氏と和睦し婚姻同盟を結ぶが、頼満の孫にあたる諏訪頼重は天文10年(1541年)に甲斐武田氏、信濃村上氏に独断で関東管領の上杉憲政と和睦し所領を分割し、甲斐の武田晴信(信玄)は諏訪侵攻を行い、諏訪氏は一時滅亡した。その後、諏訪地方は信濃侵攻を行う武田氏の領国となり、信濃中部の拠点として支配を受ける。信玄四男の勝頼は頼重の外孫に当たり、当初は高遠諏訪氏を継ぎ諏訪勝頼と称し、信玄没後に武田宗家を継承し当主となった。天正10年(1582)武田氏の滅亡後に発生した天正壬午の乱において諏訪頼重の従弟である諏訪頼忠によって諏訪氏は再興され、その息子の諏訪頼水が1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおける功によって、徳川氏により高島藩に封じられている。近世には高島藩領で、高島藩を藩庁に諏訪氏による統治が行われた。江戸時代に整備された甲州街道の終着の宿場町である下諏訪のひとつ手前にあたる上諏訪宿として栄える。(Wikipedia

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街道の町並み/諏訪青陵高校前 

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清水二差路を左へ            旧道細久保バス停先を左へ

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守屋山&諏訪大社/足長神社

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足長神社
諏訪大社上社末社。古くは荻葺きの屋根であったため荻宮と呼ばれていた。桑原城跡山腹に鎮座する。足長神社の創建は不詳ですが古代から地元神として信仰されていたと思われます。祭神である足摩乳神(足長彦神)は建御名方神(諏訪大明神)の曾祖父(奇稲田姫の父神)にあたり地元でも諏訪大社が勧請される以前から信仰していたとされています。当初は夫婦神とされる手長神社も祭られていましたが、手長神は下桑原郷に遷座したことで足長神社は上桑原郷の産土神、手長神社は下桑原郷の産土神として信仰されてきました。大同年間には諏訪神社大祝有員(ありかず・上社大祝の始祖)が足長神社を崇敬し、広大の社殿を寄進して境内を御曾儀平と称するようになります。現在の本殿は延享4年(1747)前後に建てられたもので一間社流造、彫刻が写実的でないなど当時の建築の特徴をよく残しています。拝殿は天保131842)に建てられたもので五棟造、桁行1間、梁間2間、細部には唐獅子や龍、鷹、鶴、麒麟、鳳凰などの繊細な彫刻が施されています。棟梁は大隅流の矢崎専司。舞屋は文久2年(1862)に建てられたもので入母屋、銅板葺、桁行5.7間、梁間3.5間、棟梁は石田房吉。足長神社、本殿、拝殿、舞屋は諏訪市指定有形文化財に指定されています。(説明板)


d0183387_15294334.jpg甲州道中51里塚 
江戸時代の初めに、幕府は「五街道」の改修を行って一里塚の制を敷き、江戸日本橋を起点として36町(1里約4km)ごと道の両側に塚を築いてエノキかケヤキの木を植えさせた。ここ神戸には日本橋からの51里塚が築かれ、西には上諏訪の片羽に52里塚があった。塚上のエノキは大人の5倍(89m)くらいある大木で、旅人にとってはよい目標や休憩所となり、野良に働く里人達にも親しまれたが、明治時代に入ってから取り壊された。(諏訪市教育委員会)


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守屋山展望/頼重院

d0183387_15340056.jpg頼重院諏訪市史跡頼重院境内 諏訪市有形文化財 頼重院供養塔
天文11年(15427月、諏訪頼重は武田信玄に攻められて桑原城に破れ甲府において自害した。墓は東光寺(甲府市)にあるが、この地に菩提寺として頼重院が建立され、境内には宝塔を立てて中に宝篋印塔を納めその霊を供養した。宝篋印塔は総高95cmで、基礎・塔身・笠・相輪の各部分の大きさの調和がとれていて美しく、関西形式と関東形式が混在したこの地方特有の作りである。宝塔は石造りの覆塔ともいうべきもので、方形の平面の塔身に四注状の笠を乗せ、露盤に請花・宝珠をおく。境内にはこのほかにも古い墓碑が多く見られる。(諏訪市教育委員会)



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小林山頼岳寺
開創
曹洞宗(禅宗)に属し、本山は永平寺(福井県)と總持寺(神奈川県)である開創は江戸時代初期の寛永8年(1831)で開山(初代住職)は大通関徹(群馬県双林寺第13世)、開基は高島藩初代藩主の諏訪頼水である。頼水は諏訪大社上社にまつられる建御名方神(諏訪明神)の直系諏訪氏で、諏訪氏は古代から中世まで諏訪の盟主として君臨し、江戸時代は高島藩3万右の大名であった。

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境内と文化財
本堂(間口14間)とその後方の開山堂は大正7年、本堂右の庫院は明治35年の建立である。山門の額「鷲湖禅林」は頼岳寺の別名で鷲湖は諏訪湖を指す。山門と鐘楼は昭和27年の建立で、山門にいたる杉並木は樹齢約300年で茅野市文化財に指定されている。開山堂後方の坐禅堂は昭和53年の建立で一般にも公開されている。最近になって庫院の増築、墓地、駐車場の増設などが行われた。本堂右後方にある御廟(市指定史跡)には、開基の諏訪頼水(頼岳寺殿昊窓映林大居士)と頼水の父頼忠(永明寺殿昊山宗湖大居士)頼水の母(理昌院殿玉英貞珠大姉)をまつる。文化財としては諏訪頼忠の念持仏(虚空菩薩)、頼水が徳川家焼から拝領した琥珀観音(聖観音)、吉山明兆の十六羅漢が市の指定文化財である。国道わきの石柱「少林山頼岳寺」と総門額「小林山」は江戸時代の中国僧東皐心越の書による。本堂正面の欄間彫刻は、天保15年(1844)立川流三代和四郎冨昌の作である。境内82a、山林約6haは金比羅山一帯に拡がっている。


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上原城周辺
寺の左側の金比羅山(987m 甲府街道からの比高はおよそ200m)には上原城があった。この城は諏訪信満の時代、諏訪惣領家の居城として築城され、政満・頼満・頼隆・頼重が板垣平(頼岳寺の南方)に居館をおいて諏訪を統治した。天文11年(1542)武田信玄に攻略されたのちも、武田氏が城代をこの城において諏訪を治め、以後岡村(上諏訪)に政庁が移るまで100余年にわたって諏訪の中心地であった。上原には城下町が経営され繁栄した。とくに城下には鎌倉五山にならって上原五山と呼ばれた5ヶ寺があった。永明寺(頼岳寺の前身)・極楽寺・金剛寺(廃寺).法明寺・光明寺(この2ヶ寺はのちに合併して法光寺となり上諏訪に移る)があり、上原八幡社もこの時代に建立された。上原五山のうち永明寺は向富出と号し、現在の頼岳寺よりおよそ500m南方にあった曹洞宗の寺である。開創は永正年間(15041521)で開山は慈山永訓(静岡県真珠院第二世)、開基は諏訪頼水の曽祖父にあたる頼満(永明寺殿西周宗昌大居士)である。永明寺は以後7130年間続いたが、寛永7年(1630)同寺に駆け込んだ科人の引渡しを拒否したことから、頼水の命により炎上破却された。永明寺の頼忠夫妻(頼水の両親)の墓、本尊釈迦如来、什器などは翌年建立された頼岳寺に移された。頼岳寺の沿革開創以来この地方の中心的勢力を保ち、江戸時代には寺領100石を賜り、末寺は14ヶ寺である。古くから修行寺として知られ、常に数 10名の雲水が参集した。さらに32世孤峰智王粲(こほうちさん)は明治40年以来50年間にわたる在住中に人材の育成、伽藍の整備に尽力しのち頼岳寺の祖本寺にあたる神奈川県大雄山最乗寺の住職を経て大本山総持寺独住第18世 円応至道禅師となられた。(説明板)

by Twalking | 2015-04-03 09:27 | ○ツーリズムウオーク

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 甲州街道(1)下諏訪宿~金沢宿02 下諏訪宿   

日時 2015.3.29(日)
天気 曇り 

前回、甲州街道を歩いた時は余りデジカメを使っていませんでしたし、
そのデータもうっかり飛ばしてしまいました。
また、当時のパソコンでの整理も現在と違ってラフなものでした。

再び歩く機会に恵まれましたので、下見とは違い制約はありますが、
出来る範囲で記録し、データ等を整理していこうと思います。
ご参考になれば幸いです。


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街道風景/中山道下諏訪宿


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中山道・甲州街道追分         岩波本陣跡


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諏訪大社下社 
祭神:建御名方神たけみなかたのかみ) 八坂刀売神(やさかとめのかみ)
諏訪湖北岸、諏訪盆地の北縁にある。上社に対しては下流の位置にあたる。秋宮・春宮からなり、上社と異なり二宮の地位は同格で、御霊代(依り代)が2月と8月に両社間を遷座する。南側が開けており古くから農耕が盛んな地であり農耕民族的な性格を有している。(Wikipedia)


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諏訪湖/山王閣展望台


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資料ファイル

下諏訪宿
江戸から数えて39番目で終点、中山道69次のうち29番目にあたる。難所であった和田峠の西の入口として、諏訪大社下社の門前町として栄えた。古くは鎌倉時代から温泉の利用が確認されており、中山道唯一の温泉のある宿場であり、当時の絵画などには温泉を利用する旅人たちが描かれている。本陣は岩波家として現在も一部が一般公開されている。皇女和宮公降嫁の際、また明治天応が宿泊した際奥の座敷を見学することができる。脇本陣「桔梗屋」「まるや」は旅館として現在も営業している。旧称は下ノ諏訪。天保14 14年(1843))の『中山道宿村大概帳』によれば、下諏訪宿の宿内家数は315軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠40軒で宿内人口は1,345人であった。(Wikipedia)

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木曾海道 六十九次之内 下諏訪(広重)下諏訪宿 


d0183387_23274038.jpg甲州道中中山道合流之地/かめや駐車場 
(裏面)甲州路道終点 右江戸へ53里11丁 中山道下諏訪宿問屋場跡 左江戸より55里7丁 正面京都へ77里3丁





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問屋場跡               明治6年創の新鶴


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下諏訪宿本陣庭園について
中山道随一の名園と称される。各地の名石を集め自然の地形を利用して作庭された本格的築庭式石庭園で、東西の山や諏訪大社秋宮の森を借景にして、間に何も見せないように深山幽谷の趣に作庭されている。滝口付近は戦国時代よりあったと伝えられるが現代の様式を調えたのは江戸中期といわれている。滝の水は諏訪神社秋宮の南方を流れる承知川の上流より引水され、本陣用水として石垣で囲まれた屋敷の周囲を流れていたがその水の一部をとって屋敷中央を通し池の水に用いている。春のつつじ、秋の紅葉、雪景色と四季折々に装いを変える。(パンフ)



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史蹟本陣遺構
江戸時代中山道の大きな宿場として殷盛をうたわれた下諏訪宿の問屋兼本陣の大半がそのままここに残っている。維新前は公卿や大名たち休泊所となり、文久元年(186111月には関東へ御降嫁の和宮様のお泊所になり、明治13624日明治天皇ご巡幸のときにはお小休所になった。(下諏訪町教育委員会)


・・・
秋宮(あきみや)

下諏訪の春宮の町の東端に鎮座する。東方には承知川が流れている。毎年8-1月に祭神が祀られている。境内は社殿4棟が国の重要文化財に指定されている。周辺は温泉の湧出地で、境内にも御神湯がある。社殿の形式は春宮と同じで古くは秋宮・春宮間で建築の技が競われた。

d0183387_01202842.jpg下社秋宮弊拝殿(重要文化財)
この建物は御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったものである。二重楼門造りと呼ばれ二階は跳勾欄(先の反った欄干)を回し、全体に見事な彫刻が施されている。この弊拝殿は諏訪高島藩の命により安永6年(1777)に起工、安永10年に落成した。工匠は諏訪出身の初代立川和四郎冨棟で、彼は当時盛んになった立川流建築を学び、彫刻中沢五兵衛につき、いくつかの名建築を残した。軒まわりその他に彫刻が多く華麗なのは当時の流行であり、それがすべて素朴の生地を生かして清楚である。彫刻には独特のおおらかさがあり、拝殿内部の竹に鶴などは代表作である。(案内板)


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神楽殿(重要文化財)
御神前に神楽を奉納するための建物で天保6年(1835)に完成させた。上社本宮弊拝殿を手掛けた立川和四郎二代目冨昌棟梁の54歳の作で、父の建てた華麗な弊拝殿の前に荘重なものをつくってよく調和させ弊拝殿を引き立たせるところが賞賛されている。彼は技をすべて父にうけ、天稟の才能と異常な努力で立川流の最高をきわめ、幕府から内匠の称号を許されたほどの名匠である。三方切妻造りと呼ばれる様式で、弊拝殿のような彫刻を見ることは出来ない。正面の大注連縄はは御柱祭ごとに新しく奉製され、重量は約1tある。(案内板)


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御柱 
御柱は寅年と申年の7年目毎に御宝殿の造営と共に建て替えられる御神木で、社殿の四隅に建立されています。この秋宮一之御柱は長さ17m余、直径1m余の樅の樹で、霧ケ峰高原に続く東俣国有林に於いて伐採され、数千人の氏子の奉仕により曳行されました。御柱祭は天下の奇祭として有名であり、次回は平成28丙申年に行われます。(案内板)



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根入りの松 
この杉の木は樹齢凡そ600700年で、丑三つ時(夜中の2時ごろ)になると枝先を下げて寝入り、いびきが聞こえると云う。子供にこの杉の木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止まると云われている。(案内板)



d0183387_01243321.jpg霞ヶ城跡(手塚城跡)
諏訪大社下社秋宮に隣接するこの地は手塚別当金刺光盛の居城跡です。城主光盛は、源平合戦のおり木曽義仲に従い、寿永2年(1183)義仲の火牛の奇襲戦法で有名な越中倶利伽羅峠の合戦に源氏方で参戦した。つづく加賀篠原の戦いでは、敗走する平家群の中にあってただ一騎踏みとどまって奮戦する武将斉藤別当実盛と一騎打ちに及んだ。この古式に則った見事な一騎打ちは、武士道の鑑とされ、能「実盛」の題材となって今に伝えられている。光盛について、平家物語によれば 光盛「かく申すは信濃国諏訪郡霞ヶ城主手塚別当金刺光盛なり」 実盛「仔細あって名のらじ 唯 木曽殿に首を取って見参されよ」 光盛「あなやさし いかなる人に渡らせ給へば、みかたの御勢は皆落ち行き候に、ただ一騎残らせ給いたるこそ、優に覚え候 名乗らせ給え」実盛「存ずる皆あれば、名乗ることはあるまじいぞ組もう」手塚 激闘の末、光盛がその首を討ち取るが、その人こそ幼少の義仲(駒王丸)の命の恩人である斉藤別当実盛であり、義仲が号泣する戦乱の世の悲劇としても知られている。(案内板)

・・・
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葛飾北斎 富嶽三十六景 信州諏訪湖

諏訪湖
新生代第三紀の終わり頃からの中央高地の隆起活動と糸魚川静岡構造線の断層運動によって、地殻が引き裂かれて生じた構造湖(断層湖)である。また糸魚川静岡構造線と中央構造線が交差する地である。「かつて、諏訪湖からの水は東の釜無川方面に流れていたが、八ヶ岳からの噴出物によって堰き止められ、南下するようになった」との説がある。また、時代と共に流入河川からの土砂の堆積や、護岸工事などにより面積は徐々に縮小している。流出河川天竜川(213km)のみ(釜口水門によって流出水量が調整されている)。(Wikipedia)

御神渡り
冬期に諏訪湖の湖面が全面氷結し、氷の厚さが一定に達すると湖面の氷が昼夜の気温差に応じて膨張と収縮する為、昼間の気温上昇で氷がゆるみ、気温が下降する夜中に氷が収縮し、大音響とともに湖面上に亀裂が走りせりあがる。この自然現象を御神渡り(おみわたり)と呼ぶ。御神渡りが現れた年の冬に無形民俗文化財に指定されている御渡り神事(みわたりしんじ)が八釼神社の神官により諏訪湖畔で執り行われる。御渡り神事では亀裂の入り方などを御渡帳(みわたりちょう)などと照らし、その年の天候、農作物の豊作・凶作を占い、世相を予想する拝観式が行われる。古式により「御渡注進状」を神前に捧げる注進式を行い、宮内庁と気象庁に結果の報告を恒例とする。尚、御神渡りはその年の天候によって観測されないこともあるが注進式は行われ、観測されない状態を「明けの海(あけのうみ)」と呼ぶ。(Wikipedia)

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渓斎英泉 木曾街道六拾九次 塩尻

塩尻峠 
長野県塩尻市
と岡谷市の境にある、諏訪盆地と松本盆地を隔てる峠。かつて中山道が通り、現在は別ルートであるが国道20号も通る。地形は岡谷側が急で岡谷市街地約800mから最高点1,012m(国道20号上)まで一気に駆け上がる。塩尻側は比較的緩やかである。地元では塩嶺峠(えんれいとうげ)とも呼ばれている。同じ場所に塩嶺山(火山)があったといわれ、それがいわれとも考えられる。中央分分水嶺の峠の一つで、岡谷側に降った雨は天竜川(太平洋)へ流れ、塩尻側に降った雨は犀川(信濃川(千曲川)へ合流、日本海)へ流れる。(Wikipedia)

・・・
承知川橋の記
この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。 輝石安山岩 重量約拾参屯  伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したという。爾来承知川と呼びこの一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。 この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。 表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する。(案内板)


d0183387_02191657.jpg冨部一里塚 
起点の日本橋から道の中央を計って1里毎(4km)に、道の両側に大きく土を盛り榎等を植え一里塚として、旅人の便とした。 この塚は江戸より53番目。甲州街道中最終のもの。あと11町(1100m)で賑やかな下諏訪宿に着き、中山道につながる。(案内板)



d0183387_02201083.jpg先宮神社由緒記 
先宮神社の創立は古事記の「国ゆずり」の神話の一節にみえる。諏訪神社の祭神「建御名方命」が出雲より、洲羽(諏訪)の地に遷御された以前より、すでに原住民の産土神であった。しかし、「建御名方命」が諏訪神社に鎮座した当時、国ゆずりの為抵抗したが遂に服従し、現在の社地に鎮座することになった。この事により他地に出る事は許されず、今でも境内前の小川には橋を架けないとの言い伝えがある。神社の史料など乏しいが、文献では大和地籍には数ヶ所の遺跡があり、嘉禎3年(1237年)以前に集落が形成され、漁撈・狩猟・農業・養蚕等・農耕の「神」を祭り、共同体として生活し、寄り所として神社を築き、豊作祈願や感謝をし、天災地変・無病息災・外敵の消除等を祈ったりした。神社名については、古くは「新海宮社」「鷺宮」「鵲宮」と言う名称があって、旧高島藩の「検地水帳」で元禄9年(1696)に「鷺宮」が「先宮」と表記されている。また鎌倉幕府の嘉歴4年(1329)の「下知状」に「鷺宮」の造営を下桑原(現在の上諏訪)の役と定めている事から、この頃には神社としての形態が整っていたものと思われる。なお拝殿脇には諏訪市指定の天然記念物「大欅」があり、年代を物語っておりまた境内には数社の無格社が鎮座している。(先宮神社誌より抜粋)


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下諏訪マップ(紫:中山道 赤:甲州道中)


下諏訪町
下諏訪町を含めた諏訪地域は近くに全国でも数箇所しかない石器の材料となる黒曜石の一大産出場である和田峠(町北部から長和町にかけて採掘跡がある)の恩恵により縄文時代から人の居住が見られた。この地域で産出された黒曜石は、関東一円の遺跡から見つかっており、黒曜石の生産に関しては一説によれば日本列島内で最も先進的な地域だったらしい。古代の律令制下において町域は信濃国諏訪郡の一部であった。戦国時代初期までは現在下諏訪町にある諏訪大社下社方と諏訪市および茅野市にある上社方が闘争状態となる。下社方の金指氏は上社方の諏訪氏に対して劣勢となったため、上社方の内紛に付け入って復権を図るため戦いを仕掛けるがこれに失敗。最後の当主は甲斐の武田信虎を頼って落ち伸びた。信虎は甲斐国内を統一すると諏訪地方への最初の侵攻を開始するが、金刺氏の失地回復も大義名分のひとつであった。その後、晴信(信玄期)に本格化した信濃侵攻における諏訪攻めによって諏訪とともに武田家に占領される。諏訪氏の高島藩が支配していた江戸時代の初期に街道整備が行われ、中山道と甲州街道を合流させるため、これまで通っていた東山道の道筋を一部改定し合流点に下諏訪宿を設けた。甲州街道と中山道の分岐であること、北に和田峠、東に塩嶺峠と中山道有数の難所を控えることから、宿場に泊まる旅人が多く大いに賑わった。温泉が湧出している数少ない宿場町のひとつだった。(Wikipedia)


by Twalking | 2015-04-02 09:43 | ○ツーリズムウオーク

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 甲州街道(1)下諏訪宿~金沢宿   

日時 2015.3.29(日)~30(月)
天気 曇り&晴れ

久し振りの甲州街道です。
逆コースの下諏訪から金沢宿に向かいますので、
諏訪大社下社・秋宮でお待ちしてました。

このコースの見どころは諏訪湖&諏訪大社、
そして上社大祝の諏訪氏に纏わる史跡等でしょうか。
初日は空模様を気にしながら諏訪湖を上諏訪へ、
2日目は快晴の信濃路を東へ向かいました。

振り返って眺める北アルプスの雪屏風と
これから向かう八ヶ岳の山々がよく見渡せ、
甲州路の雰囲気を感じて頂けたのではないでしょうか。

気温がぐんぐん上がり、暑い位の天気でしたが、
みなさん、移り変わる山里の風景を楽しみながら
元気に歩かれてました。

遠路はるばる、お疲れさまでした。
どうぞ、気をつけてお帰りください、
ありがとうございました!


・・・初日

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道中の安全祈願をしました/秋宮・幣拝殿


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御神湯は温泉です、ご注意くださ~い     中山道追分、ここからスタート/下諏訪宿



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諏訪湖北岸の旧道を東へ、前方・上諏訪宿へ向かいます


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先住民の産土神を祀る先宮神社        手長神は手が7mもあるそうです/手長神社


・・・2日目
  
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みえました~、雪屏風。これぞ、信州です/足長神社

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諏訪頼重の菩提寺・頼重院            諏訪氏の菩提寺・頼岳寺



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八ヶ岳もお出迎え、これからもっと近くでご覧いただけますよ~/間宿茅野・上川橋


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味噌蔵見学/丸井伊藤商店            御射山祭の神事を司る酒室神社



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里山風景を楽しみながら、みなさん軽やかな足取り、気持いいですね~!/茅野市木船


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記録
人数:23名
歩数:初日15200歩 2日目23800歩
時間:初日3時間 2日目6時間10分
食事:荻野屋(夕食) 丸井伊藤酒店(昼食)
宿泊:ルートイン諏訪第二インター
催行:読売旅行和歌山営業所

行程
初日
各所⇒下社秋宮14:00(WC・S)・・・秋宮参拝・・・下諏訪宿(追分・本陣)14:45・・・
承知川・・・宮部一里塚・・・石投場跡・・・先宮神社(小休)・・・指月庵・・・片羽一里塚・・・
吉田の松・・・上諏訪駅(WC)16:20・・・本陣跡・精進湯・・・手長神社・・・虫湯跡・・・
鉤の手・・・セブン17:00(S)⇒荻野屋17:25(夕食)18:25⇒ルートイン18:35

2日目
ルートイン8:00⇒セブン(S)8:25・・・元町・・・足長神社9:15・・・神戸一里塚・・・
頼重院・・・道標・・・頼額寺(小休)10:10・・・上原城・・・大鳥居・・・
茅野駅ペルシア(WC)11:00・・・上川橋・・・丸井伊藤商店11:30(昼食・WC)12:10・・・
三輪神社・・・茅野一里塚・・・酒室神社(小休・S)12:40・・・のぞみ橋(小休)13:10・・・
青柳一里塚・・・権現の森(小休)14:05・・・金沢宿(小堂・馬宿・本陣跡)・・・
金沢公民館14:20(WC・S)14:35⇒各所


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荻野屋                           ルートイン諏訪インター第二

by Twalking | 2015-04-01 18:28 | ○ツーリズムウオーク

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 湘南シーサイドウオーク『砂浜の道&平塚海岸』   

日時 2015.3.22(日)
天気 晴れ

温かい穏やかな天気、春霞がかかる湘南、春の海です。
ウオーキングには絶好のコンディション、少し歩くと汗ばみます。
海を見ながらのウオークは気持ちいいですね。

昼食時にワンポイントレッスンを入れました。
前回ご参加の方が多くいらっしゃいましたので、
姿勢&腕振りの復習と重心移動のポイントをお伝えしました。

みんさん意識して歩かれてましたね。
海辺のサンドウオークやボードウオークなど変化をつけましたが、
一番はこの湘南の海、リズムよく軽やかな歩き、されてました。

春の湘南、よかったですね!いい汗かきました。
楽しかったで~す!
また、ご一緒に歩きたいですね、ありがとうございました。 038.gif


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春の海ですね、この浜を西にむかいます/片瀬海岸西浜


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辻堂海浜公園                     まずは腹ごしらえです


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サンドウオークしましょう~/ヘッドランド


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気持いいですね~                ボードウオークで~す


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大磯・高麗山を見ながらゴール!/平塚ビーチ


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サザンビーチで記念撮影             相模川河口で~す/湘南トラスコ大橋



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記録
人数 16名
歩数 22700歩
時間 4時間50分
レッスン 姿勢・腕振り・下肢の動き等
催行 読売旅行 甲府営業所

行程
各所⇒片瀬海岸中部駐車場10:20(S)
西浜10:35・・・辻堂海浜公園11:20(昼食・レッスン)12:30・・・
浜須賀・・・ヘッドランド(サンドウオーク・WC)・・・13:25・・・
サザンビーチ(記念撮影)13:45・・・柳島(WC)14:20・・・
相模川河口・・・湘南大橋・・・平塚ビーチ(WC・S)14:55・・・
平塚湘南公園15:15⇒各所


by Twalking | 2015-03-23 13:37 | ○ツーリズムウオーク