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無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 ぶらり深谷   

日時 2015.6.17(水)
天気 曇り

昔、お世話になった方の墓参りに行ってきました。
深谷は初めてなので近くをぶらりと散策、
深谷宿と深谷城址などを見て回りました。

旧道沿いがメインですが、駅西側の川辺が
落ち着いた佇まいで印象に残りました。
いい所ですね、深谷は、中山道歩かなくちゃ~。。。
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深谷駅

深谷と言えばネギというのが一般的には知られているところですが、レンガを連想する人は少ないのではないでしょうか。しかし深谷には明治20(1887)から操業を続けている日本煉瓦製造株式会社というレンガ工場がありました。この会社は日本で最初の機械式レンガ工場で、郷土の偉人渋沢栄一翁らにより設立され、東京駅をはじめ明治から大正にかけて多くの近代建築物がこの会社の煉瓦を使い建設されました。(深谷市)


d0183387_13581112.jpg渋沢栄一像
正二位勲一等子爵澁澤栄一は、天保11年(1840213日深谷市大字血洗島に生まれました。幼いときから読書を好み、家業を助け、少荘の頃は国事に奔放、慶応3年第 15代将軍慶喜の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定しました。明治6年富国の道を求めての野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成しました。一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、その他労働協調・国際親善に心を砕き、昭和61111日、91年の生涯を閉じた。(説明板)



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中山道深谷宿 
中山道六十九(
木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて9番目の宿場。現在の埼玉県深谷市にあたる。深谷宿は中山道で最大規模の宿場で、本陣1(飯島家)、脇本陣4、旅籠80余。商人が多く、また飯盛女も多く、遊郭もあり、江戸を出立して2晩目の宿を求める人で大いに栄えた。 五の日、十の日に市が立った。Wikipedia

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中山道深谷宿本舗             常夜灯

旧深谷宿常夜燈(田所町)
 
江戸時代中山道深谷宿の東と西の入り口に常夜燈が建てられ、旅人の便がはかられた。天保11年(1840)4月建立。高さ約4mで中山道筋最大級の常夜燈である。深谷宿の発展を祈願して、天下泰平・国土安民・五穀成就という銘文が刻まれている。これを建てたのは、江戸時代の中頃から盛んになった富士講の人たちで、塔身に透し彫りになっている「の中に三」の文字はこの講の印である。毎夜点燈される常夜燈の燈明料として、永代燈明、田、三反が講の所有となっていた。天保14年には、深谷宿は約1.7kmKmの間に80軒もの旅籠があり、近くに中瀬河岸場をひかえ中山道きっての賑やかさであった。東の常夜燈は稲荷町にある。(案内板)


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深谷城跡公園
d0183387_15240761.jpg深谷城跡

深谷城は、唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城である。室町時代中期の康正2年(1456)、深谷上杉房憲が、古河公方の侵攻に備えて築城したと伝えられる。土塁や深い濠を巡らした城は、面積約20ヘクタール、その形から木瓜城とも呼ばれた。天正18年(1590)豊臣秀吉の関東攻めによって開城するまで、憲清、憲賢(のりかた)、憲盛、氏憲と134年間にわたり、戦国時代の北武蔵における上杉方の支城であった。徳川家康の関東入国後は、徳川一族や譜代家臣の居城であったが、寛永11年(1634)廃城となった。現在は、深谷上杉氏の祈願社であった富士浅間神社(智形神社)の社殿を巡る池と水路に、往時の姿をとどめるのみである。(説明板)


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深谷市指定文化財 深谷城外濠跡/富士浅間神社


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富士浅間神社
この社の祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)二二杵尊(ににきのみこと)で、社宝は宗源宣旨と宗源趣旨である。明治以前には智形神社とよばれ、深谷城内に鎮守としてまつられた五社の一つで、永享12年(1440)勧請と伝えられている。江戸時代、寛永年間深谷城主酒井讃岐守が再興した。深谷城は、上杉房憲が康生2年(1456)古河公方との戦いに備えて築城したもので、天正18年(1590)豊臣秀吉の関東攻略により落城した。江戸時代には、松平、酒井氏が居城したが寛永11年(1634)廃城となった。この城は低湿地に取り巻かれた平城で、社をめぐる池と水路は深谷城外濠の名残をとどめている。(深谷上杉顕彰会)



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本堂                 黒門

国済寺
関東管領上杉憲顕(のりあき)が、13世紀末、新田氏をおさえるためこの地庁鼻和(こばなわ)に六男の上杉蔵人憲英をつかわし館を築かせました。憲英はのち奥州管領に任じられ、以来憲光・憲長と三代この地に居住しました。館は一辺170mの正方形で、外郭を含めると、28ヘクタールあります。康応 2年(1390)高僧峻翁令山禅師を招いて、館内に国済寺を開きました。本堂裏に当時の築山と土塁が残っています。天正18年(1590)に徳川家康から寺領三十石の朱印状を下付されています。文化財に令山禅師と法灯国師の頂相(ちんそう)、黒門、三門、上杉氏歴代の墓などが指定されています。(深谷上杉顕彰会)


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栄一ゆかりの文化財とれんがの街


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深谷

埼玉県北部の利根川と荒川に挟まれた地域に位置している。市の北部には利根川や小山川によって妻沼低地(沖積低地、海抜約30 – 40m)が形成され、中部から南部にかけては荒川によって形成された洪積台地の櫛引台地(荒川の左岸、海抜約50 – 100m)や江南台地(荒川の右岸、海抜約50 – 80m)が広がる。1456年(康正2年)に上杉房顕が櫛引台地の北端部付近に深谷城を築き、その周辺に城下町が形成されたのが深谷市の中心市街地の始まりである。江戸時代には中山道の宿場が置かれ、最盛期には旅籠が約80軒並ぶなど宿場町としても発展した。岡部には安倍(あんべ)家の旧岡部藩岡部陣屋があり、遺構として長屋門、西島町に地方(じかた)通用門が残っている。また、県下有数の農業地帯で、深谷ねぎは日本一の出荷量を誇る。第一国立銀行の創立に携わり近代日本経済の基礎を築いた渋沢栄一の生誕地、国鉄に働きかけて深谷駅に急行列車を停車させた運輸大臣の荒船清十郎でも知られている。
Wikipedia


d0183387_14562482.png深谷城

埼玉県深谷市にあった平城。山内上杉氏支流の深谷上杉氏(庁鼻和・こばなわ氏)の居城。第4代当主の上杉房憲は1456年(康正2)、享徳の乱が起こって古河公方足利成氏との軍事対立が激化すると、庁鼻和城西方の唐沢川近くに新たに深谷城を築城して居城を移した。これにより庁鼻和城は廃城となり、城跡に深谷上杉氏の菩提寺の国済寺が建立された。1552年(天文21)、北条氏の上野侵攻により関東管領上杉憲政が居城の平井城(群馬県藤岡市)を捨てて、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に逃亡すると、深谷上杉氏は北条氏に降伏・臣従したが、謙信が関東に侵攻すると、謙信に与して北条氏に敵対。上杉氏の力が弱まると再び北条氏に臣従し、鉢形城(大里郡寄居町)の北条氏邦の城代として引き続き深谷城を居城とした。しかし、1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻めで、城主の上杉氏憲は小田原城に籠城したが、城と領地を奪われて深谷上杉氏は滅亡した。この戦いの後、深谷城は関東に入部した徳川氏のものとなり、松平康直が1万石で入城。その後、松平忠輝、松平忠重が居城としたのち、1622年(元和8)には酒井忠勝が同じく1万石で入封したが、1624年(寛永1)に忍藩5万石(忍城、同県行田市)に移封になったことに伴って深谷城は廃城となった。現在、かつての城域のほとんどが市街地になっているため遺構はほとんど残っておらず、深谷上杉氏の祈願社だった富士浅間神社(智形・ちかた神社)の社殿をめぐる池と水路などに、わずかに当時の姿をとどめるのみである。また、城跡の一角が城址公園となっており、石垣や城壁などの模擬構造物がつくられているが、これらはかつての深谷城を復元したものではない。木瓜(ぼけ)城とも呼ばれる(城域の形が木瓜の花、あるいは木瓜の実の断面に似ていたことから)。(コトバンク)


d0183387_16070083.jpg史跡上杉憲英公墓/国済寺

深谷上杉家

室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。山内上杉家の上杉憲顕(のりあき)の実子である上杉憲英(のりふさ)が庁鼻和上杉(こばなわうえすぎ)を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。憲英・憲光父子は、幕府から奥州兎管領に任じられた。扇上上杉家と共に武蔵国を割拠していたが、上杉朝定が北条氏康に敗れ滅亡し、後北条氏の勢力が武蔵に及ぶと、憲英から数えて7代目の憲盛の代に後北条氏に降伏した。以後は後北条氏の傘下となったが、小田原征伐で後北条氏が敗れた後は、豊臣秀吉によって所領を奪われた。Wikipedia


by Twalking | 2015-06-18 16:11 | 中山道

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中山道(2)板橋宿~戸田橋01 板橋宿    

日時 2014.9.14(日)
天気 晴れ
板橋宿~志村一里塚

天気もいいし、時間もありましたのでJRで帰ろうと思い戸田橋手前まで歩きました。
帰ってから地図など見直しましましたら、どうやら清水坂を見落としていたようです。
あらら~・・・ですが、次回は志村坂上からスタートすることにします。


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板橋から明治通り(首都高)へ/一里塚付近

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手前を左折し信号横断               向かいの商店街へ/平尾追分


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板橋宿仲宿


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板橋/石神井川


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板橋宿上宿を抜けて環七へ/縁切榎前

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環七を横断/板橋本町駅             17号合流/宮本町


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志村一里塚/志村坂上(17号)


・・・・・・・・・・・
資料ファイル

板橋宿
江戸時代には武蔵国豊島郡下板橋村の一部で、江戸四宿の一つとして栄えた。江戸の境界にあたり、江戸後期には上宿の入り口にある大木戸より内側をもって「江戸御府内」「朱引き」、すなわち「江戸」として扱われていた。板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(京側・北の方)から上宿(かみ-しゅく。現在の本町)仲宿(なか-しゅく、なか-じゅく、中宿とも。現在の仲宿)平尾宿(ひらお-しゅく。下宿〈しも-しゅく〉とも称。現在の板橋)があった。 上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川であり、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった。道中奉行による天保12- 15年(1841- 1844)の調べ(『中山道宿村大概帳』)によると、宿往還の長さは20町9間(約2.2km)うち町並地は長さ15町49間(約1.7km)であり、南北に広がる。宿内人口は2,448人(うち、男1,053人、女1,395人)宿内家数は573軒であった。 うち、本陣は仲宿に1軒、脇本陣各宿に1軒ずつ計3軒が設けられ、旅籠は総計54軒であった。 板橋宿の中心的存在であった仲宿には、問屋場、貫目改所、馬継ぎ場、番屋(自身番の詰め所)があった。 また、上宿には木賃宿(商人宿)や馬喰宿が建ち並んでいた。

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木曽街道 板橋之驛


・・・・・平尾宿

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東光寺/
信号横断しベローチェ角右折
創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳3年(1491)に入寂した天誉和尚が開山したといわれています。当初は、船山(現、板橋3-42)あたりにありましたが、延宝7年(1679)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町家が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、たび重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお山号の丹船山は、地名船山に由来しています。境内には、寛文2年(1662)の庚申塔と石造りの地蔵仏坐像、明治になって子孫が供養ため交流した宇喜多秀家の墓などがあります。(板橋区教育委員会)


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平尾一里塚/板橋南口入口付近      平尾追分/アーケード入口

平尾追分/平尾宿
板橋宿は第一に中山道の宿場であるが、脇往還として江戸側から分岐する川越街道(川越・児玉往還)が平尾宿を起点としており、平尾追分と呼ばれていた。 また、日本橋から2里(約7.9km)の平尾宿には道中2つ目の一里塚(平尾一里塚)があったが、今は何も残されていない。


d0183387_22275706.jpg近藤勇と豊田家/花の湯向いの路地を入る(左)新選組隊長であった近藤勇は慶応4年(1868)板橋刑場で処刑された。近藤の墓そのものは現在JR板橋駅前にあるが、処刑される直前まで平尾宿の脇本陣・豊田家に軟禁されていた。豊田家は代々平尾宿の名主として江戸時代中期より脇本陣を勤めた。脇本陣の建物自体は現存していないが、明治末期まで江戸時代の風情をとどめていた。(板橋宿今昔みちしるべ)


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観明寺と寛文の庚申塔/アーケード先(右)
当寺は、真言宗豊山派の寺で、如意山観明寺と称します。御本尊は正観世音菩薩です。創建年代は暦応元年(1338)と伝えられていますが、不明です。『新編武蔵風土記稿』には、延宝5年(16777)10月に入寂し た慶浄が中興開山とあります。江戸時代、板橋宿の寺として、多くの信仰を集めました。明治6年、当寺の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願のために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勘請しました。現在も、出世不動と呼ばれて親しまれています。なお、不動通りの名称は、このお不動様に由来します。境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。また参道入口にある庚申塔は、寛文元年(16618月に建立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古です。昭和58年度に板橋区の指定有形文化財となりました。(板橋区教育委員会)

・・・・・仲宿

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板橋観光センター/ローソン右折         加賀藩前田家下屋敷図

加賀藩下屋敷(加賀公園) 
板橋宿の旧街道に面した町場部分の外は畑と水田が広がり、南東部一帯は二十二万坪(約76.2ha)におよぶ加賀藩の下屋敷が広がっていた。この下屋敷が板橋宿に移ってきたのは、天和3年(1683)とされる。明治維新により、江戸間の藩邸や武家地が官有地となった時、加賀藩下屋敷も没収された。一部の領地は払い下げられたが、広い敷地は陸軍に移管され、火薬製造所が造られた。これが明治9年(1876)のことである。これにより、それまで農耕が主であった板橋に初めて工場が進出し、後に軍の下請け工場が付近に集積する契機となった。(板橋観光センター)


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縁切榎
中山道板橋宿上宿(現本町18番地)にあった初代の縁切榎である。板橋宿の街道脇にたつ縁切榎は、旅人には薄気味悪い榎として恐れられていたが、榎は本来縁結びの木として知られていたものだが、板橋の榎は縁を切る木として、特に離縁を願う女性たちの信仰の対照となったのである。文久元年(1861)皇女和宮が徳川将軍家茂(いえもち)に嫁ぐ江戸への登城では、板橋宿にある縁切榎をさけるため迂回路が作られたほどである。明治時代には茶屋が店を開き、板橋名物として厚い信仰を集めた。現在地にも三代目の縁切榎がある。(板橋観光センター)


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板橋宿中宿辺り絵図(板橋観光センター)


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偏照寺/観光センター先(右)
江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院であったが明治4年廃寺となった。その後明治14年旭不動堂と称して成田山新栄講の道場となり、昭和22年真言宗寺院として復活、現在は成田山新勝寺末寺となっている。境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬などがつながれていた。境内にまつられる寛政10年(1789)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである。また、堂内には上宿に居住した町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代本遊女道中の扁額が納められている。(板橋区教育委員会)

乗蓮寺
応永年間に了賢無的が山中村(現在の板橋区仲町)にて人々に教えを伝えるために創建したと伝えられている。その後、江戸時代の初期のころまでに板橋区仲宿に移転した。当時は孤雲山慶学院乗蓮寺と称していた。後に慶学山乗蓮寺になった。当寺院は、郷主・板橋信濃守忠康の菩提寺になるなど人々から信仰を得ていた。天正19年(1591年)に徳川家康から十石の朱印地が寄進され、その後も歴代の将軍から朱印地が与えられ格式ある寺院となった。また八代将軍・徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所・お膳所としても使われた。その後も長く仲宿の地にあったが首都高速道路の建設と国道17号の拡幅により、昭和48年に現在の赤塚の地(赤塚城二の丸跡)に移転した。(Wikipedia)

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江戸名所図会 乗蓮寺 相生杉 女男松 (わたしの彩『江戸名所図会』より引用しました)


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高野長英ゆかりの地(旧水村玄洞宅)/スーパー・ライフ前の「石神医院」
幕府の対外政策を批判し、永牢の身となった蘭学者高野長英(180450)は、弘化元年6月晦日小伝馬町獄舎の火災により切り放しのときに脱獄、そして逃亡した。出牢後の1ヶ月は幕府の厳しい探索にも拘わらず消息不明であったが、7月下旬の或る夜、彼の門人である医師水村玄洞宅を訪れた。玄洞は身の危険を知りながら一両日長英を奥座敷にかくまい、7月晦日の深夜には北足立郡尾間木村に住む同門で実兄の医師高野隆仙宅へ人をして逃れさせた。長英はその後郷里水沢に老母を尋ね、さらに江戸、近畿、四国、九州と逃亡生活を続け再び江戸に舞い戻ったが、寛永31030日青山町の隠れ家を幕吏に襲われて自殺した。(板橋区教育委員会)


d0183387_15480571.jpg板橋宿本陣飯田新左右衛門家/スーパーライフ手前(右)
本陣は一般に街道を通行する大名等の休泊施設ですが、江戸より二里半(約10km)の近距離にあたる板橋宿では宿泊に用いられることは少なく、主に休憩所として利用されました。また、その際は藩主と家臣との謁見、送迎の場としても機能していました。板橋宿本陣は古くは飯田新左右衛門家ら数家で勤めていたようです。宝永元年(1704)当家は飯田本家より別家していますが、その際世襲名「新左右衛門」と本陣・問屋場役を引き継いでいます。また合せて屋敷地359坪、田畑1.5町(約16000m2)の広大な土地を譲り受け、当地に本陣を構えました。なお、当家三代新左右衛門珠儀(ちんぎ)の遺言状から、別家役の江戸時代中頃に当家が宿内唯一の「御本陣」に指定されたことが覗えます。本陣は「中山道宿村大概帳」によると建坪97坪、門構え玄関付の建物でした。また、本陣指図からは間口桁行とも12間半8約22.5m)、貴人が座所とする上段の間や御次の間のほか御膳所や18畳の玄関などを備えていたことがわかります。他宿にくらべ小ぶりな本陣は宿泊に供することが少ない板橋宿の性格を示しています。本陣は明治23年(1890)に火災に遭い焼失しましたが、昭和39年に建てられた母屋の解体時、床板として転用されていた関札が見つかっています。この関札や本陣図などの古文書は区有形文化財に登録され本陣の姿を今に伝えています。(板橋区教育委員会)


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文殊院/
スーパー ・ライフ右折・先 
江戸初期、本陣飯田家の菩提寺として、古くから信仰を集めていた延命地蔵尊の境内を広げて建立された。開山は寛永2年(1625)に入寂の権大僧都慶恵と伝える。天保6年に全焼し、安政以降正住職を置かず、赴任する仮住職も短期間で他の大寺ヘ転住し、出世寺とも呼ばれた。山門脇に延命地蔵堂、境内に二大閻魔を祀る魔堂、足腰の守り神と知られる子の権現がある。魔堂内には、文化年間に番場原出土と伝えられる石棒が朝日観音として祀られている。墓地には史跡として有名な宿場時代の遊女の墓がある。本堂内には、板橋七福神の毘沙門天が奉安されている。飯田家墓地の飯田静の墓碑は昭和63年度に、また本尊文殊菩薩は平成元年度に板橋区の有形文化財に登録された。(板橋区教育委員会)

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江戸名所図会 板橋驛 (わたしの彩『江戸名所図会』より引用しました)


d0183387_16213632.jpg板橋(右)
この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで209間(約2.2Km)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所絵図」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798)と天保年間の二度改修が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。(板橋区教育委員会)


・・・・・上宿


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中山道板橋宿上宿/交番横(右)
江戸時代の五街道の一つである中山道は、江戸と京を結ぶ大動脈として、人々の往来や物資の流通、文化の交流などをささえてきました。板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、その長さは1549間(約1.7Km)でした。天保14年(1843)には人口2448人、家数573軒を数え、旅籠屋、料理屋や駕籠屋など様々な店舗が軒先を並べていました。板橋宿は日本橋方面から平尾宿・中宿・上宿に分かれており、石神井川にかかる板橋から現在の環状7号線あたりまでが上宿でした。平成14年(2002)は、中山道に伝馬制度が成立したとされる慶長7年(1602)から400年目にあたり、それを記念して各宿に石碑を建立しました。(板橋区教育委員会)



d0183387_16272858.jpg縁切榎/交番先信号(右)
中山道板橋宿の薄気味悪い名所として旅人に知られていたのがこの縁切榎である。いつの頃からか、この木下を嫁入り・婿入りの行列が通ると、必ず不縁になるとの信仰が生まれ、徳川家に降嫁の五十宮(いそのみや)・楽宮(さぎのみや)の行列はここを避けて通り、和宮の折には榎を菰で包み、その下を通って板橋本陣に入った。この伝説の起こりは、初代の榎が槻の木と並んで生えていたため「エンツキ」と言われ、所在地である岩ノ坂を「イヤナサカ」としゃれ、これを縁切りに通わせたとする説と、富士に入山した伊藤身禄がこの木の下で妻子と涙の別れをしたからとする説がある。現在の榎は三代目であるが、この木に祈ると男女の縁が切れるという信仰は今でも続いている。(板橋区教育委員会)


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皇女和宮様御下向行列の迂回路(板橋観光センター)


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智清寺                日曜寺

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d0183387_17010426.jpg氷川神社/本蓮沼駅歩道橋先(右)
当社は古来、蓮沼村の鎮守で御祭神は須佐之男命と奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)です。慶長年間(1596~1645)に現さいたま市の氷川神社から蓮沼村字前沼(浮間舟度駅西側一帯)に勧請されたのが創建と伝えられています。蓮沼村は享保年間(1716~36)に荒川氾濫の被害を受け、高台にあたる現在地へ移転しています。また、当社の別当院であった南蔵寺も同様に移転したと伝えれれています。(板橋区教育委員会)


d0183387_17010880.jpg南蔵寺(真言宗)/神社の隣(右)
開山は寺歴では宥厳とされますが「新編武蔵風土記稿」では開山を宥厳、開基を蓮沼村の名主新井家の先祖・新井三郎盛久としています。当社は荒川低地にあった「道生沼」の畔に建っていましたが、度重なる洪水によって現在地に移転したといわれています。(中略)享保7年11月25日に行われた8代将軍徳川吉宗による戸田・志村原の鷹狩に際しては当院が御善処となっています。境内にある更新地蔵は承応3年(1654)に庚申侍講中が建立したものです。また、安永6年(1777)と文化元年(1804)に建立された石造出羽三山供養塔の台座には蓮沼村・前野村・小豆沢村の講員70名の氏名と房号が刻まれており、当該期の出羽三山講の様子えお知る貴重な資料となっています。(板橋区教育委員会)


d0183387_17011142.jpg齋藤商店/一里塚手前(右)
齋藤商店は欅を主に扱う原木商として明治22年に当地で創業しました。現在は箒や笈などの竹製品も商っています。現在の建物は昭和8年の中山道(国道17号)の拡幅工事に伴って新築されたものです。



d0183387_16581207.jpg志村一里塚(左右)
江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(16042月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、5間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)の塚が江戸日本橋を起点として一里ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目に築かれたもので、天保元年(1830)の『新編武蔵風土記稿』では「中山道往還の左右にあり」と紹介されています。幕末以来、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和8年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積がなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保存され、現在に至っています。今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正11年(1922)に国の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました。(板橋区教育委員会)


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石神井川
東京都小平市花小金井南町に源を発し、東京都北部を東へ流れて北区堀船三丁目で隅田川に合流する。荒川水系の支流である(流路延長25.2km、流域面積61.6km²)江戸時代以前の石神井川は、上野の不忍池へと流れさらにそこから東京湾へと繋がっていた。しかし流路変更により現在の形になった。流路変更の時代については諸説ある。(縄文末期)縄文末期の気候異常による洪水で、隅田川への越流が発生したとする自然由来説。(室町時代)流域の地方豪族・豊島氏が領内の治水、利水の為に開削したとする人為的由来説。(江戸時代)江戸の街づくりの一環として治水対策で開削されたという人為的由来説。

谷田川(藍染川)
石神井川のかつての本流で不忍池を経由して東京湾に流れていた部分。石神井川が切り離された後は上野台と本郷台の湧水による小河川が流路跡に流れる。現在は全て暗渠化されている。付近は藍染めが盛んであった事から藍染川とも呼称されていた。

石神井川下流の流路変更
石神井川は武蔵野台地東端の北区王子付近で渓谷(音無渓谷)を作り、いくつもの滝を落としていた。これは埋没谷上の沖積低地をゆったり流れることの多い武蔵野台地の川の流れ方としては例外的である。武蔵野台地を流れる川で渓谷を持っているのは、他に矢澤川(等々力渓谷)と神田川(お茶の水渓谷)のみである。同時に、上流から王子付近まで続く石神井川の谷底低地は飛鳥山の手前で南へ向きを変え、本郷台と上野台の間の谷田川が流れる谷底低地へと地形的に連続している。これらのことから、石神井川がかつては谷田川へと流路を取っていたが、河川争奪によって現在のように隅田川へ流れるようになったとする説が、戦前は地形学舎の東木龍七、戦後は地形学者の貝塚爽平などによって唱えられていた。流路変遷が起こった原因と時期については諸説ある。(Wikipedia)

朱引
江戸城築城以来、江戸の市域は拡大を続け、19世紀初頭にはすでにその範囲は不明確となっていた。幕府目付・牧野助左衛門(まきのすけざえもん)は1818年(文政元年)8月、市域の確定を求める「御府内外境筋之儀」についての伺いを出し、それを受けて同年12月、老中安部正精(あべまさきよ)によって示された幕府の見解が朱引である。「旧江戸朱引内図」(1818年、東京都公文書館所蔵)はこの答申に基づいて作成され、江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。これは、歴史上初めて正式に示された江戸市域(大江戸)の範囲であり、「朱引内(しゅびきうち)」「御府内(ごふない)」などとも呼ばれる。この外側は朱引外(しゅびきそと)と呼ばれる。朱引の範囲(大江戸)は、「四里四方」といわれ、東は平井、亀戸周辺、西は代々木、角筈(つのはず)周辺、南は品川周辺、北は千住・多多橋周辺までである。

墨引
朱引図(旧江戸朱引内図)には朱線と同時に黒線が引かれていたが、これは墨引(すみびき)と呼ばれ、町奉行支配の範囲を示していた。墨引は、目黒付近で朱引の外側に突出する例外を除いて、朱引よりも更に内側の、江戸城を中心としたより小さな環状域である。(Wikipedia)

by Twalking | 2014-09-19 17:34 | 中山道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中山道(1)日本橋~板橋02 地蔵通り・庚申塚通り   

日時 2014.9.14(日)
天気 晴れ
中山道(1)日本橋~板橋02 巣鴨駅~板橋駅


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旧道は巣鴨駅前から巣鴨地蔵通り商店街へ入ります/商店街入口


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庚申塚通りを一直線で板橋へ

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都電荒川線を横断/庚申塚駅          交差点を直進/掘割交差点


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JR板橋駅

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先のT字路を左折すると南口          踏切を越えると北口


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資料ファイル

徳川慶喜・巣鴨邸跡地/巣鴨駅前(左)
徳川幕府15代将軍徳川慶喜(天保8年(1837)~大正8年(1913))がこの巣鴨の地に移り住んだのは明治30年(1897)慶喜61歳のことであった。大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。翌年3月には皇居に参内、明治35年には公爵を授けられるなど復権への道を歩んだ。巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷水戸に因んだ梅林になっており町の人々からは「ケイキさんの梅屋敷}と呼ばれ親しまれていたという。慶喜が巣鴨に居住していたのは明治34年12月までの4年間で、その後小日向第六天町(茗荷谷の近く)に移った。その理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白-田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌っての事とされている。(案内板)

染井吉野桜発祥之里 駒込/巣鴨駅前・染井吉野公園(左)
駒込の一部は江戸時代 染井と呼ばれ, 巣鴨と共に花卉・植木の一大生産地であ った。この地で江戸時代以後 数多くの優れた 園芸品種が誕生したが, 中でも染井吉野 は, 当地の地名から名付けられ, 世界を 代表する桜の品種となった。左の絵は, 植木屋の第一人者, 染井の 伊東伊兵衛の庭で 大勢の人が花を愛でて いる様子である。(碑文)


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江戸六地蔵尊真性寺/地蔵通り商店街入口(左)

「江戸六地蔵尊」の一つが奉られている真性寺は、江戸時代初期の元和元年(1615)に祐遍法印が中興開基した古刹。現在は真言宗豊山派のお寺となっています。旧中山道の入口にあたる本寺と大きな笠をかぶったお地蔵様は、「江戸名所図会」にも描かれ、江戸時代から江戸六地蔵尊参りで親しまれ崇拝されてきました。境内には「芭蕉句碑」もあり、歴史を今に伝えています。(巣鴨散策マップ)

白露も こぼれめ萩の うねりかな  芭蕉翁
萩植えて ひとり見習ふ 山路かな  杉風(裏)

江戸六地蔵 
宝永から享保年間にかけて江戸市中の6箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像である
一番:品川寺(旧東海道) 二番:東禅寺(奥州街道) 三番:太宗寺(甲州街道)
四番:真性寺(旧中山道) 五番:霊厳時(水戸街道)六番:永代寺(千葉会堂・現存せず)


d0183387_21134832.jpg旧中山道はタネ屋街道/真性寺角(左)
旧中山道を通る旅人の中には弁当を食べるため街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使わせてもらう人などもいました。旅人は農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると国元で栽培しようとタネを欲しがる人も多く、やがて農家の副業としてタネを販売するようになりました。その後、江戸・東京が生んだ滝野川ゴボウや滝野川ニンジンなど優れた野菜が出現すると、タネを扱う専門店ができ明治の中頃には巣鴨のとげぬき地蔵から板橋清水町にいたる約6kmの間にはタネ屋問屋が9戸、小売店が20戸も立ち並び、さながらタネ屋街道になっていました。(案内板)



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高岩寺(とげぬき地蔵)/地蔵通り商店街(右)

慶長元年(1596)扶岳太助が江戸神田湯島に創建。のちに下谷屏風坂(現・岩蔵高等学校)に移る。1891年(明治24)、巣鴨に移転。1945年(昭和20年)空襲で建物を全焼し、現本堂は1957年(昭和32)に再建されたものである。

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とげぬき地蔵の由来
江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。又四郎が、夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた紙1万枚を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したという。これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされる。その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来する。そこから他の病気の治癒改善にも利益(りやく)があるとされ、現在に到るまでその利益を求めて高齢者を中心に参拝者が絶えない。(Wikipedia)


d0183387_21430235.jpg洗い観音
境内に立つ石造の聖観音(しょうかんのん)像で「洗い観音」と通称される。自身の治癒したい部分に相応する観音像の部分を洗う、または濡れタオルで拭くと利益があるという。かつては像の表面をタオルでなくたわしで擦っていたため、摩耗が激しく、2代目の像が製作された。現在の像は1992年(平成4年)に奉納されたもので、彫刻家・八柳尚樹の作。(Wikipedia)



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江戸名所図会 巣鴨庚申堂 (わたしの彩『江戸名所図会』より引用しました)


d0183387_22232419.jpg江戸の名所/巣鴨猿田彦庚申堂(踏切先右手)
江戸の名所
巣鴨の中山道沿いにある庚申塚は、江戸時代から近郷在に聞こえた名所でした。江戸と板橋宿の間にあり、行き交う旅人たちで賑わっていたと伝えられ、その様子は「江戸名所図絵」にも描かれています。現在では、特に庚申の日になると、近くの「とげぬき地蔵(高岩寺)」の縁日(毎月4の日)と同様に多くの参拝者があります。庚申塚では町内会の人たちが参拝者に対し、季節ごとに趣向をこらした食事を作ってもてなしています。「江戸名所図絵」のなかの茶店の屋根の葭簀(よしず)の上に見える石塔は、庚申塚のいわれを裏付けるものです。現在、この石塔は当地の小さな社に鎮座し、その銘文によれば明暦3年(1657)に造立されたものということがわかります。これより以前、文亀2年(1502)に造立されたといわれる石碑がありましたが今はなく、「遊暦雑記」では、この塚の下に埋められていると伝えています。また、この庚申塚には、お猿さんが祀られているというようにいわれていますが、これは、この巣鴨付近の有志が、明治初期、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大神を分祀したという暦史的事実によるものです。(文京区教育委員会発行・石造文化財より)。


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滝川の種屋/掘割手前(右)            平尾一里塚/板橋駅南口入口付近


d0183387_22454024.jpg近藤勇と新撰組隊士の供養塔/板橋駅南口(左)
 
慶応4年(1868)4月25日、新撰組組長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。本供養塔は没後の明治9年(18765月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉(本名長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。高さ3.6m程ある独特の細長い角柱状で、四面の全てにわたり銘文がみられます。正面には「近藤勇冝昌 土方歳三義豊之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお近藤勇の諱である昌宣が冝昌とされていることについては明らかになっていません。右側面と左側面には、それぞれ八段にわたり井上源三郎を筆頭に合計110名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年辰四月廿五日 土方 明治二年巳五月十一日 発起人 旧新撰組長倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在分かりにくくなっています。戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分かった永倉ですが、近藤勇のほか数多くの新撰組ゆかりの者たちが祀られているので、新撰組研究を行う祭の基本資料とされ学術性も高く貴重な文化財です。(北区教育委員会)

板橋刑場
江戸時代末期に現在の板橋区板橋および帰宅滝野川付近に一時的に存在した刑場。当時の中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近、現在のJR板橋駅北付近だった。慶応4年(1868)新撰組の局長である近藤勇が平尾宿脇本陣で20日間留置された後、板橋宿の入り口にあった平尾一里塚近くの馬捨場(現在の北区滝野川)で斬首された。首塚はないが、板橋駅滝野川口(東口)に供養碑が立てられている。(Wikipedia)


by Twalking | 2014-09-18 10:35 | 中山道(新規)

無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 中山道(1)日本橋~板橋01 神田・本郷   

日時 2014.9.14(日)
天気 晴れ
中山道(1)日本橋~板橋01 日本橋~巣鴨駅


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日本橋西詰から昌平橋を目指して17号(中央通り)を北へ/日本橋西詰


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17号と別れ神田須田町交差点を直進     外神田2(郵便局)を右折しJRガ-ドを潜る



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昌平橋先を左折、外神田2を右折、次の信号(本郷通り)を左折し神田明神へ/神田川


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東大・農学部正門前で本郷通り(岩国街道)と別れ、旧白山通りを巣鴨へ/本郷追分


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神田明神先の坂下を左折、次の信号を右折  千石駅前で白山通りと合流し巣鴨へ 


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JR巣鴨駅

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資料ファイル

日本橋
現在の日本橋を中心とした地域は、古くは武蔵国豊嶋郡に相当し、その中の江戸郷前嶋村と呼ばれる地域だったという。江戸は鎌倉時代の江戸氏の支配から太田道灌、さらに後北条氏を経て徳川家康が幕府を開くが、早くに町地として開発されたのがこの日本橋周辺の地域であった。さらに上でも触れたように日本橋が架けられ交通の要所として定められてからは、現三越の前身である越後谷をはじめとする大店が集まり、また付近には金座や銀座が置かれるなど、江戸を代表する場所として殷賑を極めた。(Wikipedia)



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三越本店(左)                   日光街道追分/千疋屋前(右)

三越本店
三越は延宝元年(1673)に「越後屋」として創業した。「三井呉服店」を経て「三越呉服店」となり、大正3年(1914)には鉄筋コンクリート造による大規模な百貨店の新築を行った。当時の建物はネオ・ルネッサンス・スタイルの壮麗な建築で5階建て一部6階、中央部に5階まで吹抜けのバロック的大空間を持っていた。その後震災で損傷し昭和2年に復興するが、更に昭和10年全館の増改築が完成し、現在みられるような規模となった。建物中央部の吹抜けホールはアーチ状の天窓からの光がホール全体を照らし、5階までの各階にはバルコニーがめぐり、アール・デコ風のデザインが目につく。そこに展開する装飾性豊かな空間は見事である。(東京都)


d0183387_19263182.jpg十間店跡/三越先日本橋室町センタービル前(左)
十間店は日本橋から北へ向かう大道りに面する本本石町2・3丁目と本町2・3丁目の間に挟まれた小さな両側町でした。町名は江戸時代初め商家が10軒あったことに因むとされます。お月の上巳(じょうし・桃)のせっつくには内裏雛、禿人形(かむろ)飾道具などを、5月の端午の節句には冑人形、鯉のぼりなどを商う人形市が立ち、12月の歳暮の破魔矢、羽子板等を商う市とあわせて大変なにぎわいをみせていました。特に上巳の節句には江戸市中に立った他のひな市と比べてもそのにぎわいは際立っていました。葛飾北斎の「画本東都遊」(えほんあずまあそび)には店先に小屋掛けまで設けてhン上している様子が描かれています。明治維新後十間店の人形市は急速に衰えてしまします。この地は本石町十間店と称されていましたが、明治44年に十間店となり昭和7年に旧日本橋区室町3丁目に編入されました。(中央区教育委員会)


d0183387_23364000.jpg今川橋由来碑/室町4交差点先本間ゴルフ前(左)
今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681~83)との記録があります。嬌名の由来は当時の名主今川氏の尽力で架けられたのでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通じる重要な橋でもありました。神田堀は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段主流でもありました。昭和25年龍閑川は埋立てられ、300年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され現在はその面影もありません。左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器を商う商店が立ち並び、大層賑わったといいます。(案内板)


d0183387_23571582.jpg御成道/神田郵便局手前(右)
この場所は江戸城外郭門のひとつ筋違御門のあった場所で、江戸城から上野寛永寺に通じる「御成道」が通じていました。見付内の広場は筋違御門・昌平橋・駿河台・小川町・連雀町・日本橋通り・小柳町・柳原の各口に通じていたため「八つ小路」と呼ばれていました。また、床店が設けられさまざまな催しが行われるなど江戸でも賑やかな場所でした。明治時代には万世橋停車場も設けられ繁華街の一つともなりました。(千代田区教育委員会)

八つ小路:明暦の大火の後、昌平橋から筋違御門にかけて「八ツ小路」「八辻ヶ原」と呼ばれる火除地が設けられた


d0183387_00282102.jpg昌平橋
この地に最初に橋が架設されたのは寛永年間(1624~45)と伝えられており、橋の南西にある淡路坂の坂上に一口稲荷社(いもあらいいなりしゃ、現在の太田姫稲荷神社)があったことから「一口橋」や「芋洗橋」(いずれも「いもあらいばし」と読む)と称した。また『新板江戸大絵図』(寛文五枚図)には「あたらし橋(新し橋)」、元禄初期の江戸図には「相生橋」とも記されている。1691年(元禄4年)に徳川綱吉が孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで、同年2月2日(1691年3月1日)に「昌平橋」と命名された。現在の橋は1923年(大正12年)に架け替えられたもので、神田川における最初の鉄筋コンクリート製アーチ橋である。(Wikipedia)

(万世橋)
  • 万世橋の歴史は、1678年(延宝4年)に架けられた筋違橋(すじかいばし)に遡る。当橋は、徳川将軍が寛永寺に詣でる時に渡る橋で、現在の昌平橋と万世橋との中間にあった。すぐ南に筋違見附があり、橋はその見附の付属物であった。1872年(明治5年)に筋違見附が取り壊され、翌1873年(明治6年)にその石材を再利用して、筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成し萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第にまんせいばしという音読みの方が一般化した。(Wikipedia)

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    名所江戸百景 昌平橋聖堂神田川

    神田川
    神田川の元の名前は「平川」といい、現在の日本橋川の分流点付近から南流し、現在の丸の内・日比谷に入り込んでいた日比谷入江に注ぎ込む川であった。当時はこの平川が豊島郡と荏原郡の境界となっていた。1590年(天正18年)に江戸に入府した徳川家康は、海辺で井戸によって真水を満足に得ることができない江戸の飲料水を確保するために平川を改修し、井の頭池と善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水を整備した。この改修により井の頭池を出て善福寺川、妙正寺川と合流する上流部分は現在の姿となり、神田上水は川の本流から目白で分流して小石川、本郷に水を供給した。また、後に水害対策として平川下流の流路を隅田川に通じる道三堀と新たに開削した江戸前島を貫通する流路(外濠)に流れるよう改修した。この内、明治以後に道三堀の西半分と外濠が埋められ、現在の日本橋川の河道が成立した。

    二代将軍・徳川秀忠の時代には、平川下流域の洪水対策、および、江戸城の東北の守りを固めるために平川を天然の堀とすることが企図され、小石川から南流していた流路を東に付け替える工事が行われた。1620(元和6年)秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達正宗が、現在の飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までを担当し、この区間の途中にある神田山と呼ばれた本郷台地を切り通して湯島台と駿河台とに分け、現在の御茶の水に人工の谷(茗渓)を開削した。このため、この区間は特に「仙台堀」あるいは「伊達堀」と呼ばれる。本郷台地の東では旧石神井川と合流させて真東に向かい、現在の浅草橋や柳橋の東で隅田川に合流させた。平川の旧河道と新河道とは切り離され、旧河道は江戸城の内堀の一部となり、新河道は外堀の一部となった。また、新河道との合流地点より下流の旧石神井川は埋め立てられた。当初の「仙台堀」の川幅は狭かったが、幕府は舟運に供するため拡幅するよう仙台藩第4代藩主・伊達綱村に命じ、1660年(万治3年)より拡幅工事がなされた。東に流れるようになった平川の新河道は「神田川」とも呼ばれるようになる。また、神田台の掘割の西には水道橋が架けられ、神田上水は日本橋まで給水できるようになった。後に日本橋の平川旧河道と神田川は再び結び付けられ、日本橋川となっている。(Wikipedia)
    日本において神社の祭祀などの運営経費にあてる領田(寺社)のことをいう。(神田明神:神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した)元は、現在の大手町の平将門塚付近から神田山(駿河台)にかけての一帯を指したが、江戸城下町整備後には常盤橋から浅草橋にかけての奥州往還沿いに成立した本町通りの北側地域を指すようになった。本町通りは基本的には上方から移住した商人が集まって町を形成したが、神田は徳川氏の関東移封に従って江戸に移住した三河国などの職人集団の居住区に割り当てられた。江戸時代後期には、幕府が武芸修練所として現在の小川町に設置した講武所や、北辰一刀流剣術の玄武館などの剣術道場があった。伝馬町牢屋敷も置かれ、安政の大獄では多くの人物が処刑された。(Wikipedia)

    お茶ノ水/千代田区
    古くは北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きで「神田山」と呼ばれていたが、2代将軍徳川秀忠の時代に、水害防止用の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が形成された。同じ頃、その北側にあった高林寺から泉が出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから、この地が御茶ノ水と呼ばれるようになったといわれる。(Wikipedia)

    駿河台/千代田区
    元は北の本郷台地の南端に当たる部分だが、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達正宗が1620年(元和6年)に仙台堀(神田川)を開削したことにより湯島台と駿河台とに分離され、孤立した高台となった。地名の由来は、江戸時代初期に、駿府(駿河府中、現・静岡市葵区付近)から江戸に移住した徳が家康の家臣が居を構えたことに由来する。(Wikipedia)

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    旧湯島(文京区)
    「和名抄」に武蔵国豊島郡とあり、あた由之万(ゆしま)ともある。また「北国紀行」に由井島とある。「文政町方書上」には湯島はむかし温泉がわいたからとあるがこれは疑問である。不忍池は海であったから、湯島の島のようであったことは考えられる。旧湯島は1丁目から6丁目までは、中山道の街道筋として古くから開けた古町(こちょう)である。古町とは寛永年間(1624~44)までに開けた町で、新年には将軍に目通りなどの特典が与えらえた。旧2丁目には湯島聖堂(現在)、隣の3丁目には昌平黌(こう)があった。明治になると師範学校、高等師範となり学校が置かれ、ここは近代教育発祥の地となった。(文京区)


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    杏壇門&大成殿(孔子廟)

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    入徳門                           孔子像

    湯島聖堂と孔子
    孔子は2500年ほど前、中国の魯の昌平郷に生まれた人で、その教え「儒教」は東洋人の人々に大きな影響を与えた。儒教に傾倒した徳川五代将軍綱吉は元禄3年(1690)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を立て、自ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励した。

    昌平坂学問所跡
    官制9年(1797)幕府は学舎の敷地を拡げ建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平學ともいう)を開いた。その学問所は明治維新(1868年)に至るまでの70年間、官立の大額として江戸時代の文教センターの役割を果たした。

    近代教育発祥の地
    明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治4年(1871)に文部省が置かれたほか、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)師範学校(現筑波大学)女子師範学校(現御茶の水女子大学)初の図書館「書籍館」(しょじゃくかん・現国立国会図書館)などが置かれ、近代教育発祥の地となった。

    現在の湯島聖堂
    もとの聖堂は4回の江戸大災に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正12年(1923)関東大震災で焼失した。その後、「假聖堂」を営み昭和10年(1935)鉄筋コンクリート造りで安政の旧に依って再建され、今日に至っている。入徳門は宝永元年(1704)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。 (案内板)



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    隋神門(昭和天皇御即位50年記念として建立)

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    鳥居                         甘酒茶屋・天野屋(弘文3・1848創業)   

    神田明神
    正式名称「神田神社」。一ノ宮に大己貫命(オオナムチノミコト・だいこく様)二ノ宮に少彦名命(スクナヒコナノミコト・えびす様)三ノ宮に平将門命(タイラノマサカドノミコト・まさかど様)の3柱を祀る。神田祭をおこなう神社として知られる。神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。社伝によれば、天平2年(730)武蔵國豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され神田ノ宮と称した。承平5年(935)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国の平氏武将の崇敬を受けた。喜元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。江戸時代、江戸城増築に伴い慶長8年に神田台へ、さらに元和2年に現在地へ遷座した。江戸総鎮守として尊崇された。神田祭は江戸三大祭りの一つである。山車は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、「天下祭」と言われた。江戸初期に豪華な桃山風社殿が、天明2年(1782)には権現造の社殿が造営されたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した。その後、当時では珍しい鉄筋鉄骨コンクリート構造で権現造を模して再建されたことから、昭和20年の東京大空襲では、境内に焼夷弾が落ちたにもかかわらず本殿・拝殿などは焼失を免れた。(Wikipedia)


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    江戸名所図会 神田明神社(わたしの彩『江戸名所図会』より引用しました)

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    d0183387_20165956.jpg済生学舎と野口英世/東京ガーデンパレス(右)
    済世学舎は、医学者長谷川泰(18421919)が「済世」(広く民衆の病苦を済う)の理念のもと、医術開業試験の予備教育を目的として、明治9年(187649日に現本郷2丁目5の地に創設された。明治12年学舎は火災により焼失したが、仮校舎の時期を経た後、明治15年長谷川泰の自宅を含めたここ東京ガーデンパレスの地に済世学舎は再建された。「志を得ざれば、再び此の地をふまず」と野口英世が医学の志をたて故郷会津を後にしたのは明治23年(18969月、英世19歳のの時であった。上京して現湯島1丁目10あたりに下宿し、早くも10月に内務省医術開業試験前期に合格した。その後、港区伊皿子にあった高山歯科医学院の学僕となった。明治2911月医術開業試験後期準備のために済世学舎に入学、下宿先を旧本郷区にあった大成館に移した。明治30年秋の後期試験に打診法の実技が含まれていたため、英世は東京帝国大学の外科教授近藤次繁博士により左手の手術を受けている。晴れて医術開業試験後期に合格した英世は、11月湯島の順天堂医院に入り、同医院医事研究会主事を嘱託された。その後、北里柴三郎博士の伝染病研究所や横浜検疫所勤務を経てアメリカへと旅立った。文京は、野口英世が世界に雄飛する原点である。(文京区教育委員会)


    d0183387_23062153.jpg旧本郷/3km標識付近(右)
    『御府内備考』に次ぎの記事がある。本郷は古く湯島の一部(注・湯島郷の本郷)であるので、湯島本郷と称すべきを上を略して、本郷とだけ唱えたので、後世湯島と本郷とは別の地名となった。湯島のうちで中心の地という意味から本郷の地名が生まれた。江戸時代に入って、町屋が開け、寛文のころ(166173)には、1丁目から6丁目まで分かれていた。中山道(旧本郷通り)の西側に沿って、南から16丁目と南北に細長い町域である。 本郷もかねやすまでは江戸の内
     (文京区教育委員会)


    d0183387_23062952.jpgかねやす/本郷3丁目交差点角(左)
    兼康祐悦という口中医師(歯科医)が乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判となり客が多数集まり祭りのように賑わった。享保15年大火があり防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は、塗屋(ぬりや)・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じて瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺きが続き、それからの中山道は板や茅葺の家が続いた。その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目立ったいた。『本郷も かねやすまでは 江戸のうち』と古川柳にも歌われた由縁であろう。芝明神前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の奉行は本郷は仮名で、芝は漢字でと粋な判決を行った。それ以来、仮名で「かねやす」と書くようになった。(文京区教育委員会)



    d0183387_23063681.jpg本郷薬師/本郷3丁目交差点先(左) 
    この地は真光寺(戦災にあい世田谷に移転)の境内であった。伝えによれば寛文10年(1670)ここに薬師堂が建立された。当時は御府内に奇病猖獗(しょうけつ)し、病にたおれる者数知れず出たため、この薬師様に祈願して病気が治ったといわれている。「本郷夜市(よみせ)は著明なり。連夜商人露店を張る。毎月8日・12日・22日は薬師の縁日なり。縁日の夜は殊に雑踏を究るなり・・・」(新撰東京名所図会)本郷薬師の縁日の夜は、植木、雑貨、骨董などの店が並び、飲食店もでて大変賑やかであった。牛込神楽坂善国寺の毘沙門天縁日と共に大変有名であった。御堂は戦災で焼失し、昭和22年に改築され、さらに昭和53年新築された。(文京区教育委員会)


    d0183387_23063929.jpg別れは橋跡・見返り坂と見送り坂/本郷3丁目先(左)
    「むかし太田道灌領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・。いずれのころにか依りし、此辺にて大きなる石を掘りだせり。是なんかの別れの橋なりしといひ伝えり。太田道灌のころ罪人など此処よりおひ「はなせしかば、ここよりおのかままに別るる橋といへる儀なりや」と「改撰江戸志」にある。この前方の本郷通りはややへこんんでいる。昔、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ菊坂の谷に注いでいた。「新撰東京名所図会」には「勧業場本郷館(現文教センター)の辺りは地層がやや低く弓型にへこみを仰す。其のくぼめる所、一条の小渠(しょうきょ)、上に橋を架し別れの橋といひきとぞ」とある。江戸を追放された者がこの別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄り)で親類縁者が涙で見送ったから見送り坂、追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。雑踏の本郷通りに立って500年の歴史を感じる。(文京区)

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    三四郎池/東大構内

    育徳園心字池(三四郎池)
    元和元年(1615)の大坂夏の陣の後、加賀藩前田家は幕府から現在の東京大学(本郷キャンパスの一部)およびその周辺地を賜った。寛永6年(1629)4月、前田家3代藩主利常の時に徳川3代将軍家光・大御所秀忠の御成(訪問)があり、それに先だって豪奢な御成御殿や数寄屋を新築し庭園を整備したと考えられる。この庭園が育徳園であり、池を心字池といった。夏目漱石の名作『三四郎』はここを舞台としたため「三四郎池」と呼ばれるようになった。(文京区)


    d0183387_13204866.jpg赤門/東京大学前(右)
    文政10年(1827)加賀藩主前田斎泰にとついだ11代将軍徳川家斎の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されています。



    d0183387_14020384.jpg樋口一葉ゆかりの桜木の宿/赤門の向側(左)
    樋口一葉の作品「ゆく雲」の中に次の一文がある。「上杉の隣家は何宗かの御梵刹(おんてら)さまにて、寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、此方の二階より見下ろすに、雲は棚引く天上界に似て、腰ごろもの観音さま 濡れ仏にておわします。御肩のあたり膝のあたり、はらはらと花散りこぼれた・・・」文中の御梵刹がこの浄土宗真光寺で、この濡れ仏は現在本堂横に安置されている観音様である。このかたの二階とは境内のすぐと東隣りにあった一葉の家である。樋口家は明治9年(1876)4月この地に移り住み、明治14年までの5年間(4歳~9歳)住んだ。一葉家にとって最も豊かで安定していた時代であった。一葉は明治29年明治29年11月23日旧丸山福山町(現西方1-17-8)で短いが輝かしい生涯を閉じた。その直前の初夏、病床で書いた雑記の中でこの幼少期を過ごした家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんだ。「桜木の宿」は真光寺の左手にあった。(文京区教育委員会)


    d0183387_14180824.jpg本郷追分一里塚跡/農学部正門・二差路(左)
    一里塚は、江戸時代、日本橋を起点として、街道筋に1里(約4km)ごとに設けられた塚である。駄賃の目安、道程の目印、休息の場として、旅人に多くの便宜を与えてきた。ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。18世紀中頃まで、榎が植えられていた。度々の災害と道路の拡張によって、昔の面影をとどめるものはない。分かれ道にあるので、追分一里塚とも呼ばれてきた。ここにある高崎屋は、江戸時代から続く酒屋で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌した。(文京区教育委員会)


  • by Twalking | 2014-09-17 15:48 | 中山道(新規)

    無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 旅の初めは日本橋   

    日時 2014.9.14(日)
    天気 晴れ

    どちらかというとアクティブウオークの方が好きなんですが、
    大先輩の大高利一郎さんとの出会いがきっかけで、街道歩きを始めました。
    ツアー企画の甲州・日光両街道を大高さんのご指導を頂きながら歩きました。

    著書も読ませていただきましたが、直接ご指導いただけるのは心強いです。
    ガイドのポイントや案内の要領などさまざまと学ばせて頂きました。
    東海道もそうした経験を踏まえ、自分なりの興味も交えながらご案内してます。

    東海道の一応の整理がつきましたので、中山道に挑戦したいと思います。
    同じ西を目指しますが、海道と山道、通る領国も風景も違いますから、
    どんな出会いがあるのか楽しみに、とりあえずスタートを切ります。


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    一石橋/常盤橋より


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    日本橋/西河岸橋より


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    いつの世も旅のはじめは日本橋          日本橋広場/東詰                


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    木曽街道続ノ壱 日本橋雪之曙


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    資料ファイル


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    渋沢栄一像/常盤公園
    青淵渋沢翁翁は、天保11年埼玉県の農家に生まれたが時勢に激して志士となり。後転じて幕臣となって、慶応3年奥州に赴き、民主主義自由主義を知る機会を得た。帰朝後大蔵省に任官して諸制度の改革にあたったが、明治6年退官し、同年創立された第一国立銀行の頭取となり。爾来産業経済の指導者成りに任じ開興した会社五百。常に道徳経済合一主義を唱えて終生之を実践し我が国の発展に偉大な貢献をした。また、東京市養育院等社会事業の助成、一橋大学・日本女子大学等実業及び女子教育の助成、協調会等による労資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために92歳の高齢に達するまで尽力し、昭和6年11月11日に逝去した。翁の没後、財界有力者によりその遺徳顕彰の目的で設立された渋沢青淵翁記念会が、昭和8年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。然るにこのたび、銅像再建の声が盛り上がり各界勇士によって、再び朝倉丈夫士氏に制作を委託しこの位置にこの銅像を建て、東京都に寄付したのである。(渋沢青淵記念財団國龍門社)


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    名所江戸百景・八つ見のはし

    一石橋/外堀通り
    皇居(旧江戸城)外濠と日本橋川の分岐点に架設された橋である。北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建された。そのため後藤の読みから「五斗」「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わる。またそのまま「後藤橋」とも呼ばれていた。江戸期を通して神田地区と日本橋地区を結ぶ重要な橋であった。(Wikipedia)

    八つ見橋 
    一石橋はその名を「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれた。橋上に立つと自身も含めて八つの橋(外濠の常盤橋・呉服橋・鍛冶橋、日本橋川の一石橋・日本橋・江戸橋、道三堀の銭瓶橋・道三橋)が見渡せることが揺らいで江戸の名所のひとつであった。歌川広重が名所江戸百景において「八ッ見の橋」として描いている。現在は一石橋以南の外濠と道三堀が埋め立てられ、橋上を通る首都高速都心環状線の橋脚が見通しを遮ってしまっているため、わずかに常盤橋とあとから造られた常盤橋、西河岸橋が見えるのみである。(Wikipedia)



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    日本銀行本店                      三越本店


    d0183387_16162060.jpg裏河岸
    明治4年12月、東京府は「日本橋ヨリ以西一石橋迄」の河岸地、西河岸の対岸を「裏河岸」と命名しました。江戸時代初期、寛永江戸図(1634)などでは「北かし」と記されていますが、この北側には北鞘町と品川真理があり、御府内沿革図では一石橋北側を「北鞘河岸」日本橋川を「品川町裏河岸」としており、いくつかの里俗名を確認することができます。「江戸名所図会」によると品川浦河岸の通りには釘、金物の店が多く、釘店(くぎだな)と呼ばれたといいます。(中央区教育委員会)




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    江戸名所図会 江戸全景 (わたしの彩『江戸名所図会』より引用しました)




    by Twalking | 2014-09-15 16:17 | 中山道(新規)

    無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 はじめの一歩   

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    中山道板橋宿
    わっしょい、わっしょい、今日の中山道はお祭り一色、こういう巡り合わせはいいですね!なんだかワクワクしてきます。お陰様で、いいスタートが切れました。とりあえず、高崎辺りまでぶらりっと歩こうと思います。



    by Twalking | 2014-09-14 22:59 | 中山道(新規)

    無料のおもしろネタ画像『デコじろう』用アイコン02 夏休みの宿題02   

    東海道の後半戦の大まかな整理を一応済ませましたので、
    次の目標は中山道かな、と思って準備に入りました。
    高崎辺りまで地図にルートを落しましたのでスタンバイOK。

    この区間は、広~い関東平野を北西に向かいますので、
    日光街道を歩いた感じと似てるのかなぁ~、という第一印象です。
    歩きながら整理して、テーマやポイントを絞っていこうかなぁ~。
    とりあえず、東海道の合間を縫ってぶらりっと歩いてみようと思います。



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    中山道ルートマップ




    by Twalking | 2014-08-27 17:01 | 中山道(新規)